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    <title>エンサイクロメディア空海</title>
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    <title>原発事故と「知」の驕りNew</title>
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    <published>2012-04-09T03:00:38Z</published>
    <updated>2012-04-09T03:30:18Z</updated>

    <summary>　東日本大震災による福島の原発事故によってわが国の原子力発電が大きな問題となって...</summary>
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        <category term="高橋憲吾のページ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[<div>　東日本大震災による福島の原発事故によってわが国の原子力発電が大きな問題となっている。エネルギー問題、安全性など、原発問題は今や国民的論議を呼んでいる。ただ市井の一個人が意見をいうのと、著名な思想家がマスコミで発言するのとは自ずと異なる。私は昨年末、『週刊新潮』（'12.1.5・12）特集号で吉本隆明氏の原発問題に対する主張を読んだ。周知のように吉本隆明氏は戦後最大の思想家といわれ、長年日本の言論界をリードしてき言論人でありその影響力は少なくない。</div><div><br /></div><div>　私は吉本氏の思想全般についてつぶさに知っているわけではないが、『週刊新潮』で発言された内容に限り首肯できないものがある。いま日本全体に突きつけられた原子力発電の問題は日本人すべてに関わる問題である。吉本氏は原発事故という未曽有の危機に対して「技術文明」で解決しようと主張するが、そもそもこの考え方に知の傲慢性を感じるのだ。東日本を広範囲に汚染したこの事故は原子力科学者や知識層だけが論じられるような科学文明の問題ではない。原発問題はより多くの人々が参加できる「文化論」からスタートしなければならないと考える。</div><div>　</div><div>　最近吉本氏の『＜信＞の構造・吉本隆明・仏教論集成』を読んだが、氏は仏教に関する論述も実に多い。氏が仏教を含めた自身の思想全般から発言しているのであれば、私は仏教徒としてその発言を看過するわけにはいかない。以上の理由から、氏の主張「『反原発』で猿になる！」に対して一言述べさせて戴く。</div><div><br /></div><div>　その前に、揚げ足取りや牽強付会に陥らぬように、正確さを期す意味で、やや冗長になるが氏の発言をできるだけ再現していきたい。</div><div><br /></div><div><b>◆「反原発」で猿になる！</b></div><div>　吉本氏は以前から反核・反原発を掲げる人たちに対して厳しく批判してきた。今回も日本を覆う「反原発」の空気に異論を唱えている。曰く、「反原発で猿になる！」。なぜ反原発思想は人間を猿にするのか、ここが氏の論点である。</div><div><br /></div><div>　氏は冒頭で「今回、改めて根底から問われなくてはいけないのは、人類が積み上げてきた科学の成果を一度の事故で放棄していいのか、ということなんです」と言われ、その理由を「自動車事故が起こってもだからといって自動車を無くしてしまえという話にはならないように、ある技術による損害が出るたびに廃止するのは人間が進歩することによって文明を築いてきた近代の考え方を否定するものだ」と述べられている。</div><div><br /></div><div>　「そして技術側にも問題がある。専門家は原発事故に対して被害を出さないやり方を徹底して研究し、どう実行するべきなのか、今だからこそ議論を始めなくてはならないのに、その問題に回答することなしに沈黙してしまったり、中には反対論に同調する人がいる。専門家である彼らまで"危ない"と言いだして素人の論理に同調するのは『悪』だとさえ思います。今原発を巡る議論は『恐怖感』が中心になっています。（中略）しかし原子力は悪党が生み出したものでも泥棒が作ったものでもありません。紛れもなく『文明』が生み出した技術です」と述べ、原発事故を技術文明の文脈で捉えている。</div><div><br /></div><div>　氏は続けて人類が放射能を発見して以来、今日の原子力発電に至るまでの人類の労苦を語り、同時に原子力に対する人間が抱く恐怖心を認めつつ、しかし異常に恐れるのはおかしいと述べる。その理由を一生のうちに何度も被曝するレントゲンの例や核融合で出来ている太陽光などを挙げる。日々の暮らしの中で人間がとり囲まれているこの世のエネルギーは元をただせばすべて原子やその核の力だから異常に恐れること自体に疑問を呈しているのだ。そして以下の主張を展開する。</div><div><br /></div><div>　「それでも、恐怖心を１００％取り除きたいというのなら、原発を完全に放棄する以外に方法はありません。しかし、止めてしまったらどうなるか、恐怖は消えるでしょうが、文明を発展させてきた長年の努力は水泡に帰してしまう。人類が培ってきた核開発の技術もすべて意味がなくなってしまう。それは人間が猿から別れて発達し、今日まで行ってきた営みを否定することと同じなんです」</div><div><br /></div><div>　これが「反原発で猿になる！」の意味である。「原子力は悪党が生み出したものでも泥棒が作ったものでもなく、紛れもなく『文明』が生み出した技術である」との謂いは、まるで近代技術は「文明」という「善人」が生み出したかのように聞こえてくる。氏は技術文明を人間の進歩だと強調しているが、逆の真理もある。科学技術が最も進んできた分野が兵器と軍事分野である歴史的事実一つ考えても、近代技術が単純に人間の進歩と言い切れるものではない。文明の中に潜む危険を氏はどう回避するというのか、もう少し主張を聞いてみよう。</div><div><br /></div><div><b>♦押し戻すことはできない</b></div><div>　氏もそこに言及し、文明の発達とは常に危険との共存であるとしている。しかし科学技術というものは失敗してもまた挑戦して改善していくことだという。その中で辛うじて上手に作り上げてきたのが「原子力」だとし、そしてこれが文明の「姿」であり「形」であるというのだ。</div><div><br /></div><div>　「だとすれば、我々が今すべきは、原発を止めてしまうことではなく、完全に近いほどの放射線に対する防護策を改めて講じることです。新型の原子炉を開発する資金と同じくらいの金をかけて、放射線を防ぐ技術を開発するしかない。それでもまた新たな危険が出てきたら更なる防御策を考え完璧にちかづけていく。その繰り返ししかない。他の動物に比べて人間が少し偉そうな顔をできるようになった理由は、こうして努力をあきらめずに営々とやってきたからではないでしょうか。（中略）原発を改良するとか防御策を完璧にするというのは技術の問題ですが、人間の恐怖心がそれを阻んでいるからです。・・・」</div><div><br /></div><div>　ここまで読んだとき私は唖然とした。私が浅はかなのかもしれないが、とても戦後最大の思想家の発言だとは思えなかったからだ。その理由は後述する。ここで『週刊新潮』の補足が入っているので転載する。</div><div><br /></div><div>　＜東工大出身で技術者だった吉本氏は、原発・核兵器に関しても事あるごとに発言してきた。その主張は「反核・反原発」を唱える人は「蒙昧」でしかないという痛烈なものだ。なかでも80年代に盛り上がった文学者らの反核運動では、それを"エセ平和主義"と批判し、議論を呼んだ。＞</div><div><br /></div><div>　この補足のあと、吉本氏の核兵器についての発言が掲載されている。私は先ほど技術文明を人間の進歩と捉えている吉本氏に対して逆の真理もあると言ったが、核兵器が出たのでやや期待をして先を読んだ。</div><div><br /></div><div>　「もちろん、原子力を語るとき核兵器は避けては通れません。戦争に大切なのは、主として兵器ですから、改良して相手に勝るようにしていくのが戦時の技術開発です。そうやって開発してきた原子爆弾は、今や、人類を何度も滅亡させられるだけの規模に達している。しかし、人間が原子爆弾という技術を手に入れたとき、それがどんな現実をもたらすかまでは想像していなかった。どんなに優れた人でも予想はできなかったのです」と述べて、アインシュタインが原子爆弾の被害を予想できなかった云々の例を挙げている。</div><div><br /></div><div>　「つまり、人間は新技術を開発する過程で危険極まりないものを作ってしまうという大矛盾を抱えているのです。しかし、それでも科学技術や知識というものはいったん手に入ったら元に押し戻すことはできない。どんなに危なくて退廃的であっても否定することはできないのです。それ以上のものを作ったり考え出すしか道はない。それを反核・反原発の人たちは理解していないのです」</div><div><br /></div><div>　つまり元に押し戻すことができないものを反対する「反核・反原発」の人たちは蒙昧で、反核運動の文学者たちは"エセ平和主義者"だというのである。何となれば、核の抱える危険性に対してはそれ以上のものを作るしかないからだという。</div><div><br /></div><div>　私は卒倒しそうになった。ということは国家が核兵器の危険性に晒された場合は、それ以上の核兵器か、それを凌ぐ超核兵器を作るしかないということになる。吉本氏が核武装論者かどうか知らぬが、いずれにせよこういう発想が大国同士の核開発競争、核兵器の保有競争、核の軍拡拡散につながってきたのではないか。とてもまともな知識人のいうこととは思えない。しかし、前述したように、私は「反核・反原発」の運動的な立場から論じようとしているのではなく、拙論は仏教的視点からの反論である。</div><div><br /></div><div><b>◆「戦後」に似ている</b></div><div>　巨大な津波で街ごと押し流されてしまった被災地の様子と、敗戦直後の廃墟の国土が重なったという人は多い。最後に吉本氏も福島原発事故以来、よく思い出すという戦後の日本社会について触れている。但し氏がここでいいたかったのは、「思想の変節」についてである。</div><div><br /></div><div>　敗戦後、日本の価値観は180度変わった。それを契機に多くの知識人が戦後すっかり発言内容を変えてしまった。戦時中は戦意を煽り、日・独・伊三国同盟を称揚して国民を戦場に駆り立てた大新聞は、戦後は自らの責任を棚上げして、あまつさえ占領軍のお先棒を担いで日本国の戦争責任を追及するという変節新聞に豹変した。</div><div><br /></div><div>　吉本氏は敗戦に対する責任について文学界ではどう考えているか、戦中派の小林秀雄（西田幾多郎と並んで戦前の日本の知性を代表する巨人。国粋主義者である大川周明を称賛した。戦後も保守文化人の代表者であった）に問うたことがあるという。そのとき小林秀雄は、自分は戦中も戦後も同じ考え方だと答えたのでさすがだと思ったそうである（思想内容でないことは言うまでもない）。要するに時代や思潮が変わっても軽々しく同調しない志操堅固な人物を高く評価するのである。</div><div><br /></div><div>　福島原発事故をきっかけに、世論はまるで「脱原発」と「自然エネルギー」の大合唱である。テレビ・新聞も、原発再開はタブーのように扱うばかりで、吉本氏にはこの風潮がまるで一夜にして言を変えた戦後社会と重なって見えるというのだ。氏はそのような風潮に抗うかのように、それでも原子力を捨てるべきではないと言い続ける。このように時流に流されず、自分の頭で思考する人間を氏の造語で「元個人」と呼ぶそうである。</div><div><br /></div><div>　しかし問題は中身である。この「元個人」が結論として繰り返した中身が次の言葉である。「原発を捨て自然エネルギーが取って代わるべきだという議論もありますが、それこそ、文明に逆行する行為です。たとえ事故を起こしても、一度獲得した原発の技術を高めてゆくことが発展のあり方です。」</div><div><br /></div><div>　やはりこれだけである。これ以上の考察はない。「原発の存否を決めるものは、技術論と文明論にかかっている」とはお笑い草である。第一、人類の「発展」について本質的概念の考察もない。お気づきのように、吉本氏はただ徹頭徹尾「技術論と文明論」で原発問題を捉え、原発技術の失敗はさらなる原発技術で克服すべしというものである。</div><div><br /></div><div><b>◆「知」の驕り</b></div><div>　こういうのを「知」の驕りというのである。人間を少し知るものなら誰でもわかることだが、どのような高度な技術文明でも、人間の精神文化が先行するものである。文明を開くのは文化だと極論してもよい。より速く目的地に到着したいと思うから車や列車を、空を飛びたいという気持ちが飛行機を発明し、月に行きたいという夢が宇宙技術を開発してきたのである。飛行機が出来たから空を飛びたいと思ったわけではない。文明を生むその根源は人間の夢や願望や欲望や、学問や、哲学、宗教などの精神文化が中心である。世界の歴史においてもこれは一つの例外もない。だからイスラム教圏はイスラム文明を、キリスト教圏はキリスト教文明を生み出してきたのである。常に文化が「主」で文明は「従」である。そうであれば原発の存否を決めるのは文明や技術論ではなく文化の問題であろう。本末転倒ではないのか。</div><div><br /></div><div>　吉本氏に問う。今回、改めて根底から問われなくてはいけないのは、人類が積み上げてきた科学の成果を一度の事故で放棄していいのか、という問いかけよりも、「本当はこれでよかったのか」と、まず原点に返って沈思黙考することではないのか。日本の原発推進者たちのどこかに、科学技術への過信、技術至上主義の盲信がなかったか、即ち「知の驕り」がなかったかがまずは問われるべきではないのか。</div><div><br /></div><div>　原発を作ったのが人間ならば、その存否を決定するのも人間である。それは技術が先行する問題ではなく、人間の知恵が先行すべき問題である。仏教的にいえば仏から与えられている智慧である。原発を正見し、正思し、正業するのは、文明の力以前に人間の叡智がこの難題を克服する糸口を発見し、技術文明はそれに従ったときに正しく機能するのである。これは釈尊が「縁起論」を説かれて以来仏教の根本である。</div><div><br /></div><div>　仏教を解説するほどの学識人なら何故こういうことに思い至らないのか。核の被害を三度も体験した日本の大思想家なら、これを機会に核保有国に向けて、「和光同塵」の箴言をすべきである。</div><div><br /></div><div>　私は必ずしも文明の発展を否定するものではないが、少しは仏教的視点から文明論を語ってほしかった。原子力の発見が「因」であれば、それを核兵器にするも平和利用するも、経済的理由から推進するも、廃絶するも、すべては煩悩多き人間たちの思惑である。これが文明を生起させる条件、すなわち「縁」の働きとなる。人の一生も人間の歴史も、すべて因縁生起することを釈尊は見抜かれ、しかもその根源に仏の智慧に暗い人間の「無明」を看破されたのである。</div><div><br /></div><div>　無明なる人間が犯す「業（カルマ）」とはいかなるものか、一瞬にして世界を破滅させるほどの力を持つ（核文明）に対してどのように対処すればいいのか、核のボタンを押すも押さぬも結局は人間の心である。今問われなくてはならない問題は、仏教的には明白であるにもかかわらず、科学文明の失敗をさらに科学文明で補うとは何たることか。仏教を語る人間がそれでいいのか、看過できない。</div><div><br /></div><div><b>♦仏道の国日本の文化</b></div><div>　「人類が積み上げてきた科学の成果を一度の事故で放棄していいのか」というなら、同じ論理で、「日本人が営々と築き上げてきた思想や文化を一度戦争に負けたくらいで放棄していいのか」という論法も成り立つはずだ。しかし、戦後の革新的な知識人の頭はそのようには回らなかった。戦後の言論界をリードしてきた知識人は、自国の文化・歴史を肯定的に語ることは無知と無教養の表出だと考え、自己懐疑と自虐史観こそがインテリの態度だと考えてきた。そしてひたすら他国の思想（マルクスや毛沢東など）を信奉してきた。</div><div><br /></div><div>　だが私は日本が思想的に遅れている国だとは思わない。世界的に見ても勝るとも劣らぬ高度に洗練された文化国家だと思っている。理由の一つは、日本人は技術文明というものが高度に発達したある時点で、文明の進展を抑えるような感性があると思われるからである。というよりも進展のベクトルを変えると言った方がいいかもしれぬ。例えば文明を道具や技術とした場合、その目的性や効率性よりもそこに精神性を求めるという、西洋合理主義からすれば、ある意味不合理な世界を追及するところがあるからである。これは物質文明を精神文化がリードしようとする日本人独特の感性であった。</div><div><br /></div><div>　このことは白人に比べて日本人が技術開発能力において劣るという意味ではない。その気になれば技術開発はいつでもできることは戦後の工業立国の歩みが証明している。もともと日本人はエンジニアリング能力の高い民族である。英米が大量の戦闘機を導入した第二次大戦では、航空工学や製造技術に遅れていた日本が、あっという間に、当時世界一高性能な戦闘機（ゼロ戦）を造って米英を圧倒した。</div><div><br /></div><div>　１５４３年、日本人は種子島に伝わった２丁の鉄砲を見ただけで、翌年には国産の鉄砲を造っている。これも有色人種の世界でどこもできなかったことだ。数年後、大量の旧式鉄砲を持ちこんだヨーロッパ商人たちは、日本産の鉄砲の精度の良さとその生産力に舌を巻いた。当時の日本は、諸大名が保有する国内の鉄砲の総数がヨーロッパ全土の数に相当したほどの大量生産を可能にしていた。にもかかわらず火縄銃以上の武器を発達させなかったのは何故か。</div><div><br /></div><div>　背景に様々な理由があったことは承知している。最も大きい理由とされているのが徳川綱吉による「諸国鉄砲改め」による銃器の原則所持禁止だとされるが、戦国の世が終われば武器の流通を禁じた江戸幕府の政策も、見方を変えれば、太平と文化を好む民族性だともいえる。だが私は、やはり物造りにおける日本人の精神性がどこかで働いていたように思われる。技術の発達を超えた美学とでもいうものである。</div><div><br /></div><div>　この典型が日本独特の「道」の精神である。本来敵を斬殺する技にすぎなかった剣法は礼を重んじる剣道となり、敵を射抜く戦法は弓道となり、投げ飛ばす格闘術は柔道、蹴りや突きは空手道等々、技術とともに必ず精神性を重んじた。武士道は生き方の道である。茶道、香道、商道いうように、「道」のつくものは枚挙にいとまがない。物作り技術はすべて「芸道」に通じていた。例えば本来武具にすぎない日本刀や鎧兜なども、目的性や効率性だけでなく一級の美術品にまで高める。その違いは同じ中世ヨーロッパの、戦闘の効率性のみを追求した血なまぐさい武器と比較すれば一目瞭然である。</div><div><br /></div><div>　「道」の背景が「禅の精神」であることはよく知られているが、それは釈尊の「悟り」に繋がるものでもある。日本民族の美的感覚や倫理観や死生観や自然観などの総合的な文化力は、一朝一夕に完成するわけはなく、二千年の歴史と伝統の中で培われてきたものである。言い換えれば、物質文明に精神性を求めたわれわれの祖先は、聖徳太子が治国の拠り所とした仏道精神を中核にして日本文化を形成してきたのである。</div><div>　　　　　　　　</div><div>　日本古来の神道は仏教と習合し、儒教や道教など、様々なアジアの英知を吸収し、咀嚼し、融合して日本独特の文化・伝統を形成した。異質なものを受け入れてしかも調和のある全体性を形成する。日本人はこういう総合力に長けた国民である。</div><div><br /></div><div>　日本仏教の黎明が聖徳太子の「和」の精神から始まったのは象徴的である。「和」を尊ぶヤマトは大いなる「大和の国」であった。日本人は人間も自然と和合し、個の命も大いなる全体の「いのち」と繋がっていると直感していた。大自然というものは、個と個の有機的なつながりの総体として感じていた。異質なもの同士がその中で相互に関係し、支え合い、最終的に宇宙の神秘的で神聖なものに収斂していくという感性を育てていた。異なる価値観が比較対立しながら共存できるという感覚はユダヤやイスラムの世界には存在しない。ばらばらに見える存在の根底には統一のとれた世界があり、人間の生き方がある。空海和上が主張した曼荼羅の世界は、現代に置き換えれば世界の平和共存をめざすものである。</div><div><br /></div><div>　江戸時代までは弘法大師は日本人の最も尊敬する、最もポピュラーで身近な存在であった。だから日本人は法身大日と共にある自分こそ、間違いなく人間本来の面目だとする精神文化を育んできたのである。日本人が精神文化を物質文明の上に置くのは当然である。</div><div><br /></div><div>　吉本氏がいうように、技術開発の努力をあきらめずにやってきたことが「他の動物に比べて人間が少し偉そうな顔をできるようになった理由」とするのは、人間というものの浅い理解である。とりわけ日本人には当てはめようがない。</div><div><br /></div><div>　しかしこのような自国の歴史や文化を無価値なものとしてしまえば日本のアイデンティティーは何も残らない。階級闘争史観で日本史は語れない。西欧文明に侵蝕されるまでは、本来日本人はできるだけ自然と共存する文明を育てていたのである。近代科学というが、西欧の科学文明が今日の自然破壊、地球汚染を促進し、他の動物の命を脅かしてきたのは事実である。原発事故はこういう科学技術の延長上に発生したものであれば、技術文明の発展が他の動物より人間が優れている理由にならないことは、まともな仏教徒なら誰にでもわかることだ。</div><div><br /></div><div>　人間の人間たる面目とは何かといえば、物質文明を超えた世界をもつからである。欲望の自制，利他、神、愛、仏、慈悲、死者供養・・・。物質のように触ることも見ることもできない神聖なものを無意識の行動原理にするところがあるからである。人間の優れているところを「発展性」に置くならは、それは人間の「知力」の進化というよりも、「心」の成長のことである。日本人はそれを「慈愛」と呼んできた。そして最も進化した理想像を「菩薩」と称して讃仰してきたのである。</div><div><br /></div><div>　毎年広島では８月６日の原爆投下の時刻、平和記念公園を中心に市内は鎮魂の静寂に包まれる。被爆者も一般市民も反核団体も反原発もみな犠牲者のために冥福を祈る。広島市に住んでいた私は、吉本氏のように「反核・反原発」の人たちを猿だと思ったことはない。彼らもまた犠牲者の冥福を祈っているからである。人間の面目とはこういうことを指すのである。猿より人間が偉いとすれば、他者の苦しみや悲しみを共有できるからであろう。犠牲者の冥福を祈る猿がいるか？　菩提を弔う猿がいるか？　讃美歌を歌って祈りを捧げる猿がどこにいる？</div><div><br /></div><div>　文化の根源に仏教を置いてきた日本の国柄は、しかし内実のある高度な文明国家でもあった。だから、ハーバード大学のサミュェル・ハンティントン教授は、地球上の高度な文明社会を七大文明に分けたとき、その一つに日本文明を入れて独立させざるを得なかったのだ（『文明の衝突』）。（ちなみに世界の高度な文明の分類は、類似文明の組み合わせや分割など、学者によって数の差はあるが、どの学者も日本文明を独立したものと認めている。）</div><div><br /></div><div>　いずれにせよ日本人は単なる技術主義、合理主義を至上のものだとは考えなかった。しかし戦後の知識人は、一度敗戦しただけで、自国の歴史を否定し、祖国の文化伝統を冷静に見る目を放棄してきたのである。未曽有の国難に対して、科学技術で対応しなければ文明の後退だと言い、他の動物に比べて人間が少し偉そうな顔をできるようになった理由は、科学技術を開発したことであり、原発技術の失敗を更なる原発技術で克服すべしなどというということを日本人は言うべきではない。「知の驕り」は本来日本人の心ではない。</div><div><br /></div><div>　池上彰氏は東日本大震災により一瞬にして多くの命が失われたさまを見ると、「無常」という言葉を思い出すと語っている（『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』）。それは命の儚さであり、また物質文明の儚さである。諸行無常を教えたのは仏教である。そして諸行無常を乗り越えて生きる勇気を教えてきたのも仏教である。戦後最大の思想家であり仏教を語るほどの人であるならば、「反核・反原発」の人々を猿呼ばわりする前に、日本人としてもう少し深みのある発言ができないものかと思わずにはいられない。</div><div><br /></div><div><b>♦震災と原発事故から学ぶもの</b></div><div>　私は現在沖縄に住んでいる。沖縄の人々は日常的に文化を愛する風習が強い。舞踊であり、歌謡であり、音曲であり、沖縄芝居エトセトラ、それらは季節の祭ばかりでなく日常的に楽しむことが多い。沖縄芸能が盛んな背景には琉球王朝が主導したということもある。中国との外交上の目的はあったにせよ、琉球王国が文化王国であったことは注目してよい。</div><div><br /></div><div>　武力よりも守礼を重んじた琉球王朝では、首里城に仕える武士階級は腰に刀を帯びない。代わりに帯に扇子を差す。日本の武家屋敷の床の間には刀掛けに大小が置かれるが、琉球の武家の屋敷の床の間には三線が飾られる。「武」より「文」を愛した証拠である。</div><div><br /></div><div>　さて沖縄は東京からみれば最果ての地方都市である。福島の原発のように地方が中央の需要を、いや日本全体にかかわる戦略的な需要を負担するという構図は沖縄も同じである。しかし日本国は地方公共団体だけで成り立っているのではないので、国に対して各自治体が応分を分担することもまた必要である。</div><div><br /></div><div>　となれば国家全体の問題に関しては地方も口を出す資格がある。霞が関の官僚や各種審議会の学者や知識人など、一部の知的エリート集団で国の舵とりをすることに私は大きな矛盾と疑問を感じている。現代の高学歴の政治家なども同様である。法的な整合や専門的な技術論を受け持ってもらうのは結構だが、予想できない未来や国の方向性などは、むしろ末端の知恵が正しく働くことがある。この知恵のことを文化力と私は言ってきた。そして文化力こそ地方が国の方向性を修正できるものではないかと思う。何故なら多くの無名の人々の無意識が社会に参加しているからである。</div><div><br /></div><div>　大江健三郎氏は２３歳で芥川賞を受賞し、ノーベル文学賞も受賞した東京大学文学部卒の秀才である。彼の作品も吉本隆明氏と同様に多くの知識人に影響を与えてきた。ところがそんな優秀な大江の子供が知的障碍者として生まれた。長男大江光氏である。</div><div><br /></div><div>　一般的には言語能力と知性の高いものが社会に参加し、知的障碍者は周辺人だと考えるだろう。ところが光は、父健三郎が逆立ちしても太刀打ちできない作曲という方法で社会に参加した。光は埋もれていた天才的な才能を開花させて、音楽で世の中にメッセージを発信したのだ。光の音楽は今でも多くの人々に感動を与えている。</div><div><br /></div><div>　それだけでなく、父親にも名誉と喜びを与えた。健三郎は光の生後、知的障碍者をもつ自己の苦悩を作品（『個人的な体験』）にしたことが評価され、作家としての方向性が見え、その後ノーベル文学賞受賞の道を歩むことになるのである。光が父の才能を引出し作家として大成させたとも言える。</div><div><br /></div><div>　ちぎり絵細工の山下清も知的障碍者であり言語障碍者であったが、彼は「日本のゴッホ」と称賛されたほど、その作品は多くの人々から讃嘆された。このような例は文化活動が知的レベルの程度に関係なく、どんな人間でも社会に参加できることを物語っている。であれば、国民すべての問題である原発事故は、知的技術文明の問題ではなく、文化を「主」にし、文明を「従」にしてきた日本人の叡智に一度立ち帰るべきではないだろうか。東日本大震災と原発事故はこのことを問いかけているように思われてならない。</div><div><br /></div><div>　無論文明は全ての人がその恩恵を享受できるものだ。山下清もバスに乗れるし、光も飛行機で外国にも行ける。しかし清や光は原子力の発電プラント機器の製造には関わることができない。国民の多くはせいぜい労働者としてしか参加できないのだ。この意味では文明の「従者」である。だが文化的な活動には、知的レベルに関わらず誰もが「主人」として参加できる。光や清の例を挙げたのはこのような意味である。さらにいえば宗教は言語も不要な「感性」で参加できるのだ。</div><div><br /></div><div>　真に成熟した国とはどういうものか。真の先進国とはどういうものか。パクリ国家中国が世界に誇り始めたＧＤＰの高さを、今後も日本は同様に国家目標とするのか。このまま化石エネルギーに頼るのか。グローバル化した世界とどのように向き合うのか、腹を据えて考える刻（とき）である。国家の進むべき骨格を考えるのが人間とサルの違いである。その基本的な哲学のない文明先行の思想は危険でさえある。目先の需要や技術文明の退行を恐れて、ひたすら原発という道具を使おうとすることは、それこそ「原発をもったサル」である。このとき文明は凶器となる。</div><div><br /></div><div>　仏がご覧になれば、すでに地上は「核を持ったサル」が支配し始めていると思われるだろう。真に進化した国には「核兵器を持ったサル」は不要である。文明が人間の偉さだというが、簡単な道具なら猿でも使う。成熟した文明は猿には形成できない。哲学・宗教を持つことはさらに無理である。包丁は料理道具であるが使う人間によっては殺人の道具にもなる。</div><div><br /></div><div>　国民がどうしても原発を必要とするならば、一度原点に戻って、国家の成熟とは何かと考えてみよう。人間として成熟した生き方はどういうものか考えてみよう。現在、日本は先進国である。モノは溢れ、生活は便利になり、国民は最先端の文明を享受している。しかし一度胸に手を当てて自問してほしい。「この国は豊かだろうか、いま私は本当に幸せだろうか？」と。</div><div><br /></div><div>　核保有国がどうしても核を必要とするならば持てばよい。しかし地球を破滅から守るためには、人類は「核を持った菩薩」を目指すほかないのである。核兵器を持つ菩薩は存在しない。だから諸国の指導者がみんな菩薩を目指すなら、必然的に地上から核兵器は消えるのである。</div><div><br /></div><div>　そのようなことを世界に発信できる国は、本当は日本しかない。だが、仏を捨て（廃仏毀釈）、神を引きずり降ろし（ＧＨＱ神道指令）、修身に唾棄し（日教組）、祖先を冒涜してきた知識人（東京裁判史観）が目を覚ますまでは無理だろう。東日本大震災の後は、首都の直下地震が接近しているそうである。日本は世界の注目を集めている。時間のあるうちに英知を結集すべきである。</div><div><br /></div><div>　ただ私は、つつましく暮らしている人々の中に、「知」に穢されていない人々の中に、まだ仏の光が微かに残っているのを感じることがある。地から湧き出る仏の光を信じて、そこに希望を失ってはいない。</div><div><br /></div> ]]>
        
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    <title>もう一つの祈り－震災復興に向けてNew</title>
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    <published>2012-04-09T02:45:13Z</published>
    <updated>2012-04-09T03:00:04Z</updated>

    <summary>Ⅰ東日本の原風景イ、古代　日本書紀によると、景行天皇はその在位中に北陸・東北地方...</summary>
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        <![CDATA[<div><b>Ⅰ東日本の原風景</b></div><div><br /></div><div><b>イ、古代</b></div><div>　日本書紀によると、景行天皇はその在位中に北陸・東北地方に武内宿禰(たけうちのすくね)を派遣させて、その土地の地形や地質、あるいはそこに住んでいる人びとの風俗や気質について、視察・調査させたとある。</div><div>　その調査によると｢東北の辺境に日高見(ヒタカミ)国があります。その国の人びとは、男も女も髪を結い上げ、身体に入れ墨をし、人となりは勇敢である。すべて蝦夷(エミシ)という。土地(仙台平野と北上盆地)は肥大にして広大である。討伐してこれを取るべし｣と報告している。</div><div>　また、その数百年後の斉明天皇(七世紀)の時代には、越国(こしのくに：いまの福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域を領した)の阿倍比羅夫(あべのひらぶ)が日本海を北上し、東北遠征を行なったとの記述がある。</div><div>　｢(658年)夏四月、越国守阿倍比羅夫が軍船百八十艘を率いてエミシを討つ。顎田(アギタ：秋田)・淳代(ヌシロ：能代)二地方のエミシは、その船団を遠くから眺めただけで降伏してきた。そこで軍船を整え、顎田浦(アギタノウラ：秋田湾)に入港し、上陸した｣と。</div><div>　エミシは本来、争いごとは徹底した話し合いによって解決するという習慣をもった平和的な民族であったから、首長のオガは、比羅夫の前に進み出て、次のように誓って言った。</div><div>　｢自分たちの弓矢は、食糧にするための動物を獲るためのものである。もし、その弓矢を用いて、あなた方に立ち向かったならば、アギタノウラの神がおとがめになるでしょう。その清い心の誓いをもって、あなたのお仕えしている朝廷にわたくしどももお仕えしましょう｣と。</div><div>　(このエミシが信仰していたアギタノウラの神とは、古四王神社に祭る海洋神で、古四王は古志王、高志王、越王に通じる)</div><div>　阿倍比羅夫は、オガの申し出を聞き入れた。そうして、彼に小乙上という官位を与え、ヌシロ(能代)とツガル(津軽)の二地方の郡領(こおりのみゃっこ)に任命した。</div><div>　(その年の秋七月に、エミシ二百人あまりが朝廷に出向いて貢物をささげ、朝廷はエミシに位階と、旗・鼓・弓矢・鎧などを与えたと日本書紀は記している)</div><div>　その後、阿倍比羅夫は更に北上し、津軽半島から北海道の渡島半島にまで到達し、各地のエミシとの親睦をはかった。</div><div>　因みに、前出｢古四王(古志王)｣神社は、新潟付近とその以北に数十社ある。古志とは、中国東北から黒龍江流域沿海州に住んでいたツングース族のことであり、古代、この民族が南下し、渡海して、日本に移り住んでいたという。</div><div>　その者たちが築いていた古志国が飛鳥時代(七世紀初め)の国名にあり、越(こし)または高志ともいい、大化の改新時、名称は越国(こしのくに)に統一されたとある。</div><div>　この越国のルーツとなった古志(ツングース族)の日本に移り来る者たちのことを粛慎(ミシハセ)と呼ぶ。</div><div>　日本書紀によると欽明天皇544年12月、佐渡島に渡来するミシハセ人のことが越から朝廷に報告されている。</div><div>　前述の阿倍比羅夫が水軍を率いて日本海を北上したとき、その沿岸の土地にはエミシだけではなく、朝廷の眼の届かない日本列島の北方から日本に自由に出入りしていたミシハセがいたのである。</div><div>　660年に阿倍比羅夫はまた、軍船二百艘を率いて北上し、北海道の南部にいたエミシたちの通報を得て、北の海に出没していた敵対的なミシハセを討伐したと日本書紀に記されている。</div><div>　しかし、古代日本には多くのミシハセ人がすでに移住していて、彼らによって持ち込まれたユーラシア大陸産の馬の繁殖(南部馬)や、採鉱、採金技術(749年、陸奥国小田郡からの金の産出や、陸奥一帯の多くの金山の発見など)が広まることになるから、その文化は東日本にしっかりと根付いていたのである。</div><div>　その後、ミシハセの子孫、靺鞨(マツカツ)族が台頭し、朝鮮半島の高句麗に進入するが、北海道または日本の北陸・東北地方に移住した者がミシハセと呼ばれ、高句麗に移住した者がマツカツと呼ばれた。</div><div>　663年、白村江の戦いで唐朝と新羅の連合軍が、日本と百済の連合軍を破り、朝鮮半島が統一されると、高句麗に在住していたマツカツ人の多くが、中国東北に逃亡し、渤海(ぼっかい)国を建国した。</div><div>　渤海国は727年、日本との通商条約を締結し、その後、約二百年の正式外交関係を維持した。この間、マツカツ人が日本を訪れ、山形から上陸し、大勢が日本に帰化したという。古代の東日本にはツングース族の同胞がすでに移り住んでいたから、親しみのある顔に安心感を抱いたのであろう。</div><div>　このように、古代の東日本では、青森三内丸山に見られる縄文文化一万年の縄文人をルーツとするエミシと、日本列島の北から入ってきた大陸の人びと、すなわち北アジアのツングース族をルーツとする者とが共存していた。その結果、大陸から伝えられた狩猟と農耕と遊牧と金属の文化と、日本列島独自の森や海と共生してきた縄文文化が融合したところに文明国、日高見があった。この東の都は、大陸の稲作文化をもつ大和朝廷とは全く異なるものであった。</div><div>　この日高見国の名は日本書紀の景行天皇の時代にすでに記されているから、そのずっと後の平安時代初期802年に、日高見国の最後の砦となった胆沢で、エミシ軍の指導者アテルイとモレが部下五百人を率いて、朝廷軍の坂上田村麻呂に降伏したとの記述(『日本紀略』)と照らし合わせれば、少なくても五百年以上はつづいていた都が古代の東日本にあったことになるー)</div><div><br /></div><div><b>ロ、地勢</b></div><div><b>親潮(おやしお)</b></div><div>　千島列島に沿って南下して、日本の東にまで達する寒流。流れは日本列島の東岸で北上してきた黒潮とぶつかり、北太平洋海流となって、東方へ向かう流れとなる。</div><div>　栄養塩に富んでおり、親潮という名は｢魚類を育てる親となる潮｣という意味をもつ。</div><div>　豊かな水産資源をもたらすその栄養塩の濃度は黒潮の少なくても５～１０倍と言われるが、実際はその数十倍とも言われる。</div><div>　春になると日射量の増加や温度躍層(サーモクライン：湖水や海水などの水温が急激に変化する層)の発達に伴って植物プランクトンの大増殖が起こり、動物プランクトンや魚類の格好の繁殖場になる。そのために親潮は緑や茶色がかった色である。</div><div>　また、親潮は低温のため黒潮より密度が高く重いので、混合水域では黒潮の下に沈みこむかたちになる。この潮目に黒潮とともに北上してきた多様な魚類が親潮の植物・動物プランクトンにより繁殖し、海域は量・種類とも豊富な好漁場となる。</div><div><br /></div><div><b>三陸(さんりく)海岸</b></div><div>　東北地方の太平洋側、青森県南東端から岩手県沿岸を経て宮城県の牡鹿半島までの海岸。</div><div>　岩手県宮古市より北では、陸地が大きく隆起し、高さ50ｍ～200ｍにも及ぶ大規模な海食断崖が連続し、その間に砂丘海岸がある。</div><div>　一方、宮古市より南では、リアス式海岸となっている。そのため水深のある入り江が多く、天然の良港となって漁業が盛んである。</div><div>　台地上のところはほとんどなく、海に面した急峻な谷間にできた沖積平野(ちゅうせきへいや：主に河川による堆積作用によって形成される平野)が生活の場となっている。</div><div><br /></div><div>　漁業：沖合いは黒潮と親潮がぶつかり合う良漁場で、世界三大漁場の一つ｢三陸沖｣として知られる。三陸沖はサンマやカツオなどの主漁場となっており、日本各地から三陸沖で操業する漁船が集まる。このため、日本の特定第三種漁港十数港のうち、三陸海岸北端の｢八戸港｣、三陸海岸中南部の｢気仙沼港｣、三陸海岸南部牡鹿半島の仙台湾側の｢石巻港｣、仙台湾(松島湾)の｢塩釜港｣と四つの港がこの地域に集中している。</div><div>　なお、漁港には、マグロなどの遠洋漁業の基地となるものや、捕鯨基地も存在する。</div><div>　また、沿岸漁業や養殖漁業は、ウニ・ワカメ・カキ＊・ホタテ・ホヤなどの主要産物のほか、流入河川のサケ漁も盛ん。</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">＊｢気仙沼湾のカキ養殖｣</font></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">カキの養殖場は世界中どこでも河川水が注ぐ汽水域(淡水と海水が混在した状態の水域のこと)にある。これはカキの餌となる植物プランクトンが、森林の腐葉土層でつくられるフルボ酸鉄が沿岸の海に供給されることによって増えることによる。そこで気仙の漁師は山に入ってブナ・ナラ・カツラなどの木を植え、海がカキの豊かな揺りかごとなるように植林活動を行なっている。ここでは森が青々とした海を産む。</font></div></blockquote><div><br /></div><div>　自然：植生はアカマツを中心とした自然林が多く、半島部には手付かずの自然が残る。また、千島海流の影響で温暖な地方で生育する植物も多数見られ、北山崎のシロハナシャクナゲ・ハマナス、船越半島のタブノキ、広田半島のトベラなどがある。</div><div>　動物は北上高地と連続している地域にニホンカモシカが見られるほか、ウミネコ・オオミズナギドリなどの海鳥類が多く棲息している。</div><div><br /></div><div><b>貞山(ていざん)運河</b></div><div>　阿武隈川(あぶくまかわ：福島県中南部、那須火山群の三本槍岳付近に源を発し、郡山・福島の両盆地を通って南から北へと流れ、宮城県で太平洋に注ぐ。長さ239ｋｍ)と名取川、名取川と仙台湾、仙台湾と松島湾、松島湾と北上川(岩手県岩手郡岩手町のゆはずの泉に源を発し、盛岡市、花巻市、北上市、奥州市、一関市などを通って、北から南へと流れる。宮城県登米市で旧北上川を分け、洪水防止のため開削された新北上川は追波湾：おっぱわんに注ぎ、旧北上川は石巻湾に注ぐ。長さ249ｋｍ)を結ぶ運河の一部。</div><div>　藩政時代に舟運による安定した物資の輸送路を確保するために、仙台藩主伊達政宗の命により、家臣川村孫兵衛重吉が名取川河口から阿武隈川までの海岸線と平行に、まず、木曳堀(こびきぼり：五間堀川～志賀沢川～川内沢川～増田川～名取川)を開削し、その後、新堀(しんぼり：名取川～七北田川)、御舟入堀(おふないりぼり：七北田川～仙台湾～砂押川～七ヶ浜)を掘り、松島湾と結んだ。この全長28.9ｋｍを｢貞山運河｣と呼ぶ。</div><div>　また、明治時代に開削した、松島湾と鳴瀬川を結ぶ｢東名(とうな)運河｣3.6ｋｍ、鳴瀬川と定川と旧北上川を結ぶ｢北上運河｣13.9ｋｍがあり、江戸時代に開削された｢貞山運河｣と結ばれ、東松島市、石巻市を貫いている。</div><div>　以上の三つの運河の長さを合わせると、約47ｋｍになる。</div><div>　｢ともかくこれほどの美しさでいまなお(運河が)保たれていることに、この県への畏敬を持った。なんとも長大な"遺跡"なのである｣と司馬遼太郎が賛嘆している。</div><div>　また、日本の村という村、島という島を歩きつづけた民俗学者の宮本常一は、その著書の中で、貞山堀(運河)のことを次のように記している。</div><div>　｢貞山堀というのは阿武隈川の川口から、海岸にそうて松島湾までの間に掘られた堀で、伊達政宗の企画したものという。</div><div>　山形県南部地帯から阿武隈川上流にかけての米を江戸に送るために、幕府は川船で下流に運び、その川口に荒浜という港をつくり、そこから帆船に積みかえて海上を輸送することにした。しかし、荒浜は港としてはけっしてよい港ではなかったので、貞山堀を利用して松島湾まで川船で運び、松島湾の寒風沢(さぶさわ)港から江戸へ送ることにした。砂浜に掘った堀は砂でくずれやすい。その砂くずれを防ぐために堤防に松を植えた。いまは堀を利用する船も少なく、堤防の松も伐られたところが多いが、この堀とこの松を見るとき、人間のたくましい努力に深く心を打たれる｣と。</div><div>　人間の努力によって生まれ、地勢となった人工河川である。</div><div>　(自動車や鉄道の発明される前の大量の交通・運搬手段として、河川による舟運があった。近世においては、その水運を図るために人工河川、すなわち運河が世界各国の都市で開削された。その当時のロンドン、パリ、江戸は水の都であったのだ。その運河の長大なものが東北の地にもあったー)</div><div><br /></div><div><b>｢玉山(たまやま)金山｣とジパング</b></div><div>　続日本書紀に日本初の｢金の産出｣を記している。その記録によれば、聖武天皇が奈良東大寺の大仏を計画し、その黄金を輸入するつもりであったが、経済状況が悪化したため、国内で金を産出できないかと全国に調査を命じた。それに答えて、陸奥国(むつのくに)に赴任していた百済王敬福(くだらのこにきしのきょうふく)から、地元の小田郡に黄金が産出したとの報告があり、九百両(一両＝37.5グラム)の黄金が献上されたとある。749年の時である。</div><div>　この天平の産金の感動を万葉の歌人、大伴家持は次のように歌っている。</div><div>　｢天皇(すめろぎ)の御代(みよ)栄えむと東(あずま)なる陸奥山(みちのくのやま)に金(くがね)花咲く｣と。</div><div>　しかし、古文献によると陸奥の産金はもっと早くから始まっており、黄金の採集は正史に記載される前からあったとする。</div><div>　いまの陸前高田市竹駒町にある｢玉山金山｣も気仙地方の大金鉱であり、すでに天平年間(729～749)に僧行基によって発見されている。</div><div>　この産金処は奥州藤原氏代々の平泉文化を支え、その後、豊臣秀吉や仙台の伊達家もこれを重要な金山と認め、近代の明治政府にいたっては、玉山金山を中心とする気仙地方の黄金埋蔵量を四十億円と評価した報告書を作成し、国際社会に対する日本の財力の信用とした。</div><div>　｢東方に国あり、名はジパングという。その国で特に驚くべきことは黄金の多いことである。その黄金は掘れど掘れど尽きず｣と記したのは、マルコポーロ『東方見聞録・黄金の国ジパング』である。著作は十三世紀末のことであったが、その黄金の国とは、大量の産金を誇っていた日本の陸奥国、すなわち奥州のことであったという。</div><div>　(因みに、今日の研究家は、調査にもとづく玉山金山全体の推定金鉱量を約250万トン、精鉱はその四割と見て約100万トンと見積もり、そこから金の埋蔵量を12.762トンと計算している)</div><div>　この奥州(陸奥平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯)を華々しく治めていたのが藤原氏(1087～1189)であり、藤原氏の登場する以前は、本論考、古代の項で述べたように、当地の日高見国のアテルイとモレが、坂上田村麻呂に802年に降伏したのち朝廷は、鎮守府をその攻防の最終地である胆沢に置き、律令制の時代に入ると陸奥国と出羽国となり、エミシ・ミシハセなどの民族と、大和朝廷の西の国から移り住んできた人びとが入り混じって生活していた。</div><div>　十一世紀半ばになって、陸奥国に阿倍氏、出羽国に清原氏という豪族が出現する。共に先住民族の流れを汲む者であった。</div><div>　滅ぼされた日高見国の民が歳月を経て、再び勢力を盛り返したのだ。その後、彼らを含む豪族どうしの戦いを経て、最終的に阿倍氏の血を引く奥州藤原氏が覇者となった。</div><div>　奥州藤原氏は中央から来る国司を受け入れ、朝廷に砂金や馬、それに独自の北方貿易によって得た珍品を献上することを欠かさなかったため、その奥州支配は容認されることになる。</div><div>　奥州藤原氏はその根拠地を平泉に置き、人口規模で西の平安京に次ぐ国内第二の都を東の地に築いた。(その都のことが北方貿易を通じて大陸に知られ、東方見聞録に登場するジパングとなったのだ)</div><div>　東の都には中尊寺金色堂(しゅうそんじこんじきどう)があり、浄土世界を示すお堂は内も外もすべて金箔貼りで、扉・壁・軒から縁や床面に至るまで、漆塗りの上に金箔を貼って仕上げられていた。</div><div>　清らかな環境が清らかな心をつくりだし、心が汚れれば環境も汚れるというのが仏教の基本的な教えの一つであり、美と荘厳さをもつ絶対世界の"浄土"の存在を信仰することによって、人びとの心は浄化される。その浄土的環境を眼に見えるかたちで表現したものが金色堂であった。</div><div>　それは、長期の戦いによって汚れてしまった環境と心を、縄文一万年の血を引くエミシの人びとと、北アジアから日本の地に移り住んで来た人びとと、日本の西から来た大和の人びとが、金色堂の美しい浄土世界に触れ、共に清らかな心をもって祈ることによって、人間の犯す罪科(つみとが)を一時なりとも贖(あがな)うものであった。</div><div><br /></div><div>　地勢がもたらす恵みや災いによって、精神風土が培(つちか)われる。人びとはその鍛えられた精神をもって、自然が与える恵みや災いに祈り、美しく平和な浄土に祈る。その祈りがまた、地域固有の文化を育てるー</div><div><br /></div><div><b>Ⅱ知の祈り</b></div><div>　人間は発達した知能をもったが故に、その知能によって、祈りの習慣をもつことになった。</div><div>　それはなぜか。生命の生と死、成長と実り、山と森、川と海、火と風、それに季節と気候、天変地異など、つまり、人知を超えたところにある運命や自然への畏れと、物質的なるものへの欲望を、人間が意識するようになったからだ。</div><div>　それらを鎮めるために、無事・平穏・豊饒を祈らざるをえなくなった。</div><div>　その結果、祈りは自ずと風土とともにあるから、住む環境の違いによって、人びとの祈りも異なり、多様な信仰も生まれた。</div><div>　そうして、異なる精神風土と生活様式をもつ人間が地球上に出現し、その異なる言語によってもコミュニケーションを難しくしてしまったが、そこに、地域の独自の産品(とそれに伴なう材料や技術)を交易するという実利を介在させることによって、お互いの交流を可能にしてきた。</div><div>　このようにすべての祈りの成就は、物質によって叶えられることを実感としているが、それは自然界が、地(固体)・水(液体)・火(エネルギー)・風(気体)・空(空間)の五つの物質要素によって構成されていて、それらと同じ要素によって構成されるからだをもつ者(そのからだが意識をもっている)もまた、まず、物質界の秩序と充足がなければ、その存在を維持できないという現実があるからである。</div><div>　だから、祈りの満足は、あくまでも物理的な充足を感知することによって得られるという宿命を担っている。</div><div>　その上で、もっと根源的なところでの祈りの知、それを説いたのが空海である。その教えによれば、すべての生命は無垢なる五つの知によって共に生きているから、その知にしたがって祈りなさいと。そうすれば、あらゆる生命と自然が調和し、等しく共に生きるあるがままの美しい世界が現れると。そこに清らかな心がある。</div><div>　空海の説く、その五つの知による祈りとは、</div><div>　まず、生命そのものを存在させている知&lt;生命知：法界体性智(ほっかいたいしょうち)&gt;。その全体への祈り。</div><div>　次に、あらゆる生きものが共に生きる根幹である呼吸と睡眠を日々行なっている知&lt;生活知：大円鏡智(だいえんきょうち)&gt;。その清らかな生活環境への祈り。</div><div>　その次に、生きとし生けるものすべてがその個体を維持するために、衣食住の生産と摂取を互いに分かち合っている知&lt;創造知：平等性智(びょうどうしょうち)&gt;。そのことによって、世界の秩序が保たれていることへの祈り。</div><div>　そうして、生きることによって、対象を観察・記憶・編集し、他とコミュニケーションできる知&lt;学習知：妙観察智(みょうかんざっち)&gt;。その喜びの祈り。</div><div>　また、生きている個体がそのからだをもって、運動・作業し、働けることと、所作によって自己を表現できる知&lt;身体知：成所作智(じょうそさち)&gt;。その喜びの祈り。</div><div>　というようなことである。</div><div>　これらの根源の知によって、多様な生命が共に生きることができているのだ。そこに祈りがあると空海は説いた。</div><div><br /></div><div>　では、その知の祈りによって、人びとは住み場所となる風土とどう向き合い、知を発揮すれば好いのか、以下考察してみたい。(そこに、まちづくりの理念と原理がある)</div><div><br /></div><div><b>イ、生活知(環境づくり)</b></div><div>　｢生きているということは、その生物が世界の一部と、主体＝環境系を作っているということである。環境とは生活の場であり、生活の場は住み場所である｣これは京都大学の人文科学学者、今西氏の提唱された｢すみわけ理論｣である。このことは、ヒト科においてもそうである。生活の場が違えば人びとの生活様式も違い、生活様式の違っている人びとは違った生活の場に住むという生活形のすみわけ原理。このことによって、人びとが暮らすための居住環境づくりの理念が成立する。</div><div><br /></div><div>　居住環境づくり＝まちづくりである。最古の計画的なまちづくりとして、ギリシャの自由都市が挙げられる。その自由都市の一つに人口約四千人の古代都市プリエネ(イオニア人の築いた古代都市。もとはエーゲ海に面する港湾都市だったが、土砂の堆積などにより、紀元前四世紀頃、内陸の丘の上に再建された。古代都市計画の最古の例として、明快なたたずまいをもつことで知られる)がある。その街並みを見ると、丘の斜面中腹に設けられた矩形の市民広場(アゴラ)を中心として、それを取り囲むかたちで各種店舗(ストア)と事務所が連なり、ストアの端には約七百座席の会議場(エクレシアステリオン)がある。これらの施設を核として、周囲には碁盤目状に整備された街区(一街区：約35×45ｍ、住宅数六戸)があり、中庭付きの二階建て住宅が隣接して広がり、その住宅街の周辺には、軒を接して立ち並ぶ小さな家の借家や職人(石工・陶工・鍛冶屋・大工・家具師・指物師・織物師・細工師・革なめし工・靴屋・パン屋・菓子屋・床屋・薬屋など)の工房と公衆浴場がある。また、市街の下方には下の体育場と二百メートルの矩形競技場(スタディオン)があり、上方には上の体育場と約六千席の野外円形劇場がある。そうして、都市の山手や要所にはギリシャの神々や女神たちを祭る神殿が建ち、円柱の立ち並ぶ空間の中に鎮座する神像が人びとの敬虔なる信仰心を支えていた。</div><div>　ここにはギリシャの神々とスポーツ競技(レスリング・ボクシング・徒競走・跳躍・円盤投げ・槍投げなどと馬車競争)と舞台(悲喜劇・舞踏・詩の朗読など)が同居し、議会と哲学によって社会を治めようとする市民(自らの手によって貿易や事業を起こし、まちをつくり、議論をし、政治を行ない、国を守る兵士となる人びと)の明快な意思がまちのかたちとなって存在していたし、もちろん、まちの周囲には農民の耕作地が広がり、小麦やブドウやオリーブ畑、それに野菜(キャベツ・豆・ニンニク・タマネギ・メロン・カボチャなど)畑と養蜂(はちみつ)と牧畜(肉・チーズ)によって食糧が生産され、それに漁師のとってきた魚(まぐろ・めかじき・いわし・アンチョビーなど)が加わり、市民の旺盛な食欲を満たしていた。</div><div><br /></div><div>　居住環境づくり＝住まいづくりでもある。住まい(家)はヒトが住み場所において、雨・雪・風・気温・湿気などをしのぎ、安心して眠ることのできる寝床を確保するために、床・壁・屋根によって構成される居住空間のことである。</div><div>　ヒトはその人類史の中で居住空間の快適さを求めてきたが、その努力が結実した住まいのかたちの一つに山村の民家がある。</div><div>　民家の特徴は、堅牢性とエコロジー性、それに家並みの美しさであるが、なぜ、その家並みは山間にあって美しい景観を成すことができているのだろうか。それは民家のかたちが生態学的な深層と一体となっているからだろうか。あるいは民家が、自然の法則にしたがって、成るべくしてなったものであるからだろうか。いずれにしても、そこにはヒトのもつ根源的な知力が発揮されている。</div><div>　では、住まいにおける自然の法則とはどのようなことなのだろう。</div><div>　ヒトが家で暮らすにあたっては、四季を通じての快適な温度と湿度、それに通風と採光が必要である。それらは太陽の光と熱・風と空気・樹木と水や土という自然の要素によってパッシブ(受動的)にもたらされている。そこに法則があるのだ。</div><div>　(１)｢暖かい空気は上昇し、冷えた空気は常に下にある｣：この法則を利用すれば、夏は下方の冷えた空気を戸外から採り入れ、室内で上昇させ、それを天井部で戸外に放出すれば、天然の涼風を得ることができる。また、冬の暖まった空気は上昇するから、それを跳ね返せば下降し、室内を循環する。</div><div>　(２)｢蓄熱材を温めておけば、その熱は夜間に放出される｣：この法則を利用すれば、冬の晴れた昼間には太陽光によって、曇りの日には暖房によって蓄熱材を温めておけば、その熱は夜間に放出され、室内温度を極端に下げない。</div><div>　(３)｢太陽は東から昇り、南へと回り、西へと沈む。また、その照射角度は夏は高く、冬は低い｣：この法則にしたがえば、家の向きは南に面し、屋根の庇は深くなり、その傾斜は冬に太陽光を最大限に受けられるよう急勾配(ほぼ、正三角形のかたち)になる。夏にはその庇が日差しを遮り、屋根の傾斜は太陽光を逸(そ)らす。また、三角形の構造が屋根の堅牢性を増す。</div><div>　(４)｢北側に陽は当たらない｣：この法則を利用し、北面の窓から採光すれば、その明かりは一定である。</div><div>　(５)｢落葉広葉樹は夏に葉を繁らし、冬に葉を落とす」：この生態を利用すれば、南面に樹木を植えるだろう。そうすれば、暑い夏には緑陰を得られ、寒い冬には陽光が得られる。</div><div>　(６)｢水は蒸発するときに熱を奪い、周囲の空気を冷やす｣：この法則を利用すれば、夏場の戸外に水を配置すれば涼しさを得られる。</div><div>　(７)｢風がモノの乾かす｣：この法則を利用すれば、湿気の高いところでは床を上げ、床下の風通しをよくすることによって湿気を防ぐことができるし、室内の通気性の確保においても同様である。</div><div>　(８)｢モノは燻(いぶ)すことによって長持ちする｣：この法則を利用すれば、室内で火を焚き、植物系の建材を燻すことによって長持ちさせることができる。</div><div>　というようなことを、厳しい山間の環境に住む人びとは、熟知していたのだ。</div><div>　この法則にしたがえば、風土が住まいのかたちを決定することになり、その家並みは自ずと揃う。そうして、そこに固有の生活様式が生まれ、人びとは自然の一部となって景観に取り込まれる。その自然の秩序に融け込んだ生活のたたずまいがあるから、山あいの集落は美しいのだ。</div><div><br /></div><div>　以上のように、都市と山村とでいえば、都市空間は文明という名の知性と観念の集積場であり、山村集落は自然と共に生きる知恵の住みかである。このパッシブな知恵が、人間中心主義で発達してきたまちや都市づくりにも必要である。省エネルギーのエコロジカルな空間技術は、すでに自然の法則の中にあるのだ。その法則を見つめるヒト科の意志さえあれば、そこにまちや都市の明快な家並みも見える。</div><div><br /></div><div><b>ロ、創造知(物づくり)</b></div><div>　人類が二足直立歩行をしたとき、そのあいた手と、かたちをイメージできる脳によって、物づくりが始まった。</div><div>　その能力によって、狩猟道具をつくり海・山・空の獲物を捕らえ、鍬(くわ)や鋤(すき)を使って土地を耕し、自然の恵み(穀物・野菜・果物)を栽培できるようになった。また、さまざまな材料を加工し、衣服や料理や住まいや各種道具をつくりだせるようになった。その物づくりの楽しみは、ヒトに与えられた特権である。</div><div>　土を耕し種をまき発芽させ、魚の卵を孵化させ、家畜を交尾させ、育て、食糧として収穫し、その食材をそのまま料理することも、加工し保存食とすることも、ヒトはその手によってできる。</div><div>　また、各種の道具をつくりだし、その道具によってさまざまな対象を加工することによって、土や木の器(うつわ)、樹皮や綿や虫の紡ぐ糸や動物の毛によって織ったり編んだりする衣服や小物、各種建材と家、木材や塗料と家具、木の繊維と紙、顔料や染料と色、薬草と薬、蝋や油と明かり、鉄と農機具や武器、木炭と燃料、水や風を利用した動力機械などをつくることもできる。</div><div>　物づくりとは、まず物のかたちをイメージし、そのイメージを設計図としながら、手とからだで道具を使い、こつこつ、こつこつ、対象を加工し、物の機能を芽生えさし、それを育てながら、そこに美しさを見つけだすことである。</div><div>　その美しさとは、物づくりの場の風土の景観や、鉱物・植物・動物がもつものであり、それらの美が、つくる物の中にも宿るように祈る。</div><div>　一心に祈り願い、その願いがやがて無心となり、成るべくしてなり、在るべくしてあるものとして、かたちが出現したならば、そのつくられた物は風土の落とし子なのだ。</div><div>　その｢地域固有の美｣によって、つくられた物は国際的な価値をもつ。そうして、交易される。このような物づくりは、紀元前の昔からあり、その産品(独自の紋様をもった土器/黒曜石の石器/漆塗り/絹の織物/鉄などの金属とその精錬、鋳造技術/稲など)が海を越えたことをわたくしたちは知っている。物づくりが世界の人びとを結びつけているのである。</div><div>　ここに開かれた経済の原点がある。また、物の生産とその流通・分配・消費など、物づくりがなければ経済活動もない。</div><div>　この物づくりの原点に人びとが気づけば、そこに経済の立ち帰るべきところがある。</div><div>　本来、人類は物づくりの欲求をもち、それを充たすために生きている。そうして、物づくりを通して美を見つめ、それを楽しむ心をもつ。その結果が文化となり、経済となる。</div><div><br /></div><div><b>ハ、学習知(知覚と感性)</b></div><div>　人間を含め、あらゆる生きものが生きてゆく上で、必然的に学習している事柄とは何だろう。</div><div>　それはたぶん、第一義的には生存欲求を充たす成否の対象となる事柄の学習であろう。では、その事柄とはどのようなものか、次に挙げてみる。</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>(１)呼吸欲求：土壌・水質・光合成などと空気の清浄性。</div><div>(２)睡眠欲求：概日(がいじつ)リズム・昼夜・明暗などとねぐらの安心と安全性。</div><div>(３)飲食欲求：清浄なる水・食物の元&lt;植物(無機質から炭水化物を生産する唯一の生物)&gt;・食物連鎖・生産と摂取と分配・食事法・美味いか不味いかなどと栄養・健康。</div><div>(４)生殖欲求：繁殖期・配偶相手とメンデルの法則・巣づくり・求愛・性交・出産・保育など。</div><div>(５)群居欲求：地縁・血縁、住みか・地位・共同体、固有の生活様式など。</div><div>(６)情動欲求：生存欲求の成否による快と不快の主張。(あらゆる生物の生存への情動がなければ、自然界は成立せず、進化もなかった。そうして、生物のもつ広義の意識が共通の｢知｣へと収斂することもなかった)</div></blockquote><div>　これらが、あらゆる生きものに共通する第一義の学習であり、すべてが個体の生存に関わる事柄である。</div><div><br /></div><div>　次に、上記の第一義の学習｢生存欲求｣によって、あらゆる生きものがその存在を主張しているのであるが、それらの多様な種が、一時なりともその生を楽しむことを知っているから自然界は美しい輝きを放つ。それを第二義の学習｢生の楽しみ｣とする。</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>□植物は太陽光の波長を感得(学習)し、色とりどりの花を地上に咲かせ、風にゆれる。</div><div>□昆虫はその一生で、もっとも気持ちのいい日を感知(学習)し、水の中から地上へ、あるいは土の中から地面の上へと移り、脱皮し、すがたを変え、羽をひろげて空に舞う。</div><div>□鳥は大空に羽ばたき、気流に乗って遊泳し、さえずり(歌)を学んで仲間と交わる。</div><div>□川で産まれ、大海で育つ魚はふるさとを記憶(学習)していて、産まれた川に戻る。</div><div>□幼いけものは家族と共に草原や森を駆け、日向に寝そべり、遊びながら生き方を学ぶ。</div><div>□人間は二足直立歩行によってスポーツ競技を楽しみ、五感と手や足を使って美術や音楽や舞踊を創作し、それらを観賞し、料理を味わい、遊戯をし、見知らぬ土地への旅を楽しむ。</div></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>このように、地上に生を受けたものは、知覚と感性によってあらゆることを学び、その生を楽しむことができる。</div></blockquote><div><br /></div><div>　生存欲求を充たすことと、生を楽しむこと、それらを学習の根源とすれば、第三義の学</div><div>習が｢知識｣と呼ばれるものである。</div><div>　｢こうした、ちっぽけな存在なのに、人間は知識によって世界を見極めようとするから、先行きでは混乱してしまって、何も分からなくなるのだ｣と言ったのは、紀元前四世紀の中国の哲学者、荘子であった。(知識そのものは、本来的な生き方からすれば方便の道具に過ぎない。だから、世界の本質は知識の外にあるというのが荘子の言い分である)</div><div>　荘子の約百年前にインドのガウタマ・シッダールタ(ブッダ)も次のようなことを説いている。</div><div>　｢十二因縁説｣</div><div>　１、人間は発達した知能をもつから</div><div>　２、世界を識別し、言葉にする。</div><div>　３、だから、それらの言葉と</div><div>　４、知覚(目・耳・鼻・舌・からだ・意識)によって対象を把握する。</div><div>　５、知覚される事柄は、色彩とかたちとうごき・音と声・匂い・味・感触・法則であり</div><div>　６、それらによって、対象となる世界に遊ぶ。</div><div>　７、しかし、時とともに対象との関係によって快・不快が生じ</div><div>　８、心に情動を起こす。</div><div>　９、その情動が言葉となって記憶され、やがて心の執着となり</div><div>　10、その執着の中で人間は生きるようになる。</div><div>　11、そのような執着によって、人間は生まれ、生まれ、生まれて</div><div>　12、そして、老い、死んでゆく。</div><div>　以上のように、ブッダは｢人間の執着が識別を因とし、情動を果としている｣と気づき、次に｢因をもたらす識別は、人間が言葉によって勝手につくりだしたものであるから、もともとの世界には無かったものである。因が無ければ果は生じない｣とさとった。</div><div>　古代の賢者たちは、このように知識を目の仇(かたき)にしたのであるが、それよりも大事なことは、知識以前に学ばなければならない根源的なものがあるということであり、本来の知覚や感性による学習をおろそかにしては、生の本質は成り立たない。</div><div><br /></div><div><b>二、身体知(からだと空間と言葉)</b></div><div>　動物は、手があれば物をつかみ(羽になった手で空を飛び)、足で歩き、走り、魚は尾ひれで泳ぎ、ヘビはからだをくねらして進む。</div><div>　目で物と空間を見、耳で音を聞き、鼻で呼吸し、香りを嗅ぎ(魚はエラで呼吸し)、口の中で食物を味わい、声を発する。</div><div>　そうして、感性(中枢神経と脳と脊髄)で行動をコントロールする。</div><div>　植物は、土に根を伸ばし、茎(からだ)を支え、土の中の水分と養分を摂取する。茎は葉をだし、枝を伸ばし、葉が太陽光を受けられるようにそれらを支える。葉は太陽光を受けて、光合成を行ない(無機質の二酸化炭素＋水＋太陽光エネルギーから)炭水化物をつくり、酸素を放出する。</div><div>　そうして、からだの組成分の炭素によって電気パルスを発し、周囲に反応し、すばやく判断し、スローに行動する。(このことによって、植物も動物とは違うシステムであるが、知覚と感性をもつといえる)</div><div>　このように知覚と感性により、からだを空間の中でうごかす行為は、生物の有する機能の根幹である。</div><div>　この機能について、近代の建築家、ル・コルビュジェはその設計手法の中で、次のように述べている。</div><div>　(１)人間の身長によって空間に高さが生じる。</div><div>　(２)人間の歩幅によって空間に広さが生じる。</div><div>　(３)人間の眼のうごきによって空間に視界が生じる。</div><div>　(４)人間の手は眼の姉妹である(眼で物を見て、手でそれに触り、手でつかみ、手でそれをうごかし、加工する。つまり手は眼の出先機関であるということ)。</div><div>　(５)そうして空間には、すべての人間の心理作用がはたらく。</div><div>　というようなことだが、明快である。</div><div>　人間が快適な居住空間を得るために、立地環境に合わせ、床と壁と屋根をこしらえ、その中に道具を設えたものが建築となるが、その空間は、人間のからだの寸法と行動、視覚と触覚、そうして、心理作用によってつくられるというのだ。</div><div>　今日の脳科学によれば、左脳の言語野と対になる右脳部分は、からだと空間との位置関係を知覚する機能を果たしているという。その状況把握があって、そこから左脳の言語が生まれた。つまり、からだが置かれている空間のスケールと形状、それとからだの感知する空間のひびきによって、言葉が生まれたのだ。</div><div>　弘法大師空海はその著『声字(しょうじ)実相義』に、｢自然を構成しているのは、固体・液体・エネルギー・気体・空間の五つの要素である。生物といえどもこれらの要素によってかたちを成しているのだ。そこにひびきがある。そのひびきが言葉になった。したがって、言葉も文字も、実在する空間とかたちが先にあって、それらの発しているひびきである｣と記している。</div><div>　これによると、空海の説く言語も、右脳の感知している空間のひびきということになる。</div><div>　この空間のひびきが祈りになる。</div><div>　祈りは観念ではなく、からだと実在する空間との間に発生するものであり、この祈りこそが言葉のオリジナルの形態なのだ。</div><div>　本章の｢知の祈り｣もそこに位置する。</div><div><br /></div><div>　空海は｢知の祈り｣を万の燈火と万の華を献げる祭りのかたちにして今日に伝えている。そのことを記す｢高野山万燈会(まんどうえ)の願文｣によると、八三二年八月二十二日の初秋(空海五十九歳のとき)、高野の山の自然道場で多くの弟子たちと共に満天の星の下で祈ったとある。</div><div><br /></div><div>　　六大の遍ずるところ、</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>(物質と生命が満ちるところ)</div></blockquote><div>　　五智の含するところ、</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>(いのちの無垢なる五つの知をもつもののいるところ)</div></blockquote><div>　　虚(そら)を排(はら)い、地に沈み、水に流れ、林に遊ぶもの、</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>(空を飛ぶ鳥、地にもぐる虫、水中を泳ぐ魚、林に遊ぶけものたち)</div></blockquote><div>　　すべてこれわが四恩なり。</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>(すべては、親から生を受け継いだことと、国土が守られていることと、多様な生きものによる相互扶助と、いのちと、いのちの無垢なる知のちからと、その知にしたがい修行する人びとのおかげである)</div></blockquote><div>　　同じく共に一覚に入らん。</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>(そのいのちの無垢なる知のちからによって秩序を保っている世界に、共に入ることができるように、ここに祈ります)</div></blockquote><div><br /></div><div>　以上のように｢知の祈り｣は、空海によって普遍的な祭りとなったが、今日において祈るとすれば、どのような｢知｣がふさわしいのか、それを｢からだと空間｣｢知覚と感性｣の視点でとらえてみたことになる。</div><div>　その要点をもう一度、列挙しておこう。</div><div>イ、都市に必要なものは、広場と市場と会議場・集合住宅と街工房・公衆浴場・スポーツジムとスタジアム・シアター・祈りの場(神社、寺院、教会などと鎮守の森とお祭り)である。また、住まいのかたちは自然風土によって決まる。&lt;大円鏡智&gt;</div><div>ロ、地域固有の物づくりが活性化されることによって、異なる地域や民族間に交易が生まれ、他から認められる文化も生まれる。その文化が国際的な価値をもつ。&lt;平等性智&gt;</div><div>ハ、生きるための学習の根幹は知覚と感性にあり、その付け足しとして知識がある。&lt;妙観察智&gt;</div><div>二、まず、からだが行動し、その行動した場が空間となり、その空間体験が言葉を生んだ。&lt;成所作智&gt;</div><div><br /></div><div><b>Ⅲ明日の散策</b></div><div><br /></div><div><b>(Ａ)運河の眺め</b></div><div>　延々と砂浜はつづき、その砂浜に太平洋の青い海原から繰り返し白波が押し寄せている。</div><div>　砂浜から陸に向かって、新たに植樹されたタブノキ・シイ・ヤブツバキなどの照葉樹の林が、まだ成長途中であったが緑色に広がっている。</div><div>　その照葉樹林の常緑の森を切り裂くかたちで、運河は砂浜に沿って先へと延びている。</div><div>　地元の人に聞くと、南の阿武隈川河口から北上して松島湾と結ばれているのが、江戸時代に開削された運河であり、松島湾からさらに北上して鳴瀬川を経て、石巻の旧北上川へと延びているのが明治時代に開削された運河であるという。全長四十七キロに及ぶという。</div><div>　今日その運河が整備され、レジャー用の水路として再生し、岸辺には英国ウェールズ地方の運河を走る｢ナロウボート｣のようなスリムなレジャー・宿泊用ボートが係留され、川面には観光ボートが静かに行き交っている。</div><div>　運河には美しい木の橋が幾つも架かり、観光要所となる場所にはコンパクトな入り江をもつ運河の駅が設けられている。</div><div>　その運河の駅の水辺のレストランでは、地元産の食材による美味しい料理にシェフが腕をふるう。</div><div>　レストランの大きな窓から眺める、白く光る運河の水面越しの緑色の照葉樹が広がる向こうには、近代的な風車の立ち並ぶ田園地帯があり、段丘の林の中には合掌づくりのような屋根をもつ民家が建ち並ぶ。</div><div>　民家の屋根に取り付けられたソーラーパネルが日に光る彼方には、奥羽山脈の青い山並みが霞む。</div><div><br /></div><div><b>(Ｂ)入り海の漁村</b></div><div>　青く栄養豊かな海を、両手ですくうようなかたちで湾がある。</div><div>　湾には、定置網漁の漁港やカキの養殖場があり、その海にそそぐ川には季節になればサケも遡上する。</div><div>　漁船が戻ってくると、漁港は大忙しで、海産加工所は忙しく手をうごかしはたらく女たちのすがたでいっぱいだ。</div><div>　また、漁港にはバーべキュウレストランがあり、新鮮な四季の海の幸を味わいたいという都会の客を受け入れている。レストランは木造で、室内は高い天井の梁がむき出しになっていて、その梁の中を太い排煙ダクトが走り、客席のテーブルに設えた炭火焼き用の各々の炉の上部に、煙りを吸い込むために、漏斗(じょうご)を逆さまにしたような赤銅製の大きなフードがダクトより下がっている。</div><div>　この漁業生産組合が運営するレストランは、ホームページによって、海産物の旬の情報と漁村独自が開発した海産加工品グルメを映像とともに発信しているから、近隣の都市民のみならず全国にファン客をもつという。</div><div>　さて、この漁村の集落はと見ると、すべての家が丘の斜面に建ち並び、それが何段にも上下に重なっている。丘の中腹まで帰るのは大変だろうと村民に聞くと、｢なに、大変なときはモノトラック(小型ケーブルカーで各自が運転する)に乗ればいい｣ということで、よく斜面を観察すると、小型の電気自動車のようなものが一本レールの上を登って行くのが見える。また、｢丘の斜面の自宅のベランダから眺める青い湾の美しさは、何事にも代えがたく、日々の暮らしの癒しとなっているから、ここが好きだ｣ということも付け加えられた。</div><div>　その立体的な集落は、平地に住む人びとにとっては、十分に魅力的な景観であり、その四季の海の幸を食材とした料理をも含めて、民宿を営んでいる漁師も多い。</div><div><br /></div><div><b>(Ｃ)再生商店街と市場</b></div><div>　その商店街は昔からそこにあった。しかし一時は、百貨店やスーパー、それに郊外のショッピングセンターの出店により、瀕死の状態にあったという。</div><div>　それが見事に活性化しているのだ。それも若者や市外からわざわざやってくる来街者によってもにぎわっている。</div><div>　なぜなのか、商店街の各店内を見ると、そのほとんどが、自営の工房によって産み出されたもののようだ。</div><div>　衣：地元産の染め織物を使ったファッション、地元で紡がれた毛糸による手編みのセーター、地元産の動物の皮を使用した小物類、地元デザイナーのオリジナルプリント柄の布地による衣服と小物と生活雑貨とインテリアファブリックや、手づくりアクセサリーなど。</div><div>　食：手づくりのパン・ジャム・チーズ・ヨーグルト・ハム・ソーセージ、それに四季の和洋菓子、地元食材による各種惣菜・珍味など。</div><div>　住：白木やうるし塗りの食器、陶器、ガラス工芸、鉄器、手漉き和紙、灯り・蝋燭、家具、玩具などと、それに住宅や家具の設計図。</div><div>　遊：釣具・自転車と修理など。</div><div>　よく確認するとすべてが、地元の各種職人やデザイナーの手に成るものである。来店者に聞くと、彼らが先生となった、カルチャー教室もあるという。</div><div>　それに、日々の暮らしに必要な米・麦・蕎麦の穀物や粉や麺類、新鮮野菜・果物・魚肉、味噌と醤油と酢と油、酒とワイン、生花なども、商店街に併設された市場で販売されていて、その産品は、地元生産者の顔が見えるものばかりである。</div><div>　ここまで地元固有の産品が豊富になれば、誰だって、この暮らしの生活工房的な商店街に日々、足を運びたくなる。</div><div>　また、この工房型店舗の三階以上は集合住宅となっていて、物づくりに従事する若い世代を軸として、街の暮らしに住民が戻ってくるきっかけをつくっている。それも活性化の要因である。</div><div><br /></div><div><b>(Ｄ)堅牢なる集合住宅</b></div><div>　その高台の建物の断面は、正四角形を対角線で切り取ったかたちをしていて、その対角線が太陽に向いている。だから、遠くから見ると、三角形の断面をもつ長い棒(建築家が使用する三角スケールに似ている)が日光にさらされて、丘の上に置かれているようである。</div><div>　建物の南に面して階段状に積み上げられた住居の一階には老人たち(一人住まいの元気な老人住居に若者が同居する制度もある)が住み、二・三階に若夫婦、四・五階に中年夫婦と家族、最上階には独身者が住んでいる。(このように世代バランスをとることにより、住人の年齢的片寄りを防ぎ、世代循環と交流を図る)</div><div>　このように日当たりの良い南面には六段に積み上げられた住居(約300戸)があり、各戸は、その南向きの大きな窓から採り入れられる太陽光によって冬は暖かく、夏は北側の日陰から取り入れた空気を、室内で自然上昇させ、窓の上部の開口部から外部へと逃すことによって、涼風を得られるように設計されている。また、各戸の南面に付くベランダの緑陰によっても、室温を調整することができたし、そのベランダはガーデニングを楽しむにも十分の広さがあった。それに、各階の各戸の窓の上には、庇(ひさし)状にソーラーパネルが取り付けられており、それらの発電によって室内での使用電力は、ほぼ充たすことができた。</div><div>　また、建物の北側の広い地面部(三角形の底辺)には地下に公衆浴場・理髪店・ランドリー・倉庫＆工作室、一階に駐車場と駐輪場・スーパーマーケット・パン屋・和菓子屋・喫茶店、その上にはスポーツジム＆プール・レストラン、その上にはアパートメントクラブ・集会室・共同厨房＆食堂がある。</div><div>　この建物一棟で1200人程度が暮らしているという。</div><div><br /></div><div>　このような集合住宅は過去にもあり、1951年にフランスのマルセイユに建設された、ル・コルビュジェ設計の｢ユニテ・ダビタシオン｣が有名である。</div><div>　ユニテ・ダビタシオンとは、住む組織体、あるいは住居単位と訳すが、広がる都市の中でのコンパクトで快適な暮らしの共同体の単位を意味している。建築規模は長さ165、幅24、高さ56ｍ。鉄筋コンクリート造。住戸数377戸。住戸は独身者用から大家族用までの各種タイプがある。標準型住戸は吹き抜けと二階付き。室内の天井高は4.8ｍ、窓幅3.66ｍ。最大1600人が住める。</div><div>　建物全体の床部分はしっかりとしたコンクリートの柱で持ち上げられており、地面部分は玄関ホール、自動車と自転車の駐車スペースのみである。</div><div>　中間の共同施設階には、ホテル・肉屋・雑貨屋・パン屋・スーパーマーケット・オフィス・郵便局などがあり、この階には外部から直接、外階段によってアクセスできる。また、屋上には、保育園・遊び場・プール・体育館・300ｍトラック・野外劇場などがある。</div><div>　この住宅には現在も人びとが住み、快適に暮らしている。</div><div>　日本においてもコルビュジェ以前に、同潤会江戸川アパートメントが1934年に建設されている。家族向け126戸、独身向け131戸、店舗向け1戸、その他2戸の総戸数260戸の規模であった。アパートメントの地階には共同浴場(男女50㎡ずつで定員各30名)・理容室、一階にレストラン食堂(客席数90、バーカウンター併設。一日の利用客数300人)、二階に社交室(100㎡の洋風ホールと12畳の和室)があり、屋上には共同洗濯場と物干し台、中庭には中央花壇とこどもたちのための木馬・メリーゴーランド・ブランコ・すべり台・ジャングルジムが設けられていた。</div><div>　この住宅は2003年に取り壊された。</div><div>　同潤会は1924年、関東大震火災(1923年9月1日)復興のために設立された団体であり、その多様な事業(住宅建設や社会福祉)を果たした後、｢一般住宅の供給｣を目的とした。江戸川アパートメントはその一新した同会の都市型・鉄筋コンクリート造｢一般集合住宅｣の最初の清新な取り組みであったという。設計コンセプトは、中産階級の家族の都市生活の器づくりとし、設計者はニューヨークで試みられていた集合住宅プランを参考にしという。</div><div>　このように、二十世紀前半の震災が契機となって、大正末期から昭和初期にかけての日本のモダニズムが開花している。そのモダニズムが今日の文明の先駆けとなった。</div><div><br /></div><div><b>(Ｅ)魚つき林(うおつきりん)と鎮守の森</b></div><div>　海岸に面してこんもりと茂った鎮守の森がある。</div><div>　漁村民によって新調された鳥居のすぐ前には、タブノキ・シロダモ・ヤブツバキなどの常緑広葉樹(照葉樹)が生い茂っている。これらの樹木は、今日の植物学おいて、日本本来の｢潜在自然植生｣であるといわれ、古くからこの森が守られてきたものであることの証拠となる。</div><div>　この森を｢魚つき林｣と言うと、古老の漁師が教えてくれた。</div><div>　昔から、漁師たちには、｢海岸近くの森林が魚を寄せる｣という言い伝えがあって、そのために海岸林や離れ小島の森林を守ってきた。そのような森林が、往々にして神社林のように大切に扱われ、小さな祠(ほこら)が祭られ、｢鎮守の森｣になったという。</div><div>　今日の生態系では、樹木や草木が大小の動物や昆虫の餌となる他、葉を落とし、分解されて土の養分となり、ふたたび植物を育て、一部の養分は水とともに川を下って海に至り、海のプランクトンや海草・海藻の栄養分となる。それを魚介類が食べて育つとする。</div><div>　だから、｢魚つき林｣なのだ。</div><div>　日本の森の再生活動を指導されている植物学者の宮脇昭さんによると、その土地本来の植生である常緑広葉樹が深く根を張ってくれるから、土砂崩れを防ぐことができるように、その土地本来の森こそが、地震・台風・火事に耐えうるちからをもつと言う。</div><div>　その森が日本には縄文の昔からあり、国土を守ってきた。それが｢鎮守の森｣であると言い切る。(縄文一万年。この間、日本列島各地はどれほどの大災害に見舞われてきたことであろうか。それを耐え抜いてきたものだけが、日本固有の植生となったのだ。だから強くないはずがないのだ)</div><div>　この｢鎮守の森｣こそが、生態学的に調査した日本国土の｢潜在自然植生｣と一致している森なのだ。その植生の森は強い。そうして、宮脇さんは日本本来の植生であるシイ・タブノキ・カシ類を中心とした森づくり活動を実践している。</div><div>　森とは木が集まっただけのものではなく、高木・低木・下草、さらには野鳥や昆虫、地中の小さな生きもの群、カビ・バクテリア、それに水中の生きものと、森に暮らす各種けもの類を含めた共同体社会であるから、森が強いことは、自然共同体そのものが豊かで強いということである。</div><div>　日本人は森を切り開いて水田としてきたが、それでも賢明なる祖先は必ずふるさとの木による森の生態系モデルを残してきた。それが｢鎮守の森｣となった。</div><div>　このように風土の木を守ることは、自然の足腰を強くする願いそのものであり、すべての生きものの固有の住環境を人間の手で守ることである。</div><div>　そこに、もう一つの確かな祈りがある。</div><div><br /></div><div>　高野の森で、｢空飛ぶ鳥、地にもぐる虫、水中を泳ぐ魚、林に遊ぶけものたち、すべてこれわが四恩なり。同じく共に一覚に入らん｣と、空海は祈る。</div><div><br /></div> ]]>
        
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    <title>東北復興に見える新たな差別 永年「負の歴史」を背負ってきた東北に終止符をNew</title>
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    <published>2012-04-09T02:37:53Z</published>
    <updated>2012-04-09T02:44:00Z</updated>

    <summary>　未曾有の大震災で被災した東北の人たちが、取り乱すこともなく、騒動もなく、冷静沈...</summary>
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        <![CDATA[<div>　未曾有の大震災で被災した東北の人たちが、取り乱すこともなく、騒動もなく、冷静沈着に、我慢強く、秩序を保ち、そして励まし合い、譲り合い、助け合い、悲しみに耐えてがんばっている姿に、海外のメディアから賞賛の声があがった。</div><div>　その被災者の姿に、宮本常一が言った「忘れられた日本人」を思い出したのか、傷を負った「母なる国」ニッポンが見えたのか、あるいは被災地の「ただならなさ」に心をゆさぶられたのか、皆が久しぶりに連帯感をおぼえ、年末京都清水寺の管長をして一文字「絆」を書かせた。ややもすれば自分勝手な個人主義に走り、地方の町でさえ隣人互助の意識が薄くなった日本人に、いざとなれば皆が連帯していたわり合う共同体意識がまだ残っていたのだ、この国も捨てたものではない、とうれしくもなった。</div><div><br /></div><div>　しかし時が経って１年後の今、義援金は激減し、「がんばろう東北」フィーバーは冷め、「絆」どころか東北へのいたわりや支援は影をひそめ、あろうことか「東北＝放射能」の（過剰不安のなせる風評被害や）いわれなき差別が起きている。</div><div>　余震も大幅に減り、空間放射線量も一部を除いておおむね通常のレベルになり、鉄道や道路も被災地以外は復旧したというのに、観光客は元に戻らず、観光地のホテル・旅館・物産店・食堂ほか関連業者は四苦八苦。一部は休業や廃業に追い込まれた。今の時期に物見遊山で東北に入るのは東北の人に失礼ではないか、という上等な遠慮ではない。まるで東北全体が放射能汚染地域であるかのような、気分的で言いがかり的な東北忌避である。</div><div><br /></div><div>　福島県は依然放射能汚染と風評被害にさらされていて、県産の農産品は安全なものまで不買差別を受け、スキー場に人影はなく、福島の故に縁談を断られたり、避難先（他県）の学校では福島からきたというだけで避けられいじめに遭う児童すらいる。</div><div>　宮城・岩手のガレキを受け入れる自治体はなかなか現われず、受け入れ先として名前の挙った自治体では反対の声があがるなど、まるで普天間基地の移転にどこの自治体も手を挙げないでいる差別構図と同じである。</div><div><br /></div><div>　放射能に汚染されていない災害廃棄物ぐらい、処理可能な施設をもつ自治体は率先して受け入れたらどうか。被災地の復興はガレキの処理から始まるのだ。ガレキを受入れないのは畢竟「東北は復興しなくてもいい」と言っているに等しく、放射能汚染を疑う住民の理解が得られないという理屈は、災害廃棄物の安全性確認と説明の努力不足を棚に上げ、受入れ賛成の民意には背を向け、反対住民に便乗して自ら放射能の風評被害を煽ぐことになり、つまりは「放射能被害は東北だけが受け持て」と言っているのと同じだ。</div><div>　こうした新たな差別をつくり、傷ついた東北に受けた傷以上の痛手をさらに背負わせ、何が「絆」か。あれほど言っていた「がんばろう東北」は口だけで、本音は「保身差別」なのだ。自分さえよければいい保身エゴに溺れる人は、海外メディアが称賛した東北の人たちから何を学んだのか。豊かな野も山も清流も放射能で汚され、いわれなき風評被害に今なお悩む準被災地から、そう言いたくなる。</div><div style="text-align: center;">◇</div><div>　それでも東北はへこたれない。強くて前向きである。たしかに日本人の多くは災害の際に取り乱さないし、我慢もするし助け合いもする。しかし東北の被災者はその日本人の善良な気質をはるかに越えている。すべてをあるいは多くのものを失った喪失感やいわれなき差別のなかで、悲痛でありながら絶望もせず前向きである。いったい、このへこたれない強さは何か。</div><div>　察するに、厳しい気候風土、豊かでなかった生活、永年背負ってきた「負の歴史」等から学び身につけた忍耐、クラッシュからの再生、いざという時に連帯して助け合う地縁・血縁の共同体、そうした自衛の知恵というか危機対応力が具わっているのではないか。</div><div><br /></div><div>　東日本大震災復興構想会議の委員を務める、作家で臨済宗福聚寺住職（福島県三春町）の玄侑宗久師は言う。</div><div>　「今回、被災した人々の状況がさまざまに報道され、国内だけでなく国際的にも大いに称讃されたことを、我々は肝に銘じなくてはならない。世界が称讃したのは、東北人が農民や漁民として培い、今なお保ってきた忍従の徳、あるいは天災を従容と受けとめる謙虚だが力強い姿ではなかっただろうか。</div><div>　この国の主流が、経済原理に基づく競争原理で都市を形成しているとすれば、東北にはまだ別な世界が色濃く残っている。「絆」とか「共生」などと敢えて呼ぶまでもなく、協働の思想が彼らのなかには当然のこととして今なお息づいているのである」と。</div><div>　さらにまた、「東北は、常に体制から遅れ、体制を陰で支え、また時には体制から攻められるものとしてあった。ヤマトタケルや坂上田村麿の蝦夷征伐に象徴されるように、東北人はいつも主流を脅かす異端として存在してきた。同時に東北は、広く縄文文化の土壌であり、狩猟採集という、自然と共に生きる暮らしを脈々と受け継いできた。縄文時代には人間同士の殺し合いが一件も見つかっていないが、そのこともこの地方の文明の基本的性格を物語るものだろう」</div><div>と言っている。</div><div style="text-align: center;">◇</div><div>　思えば東北は、永く「負の歴史」を背負ってきた。時の政権によく攻められ服属・同化（五戦五敗）させられてきた。</div><div>　「負の歴史」は、古代ヤマトタケル（日本武尊）による日高見国（ひたかみこく、蝦夷の地、東方の辺境、実際には陸奥国）の蝦夷平定にまでさかのぼる。以来ずっと、蝦夷と「中央」政権は、反乱と鎮圧・懐柔・服属をくり返し、鎮圧のたびに蝦夷の民は畿内周辺や西日本に封じられ、「中央」への同化を強制させられた。</div><div><br /></div><div>　弘法大師空海の出自である讃岐の佐伯氏は、やはり朝廷に服属した蝦夷の民で讃岐に封じられた一族だといわれているが、おそらくヤマトタケルによって伊勢神宮に献じられた蝦夷の俘囚のうち、翌年讃岐などに移された佐伯部ではないかと思われる。しかし空海の父善通は在地の豪族の佐伯直を名乗っていたことから、空海が生れた頃には讃岐の佐伯氏は俘囚の身を脱し、讃岐の佐伯部を管掌する身分だったとみられる。</div><div><br /></div><div>　ちょうどその空海が、唐に渡ろうという時代、道奥（みちのく＝辺境・異境＝陸奥）では、「まつろわぬ民（＝朝廷に服属しない民＝蝦夷）」の反乱が起こっていた。首領は胆沢（いさわ、今の奥州市）の豪族だったアテルイで、その軍勢を、征夷大将軍坂上田村麻呂が延暦２１年（８０２）に攻略し、胆沢城を築いた。しかし、みちのく蝦夷の反乱はこれで収まったわけではなく、弘仁２年（８１１）、文室綿麻呂が事態を平定するまで、朝廷と蝦夷の紛争は続いた。</div><div><br /></div><div>　さらに、前九年の役（天喜４年（１０５６）～康平６年（１０６３））と後三年の役（永保３年（１０８３）～寛治元年（１０８７））を経て、陸中平泉を本拠とし奥州を支配した藤原氏は、清衡・基衡・秀衡・泰衡の四代が、百年にわたって独自の政権を維持し文化の華を咲かせた。とくに仏教文化はめざましく、長治２年（１１０５）、平泉に最初院（後の中尊寺）を建立し、永久５年（１１１７）に毛越寺を再興して壮大な伽藍と庭園を造営した。天治２年（１１２４）には中尊寺の金色堂も建立された。堂内には阿弥陀三尊が祀られ、宇治の平等院と並んでわが国屈指の浄土様式建築となった。</div><div>　しかし、この独自の政権もやがて「中央」政権との軋轢に巻き込まれ、関東（鎌倉）の背後に独自の政権があるのを恐れた源頼朝によって滅ぼされる。やはり、みちのくは「中央」から見て服属させるものであった。</div><div><br /></div><div>　余談ながら、奥州藤原氏はもともと、「中央」藤原氏の末流であり、俘囚の長頭（トップ）といわれ、初代の清衡の出自清原氏も出羽国の俘囚長であった。</div><div>　さらに、明治新政府が、戊辰・会津両戦争に敗れた会津藩に下した挙藩流罪は過酷だった。旧会津藩士とその家族１万７千人は虜囚となり、下北半島は斗南の不毛原野に追いやられた。入植した藩士たちの生活は困窮を極め、開墾は進まず、干物にした海草や木の実を食べて飢えをしのぎ、老いた犬の肉まで口にしたという。</div><div><br /></div><div>　斗南藩の権大参事をつとめた山川浩は、</div><div>　　　みちのくの　斗南いかにと　人問わば</div><div>　　　　　神代のままの　国と答えよ</div><div><br /></div><div>と言い残した。</div><div>　薩長を中心として西日本から東上してきた官軍は、みちのくの会津藩には容赦がなかった。維新の志士を徹底弾圧した会津藩への怨念や報復だけではなかったろう。</div><div style="text-align: center;">◇</div><div>　厳しい気候は近代になっても東北にたびたび凶作をもたらした。「やませ」による冷害である。昭和５年～９年に発生した昭和東北大飢饉は、餓死者を多く出したばかりでなく、米がとれなかった農家では稗（ひえ）や粟やキビなどで飢えをしのぎ、それでもなお食べられない時は、口減らしのために男児を丁稚奉公に女児を女中奉公に出し、年頃の娘を身売りし、赤子を川に流して間引きもした。この東北の窮状は、それを見かねた石原莞爾ほか東北出の軍人を動かし、（戦争特需をもくろんだのか）満州事変につながったといわれる。時代は少し前だが、石川啄木は、</div><div><br /></div><div>　　はたらけど　はたらけど</div><div>　　　　わが生活楽にならざり　ぢっと手を見る</div><div><br /></div><div>と詠み、テレビドラマになった「おしん」も明治期の東北農民の貧しさと悲しさを今に伝えた。</div><div><br /></div><div>　私たちの世代（戦中生れ）ならおそらく、中学時代の友のなかに中卒で東京（の個人経営の商店など）に住込み就職した人がいたことをおぼえているであろう。東北ではそれが集団就職であったし、井沢八郎の「あヽ上野駅」だった。東北の十五の春は、安い賃金で文句も言わず長時間働く労働力を、大挙して首都圏に供給する春でもあった。</div><div>　この時代、集団就職者のための「若い根っこの会」ができ、「根っこの家」を中心に親睦・激励・支援等の活動を行った。なかでも東北出身者のつながりは強く、辛い者同士の励ましの場になった。ふるさと東北にもあったであろう「結（ゆい）」（農作業の互助）や「講」（伝統文化や祭り事の実施）や「組」（隣人や同業者の互助）といった一種の共同体を思わせるものだった。</div><div><br /></div><div>　さらに高度経済成長期になると、雪の季節、東北の働き手の男たちはこぞって首都圏の建設現場に出稼ぎに出て季節雇いの労務にはげみ、日雇い並みの賃金を大事に貯めては家族に仕送りをした。家に残ったジイちゃん・バアちゃん・カアちゃんの「三ちゃん」は、働き手が出稼ぎから帰るまで田畑の世話をし農作業をうけもった。これが「三ちゃん農業」といわれたものである。</div><div>　父親が出稼ぎに出た家の中学校１年生の子が綴った文に、「もう荷物はなかった。たばこくさいにおいもなかった。・・・母の顔もゆがんでみえた。涙のでるのをこらえてねどこにはいった」とある。</div><div>　出稼ぎはやがて常態化・長期化し、働き手は１年に一度２年に一度、お正月などに帰省するだけになった。「涙のでるのをこらえてねどこにはいった」次世代も都会での稼ぎや暮しのよさを敏感に感じ取り、高校を出ると東京の大学や職場をめざすようになった。こうして東北の農業は高齢化・空洞化し、人口は過疎化に拍車をかけることになったのである。</div><div style="text-align: center;">◇</div><div>　大震災後、独自の「東北学」の立場からその発言が注目されている赤坂憲雄氏（民俗学者・学習院大学教授・東日本大震災復興構想会議委員・福島県立博物館長）が共著『東北再生』のなかで、</div><div>　「この大震災によって、白河以北／以南のあいだに太い線引きがなされ、東北はあらためて辺境＝みちのく（道の奥）として再発見されたのかもしれない。千数百年前のヤマト王権による「蝦夷征討」以来、東北は辺境＝みちのくとしての負の歴史を背負わされてきた。近代のはじまりの戊辰戦争においても、奥羽越列藩同盟を結んで戦い、敗北した。</div><div>　東北はそうして、敗者の精神史に縛られ喘いできた。敗戦にいたるまで、東北における国家的な開発プロジェクトはたったひとつ、明治１０年代の野蒜築港であり、それは台風の高潮によって挫折を強いられた。しばしば自嘲のごとくに、戦前の東北は、東京への貢ぎ物として「男は兵隊、女は女郎、百姓は米」を差し出してきた、と語られる。そんな東北はもはや過去のものだ、東北は十分に豊かになった、と感じ始めていた。錯覚であった、大震災がそれをむき出しにした。</div><div>　戦後の東北は、電気と部品と食料を東京への貢ぎ物としていたのである。東北の豊かさは、なんと危うい構造のうえに築かれているのか。東京に電気を送るための原発を受け入れるのと引き換えに、福島県の相双地方には、わずかな物質的豊かさが与えられた。そこはかつて、「浜通りのチベット」と言われていたらしい。やはり原発を受け入れてきた青森県の下北半島と、構造は瓜二つといっていい」</div><div>と訴えている。</div><div><br /></div><div>　また、先程の玄侑宗久師は復興構想会議で、</div><div>　「漁民が恵比寿神を祭るなら農民も稲荷神を祭る。特に漁村などでは正月１４日までに葬儀をすると神さまの機嫌を損ない、船の安全が脅かされるとさえ考える。いわば彼らの独特の信心が、経済原理や効率主義に従わせないのである。</div><div>　彼らの心根が、そのような信仰、つまり自然に対する畏敬の念によって形成されたのは明らかだろう。また農業の「結い」や漁業の引き網における協力を持ちだすまでもなく、彼らにおいて人との繋がりは当然のことなのである。</div><div>　そこから導かれる復興構想の基本理念は、東北人に色濃く残っている「自然への畏敬」、および共同体の尊重だろうと思う。自然は、畏れ宥めるものであって、敵対し、戦って勝とうという相手ではない。また人間は、同じ畏れの元で助け合い、和合しつつ暮らす存在である。むろんこれは、日本人すべてに本来は当て嵌まるはずなのだが、残念ながら無意識なほどに西欧化し、効率化した現代日本にはむしろ稀な考え方になってしまった」</div><div>と提言している。</div><div><br /></div><div>　『東北再生』の共著者山内明美氏は言う。「ここは、地獄絵図のような生き死にの紡がれた歴史のなかで、くり返し死の淵から再生をとげてきた場所だからだ。「東北」はきっと再生する」と。</div><div style="text-align: center;">◇</div><div>　このたびの大震災はあろうことか、永年「負の歴史」を背負ってきた東北にまたもや大きな試練を与えた。願わくば、この試練が歴史の転換点となり、「中央」服属の「負の歴史」に終止符が打たれることと、東北が自然への畏敬を忘れることなく、その気候・風土・伝統・文化に根ざした独自の産業・経済を発展させる「イーハトーブ」（宮沢賢治）を実現するよう願ってやまない。</div><div><br /></div><div>　私たち（僧侶）は、東北復興について至って微力であるが、常に瞑目して殉難者や被災・避難の人たちの悔しさ・悲しさに寄り添い、それを「代受」する地蔵菩薩の三昧に励みながら、もし口を開くなら、口先の「がんばろう」とか「絆」ではなく（それが建前だということを東北の人はすでに見透かしている）、東北の人たちが思い出させてくれた「忘れられた日本人」（宮本常一）や、かすかに見えた「母なる国」日本や、先人たちがそこに神々を見て敬った穢れなき山や川や野や海を、２１世紀に生きる私たちが科学を妄信し放射能で汚してしまった罪と業の深さを言い、それを語り継いでいきたい。</div> ]]>
        
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    <title>空海の詩文に読む｢生命の秩序｣</title>
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    <published>2012-02-01T09:04:30Z</published>
    <updated>2012-04-09T02:43:09Z</updated>

    <summary>Ⅰさとりと福祉此の法は即ち仏(ぶつ)の心(しん)国の鎮(ちん)なり。氛(ふん)を...</summary>
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        <category term="北尾克三郎のページ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[<div><b>Ⅰさとりと福祉</b></div><div><div><br /></div></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div><div>此の法は</div></div><div><div>即ち仏(ぶつ)の心(しん)</div></div><div><div>国の鎮(ちん)なり。</div></div><div><div>氛(ふん)をはらい</div></div><div><div>祉(さいわ)いを招くの摩尼(まに)</div></div><div><div>凡(ぼん)を脱(まぬ)がれ聖に入るのキョ径(きょけい)なり。</div></div><div><div>(性霊集　巻第五)</div></div><div><div>　　</div></div><div><div>&lt;現代語訳&gt;</div></div><div><div>わたくし空海が修得した仏法(密教)は</div></div><div><div>ブッダの教えの本質であり</div></div><div><div>この教えこそが国を鎮護する。</div></div><div><div>また、あらゆる災いを取りはらい</div></div><div><div>人びとの福祉を増進させ</div></div><div><div>凡夫のさとりを可能にするものである。</div></div></blockquote><div><div><br /></div><div>　空海がその生涯において創作した詩文をまとめたものが『遍照(へんじょう)発揮性霊(しょうりょう)集』である。遍照とは空海の灌頂(かんじょう)名であり、いのちのもつ無垢なる知の光りが世界を遍く照らすという梵語｢ビルシャナ｣の訳語。大日如来のことを指す。知の光りが発揮されたまことの心の詩文集という意味。</div><div>　その性霊集の巻第五の｢本国の使に与えて共に帰らんと請う啓｣の一節である。</div><div>　中国に渡った空海は、留学一年目の春に長安の醴泉寺(れいせんじ)にいたインド僧の般若三蔵(はんにゃさんぞう)と牟尼室利(むにしり)三蔵から、まず、外国語(日本にいたときに、中国語は会話・文章力ともすでに身に付け、梵語もその基本をマスターしていたから、ここではインド伝来の密教をくまなく理解、修得するための梵語、すなわちサンスクリット)の実践語学力とバラモン哲学を学び、その熟達度を通して、聡明さと本人のもつその稀有な宗教的器量が認められて、青龍寺の恵果(けいか：密教第七祖)和尚からは、初夏から初秋にかけて、『大日経』と『金剛頂経』双方の教えと儀軌(ぎき)のすべてを伝授されることになった。</div><div>　こうして、短期間のうちに密教の正式な相承者になった空海は、秋には、未だ日本に伝えられていなかった多くの経典を寝食を忘れて読み、書写し、その意味を学び記し、また、世界の本質を示す、胎蔵と金剛界の大曼荼羅を描き、新仏法請来のための資料づくり作業に入ることになる。</div><div>　だが、恵果和尚がその年の暮れに、｢早く郷国に帰って、もって国家を奉り、天下に流布して蒼生(そうせい：民衆)の福(さいわい)を増せ｣と空海に遺言して入滅してしまった。</div><div>　恵果の死によってインド伝来の密教第八祖になった空海は、郷国に帰って、一刻も早く師匠の命(めい)を果たさなければならないという使命を担うことになったのだ。</div><div>　そうした折に、たまたま新皇帝即位のお祝いにやって来た日本国の使節が長安に入った。そこで、空海は二十年の留学期間を短縮して二年で帰国できるように申請書をもって願い出る。(そうして、空海は首尾よく帰国する船に乗ることになるー)</div><div>　その帰国申請書の文面に、授かった新仏法の意義を端的に綴った一節である。</div><div>　さて、文面によると、空海の修得した最新の仏法(密教)では｢人びとの福祉を増進させるということと、自己のもついのちの無垢なる知に目覚めることとは同じである｣と説いているとある。</div><div>　どのような理由でそうなるのか、そのことについての高木さんは、おおよそ次のような見解を述べられている。</div><div>　｢わたくしの心(主体知)、そうして衆生の心(客体知)、そうして絶対者である仏の心(すべてのいのちが生まれながらにしてもつ無垢なる知、すなわち絶対知)、この三つの心はですね、本質的、本来的に、絶対に平等であるという考え方です。人間も石も木も草も、つまり自然界全部を含めたあらゆる存在は、本来的には一体であり、すべては尊厳なるいのちのもつ無垢なる知を共にしているという考え方。この考え方が基本となって｢即身成仏(そくしんじょうぶつ：この身を含め、生きとし生けるものと自然界は、そのままにしていのちが共通してもつ無垢なる知によって繋がっているとさとること)｣が可能になるのです。そのような｢即身成仏｣の理念によって、仏の心を発揮するというのが仏法の本質ですから、社会的な関わりにおいて、すべてのものの福祉(さいわい)を増すという、そういうはたらきが必ず出てくる｣と。</div><div>　その福祉の精神にもとづく社会事業の具体的な例が、空海の行なった万濃池(まんのういけ)の修築であり、教育の機会均等を実現した｢綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)｣という私立の大学の創設であるとも。</div><div><br /></div><div><b>Ⅱ共に生きる知(五智)</b></div><div><br /></div></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div><div>弟子空海</div></div><div><div>性熏(しょうくん)我れを勧(すす)めて</div></div><div><div>還源(げんげん)を思いとす。</div></div><div><div>経路(けいろ)未だ知らず</div></div><div><div>岐(ちまた)に臨(のぞ)んで幾たびか泣く。</div></div><div><div>精誠感(せいせいかん)ありて</div></div><div><div>此の秘門を得たり。</div></div><div><div>文(ぶん)に臨(のぞ)んで心昏(しんくら)く</div></div><div><div>赤県(せっけん)を尋(たず)ねんことを願う。</div></div><div><div>(性霊集　巻第七)</div></div><div><div><br /></div></div><div><div>&lt;現代語訳&gt;</div></div><div><div>弟子であるわたくし空海は</div></div><div><div>自分に具(そな)わる仏性をはげまし</div></div><div><div>すべての知の根源に至る道を探してきた。</div></div><div><div>しかし、その求める道が見い出せずに</div></div><div><div>道にさ迷い、幾たび泣いたことか。</div></div><div><div>するとわたくしのまことの心が通じて</div></div><div><div>『大日経』の経典に出会った。</div></div><div><div>しかし、その教えを学ぶには高度の梵語力と儀軌の修得が不可欠であったので</div></div><div><div>中国に留学することを決意した。</div></div></blockquote><div><div><br /></div><div>　性霊集の巻第七の｢四恩(しおん)の奉為(おんため)に二部の大曼荼羅を造る願文(がんもん)｣の一節である。前章で空海の中国留学のことを述べたが、その留学を決意したいきさつを記したものである。</div><div>　そのように苦労して日本に持ち帰った曼荼羅が描かれてから十八年を過ぎて、絹破れ、彩色落ち、諸尊図も擦れてきた。そこで多くの人びとの心を合わせて、修復することになった。</div><div>　その完成時の願文である。</div><div>　(因みに、この願文の後半に次のような一節がある。｢身分高き者も、賎しき者も、僧も俗人も財を喜捨し、労力をささげるはたらきを為し、ある者は筆をとって描き、ある者は針をとって表装を手伝い、木を切り、水を汲み、食事の用意をし、味をととのえた者も、すべての人びとが心からよろこび、手を合わせ、祈る｣と。ここに、無垢なる知によって仏法に仕える民衆のすがたがあるー)</div><div><br /></div></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div><div>修行の人</div></div><div><div>すべからく本源を</div></div><div><div>了すべし。</div></div><div><div>もし本源を了ぜんずば</div></div><div><div>学法に益なし。</div></div><div><div>いわゆる本源とは</div></div><div><div>自性清浄の心なり。</div></div><div><div>(一切経開題)</div></div><div><div><br /></div></div><div><div>&lt;現代語訳&gt;</div></div><div><div>道を求め修行する人は</div></div><div><div>かならず、知の根本を</div></div><div><div>求めるべきである。</div></div><div><div>もし、知の根本を求めなければ</div></div><div><div>いくら学問をやっても役に立たない。</div></div><div><div>その知の根本とは</div></div><div><div>すべてのいのちが生まれながらに具(そな)えもつ無垢なる知のことである。</div></div></blockquote><div><div><br /></div><div>　一切経開題の｢一切経｣とは、初期仏教経典である阿含経をはじめ、後代の大乗経典、それに律蔵と論蔵という、膨大なテキストを集めた仏典の総称である。したがって、それらの仏典を集約して解説したものが当開題となるが、その中の一節である。</div><div>　本源というのは、本来のありようのことであり、それを求めるのが道であり、その真実を求めないのであれば、いくら学問をやってもそれは益のないことだと説く。では、その本源の特質とは何なのか、それが自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)であるという。</div><div>　自性とは、因縁を越えてもとから具わっている本性のことであり、その本性はもともと清浄なるものなのであると。</div><div>　それが無垢なる知なのである。</div><div><br /></div></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div><div>三昧(さんまい)の法仏(ほうぶつ)は</div></div><div><div>本(もと)より我が心(しん)に具(ぐ)し</div></div><div><div>二諦(にたい)の真俗(しんぞく)は</div></div><div><div>倶(とも)に是常住(これじょうじゅう)なり</div></div><div><div>禽獣(きんじゅう)卉木(きもく)は</div></div><div><div>皆是れ法音(ほうおん)なり</div></div><div><div>(性霊集　巻第三)</div></div><div><div><br /></div></div><div><div>&lt;現代語訳&gt;</div></div><div><div>すべてのいのちが生まれながらにしてもつ無垢なる知が</div></div><div><div>わが心にも具(そな)わっているように</div></div><div><div>真実の世界と現実の世界は</div></div><div><div>一つになって常に存在している</div></div><div><div>(そのことと同じように)鳥獣草木の自然の声は</div></div><div><div>すべて、いのちのもつ無垢なる知の言葉である</div></div><div><div>(その言葉がわが心の中にもある)</div></div></blockquote><div><div><br /></div><div>　性霊集の巻第三の｢中寿感興の詩｣の序の一節である。中寿とは四十歳の節目を祝う当時の習わしであり、空海はその感想を次のような詩にして各方面に送っている。</div><div><br /></div></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div><div>黄葉索山野　黄葉山野に索(つ)くるも　</div></div><div><div>蒼蒼豈始終　蒼蒼(そうそう)豈(あに)始終あらんや</div></div><div><div>嗟余五八歳　嗟(ああ)余五八の歳　</div></div><div><div>長夜念圓融　長夜に円融を念(おも)う</div></div><div><div>浮雲何處出　浮雲何(いづ)れの処よりか出づ　</div></div><div><div>本是浄虚空　本(もと)是れ浄らかな虚空</div></div><div><div>欲談一心趣　一心の趣を談ぜんと欲すれば　</div></div><div><div>三曜朗天中　三曜天中に朗(あき)らかなり</div></div><div><br /></div><div><div>&lt;現代語訳&gt;</div></div><div><div>黄に色づいた葉が山野に散り果てても</div></div><div><div>青い天空には始まりもなければ終わりもない</div></div><div><div>ああ、わたくしは四十の歳</div></div><div><div>秋の夜長に執着のない円満で融通無礙なる自然を想う</div></div><div><div>浮き雲はどこから現われたのか</div></div><div><div>本来は清らかな虚空なのに</div></div><div><div>今のわたくしの心境を語るとすれば</div></div><div><div>日と月と星がくっきりと輝く、澄み切った天空のようだ</div></div></blockquote><div><div><br /></div><div>　以上のような詩の序文に綴られたのが、｢鳥獣草木の自然の声｣とその奥にある｢いのちのもつ無垢なる知の言葉｣を説く一節である。</div><div>　ここに説かれたいのちのもつ無垢なる知が、密教の説く｢五智(ごち)｣であり、その五智そのものの象徴が大日如来となり、法身(ほっしん)仏となった。その法身の声、あるいは法身の言葉が法音である。</div><div>　その言葉が、本来わが心にも具わっているし、鳥獣草木にも具わっているという。</div><div>　では、｢五智｣とは何を指すのか、それを空海は以下のように分類して説く。その分類と今日の科学者の説く、生物学的な知の分類は限りなく近い。</div><div><br /></div><div>　一、法界体性智(ほっかいたいしょうち)：いのちの存在そのものを司る｢生命知｣</div><div>　二、大円鏡智(だいえんきょうち)：生きる根幹となる呼吸・睡眠・情動を司る｢生活知｣</div><div>　三、平等性智(びょうどうしょうち)：衣食住の生産とそれらの相互扶助を司る｢創造知｣</div><div>　四、妙観察智(みょうかんざっち)：万象の観察・記憶・編集を司る｢学習知｣</div><div>　五、成所作智(じょうそさち)：姿勢・運動・作業・所作・遊びを司る｢身体知｣</div><div><br /></div><div>　以上の五つの知が、いのちが生まれながらに具えもつ無垢なる知なのであると。</div><div>これらの知をもつものが共に生きることによって、自然界が保たれている。</div><div><br /></div><div><b>Ⅲ共に生きるいのちのすがた(法身)</b></div><div><br /></div></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div><div>法身(ほっしん)何(いず)くにか在る</div></div><div><div>遠からずして</div></div><div><div>即ち身(しん)なり。</div></div><div><div>智体(ちたい)何(いか)ん</div></div><div><div>我が心にして</div></div><div><div>甚(はなは)だ近し。</div></div><div><div>(性霊集　巻第七)</div></div><div><div><br /></div></div><div><div>&lt;現代語訳&gt;</div></div><div><div>いのちのありのままのすがたを象徴するビルシャナ如来は何処におられるのか</div></div><div><div>それは遠き彼方ではなく</div></div><div><div>わが身体の中におられる。</div></div><div><div>その如来の示されるいのちの無垢なる知は、なんと</div></div><div><div>わが心の中にあり</div></div><div><div>とても近い。</div></div></blockquote><div><div><br /></div><div>　性霊集の巻第七の｢平城の東大寺にして三宝(さんぽう)を供する願文｣の初めの一節である。</div><div>　｢仏弟子の修行僧なる者、仏(いのちの無垢なる知のすがた)と法(いのちの無垢なる知)と僧(その無垢なる知にしたがって生きることを実践する共同体の人びと)の三宝に深く帰依します｣の後につづくー</div><div>　ここでいう法身とは東大寺のビルシャナ(梵語：光明遍照と訳す)如来を指す。</div><div>　ビルシャナ如来とは大日如来のことであり、その詳名は、</div><div>　｢常住(じょうじゅう)三世(さんぜ)浄妙(じょうみょう)法身(ほっしん)法界体性智(ほっかいたいしょうち)大ビルシャナ自受用(じじゅゆう)仏｣という。</div><div>　すなわち、永久に過去・現在・未来にわたる存在であって、浄らかにして妙(たえ)なる法身、それはいのちそのものの存在を司る生命知であり、その知によってすべてのいのちのありのままのすがたが地上に顕われているが、その絶対的ないのちの象徴としての尊格がビルシャナである。</div><div>　つまり、法身とは｢すべてのいのちが共に生きるために、生まれながらに具えもつ無垢なる五つの知(五智)のはたらき｣によって顕われる、いのちのすがたである。</div><div>　このすがたを、空海は｢五智｣よりなる｢四種法身(ししゅほっしん)｣として説き、それは、今日の科学者の説く、生物の分類要素に似ている。</div><div><br /></div><div>　一、自性(じしょう)法身：あらゆるもののそれ自体の本性となる、無垢なる知を発揮するいのちの存在そのもの。(そのいのちが次のようなすがたを顕わしている)</div><div>　二、受用(じゅゆう)法身：個体としてのすがた。</div><div>　三、変化(へんげ)法身：遺伝の法則によって変化していく個体のすがた。</div><div>　四、等流(とうる)法身：多様な種のすがた。</div><div><br /></div><div>　以上の四種によって、いのちはそれぞれのさまざまなすがたかたちを顕わし、共に生きている。そのありのままのいのちの存在が｢法身｣なのである。</div><div><br /></div><div><b>Ⅳ心と自然と言葉</b></div></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div><div><br /></div></div><div><div>乾坤(けんこん)は</div></div><div><div>経籍(けいせき)の箱なり</div></div><div><div>万象(ばんしょう)、一点に含む。</div></div><div><div>(性霊集　巻第一)</div></div><div><div><br /></div></div><div><div>&lt;現代語訳&gt;</div></div><div><div>世界は</div></div><div><div>いのちのもつ無垢なる知が言葉となって綴る本箱</div></div><div><div>万象といえども、一点の言葉｢ア｣から出て、また、そこに帰っていく。</div></div></blockquote><div><div><br /></div><div>　性霊集の巻第一の｢山に遊びて仙を慕う｣の詩の一節である。</div><div>　空海が遊仙詩に託して大道を説いたものであり、その序文において、仏道の世界を指し示すとともに、俗世間の煩わしさを悲しみ、自然界に無常の思いを託そうとしたとある。</div><div>　その中で、自分は山に入って自然の声を聞く、その声とはいのちのもつ無垢なる知の言葉であり、その言葉によって世界が分別され、それらに名まえが付けられたから、世界が生まれた。</div><div>　その言葉、もしくは文字のすべては、｢ア｣の一点に帰っていく。</div><div>　つまり、言葉が先にあったのではなく、いのちのもつ無垢なる知が先にあって言葉が出てきたし、その言葉そのものは、自然の声のひびき｢ア｣の一点から始まったということを述べている。</div></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div><div><br /></div></div><div><div>夫(そ)れ境(きょう)は</div></div><div><div>心(しん)に随(したが)って変ず。</div></div><div><div>心垢(けが)れれば</div></div><div><div>即ち境濁(にご)る。</div></div><div><div>心は境を逐(お)って移る。</div></div><div><div>境閑(しずか)なれば</div></div><div><div>即ち心朗(ほが)らかなり。</div></div><div><div>心境冥会(しんきょうみょうえ)して</div></div><div><div>道徳玄(はるか)に存す。</div></div><div><div>(性霊集　巻第二)</div></div><div><div><br /></div></div><div><div>&lt;現代語訳&gt;</div></div><div><div>自然環境というものは</div></div><div><div>心にしたがって変わるものなのだ。</div></div><div><div>心が汚れていれば</div></div><div><div>環境は濁るし</div></div><div><div>その濁った環境に心は引きずられる。</div></div><div><div>環境が閑(しずか)であれば</div></div><div><div>心は朗らかになり、澄んでくる。</div></div><div><div>(そのように)心と自然環境が奥深く結びついているから</div></div><div><div>いのちのもつ無垢なる知と、そのはたらきである徳とが存在することになる。</div></div></blockquote><div><div><br /></div><div>　性霊集の巻第二の｢沙門勝道(しゃもんしょうどう)山水を歴(へ)て玄珠(げんしゅ)をみがくの碑｣の序の一節である。</div><div>　勝道上人の日光開山の登山記を知人から頼まれ、空海が執筆したものであるが、その出だしに上記のような明解な環境論を展開している。</div><div>　このような思想は、山林修行者の心境からでしか生まれないものであり、空海自身が若き日に、山のやぶを家とし、瞑想を心として、山林に入り修行したということを述べているから、心と自然環境と関わりを空海は熟知していたのだ。</div><div>　だから、本文において、日光山における勝道上人の行状をまるで見ていたかのように記述できた。そこには、上人と同じ澄んだ目と心をもって、美しい日光山に同行している空海がいたー</div><div><br /></div><div><b>Ⅴ生きる行為</b></div><div><br /></div><div>　　　閑林(かんりん)に独坐す</div><div>　　　草堂の暁(あかつき)</div><div>　　　三宝(さんぽう)の声一鳥(いっちょう)に聞く</div><div>　　　一鳥声あり</div><div>　　　人心(ひとこころ)あり</div><div>　　　声心雲水(せいしんうんすい)</div><div>　　　倶(とも)に了々(りょうりょう)</div><div>　　　　(性霊集　巻第十)</div><div><br /></div><div>　　　&lt;現代語訳&gt;</div><div>　　　閑(しずか)な山林の中の草堂に</div><div>　　　独(ひと)り坐っていると、明けがたのしじまを破って</div><div>　　　ぶっぽうそう(仏法僧＊)と啼く、鳥の声が聞こえてきた</div><div>　　　このように、鳥ですら無垢なる知の声を発しているのだから</div><div>　　　人の心に無垢なる知が存在しないことがあるだろうか</div><div>　　　鳥の声と、人の心と、美しい天地</div><div>　　　それらが一体化して、今、ここにある</div><div>　　　＊仏と法と僧、これを三宝という。</div><div><br /></div><div>　性霊集の巻第十の｢後夜(ごや)に仏法僧の鳥を聞く｣詩。</div><div>　明けがたに草堂で坐禅をしていると、ぶっぽうそうと啼く鳥の声(客体)を聞いた。その鳥の声に啓発されて、山中に居る自分の心(主体)に気づかされた。その瞬間、主体と客体は一体となり、そこに美しい自然(絶対空間)が広がった。そのような明瞭な心境を詠じたものである。</div><div><br /></div><div>　今日の脳科学によれば、左脳の言語野と対になる右脳部分は、行動する身体とその周囲の空間(環境)との位置関係を立体的に把握する機能を果たしているという。ということは、その右脳によって認識された場面がまず先にあって、そこで起きている出来事を分別・文脈化したものが、左脳の言語となったのだ。</div><div>　その言語が発達し、知識による世界が構築されると、人間は手っ取り早く、その知識だけによって物事の判断をし、コミュニケーションを取るようになった。</div><div>　そうなると、右脳による身体と空間からのもともとの場面体験は疎まれるようになり、左脳中心の偏重社会が進行することになる。</div><div>　だから、人は時として、何か研ぎ澄まされた精神状態の場を得て、身体とその身体の置かれた空間にはっと目覚め、言語の原点に立ち帰らなければならない。</div><div>　坐禅をしている身体と、明けがたの空間で啼く鳥の声と、その鳥の声(ひびき)が伝える仏法僧の意味とが、山林の中に、はっきりと存在していたと空海は綴っている。</div><div>　そこにさとりの世界がある。</div><div><br /></div><div><b>あとがき</b></div><div>　この論考のテキストは、ＮＨＫ教育テレビの｢こころの時代｣で、平成八年に放映された｢空海の声を聞く－弘法大師の詩文から－｣という高木訷元(しんげん)さんの講話による。</div><div>　高木訷元さんは高野山大学学長を昭和六十二年から六年間務め、その後も高野山での研究生活をつづけられていたが、平成二十三年に山を降り、島根の自坊に帰寺されたと聞く。空海の著述に詳しく、特に書簡の詳細な読解には定評がある。</div><div>　その空海研究の第一人者が、空海自らが生存中にどのような言葉をもって、人びとに仏法を説いたかを語ったものである。</div><div>　改めてその講話を聞いてみると、空海の詩文から的確に密教の教えを解説されており、それらの言葉は大変魅力的である。そこで、その詩文をテキストとして、わたくしも空海の声を聞いてみようと思った。</div><div>　そうして、次のような理解を得た。</div><div>　一、仏法はその本質において、｢いのちのもつ無垢なる知｣に目覚める教えであるから、その無垢なる知の特質の一つである自他の互助精神(慈悲)によって、必ず福祉というはたらきが出てくる。</div><div>　二、人間を含め、あらゆる生きものには、共に生きるための｢いのちのもつ無垢なる知｣が生まれながらに具わっている。その知の根本｢五智(ごち)｣に目覚めることが道を求めることである。</div><div>　三、｢いのちのもつ無垢なる知｣によって共に生きている、人間を含めたあらゆる生きもののありのままのすがたを｢法身(ほっしん)｣という。その法身によって、自然界が保たれている。</div><div>　四、自然界の声は｢いのちのもつ無垢なる知｣の言葉であり、人間はその言葉を自然の声のひびき｢ア｣の一点から始めることによって言語化した。だから、言葉によって世界を理解している人間の心と自然環境とはもともと同じものである。</div><div>　五、生きる行為の要素は三つである。個体としての身体行為(姿勢と動作と空間)と、その個体がコミュニケーションする手段として用いる発声(言語)行為と、その身体と言語の行為が共鳴することによって、その場に生起する精神行為(心と意味)である。</div><div>　というようなことである。</div><div>　これらは、あるがままに生きる｢生命の秩序｣の事柄であると思う。生命のもつこの真実の世界と現実の世界は、一つになって常に存在していると空海は教える。</div><div>　貴重な学びの機会を師から与えていただいた。</div><div>　尚、詩文の現代語訳は筆者による。</div><div><br /></div></div>]]>
        
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    <title>『空海ノート』補記　「空海と深くかかわった渡来系氏族とその周辺」</title>
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    <published>2012-01-27T08:02:58Z</published>
    <updated>2012-04-10T02:27:25Z</updated>

    <summary>　弘法大師空海の生涯には終始、東アジアの渡来系氏族との関係が色濃くあった。従来の...</summary>
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        <category term="長澤弘隆のページ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[<div><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;">　弘法大師空海の生涯には終始、東アジアの渡来系氏族との関係が色濃くあった。従来の空海伝（とくに仏教学系のもの）は、古代の日本と東アジアの文明交流史に関心が薄く、空海と東アジアの渡来系氏族のかかわりについてあまり言わないのだが、空海の出自から仏教修学や山林修行、さらに入唐留学や帰国後の活動、また高野山の造営や東寺の密教化や潅漑用水・港湾の修築まで、その生い立ちや行動のかげには、４～６世紀、朝鮮半島や中国などから渡来し、農耕・土木・養蚕・機織・鉱山・治水・製銅・精錬・冶金・工芸・酒造・製塩・船運等の技術で富を築き、経済力を背景にヤマト王権以降の朝廷や西日本各地の地方豪族に大きな影響力をもった渡来系氏族のサポートがあった。また空海には、彼らがもたらした宗教が日本化するかたちで陰に陽に影響を与えている。</span><div>　空海と最も深いかかわりをもったのは渡来系氏族の代表格でもある秦（はた）氏であった。その秦氏とは、空海の時代、婚姻等を通じて親縁の関係にあった藤原氏、また秦氏と当初から深い結びつきのある和気氏、さらに空海の母の出自の阿刀（安斗、阿斗、安刀、安都、あと）氏、そして高野山麓の丹生（にう）氏などとの縁も無視できない。</div><div>　以下、それぞれの概要と空海との関係、さらにその周辺について略記してみる。</div><div><br /></div><div><b>◆秦氏</b></div><div>◇秦氏のルーツ</div><div>　秦氏は、『日本書紀』によると、応神１４年の条に、弓月君（ゆづきのきみ）という人が百済から１２０県の民を連れてきて帰化したことが記され、平安初期の古代氏族名鑑『新撰姓氏録』には、応神１４年、秦始皇帝の５代あとの孫融通王（弓月王）が、１２７県の百姓を率いて帰化したことを伝えている。秦氏はこの弓月君をもって祖とするという。</div><div>　秦氏のルーツには、中国春秋時代に滅んだ呉・越の流浪の民である（越出身の者は銅の生成に優れる）とか、秦始皇帝にさかのぼるなど諸説あるが、新羅あるいは加羅（百済と新羅の間にあった朝鮮半島南部の国、伽耶ともいう）だという説が有力といわれている。</div><div><br /></div><div>　秦氏のルーツ説に関して興味深いのは、かの「日ユ（日本・ユダヤ）同祖論」を提起した佐伯好郎博士の「弓月」国ルーツ説および秦氏＝ユダヤ人景教徒説である。</div><div>　「弓月」国は、中央アジア、今のカザフスタン東部にあるバルハシ湖の南方に、１～２世紀に存在したといわれる小さなキリスト教国で、中国語でクンユエといわれる。クンユエには「ヤマトゥ」（「神の民」の意）という地名があり、「ヤマトゥ」が「やまと」になったともいう。この「弓月」国の民が、実は景教徒、すなわち空海が留学先の長安で見聞したはずの大秦寺の、あるいは華厳・密典・サンスクリットの師般若三蔵に聞いたはずの、ネストリウス派キリスト教の信徒たちであったという。</div><div>　ネストリウス派は、４３１年エフェソス公会議で異端とされ、ローマからシリア・ペルシャへ、そしてシルクロードを経て中国に流浪するのだが、ユダヤ教の色彩が濃く、「弓月」国の景教徒は古い頃イスラエルを追われた初期のユダヤ系キリスト教徒ではないかともいわれている。</div><div>　空海は、このネストリウス派のキリスト教を長安の大秦寺（大秦寺の旧名は「波斯（経）寺」で、「波斯」とはペルシャを意味し、「大秦」はローマ帝国をいう）で見聞し、般若三蔵からその大秦寺の僧景浄（アダム）を紹介されていたはずである。般若は、その景浄と胡本（ソグド語版）の『六波羅蜜（多）経』を漢訳し、それが不備であったため、のちに梵本（サンスクリット版）から再度訳出した。空海はこの漢訳を般若三蔵の原本から書写したのであろう、長安から持ちかえって『御請来目録』に載せている（『大乗理趣六波羅蜜（多）経』）。</div><div>　景浄は、唐の長安にネストリウス派のキリスト教が布教されていたことを石碑に書いて残している。空海がそれを見ていたかどうかは不明だが、今、西安市の碑林博物館に安置されている大秦景教流行碑がそれである。そしてそのレプリカが、明治時代、『弘法大師と景教の関係』を著したイギリス人のＥ・Ａ・ゴルドン夫人によって高野山奥之院に建てられている。</div><div><br /></div><div><br /></div><div style="text-align: center;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="kukai_1.jpg" src="http://www.mikkyo21f.gr.jp/image_item/atcl-image/kukai_1.jpg" width="500" height="185" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span></div><div style="text-align: center;"><span class="Apple-style-span" style="color: rgb(51, 51, 102); font-size: 10px; "><b>高野山奥之院、大秦景教流行碑レプリカとＥ．Ａ．ゴルドン夫人の墓</b></span></div><div style="text-align: center;"><font class="Apple-style-span" color="#333366"><br /></font></div><div style="text-align: center;"><font class="Apple-style-span" color="#333366"><br /></font></div><div>　秦氏とユダヤ教・イスラエルの関係について、もう一つ興味深いのは、秦氏の根拠地となった山背国（山城、今の京都）の太秦に秦河勝が建てた氏寺広隆寺があり、それに隣接してある秦氏ゆかりの通称「蚕の社」（木嶋坐天照御魂神社（このしまにますあまてるみたまじんじゃ）境内の湧水「元糺の池」のなかに建つ「三柱鳥居」（みはしらとりい）の三角形がユダヤ教やユダヤ民族のシンボルである「ダビデの星」に同じで、しかもその三角形は広隆寺を中心に東南東の稲荷山（伏見稲荷大社）、西南の松尾山（松尾大社）、そして北の双ヶ丘を指している、という説がある。この三所はいずれも秦氏の重要な聖地である。</div><div><br /></div><div>◇豊前の「秦王国」と水銀鉱脈</div><div>　秦氏の祖先はおそらく、九州の筑前（那ノ津、今の博多）から入ったであろう。『隋書』倭国伝にいわれる「秦王国」（豊前（今の福岡県南部から大分県にまたがる地域）が有力）は最初に秦氏が定住していた地にちがいない。そこにはまた、中央構造線に沿うかたちで水銀の鉱脈が走っていて、同じ頃丹生氏も肥前からこの地に移住してきていたといわれている。</div><div>　この「秦王国」にはまた、後述する八幡神や弥勒や虚空蔵の信仰など、新羅に発する諸信仰の事蹟がある。</div><div><br /></div><div>　その後、秦氏の一団は、四国の伊予・讃岐、中国の長門・周防・安芸・備前・播磨・摂津を経て畿内に入り、河内から山背（山城）に至って太秦に本拠を構え、さらに北陸の越前・越中や東海の尾張・伊勢・美濃、そして東国の上野・下野から出羽にまで進出した。</div><div>　そのうち讃岐では、空海の出自である佐伯氏領する多度郡真野（まんの）の東方の中讃地域に居住した。この地は、空海の時代にはすでに水田開発に条里制が採り入れられていた。これもヤマト王権の時代この地に定着した秦氏の農業技術がもたらしたものであろう。讃岐平野は秦氏の潅漑技術、とりわけ農業用水を池に溜め、それを広く田畑に引きまわす農業土木術の恵みで古くから潤った。讃岐佐伯氏の本家筋にあたる佐伯直のいた播磨にも同様の水田開発がみられる。赤穂では製塩や船運が秦氏によってはじめられたという。</div><div><br /></div><div>　この讃岐の秦氏からは、空海の弟子で太秦広隆寺の中興となった道昌や、東寺の長者や仁和寺の別当などを歴任し空海のために弘法大師の号を奏上した観賢が出ている（観賢は大伴氏という説もある）。</div><div><br /></div><div>◇秦氏の神「八幡神」</div><div>　ところで、空海の母の「阿古屋（あこや）」を「玉依（たまより）姫」と尊称する。</div><div>　「玉依（タマヨリ）」は神の名で、玉依毘売命・玉依日売命（タマヨリヒメノミコト）・活玉依毘売命（イキタマヨリヒメノミコト）であり、海神（ワタツミノカミ）の娘・豊玉姫命（トヨタマノヒメノミコト）の妹である。吉野の水分（みくまり）神社や京都の下鴨神社は祭神としてこの「玉依（姫）」を祀っている。</div><div>　また「タマヨリ」は、「霊依（タマヨリ）」であり、「憑依」「魂憑」、すなわち神霊神威が依り憑くこと。「ヒメ」はその依り憑く巫女、あるいは乙女の意味である。</div><div>　さらに「玉依（姫）」には子供を産む女性特有の能力が強く反映されている。神話の「海幸彦・山幸彦」に出てくる綿津見大神（海神、ワタツミノカミ）の娘の例はこの代表的な事例である。</div><div>　「タマヨリ」の女性は神との婚姻による処女懐胎によって神の子を身ごもったり、選ばれて神の妻となったりする。そのような巫女的霊能のある女性を「玉依」と呼ぶことがある。</div><div><br /></div><div>　空海の母は、実家跡といわれる今の多度津町仏母院近くの八幡社に子宝授与を祈願して空海を身篭ったという（仏母院に伝わる空海誕生伝説）。この八幡社は、多度津町の海べりに鎮座し応神天皇と神功皇后・比売神を祀る熊手八幡宮の分社で、熊手八幡宮はおそらくこの地一帯の秦氏の産土神（うぶすなかみ）であった。秦氏の奉ずる八幡神（やはたのかみ）は、後に弓矢神すなわち武神・軍神となったが、その原初は銅や鉄を産する神だった。民俗学者柳田国男はこれを鍛冶の神と言ったが、熊手八幡宮の八幡神は秦氏の治めるこの土地の（領有の）神であるとともにお産の神（産神）であったと思われる。八幡宮はみな応神天皇を主祭神とし神功皇后（応神天皇の后）と比売神（ひめかみ、主祭神の娘等）をともに祀るのだが、神功皇后が応神天皇の母であることから母子神ともいわれる。</div><div><br /></div><div>　さて秦氏が奉じた八幡神についてである。八幡宮の総本社である宇佐神宮のある大分県宇佐市のあたりは昔の豊前すなわち「秦王国」で、渡来した秦氏の民が多く住むところであった。</div><div><br /></div><div><br /></div><div style="text-align: center;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="kukai_2.jpg" src="http://www.mikkyo21f.gr.jp/image_item/atcl-image/kukai_2.jpg" width="500" height="132" class="mt-image-none" style="" /></span></div><div style="text-align: center;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><br /></span></div><div style="text-align: center;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;">
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<p class="MsoNormal"><span style="font-size: 9pt; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" color="#333366"><b>宇佐八幡宮　　　　　　　　　　　　　　　　　</b></font></font><span lang="EN-US"><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" color="#333366"><b><o:p></o:p></b></font></font></span></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" color="#333366"><b>熊手八幡宮</b></font></font></span></p>

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</form>
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<p class="MsoNormal"><span style="font-size:9.0pt;font-family:&quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;"><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>

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</div><div><br /></div><div><br /></div><div>　ある説によれば、この土地に秦氏系の渡来氏族辛嶋（からしま）氏があって、新羅からきてこの地の河原に住んだという「香（鹿）春」（かはる、かわら）の神を奉じ、その神とともに宇佐郡に移って定着し、その「香春神」にヤマト王権の使いできた大神比義（おおみわ（九州では、おおが）のひぎ）が応神天皇の霊を付与して「ヤハタの神」（＝香春八幡神）としたという。</div><div>　香春神とは辛国息長大姫大目命（からくにおきながおおひめおおめのみこと）。「辛国」（からくに）は加羅の国。すなわち加羅から渡来した神である。辛国息長大姫大目命を祀る香春神社（辛国息長大姫大目神社）は、古来銅の産出で有名な香春岳の山麓にある。ほかに忍骨命（おしほねの）・豊比売命（とよひめのみこと）を祀る。息長大姫大目命・忍骨命・豊比売命について諸説あるが、ともに整合性のある説ではない。「香春」（かはる）はもともと「カル」。「カル」は、金属とくに銅のことである。</div><div><br /></div><div>　「辛嶋」（からしま）とは「日本の加羅（秦の国）」という意味になろう。その辛嶋氏の加羅の国にヤマト王権（蘇我馬子）の意を受けた大神比義が派遣され、渡来の神辛国息長大姫大目命を「ヤハタの神」（＝香春八幡神）にチェンジさせたのである。</div><div><br /></div><div><br /></div><div style="text-align: center;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="kukai_3.jpg" src="http://www.mikkyo21f.gr.jp/image_item/atcl-image/kukai_3.jpg" width="500" height="185" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span></div><div style="text-align: center;"><font class="Apple-style-span" color="#333366" size="2"><span class="Apple-style-span" style="font-size: 10px; "><b>
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<p class="MsoNormal"><span style="font-size: 9pt; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b>　　　　　　香春神社　　　　　　　　　　　</b></font><span lang="EN-US"><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><o:p></o:p></b></font></span></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b>香春神社鳥居と香春岳　　　　　</b></font></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b>新羅国神の字が見える石碑</b></font></span></p>

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</b></span></font>
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<p class="MsoNormal"><span style="font-size:9.0pt;font-family:&quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;"><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>

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<p class="MsoNormal"><span style="font-size:9.0pt;font-family:&quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;"><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>

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</div><div><br /></div><div><br /></div><div>『八幡宇佐宮御託宣集』に、</div><div>　辛国ノ城ニ、始メテ八流ノ幡ヲ天降シテ、</div><div>　吾ハ日本ノ神トナレリ</div><div>とある。</div><div><br /></div><div>　大神比義の大神氏も辛嶋氏と同じルーツの渡来系氏族だといわれる。以後大神氏は、宇佐地域に居住するようになる（豊後大神氏）。辛嶋氏も香春の地から宇佐の地（豊後）に移っていた。</div><div>　この「ヤハタの神」（＝香春八幡神）が何度かの移座を経て神亀２年（７２５）、現在の宇佐小倉（椋）山に辛嶋勝波豆米の託宣によって遷座される。</div><div>　ここには、この地の国造宇佐氏によって信仰されていた比売神三座が馬城峯（御許山）から移されていた。その社に応神天皇の霊を付与された「ヤハタの神」が主祭神として遷座されたのである。宇佐八幡のはじまりである。ここに「秦王国」に辛嶋氏によって奉じられた渡来の神が、辛嶋氏（と大神氏）によって日本の国神（くにがみ）「八幡神」となったのである。このことは同時に辛嶋氏つまり秦氏の日本同化策であった。事実、この半世紀前の「白村江の戦」に辛嶋氏は出兵させられている。</div><div><br /></div><div>　「ヤハタ」の意味には史家の間に諸説ある。しかし、「ヤ」（八）は「弥」で、数が多いこと、幾重にも重なる様のこと。「ハタ」（幡）は「幟」「旗」で、神々が降臨する依り代。つまり「ヤハタ」とは「数多くの幡（が幾重にも重なって風になびく）」の意味で、祭祀の際に降臨する神の依り代として何本も立てる幡、と考えるのが妥当だろう。韓国で祭祀の際に数多くの旗が並び立てられる例があるのに符合する。</div><div><br /></div><div>◇秦氏のシャーマニズム、山岳信仰と弥勒信仰</div><div>　ミルチア・エリアーデの言葉を借りるまでもなく、古代のシャーマンが鍛冶師と一体であることは多くの専門家が指摘しているところである。日本で言う「巫」の周辺では、氏族神の祭祀とともに鉱山・採鉱・精錬・合金・メッキ・薬品精製・医術といったサイエンスやテクノロジーが発達していた。</div><div>　「秦王国」といわれていた豊前には、「秦氏の宗教」ともいうべき古代シャーマニズムと道教と仏教が混淆したハイブリッドな常世信仰があり、豊国奇巫（とよくにのくしかむなぎ）や豊国法師といったシャーマンが活躍していた。</div><div>　『日本書紀』の用明天皇２年４月２日条には、用明天皇の病気に際し、皇弟皇子がこの豊国法師を呼んで内裏に入れたところ、物部守屋大連が反対して怒ったことが書かれている。</div><div>　わが国への仏教公伝は、宣化天皇３年（５３８）と欽明天皇１３年（５５２）の二説（５３８説が有力）あるが、崇仏派天皇だった用明天皇が三宝（仏・法・僧）への帰依を表明しつつも、周囲の薦めで秦氏系の法師（仏教僧ではない）が内裏に招き入れられた記述から、百済系の仏教を容認したヤマト王権（蘇我氏、用明・聖徳太子）がシャーマンのもつ病魔除け呪術や医薬品の効能に期待し、豊前（秦系・新羅系）の高度な文化や医術の情報をすでにキャッチしていたことが読みとれる。</div><div><br /></div><div>　その「秦王国」には、常世信仰や山岳信仰や弥勒信仰を含む新羅系仏教が伝わっていた。新羅には古くから、熊野信仰につながる擬死再生の常世信仰があった。太子や花郎（ふぁらん）と呼ばれる山岳修行者は神が降臨した依り代とみなされ、鉱脈を探索するために山に入り、洞窟（＝穴）などに篭って斎戒修行を行った。そこに仏教の弥勒下生信仰が重なり、彼らに弥勒菩薩が降臨（憑依）することから、彼らは弥勒の化身だといわれるようになった。</div><div>　豊前には英彦山という日本の代表的な修験の霊山がある。この英彦山には、弥勒菩薩の浄土（兜率天）内院の四十九院に付会した四十九窟がある。その英彦山と、英彦山で修行し「法医」とまでいわれた法蓮という僧（辛嶋氏系宇佐氏の氏寺・虚空蔵寺の座主や宇佐八幡宮の神宮寺・弥勒寺の別当）と、宇佐八幡宮の八幡大菩薩にかかわる弥勒信仰の伝承には、秦氏がもたらした新羅の仏教が大きく影を落としていた。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="kukai_4.jpg" src="http://www.mikkyo21f.gr.jp/image_item/atcl-image/kukai_4.jpg" width="500" height="185" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span><span class="Apple-style-span" style="color: rgb(51, 51, 102); font-size: 10px; "><b><p class="MsoNormal" style="margin-top: 0px; margin-right: 0px; margin-bottom: 0.75em; margin-left: 0px; border-top-width: 0px; border-right-width: 0px; border-bottom-width: 0px; border-left-width: 0px; border-style: initial; border-color: initial; padding-top: 0px; padding-right: 0px; padding-bottom: 0px; padding-left: 0px; font-size: 1em; display: inline !important; "><span style="font-size: 9pt; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><span style="font-size: 9pt; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b>&nbsp;　　　　　　英彦山登山口、銅の鳥</b></font></span><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b>&nbsp;


　　　　　　　　　　　</b></font></font></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">英彦山中岳山頂</font></font></b></font></span></p></b></span></div><div><div style="text-align: center; "><font class="Apple-style-span" color="#333366" size="2"><span class="Apple-style-span" style="font-size: 10px; "><b><p class="MsoNormal" style="margin-top: 0px; margin-right: 0px; margin-bottom: 0.75em; margin-left: 0px; border-top-width: 0px; border-right-width: 0px; border-bottom-width: 0px; border-left-width: 0px; border-style: initial; border-color: initial; padding-top: 0px; padding-right: 0px; padding-bottom: 0px; padding-left: 0px; font-size: 1em; "><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "></font></span></p></b></span></font>
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<p class="MsoNormal"><span style="font-size:9.0pt;font-family:&quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;"><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>

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<p class="MsoNormal" style="margin-top: 0px; margin-right: 0px; margin-bottom: 0.75em; margin-left: 0px; border-top-width: 0px; border-right-width: 0px; border-bottom-width: 0px; border-left-width: 0px; border-style: initial; border-color: initial; padding-top: 0px; padding-right: 0px; padding-bottom: 0px; padding-left: 0px; font-size: 1em; font-weight: normal; "><span style="font-size: 9pt; font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; "><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p><p class="MsoNormal" style="margin-top: 0px; margin-right: 0px; margin-bottom: 0.75em; margin-left: 0px; border-top-width: 0px; border-right-width: 0px; border-bottom-width: 0px; border-left-width: 0px; border-style: initial; border-color: initial; padding-top: 0px; padding-right: 0px; padding-bottom: 0px; padding-left: 0px; font-size: 1em; font-weight: normal; "><span style="font-size: 9pt; font-family: 'ＭＳ Ｐゴシック'; "><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p></div></div><div><br /></div><div><br /></div><div>　この秦氏の弥勒信仰はやがて、秦氏が本拠地とした山背太秦に秦河勝（はたのかわかつ）が建てた蜂岡寺（後の広隆寺）の本尊弥勒半跏思惟像や、聖徳太子の伝建立七寺の本尊弥勒半跏思惟像や、平城京の官大寺に流行した弥勒信仰や、空海の弥勒信仰にも大きな影響を及ぼした。</div><div><br /></div><div>　余談ながら、秦氏が豊前の地に展開した宇佐八幡やシャーマニズムから想い起されるのは、神護景雲３年（７６９）に起きた宇佐八幡宮神託事件とその主役の道鏡の雑密呪術である。道鏡は大和の葛城山に篭り、雑密の宿曜法に習熟したという。葛城山は役行者以後葛城修験の道場となるが、役行者以前から豊前の英彦山の山岳修行と同系の山中篭行が行われていた。かれは山中篭行を行うなかで、すでに日本に伝えられていた雑密系の修法を身につけたのであろう。当時としては新しい雑密呪術を駆使して度々霊験を顕わしたのか、天皇の病気平癒を担うシャーマンの役を与えられたのである。かれは女帝孝謙上皇（後に重祚して称徳天皇）の看病禅師として宮中に出仕し、雑密呪術を以て上皇の病気を治し妖僧とまでいわれた。</div><div>　上皇の信頼を得た彼は、「藤原仲麻呂の乱」を経て、復位した称徳天皇の側近となり、天平神護元年には僧侶でありながら太政大臣となり、翌年法王の座に上りつめ、朝廷の実権をにぎった。</div><div>　神護景雲３年（７６９）、兄道鏡の栄達とともに出世の道を急速に進んだ実弟で、大宰帥（大宰府の長官）大納言弓削浄人（ゆげのきよひと）と、大宰主神（だざいのかんずかさ、大宰府の神祇長官）だった（中臣）習宜阿曽麻呂（（なかとみの）すげのあそまろ）が道鏡を皇位につけることをもくろみ、道鏡を皇位につけることが神意にかなう旨の宇佐八幡の神託を朝廷に奏上した。宇佐八幡は早速、称徳天皇に対し側近の女官であった和気広虫（わけのひろむし、出家して法均）を派遣するよう求めたが、からだが弱かったため代りに弟の和気清麻呂が宇佐八幡に下向した。</div><div>　ところが、大神の禰宜・辛嶋勝与曽女（からしまのすぐりよそめ）への託宣で、道鏡を皇位につける神託は偽りだということがわかり、清麻呂は帰ってそれを称徳に報告すると、道鏡を皇位に就けたかった称徳は怒り、清麻呂を改名までさせて大隈国へ配流してしまった。その翌年に称徳天皇が崩御すると道鏡の権勢は急速に衰え、やがて下野国の薬師寺へ左遷され没した。</div><div><br /></div><div>　秦氏は技術力・開発力・経済力・宗教文化によって大きな富と権勢を得、その隠然たる力をもって朝廷のさまざまな氏族と混淆したが、徹底して政権の表舞台には立たなかった。同系の山岳信仰をもつ氏族として道鏡の栄華と失脚を他山の石として見ていたのかもしれない。渡来人の氏族には、謂われなき冤罪で非業の死を遂げた人材が数々あった。分をわきまえることに敏だったのだろう。</div><div><br /></div><div>◇秦氏の虚空蔵信仰</div><div>　先に述べた辛嶋氏の本拠地辛嶋郷に宇佐地方で最初に建てられた仏教寺院を虚空蔵寺といった。７世紀末、白鳳時代に辛嶋氏と宇佐氏によって創建され、壮大な法隆寺式伽藍を誇ったという。その別当には、英彦山の第一窟（般若窟）に篭って修行したシャーマン法蓮が任じられた。宇佐八幡宮の神宮寺である弥勒寺はこの虚空蔵寺を改名したものである。</div><div>　虚空蔵寺の寺名になぜ虚空蔵菩薩の名が用いられたかは謎であるが、秦氏には、蚕神や漆工職祖神として虚空蔵菩薩を敬う職能神の信仰があった。</div><div>　まず、虚空蔵寺の別当に任じられた法蓮という花郎（ふぁらん）であるが、このシャーマンは７世紀半ば（６７０頃）に、飛鳥の法興寺で道昭に玄奘系の法相（唯識）を学び、先に述べた「秦王国」の霊山香春山では日想観（太陽の観想法）を修し、医術に長じていたという。</div><div>　唯識（法相）に虚空蔵三昧が説かれることはあまり知られていないが、日想観を修していた法蓮が山中の洞窟で虚空蔵菩薩のシンボルたる金星（太白）を観想する占星巫術を行っていたとしてもおかしくはない。</div><div>　医術に長けていたとは、おそらくその巫術と関係があり、医術とはつまり毉術（不老長寿の道術）のことで、石薬（鉱物系の医薬）の生成とその巫術的使用を指すのであろう。法蓮という僧は、道教系雑密の毉術に長けたシャーマンであり、同時に常世の行者として金星（虚空蔵菩薩）を観想する仏教僧だったと思われる。虚空蔵寺の名は、宇佐の里にはじめて宇宙の仏が降臨したことを隠喩したのかもしれない。</div><div><br /></div><div>　飛鳥時代すでに、斑鳩の法興寺（飛鳥寺、後に元興寺）には虚空蔵菩薩があって、７世紀には大和の地に居住する渡来人たち（秦氏・東漢氏ら）、とくに製銅・製鉄・鍛冶・冶金あるいは養蚕・織物・漆製造・漆工芸を職能とする技術者の間で虚空蔵信仰があったことが知られている。</div><div>　宇佐地方でも同じことがいえるであろう。豊前地方に展開した秦氏が養蚕・織物・漆製造・漆工芸の技術に長けていたことは言うまでもない。</div><div><br /></div><div>　まず養蚕の神としての虚空蔵菩薩であるが、蚕の糞を蚕糞（こくそ）といい、虚空蔵と語呂合わせができることと、蚕は幼虫→繭→蛾と死と再生（擬死再生）を三度くりかえすので（不老不死の）常世虫といい、それが常世の神（蚕神（かいこがみ））として信仰されたことから、養蚕や絹織物に励む秦氏の民にとって、蚕（常世虫）と常世の神（蚕神）と虚空蔵菩薩は一体となったのである。</div><div>　豊前「秦王国」の香春郡には桑原という地域があり、秦氏が勢力を伸ばした大隈国にも桑原郡という郡名がある。蚕用の桑の木が一面に生い茂っている様を思い起こさせる。</div><div><br /></div><div>　また、漆工職の祖神としての虚空蔵菩薩であるが、漆工職が使う木屎（こくそ、木粉を漆に混ぜたもの）と語呂合わせができ、漆工職人とくに木地師の間では護持仏として虚空蔵菩薩が敬われている。</div><div>　『以呂波字類抄』という古文献の「本朝事始」の項に、倭武皇子（やまとたけるのみこ）が宇陀の阿貴山で漆の木をみつけ、漆を管理する官吏を置いたという記述があり、また倭武皇子が宇陀の山にきて木の枝を折ったところ手が黒く染まり、その木の汁を家来たちに集めさせ持参の品に塗ったところ美しく黒光りした。そこで漆の木が自生している宇陀郡曽爾郷（今の宇陀市曽爾村）に「漆部造（ぬりべのみやつこ）」を置いたという。これが日本最初の漆塗の伝えである。</div><div>　宇陀の地には紀伊に入った秦氏が古くから移り住んでいた。右の伝承の「漆部」（ぬりべ）とは漆器製作の職掌の品部であり漆部連（ぬりべのむらじ）や漆部造（ぬりべのみやつこ）が伴造（とものみやつこ）として支配した。伴造の主なものは渡来系氏族があるが、この宇陀の地では秦氏以外に考えられない。</div><div><br /></div><div>　京都嵯峨（嵐山）に行基が建立した葛井寺（ふじいでら）に、貞観１６年（８７４）、虚空蔵菩薩を祀って寺を再興し、寺名を法輪寺に改めたのは讃岐国香川郡の秦氏を出自とする道昌であった。道昌は空海の同郷の弟子である。法輪寺のある一帯は、ほど近い太秦を本拠地とする秦氏の勢力圏であった。道昌は、秦氏が５世紀後半に桂川に築造した葛野大堰の後を受けて承和年間に大堰川の堤防を改修し、承和３年（８３６）には太秦広隆寺の別当となっている。爾来、法輪寺は漆寺といわれるようになり、漆工職の信仰を集めることになった。</div><div>　余談ながら、嵯峨（嵐山）の法輪寺から南に下ると秦氏一族の氏神（大山咋神（おおやまくいのかみ）＝松尾山の神）を祀る京都最古の神社松尾大社がある。大宝元年（７０１）、秦忌寸都理（はたのいみき、とり）が社殿を建立し、松尾山山頂の磐座（いわくら）から神霊を移したのが開基である。</div><div>　秦氏は酒の醸造技術ももたらした。中世以降秦氏に由来する醸造祖神として、杜氏など酒づくりに携わる人たちから敬われるようになった。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="kukai_5.jpg" src="http://www.mikkyo21f.gr.jp/image_item/atcl-image/kukai_5.jpg" width="500" height="132" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span><span class="Apple-style-span" style="color: rgb(51, 51, 102); font-size: 10px; "><div style="text-align: center;"><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><p class="MsoNormal" style="display: inline !important; "><span style="font-size: 9pt; "><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">　　　　　松尾大社　　　　　　　　　　　　</font></b></span></p><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><p class="MsoNormal" style="display: inline !important; "><span style="font-size: 9pt; "><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">嵐山渡月橋からの法輪寺（漆寺）</font></b></span></p></b></font></font></b></b></font></font></b><span class="Apple-style-span" style="font-size: 10px; "><b><p class="MsoNormal" style="margin-top: 0px; margin-right: 0px; margin-bottom: 0.75em; margin-left: 0px; border-top-width: 0px; border-right-width: 0px; border-bottom-width: 0px; border-left-width: 0px; border-style: initial; border-color: initial; padding-top: 0px; padding-right: 0px; padding-bottom: 0px; padding-left: 0px; font-size: 1em; font-weight: normal; border-style: initial; border-color: initial; display: inline !important; "><span style="font-size: 9pt; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b></b></font></font></span></p><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><p class="MsoNormal" style="display: inline !important; "><span class="Apple-style-span" style="font-size: 10px; "><b></b></span></p><b><p class="MsoNormal" style="margin-top: 0px; margin-right: 0px; margin-bottom: 0.75em; margin-left: 0px; border-top-width: 0px; border-right-width: 0px; border-bottom-width: 0px; border-left-width: 0px; border-style: initial; border-color: initial; padding-top: 0px; padding-right: 0px; padding-bottom: 0px; padding-left: 0px; font-size: 1em; font-weight: normal; border-style: initial; border-color: initial; display: inline !important; "><span style="font-size: 9pt; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b>&nbsp;</b></font></font></span></p></b></b></font></font></b></span></b></font></font></b></b></font></font></b></b></font></font></b></div></span><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><p></p></b></font></font></b><span class="Apple-style-span" style="color: rgb(51, 51, 102); font-size: 10px; "><div style="text-align: center;"><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><p></p><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><p></p></b></font></font></b><b><p></p></b><p></p></b></font></font><p></p></b></div></span></div><div><br /></div><div><br /></div><div>◇秦氏の勤操・護命と空海の虚空蔵求聞持法</div><div>　若き日の空海に虚空蔵求聞持法を教えたのは、空海にとって公私にわたる大外護者ともいうべき大安寺の勤操であり、実質的な恩師ともいうべき元興寺の護命であったが、この二人ともに出自は秦氏である。</div><div>　このうち勤操は大和国高市郡の出身で、大和国高市郡といえばその当時河内地方にかけて、渡来人（秦氏・東漢（やまとのあや）氏・東文（やまとのふみ）氏）などの一大居住地であった。</div><div>　余談ながら、高市郡に所在する久米寺で『大日経』を空海が感得する話にも勤操や渡来系の仏教僧が関与しているかもしれない。また、空海が碑銘を書いた大和益田池も久米寺南方の高市の地にある。益田池の修築になぜ空海がかかわったか。秦氏のもつ潅漑土木技術を思わないわけにはいかない。</div><div>　護命は美濃の秦氏出身である。当時秦氏は、伊勢・尾張・美濃そして北陸地方にも勢力を伸ばしていた。護命は空海が祝いの詩を送ったくらいの長寿をであったが、勤操と生きた年代がほぼ一致する同時代の人である。</div><div><br /></div><div>　私見だが、通説では、空海の虚空蔵求聞持法の師を勤操だというのであるが、私は護命だと確信している。</div><div>　その根拠は、勤操はたしかに道慈にはじまる大安寺の虚空蔵求聞持法伝持の一人ではあるが、一方、三論（大乗中観派の宗学）の論学の人で、大安寺に関係の深い吉野比曽（山）寺の「自然智宗」（神叡にはじまる虚空蔵求聞持法修行者のグループ）とのかかわりが見えないところから、勤操は虚空蔵求聞持法を含め仏教というインド的価値世界を総合的に空海に教えた人であるが、求聞持法を空海に直接伝授した人ではないと見るのが正しいだろう。</div><div>　その点護命は、元興寺（法相・倶舎）にありながら比曽（山）寺の「自然智宗」（神叡の法流）に連なり、月のうち上半は吉野の比曽（山）寺を中心に虚空蔵求聞持法を修練し、下半は元興寺で法相・倶舎の論学につとめた人で、空海はその時期、この護命の行学法を仏道修学の範としていたと思われるふしがある。おそらく空海の求聞持法と法相の実際的な指南役はこの護命であったにちがいない。『性霊集』には、８４才まで生きた護命の長寿を寿ぐ二編の詩が収められている。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="kukai_6.jpg" src="http://www.mikkyo21f.gr.jp/image_item/atcl-image/kukai_6.jpg" width="500" height="127" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 10px; "><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><p class="MsoNormal" style="display: inline !important; "><span style="font-size: 9pt; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366">&nbsp;&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; 　　　　　　吉野、比曽（山）寺跡、世尊寺</font></b></font></span></p></font></b></b></font></font></b></font></b></b></font></font></b></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 10px; "><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><p class="MsoNormal" style="text-align: center; margin-top: 0px; margin-right: 0px; margin-bottom: 0.75em; margin-left: 0px; border-top-width: 0px; border-right-width: 0px; border-bottom-width: 0px; border-left-width: 0px; border-style: initial; border-color: initial; padding-top: 0px; padding-right: 0px; padding-bottom: 0px; padding-left: 0px; font-size: 1em; display: inline !important; "><span style="font-size: 9pt; "><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" color="#333366">　　　　　　　　　　　　　　　</font></font></font></b></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366">大安寺</font></b></font></span></p></b></font></font></b></span></div><div><br /></div><div><br /></div><div>　ときに、護命が行じていた比曽（山）寺の「自然智宗」といい、虚空蔵求聞持法といい、空海が成就した室戸崎の洞窟での虚空蔵求聞持法といい、<u>「秦王国」の山岳信仰や宇佐地方のシャーマン法蓮の虚空蔵信仰と酷似している。</u></div><div>　吉野比曽（山）寺の「自然智宗」も、実は秦氏ではなかったか。吉野や宇陀方面には紀伊に入った秦氏が勢力を伸ばしている。「秦王国」から吉野に虚空蔵菩薩の信仰がもたらされても不思議はない。「自然智宗」の祖神叡は、道慈とともに高徳を賞された法相の学僧であるが、渡来系の人といわれている。空海がのめりこんだ<u>虚空蔵求聞持法は秦氏系の僧や修行者が主導</u>していたのではないか。</div><div><br /></div><div>　ついでながら、空海が私費留学生として入唐留学する際にも、勤操と護命などの秦氏系の人が陰で支えた可能性について付記しておきたい。</div><div><br /></div><div>　空海の入唐留学はあわただしかった。</div><div>　周知のように、空海は延暦２３年（８０４）５月１２日、一年遅れの第十六次遣唐使船の第一船に乗り難波ノ津から船出した。</div><div>　遣唐使団という国家的な大デリゲーションに加わるには、僧侶の場合国家認定の官僧でなければならない。官僧になるには東大寺で具足戒を受戒し、国家仏教の役所である僧綱所から度牒（身分証）を受けなければならない。空海はまだ沙弥（私度僧）の身分であった。</div><div>　空海が東大寺で具足戒を受けた時期には諸説あるが、一般によく言われている延暦２３年４月７日説が、遣唐使船乗船まであと１ヵ月というあわただしさこそ空海の入唐風景に似合っているという理由でも有力でかつ妥当と言っていい。</div><div>　具足戒の受戒、度牒の拝受、留学生（るがくしょう）の資格取得、在唐２０年の資金・持参品準備、そして乗船・船出。これを１ヶ月で行ったとすれば、否仮にそうでなくても、空海の入唐留学には相当の協力者が周囲にいたと考えるのが至当である。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="kukai_7.jpg" src="http://www.mikkyo21f.gr.jp/image_item/atcl-image/kukai_7.jpg" width="500" height="127" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span></div><div><!--StartFragment-->

<p class="MsoNormal" style="text-align: center;"><span style="font-size: 9pt; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366">肥前田ノ浦旧地、空海渡唐碑　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</font></b></font><span lang="EN-US"><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366"><o:p></o:p></font></b></font></span></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366">東大寺戒壇院　　</font></b></font></span></p></div><div><br /></div><div><br /></div><div>　私見だが、留学生の資格取得と在唐２０年の資金・持参品準備には、勤操のはたらきかけによる秦氏要人の援助があったと考えられる。</div><div>　勤操が秦氏の要人とともに、留学生資格取得の許可を、性急に朝廷にはたらきかけたことは想定に価する。あるいは秦氏の要人が、相当な金品を内密に使ったかもしれない。とにかく空海という逸材への期待に花が咲くかどうか、急を要することだった。</div><div>　ある説によれば、当時南都仏教界では法相宗勢力の増大に比べて三論宗の宗勢が衰えていたため、三論の有力者であった勤操が三論宗の人材補充の目的で空海を抜擢したという。仮にそうだったとしても、それはあくまで表向きの理由であって、当時の空海には三論の「空」の論理学よりも法相の精神分析学や華厳教学や『大日経』や梵字・悉曇に関心が集っていたことは想像に難くない。</div><div>　秦氏の要人らは同族系の勤操から要請を受け、在唐２０年に必要な金品を用意したにちがいない。空海はたった２年足らずで在唐２０年の留学義務を破り帰国するのだが、帰国に際して、新訳の密典・儀軌・梵字真言讃をはじめ詩文・書の書籍や絵図や法具のほか筆や墨に至るまで、多大な出費をして用意した。密教の秘奥を特例の抜擢で伝授してくれた師恵果和尚にも、青龍寺の住院にも、在唐の恩師般若三蔵にも、寄宿先だった西明寺にも、篤志の金品を特段に納めたことであろう。出国にあたって、その担当の役所・役人にも相当な賂を用意したに相違ない。交友を重ねた文人・友人らと盛大な別れの宴も催した。空海の周辺でそうした莫大な金品を短期間で準備できるのは、秦氏系の人たち以外には考えられない。</div><div>　ちなみに空海のような私費留学生の場合、朝廷から餞別として絁（あしぎぬ、紬に似た絹の織物）４０疋（＝８０反（１反は幅約１尺（３０㎝）×長さ約３丈（９ｍ）×８０）、綿１００屯（１屯＝１５０ｇの１００倍、１５㎏）、布が８０端（８０反）下賜されるのであるが、それらは彼の地で外交儀礼的交換の品として使うためのもので、長期間滞留する留学生はそれだけではとても足りず、自分の努力で相当な金品を調達しなければならなかった。</div><div><br /></div><div>　また、急を要した東大寺での具足戒の受戒と度牒の拝受には、僧綱所に護命が根回しをしていた可能性がある。</div><div>　護命は、承和元年（８３４）８４才で示寂するまで、僧綱所にも長くかかわった。大同元年（８０６）律師に任じられ、最澄の大乗菩薩戒による戒壇独立の動きには僧綱所の上席として反対したことが知られている。晩年、僧綱所では最高官の僧正に上りつめた。国家仏教の監理庁たる僧綱所で上首をつとめることは、学徳兼備である上にある種発言力や政治力も持ち合わせていなければならない。おそらく護命は律師に任じられる前から僧綱所の幹部候補生として僧綱所にかかわっていたと考えられる。役所的にはそういう気配が濃厚の人である。</div><div><br /></div><div>　空海が東大寺で具足戒を受戒したのは延暦２３年（８０４）。護命が律師になる約２年前である。護命が僧綱所の上席に対し、空海の具足戒受戒の申請裁可と同時に、度牒の申請と至急決裁をも要請したであろうことは想定可能である。上席は、護命や勤操の推薦の上、秦氏系要人の協力体制を見て、すぐに案件処理をしたにちがいない。</div><div><br /></div><div>　蛇足になるが、空海の梵字・悉曇（今でいうサンスクリット）の語学力は抜群であった。長安で醴泉寺の般若三蔵や牟尼室利三蔵から学んだことは史料などにも明らかであるが、実質的に１年程度の学習であれほどのレベルに達するはずがない。まちがいなく渡唐以前にサンスクリットの語学（文法・修辞・字体・発音・漢訳・和訳）を学んでいたにちがいない。</div><div>　では一体、どこの誰について学んだか、空海はこれを明かさなかった。察するに、天平８年（７３６）に大安寺にきて、東大寺の大仏殿の落慶導師をつとめたインド僧菩提僊那（ボ－ディセ－ナ）のサンスクリットを身近に大安寺で学びとった渡来僧の誰かであったろう。</div><div>　その時、霊仙もいっしょだったかもしれない。あるいは年齢的に霊仙の方が先に学んでいた可能性もある。この二人は、同じ第十六次遣唐使船で唐に渡り、霊仙は醴泉寺の般若三蔵のもとに留まり訳語の助手をつとめた。霊仙のかの地における栄進と悲劇的な最期については拙著『空海ノート』をご覧いただきたい。</div><div><br /></div><div>◇秦氏の稲荷信仰と東寺と空海</div><div>　松尾大社の開基である秦忌寸都理（はたのいみき、とり）の弟、秦伊呂具（はたのいろぐ）が、和銅４年（７１１）、深草の地なる伊奈利山（稲荷山）三ヶ峯に、宇迦之御魂大神（うかのみたまのおおかみ）、佐田彦大神（さたひこのおおかみ）、大宮能売大神（おおみやのめのおおかみ）を祀ったのが今の伏見稲荷大社のはじまりである。</div><div>　宇迦之御魂大神は稲荷山のある深草の地の守り神で、稲に宿る農耕の神。深草も太秦や（嵯峨の）葛野とともに、５世紀半ばには秦氏の居住するところとなっていた。この秦氏の稲荷山に立つ伏見稲荷大社と空海が密教化に努めた東寺の間に、秦氏と空海の親和関係を物語るエピソードがあった。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="kukai_8.jpg" src="http://www.mikkyo21f.gr.jp/image_item/atcl-image/kukai_8.jpg" width="500" height="185" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span></div><div><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;">
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<p class="MsoNormal" style="text-align: center;"><span style="font-size: 9pt; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366">　　　　　　　　　　　　東寺五重塔　　　　　　　　　　　　　　　</font></b></font><span lang="EN-US"><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366"><o:p></o:p></font></b></font></span></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366">伏見稲荷大社</font></b></font></span></p>

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</form>
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<p class="MsoNormal"><span style="font-size:9.0pt;font-family:&quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;"><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>

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</div><div><br /></div><div><br /></div><div>　天長３年（８２６）１１月、空海は高野山造営の多忙をぬって前年成った講堂の建立につづき、東寺にわが国初の自らの設計監理になる密教様式の五重塔（「法界体性塔」）を造るべく建設に着手した。</div><div>　南都の官大寺にはいくつも立派な五重塔が建ち並んでいるが、一層部分の四角の芯柱を本尊（金剛界大日如来）にみたて、それを中心に柱の四面を背に金剛界四仏が四方を向いて坐る配置は、東寺の五重塔にしてはじめてであった。塔そのものが大日如来（金剛界）、つまり「法界体性塔」である。</div><div>　この五重塔の用材を、空海は伏見の稲荷山から調達したのである。一説では、この稲荷山の聖域から木材を切り出したため、それがたたって淳和天皇が病気になり、朝廷は官寺である東寺の造営にかかわることであったので、その罪滅ぼしとして従五位の下の官位を伏見稲荷大社に与え、天慶５年（９４２）に正一位を、応和３年（９６３）に京の東南の鎮護の神と定めた。</div><div><br /></div><div>　この秦氏の祖霊や稲荷社を祀る伏見稲荷山は、奈良時代から鞍馬山や愛宕山とともに山中修験の聖地でもあった。空海の頃、東寺の密教僧の山林修行の場として使われていた。</div><div>　空海はすでに故郷の讃岐や大安寺の勤操や元興寺の護命や吉野の比曽（山）寺の「自然智宗」の修行者を通じ、秦氏との縁を深めていた。そしてこの頃には、嵯峨・淳和両天皇を通じあるいは朝廷の役務を通じ、官寺である東寺の造営別当として、秦氏の人と交わりが充分にあったにちがいない。</div><div>　さらに東寺の密教僧の山中修験の場として、秦氏系の神職・社家の理解と協力も得ていたであろう。秦氏の側も、嵯峨帝と空海の関係を知っていて、空海には格別に好意的であったと思われる。</div><div>　伏見稲荷山は、東寺五重塔の造営別当として空海にとって必要不可欠の山であった。空海と秦氏を触媒に東寺と伏見稲荷大社はジョイントされたのである。</div><div><br /></div><div>　東寺と伏見稲荷大社を結ぶ祭礼が今もつづいている。毎年４月下旬の最初の日曜日から５月３日まで行われる伏見稲荷大社の「稲荷祭」である。この祭礼は貞観年間（８５９～８７６）にはじめられ、天暦年間（９４７～９５７）以後恒例の大祭になった。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="kukai_9.jpg" src="http://www.mikkyo21f.gr.jp/image_item/atcl-image/kukai_9.jpg" width="500" height="127" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span></div><div><!--StartFragment-->

<p class="MsoNormal" style="text-align: center;"><span style="font-size: 9pt; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366">御旅所、東寺の東（油小路通角）　　　　　　　</font></b></font><span lang="EN-US"><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366"><o:p></o:p></font></b></font></span></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366">伏見稲荷、稲荷祭（神幸祭）</font></b></font></span></p><!--StartFragment-->

<p class="MsoNormal"><span style="font-size:9.0pt;font-family:&quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;"><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>

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</div><div><br /></div><div><br /></div><div>　この祭はもともと、５世紀頃朝鮮半島の加羅（伽耶）から渡りきてこの山背の地に定住した秦氏の怨霊を鎮め、タタリを除く「御霊会」として行われたという。おそらく秦氏がこの地に根ざすには、人種差別や階級差別や迫害や搾取の悲哀を味あわない時はなかったであろう。かれらは、未開拓であった山背の盆地を高度な農業技術によって開墾し、潅漑・農業・養蚕などを行い、氏神を祀り寺を建てた。しかし桓武の平安遷都にともない、艱難辛苦をして開拓した土地を没収されたり、朝廷貴族からは妬まれ、時には失脚・敗着・抹殺の憂目にあった。それでも秦氏は政権の表舞台に立つことなく自重・忍従の身に堪えたのである。</div><div>　「御霊会」は、平安京の民衆の間に起った魂鎮めの祭礼である。伏見稲荷山に祀られている秦氏の祖霊のうち「御霊」といわれる怨霊は、しばしば宮中や市中に疫病というタタリをもたらした。民衆は、自分たちにもふりかかる災いを避けるため、秦氏一族のための「御霊会」を「稲荷祭」に代替してはじめたのである。</div><div><br /></div><div>　弘仁１４年（８２３）正月１９日、空海は嵯峨天皇の勅により、東寺を鎮護国家の密教道場にすることを任された。その年の４月１３日、紀伊で出会った神の化身の老人が稲をかつぎ、椙の葉を持って婦人二人と子供二人をともない東寺の南門にやってきた。空海は大喜びして一行をもてなし、心から敬いながら、神の化身に飯食を供え、菓子を献じた。その後しばらくの間、神の一行は八条二階堂の柴守の家に止宿した。</div><div>　その間、空海は京の南東に東寺の造営のための材木を切り出す山を定めた。また、この山に１７日間祈りをささげて稲荷神にご鎮座いただいた。これが現在の稲荷社（伏見稲荷大社）であり、八条の二階堂は今の御旅所である。空海は神輿をつくって伏見稲荷、東寺、御旅所を回らせたのである。</div><div>　この伝説が、空海と東寺（の五重塔の用材）と伏見稲荷（山）と御旅所をつなぐエピソードである。伏見稲荷大社には明治期の廃仏毀釈まで神仏習合がつづき、荼吉尼天法を修する真言寺院の愛染寺があった。</div><div><br /></div><div>◇秦氏の製銅・冶金・潅漑・土木技術</div><div>　天平１５年１０月辛巳の詔に、</div><div><br /></div></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div><div>ここに、天平十五年歳次癸未十月十五日を以て、菩薩の大願を発し、廬舎那仏の金銅像一躰を造り奉る。国銅を尽して象を溶し、大山を削りて以て堂を構へ、広く法界に及ぼして朕が知識と為し、遂に同じく利益を蒙らしめ、共に菩提を致さしめむ。それ天下の富を有つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり。この富勢を以て、この尊像を造る。事や成り易き、心や至り難き。</div></div><div><div>・・人情に一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らむと願ふ者有らば、恣に聴せ。</div></div></blockquote><div><div><br /></div><div>とある。聖武天皇が発した東大寺大仏建立の詔である。</div><div>　天平１７年（７４５）にはじめられた東大寺の廬舎那仏の鋳造には、７３万７５６０斤（４４２５３６ｋｇ）の塾銅（にぎあかがね、精錬銅）が使われた。この大量の塾銅を供出したのは秦氏の勢力下の（先に触れた）豊前国「秦王国」の香春山と長門国の榧ヶ葉山（採鉱）と大切谷（精錬）（後の長登銅山）の技術者集団だった。</div><div>　豊前・豊後に展開した渡来系辛嶋氏・大神氏の技術者たちは宇佐八幡の鎮座する宇佐の地に住していたが、銅をはじめとする金属の鉱床を求めて、親和の間柄であった筑前の海洋氏族宗像氏に導かれ、長門・周防の地へ、さらには日本海沿岸へと移動していた。</div><div><br /></div><div>　宇佐の秦氏は銅の供出で大仏造顕に協力したばかりでなく、「我、天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、我が身を草木に交えて障ることなくさん」との宇佐八幡の神託を発し、莫大な資金と資材と人夫を要するためこの国家事業を聖武天皇のわがままだと反発する朝廷貴族を押さえ込んだ。</div><div>　この褒美として、大仏開眼供養会の際には聖武上皇や孝謙天皇などとともに宇佐の八幡神が輿に乗って大仏殿に入御し、八幡神には封戸（ふこ）８００と位田（いでん）６０町が贈られ、後には東大寺のすぐ東の手向山に八幡神を分社して祀り、東大寺の守護神としたのである。</div><div><br /></div><div>　ときに、空海が指導監督を行ったとされる潅漑用水や港湾水利の修築にも、秦氏の技術者が関与していた可能性がある。</div><div>　まず、讃岐の満濃池であるが、空海の実家佐伯氏が領する真野の水田は、東方の中讃に展開する秦氏一族の潅漑技術の影響を受けて、早くから条里制を取り入れていたくらいで、満濃池の水利開発に秦氏の技術者がかかわらないはずがない。</div><div>　故郷の現地に赴いた空海は早速、人夫・馬・馬車・資材を大量にしかもすみやかに集め、たった２ヶ月の工事で日本最初のアーチ式ダムを完成させたという。それまで、朝廷から派遣された築池使の路真人浜継が３年かかって完成を見なかったことを考えれば、異常な早さである。この工事に、讃岐の秦氏の技術者たちを空海が動員したであろうことは容易に想像がつく。おそらく、讃岐平野に展開する溜め池群も秦氏の知恵と技術の所産であろう。</div><div><br /></div><div>　次に、空海がその完成にあたって碑銘を書いた大和益田池である。ここも満濃池と同様に一気に人夫・馬・馬車・船・資材が大量に集められ、大規模な潅漑用水池が完成した。満濃池や和泉国の狭山池と同じ「樋管」（桧の巨木をくりぬいた木製の配水管）が使われていた。これこそ、秦氏の土木技術を物語る証左で、秦氏が展開した地の溜め池や河川の水利にしばしば「樋管」が発見されている。</div><div>　この大和益田池がある大和国高市の地は、先にもふれたが、古代における渡来人の集団居住地域であった。東漢氏（やまとのあや）の一番多い地域だが、秦氏を出自とする大安寺の勤操がここの出身である。秦氏も多く住んでいた。にわかに動員され、難工事に当った技術者は先進的な土木技術の持ち主で、それは秦氏系の人たち以外には考えられない。</div><div><br /></div><div>　もう一件、摂津国の大輪田泊（おおわだのとまり）の港湾修築である。</div><div>　天長５年（８２８）、嵯峨と同様に空海と親交をもっていた淳和天皇は、空海を摂津国の大輪田泊の造船瀬所別当に任じ港湾修築の指導監督にあたらせる。朝廷は讃岐の満濃池や大和益田池の治水工事を短期間でやり遂げた空海の高い手腕を買い、着手以来１５年を経ても埒があかないこの国営の港湾修築を空海に託した。</div><div>　この大輪田泊を最初に築いたのは、百済系渡来人西文（かわちのふみ）氏を出自とする仏教僧行基であった。行基は入唐留学僧道昭に法相を学ぶとともに、道昭が晩年に行った遊行と社会救済の土木事業に範をとった。全国各地を遊行し民衆のために潅漑用水や港湾開発を行ったディベロッパーであったが、そのバックにはいつも渡来系の技術者集団があった。空海にはどうもこの行基の「方法」に範をとっていたふしがある。</div><div>　大輪田泊が所在する摂津や西隣の播磨には、古くから秦氏が入植していた。播磨の平野部では水田開発を行い、赤穂などの沿岸では塩田や港湾の開発や海運を行った。空海の実家の讃岐の佐伯直氏は播磨の佐伯直氏の分家といわれる。空海は、大輪田泊の場合もそうした人脈を活用して別当の職を全うしたはずである。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="kukai_10.jpg" src="http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai_10.jpg" width="500" height="127" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span></div><div><!--StartFragment-->

<p class="MsoNormal" style="text-align: center;"><span style="font-size: 9pt; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366">神戸、「大輪田」の名が残る橋　　　　　　　　</font></b></font><span lang="EN-US"><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366"><o:p></o:p></font></b></font></span></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366">大和、益田池　　　　　　　　　　</font></b></font></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366">讃岐、満濃池　　　</font></b></font></span></p><!--StartFragment-->

<p class="MsoNormal"><span style="font-size:9.0pt;font-family:&quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;"><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>

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<p class="MsoNormal"><span style="font-size:9.0pt;font-family:&quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;"><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>

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</div><div><br /></div><div><br /></div><div>　以上、秦氏と空海のかかわりの概略だが、ついでに秦氏とも混血している藤原氏と空海の親和関係を述べておきたい。空海の破天荒な人生の行く先々で、秦氏と藤原氏とのかかわりが運を開いた。</div><div><br /></div><div>◇藤原氏のルーツ</div><div>　朝廷氏族の雄である藤原氏は複雑な系譜をもつ氏族である。</div><div>　そのルーツは、大化の改新の功によって中臣鎌足が天智天皇（中大兄皇子）から四姓（源氏・平氏・藤原氏・橘氏）のうちの名門藤原姓を与えられて藤原鎌足と名乗り、その姓を次男不比等が継承したことにはじまる。</div><div>　鎌足の氏族だった中臣氏は、古くから宮中の神事や祭祀にかかわってきた朝廷氏族で、神話の神天児屋命（天児屋根命、あめのこやねのみこと）を祖とする。この神はそのまま藤原氏の氏神となり、春日大社などに祀られている。ちなみに、<u>鎌足のことを百済王子の豊璋（ほうしょう）と同一視する説があり、藤原氏は百済系の渡来氏族だというのだが、根拠がはっきりしない。</u></div><div><br /></div><div>　藤原の嫡流となった不比等ははじめ、「壬申の乱」後の天武朝期に、天智に近かったとして中臣（藤原）氏が朝廷の中枢からはずされたため、しばらくは不遇の身であったが、文武天皇を擁立した功により天皇の後見として朝廷の中枢に返り咲いた。以後、第三夫人との間にもうけた長女宮子を文武天皇の皇后に送り、文武の乳母として後宮で名を成した県犬養三千代（あがたのいぬかいのみちよ、橘三千代）を後妻に迎え、授かった三女光明子を聖武天皇の皇后（光明皇后）にするなど、着々と朝廷氏族の雄への道を歩んだ。</div><div>　不比等はまた、一族の権勢を誇るかのように壮麗な興福寺を建立している。もともと興福寺は、天智天皇の妃だった鏡王女（かがみのおおきみ）が藤原鎌足の正妻となった後、鎌足の病気平癒を祈って鎌足発願の釈迦三尊像を、山背（山城）の山階（山科）の私邸に祀って建てた山階寺（やましなでら）がはじまりで、その後飛鳥の廐坂（うまやさか）に移されて廐坂寺といわれていたものを、遷都とともに平城京の左京三条七坊に移し、中金堂ほかの堂塔伽藍を建立して興福寺と改名したものである。以来、興福寺は藤原氏の氏寺（私寺）ながら国家仏教の中枢を担うとともに、西の京の薬師寺と並んで南都法相の法城として君臨した。</div><div><br /></div><div>　不比等には四人の男子がいた。正妻蘇我娼子との間に生れた長男武智麻呂（むちまろ）、次男房前（ふささき）・三男宇合（うまかい、馬養）と、第二夫人の大原大刀自（おおはらのおおとじ、五百重娘）との間にできた麻呂（まろ）である。この四人兄弟はいくたびかの権力争いを乗り越え、太政官の要職について朝廷の実権を握り、藤原四子政権などといわれた。こののち、武智麻呂の一門は南家、房前の一門は北家、宇合一門は式家、麻呂一門は京家といわれた。</div><div>　しかし栄華は長く続かず、四人の兄弟は折から流行の天然痘にかかって世を去り、四家ともに後継の子弟が未成人だったこともあって、しばらく衰微の時期があった。しかし、やがて聖武天皇と光明皇后の娘である女帝孝謙天皇の時代になると、南家の次男の仲麻呂（恵美押勝）が参議・大納言さらに天皇側近の中務卿や中衛大将に栄進し、政治と軍事両面の実権をにぎるなど、再び藤原氏の勢力が息を吹き返す。</div><div><br /></div><div>◇藤原氏と空海の親和関係</div><div>　仲麻呂の南家は、その後代々、朝廷の中枢の地位にあったが、北家に押され気味となり、歴史に名を残す人はとくに出なかった。空海との縁で見ると、仲麻呂の十一男で南都法相の碩学だった徳一と、桓武天皇の第二夫人で伊予親王の母であった吉子（仲麻呂の弟の乙麻呂の子是公（これきみ）の娘）が目立つ。</div><div>　徳一は、壮年の頃平城京を離れて会津磐梯山麓に篭り、山岳信仰によって東国・東北の民衆教化に努めた人であるが、比叡山の最澄（天台宗）にはきびしく「三一権実諍論」をしかけ、最澄が亡くなるまでの五年間宗論を闘わせたが、空海には終始好意的で、空海が創案した密教への疑問を『真言宗未決文』にまとめて書き送ったが、通説が言うように、空海密教を批判したものではなかった。事実徳一は、空海から依頼された密典の書写を拒まなかった。</div><div>　また、吉子が桓武との間にもうけた伊予親王だが、空海の叔父の阿刀大足がその侍講（位の高い人の専任講師）をつとめた。吉子は「伊予親王の変」によって親王とともに飛鳥の川原寺に幽閉され、そこで自害したのだが、のちに二人の怨霊は「御霊」として祀られ、神泉苑や空海亡き後の東寺と西寺において御霊会が修された。</div><div><br /></div><div>　北家と空海の縁は、まず空海に興福寺南円堂の設計監督を頼んだ藤原内麻呂（うちまろ）がはじまりである。内麻呂の妻百済永継（くだらのながつぐ）は河内国の百済系渡来氏族を出自とする飛鳥部奈止麻呂（あすかべのなとまろ）という。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="kukai_11.jpg" src="http://www.mikkyo21f.gr.jp/image_item/atcl-image/kukai_11.jpg" width="250" height="173" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span></div><div><!--StartFragment-->

<p class="MsoNormal" style="text-align: center;"><span style="font-size: 9pt; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366">興福寺南円堂</font></b></font><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>

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</div><div><br /></div><div><br /></div><div>　その次男冬嗣（ふゆつぐ）には百済系の血が流れている。南円堂は内麻呂の死後、弘仁４年（８１３）に完成し、冬嗣が父内麻呂の追善供養のために建立したかっこうになった。堂内には、内麻呂が用意した本尊不空羂策観音像のほか、四天王や真言八祖が祀られた。南円堂完成のあと、北家の権勢は益々さかんになり、内麻呂・冬嗣ゆかりの南円堂は興福寺のなかでも特殊な位置を占めるようになった。</div><div>　冬嗣は、空海と同じように、嵯峨天皇の信頼が厚く、嵯峨が創設したブレーンスタッフ「蔵人所」（くろうどどころ）の事実上のトップである蔵人頭（くろうどのとう）となり、坂上田村麻呂（渡来系東漢氏の出自）とともに「薬子の乱」を鎮圧した。空海とは、この時期、最も親しかったと思われる。冬嗣は当然、父の内麻呂から空海の情報を縷々聞いていたであろう。渡来系の秦氏との親和関係も聞いていたはずである。百済系渡来人の血を引く冬嗣には、自ら進んで交わるに足る人物だと思ったにちがいない。</div><div><br /></div><div>　また冬嗣は、空海が会津の徳一に密典の書写を依頼した時期、南西部の会津を含む陸奥国の国守に任じられている。徳一は冬嗣と同じ藤原氏直系の人である。密典書写の協力依頼は冬嗣を介してもきていたのではないか。それは同時に、同時期に東国・東北地方への進出をもくろんでいた最澄への政治的な牽制でもある。空海は空海で、東国の藤原系国守を動かして密典書写をたのんでいる。冬嗣は、最澄の天台宗に反発する興福寺（藤原氏の氏寺）をはじめ南都の仏教界をサポートする立場にあった。その南都の仏教界が反天台の切り札として頼む空海と組まないはずはない。お互いに嵯峨の側近でもあった。この状況を察して、徳一が不用意に空海批判などを行うはずはない。<u>最澄天台宗の東北への進出を阻止するために切り札が欲しい冬嗣と、最澄と長い論争を繰り返す徳一と、最澄に「下僧最澄」と言わせた空海と、この絶妙なトライアングルを見逃してはなるまい。</u></div><div><br /></div><div>　後代１０世紀後半から１１世紀にかけて、北家から藤原道長・頼道親子が出て摂関政治を行い、栄誉栄華を誇った。この親子はともに、興廃した高野山に登り弘法大師の御廟に参拝している。その後高野山はふたたび盛んになったという。</div><div><br /></div><div>　ときに、藤原葛野麻呂（かどのまろ）である。空海と藤原氏の親和関係を語るのにこの人を落とすわけにはいかない。</div><div>　葛野麻呂の父は北家の藤原小黒麻呂（おぐろまろ）で、母は秦氏系の（太）秦嶋麻呂（はたのしままろ）。小黒麻呂は、桓武天皇の信認厚く、側近として桓武政権を支え、大納言の地位まで上った人で、かれの妻の出自の秦氏が根拠地として展開する山背国葛野郡にほど近い乙訓郡長岡への遷都（長岡京）を強く推進した。</div><div><br /></div><div>　ついでながら、小黒麻呂とともに長岡京造営に奔走したのが式家一門の藤原種継（たねつぐ）であった。彼の母も、秦忌寸朝元（はたのいみきあさもと）の娘で、秦氏である。種継は、桓武から長岡京造営長官に任じられ、山背国葛野郡の秦足長（はたのたりなが）や大秦宅守（おおはたのたくもり）ら秦氏一族の協力をえて着々と遷都を進めていたが、延暦四年（七八五）、造営の監督中に矢で射られて殉死した。</div><div>　首謀者として、すでに死亡していた大伴家持が官籍から除名され、大伴氏・佐伯氏をはじめとする官人が多数斬首・配流された。しかし、それでは終わらず、南都の国家仏教勢力の力に嫌気した桓武が南都の仏教勢力から離れようと遷都を企てたのに対し、東大寺や大安寺などの仏教勢力や宮中の祭祀を司る大伴・佐伯といった遷都反対勢力に、桓武の実弟で皇太子である早良親王がそそのかされ謀反を画策したとして濡れ衣を着せられ、長岡の乙訓寺に幽閉されたのである。その乙訓寺こそ、後に空海が別当に任じられ、早良親王の怨霊が漂うまま荒廃していたのを復興した寺で、そこに比叡山の最澄がたずねてきて、（伝法）潅頂の受法を乞うた舞台である。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"></span></div><div style="text-align: center;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="kukai_12.jpg" src="http://www.mikkyo21f.gr.jp/image_item/atcl-image/kukai_12.jpg" width="500" height="127" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span></div><div><!--StartFragment-->

<p class="MsoNormal" style="text-align: center;"><span style="font-size: 9pt; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366">長岡京、乙訓寺　　　　　　　　　　　　　　　</font></b></font><span lang="EN-US"><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366"><o:p></o:p></font></b></font></span></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366">長岡京俯瞰図</font></b></font></span></p><!--StartFragment-->

<p class="MsoNormal"><span style="font-size:9.0pt;font-family:&quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;"><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>

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</div><div><br /></div><div><br /></div><div>　話を葛野麻呂に戻す。妹の上子（かみこ）が桓武の後宮に入っている。そのおかげでか栄進の道を進み、延暦２３年には遣唐大使を命じられ、空海も乗った第十六次遣唐使船で唐に渡った。途中、東シナ海での遭難から長安に到着するまでの道中、かれは何度も空海に苦境をたすけてもらった。翌年無事帰国すると、参議・式部卿に任じられて天皇の近くで重用され、さらに中納言にもなった。</div><div><br /></div><div>　ときに、彼の妻は、最澄の兼務住寺である高雄山寺を氏寺にもつ朝廷氏族和気清麻呂（わけのきよまろ）の娘である。和気清麻呂が道鏡の宇佐八幡神託事件で配流の憂き目に会ったことは先に述べたが、その後は桓武朝に復活し、とくに平安京遷都を桓武に強く進言し、遷都にあたっては造営大夫として活躍した。配流の身から天皇の側近にまで栄進したのである。しかし、桓武に取り入り平城京廃都を押し進める清麻呂に対し、南都の仏教勢力はおもしろくなかった。</div><div>　空海が、大宰府観世音寺での滞留義務を解かれて、和泉の槇尾山寺を経て高雄山寺に入る時、住持だった最澄は空海の高雄山寺入山を快く認めて引き下がった。最澄を説得したのは、最澄の天台に反対する南都仏教勢力の勤操らだったというのだが、陰の主役は葛野麻呂ではなかったか。</div><div>　たぶん勤操が、空海の異能をよく知り清麻呂の娘を妻にもつ葛野麻呂を動かした。葛野麻呂はこの時期、中納言になり、正三位にも上り、天皇の近臣の地位にあった実力者である。空海が正統密教の第八祖となり短時日で帰国したことに驚きながらも、無事に帰ったことを誰よりも喜んだのはかれだったにちがいない。唐土の福州に上陸する際に、かれの窮地を救ったのは空海であった。かれは、真綱（まづな）など和気氏の義弟たちに空海の文章と唐語の異能を熱く語って聞かせ、最澄に代って高雄山寺に迎えるべきであり、空海を外護することで和気氏一門が南都の仏教勢力とも融和できるであろうことを説いたと思われる。</div><div><br /></div><div>　ついでながら、高雄山寺と和気氏と秦氏の間にまた深い縁がある。</div><div>　和気氏は、河内国内に展開した秦氏の鍛冶・鋳造の神鐸石別命（ぬてしわけのみこと、垂仁天皇の皇子）を祖とする。鐸石別命は死後、信貴生駒山地最南端の鷹巣山（高尾山）に葬られ、河内の秦氏はこれを高尾社として祀った。後に、備前国の磐梨（いわなし）郡石生（いわなし）郷を本拠とする磐梨（いわなし）氏（通称、和気氏）が、これをその地に遷座し氏神とした。</div><div><br /></div><div>　和気清麻呂は本名を磐梨別公（いわなしわけのきみ）[といい、磐梨（いわなし）氏が本姓、和気清麻呂とは通称である。「わけ」とは「分別する」の意味で、石と鉱石を分けること。その「わけ（和気）」氏の本拠地が石生郷で、石生（いわなし）とは石成とも書き、鉱石が金属に成る（変化する）ことである。通称和気氏は古くからこの地で鍛冶・鋳造（金属の精錬）を得意として栄えていた。明らかに秦氏の技術者集団とのかかわりがそこに見える。秦氏は備前国のこの地域に早くから展開していた。</div><div>　ちなみに、清麻呂が、道鏡にからむ宇佐八幡の神託事件で、称徳天皇の勘気に触れて配流された大隈国といい、称徳の死後名誉回復して国司を命ぜられた豊前国といい、いずれもこの国に渡来してほどない秦氏の一族が一番早く勢力を伸ばした九州の拠点地である。しかも清麻呂は、山背国の秦氏がかかわる「高尾山」寺（高雄山寺）を復興している。</div><div><br /></div><div>　「高尾山」寺（高雄山寺）はもと、愛宕山・鞍馬山などとともに、山背国の山岳信仰や修験の寺であった。ここに、清麻呂の子の真綱と仲世が、河内国の高尾山（神鐸石別命を祀る高尾社近く）に、清麻呂が八幡神の託宣によって建立した神願寺を移したものである。「高尾山」寺（高雄山寺）にも、山背秦氏がかかわる山岳信仰が関与していた。</div><div>　清麻呂は、平安京遷都を前に愛宕権現（愛宕山）で祭祀が行なわれた際に、祭祀奉行をつとめたりした。桓武の平安京遷都は、山背の地に一大勢力をきづいた秦氏の協力なしにはできなかったのである。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="kukai_13.jpg" src="http://www.mikkyo21f.gr.jp/image_item/atcl-image/kukai_13.jpg" width="500" height="127" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span></div><div><!--StartFragment-->

<p class="MsoNormal" style="text-align: center;"><span style="font-size: 9pt; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366">神護寺境内の和気氏御廟　　　　　　　　　　　　</font></b></font></font></font></font></font><span lang="EN-US"><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366"><o:p></o:p></font></b></font></font></font></font></font></span></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366">高雄山寺（神護寺）</font></b></font></font></font></font></font></span></p><!--StartFragment-->

<p class="MsoNormal"><span style="font-size:9.0pt;font-family:&quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;"><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>

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</div><div><br /></div><div><br /></div><div>◆阿刀氏</div><div>　次に、空海の母方の氏族である阿刀氏について記しておく。阿刀氏も渡来系氏族にほぼまちがいない。</div><div><br /></div><div>　阿刀氏の阿刀（あと）は、安斗・安都・安刀・阿斗・迹ともいう。物部氏の一族で、本拠地を河内国渋川郡跡部（あとべ）郷（今の八尾市の一帯）とした。姓に、宿禰・連・造がある。神護景雲３年（７６９）、阿刀造子老（あとのみやつここおゆ）ら５人が、宿禰の姓を賜っている。</div><div>　本拠地の河内国渋川郡跡部郷には阿都、大和国城下郡には阿刀の地名があった。いずれも渡来系氏族居住地であり、船運で渡来人がよく往来するメインルートの大和川の要所に位置することから、阿刀氏の高句麗・百済系渡来人出自説がある。</div><div>　古代から朝鮮半島や中国大陸から畿内に渡来する外国人は、ほとんどが九州の那ノ津（今の博多）や坊ノ津（薩摩半島）に船で渡り、そこから瀬戸内海に出て東に横切り、住吉ノ津や難波ノ津にきた。内陸部の河内・飛鳥・平城京に行くには難波ノ津から淀川へ、淀川から大和川を進み、山背・平安京に行くには淀川から桂川をたどった。大和川の流域や桂川の上流には秦氏など渡来系の民が古くから居住していた。かれらは、すぐれた船と航行術をもっていた。</div><div>　当時、海を渡るには新羅船がもっともすぐれていた。船底の平らな日本の和船は外海の大波や風雨に弱く、日本の外交使節は大陸との往来の際しばしば新羅船の世話になった。住吉ノ津や難波ノ津から内陸部に入る際に淀川や大和川や桂川に浮んだのは、おそらく新羅系渡来人が造った舟だったであろう。阿刀氏は、河内国渋川郡跡部郷を本拠としつつ、これらの水運をフル利用して大和や和泉・摂津・山背に展開をしたに相違ない。</div><div><br /></div><div>　阿刀氏は学問を以てなる家柄だったらしく、大和国高市郡出身で元正・聖武両天皇の内裏に供奉した法相宗の義淵や、義淵の弟子で入唐留学経験をもつ法相の玄昉や、玄昉の弟子（実子だという説もある）で法相宗の六祖に数えられる著述家の善珠といった学問僧のほか、空海の叔父で桓武天皇の皇子伊予親王の侍講をつとめた大足（おおたり）や、『日本紀』『続日本紀』の編纂局「撰日本紀所」に出仕をしたといわれる安都宿禰笠主（あとのすくねかさぬし）や、『万葉集』に歌がある安都宿禰年足 （あとのすくねとしたり）や、大学助（だいがくのすけ、大学寮の教授）をつとめた阿刀宿禰真足 （あとのすくねまたり）らがいる。</div><div>　また朝廷の官人として「壬申の乱」の際大海人皇子のもとで活躍した安斗連智徳（あとのむらじちとこ）と安斗連阿加布（あとのむらじあかふ）や、称徳天皇に仕えた女官といわれる安都宿禰豊嶋 （あとのすくねとよしま）らが名を残している。</div><div><br /></div><div>　秦氏の根拠地となった太秦を含む山背国葛野の地に、阿刀氏の祖神饒速日命（にぎはやひのみこと）を祀る阿刀神社がある。平安京遷都にともない本拠地河内国渋川郡跡部郷から遷されたものである。秦氏と阿刀氏、同じ渡来系の氏族が、山背国葛野の地で共存することになったのである。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="kukai_14.jpg" src="http://www.mikkyo21f.gr.jp/image_item/atcl-image/kukai_14.jpg" width="500" height="127" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span></div><div><!--StartFragment-->

<p class="MsoNormal" style="text-align: center;"><span style="font-size: 9pt; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366"><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">　　　秦氏が築いた葛野大堰、嵐山渡月橋の上流部（大堰川）　　　　　　　</font></font></b><span lang="EN-US"><b><font class="Apple-style-span" color="#333366"><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><o:p></o:p></font></font></b></span></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366"><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">嵯峨の住宅地、阿刀神社</font></font></b></span></p><!--StartFragment-->

<p class="MsoNormal"><span style="font-size:9.0pt;font-family:&quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;"><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>

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</div><div><br /></div><div><br /></div><div>　ときに、空海の生地讃岐に母方阿刀氏の痕跡がないという説がある。研究者が言う歴史上の痕跡や事蹟とは公式の史書に残された記録。すなわち朝廷の動向にかかわる記録によるのであって、朝廷の動向にかかわりのないことは痕跡や事蹟として後世には残らない。阿刀氏の痕跡が讃岐にないというのは、史書や地方の史料（風土記など）でそうであっても、空海の母方の阿刀氏が讃岐国多度郡に住んでいなかったという証左にはならない。まして、空海の生地は讃岐の屏風ヶ浦ではないという最近の某（学）説の根拠にはならない。</div><div>　少なくも、空海の実家の佐伯直氏が領する地の東方の中讃地方には秦氏が古くから入植していた。そこに、同じ渡来系の阿刀氏の一部が河内からきていたとしても何の不思議はない。空海の母阿古屋とその妹の一家が、そのなかにいたとしてもおかしくはない。河内国渋川郡→（大和川）（淀川）→難波ノ津→讃岐国多度郡は、渡来系氏族の船運ではぞうさない旅である。</div><div><br /></div><div>　<u>通説では、空海の母阿古屋は中央の漢学者阿刀大足の娘か妹だ</u>というが、ではあの時代、阿刀氏居住地の河<u>内国か阿刀大足のいる平城京にいたであろうはずの阿古屋と、讃岐の俘囚系氏族である佐伯氏の善通との遠距離縁談が、どのようにすれば成立するのか。</u>当時は婿の側の通い婚だったという話も加えれば、讃岐の善通が河内までしばしば船運で通ったのであろうか。それとも善通は領地にいないで河内か平城京の阿古屋のところにいて、空海などの子を成したのだろうか。</div><div>　そんな不可能に近い話で空海の母を阿刀大足の娘か妹にするよりも、阿古屋姉妹の一家をふくむ阿刀氏の一部が河内から秦氏の住む中讃の地に入ってきていて、中央で官人や学者や歌人を多く輩出しているすぐれた家系だという話が讃岐の多度郡一帯に聞こえ、それに佐伯氏の善通が敏感に反応したとみる見方の方が信憑性に富む。善通は東隣にきた阿刀氏の二人の娘に目をつけたのである。</div><div><br /></div><div>　私見だが、佐伯善通は讃岐に封じられた俘囚（蝦夷）の一族佐伯氏を率いる身ながら、地方の国造クラスの氏族長としては識見の高い人で、中讃地域に居住する秦氏一族の農耕技術を取り入れ、真野の地から豊かな実りをえて富を築くとともに、朝廷祭祀を司る中央の佐伯氏（佐伯今毛人）にあやかって一族から中央官人を送り、一族の栄達を心がけたのではないかと思われる。善通はそのルートづくりを、秦氏の知恵を借りたか、現実に移そうとした。それが、讃岐にきた阿刀氏との婚姻戦略ではないか。</div><div>　善通はまず阿古屋を迎えた。さらに、阿古屋の妹に実弟を婿入りさせ、阿刀大足と改名させた。大足は、時期をえらんで阿古屋の妹とともに河内に移り、そこから平城京に出た。中央官人を志すには漢籍を諳んじ経学に通じなければならないが、大足は若くしてその才に恵まれ、官僚にはならず漢学者の道をえらんだ。桓武天皇の皇子伊予親王の侍講になって栄進したが、「伊予親王の変」によって不遇の身となるも陰に陽に空海の外護につとめた。</div><div><br /></div><div><b>◆丹生一族</b></div><div>　渡来系の一族ともいわれ、「丹生」すなわち水銀の鉱床の発見と採掘や精錬術に長けた氏族に丹生一族があり、とくに西日本地域で、「丹生」という名前のつく土地や川や山や神社のある地方には丹生一族が展開していた。</div><div>　丹生一族は地域によって氏族名が異なる。伊勢の丹生一族は伊勢丹生氏であり、近江では息長丹生氏である。空海が高野山開創の折に多大なサポートを受けたことで有名な一族で、今もなお和歌山県かつらぎ町天野の丹生都比売神社に存続している丹生氏はその総称または象徴といえる。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="kukai_15.jpg" src="http://www.mikkyo21f.gr.jp/image_item/atcl-image/kukai_15.jpg" width="500" height="185" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span></div><div><!--StartFragment-->

<p class="MsoNormal" style="text-align: center;"><span style="font-size: 9pt; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b><font class="Apple-style-span" color="#333366">丹生都比売神（丹生明神）と丹生都比売神社</font></b></font><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>

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</div><div><br /></div><div><br /></div><div>　私見だが、丹生一族はおそらく秦氏と同系の一族ではなかったか。朝鮮半島の南端からきて、最初おそらくの那ノ津に上陸し、やがて豊前（「秦王国」）に丹生の鉱床を見つけてそこに移住し、そこから豊後水道を横切って四国に渡った。さらに、四国を真横に横切り（その線上には四国霊場が並んでいる）、淡路島を経て紀伊の国に上陸し、紀ノ川沿いに高野山山麓の天野に向い、そこを本拠地として吉野や宇多へ、さらに東の伊勢などに進出したと思われる。その移動ラインはほぼ中央構造線上、つまり水銀鉱脈に沿っていて、銅の採鉱と精錬の技術集団をもつ秦氏の展開と類似している。</div><div><br /></div><div>　丹生一族のルーツは定かではないが、伝説では中国春秋時代の５～４世紀に滅びた呉・越の民が呉の王女姉妹を戴いて南九州に渡り、姉の王女大日女姫（おおひるめのみこと）はそこにとどまって天照大神の原型となり、妹の稚日女姫（わかひるめのみこと）はミズガネ（＝水鉄）の女神として敬われ、丹生都比売神の原型となったといい、越の民は金属採集に長じていた、という。これも秦氏の渡来伝説と酷似している。</div><div><br /></div><div>　「丹生」とは丹生明神・丹生都比売神社の丹生。「丹」は今の化学でいう水銀（とくに硫化水銀）のことで、丹砂・朱砂・辰砂ともいう。空海の時代、すでに鎮静・催眠の薬剤として用いられ、道術の要素を採りいれた古代山岳修行者（そこにまた秦氏の名がまた見え隠れする）の間では不老不死の丹薬として重宝がられた。また古墳内部・石棺や神社仏閣の彩色塗装の顔料や、天皇家や貴族の朱漆器などの原料となった。</div><div>　さらに注目すべきことは、あの当時すでに合金の技術が実用化されていて、丹生すなわち水銀がメッキ剤として使われていた。その顕著な事例が、東大寺の大仏造顕にあたって７３万７５６０斤（４４２５３６ｋｇ）の塾銅に１万４３６両（３８６ｋｇ）の金と５万８６２０両（２１６９ｋｇ）の水銀が金メッキ剤として使用されたという。</div><div>　塾銅を供出したのは宇佐と長門の秦氏だった。この大量の水銀を当時供出できたのは、丹生の一族を措いてほかにないと考えるのは不自然なことではない。</div><div><br /></div><div>　ときに、空海の高野山開創をサポートした丹生一族のことであるが、具さには紀伊丹生氏、つまり丹生都比売神社の天野祝（あまののはふり）の家系をいう。この紀伊丹生氏は、４世紀頃には紀伊国伊都郡の地にきていたといわれ、先住の大伴氏から土地を譲られ、今の伊都郡かつらぎ町三谷に丹生酒殿神社を祀った。以後、紀伊丹生氏は大伴氏や土豪の紀氏と血縁の関係をもち紀伊丹生総神主家として代々続く。</div><div>　高野山造営にあたって、空海が協力要請の手紙を送った土地の有力者というのも、この紀伊丹生氏の当時の当主だったということが、最近研究者によって明らかにされた。その手紙とは、</div><div><br /></div></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div><div>古人の説によると、私の先祖太遣馬宿禰は、あなたの国（紀伊国）の祖である大名草彦の分かれであります。一度訪ねたいと久しく考えていますが、あれこれ妨げがあってなかなか志を遂げられず、申し訳なく思っています。今、密教の教えに基づいて修禅の一院を建立したいと考えてきました。その建立の場所として、あなたの国の高野の原が最適と考えます。そのようなわけで上表文をしたため、天皇に高野の地の下賜をお願い致しましたところ、早速慈悲の心をもって裁可の太政官符を下されました。そこでまず一・二の草庵を造立するため弟子の泰範･実恵らを高野に派遣いたします。ついては仏法の護持のために僧俗相共に高野山の開創に助力賜りたく存じます。私は来年の秋には必ず高野に参りたく考えています。</div></div><div><div style="text-align: right;">（『高野雑筆集』）</div></div></blockquote><div><div><br /></div><div>　ときに、空海が高野山に入山する時に、二匹の犬を連れ狩人の姿をした南山の犬飼いに出合ったという話があり、その犬飼いが狩場明神（高野明神・高野御子大神）だったという伝えもよく知られているところであるが、その<u>狩場明神とは、実際は空海と同じ時代の紀伊丹生氏の当主丹生家信という人</u>で、家信の死後、空海が狩場明神として、今の伊都郡かつらぎ町宮本に祀った（丹生狩場神社）という説がある。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="kukai_16.jpg" src="http://www.mikkyo21f.gr.jp/image_item/atcl-image/kukai_16.jpg" width="500" height="185" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span></div><div><!--StartFragment-->

<p class="MsoNormal" style="text-align: center;"><span style="font-size: 9pt; "><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" color="#333366">束帯姿と狩人姿の狩場明神</font></font></b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>

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</div><div><br /></div><div><br /></div><div>　「狩場」とは、山の民が狩猟をする場所などと思われがちだが、鉱山とくに銅山のことをいう言葉である。山の民（例えばサンカなど）の隠語だともいう。</div><div><br /></div><div>　丹生家信は、宣化天皇（４６７～５３９）を祖とする丹治氏から、延暦１２年（７９３）丹生氏に養子として入り丹生総神主家を継いだことが伝えられているが、丹治氏といえば秩父の銅（和銅開珎、７０８）で知られ、本拠地を河内国丹比郡とし、中央の大伴氏や藤原氏や紀伊国の紀氏にも根を張っていた。今の秩父地方を開墾した「武信」という人は、この家信の子だという説もある。</div><div><br /></div><div>　狩場明神については従来この地一帯の土豪の首領だという説があった。興味深いのは、その土豪とは坂上（さかのうえ）氏、首領とは犬甘（いぬかいの）蔵吉人のことで、犬甘蔵吉人を犬飼蔵人と読み、坂上氏の先祖である阿智使主（あちのおみ）のあとに蔵人の名が見えるところから、坂上氏の人だという推定である。『紀伊続風土記』には「犬甘蔵吉は阿智使主の後蔵人と見ゆえたる人にて応神天皇廿年阿智使主と共に帰化せしむを同廿二年の事当社へ寄せるたまへるなるへし」という。</div><div>　坂上氏といえば、桓武・平城・嵯峨の三天皇政権の軍人のトップとして蝦夷を征伐し「薬子の乱」を鎮圧した征夷大将軍坂上田村麻呂を思い出すが、坂上氏は紀伊国伊都郡から紀ノ川北方の今の橋本市一帯を本拠とし、丹生都比売神社には（氏子長者として）財政や神馬の管理などで信助を惜しまなかったといわれている。ちなみに、空海と坂上田村麻呂は同じく嵯峨天皇のブレーンであった。</div><div><br /></div><div>　ところで、先の空海の手紙に出てきた大名草彦とは紀伊国第五代国造の大名草比古（おおなぐさひこ）とみられ、紀氏の祖先になる。紀氏と紀伊丹生氏の関係は古く、丹生氏の庵田刀自（阿牟田刀自、あむたのとじ）と紀氏の豊耳（とよみみ）が結婚して、その子孫が紀伊丹生氏の嫡流となったという。紀伊丹生氏は、紀氏が奉祀する日前宮（名草宮）のなかの草宮（紀氏の先祖が祭られているという）に、毎年丹生都比売神の神輿を渡御し（浜降り神事）、紀氏は、国造に任じられ宮中参内のために京に上った帰途、丹生酒殿神社に参詣して白犬を供えるのが恒例となった。</div><div>　後年、紀伊丹生氏から紀氏に養子を出したり、紀伊丹生氏が大伴氏から養子を迎えたりして、紀伊の有力氏族の間に血族関係が生まれるとともに、神事に関しても氏族間で神事の融合がみられるようになった。</div><div><br /></div><div>　さて、空海が高野山に入山する途中出合った南山の犬飼が、丹生総神主家当主の丹生家信だったとすると、「丹生」すなわち水銀の守護神である丹生都比売と、その丹生都比売の祭祀を行なう神職が、空海によって銅（カラ）の守護神（狩場明神）としてシンクロされた（水銀と銅が合体した）ことになる。</div><div>　ともかく、東大寺大仏の造顕に使われた水銀と銅のことを考えれば、当時いかにこの鉱物が貴重かつ重要な先端資源であったかがわかる。空海の高野山入山に関する丹生都比売大神の託宣と狩場明神との出合いの話は、先端文化としての空海とその密教が当時の先端技術を背景に新登場したことを物語っている。</div><div><br /></div><div>　また、紀伊丹生氏すなわち天野祝氏は丹生都比売命の祭祀を司る神職であって、実際に水銀の鉱床を探して採掘したり、水銀を精錬して鍍金剤にしたり、薬品加工して丹薬にしたり、朱色の顔料にしたりする技術をもたなかったという。それを天野祝氏にもたらしたのはおそらく秦氏であろう。<u>死体に朱（丹生）を施して再生を願い死霊（怨霊）を封じる古代からの呪術的な習俗もおそらく秦氏がもたらし、それを天野祝氏の神職が司祭したことも考えられる。</u></div><div><br /></div><div>　丹生一族と秦氏は、表裏一体の関係にあったのではないだろうか。やがて、水銀の鉱床が次第に掘り尽くされ、水銀の需要も減少するにつれて、秦氏は技術力・経済力を背景にさまざまな産業を興し、朝廷の氏族を支える有力なサポーターとなり、山背国太秦に本拠を構えるようになる。</div><div><br /></div><div>　以上、空海と深くかかわった渡来系氏族とその周辺について略記した。</div><div><br /></div><div>　空海の超人的な偉業は自身の異能によるところが大きいことは言うをまたないが、古代日本の産業技術や権力構造を実際に動かしていた渡来人氏族、とくに秦氏との親和関係なしには成しえなかったともいえる。</div><div>　空海のすごさは、そのルーツに由来するのか、異国の人や言葉や文化や技術を苦もなく受け容れ、理解し、それを自分のものにしてフル活用するところである。この並外れた能力、つまりマルチタレント（多才）性に偉業の秘密があるといっていい。</div></div> <div><br /></div>]]>
        
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    <title>空海とホワイトヘッドの思想－七つの接点－</title>
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    <published>2011-12-22T10:29:48Z</published>
    <updated>2012-02-01T09:16:50Z</updated>

    <summary>　　｢九世を刹那に摂し、一念を多劫に舒(の)ぶ。一多相入し、理事相(あい)通ず｣...</summary>
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        <![CDATA[<div>　　｢九世を刹那に摂し、一念を多劫に舒(の)ぶ。一多相入し、理事相(あい)通ず｣(過去・現在・未来を貫くあらゆる時間が一瞬間におさまっているから、一瞬間に感じたことはすでに、多くの無限に等しい時間に展開していることになる。そのように一と多とが互いに融け入り、一である｢理｣と、多である｢事｣とが互いに通じ合うという意味)</div><div>　</div><div>　空海(774-835)の主著『十住心論』全十巻の内の巻第九の大意の一節である。｢一がそのまま多、多がそのまま一である｣という華厳思想の絶対真理の教えを説くものであるが、イギリスの自然哲学者、ホワイトヘッド(1861-1947)がその主著『過程と実在』の中で｢究極的なもののカテゴリー｣として説く、｢多は一となり、一つだけ増し加える｣という創造性の理念と似ている。</div><div><br /></div><div><b>Ⅰ空海のモダニズム性</b></div><div>　さて、空海はその主著で、人間の思想を十段階に分類し、第一段目において、人間が思想をもつのは人間が意識をもっているからだとし、その意識は地球上に生命が誕生し、その生命が意識をもつものとして存在しているからだとする。</div><div>　そのことを第一住心となる『十住心論』巻第一の｢自然世界｣の章に次のように記す。</div><div>　｢生物の住みかとなる自然世界の全体詩｣</div><div>　　自然(地球)はどのようにして誕生したのだろうか</div><div>　　気体(ガス)が初めに空間に充満し</div><div>　　水と金属が次々と出て</div><div>　　(水蒸気は大気に満ち、重い鉄は中心部に集まり)</div><div>　　地表は金属を溶かした火のスープにおおわれた</div><div>　　(やがて、地球全体が冷め始めると、水蒸気は雨となって地表に降りそそぎ)</div><div>　　深く広大な海となり</div><div>　　(冷めて固形化した巨大な岩石プレートはぶつかりあい)</div><div>　　大地は持ち上がり、天空に聳え立った</div><div>　　(そうして、出来上がった)</div><div>　　(空と海と)四つの大陸と多くの島に</div><div>　　あらゆる生物が棲息するようになった</div><div><br /></div><div>　－そうして、次の詩につづく</div><div>　｢自然を構成する五大圏の詩｣</div><div><b>　　</b>宇宙は果てしなく&lt;虚空圏&gt;</div><div>　　(その中に)大気に包まれたところ(地球)がある&lt;気圏&gt;</div><div>　　大雲が雨をそそぐ(地球の)大地と海は層が厚く&lt;水圏&gt;</div><div>　　金属(と岩石)が地球のすべてを作り上げている&lt;地圏&gt;</div><div>　　火の元素はどこにあるのだろうか&lt;エネルギー圏&gt;</div><div>　　それらが自然の周辺に満ちている</div><div>　　(ところで)自然の五大圏は何によって出現したのか</div><div>　　それはあらゆる生物の生存環境となるためである</div><div>　　(その生物が意識をもつ)</div><div><br /></div><div>　－また、前述の詩につづく｢生物の世界｣の章において、五大圏によって構成される自然</div><div>には多様な生物が生存しており、それらは</div><div>　　・胎生(ほ乳類)</div><div>　　・卵生(鳥類/爬虫類)</div><div>　　・湿生(水棲類)</div><div>　　・化生(昆虫/両生類)</div><div>　に分類できるとし、それらの生物のもっている習性と共に、人間も生きていると説く。</div><div><br /></div><div>　このように、空海がまとめた思想体系には、自然・生物としての人間観が背景にあり、近代科学的な自然観がすでに先取りされている。</div><div><br /></div><div><b>Ⅱ空海の『十住心論』</b></div><div>　前記のような先見的なモダニズムのもとに、空海は人間の思想を次のような十段階に分類した。</div>(１)第一住心：生きとし生けるものに共通する生存欲求(呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動)が起こす、快・不快の意識。<br />(２)第二住心：快・不快の経験が惹き起こす、善行と悪行への欲望。<br />(３)第三住心：欲望がもたらす迷いを克服するために、生き方の真理を自在の人格をもった神の加護か、あるいは、整合性をもつ論理(哲学)に託そうとする思想。<br />(４)第四住心：自己に生じる認識は、対象(色)を知覚によって感受(受)し、その感受によって脳裡にイメージ(想)が結ばれ、そのイメージが経験(行)となって記憶(識)されるからであり、対象がなければ認識は生じない。だから、自我にもともとの実体はないとする思想。<br />(５)第五住心：対象を観察すると、対象となるモノ・コトには必ず原因と結果があり、その結果がまた原因となって際限なく進行するから、個々のモノ・コトには自存する実体はないとする思想。<br />(６)第六住心：人間の意識そのものの段階を分析した思想。<br />　　・生存欲求を司る意識&lt;第八識&gt;<br />　　・言語や分別が惹き起こす執着を司る意識&lt;第七識&gt;<br />　　・知覚によってとらえた対象を、思考・判断・記憶する意識&lt;第六識&gt;<br />　　・対象を知覚(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)によってとらえる意識&lt;前五識&gt;<br />　 &nbsp; この段階のそれぞれに表象作用が生じるから、それらの段階によって、行動規範を策定した思想。<br />(７)第七住心：作用主体と作用(客体)という相対性の論理によっても、モノ・コトの個々の存在は証明できない。そこにあるのは、対象を認識する主体と、その主体によってとらえられた対象(客体)の一瞬の仮のすがたのみであるという思想。<br />(８)第八住心：精神(主体)が対象(客体)を感受することによって、客体の存在が認められ、主体の精神も認められるのだから、客体そのものが主体であるとし、精神と対象の両者は存在しているものでも認識されているものでもなく、主体と客体はたった一つであるとする思想。<br />(９)第九住心：生きとし生けるもののいのちの極微から極大までが、互いに内となり外となって共生し、融通無碍の世界が広がっているが、それらと精神は一体であるとする思想。だから、精神は自由に移り変わり、それ自体に実体はない。そこでは、物質と生命と意識とが織りなす世界がそのままわが身であり、それらと等量のありのままのすがたが、わが精神であるとする。この精神の住まいにおいては、過去・未来・現在を貫くあらゆる時間を一瞬間おさめるから、多くの無限に等しい時間に、一瞬間の心が展開することになる。そうして、一と多とがたがいに融け入っているから、絶対平等の本体である一つの｢理｣と、相対的・差別的な現象である多くの｢事｣とが互いに通じあう。ここにおいてすでに、因と果とは別のものではなく、実在と現象とは違ったものではなくなるという思想。<br /><div>(10)第十住心：いのちの無垢なる知の永遠の存在に目覚めることによって、相対性を超える包括的な世界が実在すると知る。そのありのままの世界が、イメージ・シンボル・単位(文字/数量)・作用によって図示される。すなわち、マンダラによって世界の本質を明かされる。そこが、心の真実の住みかであり、その中心にいのちの無垢なる知の永遠の存在を象徴する大日如来が位置し、世界(客体)と個体(主体)は同じものとなる。</div><div><br /></div><div>　以上、第一から第三住心までが人類が共通してもつ思想段階であり、第四住心の認識論から、因果論、唯識論へと展開し、第七住心で相対矛盾を超える立場を説き、第八住心で主体と客体の同一性、第九住心で一即多・多即一を説く(本論考、冒頭の一節はこのことを喩える）。</div><div>　その全体は哲学的であり、特に第三住心に記されたインド哲学は多種で学術的である。精神と物質による二元論&lt;サーンキヤ学派&gt;、｢結果は原因によって生じ、原因の中に結果のすべての条件がある｣と説く因果論&lt;ヴァールシャ説&gt;、すべての存在は六種のカテゴリー(実体性・属性・運動性・普遍性・特殊性・内属性)によって説明できるとするカテゴリー論&lt;ヴァイシェーシカ学派&gt;、禁欲論&lt;ニガンタ派&gt;、唯物論&lt;ローカーヤタ派&gt;、宿命論&lt;アージーヴィカ派&gt;、不可知論&lt;サンジャヤ派&gt;などを空海は紹介している。</div><div>　これらの思想を踏まえたうえで、空海は仏教哲学全般の理解へと向かう。</div><div>　</div><div>　このように、空海の考察は多角的であり、第一住心の｢自然世界｣や｢生物の世界｣の章では、時代を越えたモダニズムの視点をもち、第十住心ではポスト・モダニズム的視野に到達する。つまり、近代科学的な自然観をもととした思想体系は、客観的な世界観から一旦、主観の有無の考察(小乗仏教思想)へと進み、抽象概念を具体とおき違える方向(大乗仏教思想)へと飛翔し、空海によって実在する絶対世界の大地&lt;マンダラ&gt;へと着地させられる。</div><div>　この思想段階がホワイトヘッドの思考プロセスに似ているのだ。</div><div>　ではどこがどう似ているのか、以下は、そのホワイトヘッドの主著となる『過程と実在』に記す｢有機体の哲学｣を読み解きながら、前述の空海の説く思想と比較してみたい。</div><div><br /></div><div><b>Ⅲホワイトヘッドの『過程と実在』</b></div><div>　アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861-1947)は、イギリスの数学者、哲学者である。1861年2月15日、イギリスのケント地方ラムズゲイトで生まれた。</div><div>　パブリックスクール卒業後、ケンブリッジ大学のトリニティ校に進学し、卒業後、同校の教官となり、数学を教えた。</div><div>　1910年から1913年にかけて、弟子のバートランド・ラッセル(1872-1970)と古典的な論理学の世界をまとめた｢数学原論｣を協同執筆する。</div><div>　1924年にアメリカのハーバード大学に招かれ、哲学教授になる。</div><div>　その哲学おいて、１７世紀から現代へと引き継いだ機械論的自然観(つまり、近代科学)を、それらが｢具体的な事態をしばしば誤った方向へ抽象化する｣間違いを犯していると指摘した。そうして、機械論によっては自然をとらえることはできない、自然は有機体としてとらえなければならないとし、その有機体としての自然と人との間には、人間を超越する普遍的存在が深く関わっているとした。</div><div>　また、世界はモノではなく、一連の出来事として実在しているとした。</div><div><br /></div><div>　それらの哲学をまとめたのが『過程と実在』である。</div><div>　その著作の中でホワイトヘッドは、世界で起きている諸事態を具体的にとらえるために、世界を構成するもっとも基本的な概念(例えば、実体、因果関係、量、質という類)を設定している。</div><div>　この設定をカテゴリー(範疇)というが、古今東西の哲学者たちの得意とするところであり、ギリシャ哲学のアリストテレスやインド哲学のヴァイシェーシカ学派はカテゴリーを存在の基本的なあり方と考え、カントは悟性の先天的概念と見た。また、科学の分野では論理的基礎となる観念(数学における数の観念、自然諸科学における因果律などの類)ともなる。</div><div>　では、ホワイトヘッドはどのようなカテゴリーの設定をしたのか、その中心を成す概念が｢現実的実質｣である。</div><div>　モノ・コトの実体とは固定的なものであるという観念を越えて、実体そのものを過程的に、あるいは出来事としてとらえることを現実的実質とホワイトヘッドは呼ぶ。そうして、そのような視点でとらえた世界は次のようなものであると定義付けた。</div>(１)実在する世界にあって、そこに存在するものすべては、その環境によって限定され、自らも限定する過程として現象しているものである。そうして、その過程として現象する一瞬の存在が過去となり、客体化することによって、それらが新しい与件となっていく。したがって、｢過程｣が客体化して｢実在｣となり、その｢実在｣が与件となって新しい｢過程｣を生む。<br />(２)過程と実在のすべては、アリストテレス哲学の｢生成の分析｣のように、｢消滅の分析｣として説くことができる。つまり、消滅して過去となった現象は、そのことによって客体化された実在として認知される。<br />(３)世界は、因と果を繰り返しながら生々流転している｢現実的諸実質｣(万象)を媒介にして、たえず自らを形成している有機体的全体である。<br />(４)上記のような世界においては、世界のうちのどれ一つをとっても、それだけで自存しているものはない。どれもみな、他のすべてのものとの関係なしには自存できない。<br />(５)物理的エネルギーの流れに、連続によってとらえる波動性と、非連続の粒子性があるように、過去・現在・未来へと連続する現象にも、それぞれに主体を成す非連続の個体が存在する。<br />(６)現実的実質は、どれもみな、物質面と精神面の両面性を具えていて、物質面は過去的なものによって因果的に限定され、精神面は未来的なものによって目的論的に限定される。このように現実的諸実質は、それぞれ自身の現実世界において、その世界に限定されながら、自らを限定するという仕方で、"多即一、一即多"的に自己形成作用に関わる。<br />(７)有機体としての自然と人の間に介在するものとして、人間を超越する普遍的存在｢神＊｣を設定するならば、その普遍的存在は他の有限な現実的実質と異なって、決して消滅せず、そのつど生成しつつある現実的実質そのものに内在する永遠的存在者としての立場にある。つまり、永遠の主体であり、尚かつ客体でもある。<br /><div>＊ホワイトヘッドは神の概念として三つあげている。一、神は法であり、世界は法に適合する。二、神は特定の人格をもった個体的実在である。三、神はあらゆるものの中にあり、あらゆるものは神である。というようなことであるから、ここでの神は、キリスト教だけを指しているわけではない。</div><div><br /></div><div>　以上のように、｢現実的実質｣の概念によってとらえられた世界は、｢過程｣から｢実在｣へ、｢実在｣からまた｢過程｣へとたえず移行しており、その移行している瞬間が｢現実的実質｣ということになる。</div><div>　この現実的実質として存在するモノ・コト&lt;客体&gt;の一瞬｢過程｣を、意識ある個体&lt;主体&gt;が物理的・精神的に感受する。その感受されたそれぞれの内容が、個体の中でイメージとして結合し、それが一つの経験となって記憶される。その経験が｢実在｣であり、｢実在｣は次なる現実的実質の与件となり、新たな｢過程｣となる。</div><div>　これらの現実的実質(色)と、それを個体が感受(受)することと、感受することによって個体に発生するイメージ(想)と、そのイメージによって記憶される経験(行)と、経験によって生じる知識(識)と、その知識という客体によってもたらされる、普遍的で永遠なる存在を象徴する｢神｣の概念、それらが、ホワイトヘッドの説く｢存在のカテゴリー｣の骨子である。</div><div><br /></div><div><b>Ⅳ二人の思想の七つの接点</b></div><div><b>その１　自然と人の間の｢神の存在｣</b></div><div>　さて、前述したホワイトヘッドの哲学のうち、現実的実質の概念は、仏教の説く｢因縁｣によってとらえられるモノ・コトに似ており、空海の『十住心論』第五住心に記すところであり、また、物質面(客体/多)と精神面(主体/一)の両面性によって、その一と多がたがいに融け入って、自己形成作用に関わるといった論理は、空海の説く第九住心の｢華厳経｣の次元と同じである。</div><div>　この次元において、ホワイトヘッドは神の存在を認めるのであるが、その神とは、有機体としての自然と人の間に介在する普遍的存在を象徴するものであり、華厳経に説く、ビルシャナ仏と同じ類である。</div><div>　そうして、空海はその上の第十住心の中心に、いのちの無垢なる知の永遠の存在を象徴する大日如来を置く。</div><div>　ホワイトヘッドの神は、前出の｢存在のカテゴリー｣概念の主体的形式(経験)の上の永遠的客体(普遍の知識、つまり真理)として設定されるものであり、有機体としての自然と人の間に介在する普遍的存在を指し示すものだから、神の概念をもって象徴する外はないとホワイトヘッドはいう。空海はそれを如来と呼ぶ。</div><div>　しかし、その神もまた一つの現実的実質であり、自らが与件となって、他の現実的実質の過程即実在として、世界の発展的な具体化に寄与する概念であるとホワイトヘッドはいう。</div><div>　その神と世界との関係を、ホワイトヘッドは以下のように定式化している。(『過程と実在』第５編第二章｢神と世界｣より)</div>(１)神が永続的で世界が流動的であるというのは、世界が永続的で神が流動的であるというのと同じであり、真実である。<br />(２)神が一で世界が多であるというのは、世界が一で神が多であるというのと同じであり、真実である。<br />(３)世界と比較して神が大いに現実的であるというのは、神と比較して世界が大いに現実的であるのと同じであり、真実である。<br />(４)世界が神に内在しているというのは、神が世界に内在しているというのと同じであり、真実である。<br />(５)神が世界を超越するというのは、世界が神を超越するということと同じであり、真実である。<br />(６)神が世界を創造するというのは、世界が神を創造するということと同じであり、真実である。<br /><div>－であるけれども、神と世界とは単なる互換概念ではなく、世界がまず多であり、そうして一とみなされて行くのとは逆に、神ははじめから一であり、そうして多とみなされうるという規定された過程をもつと。</div><div><br /></div><div>　因みに、以上の神の部分を大日如来と置き換えると、そのまま空海の説く、大日如来の理念となる。いのちの無垢なる知の永遠の存在を象徴する大日如来は、はじめから一であり、そうして多である。</div><div><br /></div><div>　このように神に言及したホワイトヘッドの哲学は、なるべくして、宗教をテーマとしていることになる。しかし、この神の概念は思弁の永遠的対象としてのプラトンのイデア＊近いものであり、その存在は絶対神ではなく、現実的実質と呼ばれるものの自己創造と、その感受に、与件を提供するものとしての存在に過ぎないものであるとホワイトヘッドはいう。ではあるけれども、この神の概念なくして、有機体としての自然と人を結ぶ領域に、人間の思念を辿り着かせることができない代物なのだ。その永遠的対象となるために、神は必然的に存在させられることになった。</div><div>　そのような神として具現化されたものの一つが、大日如来である。</div><div>　いのちの無垢なる知の永遠の存在、大日如来によって、有機体としての自然のありのままのすがたが宇宙に現出することができる。そのありのままのすがたをもつ一員として、人間も存在していると空海は説く。</div><div>　＊イデア：基(もと)となるすがた・かたち・現象などの意。プラトン哲学の中心概念で、感覚によってとらえられる世界の個々の背景にある、永遠不変に実在する原理・原型を指す。</div><div><br /></div><div><b>その２　｢素材｣と｢かたち｣との関係</b></div><div>　ホワイトヘッドが敬愛し、その著作『過程と実在』の中で｢西洋のすべての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない｣とまで言い切らせた、古代ギリシャの哲学者プラトン(紀元前427-紀元前347。ソクラテスの弟子でアリストテレスの師)の自然哲学『ティマイオス』によれば、</div>(１)世界は質料(素材)と形相(かたち)、イデアと現象とに分けられる。<br />(２)世界のすがたは、デミウルゴス(創造者)が善の似すがたとして作った包括的なものであり、唯一のものである。<br />(３)世界の形状は球であり、球体こそが完全なかたちであり、世界は円運動によってうごいている。<br />(４)世界の構成する質料は、火・空気・水・土の四種類であり、それらは数に還元できる。<br />(５)デミウルゴスは、昼と夜の区別ができるように太陽を作った。その太陽の運行が人間に数や時間の知識を与えた。だから、時間の概念は、太陽の運行と深く結びついている。<br /><div>(６)デミウルゴスは、世界に四種類の生きものを作った。神々(神と神に似せた人間）・空を飛ぶ鳥類・水中を泳ぐ魚類・陸上に生きるものたちである。</div><div>　と自然が定義付けされる。</div><div>　これらによって、世界は秩序と調和と美に満ちた有機体として存在しているのだという。</div><div><br /></div><div>　この自然哲学、空海がその著『十住心論』巻第一の｢自然世界｣(前述済み)や巻第九の｢華厳宗の至要｣で説くところと同じである。ホワイトヘッドが論拠とするところの世界観も空海の世界観も、基本的には東西の人々が、古(いにしえ)から共通して認識している自然哲学から出発し、真理へと向かっているのだ。</div><div>　例えば、プラトンの自然哲学にも掲げられる物質の｢素材｣と｢かたち｣の関係について、空海は『十住心論』の第九住心の｢華厳宗の至要｣の｢金(素材)獅子(かたち)章｣の説において、次のように記している。</div>(一)素材とかたちが同一時にそなわり、一致している状態。<br />(二)素材とかたちが別々にあって、それぞれが独立して分離されている状態。<br />(三)かたちだけを見れば素材は隠れ、素材だけを見ればかたちは隠れる。もし双方を二つながらに見れば、かたちと素材は共に、顕われたり隠れたりする。このように一と多が、つまり、一つの素材と、どのようにでもなる多くのかたちが、条件によって顕われたり隠れたりしている状態。<br />(四)かたちが、部分と全体によって成立していて、それらが重なり合って、尽きることなく関係し、限りなく映じ合っているという状態。<br />(五)部分となる一つのかたちに全体の多くのかたちをおさめてしまえば、すべては部分だけになってしまうが、もしも、もろもろの部分と全体の多くのかたちが同時におさめあって、ことごとくをそなえるならば、一と多は互いに融け入っているという状態。<br />(六)全体のかたちの中の部分のかたちのそれぞれに、全体のかたちをおさめてしまえば、部分のかたちは、全体の部分のどれにでもなれる。これが一すなわち多、多すなわち一であるとする状態。<br />(七)以上のようにすべてのかたちが、あるいは隠れ、あるいは顕われ、または一、または多、純または雑、力の有る無し、これとそれ、主と従の輝き、原理と現象としてそれぞれが等しく現れ、みなことごとくが互いを容れあい、独立し、互いをさまたげない状態を、一すなわち多、多すなわち一、一または多が同時にある状態という。<br />(八)かたちは作られたものであって、一瞬ごとに生滅し、一瞬も中断することがない。これを分けて三つの時間とする。過去・現在・未来である。これらの三つの時間にもそれぞれに過去・現在・未来があるから、時(とき)には九つの位相があり、これをまとめて一単位の位相とする。それらの融合した一単位の位相や、隔離された位相の違いがあるにしても、かたちが成立し、融けあってさまたげなく、かたちが同じに見えても、時間的には一瞬である状態。<br />(九)素材とかたちとは、一方が隠れ、一方が顕われ、一であったり、多であったり、それ自体に実体はなく、(観察者によって)原理となったり、現象となってとらえられる。だからすべては、意識の対象としてしか存在していない状態。<br /><div>(十)以上をもってしても、尚、かたちに実体はなく、素材は具体的に実体をあらわすということにこだわるのであれば、生存するための根幹をなす欲求、呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動を司る第八識に照らして、かたちと素材を相対的にとらえることに、もともとなんの必然性もないということをさとらなければならない。</div><div><br /></div><div>　これは一例に過ぎないが、その分析は緻密であり、このような論理的思索を重ねた後に、空海の思想は、第十住心のいのちの無垢なる知によって直観的にしかとらえることができない、実在する自然の有機的で包括的な世界観(マンダラ)へと向かう。その世界の把握の仕方が、ホワイトヘッドの｢抱握論＊｣と空海を結びつけるのだ。</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>＊抱握論の抱握は、ホワイトヘッドによる造語。英語のapprehensionの｢把握する｣という意味から、接頭辞のapを取り去り、術語としてのprehensionを作りだした。認識を超越した包括的把握を示す。</div></blockquote><div>　</div><div>　論理によっては、世界の本質に近づけない。それが空海とホワイトヘッドの共通した認識であった。そこで両者の考えたことの一つに｢神｣とか｢如来｣という媒体を創造し、それを人と自然・宇宙の間に介在させることであった。そのことはすでに説明した。</div><div>　その次に両者が考えたこと、それがホワイトヘッドの抱握論の｢直観的判断｣と空海の｢四種マンダラ｣なのである。</div><div><br /></div><div><b>その３　｢直観｣理論と｢マンダラ｣</b></div><div>　抱握論の｢直観的判断｣とは何か、前出の｢現実的実質｣とそのカテゴリーについては説明済みだが、ホワイトヘッドの抱握論は次のように展開している。</div><div>　まず、人間が主観と客観という関係にもとづいて、意識に直接与えられた感覚諸与件を、知覚作用を通して関係づけることによって、モノ・コトを主観的にとらえることが｢意識的知覚｣であるとし、このことを｢まず、一つの基底的な感受があり、そこから、主体に一連の感受の総体が生起する。次に、その生起した物理的感受から、知覚的と呼ばれる種類の命題的感受が生じる。意識的知覚とは、この知覚的感受と原生的な物理的感受とのコントラストによって生じる肯定と否定の感じである｣とホワイトヘッドは述べている。</div><div>　なかなか難解な表現であるが、つまり、見る側が主観(主体)であり、見られる対象が客観(客体)である。その関係において、主体があらかじめ経験と知識によって得ている(客体としての)赤と青とか、音色とか、草花の香りとか、たべものの味、固い軟らかいを知覚を通して感じ取ると、そこに正と否、快と不快、好きと嫌いの意識が生じる。そのようなことを｢意識的知覚｣という。</div><div>　だが、この認識は表面的であり、知性をもつ人間の認識はもっと複雑であるとホワイトヘッドは論じる。では、もっと高度な認識方法とはどのようなものなのかを論じたのが以下の｢直観的判断についての要約的分析｣である。</div>(１)モノ・コトの物理的想起(過去の経験による想起ではなく、即物的な想起を指す)と、そのモノ・コトが象徴（シンボル)する表示(サイン)の感受。<br />(２)物理的想起の言語化による文脈的感受。<br />(３)言語化による文脈的感受とシンボルサイン的感受の統合により導きだされた想像(イマジネーション)的感受。<br /><div>(４)イマジネーション的感受とシンボルサイン的感受との統合により導きだされた直観的判断作用。</div><div>　というものである。</div><div>この分析が、空海の説く｢四種マンダラ｣図の表現手法と見事に一致しているのだ。</div>(１)物理的想起のシンボルサイン的表現：｢サンマヤマンダラ｣<br />(２)上記の言語文脈的表現：｢法マンダラ｣<br />(３)言語文脈×シンボルサインによるイマジネーション的表現：｢大マンダラ｣<span class="Apple-tab-span" style="white-space:pre">	</span><br /><div>(４)イマジネーション×シンボルサインによる直観的判断作用：｢カツママンダラ」</div>となる。<br /><div>　&lt;補注&gt;</div><div>　・｢サンマヤ｣とは、サンスクリット語のサマヤの音写語。個別的な現象の様相を示すシンボルを指す。</div><div>　・｢法｣とは、宇宙存在の差別相は言語によって伝えられるから、広義の言語と解する。言語は単語と数量の概念を基本とするから、それらが意味の単位となり、その組み合わせによる文脈よって世界が表現される。</div><div>　・｢大｣とは、六大(地・水・火・風・空・識)よりなる宇宙現象のことであり、その全体像は言語文脈とシンボルサインによってイマジネーションされる。</div><div>　・｢カルマ｣とは、カルマンの音写語で、広義のはたらき、運動、作用を意味する。宇宙存在は止まることなく活動しているから、その様相はイマジネーションとシンボルサインによって直観的に判断されることを示す。</div><div><br /></div><div>　ホワイトヘッドにとって、抱握論の｢直観的判断｣の手法は、あくまでも認識の哲学であったが、空海は、同じ手法で世界の本質を具体的に図示することになった。それが｢マンダラ｣なのだ。</div><div>　また、ホワイトヘッドの到達した認識の究極が｢直観｣というところがユニークであり、それによってしか、有機体としての自然や宇宙、それに神を認識できないという。</div><div>　それに対し、空海の到達した仏教的認識の究極も、実は｢さとり｣にあり、そのさとりによってしか、マンダラの示す世界の本質にアクセスできないというのも、ホワイトヘッドの説くところと同じということになる。</div><div><br /></div><div>　さて、ホワイトヘッドの生きた１９世紀の後半と２０世紀の前半において、世界は近代ヨーロッパに生まれた機械論的自然観を脱皮し、有機体論的自然観をもととした科学へと向かい始めていた。その背景のもとに、彼のものの考え方も成立しており、対象とする事態を一連の出来事としてとらえ、その過程を実体として把握することを｢現実的実質｣と呼んだ。前にも述べたように、そのモノ・コトのとらえ方は仏教の説く｢因縁論｣に近く、また、｢存在のカテゴリー｣で分析された存在の認識要素は、仏教の｢五蘊(ごうん)｣に説く｢色受想行識｣に類似しており、哲学全体の主旨や論旨は｢華厳宗｣の心境の高みに立つものであった。そこからもう一段上がったところに空海の｢密教｣があるが、神的なものの存在肯定や、四種マンダラの表現手法が、ホワイトヘッドの説くところと同じであった。</div><div><br /></div><div>　その両者による洞察の一致は、次に、人間の存在行為、自己の超越、創造性、生命の自由へと及ぶ。</div><div><br /></div><div><b>その４　存在行為の根幹</b></div><div>　｢手を挙げ、足をうごかすのは皆、秘密の印契(身体)、口を開き声を発するのはことごとくこれは真言(言語)、心を起こし念を動ずる(意味)のはことごとく妙なる観想である｣と空海は説く。</div><div>　この｢身体的行為｣と｢言語的行為(文脈・伝達)｣と｢意味的行為｣の三つに、人間の存在行為の根幹(自己創造活動)があるというのが密教の教えの基本であり、ホワイトヘッドも人間の存在行為は三つの相から構成されると説く。</div><div>　一つ目が｢原初相｣である。身体的行為によってとらえられる反応であり、物理的であるから認識の対象は限定的であり、尚かつ、その対象は過去的なものによって因果的に限定されている。</div><div>　二つ目が｢補完相｣である。身体的行為によってとらえた体験を広義に意味での知性が補完する。つまり、因果的に限定された物理的体験を文脈や想像によって補い、自己創造活動を行なう。この活動によって、ある目的観念を未来に向かって実現するという仕方で、そこに物質と精神、両面の新しさが産みだされる。この活動を人間はその知性を司る言語によって行なう。</div><div>　三つ目が｢満足相｣である。過去的なものによって因果的に限定されながらも、未来的なものによって目的論的に限定されるという仕方で、人間は物質と精神、両面の自己実現を図るから、常に自己を超越したところで創造活動をしていることになる。だから、その自己超越されたところに達成感があり、満足がある。それが生きる意味であると。</div><div><br /></div><div><b>その５　自己超越体としての自己</b></div><div>　ホワイトヘッド的にいえば、前述の三つの相によって構成された現実的実質は、その自己創造過程において、多を一へと統合していきながら、その実体を成し、自己を実現する。実現し終えると主体としての役わりは消滅し、後につづく現実的実質に与件として客体化されることになる。</div><div>　このことが、主体は常に自己を超越したものとしてとらえられるというホワイトヘッドの主張の論拠となる。</div><div>　"主体はそのままにして自己超越体である"この考え方は、空海の説く法身(ほっしん)と同じである。法身とは、いのちの無垢なる知によって形成される、自然界のありのままのすがたかたちを意味するが、今日の科学によれば、生命の存在そのものと、多様な種と、遺伝と、個体の四つのすがたでもある。</div><div>　それらの四つの法身によって主体(多即一)があるから、主体は生まれながらにすでに、自己を超越した存在(一即多)なのだというのが、空海の見解である。</div><div><br /></div><div><b>その６　多と一と創造性</b></div><div>　そのように、空海のいう｢法身｣や、ホワイドヘッドのいう｢自己超越体｣としての主体が、互いに響きあって、自然の脈絡が構成されている。</div><div>　その自然の脈絡の中で成立した関係のネットワークは、特別の関係として個別化される一方、その個別は自然の脈絡という全体の中でのポジションを担ったものなのだ。</div><div>　その関係性によってとらえられものが｢有機体としての自然｣であるとホワイトヘッドは論じる。</div><div>　そこにあるのは環境という単一性と、その環境を構成している自然の多様性なのだ。</div><div>　この世界観とマンダラの構造とがそっくりなのである。</div><div>　そこにあるのは全体(大日如来)と、全体から生じる個々(菩薩・明王・天)であり、その個々のそれぞれに全体(大日如来)が宿り、全体を宿した個々がまた、全体を構成している。</div><div>　こうして、両者は｢多即一、一即多｣という創造性に着目する。</div><div>　ホワイトヘッドは創造性と多と一とを｢究極的なもののカテゴリー｣と呼び、この創造性こそがすべてを貫く純粋の活動であり、｢すべての形相の背後にある究極的なもの｣であると論じる。</div><div>　｢形相に実体はない｣という理論を紹介した空海も、その形相の背後にある創造性をしっかりととらえ、そこに実体があると唱える。そう、マンダラ図という形相の背後にあるのは、いのちの無垢なる知の永遠の存在を象徴する大日如来の｢一がそのまま多、多がそのまま一である｣というはたらきによる普遍の創造性なのである。</div><div><br /></div><div><b>その７　生命の自由</b></div><div>　｢生命は自由に向かっての努力である｣とホワイトヘッドは記している。こうした努力は、人間の場合はその経験によって、過去の繰り返しを否定し、それを越えでて、未来に向かって自由に新しさを創造する意識によってもたらされるのだと。</div><div>　また、その意識は動物においても、その本能を越えでて認められるものであり、人間もその"因果的効果の様態(進化論×生存本能)における知覚"を、他のすべてのものと共有していると説く。</div><div>　まさしく、空海の説く"いのちの無垢なる知"</div>(一)生命そのものの存在を司る生命知&lt;法界体性智(ほっかいたいしょうち)&gt;<br />とその生命知を構成している知<br />(二)生きる根幹を為す呼吸・睡眠を司る生活知&lt;大円鏡智(だいえんきょうち)&gt;<br />(三)衣食住の生産とそれらの相互扶助を司る創造知&lt;平等性智(びょうどうしょうち)&gt;<br />(四)万象の観察・記憶・編集を司る学習知&lt;妙観察智(みょうかんざっち)&gt;<br />(五)運動・作業・所作・遊びを司る身体知&lt;成所作智(じょうそさち)&gt;<br /><div>とを、人間は他のすべての生きとし生けるものと共有しているのだ。</div><div><br /></div><div>　それらの事事無碍(じじむげ：原理を取っ払って｢事｣だけを見ても、さまたげ合うことなく溶け合っている状態。華厳思想では、現実世界をモノ・コトの｢事｣としてとらえ、その｢事｣の裏側ではたらいている原理を｢理｣という。この｢事｣と｢理｣が渾然一体となって、さまたげ合うことなく溶け合っている状態は理事無碍である)の法界(ほっかい：真理の現れとしての世界)にあって、"間違いのない秩序をもって、生命は自由へと向かう努力である"と、空海もホワイトヘッドもさとった。</div><div>　ここに、両者の思想の確かな接点がある。</div><div>　一方は東洋において華厳や密教思想と呼ばれ、もう一方は有機体の哲学と呼ばれる西洋のポスト・モダニズム思想が、同じところに辿り着いていたのだ。</div><div>　この合流点から、生命は新たな自由へと向かうー</div><div><br /></div><div><b>Ⅴ二人の時代背景</b></div><div>　因みに、ホワイトヘッドの生きた近現代と、空海の生きた奈良末期から平安の初頭とでは、一千年の間がある。</div><div>　空海の時代とは、新興国としての日本が大陸からの文化を積極的に取り入れていたときであり、空海も唐に留学し、インドを源流とする最先端の文明を長安に見聞し、その多くの思想と技術を学んでいる。その状況はさながら、近代のモダニズムのごとき様相を呈していたように思う。</div><div>　その咲き開いていた思想は、彼の主著『十住心論』に説かれる通りである。</div><div>　それに対し、近代西洋文明の熟成期から転換期を生き、ポスト・モダニズムの思想を唱えたのがホワイトヘッドである。</div><div>　ホワイトヘッドの思想の普遍的な手引書となったプラトンの自然哲学『ティマイオス』は本文でも紹介したところだが、その次に、数学者でもあった彼が高く評価していたのが、ニュートン(1642-1727)の力学体系『自然哲学の数学的諸原理』(通称、プリンキピア。ガリレオやケプラーなどの先人により、すでに定量的に発見・研究されていた｢物体の運動と力の関係｣を数学的記述を用いて体系的にまとめた書)である。</div><div>　この二者の書物を、ホワイトヘッドは西洋的自然理解のための重要な文献とした。</div><div>　プラトンによれば、世界は創造者によって｢統一｣と｢形相｣と｢秩序｣を維持し、あらゆるものの美的、幾何学的概念を表わしていることになるが、そのことをニュートンの力学によって証明できるからである。</div><div>　また、ホワイトヘッドの時代は、ダーウィン(1809-1882)が唱えた｢進化論｣によって、それまでの宗教的世界像に劇的な衝撃が与えられた。</div><div>　すべての生物のかたちは、神が作ったのではなく、共通の祖先から、長い時間をかけて、自然選択というプロセスを通して、進化してきたというのである。それは、近代文明の発展によって、各地の大陸や島への探検が可能になり、地理別に異なる生物の種が発見された結果である。</div><div>　その極めて現実的で実質的なモノ・コトの時系列の克明な観察によって、真理を追究しようとする姿勢は、ホワイトヘッドの哲学にも見られ、そこに近代が現代へと移行する時代の息吹を感じ取ることができる。</div><div>　それと、ホワイトヘッドがほぼ同時代的に体験することになったのが、アインシュタイン(1879-1955)の｢相対性理論｣である。｢光｣や｢重力｣という作用主体が、｢時間｣と｢空間」と｢質量｣に作用を及ぼしているという理論であり、すべての存在は、作用主体と作用との相対性によるから、絶対の場は宇宙には存在しないということになる。そう、すべての存在は｢関係｣と｢プロセス｣と｢出来事｣でしかないのである。</div><div>　そのような時代にあって、ホワイトヘッドはその哲学的思索を重ねていたのだ。</div><div>　そうして、その思索が辿り着いたところに空海がすでにいた。</div><div><br /></div><div><b>まとめ</b></div><div>　前文において、｢ホワイトヘッドの思想の辿り着いたところに空海がすでにいた｣としたが、では、その合流したところで、二人の思想はどのような接点をもっていたのか、もう一度、確認すると、</div>１、世界には、自然と人の間に介在する永遠的なるものがある。(それをプラトンは｢イデア｣といい、ホワイトヘッドは｢神｣といい、空海は｢如来｣とした)<br />２、｢素材｣と｢かたち｣は、存在の関係を考察するうえでの不変のテーマとなる。<br />３、｢直観｣の中にこそ真理があり、その直観を構成しているのは｢シンボル・イメージ・単位(言語と数量)・作用｣の四つである。<br />４、存在行為の根幹とは、｢身体的行為｣と｢言語的行為(文脈・伝達)｣と｢意味的行為｣の三つである。<br />５、自己は自己を超越した存在である。<br />６、環境という単一性と、その環境を構成している自然の多様性に見られるように、｢多即一、一即多｣の関係性の中に、すべての創造性がある。<br /><div>７、生命の自由とは、自然の秩序に守られたありのままの法則にしたがう自由である。</div>ということになる。<br /><div><br /></div><div>　空海とホワイトヘッドは、それらの思想的接点を基点として、有機体的自然の前に立っていたのだ。</div><div>　そこは、エコロジカルな世界を目指す、わたくしたちの文明の起点でもある。</div><div><br /></div> ]]>
        
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    <title>空海の自然思想を読む</title>
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    <published>2011-09-30T09:59:15Z</published>
    <updated>2012-02-01T09:17:13Z</updated>

    <summary>Ⅰ山岳修行　ある一人の修行者がいて、わたくしに｢虚空蔵(こくうぞう)求聞持法(ぐ...</summary>
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        <![CDATA[<div><b>Ⅰ山岳修行</b></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>　ある一人の修行者がいて、わたくしに｢虚空蔵(こくうぞう)求聞持法(ぐもんじのほう)｣を教えてくれた。その法を説く経によると｢もし人が、この法によって真言一百万回唱えたならば、たちまちにあらゆる経典の文句を暗記し、その意味を理解することができる｣という。</div><div>　そこで、ブッダの説かれたその真実の言葉を信じて、木を擦って火を起こすように怠ることなく、阿波の国の大滝嶽(たいりょうのたけ)によじ登り、土佐の国の室戸崎(むろとのさき)で修行に励んだ。</div><div>　すると、(岩壁の上で真言を唱えていると、そのこだまが)谷間に鳴りひびき、(岬の磯の岩の上で荒海に向かって座っていると)夜明けの明星が突然、わたくしの中に飛び込んで来た。(それが、真言一百万回目の成就の証しであった)</div><div>　こうして、わたくしは世俗の栄華を、ますます厭うようになり、山林にたちこめる靄(もや)の中での生活を朝に夕に慕うようになった。</div><div>　都での軽やかな衣服と肥えた馬、そのような豊かな暮らしがいつまでもつづくものではなく、すぐさまにも消え去る虚しいものだと思い、障害を背負った人や、つなぎあわせのぼろぼろの衣服をまとった貧困の人を見ると、どういう因果でそうなったのかと哀しみは尽きなかった。</div><div>　そのような訳で、目にするものみなが、わたくしに世間を捨てて出家することをすすめているようであった。</div><div>　誰も吹く風をつなぎ止めることができないように、誰がわたくしのこの思い留まらせることができるだろうか。&lt;『三教指帰(さんごうしいき)』巻の上、序より/空海二十四歳(七九七年)の著作&gt;</div></blockquote><div><br /></div><div>　七七四年、空海は讃岐(さぬき)国多度郡(たどのこおり)屏風ヶ浦(びょうぶがうら)の善通寺で誕生した。幼名は真魚(まお)。父は多度郡の郡司、佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)善通(よしみち)、母はこの地の氏族、阿刀(あと)氏の出で、阿古屋(あこや)という。</div><div>　十三歳で地元、讃岐の国学(地方官吏養成所)に入る。</div><div>　十五歳で都に出て、母方の叔父で、桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった阿刀大足(あとのおおたり)から、論語・孝経・史伝・文章等を学ぶ。</div><div>　十八歳で奈良の大学の明経科に入学し、中国春秋時代の政治・外交・自然災害史や、中国最古の詩歌、中国歴代帝王の言行録等を学んでいたが、それらを早々とマスターしてしまった空海は、二十歳前後で生きることとは何かを求め、山岳修行に入ったとされる。</div><div>　その修行体験と心情を、青年期の空海が綴ったものである。</div><div>　文中に出てくる｢求聞持法｣のテキストは、インド僧の善無畏(ぜんむい)三蔵が漢訳したものを、入唐し善無畏にも師事した大安寺(だいあんじ)の道慈(どうじ)が七一八年に日本に持ち帰ったものだ。このテキストによって、当時、多くの者が修行に励んだ。</div><div>　同じ言葉を繰り返し唱えながら、無心に山野を駆け巡り、湧きだす煩悩や詰め込まれた知識からおのれを解放し、自然とともに生きる無垢なる知のちからをもっている、ありのままの身体に目覚めようとする修行である。</div><div>　この仏法の原点に立ち戻る、ブッダも行なった苦行によって、頭脳はリセットするのだ。青年空海はそのことをさとった。そのことによって、情報はいくらでも吸収できるようになる。その実質的な修行体験が、空海を官位栄達の道から、仏道へと向かわせた。</div><div><br /></div><div><b>Ⅱ山中座禅</b></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>山中に何の楽しみがあって</div><div>こんなに長く帰ることを忘れてしまったのか</div></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>一冊の秘典とつぎはぎの衣が</div><div>雨に濡れ、雲にしめり、塵にまみれて飛ぶ</div><div>谷川の水一杯で、朝はいのちを支え</div><div>山霞を一飲みして、夕に英気を養う</div><div>山での衣服はたれさがったつる草と細長い草で充分</div><div>いばらの葉に杉の皮を敷いた上がわたくしの寝床</div><div>(晴れた日には)恵みの天が青空となってひろがり</div><div>(雨の日には)まごころある水の精が白いとばりをつらねる</div><div>(わたくしの居る場所に)野鳥が時おりやって来て歌をさえずり</div><div>山猿は目の前で軽やかにはねて、その見事な芸を披露する</div><div>(季節になれば)春の花、秋の菊がわたくしにほほえみかけ</div><div>明け方の月、朝の風がわたくしのこころを清々しく洗う</div><div>(この山中で)自分の身体と言葉と思考による無垢なる三つの知のはたらきが</div><div>ありのままの自然と一体となって存在している</div><div>今、一欠けらの香を焚き、立ち昇る煙りを見つめ、真理の言葉を一口唱えると</div><div>それだけのことで、わたくしのこころは充たされる</div><div>そこに生きていることのさとりがある&lt;『性霊(しょうりょう)集』巻第一、｢山中に何の楽(たのしみ)か有る｣の詩の一節/空海二十代半ばから後半の作&gt;</div></blockquote><div><br /></div><div>　前述の｢求聞持法｣の修行を"動"とするならば、この詩であらわされているのは"静"である。さとりを求める青年空海の山中での座禅修行が描かれている。</div><div>　紀元前に仏教の開祖、インドのブッダも座禅による呼吸法を説いた。</div><div>　｢入息・出息を整え、こころを呼吸に集中すれば、すべての動植物の息づかいとこの身を一体化できる。そうすれば、すべての生命のもつ微細な知のはたらきに気づくだろう。そこに、こころの本性がある。そうして、こころは清浄である｣と。</div><div>　その呼吸法と同じことを青年空海も行なった。</div><div>　この山中には、地(固体)・水(液体)・火(エネルギー)・風(気体)・空(空間)という自然の構成要素&lt;五大(ごだい)&gt;があり、その要素によってつくり出された生命のありのままのすがた&lt;法身(ほっしん)&gt;があり、そのありのままのすがたが発揮している無垢なる知の行為、動作・伝達・意思&lt;三密(さんみつ)&gt;がある。</div><div>　それだけのことで、青年のこころは充たされたのだ。</div><div>　そこに、大和国(やまとのくに)高市(たけち)郡(こおり)に所在する久米寺(くめでら)で空海が発見し一読した『大日経』の説く、密教のさとりの｢理念｣と｢実修｣の、その理念と同じ世界があった。</div><div>　さらにそこには、山岳修行(奈良時代の初期に元興寺に来た唐僧の神叡は、吉野の比曽山寺に篭り、｢求聞持法｣を修して、仏法の原点となる行を積んだ。これが｢自然智宗｣と呼ばれ、山林修行の始まりとなる。また、森羅万象には神が宿るとする日本古来の信仰と仏教が習合し、道教、陰陽道などの要素が加味された修験道は、各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り、厳しい修行を行なうことによって自然のもつちからとわが身を一体化させ、そのちからをもって山水に遊び、あるいは衆生の救済にあたった)によって開かれた、神仙思想の仙境の地が広がっていた。</div><div>　密教がすべてを一つに結びつける。そのことを青年空海はすでに理解していた。</div><div><br /></div><div>　因みに、インド僧の善無畏三蔵が七二五年に中国にもたらし、漢訳をした『大日経』の書き写しが所蔵されていたという久米寺のあった高市郡(住人の九割を渡来人が占めていた)は、青年空海の仏教の師であった勤操(ごんぞう：海外からの渡来僧を含め、九百人近くの僧が居住し学んでいた大安寺の学僧、今でいえば国立の仏教総合大学の先生)の出身地であり、当然ながら、日本に｢求聞持法｣を伝えた道慈の弟子であった善議(ぜんぎ)、その善議に学んだ先生は、三論と密教を兼学されていたから、先生のアドバイスによって、空海は不二の法門の秘典『大日経』に、当時の日本の国際交流都市、高市の地で出合うことになったと思うが、この時期の空海が山での修練だけではなく、里での大安寺を中心とした仏道修学と、大陸伝来の各種技術、それに語学(唐語・サンスクリット等)を多くの渡来人との親交によって、身をもって学んでいたと察せられる。</div><div><br /></div><div><b>Ⅲ日光開山記</b></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>　七八二年三月中旬、(わたくし勝道は)今回は(日光男体山に)登頂するまで絶対にあきらめないとの覚悟を決め、周到に準備をし、山麓に着いた。そこに一週間滞在し、日夜、登頂の成功を祈願した。</div><div>　(そうして、頂上を目指すときが来た)雪の白くつづくところを越え、きらめく緑のハエマツの茂る崖をよじ登った。崖の上から頂上まではもうあと少しの距離であったが、からだは疲れ果て、体力を消耗してしまったので、その場に二泊して体力を回復し、とうとう頂上に立った。</div><div>　(中略)</div><div>　この山のかたちは、東西は龍がうつぶせに寝た背中のようであり、その眺望は果てしなく、南北は虎がうずくまったようであり、住んでみたくなる風情がある。</div><div>　北方(今日の川俣湖の方向)を眺めると湖があり、その広さはざっと計算すれば一百頃(けい：中国の地積単位。一頃は百畝)。東西は狭く、南北は長い。</div><div>　西方をふり返ると、やはり一つの小さな湖(湯の湖)があり、二十余頃はありそうだ。</div><div>　西南方に目を向ければ、さらに大きな湖(中禅寺湖)があり、広さは千余町(一町も百畝)もありそうだ。南北は広くないが、東西は長く伸びている。その湖面は、まわりをとりまく高い峰々の影を逆さに映し、そこに映し出された山肌は、種々の植物と岩石が織りなす奥深い色合いを帯びている。この季節、白銀の残雪を敷きつめるところに春の花が咲き、その花びらが陽光に照らされて枝の先で金色に輝く。それらのいろんな色の陰影・濃淡を、鏡のような湖水がありのままにとらえている。</div><div>　その山と水が無心に互いを映しているすがたに、思わず、わたくしは涙ぐむ。</div><div>眺め、たたずみ、まだ見ていたいのに、突然の雪まじりの風がそれらの景色をかき消し、人を追いたてる。</div><div>　わたくし勝道は小さな庵(いおり)を西南(中禅寺湖側)の隅に結び、登頂成功を自然の神々に感謝し、祈りを捧げるために、そこに二十一日間滞在して勤めを行ない、その後、下山した。</div><div>　七八四年三月下旬、(仲間を連れて)再び日光男体山に登り、五日を経て中禅寺湖のほとりに着いた。</div><div>　四月上旬に、そこで一艘の小舟を造りあげた。長さ二丈(一丈は十尺)、巾は三尺(一尺は約三十センチ)。さっそく、わたくし勝道と二、三人が一緒に乗り、湖に棹をさし、遊覧した。</div><div>　湖上より周囲の絶壁を見まわすと、神秘的で美しい景色が広がっている。東を眺め、西を眺め、舟の上下の揺れにあわせて自然とこころもはずむ。</div><div>　まだまだあちらこちらを遊覧していたかったが、日暮れには南の中洲に舟を着けた。その中洲は陸から三百丈足らず離れていて、広さは四方三十丈余り。多くの中洲のうちでも、勝れて美しい場所であった。</div><div>　(次の日は湖を基点として西方向の)西湖(西の湖)に出かける。中禅寺湖からは十五里ばかり離れている。また、(別の日には北方向の)北湖(湯の湖)を見に行った。中禅寺湖からは三十里ばかり離れている。いずれも美しい湖であるが、中禅寺湖の美しさにはとうてい及ばない。</div><div>その中禅寺湖の緑色の水は鏡のように澄み、水深は測り知れない。</div><div>　湖面の水際には樹齢千年の松などの常緑樹がおおいかぶさり、岩の上には巨大な檜や杉が突っ立ち、紺色の楼閣のようである。</div><div>　たった一株から、五色の花がまざりあって咲く山あじさいは茂り、朝・昼・夕・晩・深夜、明け方には、同じさえずりで、それぞれに異なる鳥が鳴く。</div><div>　白い鶴はなぎさに舞い、青い水鳥が湖面にたわむれている。それらの鳥の羽ばたきは風に振れる鈴のよう、その鳴き声は玉のひびきのよう。</div><div>　松の葉は琴線となって風の音色を奏で、岸は鼓となって寄せる波の調べを打つ。</div><div>　それらの自然の奏でる音階がたがいにひびき合って天の調べとなり、湖水は甘く・冷く・軟らかく・軽く・清く・臭みなく・のどごしよく・何一つ悪いものを含まず、ゆったりとしてありのままに貯えられている。</div><div>　湧きだす霧や雲は、水の精が辺りをおおういつもの仕わざであり、星のきらめきと稲光は、天空の神、明星がしばしばその手を虚空に入れ、それらを掴もうとしているからである。</div><div>　今、湖面に映る満月を見ては、ありのままに生きるということを知り、空中に輝く太陽を仰いでは、すべてのいのちが日の光りの恵みによって生かされていると知る。そのいのちもつ無垢なる知に、すべてが映し出されているのだ。わたくし勝道にも、その知が具わっている。&lt;『性霊集』巻第二、｢沙門勝道(しゃもんしょうどう)山水を歴(へ)て玄珠(げんしゅ)をみがくの碑｣の序より/空海四十一歳(八一四年)の著作&gt;</div></blockquote><div><br /></div><div>　七三五年、勝道(しょうどう)上人は下野芳賀(しもつけはが：現在の栃木県真岡市)に生まれた。幼名は藤糸丸。</div><div>　幼少の頃より、蟻のいのちですら殺生しなかったという。青年になってからは、自然とともに生き、その自然に祈る道と場を求めた。</div><div>　その青年が、後に二荒(日光)開山の祖となった。</div><div>　上人は、八一七年に八十三歳で亡くなられるが、その三年前に人を介して、名勝の地、日光山と中禅寺湖周辺の｢山水遊記｣の執筆を空海に依頼した。</div><div>　仲介者と空海は昔からの知り合いだったので、これを引き受けることにした。空海四十一歳のときである。</div><div>　その空海執筆による、上人を主人公とした、我が国最初の｢登山記｣ともなる文章の一節である。</div><div>　上人が日光男体山に初登頂(七八二年、春)したとき、空海は真魚(まお)と呼ばれる、まだ八歳の少年であった。その少年が成長し、あらゆる学問に通じながらも、二十歳の頃には大学を去り、山のやぶを家とし、瞑想をこころとして、山林に入り修行をした。そう、空海もまた、自然と人間のこころの関わりをよく理解している人であった。だから、日光山における勝道上人の行状をまるで見ていたかのように記述できたのだ。その文章に目を通し、上人は大いに満足したものと思う。そこには、上人と同じ澄んだ目とこころをもつ、空海が同行していた。</div><div><br /></div><div><b>Ⅳ雨と農業</b></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>　(天皇は)飢饉のために自らも食事を減らし、朝な夕なに人びとの暮らしを心配された</div><div>また、寺々の僧を促して雨乞いの修法をさせ</div><div>　山々に使者を走らせ、すべての行者たちに祈らせた</div><div>　そのように、老いも若きも一緒となって祈りを捧げた結果、それらの祈りが天に届き、　うっすらと雲が湧き起こり</div><div>　祈りに合わせて、雨足がはげしくなった</div><div>　(降りそそぐ大量の雨によって)</div><div>　甘露のような、乳のような、バター油のような雨水が</div><div>　もうもうとしぶきを上げ、まんまんとして山谷を流れ</div><div>　(京都洛西に位置する弓月の王の子孫の住む里の)桂の山の嶺から落ちる滝の水は(月神神話の月のなかにいる)うさぎをも溺らしてしまうほど</div><div>　稲田の水路も牛を水没さすに充分</div><div>　草木は青々として、その葉の一枚ずつに雨の滴が真珠のように光り</div><div>　広々とした池に湛えられた水は青い宝石のよう</div><div>　農民たちよ、もう心配することはない</div><div>　早く見に行こうよ、早稲(わせ)も晩稲(おくて)も苗(なえ)は無事であった</div><div>　南の田んぼでは苗が生長し、緑豊かに茂っている</div><div>　東の畑では(豊作を祝い)どんどんと打ち鳴らす太鼓に合わせて、農民が集い歌っている</div><div>　(中略)</div><div>　自然に雨さえ降れば、食物と衣服は天から授かることができる</div><div>　民は日の出とともにはたらき</div><div>　日が沈めば、休息する</div><div>　井戸を掘って水を飲み</div><div>　田を耕して自ら食う</div><div>　(そうなれば)天子のちからなど必要なくなるだろう&lt;『性霊集』巻第一、｢雨を喜ぶ歌｣の詩の一節/空海五十一歳(八二四年)の作&gt;</div></blockquote><div><br /></div><div>　嵯峨天皇の在位中(八〇九～八二三)とその前後を含め、日本は幾度も大干ばつに見舞われた。その度に日照りによって山火事が起こり、稲田と粟畑を焼き尽くし、山と河も焦げ、鳥も魚も死んだ。</div><div>　歴代の天皇は民を救済するため、その知恵をもってあらゆる努力をされた。そうして、自らも質素な生活に入られ、人びととともに雨が降るように祈られた。</div><div>　天皇と人びとの祈りによって、やがて、雨が降り始める。その喜びを、空海が詠った一節である。</div><div>　八二四年の二月に淳和天皇の勅により、空海は神泉苑で祈雨の修法を行なっている。また、八一八年の四月にも、藤原冬嗣の要請により最澄が叡山の僧すべてを率いて祈雨の修法を行なったという。両者ともその修法によって雨を降らせているが、この時期、頻繁に大干ばつが起きていたことになる。</div><div>　その祈雨を詩のテーマとしながらも、空海は自然とともに生きる人間や社会のありようを詠う。そうして、為政者の心がまえ、農民と生産、生活の原理、それに道家の理想とする政治の"無為"を説いている。</div><div>　そこには、日本列島という風土のなかでともに暮らす民衆の幸福を願う、空海の大きな祈りがある。</div><div><br /></div><div><b>Ⅴ治水と利水</b></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>　古より、夜空に輝く五穀(稲・麦・粟・ヒエ・豆)の豊饒をもたらす星座のちからと</div><div>　天上の広大なる銀河の流れの恵みによって、地上に雨が降りそそぎ</div><div>　(その雨によってできた)湖水と海水からあらゆる生物が誕生し、いのちは水によって潤い、生きることができる。</div><div>　その潤いのおかげで、植物という植物がよく茂り</div><div>　あらゆる動物は、その植物を衣食住として生きられる。</div><div>　星の気のちからと四季ごとに八方から吹く風が、生物を豊かに育て</div><div>　(物質といのちをつくりあげている)自然の元素の中で、水の元素こそがいのちの源である。</div><div>　水の元素のもたらす限りない恩恵は、何と遠大なるかな、偉大なるかな。</div><div>　(中略)</div><div>　カモの群れのように水路を行き交う青色の舟は次々と土を運び、数千頭の馬が毎日駆りだされ、その馬のように速く走る赤色の舟は人を乗せ、百人単位の人夫は夜を徹して、来る日も来る日も休みなくはたらいた。</div><div>　荷馬車はゴウゴウと稲妻のごとくに走り、男女の人夫がドンドンと雷の落ちるように現場に集まる。</div><div>　土はコンコンと降る雪のように積み上げられ、堰堤(えんてい：長さ南北約二百メート、高さ八メートル、堤の幅約三十メートル)はたちまちにして、雲のように盛り上がった。</div><div>　その築造しているすがたは、まるで霊なる神が巨大な手で土をこねているようだし、そのこねた土を大きな炉で焼き上げているかのようであった。</div><div>　そうして、またたく間に日数をかけずに工事は完成したのだ。</div><div>　この人工の池をつくったのは人間であるが、それを可能にしたのは天のちからである。</div><div>　(中略)</div><div>　(広大な貯水池の背後の)松の緑が茂る嶺の上を白い雲はゆるやかにうごき</div><div>　檜隈川(ひのくまがわ：今日の高取川)の水は激しく流れる。</div><div>　(その水を湛えた貯水池の水面には)春になれば紫や黄色の草花が刺繍のように映り</div><div>　ここを訪れた者に帰ることを忘れさせ</div><div>　秋になれば広がる紅葉の錦の林が</div><div>　遊ぶ人びとをあきさせない。</div><div>　オシドリとカモは水に戯れて鳴き</div><div>　黒と白のサギの仲間は渚に遊んで、羽をひろげて舞い競う。</div><div>　亀はのそのそと首を伸ばし</div><div>　フナと鯉が尾ひれで水面をたたく。</div><div>　カワウソはたくさんの魚を捕らえて並べ</div><div>　成長した鳥のひなが餌を口にくわえ母鳥に恩返しをする。</div><div>　満々と湛えられた湖面は大空を呑み込み</div><div>　重なる山々はその影を逆さに映し</div><div>　その深さは海のようだし</div><div>　その広さは中国の大河にも負けない。</div><div>　長安の人工池である昆明池をも小さいと笑い</div><div>　インドの高地にある雪解け水を湛える広大なる湖をものともしない。</div><div>　虎が強がって湖面をたたけば</div><div>　さわぐ波は夜空の銀河にそそぐというが</div><div>　水神である龍が唸って大雨を降らし、堤を決壊させようとしても</div><div>　この貯水池の水量は(大きな木製の配水管によって)調整されている。</div><div>　(中国の荘子のいう)水の精の河童ですら、この堤防を溢れさすことはできず</div><div>　干ばつを起こすという女神も、この水底を涸らすことはできない。</div><div>　大和の国の六つの郡はおかげで潤い</div><div>　貯水池からの水は、それらの郡の小川に引き込まれ、豊かに流れ、田畑にそそぐ。&lt;『性集』巻第二、｢大和(やまと)の洲(くに)益田(ますだ)の池の碑銘｣の序より/空海五十二歳(八二五年)の作&gt;</div></blockquote><div>　</div><div>　この文は空海と親交のあった大伴国道(おおとものくにみち)らのチームによって、大和(奈良)の国の益田の溜池が築造(八二五年九月竣工)されたときに、工事のアドバイザーを務めていた空海が、求められて記したものである。</div><div>　あらゆる生物のいのちの根源である水、その水の水脈と水質、治水と利水、水上運送と港湾づくりは、空海の自然思想の実践を象徴する事柄である。彼の生涯にわたる社会活動において、水との関わりは切り離せない。</div><div>　その実践のなかに、満濃池(まんのういけ)の修築がある。</div><div>　空海のふるさと四国讃岐は、昔から雨が少なく、田畑を潤す溜池を多く必要とした。その一つに満濃池があった。この溜池は、七〇一～七〇三年に国司の道守朝臣(みちもりのあそん)によって築かれたが、幾度も洪水によって決壊していた。</div><div>　八一八年、讃岐の国は大洪水に見舞われ、溜池は大きく決壊し、修復工事は難航を極め、三年を掛けても完成しなかった。</div><div>　このとき、溜池のある多度郡の農民たちが、当時の国際都市、唐(中国)の長安に留学して仏教の教えとともに、工芸と建築土木と天文暦学・医学・語学と文芸・論理学等の最先端の学問と技術を学んで帰国していた地元出身の空海に、ぜひともこの困難な工事の監督をしてほしいと、国司をつうじて朝廷に願い出た。</div><div>　朝廷の命により、八二一年の六月、空海(四十八歳)はかねてから親交のあった、当時大和国(やまとのくに)高市(たけち)周辺に多く居住していた渡来系集団のもつ先進技術情報とともに、彼らと縁のある地元の秦氏の人びとの協力を得て、さっそく現地入りする。</div><div>　まず、堰堤の形状をそれまでの日本では見たこともないアーチ型にすることを指示し、水圧に耐えうる強固なものとした。つぎに、貯水量を調整できる排水路を天然の岩盤部分をくりぬいて設け、洪水を防ぐように工夫した。また、土手の水際の波浪による侵食や、水面の上下による表面土砂の流出を防ぐために最新の護岸工事を施した。</div><div>　こうして、三年間も手のつけようもなかった決壊要因を解決し、二ヶ月間の集中工事で秋の台風シーズン前には工事を完成させたという。</div><div>　(この日本で初めてのアーチ式ダムは、その後も時代ごとの土木技術の英知を結集し、改良を加えながら一千年以上を経た今日も、満々と水を湛え、広大なる丸亀平野の田地を潤している)</div><div>　この工事から四年後に大和国高市の地にある益田の池の竣工にあたって、空海は頼まれて池のほとりに建てる碑文とその序を記した。</div><div><br /></div><div><b>Ⅵ自然の誕生</b></div><div>　｢生物の住みかとなる自然世界の全体詩｣</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>　自然(地球)はどのようにして誕生したのだろうか</div><div>　気体(ガス)が初めに空間に充満し</div><div>　(そのガスが凝縮して)</div><div>　水と金属がつぎつぎと出て</div><div>　(水蒸気は大気に満ち、重い鉄は中心部に集まり)</div><div>　地表は金属を溶かした火のスープでおおわれた</div><div>　(やがて、地球全体が冷め始めると、水蒸気は雨となって地表に降りそそぎ)</div><div>　深く広大な海となり</div><div>　(冷めて固形化した巨大な岩石プレートはぶつかりあい)</div><div>　地表は持ち上がり、山々は天空にそびえ立った</div><div>　(そうして、出来上がった空と海と)四つの大陸と多くの島に</div><div>　あらゆる生物が棲息するようになった&lt;『十住心論』巻第一、｢自然世界｣の章より/空海五十七歳(八三〇年)の著作&gt;</div></blockquote><div><br /></div><div>　八三〇年、空海五十七歳のとき、淳和天皇は各宗にそれぞれの宗義要旨を提出するように勅を下した。それに答えて空海が提出したのが『十住心論』十巻の大著である。</div><div>　この著作において、インド伝来密教第八祖としての空海は、インド・中国のそれまでの人間思想を体系的に第一から第十までの十段階にまとめ、その頂点に密教思想を位置づけた。</div><div>　さて、その第一段階において、こころ、すなわち意識が存在するのは、地球上に自然があり、自然によって生命が生かされており、その生命が意識をもち、意識が生存欲となり、やがて知性へと発達することから、思想を生む大もとは自然の存在にあるとした。その自然の誕生を全十巻に及ぶ膨大なる人間思想体系の最初に空海は記したのだ。</div><div><br /></div><div><b>Ⅶ実在する自然</b></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>　なんと大空は広々として静かなのか</div><div>　万象を天地自然に一気に含み</div><div>　大海は深く澄みとおり、水という一つの元素にさまざまな生命が宿る。</div><div>　このように一は無数の存在の母胎であると知ることができる。</div><div>　(同じように)空(くう)はあらゆる現象の根本である。</div><div>　(以上が相対を超えた絶対世界のすがたである。その中で)</div><div>　それぞれの現象は不変に存在しているものではないから空であるというが</div><div>　それでも一切のものがそのままに存在している。</div><div>　この絶対世界の存在においては、空は実在であり</div><div>　現象は不変の存在としてとどまることがないから、実在するけれども空である。</div><div>　(このように)存在するものは空と異ならないから、もろもろの現象が起きても、それらはそのままに空であり</div><div>　(また)空は存在するものと異ならないから、存在の諸相は否定されても、否定された諸相をもつものがそのままに存在する。</div><div>　だから、存在すなわち空であり、空すなわち存在である。</div><div>　すべての存在現象はそのような真理をもつ。</div><div>　そうでないものは何ものもない。</div></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>　それは、波は水があるから起きるが、波が起きないからといって水は存在しないといったことにはならないのと似ている。そう、水じたいがそこに実在しているから、波といった現象が生起するのだ。&lt;『十住心論』巻第七、｢大意｣の章より/空海五十七歳(八三〇年)の著作&gt;</div></blockquote><div><br /></div><div>　紀元三、四世紀頃のインドの仏教論者、ナーガールジュナ(龍樹)の『中論(ちゅうろん)』によると、まず、｢存在条件｣の有無から考察し、｢去来(動き)｣｢認識作用｣｢物質と現象｣｢存在と非存在｣｢寿命(発生・持続・消滅)｣へと論証は進み、究極の論理となる｢作用と作用主体による相対性｣によっても個々の存在は証明することができないことになってしまった。そうして、つぎのように結論づけた。</div><div>　(すべての存在現象は)</div><div>　生じないし、消滅しない。</div><div>　断絶しないし、連続しない。</div><div>　同一ではないし、別でもない。</div><div>　去ることはないし、来ることもない。</div><div>　しかし、この結論によると、すべての存在は否定されてしまうから、実在している自然とは、明らかに矛盾する。</div><div>　そこで空海は、実在している自然世界をイメージ・シンボル・単位・作用によって示し、論理による空(くう)を超えた。つまり、実在する空間としての空と、論理によってはとらえることのできない存在の諸相の空を一つにし、極めて物理学的な"絶対世界"の存在を説いた。この世界を誰も否定できない。この実在している自然の中でわたくしたちは生きている。</div><div><br /></div><div><b>Ⅷ自然への祈り</b></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>　つつしんで聞く。人はこの世に生を受け、意識をもち、万物を識別し、それを言葉にし、世界観をもった。しかし、そのことによって世界は、知識と論理をもって学ばなければ、何も分からないのだという、知識の闇が生み出された。それが生きていることの迷いとなった。でも、よくよく考えてみれば、世界は識別しなくても、もともとそこに存在している。</div><div>　識別とは、人の意識を因として生じた果であって、果のすべては人が勝手につくりだしたものにすぎない。</div><div>　そのすぎないものによって、知らないことがあるのだというこころの余計な闇が生まれた。その闇が、こころの中に本来は存在しない暗黒をつくり出した。</div><div>　しかし、すべての意識の根源である知覚に戻れば、太陽が昇るとその光りが天の暗闇を照らし、銀河にかかる月の光りが虚空を明るく照らしているのを人は身体を通して、感得することができる。</div><div>　そのように、生きとし生けるものの意識の源であるいのちの無垢なる知のちからによれば、こころの闇にかかわりなく、実在する世界を観察・感得することができるのだ。このいのちの放つ無垢なる知の光りによって、こころの迷いや、行為の過ちをつくりだしている識別の苦をことごとく取り除くことができるのだ。そうすれば、その光りの中で、人は自分も他人も自由に生きられる。</div><div>　その無垢なる知の光りを仰ぎ見られますように。</div><div><br /></div><div>　さて、ここにわたくし空海は、密教を修行する多くの弟子たちと、高野の山の自然道場"金剛峯寺"において、ささやかながら法会を設け、イメージ・シンボル・単位・作用の表現によって示された、物質・生命・意識からなる世界のすがた図とその世界をうごかしている原理図を掲げ、この世界のすべてに万の灯明と、万の美しい花を捧げます。</div><div>　願うところは、毎年一回この法会を設け、すべてのいのちの無垢なる知のちからの相互扶助によって成る世界に報いたいのです。</div><div>　この願いは、宇宙が尽きるまで、生きとし生けるものが尽きるまで、いのちの無垢なる知のちからが尽きるまで、終わることはないでしょう。宇宙がなくなり、生きとしいけるものがいなくなり、いのちの無垢なる知のちからがなくなれば、わたくしの願いも終わるでしょう。</div><div>　(中略)</div><div>　こころよりお願いします。この実在するいのちの無垢なる知のちからの光りによって、万人のこころを苦しみから救わせたまえ。こころの闇に迷いさまよう人びとを、たちまちのうちに、その本来のいのちの知のちからの光りのもとに帰らせたまえ。意識によって生じた闇を、その本来のいのちの知のちからの光りによって、取り去らせたまえ。尽きることのないありのままのいのちが、その無垢なる知のちからの行ないの光りを放って、月の輝きのように、すべてのいのちあるものを照らしたまえ。永遠に変わることなき、その無垢なる知の輝きによって、生きとし生けるものを救いたまえ。</div><div>　物質を成す五つの要素&lt;固体・液体・エネルギー・気体・空間&gt;と、それらに&lt;意識&gt;をラスした生きとし生けるものがあまねく住むところ</div><div>その生きとし生けるものがいのちの無垢なる知のちから&lt;生命知・生活知・創造知・学習知・身体知&gt;を発揮しているところ</div><div>　(その五つの知のちからのはたらきによって)</div><div>　鳥は大空に羽ばたき</div><div>　虫は地にもぐり</div><div>　魚は水に泳ぎ</div><div>　けものは林に遊んでいる。</div><div>　すべてのいのちは、親があることによって生を受け継ぎ、住み場所を得、生きとし生けるものの相互扶助のはたらきと、そのはたらきにしたがういのちの知の原理によって生かされている。そのおかげに深く感謝します。</div><div>　ともに、清らかな共生世界に入らせたまえ。&lt;『性霊集』巻第八、｢高野山万燈会(まんどうえ)の願文｣より/空海五十九歳(八三二年)の著作&gt;</div></blockquote><div><br /></div><div>　八三二年八月二十二日、空海五十九歳のとき、高野の山の自然道場で多くの弟子たちと満天の星の下、万の灯明と万の美しい花を捧げ、すべての生きものが自然とともに生きていることを感謝して祈った。その祈りの理念である。</div><div>　人は自らのもつ、いのちの無垢なる知のちからによって、なぜ生きるのかと、どう生きるかのさとりを得る。また、生きている世界の真実のすがたとはたらきをマンダラによって会得する。それらはみな、自然の道理によって生みだされたものなのだ。</div><div>　その自然とともに永遠に生きようとする空海の願いの法会は、ここに始まり、一千年後の今日までも続く。</div><div>　これほどの遠大なる自然思想が、すでに平安時代に、空海という稀なる個性によってかたちになり、今日に伝えられたことは、この日本列島に住む人びとは大変な知的財産を古来から手にしていたことになる。だが、その知の内容に関しては、美しい法会のオブラートに包まれてきた。その包みを思いきって飲み込んでしまえば、そのなかに普遍の万能薬が含まれていることを人びとは直感的に気づいていたのだろう。でなければ、毎年行なわれる高野の山の奥の院の参道に灯される十万本のろうそくの光りの川に、人びとが感動することはなかったであろう。</div><div><br /></div><div><b>あとがき</b></div><div>　空海の思想を語るとき、その難解な密教の教義に目をとられ、何か神秘的で複雑な理解をしなければならないのだという、勝手な思い込みをさせられるのだが、空海の著作のなかの言葉に目をやれば、そこに、爽やかな自然観をもつ、もう一人の空海がいることに気づく。</div><div>　自然とともにある空海という人は、シンプルで清々しいのだ。その方が本来の人物像でないかと思わせるほどである。特に、山林修行をしていた若き頃の言葉を読むと、そこにあるのは自然を観察し、自然に親しむ青年のひたむきなすがたである。その体験によって執筆されたのが、勝道上人の日光開山記であろう。空海によって記された中禅寺湖の景観は、澄みきった空気までを伝える。</div><div>　その後、インド伝来密教第八祖となった空海は、宗教的社会人としての人格をもつことになるが、干ばつに対する祈雨、豊作の喜び、治水と利水への工学的関わりなど、そこにあるのは自然への一貫した真摯(しんし)な態度である。</div><div>　また、晩年に朝廷の命により提出した人間思想史『十住心論』の第一住心｢倫理以前の世界｣に記した自然世界、すなわち地球の誕生によって自然環境が生まれ、あらゆる生物と人間も生まれたから、そこに意識もあり、その意識から思想も生まれたとする考察は、当時においては、はるか後の近代思想を先取りするものであり、第七住心｢一切は空である｣に記した、｢すべての現象は相対性によって考察しても、その存在を証明することはできないから、論理によってはとらえることのできない空なるものが存在している。だから、あらゆる存在にとらわれることはない｣とのインド大乗仏教思想を乗り越えて、実在する自然をとらえる、空海の"絶対世界"の哲学は極めて今日的である。</div><div>　それらの遠大なる自然思想の上に、空海の祈りがあり、密教もある。</div><div><br /></div> ]]>
        
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    <title>対談 東北だからこそ、グローバリズムによらない復興を</title>
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    <published>2011-04-09T02:06:03Z</published>
    <updated>2012-04-10T02:25:09Z</updated>

    <summary>松岡正剛（編集工学研究所所長） 聞き手　長澤弘隆（密教２１フォーラム事務局長） ...</summary>
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        <![CDATA[<div align="right"><strong>松岡正剛（編集工学研究所所長）</strong></div>
<div align="right"><strong>聞き手　長澤弘隆（密教２１フォーラム事務局長）</strong> </div><div align="right"><strong><br /></strong></div><div align="right" style="text-align: left;"><strong><br /></strong></div><div align="right" style="text-align: center;"><strong><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="talk_02_01.jpg" src="http://www.mikkyo21f.gr.jp/image_item/atcl-image/talk_02_01.jpg" width="350" height="249" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span></strong></div><div align="right" style="text-align: left;"><div align="right" style="text-align: left; "><b>＜長澤＞</b>きょうはお忙しいところ有難うございます。今から「東北復興に寄せて」といった観点からいろいろとおうかがいをしたいと思っておりますが、私どもは政府の復興会議ではありませんので、また震災や原発や都市整備や町おこしの専門家ではありませんので、かゆいところに手が届くようなお話ができるかどうか甚だ心もとない次第ですが、松岡さんの思うところを大いにうかがってまいりたいと思いますので、よろしくお願いします。</div><div align="right" style="text-align: left; ">　実は、私まだ義援金も出していませんし、現地見舞いにも行っていませんし、被災した人たちに「らしい」ことは何一つしておりません。その気がないのではありませんが、このたびの災害はあまりに大きくまた深刻で、お金を出せばいいとも思えないし、被災地に行って「このたびはどうも」で済むとも思えず、もっと言えばこの大災害を言葉にして語ることすら不謹慎のような気がして、誰かと大震災のことでまとまったお話をするのは十ヵ月を過ぎてきょうがはじめてなんです。３・１１のあと札幌に出張する予定があったのですが、私の寺も多少被災して事後処理に追われたり、東北地方を飛行機で上空からまたいだり、新幹線で縦断スルーパスしたりする気が起きませんでした。長渕剛が東北の人たちの前で謳うのをためらい、「歌なんか歌っている場合か、歌を歌うなんて許されるか」などと自問自答をくり返したと述懐していましたが、私は何もできないくせにお金も出せず言葉も出ず動くこともできませんでした。</div><div align="right" style="text-align: left; ">　松岡さんはわりと早い時期に、東北にお入りになったようですね。ＷＥＢ上に発表されている「千夜千冊」の一四一四夜『仙台学vol.11 東日本大震災』には、松岡さんが実際に被災地に足を運ばれた道筋を書かれていました。「陸奥（みちのく）の現在史」を浴びる感傷を慌ただしく確かめるためとも書かれていましたね。地震が発生した時は松岡さんはどこでどうされていたんですか。</div><div align="right" style="text-align: left; "><br /></div><div align="right" style="text-align: left; "><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">■被災地の中に入って感じた「ただならさ」</font></b></div><div align="right" style="text-align: left; "><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><br /></font></b></div><div align="right" style="text-align: left; "><font class="Apple-style-span"><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜松岡＞</b>あの日の午後２時４６分、私は東京の青山通りにいまして、かなり揺れました。すぐに地下鉄が止まり、タクシーもつかまらず、赤坂の事務所に戻るために歩き始めたんですが、伊藤忠本社の人たちが、ヘルメットをかぶって表に出てきたりしていた。そういう街の異様な光景だけではなくて、「ああ、これで東京もクラッシュするのだろう」という印象を持ちましたね。日本は戦後、何度もいろいろなことがありましたが、これはただならないことだと思いました。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜長澤＞</b>『千夜千冊』ではすぐに原発問題を取り上げ始められましたね。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜松岡＞</b>最初は岩波科学ライブラリーの『活動期に入った地震列島』という本です。『千夜千冊』ではずっと「連環篇」というシリーズをやっていて、そのころは遊牧民やアジアの問題を扱っていたのですが、もうそれを書き進めることができないと感じました。後に「胸の津波」と呼ぶことになるのですが、その時はだれにも津波が押し寄せているのだ、それが何かの喫水線、堤防を越えてしまった、という感じがしたんですね。そこで、新たに「番外録」というシリーズを始めました。３・１１から５日目ぐらいに、止むにやまれず、何かを書かなければいけないと思って始めました。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　ただ、そのころはまだ、地震と原発を一緒に語ることは誰もしていませんでした。当然かもしれませんが、原発は原発問題として、その前の新潟の柏崎刈羽をはじめ、さまざまなことが議論されていましたし、一方地震は地震で、阪神大震災などと合わせて議論され、津波は津波で別に語られていました。「千夜千冊」は本のサイトですから、誰かの本を取り上げないと書けないので、すぐに東京中の大きな書店を回り、自分が関係している丸善も回ってみたのですが、今回起きたことを扱うにはぴったりしたものがなかなかありませんでした。最近やっと原発と地震や津波の両方を書く人たちも増えてきたので、今後も引き続き「番外録」で取り上げたいと思っています。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜長澤＞</b>震災を特集した「文藝春秋」を「千夜千冊」に取り上げたりもされましたね。あの中で、鴨長明の『方丈記』のことを思い出したということを書かれていたのが印象的でした。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜松岡＞</b>『方丈記』は文治元年の大地震のことを詳細に書いているんですね。そういうものを改めて読み直してみると、近代の技術が行き過ぎて自らが被ってしまったこと、また最高の技術を駆使した堤防が、プレートテクトニクスのような地下の「怒り」によってやすやすと破られることは全部つながっていると思いましたね。そして、この異常な体験をさらに言葉にしたり考えたりするには、やっぱり現場に行って身体化しなければいけないという思いになって、すぐにでも行きたかったんですが、家内が絶対に行かないでくれと言うので、ようやく５月の連休になってから適当な理由をつけて行くことにしたわけです。それが最初の釜石からだんだん下りてくるコースでした。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜長澤＞</b>実際に行ってみて、何を感じられましたか。俳句を詠んでみようとされたと書かれていましたよね。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜松岡＞</b>だめでしたね。まったく詠めませんでした。俳句ではなく短歌でもよかったのですが、たった五七五がどうしても詠めない。それなりに自分の体に入っている律動というものや、宗教的なことで言えばお経のようなことでもいいのですが、それを目の前に起きていることにマッチングさせれば、何かが近似値的に出るだろうと思っていたんですね。しかしなかなか言葉が出ず、ぱらぱらとメモのように残るだけでした。これは自分の中にある文脈や文体、あるいは記憶が持っている表現性までもが侵されたのだ、だからこういうものを単に癒すのではなくて、それに代わるものが出るまで何かを持ち続けていかなければならないと考えました。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　ちょうどお大師さんでいえば、南都六宗の持っている言語体系ではないもので何かを言わないと、この時代に合わないというようなこと。敢えて言えば、それに近いものが社会にも時代にも起こったのだろうと思ったんです。そのうちの一人である自分としても、そのことを表現してみなければならない、何かを出してみせなければならないと思ったのですが、難しかったですね。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　まだ５月でしたが、潮（うしお）がぐじゃぐじゃとして、強烈な悪臭も伴っていて、タイヤとかヘドロとか、実態がはっきり分からないようなケミカルと自然が混じっていました。映像的には皆さんがテレビなどでご覧になっているものとそんなに変わらないと思いますが、五感的には、何か「五行」の秩序が狂ったというか、「五大」が「地水火風空」になっていない、混乱しているという印象を持ちました。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜長澤＞</b>私の親戚の若いお坊さんによると、現地の知り合いの住職が「五大が腐ってしまっている、腐った五大だ」と言っていたそうです。密教やお大師さまが言う「五大」はピュアで「清浄」が原則なのですが、あの異臭、ゴミの汚さは現地に行かないとわからない、ということをさんざん聞かされたと言います。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜松岡＞</b>普通「六塵悉く文字なり」と言うのも、正常な日常の奥を見ようとして「塵」まで行くわけです。ところがそれが逆に自然の中から先に出てきてしまう。まさに「深秘（じんぴ）」が混乱をして出てきているようなものです。日常社会のなかで「深秘」を知るために「即身」、あるいは「即疾」ということを自分に課して、「三密加持」をしないと見えないものが、そういうことなしに先にあからさまにディスオーダーとして出てきた。だからこれは普通の体験ではなくて、自分の目、耳、舌、臭いといったものの、知覚の順序に対する挑戦だ、という印象がありました。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　８月にもう一度石巻に行ったときに見たのは、墓地の大混乱でした。墓石がありとあらゆる角度で倒れていました。まさにこういう時にこそ、経典にいわれる言葉をどこまで自分で取り戻せるのか、それを現場の中で取り戻すのか、やはり「深秘」まで下りるのか、そういったことが問われているのではないでしょうか。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜長澤＞</b>墓石も遺骨も根こそぎ津波に飲み込まれたところもありましたし、福島の浜通りでは崩壊したお墓が放射性物質で汚染されています。ストゥーパの思想もお大師様の「六大」も「六塵」も想定外の異様ですね。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜松岡＞</b>異様でした。本来鎮まるべきものが鎮魂にならない状態になっている。よく中国では尸解仙（しかいせん）と言って、一度鎮まった魂魄がよみがえって、魂（こん）と魄（はく）が離れてさまよっていると言いますが、まさにそういう感じがしました。順番になっているべき「五輪」も狂っている「火風空」の「空」が手前に転がっていたり、「地」はもうばらばらになっていたりする。こういったものを見て、ああ、これをこれから宗教はどういうふうに説明するのだろうと思いましたね。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜長澤＞</b>「法界」とか「法如」とか「法爾自然」とか、「あるがままにあること」「宇宙自然の法則性に従ってあること」というなかに、私たちは生々流転、つまり生成と消滅あるいは生と死ですね、それを見てきたわけですが、消滅とか死が破壊や悪臭を伴うところまで想定はしていなかった、少なくとも私たちがふれる仏教学では説明できないのが現実です。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　ところで、大晦日に京都の清水寺の貫主が毎年のように一文字の漢字を毛筆で大きく書きますね。昨年末は「絆」でしたが、確かに東北の人たちの我慢強さや辛抱強さ、家族や親戚や隣近所との助け合い、さらに全国から集まった義援金やボランティアの数、そういうものを指して「絆」という言葉が浮かんだ人がたくさんいると思いますが、でも、「絆」という一文字の美談で東北の被災地をひとくりにしてしまっていいのか、という思いがするんです。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜松岡＞</b>それは私も同感です。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜長澤＞</b>ボランティアに行っていたお医者さんからは、「現地はとにかく異様な臭いで、あのなかで毎日暮らしている人は大変」と聞きました。お医者さんたちは死体を扱ったりもしていますから、死臭もあるわけです。魚の腐ったにおいだけではなくて、人が腐っていく臭いも。そういう体験をたくさん、毎日のように積み重ねていたお医者さん方や自衛隊・消防隊の方もへとへとになっていたようでした。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜松岡＞</b>自衛隊の知人の話では、一番初期、ガレキになる前、倒壊した直後の混乱のなかで、何を順番として活動していけばいいのかがわからなかったと言います。普通は災害で家が倒壊しても、周りがきちんとなっていれば何からすればいいか、順番が何となくつくらしいのですよ。ところが全体に災害が起こっているために、まずゾーンニングをしなければならない。一挙に１万人が「せーの」でやるわけではなく、数十人ずつがやるわけなので、どこから手をつけるかを決め、その地域に気持ちをまず向けないと救済のプロジェクトにならないのです。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　しかも家が向こうにあり、手前に橋や道路や電柱などが無茶苦茶になっている。人命救助を急がなければいけないのに、まずは別のことから取り掛かる。死者と生者の差が場合によっては１メートルとか１０センチの単位で分かれていることが有象無象となってやってきているので、生と死の峻別ができない時期がだいぶあったと言っていました。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　仮に救出できたとしても手遅れの方は放っておくしかない。まだ生存の可能性があるといわれる７０時間、あるいは３日間は生者を優先しなければならない。レスキューの手順がそうなっている。でもその傍らには「放置された死者」がいる。意思を持たなければいけないのに、まず自分たちのなかで価値観の基準が崩れそうになる、そんなことも言っていました。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　確かにそうだろうな、という感じがしますね。それをぐっと圧縮して言うと、「絆」の逆ですよね。生と死すらバラバラになっているのだ、ということだろうと思います。そこにまで手を差し伸べて、思索したり、行動したりしなければならない。「癒し」とか「絆」という言葉では済まないことが起こったのだと思いますね。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜長澤＞</b>テレビも新聞も、非情な場面や悲惨な情景や無残な被写体はまず流しませんでした。美談のようなニュースばかり多かったのには、何か意図的のものも感じましたね。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　先ほど松岡さんが被災地を訪れた時に一句も詠めなかったと言われましたが、それは客観視するにはまだ早すぎるというか、言葉にして五七五の数に合わせる営みに持っていくにはまだ早くて、その現場でこぼれおちた言葉は、今はとっておこう、という感じでしょうか。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜松岡＞</b>そうですね。シェークスピアが『リア王』について、「世界の裂け目を書こうとしている」と書いていますが、そういう時は、狂った者を登場させるわけです。『ハムレット』も『マクベス』も、そうですね。秩序がつかない人物を一人想定して、それをキャラクターとして描く。それによって周りの登場人物、群像が正常であることとのバランスが取れて、世界の裂け目が表現できる、とシェークスピアは書いています。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　あるいは世阿弥が、老体とか女体とか軍体とか、あるいは翁というものを一方で立てておくと、「ものぐるい」という瞬間を描ける、というわけです。私たちは狂気や混乱がわからないわけではなくて、いままでもそのように表現できていました。けれども、全体そのものが混乱である、ということについては、長澤さんがおっしゃる客観というものに、まだ様式が向かえていないんだろうと思います。狂った主観を置くことによって客体や客観が描けるという様式が、あの事態のなかでは通用しない。東京にいても、そのような言語の混乱が連続している。だからまだ文学者もそれが描けていないのではないでしょうか。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜長澤＞</b>私は、義援金を市役所や地元の新聞社などの窓口に持っていくことがまだできていないわけですが、そういう第三者的というか、他人事というか、客観化した態度になれないんですね。それは人様が困っているからしなければいけないことではあるのですが、例えばそれを文章にしたり、人前で大震災のことについて触れたりする気にはなかなかなれなくて、今日が実は初めてなんですよ。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜松岡＞</b>ああ、そうなんですか。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜長澤＞</b>実は３月１１日のちょうど１ヶ月後に、札幌で同じ宗派の皆さんから講演を頼まれていたんですが、その時には新幹線を乗り継いで青森まで行けるようにはなっていましたし、もちろん飛行機でも飛べたのですが、被災地をスルーパスしたり、その上を飛んでまたぐということができない心境でした。もちろん、自分のお寺も屋根瓦が落ちたりして軽度の被災があって、その善後策に追われたのが主な理由ですが、申し訳なかったのですがキャンセルをさせてもらいました。被災地に眼を背けていたわけではありませんが、どうもお金では気が済まない思いでした。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜松岡＞</b>義援金がだめとは思いませんが、それを普通にやってしまうと、安全から危険に対して手を差し伸べていることがもっとはっきりしてしまうわけですね。本当は地続きの何かがあるにもかかわらず、それをまたいでしまい、間を抜かして義援金という制度に託すと、それによって外れていくものがある。それをやりたくないという気持ちはよくわかります。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><br /></div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><b>■日本が感じた喪失感とは何だったのか</b></font></div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><b><br /></b></font></div><div align="right" style="text-align: left; "><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜長澤＞</b>私自身は、栃木の自分のお寺で震度六弱ぐらいの体験をしました。来客の相手をしていたのですが、揺れの３分の２くらいのところで、このまま止まらないのではないか、ひょっとして終っちゃうのか、と我にかえりました。あの時は三つの地震が重なったといわれていますが、最後に起きた福島沖の地震がおそらく私のところでは相当大きくきたんでしょうね。境内に出ますと、近所の人やその日仕事に来ていた大工さんや板金屋さんが集っていて、旧本堂の屋根瓦が落ちてくるのを見ていました。そんなこともあるので、何か他人事とは思えないのです。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜松岡＞</b>しかも長澤さんの場合は、新しい本堂「大毘蘆遮那殿」を皆さんにお披露目をする落成式も現実のスケジュールに乗っているなかでの大振動でしょう。そういったことに差し掛かっていた人はたくさんいたはずです。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　だからこの体験は、「自分型の封印」というものがいろいろ起こりかねなかったと思います。結婚式が間近な人、卒業式が間近な人、あるいは旅に出る前の人、いろいろな人があの時に足止めを食らいました。それは此岸と彼岸ではないけれど、あるいは生と死ではないですが、何かそれに近いほどの断絶を皆さんが感じたのではないでしょうか。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜長澤＞</b>その後も３月１１日のままというか、汽車に乗り遅れているという感じがしています。大震災のことを言葉にして、心の整理をするという気になりませんでした。そこで私なりに浮かんだ言葉が「喪失感」です。自分が何かを失くしたわけではないのに、何か大きなものを失くしてしまったといいますか、この震災によって、私たちみんなが、あるいは日本という国や社会が、何か大きなものを失くした、という感じです。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　特に東北ではおびただしい命が亡くなっていますが、また考えてみると原発もほぼなくなったと同様のレベルにまで壊されました。さらに当然、社会インフラである道路・鉄道・電気も、ケイタイの通信網もなくなり、テレビも見られず、行政の役場・学校・病院・公民館も波に流されたりしました。それに仕事もなくなり、生活の基盤である住居もなくなりました。このように膨大なものがなくなったわけですが、松岡さんが被災地に行かれて、喪失感という点ではどう感じられたのでしょうか。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜松岡＞</b>私が以前から考えてきたのは、日本人はあることを喪失しないと母国や母国の面影が取り戻せないということです。また、失うことが同時に創出である、創出は喪失を伴うという方法を持ってきたということです。花が散ることが花を歌うことの方法を孕んでいる。しかし、高度成長期から物質的経済的な豊かさを求めてきた日本人は、この方法を失ったのではないかという危惧があるんです。それでこの数年、「日本という方法」「方法日本」ということを言い続けて『日本流』などの本を書いてきたわけです。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　この国は本当にたくさんのものを喪失してきました。それが次の創発や創出を生めないでいるのは、やはり方法そのものを喪失しているからです。物質的なものだけではなく、家族とともに思い出も失くした方がたくさんいると思いますが、そういう方々が、それを逆転させ、あるいは裏腹にさせて思い描くものを持てるということができない。この数十年の間で、そのメソッドを失った、あるいは希薄にしたことを、今になって突き付けられたという印象を持ちました。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　私自身、釜石に下りて感じ始めたこともそれです。私はいままで多少はそういったことを訓練してきました。自信を失った人たちに対して、編集的にそれが復元可能であることや、新しいものに組み直せる可能性を示したりすることについては、多少なりともやってきたわけです。しかも、そういうものを今のうちに自覚的に持たない限りは、経済大国に浮かれているととんでもないことになるという警告も発してきた。にもかかわらず、その自分がまったく異星のような、月面のようになってしまった生命感の乏しい空間のなかで、取り戻せるものが何も見つからない。俳句一つ詠めない。そこに、二重の喪失を感じたという感じがします。記憶として断たれたものに対しては蘇らせる方法も力もあったはずなのに、それも失われている、という印象でした。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　もう一つは、今回の震災が「東北」という場所に起こったということですね。やっぱりここに起こったのだという、何とも言えない暗合を感じました。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　日本に国家というものが生まれた時、陸奥（みちのく）とあそこを呼んだのは、「道の奥」、つまりアウト・オブ・インフラストラクチャーという意味でした。日本は東北を国の内として認めなかったんです。「化外」あるいは「化外の民」と呼んだり、「蝦夷（えみし）」と呼んだりすることによって、征夷大将軍の征服対象となり、討つべきもの、服属させるべきものであるとずっとみなしてきました。その東北一帯に大震災が起こってしまったんです。これは高度成長期に喪失したどころか、千年にわたって日本が陸奥や東北に対して処置してきた仕打ちの逆襲ではないか。アラハバキや、怨讐が一斉に立ち上がった、逆上した、という感じですね。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜長澤＞</b>私にもう一つ、喪失感とともにつくづく思い知らされたことがあります。松岡さんも私も安保と学園紛争の世代ですね。この世代は、良きつけ悪きにつけ、学生時代に国家とか国家権力というものをいつもどこかで意識し、どちらかというと反権力の側に立つことにこだわりを持ち、アクションを起こしたりもしてきました。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　右も左も関係なく、国というのはそこに住む国民の生命と安全を最大限に守ってくれる機能でなければならないわけですが、まして進んだ近代国家であればなおさらです。しかし今度ほど日本という国が国民を守らない国、守れない国だと感じたことはありません。日本はそういう装置も機能も持っていなかったんですね。経済大国といわれてうぬぼれていた日本が、国民の命を守るところにお金も知恵も出さなかった。この過去への無念というか、残念というか、腹立たしさこそ、私たちの世代としては言わなければならないことだと思っているんです。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜松岡＞</b>ホッブズ以来、国家というのは国民の生存権の安危を背負っているものとされてきました。つまり、一人一人の生存によってしか、国は成立しないというところがわかった時に「国家」という概念が生まれたわけです。そこからすれば、民の生存権を保障できない国は国ではないということになりますね。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　もう一つは、国家というものはその奥に本来の母国というものを見据えているはずだと私は思っているのです。マザーランドがあった上で、現実の制度や生活を管理する、それらを動かす装置として国家が機能している。今度の震災で私が実感したのは、日本という国家がその母国をきちんと見ていないということでした。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　マザーランドとしての「東北」を我々がどこかで軽視していた。その仕打ちを食らったと思うのです。それは３月１１日の午後、政府がしたことの足りなさだけではなくて、自治体から生活者・被災者に至るまで、奥行きとしての母国の量を減らしてきた、薄くしてきたのではないか、ということです。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　最初に、生と死の区分けすら分断された、と申し上げましたが、死の領域も薄くしたと言えるのです。生の領域も薄くしてしまったけれども、死の領域も、病院や救急車に頼るだけで、浄土を失っている。弥勒菩薩が降りてくる五十六億七千万年先ではないにせよ、かつてはもう少しパースペクティブがあったはずです。そういう浄土感覚を薄くして、生も薄くしているから、母国の量がものすごく小さくなっている。本当はあの時、みんな祖国や母国の喪失を何となく実感したと思うのですが、それすらも誰も口にできないというところまで追いやられています。これは一体どういうことなのかという感じがすごくしました。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜長澤＞</b>そうですね。母なる大地が揺れ、母なる海や川が人を襲い、まるでやさしい母が母に背くわが子をたしなめるかのようでした。母なるものが見えなくなって薄くなっている今の私たちへの警告だと思うべきでしょうね。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　装置としての国家の機能の話に戻って恐縮ですが、テレビで報道される体育館での避難生活を見ていて、もっとましな被災者保護の方法はないものかという意味で思いついたのですが、例えば、地方各地の（町の郊外で少し高台にある）ゴルフ場で、経営が立ち行かなくなっているようなところを国や自治体が買い上げ、各ホールのフェアウェーに一町内の人を収容できる戸建てまたは集合型の仮設住宅を建て、ラフ部分には電気・ガス・水道の配管を敷設し、グリーン部分の地下には非常用電源装置や食料・水等の備蓄設備を設け、クラブハウスに総合管理や医療施設や風呂・シャワー・洗濯などの厚生機能を置き、コース売店はコンビニレベルの買い物施設とし、いざという時には数万人単位の住民を収容し、最低三年間は自宅にいるのとほぼ同じ程度の避難生活が快適にできるようにする、それぐらいのことをしておくのが実は豊かな国なのではないかと思ったりするわけです。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜松岡＞</b>それはリスクとオプションということだと思います。どういうリスクがあったときにどういうオプションが用意できているか。今までの経済主義のリスクとオプションは、ハイリスク・ハイリターンであり、危険なことがあるとリターンが良いように投資をしておくというものですね。これは正のリスクとオプションなのですが、負のリスクとオプションではないのです。つまりリスクを最初から負にしないで、簡単に言えば金融資本主義やデリバティブの金融工学的なカジノ資本主義が成立しており、それが新自由主義などと呼ばれていますが、そうではなくて、浄土のような、死の領域のような側のオプションがもっと必要です。それが足りないために正が崩れると全部が負になってしまうんです。やはり、負の領域に潜んでいる装置が作動できるものを持っていないとだめだと思うのですね。インフラでいえば道路、港湾、娯楽施設といったさまざまなものの中にそのような装置を半分ぐらい、せめて１０分の１でもよいから、持っていないと国家というものは成り立たないと思います。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜長澤＞</b>負のリスクとオプションには光を当てないできたという点ですが、何がそうさせてきたのでしょうか。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; "><b>＜松岡＞</b>一つはやはり経済優先主義でしょうね。通貨という記号に置き換えないと資産や価値を実感できない社会をつくりあげてきました。数値・記号にできない経済価値にはどんな産業も国家も手を出さないです。さらに政教分離によって、政治は宗教に手を出さないとしたので、浄土的なパースが全部失われたのではないでしょうか。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　かつてこんな経験をしたことがあります。四国の山奥にある過疎村の近くに高速道路ができたため、急にそこにお金が落ちてきて、そこで村長さんがこのお金を何か良いことに使いたいと、私の知り合いの建築家に相談し、私のところにその話がまわってきました。その村の歴史を調べてみると、熊野の霊場や熊野信仰とつながっていたんですね。それで補陀落浄土のコンセプトに基づく観光施設のプランをつくったわけです。ところが、反村長派のオンブズマンや新聞などが、これは政教を混同しているというキャンペーンをやり出し、結局、その建築家が責められる形となり自殺してしまったんです。そのために、計画全体に暗い影が落ちてしまい、歴史的な背景は持ち出さずに取り敢えず装置だけつくってなんとかオープンしたというわけです。</div><div align="right" style="font-size: 1em; text-align: left; ">　その時も感じたのは、目に見える正の領域だけで、政治や経済というものがつねにチェックされていくということです。負の領域に回っているものについては、制度上や法律上は許されないとして、後ろのバックヤードがない状態で事を進めなければならないという事態がそのころからどんどん進んでいたのです。もう十五年ぐらい前のことですが、日本はこれからどうなるんだろうと思いましたね。座標軸で言えばＸ軸の両側やＹ軸の上下の両方に軸が伸びない日本になっていて、正の領域だけで繕うような仕組みになっている。四象限あるうちの、場合によっては一象限だけに日本が向かっているという気が非常にしましたね。</div><div style="font-size: 1em; "><br /></div><div style="font-size: 1em; "><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">■「負の領域」を一手に引き受けてきた東北</font></b></div><div style="font-size: 1em; "><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><br /></font></b></div><div style="font-size: 1em; "><div><b>＜長澤＞</b>「負の領域」へのまなざしを、戦後の日本は経済優先主義のなかで見捨てた、軽視してきたということでしょうか。それは、まさに「東北」にも言えることでしょうね。古代史からひもといても、気候風土のためなのか、中央政府の政略的な意図なのか、時代時代によって違うと思いますが、東北は日本の「負の領域」を一手に引き受けてきた気がします。そこにあのような惨劇が起きるという、この気の毒さは、やはりもっと話題にしないといけないことだと思うんです。</div><div><b>＜松岡＞</b>なぜ、東北がそういう扱いを受けてきたのか、その理由はいくつかあります。</div><div>　もともと日本では、社会というものが西から来ました。北九州や南九州から大陸文化が入り、その南や西から列島を上がってきたのです。もちろん北からも文化は入ってきたのですが、少ないんです。そして大和・畿内にとどまった政権によって日本がつくられたため、やはり「西半分の充実」と「北半分の放置」があった。縄文期まではそうではなかったのですが、西から稲作と鉄器が入り、それが東北では遅れたのがその原因の一つです。</div><div>　二つ目は今でいう人種差別ですね。当時は言語圏と稲作圏、鉄器文化圏と騎馬の戦闘能力が一致していたことに加えて、身体の特徴の違いもありました。今でも東北弁はわかりづらいと思うように、そういったしゃべり方の特徴によって異質者扱いをしていたと思います。</div><div>　三つ目に、後にアテルイの乱とか、伊治呰麻呂（これはりのあざまろ）の乱のように、朝廷が治めようとすると反乱が起こりました。そこで「征夷大将軍」を棟梁にした将軍家が生まれ、その征夷＝陸奥を征伐するという名称のまま、江戸末期まで継承されていったことです。</div><div>　そういったことごとに対し、東北に起こったことはいくつもあります。一つは藤原三代・四代、あるいはその前の安倍一族の活躍です。東北にも有力な豪族がいて、金やアザラシやラッコの毛皮などで北方貿易をし、経済力もつけていたわけですが、北前船が始まる前は長らく西日本や畿内との交流が閉ざされていたため、その産物力を中央が欲した時に反抗し、これが討伐の対象になります。やむを得ず安倍一族、藤原四代などが、そこに別国をつくろうとしたのですが、そこへ間が悪いと言えばその通りですが、武家勢力の源氏と平家が前九年、後三年の役で敵対し、東北の地で戦い合うわけです。私たちはこれを源平の戦い、あるいは鎌倉幕府の成立と呼び、それが西日本や、あるいはせいぜい鎌倉で起こったと考えていますが、実は最初に源平の戦いは全部東北で実験されているわけです。おまけに頼朝の弟の義経は藤原に逃れたために、それが討伐の対象となって弁慶の立ち往生みたいなことが起こります。</div><div>　つまり社会のニューウエーブの出現が、東北で実験されてしまったということが言えるわけで、明治維新の頃の奥羽列藩同盟もそうでしょう。その後の政府は屯田兵や札幌農学校のように、北海道を一番のニューウエーブの拠点にしようとしましたが、今度は東北はスキップされていき、近代以降、岩手県などは「日本のチベット」と呼ばれたこともあるぐらいです。</div><div>　こうして、東北は１０００年以上にわたって「化外の民」の扱いをされてきました。なぜこうなったかは、今言ったような理由だと思いますが、それに対して陸奥の方々も抵抗できないのです。新渡戸稲造や宮沢賢治、あるいは石川啄木・太宰治・寺山修司のように、時々は抵抗者が現われましたが、やはり大きくはそがれて、えぐられた区域でしたよね。</div><div><b>＜長澤＞</b>話がちょっと外れますが、最澄の東北進出を会津で止めた徳一の心底にあったものはいったい何だったのか、今お話を聞きながらふと頭をよぎりました。後世には毛越寺や天台寺が岩手県内にできて、立派に東北の天台の拠点になってはいますが、弘法大師の時代には、最澄の東北進出を阻止するように徳一が論争を仕掛け、８年間も続けてとうとう最澄は亡くなってしまうわけです。結局は進出できず、円仁の時代になるまで東北に入れませんでした。</div><div>　しかも徳一は奈良の藤原一族直系であり、確か仲麻呂の十一男か十二男ですが、それ故に藤原仲麻呂の乱の後、奈良の都に居づらかったのかもしれませんが、ともかく興福寺と東大寺で相当に学識を認められた徳一が、「化外」の会津に下向するという話からしてよくわからないところがありますね。さらにそれがおとなしくしているわけではなく、常陸や下野にまで教宣を拡張し、徳一勢力を拡大して、そこから北に最澄を入れさせませんでした。</div><div><b>＜松岡＞</b>徳一共和国みたいにしていましたね。</div><div><b>＜長澤＞</b>まさにその通りで、どうも陸奥（当時、会津は陸奥のなか）というのはもともと「中央」政権に対する抵抗勢力みたいなところがあって、父仲麻呂の死後不遇をかこった藤原氏の末席として南都を捨てた徳一にもそういう気概があったのかなとも思います。最澄は桓武の庇護を受けていましたし。</div><div><b>＜松岡＞</b>徳一は、南都の鎮護国家の仏教というものの限界を、何らかの格好で見抜いたのだと思います。やはり南都六宗は全部中国がオリジンであり、あの広大な国の中でつくり上げたものが、小さな南都六大寺の中に入って行って戒律まで生まれ、最澄・空海はそれに抗したわけですが、徳一の時代にはその最澄や空海ですら、南都のおこぼれにあずかる者に見えたのだと思うのです。もちろん、今だからこそ、最澄や空海こそが良弁までの南都のひずみを超えようとしたのだと思いますが、当時はまだ孝謙・称徳天皇、道鏡のような人も登場している時代のなかで、徳一は軒並みコントラバーシャルに論争を挑んでいったのではないかと思います。そこに、最澄もひっかかったのだと思います。</div><div>　それとともに、やはり以前から坂上田村麻呂や高橋虫麻呂たちは、みな南都から東北に制圧に行っているわけで、やはり福島、会津の地で戦線を張っていた徳一にとっては、絶対阻止すべきものに映ったのではないでしょうか。</div><div>　少し話は外れますが、覚鑁（かくばん）が根来を守りますね。あれもなぜ根来あたりを守ったのだろうと私は最初思っていたのです。しかも『五輪九字明秘密釈』などを読んでみると、いわゆる普通の密教とは思えない。最初は、これは道教かと思いました。非常に土着的な密教のように思え、土の中から出てくるような日本に珍しいものだと感じました。</div><div>　徳一―最澄論争、徳一―空海論争は、今では徳一の方が教義に走っているような気もしますね。ただ、土地に根付いているという意味では、徳一は日本では珍しい宗教論争者だったと思いますね。</div><div><b>＜長澤＞</b>仏教のなかで「布教」の二文字が出てくる文献に当たると、徳一の東北布教、民衆布教、信仰布教といった言葉が出てくるのが目立ちます。会津磐梯山の山麓から始まって会津一帯、そして常陸・下野に布教をしたといった言葉が、徳一に非常に顕著なんですね。それは土着的で、磐梯修験もそこに絡んできており、下野では那須あたりまで、常陸では筑波山までも来ていますね。</div><div><b>＜松岡＞</b>空海も徳一の論争を浴びますね。空海は勝道上人についてはちゃんと日光開山を認めているし、勝道の功績を称える碑文を書いていますし、白山を開山した泰澄のことなども評価しています。徳一が会津、磐梯地方や常陸に布教して自分のデベロップメントを持っていたにもかかわらず、どうも最澄も空海もそれをアプリシエイト（評価）しなかったのではないかという気もするのです。徳一が嫌われたかどうかはわかりませんが、どうもそういうふうに評価をされていない。土着者に見えたか、土蜘蛛扱いにされていたような印象もありますね。</div><div><b>＜長澤＞</b>その点ですが、これは私独自の見方ですが、空海と徳一はかなりの密度の関係にあったのではないかと思います。空海は徳一に慇懃丁重な手紙を二度も送っていますし、使いをやって密教経典の書写も頼んでいます。徳一が空海を批判したという『真言宗未決文』をよく読んでみると、徳一は密教理解で苦しんでいます。批判のように読める箇所は、南都の法相学では理解できない部分に見えますから、あれはいわゆる批判ではありません。</div><div>　それに、空海も親しかったであろう嵯峨天皇のブレーングループ（蔵人所）のトップが藤原冬嗣でした。冬嗣は興福寺南円堂の設計を空海に頼んだ藤原内麻呂の嫡男で、藤原直系である徳一とは縁続きです。しかも、空海が徳一に密教経典の書写を頼んだ頃、冬嗣は陸奥国の国司になっています。</div><div>　また同時に、空海が密教経典の書写を頼んだ東国の国司のなかには甲斐の藤原真川や常陸の藤原福当麻呂らがいました。真川は後に大臣となり、その後任に空海は奈良の大学寮時代の唐語の恩師浄村浄豊を推薦していますし、福当麻呂は内麻呂の五男で冬嗣の異母弟です。</div><div>　この相関図は偶然ではなく、空海が南都において築いた王法仏法の結果で、徳一は空海と敵対できません。空海の密教に戸惑いながらも冬嗣と空海の関係を尊重してこれを了とし、冬嗣・空海につくかたちで最澄と対峙し、法相対天台という大乗同士の論争に集中したのだと思います。</div><div><b>＜松岡＞</b>なるほど。それで空海は最澄のような目に遭わないで済んだんですね。</div><div><b>＜長澤＞</b>ついでながらですが、徳一が最澄の東北進出阻止を図った背景には、平安京造営で桓武の信認を得た新興勢力の和気清麻呂を藤原一族とくに冬嗣は好ましく思っておらず、その清麻呂に庇護されている最澄に対しても同様だったのではないでしょうか。要するに、陸奥国司として、朝廷の新興勢力としての和気氏の庇護の下にある最澄を陸奥に入れるわけにはいかなかったのではないかと。</div><div>　奇しくも、和気氏の氏寺だった高尾山寺（現、神護寺）に空海が入るわけですが、入山する際、それまでの住持だった最澄が住持の座をさっさと譲ったことになっていますが、これには清麻呂の娘を妻に迎えている藤原葛野麻呂が介在したと思われます。葛野麻呂は第十六次遣唐使船で正使の役を務めた人ですが、福州に上陸する際の難儀を空海がしたためた上奏文で助けられた経緯から、空海には恩義に応える立場にあったはずなのと、葛野麻呂の地位と立場からして藤原氏と和気氏の間を仲介することも地代の空海から察せられることで、和気氏も清麻呂の子の真綱・仲世の時代になっていましたし、義兄弟の二人を葛野麻呂が説得したに相違ありません。</div><div>　空海はそういう政治的なものをおそらく飲み込んでいたでしょう。王法仏法の一端として受け止めていたと思います。その辺の勘所のつかみ方は一流の人ですから。</div></div><div style="font-size: 1em; "><br /></div><div style="font-size: 1em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><b>■「東北学」から見えてくる日本の形成</b></font></div><div style="font-size: 1em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><b><br /></b></font></div><div style="font-size: 1em; "><div><b>＜長澤＞</b>今日はせっかくですから、続けて「千夜千冊」の『東北学』（一四一二夜）についてうかがいたいと思います。著者の赤坂憲雄さんだけではなく、柳田国男・宮沢賢治・井上ひさしさんなど東北にゆかりの人の名前も頭に浮かべながらお話しいただけたらと思います。</div><div><b>＜松岡＞</b>歌枕を含めた万葉・古事記の世界も、やはり白河の関で折り返しているわけです。当時、「日の本」というものは、北は外が浜（青森）から南は喜界島（鹿児島・奄美群島）とし、津軽の十三湊までは一応挙げているのですが、しかしそれはちょうど箱根の関で西と東が別国扱いになったように、白河の関のあたりに何か結節点があったと思うんです。東北はその向こうの国なんです。確かに、雪国であり、言語表現性が異なる国で、稲作は遅く入り、兜や刀、鉄器も遅かった点からすると、やはり後進地だったんですね。</div><div>　その一方で、もっと北からは後にアイヌと呼ばれる人たちが以前から少しずつ入っていました。例えば、北海道の地名と同じように、恐山も「ウソリ」というアイヌ語が本来の名前です。やはり、あのあたりは国内の大和言葉が使われない土地になっていたんですね。そこが後の賢治や寺山や太宰にも関係してくるのですが、ある凍てついた表現別景というべきものをずっとつくってきたと思います。</div><div>　これは井上ひさしさんにうかがった話ですが、井上さんが生まれた東置賜郡小松町（現川西町）はまだ陸奥の入り口でありながら、例の「吉里吉里国」を宮城と岩手の間に設定されているんですね。「それはなぜですか」と聞いたら、自分が白河の関をまたぐところにいることから、能因法師や西行や芭蕉があそこを越えていこうとした勇気はものすごく文芸的な憧れであったと言うんです。漂泊の民というものを自分が体験しない限りは、日本の文学はつくれないと思い、能因や西行や芭蕉がそれを起こしたのだとすれば、陸奥のぎりぎり手前のところに育ったものが漂泊の根拠としての自分の理想郷を三陸に置こうとすることは僕の夢なのですよ、と言われていました。</div><div>　このように、大和とは違う別の陸奥の言葉を持ったものを、自分の中に回路として体験させることが、東北文芸というもの、それは「東北学」と言ってもいいのですが、それを成立させたのだろうと思うのです。</div><div>　これは、日本に特殊なことではなく、地続きのヨーロッパ大陸のようなところでも、ランボーにしても、リルケにしても、あるいはゲーテにしても起こっていたことです。ゲーテは、イタリアという別国を体験することによって、自らの国土のドイツロマンに目覚めていきますし、ジェームス・ジョイスの場合は、アイルランドのダブリンからロンドンやパリに出たことでそれが起こりました。同じようなことが、日本の場合は、狭いながらも東北がそういう文芸の原型になっていると思います。もう一つそれが起こってきたのが琉球ですね。</div><div>　柳田国男が『北国の春』という有名な本を書いて、「ああ、この津軽の国にも稲が実って素晴らしい。瑞穂の国である」と喜ぶのですが、赤坂憲雄は、それは後の話であって、そこに柳田のようにフォークロアの原型を見いだすのは、おかしいのではないかというわけです。また、柳田の『遠野物語』にしても、佐々木喜善が昔語りを文学的に表現したものであって、決して日本のフォークロアの原型ではなく、それを一国の民俗学のメインに持ってくるのはおかしいのではないか、ということも赤坂君は指摘しています。</div><div>　これらを総合すると、やはり東北の表現社会は、漂泊というか、アウトオブスペースであったが故に、メインの中央の人たちや境界人たちが、それを取り込むことによってしか成立しない、何かの機縁を持ち続けていた、それに啄木・賢治・太宰・寺山らが次々に気がついていったのだと思いますね。</div><div><b>＜長澤＞</b>今回の地震で、東北では多く部品工場が止まって部品供給ができなくなり、メーカー本体の生産ラインに支障をきたしました。トヨタがそのいい例ですが、やはり東北はメイン（本社・「中央」）ではなく下請け（服属）なんですね。東北以外に主力の本社があり、東北は末端の下請け工場という図式が高度経済成長期からできている気がします。その分、一家の働き手の出稼ぎが減ったかもしれませんが。</div><div>　この経済・産業の構図関係がどうもほかにも符合するんですが、例えば福島に東京電力の原発があることです。つまり、国策の原子力発電所が福島の双葉町や浪江町にあり、そこからずっと上に上がって女川から六ヶ所村まで、三陸という昔から地震の巣だとわかっている地域にも原発を並べていく、それを受け入れて地域の活性化に結びつけざるをえなかった町の苦渋は、これも東北の悲しい歴史の現実だったのかと考えさせられますね。</div><div><b>＜松岡＞</b>柏崎から北陸もそうですね。「裏日本」という言い方があったように、やはり長きにわたって、北陸や出羽国以北、会津以北はやはり別国扱いをされてきました。その別国であるという意味は、かつてはそこを通過することによって、日本が成立するはずというものでした。井上ひさしさんが言うように歌心はそうなのですね。しかし政府や産業界はそういうふうには全然見なかった。ちょうど朝鮮半島やタイなどのよその国に工場をつくるのと同じようにしか見ていなかったんですね。</div><div>　もう一つ、東北問題として、二・二六事件を起こした青年将校の歴史もあると思います。多くの青年将校たちが東北の出身であったこと、東北の飢饉や身売りという状態に憤り、それが満州で贖えるというロジックに希望を持ちながら、結局満州もうまくいかなかったために、再び東北が負の舞台になったというのが、二・二六事件の真相だろうと思うのです。石原莞爾は福島ですね。やはり、あそこが分岐点になって入れ替わりながら、常に満州や東北が交換条件に、担保に入れられていたという印象がすごく大きいです。</div><div>　歴史を振り返ると、北前船が北海道の松前まで行き、東北から物産を取るのではなくて、もっと北から取ってしまったことも大きいと思いますね。そのために三陸のものが畿内に流れるのがものすごく遅くなりました。もし、藤原四代があそこで藤原王国のような、不思議な特区のようなものをつくっていたら、ひょっとしたら何かが変わったのかもしれません。だからこそ、頼朝があそこをつぶす気になったのは驚くべき計画ですね。先ほど源平が実験したと言いましたが、まさに当時の核実験みたいなことが起こされたわけです。何かそういうものに東北が使われてきた歴史があるんですね。</div></div><div style="font-size: 1em; "><br /></div><div style="font-size: 1em; "><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">■東北だからこそ、グローバリズムによらない復興を</font></b></div><div style="font-size: 1em; "><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><br /></font></b></div><div style="font-size: 1em; "><div><b>＜長澤＞</b>繰り返しになりますが、私は今度の大震災があまりに衝撃的で、自分の気持ちに何か一区切りつけたりということができませんでした。</div><div>　歴史的にも、政治的にも、経済的にも、これまで「負の領域」を背負ってきた東北に、それをまたダメ押しするような地震と津波が押し寄せて沿岸部の町や人を破壊してしまいました。これは、あんまりではないかという思いですね。</div><div>　また、太平洋戦争で非常に苦しい経験をされた沖縄の人たちの立場からすると、今の普天間の問題こそ早く解決しなければならないのに、にっちもさっちもいっていない。</div><div>　この東北と沖縄という、日本のなかで最も手厚くしなければいけないところに、今なお悲劇が起きたり残ったりしていることをもう少し深刻に考えなければいけないはずだということが、私がたじろいでいる原因なのです。</div><div><b>＜松岡＞</b>たじろがざるを得ない大きい宿痾（しゅくあ）の問題ですね。それは、柳田国男ですらそうであったように、です。もちろん柳田も東北に学び、沖縄にも学んだのですが、それを母国の領域としては捉えきれませんでした。多くの日本人は沖縄県民、東北圏民の人たちの思想や生活のレベルでは考えられなかった、ということだと思うんですね。</div><div>　青森や東北には「古布（こふ）」と呼ばれているものがあります。パッチワークですね。それはものすごく大事にされていて、画集や写真集になったり、たいてい端切れが郷土資料館に飾られたりしているのですが、とても何かさびしいもので、ちゃんちゃんこにしたらぴったりぐらいの印象のものです。ただ、刺し子なども含めて、非常に厚くて強いものです。または蓑も東北の産が多いのです。今やコシヒカリもあきたこまちも素晴らしい稲作技術となっていますが、長らく東北は、日本中の蓑細工を提供するという道具の生産力しか持っていませんでした。さらに布とか細工物、あるいは秋田の「曲げわっぱ」など、そういったものを見ているとちょっとかわいそうだな、という印象がすごくありますね。</div><div><b>＜長澤＞</b>東北の人たちがそういう「負の領域」を背負ってきたということを、どう復興計画の中に入れ込むか、そういう思いがないとまずいのではないかと思います。</div><div><b>＜松岡＞</b>私は、やはりグローバリズムによらない復興がよいと思います。結局、東北はもともとグローバリズムが届かなかった地ですね。だから今さらグローバリズムによって、あれこれを切り替えて、ほらすごいでしょう、というふうに言ってもらったり、感じてもらったりするようでは、それはだますことになる。沖縄もそうやってだましてきたわけです。</div><div><b>＜長澤＞</b>地域振興施策の補助金は、まさにそれを集約したようなものですね。</div><div><b>＜松岡＞</b>だから東北の持っている経済力や労働力や産品などをもう一度編集し直して、新しい東北を古代から組み立て直すのがいいのではないかと思っています。それには被災地だけではなくて、私は「奥の細道」と呼んでいますが、その回路全体をひとつのサーキットと考えて、そこに手を入れたり、お手伝いしたりするのがよいのではないかと考えています。</div><div>　もう一つはその奥に奥六郡という領域があって、アテルイや安倍一族の前九年・後三年の役の戦場ですが、最後にそこにはアイヌも入るのです。さらに奥六郡のさらに奥には安東将軍という日の本の将軍を名乗った人物の歴史とともに十三湊、津軽、八戸が並んでいています。六ヶ所村から下北半島から津軽半島に至る領域です。これらが今は漠然と東北と呼ばれているのですが、これをもう一度組み立てるのがよいのではないかと思いますね。</div><div>　その要訣はグローバリズムによらないことです。代わりに千年の東北の資産を再検討して組み直す。例えば、ねぶた祭りから相馬の馬追いまで、お祭りのなかに潜んでいるアイテムの拾い出しからやり直した方がいいと思います。どういうメタファーがそこに使われ、ああいったものになっていったかを見抜いていく必要があるのではないでしょうか。</div><div><b>＜長澤＞</b>そういう編集をやり直すということですね。</div><div><b>＜松岡＞</b>それから、これは長澤さんに教えていただかなくてはいけないことですが、東北における信仰風土というのは一体どういうものなのか。さきほど天台の話が出ましたが、曹洞宗も広まっていますし、浄土宗も真言宗もあります。この折り重なった、場合によっては傷ついた信仰風土をもう一度蘇らせることも大事ですね。それは広大な領域であり、曼荼羅のように複雑だと思いますが、チベット密教というものがあるように、今のブータンがそうであるように、東北というものを宗教風土から捉え直すことも必要だと思いますね。</div><div><b>＜長澤＞</b>赤坂さんは『東北学／忘れられた東北』で仏教以前の土俗信仰に着目していますね。是非こういう時には、神社を含めた東北なりの民俗信仰のようなものを、ベーシックには捉えたいと思いますね。仏教も、東北の民俗の流れのなかで神社とともに自分のアイテムやコンテンツを再編集していくことが必要だと思います。宗派仏教では通用しないですから。</div><div><b>＜松岡＞</b>民俗宗教もありますね。オシラサマのような。</div><div><b>＜長澤＞</b>お祭りや生活に根差した土着的な宗教習俗のようなものが、やはりベースだろうと思いますね。震災でいろいろなものが破壊されましたが、幸いなことに地縁血縁、地域共同体といった人のつながりは、首都東京ではとても考えられないほど強く生き残りました。それが急に露わに見えたものだから、みんなびっくりして「絆」だとか言っていますが、東北の人にしたら当たり前のことだと思います。たしか、玄侑宗久さんがそう言っていました。そういう壊れなかったものは何だったか、という洗い出しも欲しいような気がしています。</div><div><b>＜松岡＞</b>東北というのは、地図が二層になっていると思うのです。今の列島改造された地図が上に乗っているのですが、もう一つ下には違う地図がある。例えば、日本中の川のなかで、北上川だけが縦に流れているんです。あるいは山渓や、さらに言えばプレートテクトニクスにつながる、地層を含めた東北の地図があります。さらに本当はもう一層あって、真んなかに古代からの民俗の地図がある。この三層の地図を持っている地域なので、信仰風土も新しい信仰と中間の信仰と古い信仰が三層になっていて、こういうところが東京以西の人にはなかなかわかりにくいようです。</div><div>　それから、春秋夏が短く、冬が長いという季節感の違いも東京以西の人たちにはわかりにくいと思います。だからこそ、畿内がつくり上げた文化ではない東北の万葉集、東北の歳時記、東北の星座、東北の迷信といったものをもう一度洗い出す必要があると思っています。それは赤坂君がやってくれたことでもあるのです。日本の民俗学は、これまで雲南や照葉樹林といった東アジアとの関連に向かって研究が進み、今では長江文化と結び付けて考えたりしています。しかし、なぜか長らく東北に向かっていなかったんですね。だから赤坂東北学だけではなく、もっと広い目でも東北を捉え直したい。例えば東北の俳句はどういう違いがあるのか、ファッションはどういう違いがあるのかを見る。また、民謡は東北では特に豊かで、沖縄の三線（さんしん）と両極をなす津軽三味線がほとんど本土とは違うリズムを持っていて、そこに民謡というボーカリゼーションの違いも加わっている。その辺も全部洗い直す必要があると思っています。</div></div><div style="font-size: 1em; "><br /></div><div style="font-size: 1em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><b>■新しい東北社会に向けてお寺が担うべきもの</b></font></div><div style="font-size: 1em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><b><br /></b></font></div><div style="font-size: 1em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1em; "><div style="font-size: 1em; "><b>＜長澤＞</b>今回の震災では、お寺が避難所になったり、引き取り手のない遺骨の一時安置所になったりしましたが、きょうの話の最後に、これからのお寺の立場についても、ぜひお聞かせいただきたいと思います。葬式仏教というものが、世の中の景気不景気によって時々やり玉に挙がって（笑）、我々も面食らうのですが。</div><div style="font-size: 1em; "><b>＜松岡＞</b>島田裕巳の『葬式は、要らない』のようにですか（笑）。</div><div style="font-size: 1em; "><b>＜長澤＞</b>今回、東北の人たちがガレキのなかから真っ先に亡き父母の写真を探し出したり、倒壊した家のなかに潜り込んで位牌を探し出し、小さな風呂敷に包んで仮設住宅に持ち帰ったりしている姿を見て、日本の仏教は葬式仏教でよかったな、死者を弔う宗教でよかったな、とむしろ思いましたね。死者への畏敬と鎮魂を積み重ねてきた日本の仏教こそ、「東北」的ですね。</div><div style="font-size: 1em; "><b>＜松岡＞</b>私も今回それを感じましたね。津波で全部流されたなかで、辛うじて流されずに残った泥だらけのアルバムとか国語のノートとかが、全部新たな仏壇・神棚に上げられていました。やはり最初に申し上げたように、生の領域と死の領域は、それなりのパースペクティブを両側に深く持っているわけです。この生と死をまたぐところで起こっている葬儀のようなことも、もう一度見直されると思います。ひょっとしたらアルバムや子どもが書き遺した国語のノートのようなものが、新たなトーテムとして、東北なりの新しい葬儀に今後登場する可能性もあると思うのです。それしか残っていないわけですからね。</div><div style="font-size: 1em; ">　昔、遠野あたりに行くと、おじいさんやおばあさんとともに、早くに亡くなった子どもの御真影というか、精密な絵などがずらっと欄間に掛かっていたものです。そういう四世同堂というか、たくさんの生きとし生けるものが何かのオブジェとして、トーテムとして残るということは、日本の葬儀が江戸期につくり上げたと思うのです。それが実は、遺骨や位牌だけではなくて、形見やアルバムなども隣同士に置かれて実はつながっていくことができる。これが今回の震災の奥に見えてきた生と死の風景だなという気がしますね。</div><div style="font-size: 1em; "><b>＜長澤＞</b>加えて東北には大都市が失っている共同体がありますね。本当に小さな単位で、昔でいう「結」とか「組」とか「講」とか、あるいは「連」とか、そしてまた隣同士や寺単位の檀家さん、神社の氏子さん、そういうミニ共同体の結びつきが東北には厳然として生活の場で大きな作用をしていて、緊急の時にはそれがものをいうということを見させてもらいました。</div><div style="font-size: 1em; "><b>＜松岡＞</b>私は２０１１年１０月から「週刊ポスト」で連載を始めたのですが、その最初に「氏神」を取り上げました。やはり氏子・氏神、檀那（旦那）寺・檀家といった単位は、網の目のように、しかし静かにずっと東北一帯に今でもあると思います。産土（うぶすな）、あるいは鎮守の森と言ってもいいんですが、この単位が再発見できるチャンスだと思いますね。</div><div style="font-size: 1em; "><b>＜長澤＞</b>そういう単位が地域ごとの伝統の祭りや歳時的な祀りごと、講といったものを支えている。そういうものが、東北は日本の他の地域よりもはるかに優れて残っているような気がするのです。</div><div style="font-size: 1em; "><b>＜松岡＞</b>一番残っていると思いますね。それから、食生活の単位も大事ですね。蓄えて食べるという食生活の単位も東北は他とは異なると思います。塩鮭をつくり、佃煮にし、漬物にするというような、時間を掛ける食生活が東北には堆積していると思います。こういう時間ごと、復興を考えるべきですね。</div><div style="font-size: 1em; "><b>＜長澤＞</b>私の世代ですと、東北というとどうしても上野駅にやってくる集団就職や出稼ぎの話が思い起こされます。出稼ぎのない東北、下請けでない東北、自立自尊、地場の産業で働き、自分たちの家族単位で生活を購える東北がどのようにすれば実現するのか、それが復興ではないかと思っているのですが、先ずはやはり第一次産業の大きさからしてその再編集でしょうか。</div><div style="font-size: 1em; "><b>＜松岡＞</b>その比率や分母をもう一度捉え直さなければいけないでしょうね。</div><div style="font-size: 1em; "><b>＜長澤＞</b>第一次産業で十分に暮らしていける「方法」についても、何か知恵が働かないかと思うのですが。</div><div style="font-size: 1em; "><b>＜松岡＞</b>結局、不作と漁獲量の減少、さらに山林が火事で失われるという三つのリスクをどうするかですね。この畑と山と海がコントロールできないために、二・二六の青年将校たちも騒いだわけですが、それをお金の対策に換えないで、一つは技能で立ち向かう。新しい科学技術や原発型のハイテクノロジーではない、土壌や海底や山林という時間が掛かるものに立ち向かうこと、それは組織的にいうと「結」と呼ばれるものですが、その単位として第一次産業はやはり組織から見直さないとダメだと思うのです。単に株式会社にして、競争させて、民営化で活性化しよう、というだけではだめだと思うのです。滔々たる流れのなかで日照りや水害、赤潮があり、好不調がどうしてもあります。それを見越したリスクとオプションを組み直す必要があって、その意味では新しい経済学の発生に向かう東北という観点が必要ではないかと思います。</div><div style="font-size: 1em; "><b>＜長澤＞</b>私の住んでいる地域でも、高校の進路指導の段階で、農家の子も商家の子もみんな高校の都合で進路の枠に入れられるわけです。例えば、私の出た高校でも、東大に何人、一橋に何人、東北大に何人と、高校の都合で、一家の後を担う息子の進路が決められていく現実がありますね。親は農業の若い後継者を確保したくても、高校の進路指導はそんなことおかまいなしです。その結果、息子は首都圏の大学に進んで、卒業後はどこかの企業に勤めて、首都圏にマンションか一戸建てをローンで買って、田舎には帰ってこない、田舎には年寄り夫婦だけが残っている、私の町もそうですし、おそらく東北でも同じでしょう。</div><div style="font-size: 1em; ">　若い人口が大都市に流出しない地域経済こそが大きな問題なんです。そういうしがらみがいつの日か解けないと、地方の有為の人材がみんな首都圏に過密に集まってしまい、田舎が過疎化しています。お寺もそのあおりを受けて、檀家さんの世代交代とともに後がつながっていかない。これもおそらく東北のお寺が背負っている話です。やはり地域が食べられるだけの経済力がないと、何もかもが循環していかない。その一番大きなテーマを抱えているのがやはり東北だと思います。</div><div style="font-size: 1em; "><b>＜松岡＞</b>カール・ポランニーが言うように、経済が社会をコントロールするのでなく、社会のリズムや単位が経済をつくることが理想だと思います。そのことから言えば、東北は面積的には日本のなかでは大きい社会ですから、そのなかでまず社会の分析をして、それを経済に置き直すものをつくらないとなりません。場合によっては地域通貨というものが生まれてもいいと思います。また、特区が生まれてもいいし、相場のようなものも東北側がつくり出していいです。中央の流通経済の相場に合わせないで、東北の漁獲量や獲れ高でイニシアチブをとる。ちょうど産油国が世界に対してＯＰＥＣをつくってオイルダラーの原型をつくっているようにです。</div><div style="font-size: 1em; ">　東北にはあれだけの規模があるので、「中央」がつくり上げているオーダーやインディケーターではないものを先に東北側が主張する可能性はあると思います。そういう意味では学校もお寺も神社も、神社本庁型ではない、「東北型」が生まれた方がいい。七五三であれ、御守りであれ、とことん独自なものにしていっていいのではないでしょうか。</div><div style="font-size: 1em; "><b>＜長澤＞</b>今、東北のお寺はみんな沈み切って、希望と勇気を持って立ち上がるのにまだ時間がかかると思いますが、本当にそうなっていってほしいですね。今回はどこの宗務庁も一生懸命東北に足を運んで懸命に対策を講じているようですけれども、なかなか組織としてこういう緊急事態に対応するだけの能力は用意できていません。どこの宗派も末寺の壊滅的な状態に対する対策は悩んでいると思います。</div><div style="font-size: 1em; ">　でも、東北のお寺には是非、黒石寺の裸祭りとか、生きる力を湧き立たせるような行事や祭事を担ってもらいたいのです。こういう惨劇のなかでも失われずに残ったものは、東北人が長く培ってきた精神的な強さ、あるいは密度の濃い人間関係です。お寺はその保存の担い手というか、東北における母なるものの場にもなるべきではないかと思うのですね。もちろん死者への畏敬と鎮魂は当然として。</div><div style="font-size: 1em; "><b>＜松岡＞</b>そうですね。これからがチャンスかもしれません。</div><div style="font-size: 1em; "><b>＜長澤＞</b>はい。本日は長い時間、いろいろと濃いお話をありがとうございました。</div></font></div></div></font></div></div>]]>
        
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    <title>「脳死は人の死」に反対した元「脳死臨調」委員の名誉のために</title>
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    <published>2010-12-02T11:41:00Z</published>
    <updated>2012-02-01T09:19:59Z</updated>

    <summary>　この夏、日本列島では、石原慎太郎東京都知事をして「この国は本当にダメになるよ」...</summary>
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        <category term="長澤弘隆のページ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[<div><br /></div><div>　この夏、日本列島では、石原慎太郎東京都知事をして「この国は本当にダメになるよ」と言わしめたように、「育児放棄殺人」「消えた百十歳」をはじめとして「罪悪感」も何もない「異常な死に方」と「異常な家族関係」が相次いだ。</div><div>　その渦中、改悪臓器移植法が７/１７に施行され、<u>「書面による本人の意思確認」もなく、脳死移植について事前に話をしたこともないらしい家族</u>による「<u>家族の同意」によって、「臓器提供者本人の意思表示なし」の移植手術</u>がつづけて４件行われた（８/３０現在）。</div><div>　臓器を提供した脳死者は、自分の身体から臓器が切り取られていることも<u>何も知らずに逝った</u>。<u>臓器提供の考えすらなかった脳死者でも</u>、自分はまったく与り<u>知らないところで善意の臓器提供者（ドナー）に仕立てられ</u>、<u>人為的にひそかに命を絶たれることになった</u>。私に言わせれば、「家族の同意」という合法手段によって４件の連続殺人（あるいは死刑）が行われたに等しい。これもまたこの夏の「異常な死に方」のなかにカウントすべき事件である。</div><div><br /></div><div>　報道によれば、<u>「家族の同意」とは</u>、「提供した臓器が、誰かの身体のなかで生き続けられるなら」とか、「日頃、人をやさしくお世話していたから」などといった情緒的な理由であったらしく、みな日頃から家族間で話し合っていたものではなかったという。</div><div>　おそらく、看病疲れや精神的なストレスによって思考力や判断力が低下している時に、お世話になっている病院側から臓器提供への打診・誘導があれば、それを容易に断れない。悩んだ上で、普段は臓器提供の問題など話し合ったこともない家族に思い浮かぶものは、せいぜいそんなことだろう。誰も「美談仕立て」で「納得」したくなるのだ。脳死移植の悪がしこいところは、それに乗じて家族を「当為」の「心当たり」やその場の「付会」の「納得」に追い込み、徐々に臓器提供へと強制することである。</div><div>　曽野綾子氏はそれを、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と聖書などを引いて茶化す（８/２７付、産経新聞「小さな親切大きなお世話」。のん気なものだ。陳腐もはなはだしい。</div><div>　「友」とはいったい誰か？生きとし生けるものすべてか、人類全体か、隣人か、それとも親友か、単なるお友だちのことか？キリスト教徒にとってそんなに「友のために自分の命を捨てること」が「これ以上に大きな愛はない」のなら、クリスチャンはみなすすんでドナーになるべきだし、彼女は「キリスト教徒＜友のために命を捨てる会＞」でも組織し、シラーが書き、ベートーヴェンが「合唱」にした「フロインデ」のために自ら命を捨てるところを見せて欲しい。</div><div><br /></div><div>　その曽野氏であるが、昨年の７月だったか、産経新聞の同じコラムで＜これまでこの国の脳死移植がはかばかしくなかったのは、<u>４人の「脳死臨調」委員（日弁連所属の弁護士？）が強引に（「脳死移植」を）否定したから</u>だ＞といった旨の<u>八つ当たりを日本弁護士連合会に</u>対してしたばかりだが、<u>今度は哲学者の梅原猛、東大特任教授で生命科学者の米本昌平、弁護士の故原秀男（いずれも「脳死臨調」委員）の３氏をやり玉にあげ</u>、＜この国の脳死移植がすすまなかったのは、<u>専門家の医師でもないこの３人のせい</u>だった＞とばかり叩いた（８/２７付、産経新聞「小さな親切大きなお世話」。）</div><div>いわく、</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>１９９０年に始まった「臨時脳死及び臓器移植調査会」は、当時委員だった私の記憶の中で後味の悪いものを残している。２０人前後だったと記憶する委員の中には専門家の医師たちがたくさん含まれていた。<u>私のように全く患者の側にしか立ち得ない人</u>はごく少数であった。しかし結果は医師ではない<u>３人の委員の強硬な論調に引きずられ</u>て、現実問題として今まで、<u>脳死を死と認めた上での臓器移植手術が困難な情況を続かせることになった</u>。当時、そちらの方向に強力に牽引の力を果たしたのは、哲学者の梅原猛氏、東大特任教授の<u>米本昌平氏</u>、それと弁護士だった<u>故・原秀男氏</u>の３人であった。</div></blockquote><div><br /></div><div>　名指しで叩かれた梅原氏と米本氏は日本の哲学と生命科学の第一人者で現代日本を代表する知性である。原秀男氏も教養豊かな法律家であったが、残念ながらすでに故人となられた。こうした尊敬すべきすぐれた有識者のことを、後味が悪かったといって２０年近くも前のことで持ち出し、新聞紙上でしかも実名で叩くとは失礼千万ではないか。彼女には亡き人への畏敬もなく、識者への敬意もないらしく、あるのは記憶にのこる後味の悪さが高じた敵意だけのようだ。とても「汝の敵を愛する」クリスチャンとは思えない。きっと、待ちに待った改悪臓器移植法が施行され、移植手術が立てつづけにあったことを無邪気に喜ぶと同時に、＜ざまあ見ろ＞とばかり、そのような状況を阻んでいた（彼女の思い込み）人らに意趣返しをしたかったのだろう。まるで子供の悪ふざけだ。この人は「全く患者の側」（臓器提供を受ける側）からしか脳死移植を見てないことが判明した。だったら、あの「命を捨てよ」という聖書の引用は、脳死者とその家族への体のいいブラフではないか。</div><div><br /></div><div>　ときに私たちは、縁あって梅原先生そして原先生に脳死移植の問題点を教えられ、脳死移植にずっと反対をしてきた。お二人の名誉のために、かつてお二人から私たちの会員誌へ寄せていただいたご見識をここに掲載しておく。曽野氏がやり玉にあげた人のご見識がどんなもので、彼女の八つ当たりが正しいか、事実か、参考にしていただきたい。</div><div><br /></div><div>　まず梅原先生のものを紹介する。</div><div><br /></div><div><b>◆不可欠な「倫理的決意」</b></div><div>　今回、国会で臓器移植に関する新しい法が成立した。それは衆議院で絶対多数で可決されたはずの脳死を人の死とする中山案と、少数で否決されたはずの脳死を人の死と決めない金田案の折衷案として、ドナー（臓器提供者）が書面によって脳死判定と移植を受け入れる意思を示し、家族もそれに同意する場合にかぎって脳死を人の死とするという案である。</div><div>　私はほぼ金田案に賛成であり、脳死を法で決めるのは大政翼賛会的暴挙であると批判した。脳死を死とすることに、日本の宗教界も日本弁護士連合会も反対である。おそらくそういう宗教界や弁護士会の声を顧慮したのであろう。参議院に突如として新しい案が提出され、それがろくに討議されることもなく成立してしまった。</div><div>　その法案は法律として整合性がないと批判されているが、ある意味で名案である。なぜならそれは法で人の死が決められるのかという批判をかわし、逆に脳死を死と決めなければ安心して移植手術ができないという移植医の心配をも解消することができるからである。</div><div>金田案を一部取り入れ、中山案のメンツを立て、まあまあといって宗教界、弁護士会の頭をなで、医学界の意思に沿おうとする妥協の名案というべきであろう。</div><div><br /></div><div>　私は今、あの脳死臨調の席における苛烈な論争を思い出す。臨調の委員は１５名であったが、ほとんどの委員の意見は脳死は当然人の死であり、臓器の提供は家族の意思でよいというものだった。これがおそらく臓器移植を熱望する医学界の意見にちがいない。しかしこの問題について考えれば考えるほど、<u>脳死を死とする科学的理由はなく、それはただ臓器移植をせんがための強弁であることが分かった</u>。それに臓器移植を家族の意思にすれば、肉親の脳死によって動転している家族が、ひたすら新鮮な臓器を求める医者によって巧妙に説得され、後で深く恨むようなことがあるかもしれない。</div><div>　脳死臨調では、脳死は死であるかそれとも死ではないか、臓器移植は家族の意思か本人の意思かという２点について激しく論争が行われたが、<u>脳死を死とせず、臓器移植を本人の意思にすべきだという論を立てたのは、委員では原秀男氏と私、参与では光石忠敬氏、米本昌平氏のみであった</u>。われわれは<u>委員の数では１３対２、参与を加えて１６対４の劣勢</u>であったが、少数意見を多数意見とほぼ同じ長さの文章にして答申案に入れ、そして多数意見にも臓器提供は本人の意思を主とするという文面を入れさせたのである。</div><div><br /></div><div>　日本の政府が催した調査会、委員会、研究会でかくも激烈な議論が戦わされた例はほかになく、また答申（１９９２年１月）に少数意見を多数意見とほぼ同じ長さで書き加えたのは前代未聞のことだろう。もし政府の委員会にしていつもこのような議論が起こっていたならば、例えば同じ厚生省が行った非加熱血液製剤の継続使用の研究会など、良識が勝利し、あの大量のエイズウィルス（ＨＩＶ）感染者など出さなかったにちがいない。</div><div>　もしわれわれが頑張らず、脳死臨調が満場一致で脳死を死とし、臓器の提供は家族の意思でよいという答申を出していたとすれば、おそらく金田案などは出されず、宗教界も弁護士会もあえて口をはさむことに躊躇したであろう。なぜならば元文部大臣を座長とし、元東大総長を二人も委員に加えている脳死臨調の全員一致の結論に逆らうことは、日本の知性そのものに敵対するかのように思われるからである。法によるにせよよらないにせよ、今ごろ臓器移植は盛んに行われていたと思われるが、さまざまな非人道的事件が新聞紙上をにぎわせ、脳死臨調そのものが社会の批判にさらされていたであろう。</div><div><br /></div><div>　このたびの案は、移植医からみて脳死臨調の多数派の意見より後退している。中山案で突っ走りたかったはずの<u>移植医学界がこの妥協案をのんだ底意はどこにあるか不安を感ずるが、噂によれば、とにかく法案を通し、臓器移植をやってみて、それからまた、これでは臓器不足にならざるを得ないので家族の意思でよいことに変えればよいとのことである。噂が真実でないことを信じたい</u>。</div><div>　この移植医学を現代のカニバリズム（人肉嗜食）であると批評したフランスの哲学者がいるが、<u>生きているとしか思われない温かい人間の臓器を利用するこの医学はどこかにおぞましいものを秘めている</u>。移植医学には、人の命を救うためにはそういうおぞましいこともあえて行うのであるという倫理的決意が必要である。そういう決意なしに移植が安易に行われるとき、やがて日本でも、海外で行われているといわれるように、臓器を売ってテレビを買ったなどということが起こるかもしれない。</div><div>　この問題はここで終わったわけではない。私は、この移植医学の将来をいくばくかの期待と<u>大きな不安をもって今後も見守り続けていきたい</u>と思っている。</div><div style="text-align: right;">（１９９７年６月１８日付下野新聞、転載許可済）</div><div><br /></div><div>　梅原先生は人も知る「日本の霊性」の研究者であり、日本人の生命観・死生観・宗教観について永年その学識を公にしてこられた。京大人文科学の台頭でもある。その先生が、珍しく声高に「脳死は人の死ではない」と主張された。</div><div>　日本人の精神性に深い知識をもつ人なら「脳死は一律に人の死」と決めつけるような、それも「日本の霊性」に無知蒙昧の国会議員の議論に委ね「人の死」を法律で決めることなど、断じて認めるわけがない。「人の死」は法文で謳うのではなく、人類が永い永い年月をかけて受容した「共有の承認」でなければならないからだ。</div><div>　先生はそれでも妥協して、厳しい手続き（書面による本人の意思確認と家族の同意）を条件に脳死移植の法制化に賛成している。「日本の霊性」の専門家（の代表）として苦渋の判断だったにちがいない。</div><div>　この夏、梅原先生の危惧は現実となった。あの脳死臨調での少数派の議論と金田議員の折衷案はものの見事に葬り去られた。梅原先生の耳に達していた「噂」は本物だったのである。この国の脳死移植にかかわる人たちは、姑息に姑息を重ね、政治の力まで動員して、「倫理的決意」どころか欺瞞と暴走に拍車をかけている。人の生死にかかわる真剣な議論を無にされた梅原先生はどんなお気持ちでこれを見ておられるだろう。</div><div><br /></div><div>　もう一人、故原先生のものである。</div><div><br /></div><div><b>◆「二つの死」を決めた法律</b></div><div>■脳死移植法</div><div>　平成９年（１９９７）６月１７日、国会は議員立法により「臓器の移植に関する法律（臓器移植法）」を成立させました。１０月１６日から施行されます。この法律は「二つの死」を決めたといわれています。</div><div>　イギリスでは、脳死になった妊婦については正式な脳死判定はしないそうです。脳死判定をすると、死体が赤ちゃんを産んだという奇妙なことになるからです。判定しなければ、お母さんは生きていたことになります。</div><div>　臓器移植法は、移植に使わない患者は、脳死判定をしないことにしました。だから心停止のときに死んだことになります。</div><div>　参議院における提案者の説明を参考にこの法律を読んでみましょう。</div><div>　①「脳死した者の身体」が「死体」になるのは、本人が臓器提供の意思と、脳死判定に従う意思を書面で表示しており、家族が臓器提供と脳死判定を拒まない場合です。</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>――だから、主治医が「脳死になりました」といっただけでは、まだ「死体」になりません。生きていることになります。</div></blockquote><div>　②脳死判定は、２人以上の権威がある医師（摘出医と移植医を除く）の一致による。</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>――だから、判定医のうち１人でも反対すれば、「死体」になりません。摘出医と移植医は判定に関与できません。</div></blockquote><div>　③判定医は、脳死判定前に、本人の書面と家族の意思を確認しなければならない。</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>――だから、「脳死になりました、臓器を提供しますか」と聞く今までのやり方とは逆です。</div></blockquote><div>　④判定医は「的確に判定した」ことの証明書を摘出医に交付する。証明書をもらわないで摘出すると１年以上の懲役または罰金。証明書にウソを書くと３年以下の懲役または罰金。</div><div>　⑤変死体からの摘出は、検察官、警察官の検視が終わってから。　</div><div>　⑥移植に使わなかった臓器の処理、記録の作成と保存、閲覧、臓器斡旋の許可については、厚生省令で決める。臓器売買の禁止と同様に違反には刑罰を科す。</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>　したがって、脳死判定と移植に関係する医師が、いままでのように自分だけの判断で実施すると大変なことになります。</div></blockquote><div><br /></div><div>■脳死臨調から移植法成立まで</div><div>　私は脳死臨調（臨時脳死及び臓器移植調査会）の委員として、平成４年（１９９２）、梅原猛委員と共に少数意見を述べました。</div><div>　「脳死は人の死である」という多数意見に対し、脳死は人の死ではない、人の死とすることに疑問を持つ、という意見です。</div><div>　脳死臨調の結論は、「人の死については、いろいろな考え方が世の中に存在していることに十分配慮しつつ、良識に裏づけられた臓器移植が推進され、これによって一人でも多くの患者が救われることを希望する」というものです。</div><div>　少数意見の私どもはこの結論に賛成しましたから、臨調の結論は全員一致です。</div><div>　平成６年（１９９４）、衆議院では議員の立法権に基づいて森井忠良議員らが、脳死が人の死であることを前提とする臓器移植法案を提出しましたが廃案になり、中山太郎議員の再提案（中山案）が可決され、脳死を人の死としない対案（金田案）は否決されました。参議院では、中山案を修正、衆議院の同意をえて、脳死移植法が成立しました。</div><div>　本来一つでなければならない人の死を、患者個人や意思の都合で二つ認めることは、法社会の安定を害するので、法律学者の多数は反対し、脳死臨調でも採用されませんでした。それなのに国会は、「二つの死」を認める法律をわずかの審議で成立させてしまいました。「脳死を死と法律で決めなければ、心臓移植を待つ患者が救われない」という声に応じたのです。</div><div><br /></div><div>■臓器移植法の問題点</div><div>　交通事故で主治医から「脳死になりました」と診断された人がいたとします。「臓器提供と脳死判定に従う」というカードを持っていれば、脳死判定医が正式に判定、証明書を作成し、移植医に交付するでしょう。</div><div>　いざ、摘出というときになって、賛成した家族と別な家族が「やめてください」と言ったらどうしますか？</div><div>　直前に血液検査をしたらエイズということがわかったらどうしますか？</div><div>　臓器移植は中止すべきでしょう。この人を生き返ったことにしますか？市区町村に死亡届を出していたら、戸籍を訂正しますか？</div><div>　結婚式がすんで、結婚届を出しに行った夫が交通事故で脳死状態になったとします。結婚届が受理されると、奥さんは夫の遺産を相続できます。</div><div>　そこで、奥さんが「結婚届を出すまで脳死判定を待ってください」と言ったら待ちますか？もらえる遺産が少なくなった兄妹が裁判所に訴えた場合、判定を待った医師の責任はどうなるでしょう。</div><div>　子供も両親もいない夫婦が、一緒に交通事故に遭い、同時に「脳死状態です」と医師に宣告されたとします。夫がカードを持っており、妻は持っていなければ、夫は志望したが、妻は生きていることになります。そうすると、夫の遺産は妻がいったん相続し、妻が心停止になると妻の兄弟がその分をもらえます。妻だけがカードをもっていると、その逆になります。</div><div>　民法を改正しなくてよいでしょうか？こういう疑問の審議をする時間を与えなかったのが、国家のスピード可決です。</div><div><br /></div><div>■私が見た脳死</div><div>　<u>脳死状態になった患者は、顔色がよく、静かに眠っているように見えます。お棺の中の顔とはちがいます。死相がありません。汗をかきますし、涙も出します。排尿、排便もします。時々動きます。だから、私は、脳死者は「生きている」と思います。</u></div><div><u></u>　<u>集中治療室では、医療手段がなくなっても、脳死患者を死体にしないで看護を続けております。</u>私はこれを見て、お医者さんと看護婦さんに合掌して部屋を出ます。</div><div>　脳死状態は一つの自然的事実です。</div><div>　京都の龍安寺の縁側に坐ってあの庭を眺めますと、海の中に島が点々とあるように見えます。ふと横を向いてまた見直しますと、雲の上に山頂が出ているようにも見えます。何個かの石が白い砂の中に配置され、それが島に見えたり山頂に見えたりするのです。何に見えようとも石と砂の配置に変わりはありません。</div><div>　医学的、生物学的に見た脳死状態は石と砂の配置です。人の生と見るか、死と見るかは、同じ自然的事実に対する見方のちがいです。</div><div>　臓器移植法が成立しても、移植に使わない脳死患者は、霊安室に移されず、看護を続けられるでしょう。人工呼吸器は、家族と医師の阿吽の呼吸ではずすことになるでしょう。もし、<u>「移植に使わない脳死体も死体だ」という人がいたら、私は反対です。</u></div><div style="text-align: right;">（書下ろし寄稿）</div><div><br /></div><div>　原先生は法律家ながら、日本人としての生命観や宗教観を矜持としてもっておられた。その上先生は、法律の専門家として冷徹に脳死状態の患者と医療現場の事実関係を観察し、「脳死は人の死ではない」との確信をもっておられた。先生は梅原先生と同様、最終的に「二つの死」に妥協したが、それでも出てくる脳死移植のさまざまな法的矛盾点を指摘されておられた。先生が反対しておられた<u>「移植に使わない脳死体も死体だ」</u>がこの夏大手を振って闊歩することになった。さぞ、草葉の陰で唇をかんでいることだろう。</div><div><br /></div><div>　先日施行された改悪臓器移植法は、「書面による本人の意思表示」を省き、「家族の同意」だけで臓器提供を可能にした。今後は肝心の「家族の同意」も次第に安直になるだろう。ドナーには大きなお金が動くかもしれない。美談の陰に、おぞましくやましいことが潜んでいる。</div><div>　かつて「脳死臨調」で戦わされたあの激論はいったいどこにいったのか。抹殺の憂き目に遭ったあの激論はいったい何だったのか。脳死移植推進のためには「罪悪感」すら捨てている人たちの自惚れは、今日の日本社会の倫理観欠落症候群に通底している。</div><div><br /></div><div>　改めて言う。</div><div>　<u>脳死移植は、生きているドナーの臓器を切り取る殺人行為なしには成り立たない</u>。脳死状態であっても、救命装置で生かされていても、<u>心臓が動き体温がありヒゲも伸び排便もする患者は生きている</u>。これを<u>無理やり法律で死んだことにして、その生きている患者の生体から動いている臓器を切り取り、その結果患者をあの世に強制送致することは誰が考えても立派な殺人である</u>。</div><div>　<u>脳死移植は、きわめて政治的に</u>、しかも<u>きわめて姑息に、法権力を借り</u>、きわめて密室性の高い、きわめて犯罪性の高い、医療行為である。</div><div>　<u>「脳死」は人類共有の「死」ではなく</u>、<u>「脳死は一律に人の死である」という決めつけは、移植医の殺人行為を正当化するために</u>、<u>遅れた日本の脳死移植件数を国際レベルのものにするために</u>、<u>つまりは移植学界のエゴと功名心のために</u>、<u>あるいはそれを「臓器移植でしか救えない命を救う」という美談で糊塗するために</u>、<u>政治的に強制された不当な「死」の概念である</u>。人の「死」の概念と共通理解は人類共有のものでなければならず、限られた一部の人間や組織の都合によってもてあそばれてはならない。</div><div><br /></div>  ]]>
        
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    <title>知の法灯－『真言付法伝』</title>
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    <published>2010-09-22T11:18:35Z</published>
    <updated>2012-02-01T09:20:33Z</updated>

    <summary><![CDATA[●第一高祖　法身(ほっしん)大日如来&lt;生命のもつ無垢なる知のちからの輝き&...]]></summary>
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        <![CDATA[<div><b>●第一高祖　法身(ほっしん)大日如来&lt;生命のもつ無垢なる知のちからの輝き&gt;</b></div><div>　第一の高祖は(ブッダである。そのブッダのさとりを普遍化すれば)生命のもつ無垢なる知のちからの永遠の存在そのものであり、その知の輝きが世界をあまねく照らすので大日如来という。</div><div>　(では、その無垢なる知のちからとはどのようなものか、そのことを)『金剛頂(こんごうちょう)経』につぎのように説く。</div><div>　｢この大日如来が、根本となる五つの知&lt;①生命知・②生活知・③創造知・④学習知・⑤身体知&gt;と、ありのままの四つのすがた&lt;①生存・②種・③遺伝・④個体&gt;をもって、すべての生きとし生けるものが共に生きている世界を自在に観察し、その世界を動かしている四つの基礎原理&lt;①代謝性(生活知)・②生産性(創造知)・③法則性(学習知)・④作用性(身体知)&gt;と、その基礎原理が展開している生命活動の十六のテーマ&lt;生の主張：①存在・②自由・③愛・④喜び/エネルギー循環と環境：⑤生産・⑥光合成・⑦相互扶助・⑧開花/環境の把握とコミュニケーション：⑨観察・⑩道理・⑪原因・⑫表現/身体行動の動機：⑬慈悲行為・⑭自身の保護・⑮障害の打破・⑯無心の遊び&gt;と、知覚の四段階&lt;①対象を五感&lt;視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚&gt;の鉤(かぎ)にかけてとり・②神経の索(なわ)で引き寄せ・③そうして、イメージの鎖(くさり)に縛り・④反応の鈴(すず)を打ち振る&gt;と、こころの四つの癒し&lt;①生の喜び・②生の装い・③生のリズム(歌)・④生の舞い&gt;による快感と、物質からの四つの癒し&lt;①香り・②花(色彩)・③明かり・④潤い&gt;によるくつろぎと、それらの無垢なる知をもたらしている生命の存在そのものと、その知の普遍の原理と、その原理にしたがい生きる多様な種の微塵の数、ないしは、とうてい説明のしようのない、それらの微細なる存在の隅々にまでゆきわたる知と徳が成している絶対の宇宙と、しかも、人の究極の求道と慈悲によっても得られない、それらの無尽の存在がありのままに為している三つの行ない&lt;動作・伝達(コミュニケーション)・意思&gt;が、わたくしたちの為す行ないと不二一体であるとの教えを説く｣と。</div><div>　また(大乗経典の)｢楞伽(りょうが)経｣に</div><div>　｢生命の無垢なる知のちからによる説法というのは、人びとのそれぞれのこころに合わせた方便(ほうべん)としての教えではなく、人びとがすでにもっている絶対心の目覚めであるから、大慧(だいえ)よ、これはありのままの生命の教え、すなわち法身の説法と名づける｣とあるのが、そのことである。</div><div><br /></div><div>　このように、ありのままの生命のもつ無垢なる知のちからの原理と、個体のもつそれぞれの知の作用とは不二平等であり、それらの知が、すべての生きとし生けるものから森羅万象のことごとくにゆきわたり、嘘のない真実の言葉となって、常に変わらぬ教えを説いているのだ。</div><div>　『楞伽経』にいう真実の説法とはこのことである。</div><div>　また、『金剛般若経論』においても、｢応化身(おうけしん：ブッダ)は真仏にあらず、また説法者にあらず｣というのは、（誰もがもつ無垢なる知のちからこそが説法の真の主体者であることから、その知こそが真の仏であり、ブッダはその知に目覚めた人に過ぎないということになるから)このことを指している。</div><div>　</div><div>　①ブッダ(目覚めた人)</div><div>　②究極の求道と慈悲の行ない</div><div>　③生命の無垢なる知のちから</div><div>　は、それぞれがさとりの教えであるが、同じではない。</div><div><br /></div><div>　そのことを『金剛頂瑜伽(ゆが)経』につぎのように説く。</div><div>　｢無垢なる知のちからのあらわれ、すなわち応化身として、インドのマガタ国の菩提樹の下で、ブッダ(釈迦)はさとりをひらいた。そうして、究極の求道と慈悲の行ないを目指す者と、教えを聞いてさとる者と、自らさとる者と、すべての生きとし生けるもののためにその教えを説いた。</div><div>　それは、あるときは相手のこころに応じて説き、あるときは自分の思いのままに説かれたという。</div><div>　その説法にしたがい、それぞれのもつ宗教的器量と、それぞれの方便をもって、ブッダの説くところを忠実に修行すれば、神妙なる人間界の倫理と天上界の浄土の世界に至るか、それぞれの修行に見合った、それなりの小さなさとりを得る。</div><div>　(しかし、その方法によれば、)あるときは進み、あるときは退き、しかも、無限といってよいほどの長い年月を要し、究極の求道と慈悲の境地を経て、ついにさとりに達することになる。(つまり、人びとは今生においては、ブッダのようなさとりに達することができない)</div><div>　(そこで人びとは、インドの釈迦族の)王家に生まれ、(クシナガラの沙羅)双樹の林で入滅され、その舎利(遺骨)を残された実在の人物ブッダ(釈迦)の、その舎利塔を建立し、祈り、供養し、人間界の倫理と天上界の浄土の神妙なる恵みを得て、さとりの因縁を感受することになった、と説く。</div><div>　&lt;これは、①ブッダ(釈迦)を通したさとりの教えと、その利益(りやく)を明かしたものである&gt;</div><div><br /></div><div>　究極の求道と慈悲の修行によって得る最高の境地、ビルシャナ(光明遍照)というのは、欲望を断じた肉体の、その肉体(物質世界)が成す真理の、その真理の頂点において、そこに雲集している無量無辺の極微と極大の存在、一刹那と永劫の存在、つまり時間と空間との間で、瞬間的にすがたをあらわしているありのままの存在(客体)と、それを見ている観察者の意識(主体)が一体のものであるとの絶対の境地を証明として、その絶対世界における生命の輝きを指す。</div><div>　この輝き(ビルシャナ)によって身心は目覚め、速やかにさとりの境界に至るという。</div><div>　この究極のさとりの境地は、前述のブッダの教えとは明らかに異なる。</div><div>　&lt;これは、②究極の修行によって得るさとりの教えと、その利益(りやく)を表わしたものである&gt;</div><div><br /></div><div>　無垢なる知のちからを象徴し、生命のありのままのすがたをもつ大日如来は、その知のちからによって、無量の知のはたらきを流出する。</div><div>　それらの知のはたらきも、生きとし生けるものの個々の知のはたらきも、本質においては、みな同じものである。</div><div>　なぜなら、いずれのはたらきも、本質においては、生命のもつ知の規範にしたがって生起しているからだ。</div><div>　だから、それらのはたらきを、無垢なる知のちからの本質にもどって、大日如来からそれぞれが授かることができる。</div><div>　大日如来からはたらきを授かったものたちは、生命の無垢なる知のちから、つまり如来たちがありのままに行なっている、動作・伝達・意思と、自らの行ないが不二一体であるとさとる。</div><div>　(その行ないをもって、生きとし生けるものが)大日如来と一切の如来たちに仕えることの認可と、彼らのもつ無垢なる知のちからによる加護を願うと、大日如来はつぎのように述べられた。</div><div>　｢お前たちよ、将来のどのような世界においても、究極の教えを求めるものたちのために、そのものたちが現生にあって、社会に役立つ自在な技術(生産・土木・医療・福祉・文化など)を修得することと、自然と共にありのままに生きることのできる無垢なる知のちからの双方を得るように、その法をひろめなさい｣と。</div><div><br /></div><div>　(そのことによって、)生命の無垢なる知のちからをもって、それぞれのはたらきを為すことになったもろもろのものたちは、如来の認可を受けて、それぞれの知のちからに仕え、大日如来を中心として、おのおののはたらきの部署につき、大日如来を形成している根源の五つの物質要素&lt;固体・液体・エネルギー・気体・空間&gt;と一心同体になった。（そうやって、輪円具足&lt;マンダラ&gt;の世界の一員となった）</div><div><br /></div><div>　このような(輪円具足：あらゆるものを包摂し、円輪のごとく秩序をたもち、しかもそれぞれが個性を発揮し、調和し、共生している世界。つまり梵語でいう)マンダラの世界を見、聞き、体得するならば、すべての生きとし生けるものは、戦争や災害・飢え・本能・倫理・浄土という世界の、その世界に生まれかわり死にかわりつづけるといった永遠の苦しみを断つことができる。</div><div>　&lt;これは、③生命の無垢なる知のちから&lt;法身大日如来&gt;の教えと、その利益(りやく)を表わしたものである&gt;｣と。</div><div><br /></div><div>　この③の法身大日如来の教えを、真言密教という。</div><div>　真言密教は、生命の無垢なる知のちからの存在と、その知のちからのはたらきを説く奥深い教え、絶対真理の世界と、その世界に至る道と、その世界のありのままのすがたを説き示す。</div><div>　またいうと、真言密教は、求道の実践徳目&lt;施し・戒め・忍耐・精進・集中・調和&gt;を修め、生命のもつ無垢なる知のちからを示す無量のシンボルを学び、そのシンボルによってマンダラの世界にコンタクトし、そこで得た知のポジションによって、三界&lt;本能・物質・精神&gt;を超越し、その自在な知のはたらきによって、あらゆる生命が共通してもつ行ないに、自らを相応させようとする教えである。　</div><div>　この教えを実践すれば、大いなる恵みとしての生命の無垢なる知のちからを、すみやかに体得することになる。また、もろもろの迷いと、もろもろの災いは離れ、生命の本質があらわれる。その本質とは、生存・種・遺伝・個体から成る生命のありのままのすがたである。そのすがたが、無垢なる知のちからのはたらきを満足させるのである。</div><div>　(このように)大日如来の知のちからは普遍であり、そうして常に、その無垢なる知の存在を、生命のありのままのすがたと、それらが為す三つの行ない、動作・伝達・意思を通じて説法しておられるのだ。</div><div>　しかし、受け手の宗教的素質が劣っていたり、受け手に機運がなければ、その説法を聞くことも信じることも、動作・伝達・意思の三つの行ないを修することもできないから、その教えを世にひろめることはできない。</div><div>　すぐれた教えであっても、必ず人を待ち、必ず時を得なければならない。</div><div>　では、誰がひろめる者であろうか。</div><div>　ここに、七人の伝道師がおられる。上(かみ)は大日如来より、下(しも)は青龍寺の恵果(けいか)和尚に至るまで、つぎつぎと師から弟子へと相続され、今に至るまでその法灯は絶えない。（その法灯の絶えないということが)これがすなわち無垢なる知のちからのはたらきなのである。</div><div><br /></div><div><b>●第二祖　金剛薩埵(こんごうさった)&lt;無垢なる知に目覚めたものたち&gt;</b></div><div>　第二の伝法の祖は、バサラサトバ・マカサトバである&lt;唐では金剛薩埵大菩薩という&gt;。</div><div>　『金剛頂経』の説くところによると</div><div>　｢この金剛薩埵(バサラサトバ)は、生命の無垢なる知のちからが成す世界において、自らも無垢なる知に目覚め、その知のちからのはたらき(職位)を大日如来から授かったものたちである。</div><div>　そのものたちが、自らが体得したそれぞれの知のはたらきにより、動作・伝達・意思のありのままの三つの行ないを為し、そのことをもって、生命そのものの存在知と、個々の知のちからに仕えることの許しを、大日如来に求めたところ、お前たちは、これからさきも世界がつづくかぎり、真実の知を求めるものたちのために、現生にあって、社会に役立つ自在な技術を修得することと、そのものたちが自らのもつ無垢なる知のちからに目覚めることの、双方が得られように指導しなさい、(そうすれば、輪円具足の世界に入れるのだ)と述べられた｣とある。</div><div>　この故に、五つの知</div><div>　①生命知：無垢なる知のちからをもつ生命そのものの存在。</div><div>　②生活知：呼吸・睡眠・情動。</div><div>　③創造知：衣・食・住・遊・繁殖などの生産・行動とそれらの相互扶助。</div><div>　④学習知：万象の観察・記憶・編集。</div><div>　⑤身体知：運動・作業・所作・遊び。</div><div>　から成る生命活動の、それらの無垢なる知の鈴を打ち振り、金剛薩埵たちは、欲望と物質と精神の間において、生死を繰り返し、長く眠りこけているものたちを起こし、目覚めさせ、その教えに帰依する喜びを、すべてのものたちに与えるのだ。</div><div><br /></div><div>　ブッダ(釈尊)の滅後八百年の間、無垢なる知のちからに目覚めたものたち、すなわち金剛薩埵たちによって、ブッダの教えは継承され、やがて、第三祖となる龍猛(龍樹)によって、その教えは空(くう)の論理と諸法実相(しょほうじっそう)として集約された。その後、その教えはインドから、中国、日本へと伝来し、生命がありのままにしてもつ、無垢なる知のちからによる三つの行ない、動作・伝達・意思の教え(すなわち密教)として、師から弟子へと相承され、人びとを救済している。</div><div><br /></div><div><b>●第三祖　龍猛(りゅうみょう)菩薩&lt;伝持の第一祖&gt;</b></div><div>　第三祖は、その名をナーガールジュナ・ボディサッタという&lt;唐では龍猛菩薩というが、古くは龍樹(りゅうじゅ)という&gt;</div><div>　南インドに生まれ、その教えをインド全土にひろめた。すべてのものを平等無尽に包摂する知のちからをもつ者であったが、無垢なる知の成すありのままの世界にあって、おのれの知のはたらきをもって、その世界の中での職位を果たす修行に励んだ。</div><div>　若いときは邪道に進み、世間の塵にまみれたが(やがて、欲望が苦をもたらしていると知り、出家し)真理の道をたてて、ブッダの教えをひろく世にあらわした。</div><div>　多くの論書をつくり、誤った論を砕き、正しい論理を展開した。</div><div>　あらゆるところに秘蔵されていた経典をすべて読破し、ついに南インドで、無垢なる知に目覚めたもの(金剛薩埵)から、真実の知の教えを受け、その教えを人びとに伝えひろめることになった。</div><div><br /></div><div>　『楞伽(りょうが)』『摩耶(まや)』などの経に、未来に出現すると予言された人物とは、この人のことである。</div><div>　『楞伽経』につぎのように説く。</div><div>　｢生命のありのままのすがたがもつものが為す、無垢なる知のちからとはたらきの教えは、迷いとさとりというような相対的な観念の教えではない。</div><div>　(そのようなことを論証する)すぐれた人物が、ブッダ(釈尊)の滅後、ずっと後に、出現するであろう。その人は南インドの大徳の比丘で、名を龍樹という。</div><div>　龍樹は、モノ・コトの存在の有無を(作用と作用主体によって)考察し、有無の論議そのものが空(くう)であると論破し、人びとのために、真実の存在とは何かの法を説くであろう｣と。</div><div><br /></div><div>　龍猛(龍樹)菩薩は、ブッダ(釈尊)滅後、約八百年の後にこの世に生まれ、その思想は、三百年以上の長きにわたって教え継がれてきている。その間、ブッダの縁起論を考察した空の教え&lt;顕教&gt;は、弟子のなかの長老、提婆(だいば)に伝えられ、その空の考察によって得た諸法実相(しょほうじっそう：空によって実相を見ること、すなわち諸法が互いに相依って起こっているという縁起を見ることは、そこに実相を見ることであるとする論)に裏づけされる、生命のありのままのすがたと、その生命がもつ無垢なる知のちからの教え&lt;密教&gt;は、龍智(りゅうち)に伝えられた。</div><div><br /></div><div>　このように師資相承して、法灯は絶えない。</div><div>　まさに、このナーガールジュナの思想こそが、その後の諸宗の生みの親である。</div><div><br /></div><div><b>●第四祖　龍智(りゅうち)菩薩&lt;伝持の第二祖&gt;</b></div><div>　第四の祖は、名を龍智菩薩という&lt;または普賢(ふげん)阿闍梨(あじゃり)という&gt;。</div><div>　第三祖の龍猛菩薩から、その真実の知の教え(密教)を伝授された高弟である。</div><div>　(求道と慈悲の究極の修行により)高い境地を得て、その自在な能力は、はかり知れなかった。</div><div>　その徳はインド全土にわたり、名は十方に聞こえた。天地の障害を乗り越えて自由に旅をし、あるときは南インドにとどまり、教えをひろめ、人びとを導き、あるときはスリランカに遊行して、教えを求める人たちを帰依させた。</div><div>　(龍智のことが)『玄奘(げんじょう)三蔵行状』につぎのように記されている。</div><div>　｢南インドのとある国のマンゴーの実のなる林のなかに、一人の長命のバラモン(僧侶)が住んでいた。高齢にもかかわらずその顔は三十歳ばかりに見えた。その方は、龍樹菩薩の記した『中論(ちゅうろん)』や提婆菩薩の『百論(ひゃくろん)』などの経論に精通していた。龍猛菩薩の教えを受け継ぐ者であるという。三蔵法師はマンゴー林にとどまり、そのバラモンから『中論』『百論』などを学び、また他の経典についても学んだ｣と。</div><div>　また『貞元録(じょうげんろく)』(唐の円照和尚が編纂した仏典目録)にもつぎのように記してある。</div><div>　｢龍樹の弟子を龍智という。龍智の説く教えは、七百年間を経た今も尚、南インドにあって、金剛頂経の各種の教え、及びもろもろの大乗経の教えとして受け継がれ、伝授されている｣と。</div><div>　さらに、円照和尚の編集した『不空三蔵(ふくうさんぞう)表制集(ひょうせいしゅう)』にもつぎのように記されている。</div><div>　｢昔、大日如来(人間ブッダの存在そのものを普遍化した象徴)が、(生命の無垢なる知のちからの教え)密教を、金剛薩埵(と呼ばれる、無垢なる知のちからに目覚めたものたち)に伝え、その教えが数百年間も受け継がれ、やがて龍猛菩薩に伝えられ、龍猛の説く教えが数百年の間に龍智阿闍梨に伝えられ、そうして龍智の説く教えが数百年の間に、金剛智阿闍梨と不空阿闍梨に伝えられた｣と。</div><div><br /></div><div>　わたくし空海が貞元二十一年(八〇五)、(在唐中に)長安の醴泉(れいせん)寺において、北インド出身の般若三蔵や中インド出身の牟尼室利(むにしり)三蔵をはじめ、南インド出身のバラモンたちから聞いたところによると、龍智阿闍梨の教えは、今も現に南インドにおいて継承されていて、その名のもとに奥義などが伝授されているという。</div><div><br /></div><div><b>●第五祖　金剛智(こんごうち)三蔵&lt;伝持の第三祖&gt;</b></div><div>　第五の祖は、名をバザラボウジという&lt;唐では金剛智という&gt;。</div><div>　南インドのマラヤ国のバラモンの家に生まれた。(中インドの王族の王子ともいわれる)生まれながらに霊力をもち、幼くして不思議なことを起こす子であった。</div><div>　年幼くして、父に頼んで、仏道に入ることを求めた。</div><div>　そうして、十歳のときに念願がかない、ナーランダー寺の寂静智を師として出家し、寺院において、まず、言語学を学び、十五歳で論理学を学び、二十歳のときに比丘となる具戒を受け、それから六年間、大乗・小乗仏教の律蔵を学んだ。</div><div>　また『般若燈論』、『百論』、『十二門論』の論書をも学んだ。</div><div>　二十八歳にして勝賢論師に就き、『瑜伽(ゆが)論』、『唯識論』、『弁(べん)中辺(ちゅうべん)論』を三年にわたって学んだ。</div><div>　そうして、三十一歳のときに南インドに行き、龍樹菩薩の教えを引き継いだ龍智の門をくぐり、七年の間、師に仕えて『金剛頂瑜伽経』及び『ビルシャナ総持陀羅尼法門』、もろもろの大乗経典、ならびに五明(ごみょう)論&lt;①工巧明：工芸・建築・技術・算数・暦・天文などの学/②医方明：医学・薬学/③声明：言語学(文典・文法・音韻)・仏教音楽(音曲)/④因明：論理学/⑤内明：仏教学・倫理・哲学&gt;のすべての学芸を学び、(それらを修めた後に)生命の無垢なる知のちからから成る世界のすがたとはたらきをマンダラによって会得し、その世界での自己のもつ知のはたらきを師から伝授され、名実共にあらゆることに通達するものとなった。</div><div>　その上に、九十四の書物に通じ、祈りに巧みで、マンダラ世界の図を描くことにも長け、また、食物はそのたびに天から与えられ、瞑想に入れば常に無垢なる知のちからに目覚めることができたという。</div><div>　そのように充実した日々のなかにあったある日、(学習知のはたらきを司る)観音菩薩があらわれ、金剛智につぎのように告げた。</div><div>　｢お前の学ぶことは、すでに成就した。この後、唐に行って、(創造知のはたらきを司る)文殊師利菩薩に仕えなさい。かの国はお前にとって縁ある土地である。行ってその教えを伝え、人びとを導きなさい｣と。</div><div><br /></div><div>　このお告げによって、金剛智は唐に入る。</div><div>　開元八年(七二〇)、初めて洛陽に到る。</div><div>　そうして、入国に至った事情を皇帝に一つひとつ奏上した。（金剛智四十八歳のときであった）</div><div>　勅命にしたがって、貢物(みつぎもの)を納め、皇帝からは、房舎・衣服・飲食・湯薬などが与えられた。</div><div>　こうして、金剛智は、広くその教えを唐にひろめることになり、教えの根幹となるマンダラ道場を設けるに至った。</div><div>　その道場に掲げられた、生命の無垢なる知から成る世界のすがたとはたらきを示す図、すなわちマンダラは神々しく、それを見た人びとは、みな不思議な吉兆を感じたという。</div><div><br /></div><div>　ところで、唐の国に沙門一行(いちぎょう)という人がいた。生命の無垢なる知のちからの教えを学びたいと願い、金剛智のもとに入門した。</div><div>　一行は熱心に質疑する弟子であった。</div><div>　(一行にたいして)金剛智の指導は丁寧であった。</div><div>　やがて、その甲斐あって、一行はマンダラの灌頂を受けるまでになった。</div><div>　灌頂によって法を受けた一行は、その法を説く梵語の経典が翻訳されて、世にひろく知れわたることを願った。その願いに答えて金剛智は、『瑜伽(ゆが)念誦(ねんじゅ)法』四巻、『七倶テイ(しちくてい)陀羅尼(だらに)経』などを翻訳した。</div><div><br /></div><div>　開元二十九年(七四一)八月十五日、金剛智三蔵は、東都洛陽の広福寺で遷化(せんげ)された。</div><div>　天宝二年(七四三)二月七日になって、玄宗皇帝の勅命により、奉先寺の西の岡に供養塔が建てられた。</div><div><br /></div><div>　金剛智は、幼少にして家を捨て、道に入ってから入滅するまで、折にふれて修法を行ない、その都度、多くの成果を得たという。詳しくは別伝に述べる。</div><div><br /></div><div>　第九代の代宗の御代に、金剛智三蔵の徳を讃えて、称号と官位が贈られた。</div><div>　そのときの弟子の不空三蔵和尚への勅書につぎのように記されている。</div><div>　｢金剛智三蔵は生まれながらの秀才であり、しかも柔和な気質の人であった。</div><div>　すべての生きもの&lt;四生(ししょう)：胎生(ほ乳類)・卵生(鳥類と爬虫類)・湿生(水棲類)・化生(昆虫と両生類)&gt;を観察し、高い知識をもって、それらのもっている無垢なる知をよく洞察し、また自己は、施し・戒め・忍耐・精進・集中・調和の精神修行に励んだ。</div><div>　西域(インド)より、錫(しゃく)を杖(つ)いて東に来られた。そうして、淫欲を絶ち、身を清め、慈悲をもって、人びとを救済した。</div><div>　その真実の教えは、花のように世間を照らし、その無垢なる知のかがり火はすべてのもののこころを明るくした。</div><div>　そうして、迷える多くのものたちを救い、導きつつ、示寂(じじゃく)された。</div><div>　入滅するにあたって、その教えのすべてを弟子の不空に伝授し、後事を託していたとはいえ、今は衣鉢(えはつ)だけが空しく残り、あの慈悲にみちた声はもう聞こえない。</div><div>　しかし、和尚の功績は、長く後世に残るであろう。</div><div>　ここにその功績を讃えて、開府儀同三司(かいふぎどうさんし：国家に対する偉勲著しい者に与えられる爵位)の官位を贈り、大弘教三蔵の称号を贈る」&lt;開府同三司は、最上位の官位である正一品(しょういっぼん)に相当&gt;</div><div>　永泰元年(七六五)十一月一日</div><div><br /></div><div><b>●第六祖　不空(ふくう)和尚&lt;伝持の第四祖&gt;</b></div><div>　第六の祖は、南インドの出身(父は北インドのバラモン系の帰化人、母は西域人であるとの説があり、実際のところは出生地不明)であるが、唐から特進試鴻臚(こうろ)卿という正一位の外交官職と開府儀同三司(かいふぎどうさんし)の爵位、粛国公(しゅくこくこう)食邑(しょくゆう：領地の租税による官費給付)三千戸の待遇をうけ、死後に官吏の最高位である司空の官位と、大弁正広智の称号を贈られた不空三蔵和尚である。また法名は智蔵、大広智不空金剛と号した。</div><div>　金剛智の弟子である。</div><div><br /></div><div>　その昔、生命の無垢なる知のちからそのものを象徴する大日如来(すなわちブッダ)が、無垢なる知のちからに目覚めたものたち、すなわち金剛薩埵に、その無垢なる知のちからによって成る世界の真実のすがたとはたらきを伝え、金剛薩埵がその教えを数百年の後に、龍猛(龍樹)菩薩に伝授した。伝授されたその教えは、龍猛からつぎに龍智に伝えられ、その教えが、龍智から金剛智に伝えられ、金剛智はその教えをもって、インドから唐に行き、師弟であった不空和尚にその教えを引き継いだ。(その間、教えは各数百年の年数を経て相承されることになるが、そのことは、特定の人物の教えが、その人物の教えとして、まず何代かにわたり、同じ名をもって継承され、やがて、つぎの異なる名の人物、すなわち祖師となるものに受け渡されたからである)</div><div>　このように、大日如来から不空和尚に至るまで、その道を伝えたものは、六人の祖師たちとなる。</div><div><br /></div><div>　不空は幼くして出家し、ずば抜けて利発であった。そうして、利発の上に、昼夜をとわずに努力精進し、一度でも見聞きしたことは、ことごとくを暗記していて決して忘れることがなかった。</div><div>　また、一を聞いて十を知る様子は、神のようであった。</div><div>　(そうして、十四歳の折、金剛智にめぐりあって弟子となった)</div><div><br /></div><div>　金剛智三蔵がまだ生きておられたころ、｢わが道(教え)は東方に至った｣と感嘆されることがあった。(それは、三蔵がその教えのすべてを弟子の不空に伝授するかどうかをまだ迷っていたときのある夜、不空にしたがって大勢の仏・菩薩が東方に向かっている様子を夢に見たことによる。その夢によって、金剛智は、不空にすべてを授けることを決めたという。そうして、無垢なる知のちからがもたらす、生命のありのままの三つの行ない&lt;動作・伝達・意思&gt;と、五つの根本の知&lt;生命知・生活知・創造知・学習知・身体知&gt;から成る世界の奥義が師から弟子へと相承されることになった)</div><div><br /></div><div>　師の金剛智の滅後、不空は、(まだ唐に伝来していなかった『金剛頂経』の経典を求めて)船を浮かべ、南インドとスリランカに向かい、龍智の教えを何代にもわたって伝承している阿闍梨のもとにその法を求めた。</div><div>　その求法の結果、瑜伽十八会(え)の法、五部灌頂、金剛系の経典、小乗経典などを得て、その教えの精髄を究めることができた。</div><div>　(そうして、)不空和尚は人間のすがたかたちをしていたが、そのこころはすべての生命のもつ無垢なる知と同じになった。</div><div><br /></div><div>　(目的を果たした不空は)天宝五年(七四六)の初めに唐に帰り、都(長安)に入った。</div><div>　玄宗皇帝は、不空を深く敬って、待遇した。</div><div>　そうしてその後、玄宗から三代にわたる皇帝の師として宮廷に出入りした。</div><div>　どの皇帝も、不空をつねに宮廷内に招き、彼を師と仰ぎ、教えを聴聞した。不空の説く奥深い道理をもった教説に、皇帝たちは教えみちびかれ、その帰依は日々深まったという。</div><div><br /></div><div>　大暦九年(七七四)、不空が病に臥すと、そのもとには見舞いの勅使が車で駆けつけ、医者は毎日、薬をもって訪れた。</div><div>　病に臥せてから、皇帝の温情をもって、開府儀同三司の爵位が不空に加贈されたが、前からしきりに辞退を申し出ていた試鴻臚卿、粛国公食邑三千戸はどうしても聞き入れられなかった。</div><div>　同年六月十五日、死を察した不空は、薬湯に浴して身を清め、衣服を清潔なものに着替え、皇帝への別離の文をしたため、泰然として遷化した。</div><div>　寿齢七十歳、出家して五十年の歳月が過ぎていた。</div><div>　皇帝は嘆き、三日の間朝廷を閉じ、追悼された。</div><div><br /></div><div>　和尚が住居とされていた寺には周囲数十畝(ほ)の蓮池があった。その池には水が流れ込まなくても、池の底から水がこんこんと湧き出ていた。その水はいつも清らかに澄み、冬にも夏にも涸れることなく池を満たしていた。ところが、和尚が遷化される日の夕方に、その水が涸れたという。かのブッダ入滅のときにも、沙羅双樹の葉が白くなったというが、事象は異なるが、その感ずるところは同じである。</div><div>　そもそも真理の本質は金剛のように堅固であり、来ることもなければ、去ることもないが、人の世では、父母の縁によってこの世に生をうける。不空もそのようにして人の世に生をうけ、生命の無垢なる知のちからをさとり、生きとし生けるものにその道を示して、また、永遠に自然に戻られたのだ。そのへんのところは、凡人にははかり知れない。</div><div><div><br /></div><div>　　不空和尚を讃える詩</div></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>生命の無垢なる知のちからを三代の皇帝に授けた阿闍梨よ</div><div>その教えを唐に伝えひろめたが</div><div>出身はブッダの説法の場となった霊鷲山(れいじゅせん)のあるところ</div><div>その望みは龍のごとくに高く、その人格は磨かれた玉のごとし</div><div>多くの梵語経典を手に入れ、その翻訳にちからを注ぐ</div><div>こころは白き月のごとく</div><div>その光は人びとのこころの水面をよく照らした</div><div>その和尚が、セミの脱けがらのようこの世を去り</div><div>肖像のみが遺影堂に画かれる</div><div>和尚のしぐさと言葉と意思は、もう止まってしまったのだ</div><div>皇帝は深く哀しみ</div><div>高位高官たちもみな、皇帝にしたがい喪に服す</div><div>万里を渡る雲も、千山の松の緑も悲しく</div><div>ああ、どうして天は不空和尚に長寿を与えず、その生命を奪ったのか</div><div>白く冷たい顔を見つめても、和尚はもはや教えを説き示してくれない</div><div>しかし、不空三蔵の教えは永く後世に伝わり、人びとはその教えに学ぶだろう</div></blockquote><div><br /></div><div><b>●第七祖　恵果(けいか)和尚</b></div><div>　第七の祖は、法の名が恵果、俗姓を馬氏という。長安郊外の昭応というところに生まれ、大興善寺の大広智不空三蔵から教えを受けた。</div><div><br /></div><div>　恵果は七、八歳のまだ子どものとき、青龍寺の曇貞和尚に伴われて不空三蔵に会った。</div><div>　不空三蔵は、恵果を一目見るなり、驚いて、｢この子は生命の無垢なる知のちからに目覚める器量をもっている｣と褒めたたえ、そうして、恵果に、「お前は必ず、わが教えを栄えさす｣と告げた。</div><div>　その後、不空は、まるで父母が育てるように慈しんで、恵果を育てた。</div><div><br /></div><div>　(不空三蔵は恵果が長じるのを待って)三昧耶戒(さんまやかい：｢ただひたすら、自らのもつ生命の無垢なる知のちからにしたがい、そのちからに相互扶助の慈悲のこころを見いだし、自分とその知のちからと、あるいは自分と他がその知のちからをもつものとして同一であると感じ、清らかなこころをもち、自らその知のちからのはたらきによって生きとし生けるものを救い、その知によって生きているすべての生命を大切にする｣という戒律)を授け、次いで無垢なる知のちからの成す世界のすがたとはたらきをマンダラによって教示し、その教えのすべてを伝授した。それによって、恵果は自らもまた、伝法灌頂(でんぽうかんじょう)の師、つまり大阿闍梨となった。</div><div>　また、不空自らが『大仏頂』、『大髄求(だいずいく)』及び梵字の『金剛頂瑜伽経』ならびに『大日経』などを、直接、恵果に教えた。</div><div><br /></div><div>　恵果は生まれながらに温和な性格で、かつ聡明であった。</div><div>　その聡明さは、古代中国の思想家、孔子の弟子の願回(がんかい)が、一を聞いて十を知ったようであり、また、まだ子どもの項託(こうたく)が、孔子に｢後世畏るべし｣と言わしめたような存在であった。</div><div>　そうして、十五歳ですべてを見とおすちからを発揮した。</div><div>　(その神童のような子がいると聞いた)代宗皇帝は、恵果少年を宮廷に招き、つぎのように命じた。</div><div>　｢われには、こころにつかえていることがある。そのこころのつかえとなっている疑問に答えよ｣と。</div><div>　少年は、自らのもつ自在なる知のちからを目覚めさせ、その無垢なる知によって、皇帝の質問に一つひとつ答えた。</div><div>　その答えは、過去・現在・未来にわたる幽事(かくりこと：目に見えない神の為せること)と、皇帝の天命を説き明かすものであった。</div><div>　皇帝は感嘆してつぎのようにいった。</div><div>　｢龍の子は小さくても、よく雲雨を起こし、ブッダの子は幼くても、天の法力をもっているという。その昔、アショーカ王が七歳の少年僧が瓶の中に出入りする不思議を見て、大いに敬ったというが、われは今、恵果少年にそれを見た｣と。</div><div>　その後、恵果は皇帝の馬で送り迎えされるようになり、さらに、皇帝から房舎・衣服・飲食・湯薬をも優遇されるようになった。</div><div>　</div><div>　そのようにして、二十歳になったときには、『四分律』によって僧侶の守るべき戒を受け、経・律・論の三蔵のすべてを修めていた。</div><div>　その後、師の不空三蔵より、教えのことごとくを伝授された(のは、前述した通り)。</div><div><br /></div><div>　(すべてを伝授し終えた)不空三蔵は恵果につぎのように告げた。</div><div>　｢わたくしが亡くなった後も、お前はこの無垢なる知のちからから成る世界のすがた(胎蔵)とはたらき(金剛界)のマンダラ両部の真理の法をもって、この教えを護持し、国家を守り、生きとし生けるものの幸せに役立てよ。</div><div>　本家のインドにおいても、この法のすべてを得ることは、もはや見がたいものとなったし、マンダラの一尊、典籍の一部ですら得がたくなった。ましてや、無垢なる知のちからから成る世界のすがたとはたらきの両部の法を得ることとなるというまでもない。</div><div>　(そのようなことだから)わたくしの弟子が多いといっても、あるいは一尊、あるいは一部を授けたにすぎない。</div><div>　お前に両部の法を授けたのは、その賢明さと一途な励みに対してである。この後も努力し、精進し、わたくしがお前に託した教えを未来に継いで欲しい｣と。</div><div><br /></div><div>　(この故に)不空三蔵の遺言につぎのように述べられている。</div><div>　｢わたくしは二十年の長きにわたって灌頂を行なってきた。だから、入壇受法の弟子はかなりの数になる。しかしながら、修行が成満(じょうまん)して、金剛界の伝法灌頂を受け、阿闍梨位についたものは八人である。その内の二人は他界したので残るのは六人である。</div><div>　それは誰かというと、金閣寺の含光、新羅(しらぎ)の恵超、青龍寺の恵果、崇福寺の恵朗、保寿寺の元暁と覚超である。</div><div>　後輩を正しく導くのは、お前たちである。この法灯が絶やされることがないように、わが恩に報いよ｣と。</div><div><br /></div><div>　(このように)不空が弟子たちのさとりの熟達度を遺言に記し、証明したことによって、代宗より三代の皇帝が、国の師範として恵果和尚を尊び、多くの比丘・比丘尼や在家の信者が和尚に帰依した。</div><div>　和尚は宮廷に出入りして、その法を皇帝に直に説き、また、民衆に向かっては、生命の無垢なる知のちからの個々のはたらきの恵みを説いて四十年の長きに及んだ。</div><div><br /></div><div>　恵果和尚は、(遷化される前に)弟子たちに(師の不空三蔵に見習い)つぎのように告げていた。</div><div>　｢生命の無垢なる知のちからから成る世界のすがた(胎蔵)とはたらき(金剛界)を説く教え、すなわち金胎両部の教えは真実の知の教えであり、そこに、この身のままで目覚めるさとりの道がある。だから、その教えを広く天下に流布し、生きとし生けるもののすべてを導かねばならない。</div><div>　わたくし恵果は今までに、ジャワの弁弘と新羅の恵日に胎蔵の師位を授け、剣南道の惟上(いしょう)と河北道の義円には金剛界の伝法灌頂を授け、義明供奉(ぎみょうぐぶ)には金胎両部の阿闍梨の法を授けた。</div><div>　そうして、今ここに日本の沙門(しゃもん)空海というものが、はるばる長安に教えを求めて来た。(わたくしはそのものの器量を見抜き)金胎両部の伝法灌頂を授け、儀軌の一切を授けたところ、そのものは、漢語も梵語も間違えることなく、ことごとくを理解し、瓶から瓶に水を移すように、すべての教えをマスターした。</div><div>　この六人の弟子が、わたくしの法灯を伝える阿闍梨であり、これで、わたくしはわたくしの為すべきことのすべてを果たした。</div><div>　日が昇ると月は沈み、油が尽きると灯は消えるというが、それがものの定めである。</div><div>　(知のはたらきを示す)如何なる菩薩もこの世にとどまらず。</div><div>　(生命の知のちからを示す)如何なる如来もまた滅する。</div><div>　わたくしもその定めのふるさとに帰ろうと思う｣と。</div><div><br /></div><div>　そうして、恵果和尚は永貞元年(八〇五)十二月十五日の午前四時にこの世を去られた。ときに寿齢六十歳、出家して四十年であった。</div><div>　皇帝は深く哀しみ、比丘・比丘尼と在家の信者たちの嘆きは尽きなかった。</div><div>　恵果和尚の業績については、別伝に詳しく述べる。</div><div><br /></div><div><b>●善無畏(ぜんむい)三蔵&lt;伝持の第五祖&gt;</b>　</div><div>　沙門(しゃもん)輸波迦羅(ゆばから)は、正確には梵語でシュバカラソウカと発音する。浄獅子と訳すが、意訳して善無畏という。</div><div>　中インドのマガタ国の王であった。(東インドのオリッサ地方の王子として生まれ、そこの王位についたとの説もある)</div><div>　龍智菩薩の弟子で、金剛智三蔵とは同門の間柄であった。</div><div><br /></div><div>　(若くして王位についたことで、兄たちのねたみを受け)王位を捨てて出家した。</div><div>　気性は潔白で私欲がなかったが、修行の成果は著しかった。</div><div>　(その成果とは)静座して沈思・黙然し、無心の境地に入ること、すなわち精神の集中力と、感性と理性・精神性と物質性の包括的なバランスをとった知の獲得による、大いなる徳の達成であった。</div><div>　また、仏教学の経・律・論の三蔵のことごとくをマスターしていた。</div><div><br /></div><div>　善無畏の名は、インド全土にゆきわたっていたが、縁あって、その慈悲のこころをもって、陸路でインドから東方(大唐)へと向うことになった。</div><div>　その名声は大唐にまで届いていたため、すぐれた人材を探し求めていた皇帝は、善無畏が北インドの国境に達したと聞きつけ、使者を国境に派遣して彼を迎えたという。</div><div><br /></div><div>　そうして、開元四年(七一六)の陽春三月に、多くの梵語経典を携えて、善無畏は長安に到着し、まずは、興福寺の南院に落ち着いた。</div><div>　翌、五年には西明寺の菩提院において、『虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじのほう)』一巻を翻訳した。(この翻訳が、当時、唐に留学し、善無畏に師事していた大安寺の道慈によって、養老四年(七二〇)に日本に請来された。青年期の空海がこの法を一人の沙門から授かり、土佐の室戸崎などで修行して、さとりを得た)</div><div>　開元十二年(七二四)には、皇帝の行幸にしたがって洛陽に入り、大福先寺に落ち着いた。</div><div>　そこで、弟子の紗門一行(いちぎょう)と『大日経』一部七巻、『蘇婆呼童子(そばこどうじ)経』三巻、『蘇悉地羯羅(そしつじから)経』三巻を翻訳した。</div><div><br /></div><div>　善無畏三蔵の性格は清廉淡白で、常の瞑想を楽しみとし、よく禅道場を開いて、初心者にもすすめた。</div><div>　その慈悲深さをもって、おだやかに教えを説き、相手を納得させ、また質問する人には親切丁寧に答えて、とどこおることがなかった。</div><div>　弘仁十二年(八二一)九月七日(空海記す)</div><div><br /></div><div><b>●一行(いちぎょう)禅師&lt;伝持の第六祖&gt;</b></div><div>　沙門一行の俗姓は、姓が張、名を遂(すい)という。金剛智三蔵の弟子であった。</div><div>　山東省郯城(たんじょう)県の貴族、謹(きん)の子孫で、馬を司る高官、凛(りん)の子である。生家は代々、忠孝に厚く、高官の家柄であった。</div><div>　母は甘粛省(かんしゅくしょう)の李氏の出身で、容姿麗しく、利発であった。</div><div>　遂を身ごもったとき、母の額(ひたい)に二、三寸の白光があり、遂が生まれる(六八三年)と、白光はその子の額に移った。親族は不思議なことがあるものだといぶかったという。</div><div>　遂は十歳になると、その賢さは群を抜いていた。父親は、その賢さを見込んで、官吏登用試験を受けさせようとした。</div><div>　しかし、母は、｢わたくしが見た夢では、この子は必ず国の師となる。むやみに試験を受けさせてはならない。後に必ず大器となる子です｣といった。そこで、試験を受けさすことを止めたという。</div><div>　その後、母の言葉のように、遂は玄宗皇帝の国師となった。(そうして、国師として尊敬される身になった)</div><div>　</div><div>　遂、すなわち一行禅師が遷化されたとき(七二七年)、玄宗皇帝は自ら進んで筆をとり、親しく碑文を作成された。その言葉はつぎのようなものである。</div><div>　｢禅師は、幼少のときから無口であったが、言うときは必ず、ものごとの真実をついていた。</div><div>　成長してからは、一日も休むことなく、万巻の書を読んだ。</div><div>　深く仏道を追究すると同時に、道教の奥義にも通じた。</div><div>　また、四季の美しさを詠い、俗務を嫌い、清貧に甘んじ、孤高を保った。</div><div>　嵩山の普寂から禅を学び、また、玉泉寺の恵真に就いて律蔵を編纂した。</div><div><br /></div><div>　余は、禅師のその高い徳を聞きつけ、遠く荊州の玉泉山にいた禅師に長安の都に来てほしいと請うた。</div><div>　(禅師は余の願いを聞き入れられ、都にのぼられた。)</div><div>　(都にのぼられてからも)禅師は生まれながらの宗教者であったから、その生活態度と行動は質素であり、その質素さは生涯変わらなかった。</div><div><br /></div><div>　禅師は、余が頼みとする日月星辰の運行の暦を、正確な天体観測と大規模な子午線測量を行ない改正して新暦を作成し、余があつく聖道をあがめることから、『大衍暦(だいえんれき)』五十二巻を完成させた。</div><div>　また、金剛智三蔵に師事し、各種の教えを学び、伝法灌頂を受け、阿闍梨位を授かり、その後、善無畏三蔵のもとで『大日経』七巻の翻訳に従事し、そこに記された生命の無垢なる知のちからから成る世界のすがた&lt;胎蔵&gt;を開示して、その世界がもつ大いなる慈悲のこころで万民を包んだ。</div><div>　禅師は、何のためにこの世に生まれて来たのか、その答えを、これらの業績がもの語っている。</div><div>　(以下、中略)</div><div>　以上、余のこころの晴れないままに、粗末な文章を綴ってしまった次第である。</div><div><br /></div><div>(玄宗皇帝による)一行禅師追悼の詩一首</div><div>　生まれながらに聡明であり、その将来を自らのもつ生命の無垢なる知のちからのはたらきによって、人びとを救済する者になるように約束されていた。</div><div>　禅師は、あらゆる学芸に通じ、その文才は太陽や月のように輝き、その技術(数学・天文学)は天地を究めた</div><div>　我欲を捨てて、道を求め、多くの教えに通じ、法華を学び、ついに自らのもつ無垢なる知のちからの一灯に目覚め、方便によるさとりをすべて捨てた</div><div>　余(玄宗皇帝)は以前、金色の人(一行禅師)やって来て、国家を鎮護してくれるのを夢に見た</div><div>その夢に見た人がほんとうにやって来て、帝位は安定し、政(まつりごと)はますます栄え、多くの善政をなすことができた</div><div>　禅師の坐禅は、存在が何であるかを示し、禅師の無垢なる知のちからは、宇宙の主宰者のごとくに万能であった</div><div>　その禅師が、国師として余を導き、その教化によってあまねく天下を清(きよ)めた</div><div>　それなのに禅師は、余の礼の尽くせぬ間に、あまりに早く世を去ってしまった</div><div>　坐禅したままのすがたで入滅した禅師は、生きているようだったのに</div><div>舎利だけを残し、その教化は絶えた</div><div>　生滅するものを見れば、それは不生不滅</div><div>　言葉で説くことを聞けば、それは空にしてそこに言説はない</div><div>　そのように、真理は見聞を離れているというのがブッダの教えだが、今は、この碑文を作り、禅師の徳を伝え、後の世の賢人に示したい」。</div><div><br /></div><div>　一行禅師が生涯において実践した、生命の無垢なる知のちからによる業績は、(創造知のはたらきを司る)文殊菩薩以上であったといってよい。それは、孔子の徳目を実践した弟子の願回と比較できる。</div><div>　『大日経』の真実の知の教えが、天下に流布したのは禅師の功績である。</div><div>　しかし、真の雄弁家は(言葉を反芻するから)口べたのようであり、真に賢い者は(その知を推敲するから)愚者のように見えるという。だから、聖君でなければ、その真の賢さに気づかず、知恵のある母でなければ、その子のもつ真の賢さが分からない。</div><div>　禅師の真の業績も、禅師が人前に出しゃばらず、その徳を隠し、その名の出ることを避けておられたから、世間の人には分かっていない。</div><div>　そのようなことだから、いろいろと述べたいのだが、それが尽くせないのが残念である。</div><div>弘仁十二年(八二一)九月六日(空海)書す</div><div><br /></div><div>真言付法蔵書　終わり</div><div><br /></div><div><br /></div><div><b>あとがき</b></div><div>　紀元前五世紀のインドで、ガウタマ・シッダールタすなわちブッダがさとりをひらかなければ、仏教の誕生はなかったであろうし、それから約八百年後のナーガールジュナ(龍樹)の空の論理も生まれなかったであろう。</div><div>　その空の論理がなかったら、その後の大乗仏教の発展もなかったであろう。</div><div>　存在は言葉の論理では証明できない、だから、存在は空なるものであるという大乗の短絡的な帰結は、それでも実在している世界とは、明らかに矛盾する。</div><div>　ブッダはさとりによって、方便としての無&lt;縁起論&gt;を説いたが、そのさとりによって体得した実在する真実の世界のことは説かなかった。</div><div>　そのブッダが説かなかった真実の世界を、生命のもつありのままの知のすがた&lt;胎蔵&gt;と、その生命のもつ知のちからのはたらき&lt;金剛界&gt;によって、ビジュアル化したものがマンダラである。</div><div>　マンダラは、あらゆる存在が論理的考察よっては、有るともいえないし、無いともいえない、だから、空であるとされた後に、それでも実在しているありのままのさとりの世界を図によって示したものだ。</div><div>　その図の伝えるところは、｢あらゆる生きものは、言葉の論理ではなく、イメージ・シンボル・単位・作用の四つのメディアがもたらす知によって生きている。その知が、動作・伝達(コミュニケーション)・意思の三つの生の行ないを為している。その生命共通の知と行ないによって、自然界の秩序が保たれている。そこに実在する真実の世界がある｣ということである。</div><div>　このマンダラ的考察は、今日の科学に限りなく近い。</div><div>　人が如何に生きるのかを求めれば、その答えは、あらゆる生きものが如何に自然と共に生きているのかを観察することによって得た道理と同じであっても不思議ではない。違いがあるほうが不思議である。知のちからは自然の道理にしたがっているのだ。</div><div>　生きるための知は、生物学的な直感によって得る知と不二一体なのである。</div><div>　その知によって、真実の世界が存在する。</div><div><br /></div>]]>
        
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    <title>空と縁起の一考察　⑧</title>
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    <published>2010-09-22T01:54:37Z</published>
    <updated>2012-02-02T10:15:32Z</updated>

    <summary>第八回（最終回）仏教の役割　　◆仏教の役割　一般に仏教では、煩悩はもともと無我で...</summary>
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        <![CDATA[<div><b>第八回（最終回）仏教の役割</b></div><div><br /></div><div><b>　　◆仏教の役割</b></div><div>　一般に仏教では、煩悩はもともと無我であるはずの我に執着するところから生じるという。だが私はそもそも執着が一律に否定されるべきものではないと考える。否、執着は必要である。細胞ホロンの自由度は命への執着のことである。自然界はウイルスから動植物に至まで、みなある意味で生き延びることに執着している。人間もまた同様で、命に執着しなければ人類はとっくに滅亡していたであろう。</div><div><br /></div><div>　これが宇宙の自己統一性に従う自然の摂理であるなら、仏教一般が説くように、執着心を捨てることは宇宙の意志に反することであり、ある意味では不自然なことでもある。</div><div><br /></div><div>　密教経典である『理趣経』では、いわゆる命の執着を「菩薩の位」と観じている。この経典の真意は、万物は宇宙の摂理（そこに遍満する如来の智慧と慈悲）の自覚における執着を「菩薩の位」としたのではないかと思う。とすれば、否定されるべきは執着心自体ではなく執着の仕方であろう。</div><div><br /></div><div>　ということは、人間は宇宙の摂理（如来の智慧と慈悲）に沿った形で「生」に執着すればよいということになる。いわば宇宙の主体と人間の主体の問題である。おそらくこれが人生における「中道」であろう。不殺生から始まる五戒や十善戒の倫理規範はその指針ともいえるのではないだろうか。</div><div><br /></div><div>「苦」とはおそらく宇宙の意志（如来の慈悲）に逆行するような「生のあり方」に執着するとき、それが人の心に「苦」として認識されるのではないだろうか。与えられたもの以上の何かを渇望するとき必ず生じるストレスもそうであろう（求不得苦）。同じように「生」に執着していても、動植物に「苦」があるようには見えない。与えられた命を全うするのみである。</div><div><br /></div><div>　ここで再び松長有慶師の言葉が思い出される。「もともと宗教は人間の苦悩を取り除き、精神的なやすらぎを得させることを目的とするといってよい。」やすらぎであり哲学的探求ではない。カプラもまた同じ意味で、「ブッダの説く教えは、形而上学的なものではなく精神療法である」と述べている。</div><div><br /></div><div>　私は仏教を宗教とする根拠の一つとして、瞑想という意識のはたらきに注目している。私は瞑想は祈りの一種だと考えており、深い祈りはおのずと「苦の縁起」の改善につながるものと信じる。つまりわが内なる如来蔵が、仏性が、「空の世界」で如来とひとつになって顕在化してくるとき、「縁」は必ずその人をやすらぎの世界へと導くものと信じている。</div><div><br /></div><div>　そのためには、人は「仏の世界」に包まれている喜びを実感できるようになるしかない。本来仏教の役割は、人の心をそういう「安心」（あんじん）の世界へ導くことではないだろうか。わが身口意を無心に「法身のリズム」に合わせて生きるならば、「縁起」はおのずからその人にとってあるべき形ではたらくのではないだろうか。</div><div><br /></div><div>　異文化との相互理解の可能性を求めて、「空と縁起」について密教と科学の接点をさぐりつつ試論してみた。菩薩と人間と生き物と物質の世界とが、秩序をもって成立しているこの宇宙統一性の中に密教は如来の智慧と慈悲を観じた。科学はまだそこまでの確信に到っているようには思われない。</div><div><br /></div><div><b>あとがき</b></div><div>　初めにお断りしたように、本論文は高野山大学大学院の修士論文を骨子に、本サイト用に書き改めたものである。したがって、いうまでもなく学位論文そのものではない。サイトの目的上、不特定多数を視野に入れたために、仏教用語の説明などの注釈が多くなり、仏教関係者には冗長でくどくなった。不備な点は多々あるが、これを今後の反省としたい。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div> ]]>
        
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    <title>真実の知とは何か－現代語訳『金剛頂経開題』(おおすじ/経題)</title>
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    <published>2010-09-21T10:49:17Z</published>
    <updated>2012-02-01T09:17:55Z</updated>

    <summary>　この『経』の講義は、三つに分けて説く。はじめがおおすじであり、つぎに経題につい...</summary>
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        <category term="北尾克三郎のページ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.mikkyo21f.gr.jp/">
        <![CDATA[<div>　この『経』の講義は、三つに分けて説く。はじめがおおすじであり、つぎに経題について述べ、最後が経文の解釈である。</div><div><br /></div><div>　はじめにおおすじを述べる。</div><div>　カタツムリの角(つの)の上で争う微小のものたちは、天との戦いで、その手で日月を執って光をさえぎり、日食・月食を起こすというラゴ(古代インド天文学における架空の星)を見ることがなく、蚊のまつ毛に集まる小さな虫は、ホウ(古代中国の空想上の巨大な鳥)の羽ばたきを聞くことがない。</div><div>　そのようなことだから、あらゆる生命が隠しもつ広大無辺で永遠なる知のはたらき(動作・伝達・意思)は、(人間の用いる)四種の言葉(①物の見かけから生じる語/②夢想から生じる語/③執念から生じる語/④妄想から生じる語)の表現力によっても、とても言い表すことはできない。</div><div><br /></div><div>　(また)生命のすがたを創出している四つの要素、生命の存在そのものを示すすがたと、多様な種としてのすがたと、遺伝の法則にしたがう親、兄弟、子孫のすがたと、一つひとつの個体のすがたは、(つまり、それらの進化の歴史と生態系の中でかたちづくられている無尽で広大無辺の生命のありのままのすがたは)(人間のもつ)五感(目・耳・鼻・口・身)と、それらによってとらえられたイメージがつくりだす第六意識と、その意識が生みだす快・不快などの分別知である第七マナ識と、生きるための根源知(呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動)をつかさどる第八アラヤ識と、それらの意識と知を生みだす個体のおおもとの性格をつかさどる第九アマラ識の九種の認識のはたらきによっては、(広大すぎて)とらえることができない。</div><div><br /></div><div>　このように人間は、五感の対象からはなれたところの真実を語る言葉をもたず、その個別の素質は全包括的な認識の許容量をもたないから、(さとりがもたらす)いのちの無垢なる知のはたらきと、その身体の住み場である清らかな環境にたとえ目覚めたとしても、それらは月が没したように隠れてしまっていて、説くことができない。</div><div>　(そのことを理解していた)ブッダは、自らがさとりによって感得した世界を説くように他から乞われても決してしなかったし、弟子から身体のもついのちの秘密の意味を問われても、口をつぐんだままであった。</div><div>　そのようなことだから人は、ブッダがさとりによって方便として考案した因縁論のみを月の光とし、さとりそのものによる月の光を見ることはなかった。</div><div>　(また)さとりによって考察した、大地からの無尽の恵みによって生かされている身体を地蔵菩薩として説くことはしたが、さとりによって実在する身体そのもののすがたとはたらきを説くことはなかった。</div><div>　だから、『釈(しゃく)摩訶衍(まかえん：大乗)論(ろん)』に、絶対の真理は人の個別の素質から離れていると記し、『十地経論（じゅうちきょうろん）』に、さとりの世界は言葉で説くことはできない｢因分可説、果分不可説｣と記している。</div><div>　(そういうことから、)そのもの(本体)と、そのもののすがたかたち(様相)と、そのはたらき(作用)という存在を示す三つの要素は、相対的な論理考察によって得た｢空(くう)｣にとどまり、三つの存在要素の源(みなもと)である一心をも空(くう)とし、実在するさとりの世界は存在しないものになってしまった。</div><div><br /></div><div>　(それらの帰結によって)真理の本体は言葉や意思を超えたところにあるから空(くう)であると信じ込んでしまった者は、知の真実の住みかが実在することを知らず、さとりの牛舎に向かう途中で牧野に憩い、牛車の牛を野に放ち、言葉と意思を断つこと自体がさとりであると誤解して、洞窟に入り、仏滅後五十六億七千万年後に現われるという真実のさとりの世界の夜明けを待つことになった。</div><div>　氷が解けて水になるように、光が照ると影ができるように、それらはいずれも一つのもの(本性)の展開にすぎない。そんなことをもろもろのさとりの教えとする牛車&lt;法華一乗：対象と認識との関係は、対象があって認識が起こり、認識があるから対象が存在することになるから一つのものであるとする教え&gt;は、究極の清浄さという名の岳を登って、(牛と車をつなぐ)長柄(ながえ)を曲げて砕いてしまい、水と波の関係のように因果を一つのものとして、区別をつけない&lt;華厳経&gt;は、生滅変化する大海に舟を浮かべて、その舵(かじ)を折り、いまだに絶対真理の陸地に進めない。</div><div><br /></div><div>　(そのように大乗仏教が道を求めてさまようなかで)妙雲(みょううん)如来と呼ばれるナーガールジュナ(龍樹)が南インドに出現した。彼によって存在の論理が考察され、さとりの扉が開かれた。その存在の原理の証(あか)しによって、その後、あらゆる生きものがもつ、動作・伝達・意思の三つの知活動の根本が説かれ、それが密教となった。</div><div><br /></div><div>　(その根本とは)</div><div>　無垢なる五つの知のちから</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>(１)生活知(呼吸・睡眠・情動)のちから</div><div>(２)創造知(衣・食・住・遊・健・繁殖などの生産・行動と相互扶助)のちから</div><div>(３)学習知(万象の観察・記憶・編集)のちから</div><div>(４)身体知(運動・作業・所作・遊び)のちから</div><div>(５)生命知(無垢なる知のちからとそのはたらきを生みだす生命の存在そのもの)</div><div>をもつ生命の妙なるすがたが中央にある。</div></blockquote><div><br /></div><div>　その中央の五つの知のちからの内、中心にある生命知(大日如来)を取り囲む四つの知(生活・創造・学習・身体)は、それぞれの知のちからを補佐する四つのテーマをもつ。</div><div>　｢生活｣：①存在/②自由/③慈愛/④喜び</div><div>　｢創造｣：①生産/②光合成(化学反応)/③相互扶助/④開花</div><div>　｢学習｣：①観察/②道理/③処方/④表現</div><div>　｢身体｣：①他の救済/②自身の保護/③障害の打破/④無心の遊び</div><div>　以上、計十六のテーマの一つひとつは、古代インドの理想とする帝王のもつ能力に喩えられ、それぞれが自らの領土をもつ。</div><div><br /></div><div>　(つぎに、それらの能力を発揮できるのは、生命が知覚を有しているからであり、その知覚のプロセスとは)まず、知覚(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)の鉤(かぎ)によって、対象をとらえる。そうして、キャッチした対象を神経の索(なわ)によってわが身に引き寄せ、そのイメージ(ホログラフィ)を記憶の鎖(くさり)につなぎ判別し、快・不快の鈴(すず)を打ち振る。この知覚のプロセスのそれぞれが、生命そのものの無垢なる知のちからの元(もと)になる。</div><div><br /></div><div>　ガンジス河の砂の数ほどある知の恵みは自然が生んだものであり、その知がつくりだす景観は、塵や麻の実の数にもまけない(くらいに無尽である)。</div><div>　それらの無尽の知をもつものたちが、自然体の大日如来(生命存在そのものの象徴)に仕えるさまは、天空のすべての星が北極星の周りを回っているようであるー</div><div><br /></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>○無垢なる五つの知</div><div>○根本の知を補佐する十六のテーマ</div><div>○生命存在そのものの完成された四つの知のはたらき(①代謝性/②相互扶助性/③自然の法則性/④作用性)</div><div>○心を癒す四つの知(①生の喜び/②ファッション/③歌/④舞い)</div><div>○四つの物質による癒しの知(①香り/②花/③明かり(光)/④潤い)</div><div>○知覚の四つのプロセス</div><div>の計三十七の完全なる知には、それぞれに、無垢なる五つの知が必ずそなわり、それらの微細な知が、自然界に満ちている。</div></blockquote><div><br /></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>それらの知は四つのメディア</div><div>(１)イメージ(色・かたち・うごき・音・匂い・味・触覚による心象)</div><div>(２)シンボル(個別のイメージが暗示する意味・価値・合図)</div><div>(３)単位(分子などの物質言語・数量・文字・響き)</div><div>(４)作用(モノまたは場、あるいはそれらと認識主体との相互間に生じる反応・変化)によってコミュニケーションされ、その知の本性はもとより無垢なる五つの知に存する。</div></blockquote><div><br /></div><div>　また、それらの無垢なる五つの知をもつものの身体は、生命・種・遺伝・個体の四つの要素から成り、そのありのままの身体が存在となり、真実の言葉を述べ、さとりを示す。</div><div><br /></div><div>　以上の原理によって、この身を捨てずして、即座に自らが有しているいのちの無垢なる知のちからに目覚めることができる。これこそが比べるもののない真実の教えであり、これ以上の迅速なる教えはない。古代インドの理想とする帝王と称されるべく素質をもって生まれた者であったとしても、自らのもついのちの無垢なる知のちからに目覚めなければ、どうしてこの真実の教えを聞き、それを信じることができるであろうか。</div><div><br /></div><div>　つぎに経題について述べる。</div><div>　『金剛頂(こんごうちょう)瑜伽(ゆが)一切如来(いっさいにょらい)真実(しんじつ)摂大乗(しょうだいじょう)現証(げんしょう)大教王(だいきょうおう)経』というのが経題である。</div><div>　(以下、金剛頂瑜伽十八会(え)のタイトルと概要注釈/第一会の四つの章の題名注釈/経題の梵語からの翻訳等、省略)</div><div><br /></div><div>　(つぎに、経題の意味を解釈する)</div><div>　｢金剛｣とは、一般的な意味と、経としての意味がある。一般的な意味とは、世間でいう硬い宝石のことであり、それを如来の堅固な知のちからに喩える。(すなわち、知の普遍的な原理という意)</div><div>　また、｢金剛頂｣の頂とは、頭の頂きの意味で、いのちの無垢なる知のちからによる行ないは無上であることを表わす。</div><div>　(以下、金剛の徳性、金剛に至る菩薩行、各種金剛界マンダラ尊の数等、省略)</div><div><br /></div><div>　｢一切如来｣とは、顕教の説く意味と、密教の説く意味の二つがある。</div><div>　顕教での意味は、十方(全方位と上下)三世(過去・未来・現在)のすべてのもろもろのいのちのもつ知のちからを示す。つまり、それぞれの生きとし生けるものが正しい道を修行し、世間を去って正しいさとりを完成し、その後、世間に戻って来て衆生を教え導くという如来のことを示す。</div><div><br /></div><div>　密教での意味は、いのちの無垢なる五つの知(生活知・創造知・学習知・身体知・生命知)のちからを一切如来という。それらの知のちからによってありのままの身体が存在している。誰もが生まれながらにしてもつ無垢なる知のちからこそが生命の本体であり、同時にもろもろの衆生の根源であるから、一切如来となる。</div><div><br /></div><div>　(その)いのちの無垢なる五つの知のちから&lt;五知力&gt;は二つに分けられる。一つには自らの五知力であり、二つには他の五知力である。</div><div>　他の五知力はまた二つに分けられる。一つはすでにさとり(無垢なる五知力に目覚めること)を完成しているものと、二つにはまださとりを完成していないものである。</div><div>　また、すでにさとりを完成しているものは二つに分けられる。自らさきにさとりを完成するものと、二つには他のもののさとりをさきに完成させるものである。</div><div><br /></div><div>　(というような区別があるが)自身であろうが、他身であろうが、いのちの無垢なる知のちからの目覚め(さとり)が得られるのは、もともとの本性として、すべての生きものが、生命・進化・種としてのありのままの身体と、実存性・安楽性・生命性・清浄性の四つの徳をそなえもち、遥かなむかしよりこのかた、ガンジス河の砂にも喩えられる無尽のすぐれた徳性によって世界に円満なる恵みを与えてきたからだ。</div><div>　このガンジス河の砂の数ほどもある徳性が、無垢なる五つの知、三十七の完全なる知と、それらの知に連なる無数の知のことに他ならない。</div><div><br /></div><div>　だから、経典、『金剛峯(こんごうぶ)楼閣一切瑜伽瑜祗(ゆぎ)経』につぎのように説く。</div><div>　｢自らのいのちの無垢なる知のちからに目覚めたブッダは、その根本となる五つの知から成るありのままの身体(生命・種・遺伝・個体)をもって、本有(ほんぬ)金剛界自在大三昧耶(だいさんまや)自覚本初(ほんしょ)大菩提心普賢満月不壊(ふげんまんげつふえ)金剛光明心殿の中において、それ自体が無垢なる知の本性となる十六のテーマ、および知覚の四つのプロセス、心を癒す四つの知と、四つの物質による癒しの知と、それらが成す微細な心の世界とによって、根本となる五つの知が、それぞれの光明のはたらきを示すにあたって、無量の微細なはたらきを出現させて、すべてに広がっている真理の世界を遍(あまね)く満たす｣と。</div><div><br /></div><div>　また、つぎのように説く、</div><div>　｢大日金剛峯は、微細(みさい)にして自然(じねん)に住し、光明は常に遍(あまね)く照らして、その清らかなはたらきは不滅である｣と。</div><div><br /></div><div>　｢大日金剛峯｣というのは、ビルシャナ(大日)法界体性智(ほっかいたいしょうち：生命のありのままの存在)のことである。</div><div>　｢微細にして自然に住し｣とは、大円鏡智(だいえんきょうち：すべての生命が、呼吸・睡眠・情動をもって生き、その微細な生がお互いを映しだしているさまを示す)、阿閦(あしゅく)仏のことである。</div><div>　｢光明は常に遍く照らして｣とは、平等性智(びょうどうしょうち：衣・食・住・遊・健・繁殖などの生産・行動と相互扶助、すなわちそれらの創造性をすべての生命が平等にもっているさまを示す)、宝生(ほうしょう)仏のことである。</div><div>　｢清らかな｣とは、妙観察智(みょうかんざっち：観察・記憶・編集などの学習によって、｢蓮華は汚れた泥に染まることがない｣というような客観的な真理をとらえ、その真理を心の主体とする清らかな知のはたらきを示す)、無量寿(むりょうじゅ)仏のことである。</div><div>　｢はたらきは不滅である｣とは、成所作智(じょうそさち：身体が運動・作業・所作・遊びを、因果関係を離れて無心に為すはたらきを示す)、不空成就(ふくうじょうじゅ)仏のことである。</div><div><br /></div><div>　これらの無垢なる五つの知、および三十七の完全なる知、さらにそれらに連なる量り知れない知は、修行を必要とせず、煩悩を断つことも必要とせず、本来身体が有しているものであり、その身体が生命・種・遺伝・個体の四つの要素の要素をそなえ、塵や砂のように無数のすがたかたちを成しているのである。</div><div>　そのありのままの四つの要素は、自然のもつ知であり、あらゆる生きものが生まれながらに、すでに完成させている本来のさとり(本覚)なのである。(当然、人間もそれらのさとりをもって生まれてきた)</div><div><br /></div><div>　この本来のさとり(本覚)はまた三種に分けられる。</div><div>　一つには、自らの本体・自らの様相・自らの作用の三つの要素を絶対唯一として心にそなえる本覚。</div><div>　二つには、一々の心のすべてが絶対真理となる本覚。</div><div>　三つには、唯一絶対一心の本覚。</div><div><br /></div><div>　また一の本覚には、つぎの四つの区別がある。</div><div>　(１)汚れと清らかさをもつ本覚</div><div>　(２)清らかなる本覚</div><div>　(３)唯一の真理世界における本覚</div><div>　(４)自らの本体と様相と作用の本覚</div><div>　がそれである。</div><div><br /></div><div>　また二の本覚には、つぎの二つの区別がある。</div><div>　(１)清らかな絶対真理の本覚</div><div>　(２)汚れと清らかさをもつ絶対真理の本覚</div><div>　である。</div><div><br /></div><div>　このように、本来的にそなわっているさとりは量り知れない。いま、この経に説く本来のさとりは、全般的な一切の本覚を取り入れ、個別的には唯一絶対の本覚を表わしている。</div><div>この本来の、あらゆる徳性を完成させた知をもつ、実在する生命の個体数は量り知れない。だから、一切がいのちの無垢なる知のちから(一切如来)のたまものであるという。この知のちからはどこかに納まるものではなく、しかもすべての対立を離れ、唯一絶対の存在の原理に目覚めているから、すべての知の頂(いただき)にあるものなのだ。いのちの無垢なる知のちからは最上にして最勝である。</div><div><br /></div><div>　つぎに｢真実｣とは、真が真如(しんにょ)、実が実知(じっち)実相(じっそう)のことである。真如の真は真理のことであり、如は道理にかなうことである。また、実知実相の実知と実相は知と対象を示し、また、実知は意思のはたらき、実相は動作(身体のうごき)のはたらきを示す。</div><div><br /></div><div>　つぎに｢摂大乗｣とは、これに二つの区別がある。一方が摂(おさ)める教えであり、片方がおさめられる教えである。おさめる教えは、根本にして唯一絶対の教えであり、根本が末端までよくおさめるので摂大乗という。おさめられる教え(客体)は、おさめる教え(主体)があっておさめられるから主体と客体の二倍の教えになる。主体・客体の教えにも、それぞれに根本と末端があり、それぞれの根本は、よく末端のものをおさめ取るので摂大乗という。</div><div><br /></div><div>　｢現証｣(さとり)とは、これに二つの区別がある。はじめにありのままのさとり、つぎに機縁によるさとりである。</div><div>　ありのままのさとりとは、また三つに区別される。絶対真理のさとり・生滅変化のさとり・根本にして唯一絶対の本来のさとりである。この三つの部門によって得るいのちの無垢なる知のちからは、あるがまま、なるがままにすべてをさとって、もろもろのすぐれた徳性を証(あか)す。</div><div>　また機縁によるさとりとは、自らの有しているいのちの無垢なる知が、迷いの世界に流転し、本来のさとりに反したままであったものが、自らの知のちからの本能的自覚や、あるいは外部からもたらされる無垢なる知のちからの教えに出遭う機会を得て、やがて、迷いを厭(いと)って、さとりを願い、求道に光明をみつけ、無知の闇を照らし、本来的に自らが有しているいのちの無垢なる知のちからにことごとく気づき、すぐれた徳性を得ることである。</div><div>　以上の二つを現証(さとり)と名づける。</div><div>　(さとりにあたって)絶対真理・生滅変化・唯一絶対と、目覚める世界をまのあたりに証する区別は量り知れないというが、要はさとりには、ありのままと、機縁の二つしかない。</div><div><br /></div><div>　｢大教王｣には、大の意味に三種ある。一つには本体の大なること(体大)、二つにはすがたの大なること(相大)、三つにははたらきの大なること(用大)である。</div><div><br /></div><div>　はじめの｢本体の大なること｣のうちにまた四つの意味がある。</div><div>　一つには、量り知れず際限のないもろもろの存在は、分別されたものであって、増えも減りもしないという大なる本体。</div><div>　二つには、静かで雑じりっけがなく、海水に溶け込んだ塩味のように平等で、増えも減りもしないという大なる本体。</div><div>　この二つのものに主体となる二種類の意味が加わるので四つとなる。</div><div><br /></div><div>　二つめの｢すがたの大なること｣にもまた四つの意味がある。</div><div>　一つには、いのちの無垢なる知のちからをもつという大なるすがた。</div><div>　二つには、不変の本性の徳性をそなえているという大なるすがた。</div><div>　この二つのものにも主体となる二種類の大なる意味がそなわっているので四つとなる。</div><div><br /></div><div>　三つめの｢はたらきの大なること｣にもまた四つの意味がある。</div><div>　一つには、世間の一切の善なる因と果を生じるという大なるはたらき。</div><div>　二つには、世間の一切を脱けだしたところの善なる因と果を生じるという大なるはたらき。</div><div>　この二つのものにもまた主体となる二種類の大なる意味があるので四つとなる。</div><div><br /></div><div>　(以上の体・相・用の)三種の大なるものは、それぞれが四つの意味をもっているので、計十二の大なるものになる。これらのすべてが生滅変化の教えの門戸であり、絶対真理からしても、(体・相・用の)三つの大なるものである。</div><div>　以上のように、絶対真理・生滅変化の二種の門の大なるものは、よくすべての教えを含む。</div><div>　だから、大いなる教えという。この大教が、それぞれのさとりの自らの門において自由自在を得るので、これを王という。</div><div>　(以下、大教王に摂を冠した展開的解釈、省略)</div><div><br /></div><div>　｢経｣とは、(梵語で)貫き通す、おさめたもつといった意味をもつ。たとえば、(花飾りをつくるときに)花を糸で刺し貫いて、乱さず落とすことのないように、ブッダの教えの糸で人間の倫理や神の浄土の花を貫いてよくたもち、迷いの世界に乱れ落ちることがないようにする。またタテ糸をもって、ヨコ糸によって美しい模様の布を織りだし、男女の身を飾るように、そのように、真実の言葉のタテ糸をもって、救済のヨコ糸によって、いのちの無垢なる知のちからが織りなす、すばらしく見事な世界&lt;マンダラ&gt;をすべての場に開示し、その知のすがたとはたらきによって、生命の存在を美しく飾るので｢経｣という。</div><div>　またタテ糸とヨコ糸で網を結び、それによって鳥や魚を捕らえ(食物連鎖とし)、共に固体・液体・エネルギー・気体から成る身体を養い育てるように、すべてのいのちの無垢なる知のちからが発する真実の言葉のタテ糸をもって、顕密の教説のヨコ糸によって、網を結び、根源的無知を捕らえ、四種法身(生命・種・遺伝・個体)を養い育てるのもまた、そのとおりである。</div><div>　(以下、経題の各種応用解釈、省略)</div><div>　</div><div>　つぎに、この『金剛頂経』に四つの章がある。</div><div>　(１)イメージの章&lt;大智印：存在本体の様相、全体像&gt;(金剛界章)</div><div>　(２)シンボルの章&lt;サンマヤ智印：個別的様相の示す意味&gt;(降三世章)</div><div>　(３)単位の章&lt;法智印：広義の言語&gt;(遍調伏章)</div><div>　(４)作用の章&lt;カツマ智印：広義のはたらき&gt;(一切義成就章)</div><div>　当開題でテキストとしたものは、はじめの金剛界章の中から(不空によって)訳出されたものである。</div><div>　また、四つの章は四智印を表わす。</div><div><br /></div><div>　第一章金剛界</div><div>　　六つのマンダラが説かれる。</div><div>　　第一には、金剛界大(イメージ)マンダラ。生命存在そのものである個体(受用身)のすがた(五相)をもって、この身のままで正しいさとりを完成すると説く。(そのさとりの手となる)五相成身観(ごそうじょうしんがん)とは、</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>一、分別による言葉から離れて、自らの心の根底にあるいのちの無垢なる知のちからにアクセスすることを発起し、祈る。&lt;通達本心(つうだつほんじん)&gt;</div><div>二、まるくて白い清らかな月輪を心に浮かべ、その中に自らのもついのちの無垢なる知の光を映し出す。&lt;修菩提心(しゅぼだいしん)&gt;</div><div>三、映し出されたいのちの無垢なる知の光の中に、あらゆる生きものが共に空気を呼吸し、そのことのよって生き、夜になれば眠り、眠っているときも呼吸し、そうして、日が昇ると起き、その太陽の光によってエネルギーを得て活動・成長しているのを見る。そこにすべてに生きものの生活の根幹がある。その根幹によって知が生起していると知る。&lt;成金剛心(じょうこんごうしん)&gt;</div><div>四、その紛れもないいのちの無垢なる知のちからが、自らを含め、あらゆる生きものの生の行為、すなわち動作・伝達・意思そのものの根源であると気づく。&lt;証金剛身(しょうこんごうしん)&gt;</div><div>五、そうして、自らがいのちの無垢なるちからそのものであるとさとる。この目覚めを堅固にさせたまえ、祈り。&lt;仏心円満(ぶっしんえんまん)&gt;である。</div></blockquote><div>　さとりとはすなわち、いのちの無垢なる知のちからに通達することをいう。</div><div>　　第二には、ダラニ(シンボル)マンダラを説く。</div><div>　　第三には、微細(単位)マンダラを説く。</div><div>　　第四には、カツマ(作用)マンダラを説く。</div><div>　　第五には、四印(イメージ・シンボル・単位・作用)マンダラを説く。</div><div>　　第六には、一印(すべての知の元である生命存在そのもの：大日如来)マンダラを説く。</div><div><br /></div><div>　第二章降三世会(ごうざんぜえ)</div><div><br /></div><div>　第三章遍調伏(へんちょうぶく)</div><div><br /></div><div>　第四章一切義成就(いっさいぎじょうじゅ)</div><div>　(以下、梵名解釈/経文の解釈、省略)</div><div><br /></div><div><b>あとがき</b></div><div>　空海著『金剛頂経開題』(おおすじ/経題)を現代語に訳してみた。金剛頂経とは一つの経ではない。それは主に不空が訳した密教経典の総称である。その中の主要となる一部を、空海が講義テキストとしたものが当開題である。</div><div>　『大日経開題』が"いのちの無垢なる知のすがた"を講義したものとするならば、当講義は、"いのちの無垢なる知のはたらき"を説く。双方によって知の世界が展開する。</div><div>　本来、大日経の教えを求めて、唐に留学した空海であるが、その手にして持ち帰ったものが、最新の仏教となる『金剛頂経』であった。</div><div>　だから、この経典にかける、空海の意気込みが察せられる。</div><div>　その講義によると</div><div>　１、あらゆる生命は生まれながらに無垢なる知のちからをもっている。</div><div>　２、その知のちからとは、生活知・創造知・学習知・身体知・生命知の五つである。</div><div>　３、その知のちからによって動作・伝達（コミュニケーション）・意思の三つの行ないを為して生きている。</div><div>　４、その知は、いのちのありのままのすがた(生命・種・遺伝・個体)をもつものに、自然が授けたものである。</div><div>　５、しかし、その広大無辺なる知とすがたの存在を語る言葉を人はもたない。</div><div>　６、その存在を語るには、そのもの(本体)と、そのもののすがた(様相)と、そのはたらき(作用)を論理によって証明しなければならない。そこで、その存在の証しの論理がナーガールジュナ(龍樹)によって考察された。その結果、論理によって存在は証明できない、すべては空(くう)であるとした。</div><div>　７、しかしそれでも、世界は厳然として実在している。その実在する世界に生がある。</div><div>　８、その生あるものが五つの知のちからによって自然と共に生きている。</div><div>　９、その五つの知は、イメージ・シンボル・単位・作用といった四つのメディア(マンダラ)がつくりだしている。（知は言葉だけでつくりだしているのではない）</div><div>　10、だから、言葉の論理を超越したところに、世界は厳然として実在しているのだ。(その世界に目覚めることがさとりである)</div><div>　という経の内容が見えてくる。</div><div>　(ブッダが決して説かなかった)さとりそのものを説く、密教の｢果分可説｣の教えである。</div><div>　そのメディア(マンダラ)によるコミュニケーションは、今日の情報文化に限りなく近く、そのさとりにおいて今日とは限りなくほど遠い。</div><div><br /></div> ]]>
        
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    <title>根本の知とは何か－｢成身会｣と今日</title>
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    <published>2010-09-01T10:17:02Z</published>
    <updated>2011-05-13T23:36:59Z</updated>

    <summary>　空海は、生命の無垢なる知が形成している世界を、その全体のすがた図と、その知のは...</summary>
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        <category term="北尾克三郎のページ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.mikkyo21f.gr.jp/">
        <![CDATA[<div>　空海は、生命の無垢なる知が形成している世界を、その全体のすがた図と、その知のはたらきの原理図にして人びとに示した。</div><div>　前者が｢胎蔵マンダラ｣であり、後者が｢金剛界マンダラ｣である。</div><div>　当論考では、後者を構成する九会(え)のマンダラの内、その中心に位置する｢成身会(じょうしんね)｣の意味するところを、現代科学による知と照らし合わせてみた。</div><div>　生きることの原理に今昔はない。だから、ブッダの悟りの教えの延長上で、空海が編集したマンダラの生命世界は普遍的なものにちがいない。</div><div>　以下はその普遍的なものへの今日からのアプローチである。</div><div><br /></div><div><b>Ⅰ物質の四大要素&lt;四大神&gt;</b></div><div>　あらゆる生物は物質(炭素・酸素・水素・窒素・リン・硫黄の六元素と鉄やカルシウムなどの微量元素)からできている。その物質を観察すると、固体&lt;地天(大)&gt;・液体&lt;水天(大)&gt;・エネルギー&lt;火天(大)&gt;・気体&lt;風天(大)&gt;の四つの形質をもち、生物の最小単位である細胞もそれらの形質によってできている。</div><div>　生物、すなわち生命をもった物質は、住み場所を得て存在できるが、その空間がなければ、生物自身も、そして世界の構成要素自身も存在することができないから、すべての存在は空間&lt;空大&gt;的である。</div><div>　その空間としての存在の極微から極大の内と外で、あらゆる生物が神経細胞&lt;識大&gt;によって、環境に反応し、個体を調整しながら生きている。</div><div><br /></div><div><b>Ⅱ－１生物多様性&lt;賢劫(げんごう)一千仏&gt;</b></div><div>　生物(草木虫魚禽獣)の種の数は名まえをつけられたものが一七五万種と、まだ分類されていないものがその数倍あるといわれている。その種ごとに個体数を掛けると無数となる。それらの無尽蔵の生命が実在する今を現出している。(その中のごくわずかがホモ・サピエンス、すなわち人間といった種である)</div><div><br /></div><div><b>Ⅱ－２知覚のプロセス&lt;四摂(ししょう)菩薩&gt;</b></div><div>　生物は、知覚の鉤(かぎ)&lt;金剛鉤(こう)菩薩&gt;によって外界をとらえる。そうして、キャッチした外界を神経の索(なわ)&lt;金剛索(さく)菩薩&gt;によってわが身に引き寄せ、そのイメージ(ホログラフィ)を記憶の鎖(くさり)&lt;金剛鎖(さ)菩薩&gt;につなぎ観察し、その判別によって、快・不快の鈴(すず)&lt;金剛鈴(れい)菩薩&gt;を打ち振る。</div><div><br /></div><div><b>Ⅱ－３物による癒し&lt;外の四供養菩薩&gt;</b></div><div>　(１)虫といえども嗅覚をもっている。嗅覚によって対象物や環境のもつ香りをとらえ、良否を判断し、快・不快の鈴を打ち振ることになる。</div><div>　人間の大脳辺縁系(呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動を司っている脳)は、もともとは嗅覚を司っていた脳とされることから、あらゆる欲望には、香りが強く作用する。(因みに、生命活動の根幹である個体の維持と種の保存の営みは、水中動物では、主に味覚のはたらきによって為されるが、それが、陸上動物では、嗅覚にとって代わられるという)その香りのふくよかさや悦楽の広がり&lt;金剛香(こう)菩薩：気体&gt;が、生きとし生けるものに安らぎと歓喜を与える。</div><div>　(２)花は、太陽光の波長に同調する炭素原子数によって、虹の色(赤・橙・黄・緑・青・藍・紫)を発色させている。その色によって、昆虫や禽獣を引き寄せ、受粉をし、実を結び、種(たね)を発芽させ、子孫を得る。</div><div>　その花の発する色彩の美しさ&lt;金剛華(け)菩薩：固体&gt;が、生きとし生けるものにきらびやかなる生の喜びを与える。</div><div>　(３)太陽から届く、程好い光エネルギーによって、海水の中で生命が誕生した。そのエネルギーによって植物が光合成を行ない、炭水化物を生産してくれるから、すべての動物がそれを食べ物として生きられる。また、地球の自転にともなう、太陽光の明暗がもたらす二十四時間リズムがあるから、すべての生物が起きて活動することと、眠って休息することを繰り返すことができる。それらの光りのもたらす恵み&lt;金剛灯(とう)菩薩：エネルギー&gt;が、生きとし生けるものに豊かさと和みの喜びを与える。</div><div>　(４)原初、生命は海水の中で誕生した。その海水を体内に宿すことによって、陸に上がることができた。だから、その潤いがなければ生物は生きることができない。清涼なる香りをもつ潤い&lt;金剛塗(ず)菩薩：液体や擬似液体&gt;が、生きとし生けるものの身体とその活動(生長と行動・コミュニケーション・意志の主張)を清める。</div><div><br /></div><div><b>Ⅲ心による癒し&lt;内の四供養菩薩&gt;</b></div><div>　物質と、それらによって形成される空間に住み、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚によってとらえた対象物や環境の快・不快を、生物は神経反応や意識(心)によって表わし、その快を喜び、飾り、歌い、舞う。</div><div>　(１)あらゆる生物が共に生きることによって、生命圏が築かれる。その中で無尽蔵の個体が互いを照らし合うとき、そこにかけがえのないいのちの存在の無限の輝きが生まれる。その輝き&lt;金剛嬉(き)菩薩&gt;によって、すべてのいのちあるものに喜びがもたらされる。</div><div>　(２)生物は自らの種別や個体としての個性を表現するために、色・かたち・うごきを用いてその身体を多様に飾る&lt;金剛鬘(まん)菩薩&gt;。つまり、ファッションを創造する。その装いによって、自然界が美しく彩られる。</div><div>　(３)虫も鳥もクジラも歌う。歌うこと&lt;金剛歌(か)菩薩&gt;によって、コミュニケーションをとることができる。そのために生物は、リズムやメロディーを練習し、記憶するといった学習能力を発揮する。そうして、お互いが奏でる響きをハーモニーさせる。</div><div>　(４)生物は空間、地面・水中・空中のそれぞれを住み場所としてこの世に生まれてきて、そこをすみわけ、地を這い、水を泳ぎ、空を飛ぶことに精進する。その自在に舞う&lt;金剛舞(ぶ)菩薩&gt;すがたに、生のちからの無心の発露がある。</div><div><br /></div><div><b>Ⅳ無垢なる五つの知</b></div><div>　四つの物質要素と、それらから誕生した生命が進化をし、多様な生物となった。その生物が生命現象としての知を発現している。</div><div>　知は、嗅覚(気体となって伝わる香り)や視覚(色とかたちとうごき)、それに触覚(太陽の温もりや液体の感触)などの知覚によってキャッチした事柄を物理的要因とし、それらが引き起こす快・不快感によって生まれる。その知によって生物は自己を表現し、行動の判断を下す。</div><div>　では、それらの知覚によってキャッチされた事柄に判別をもたらす根本の知とは何なのか、その根本の知が規範となって、知はどのようなはたらきをするのか、そこに辿り着く。</div><div><br /></div><div><b>Ⅳ－１生命知&lt;法界体性智(ほっかいたいしょうち)：大日如来&gt;</b></div><div>　三十八億年前、海水の中で生命が誕生した。</div><div>　生命は物質を構成要素とし、物質自らが子孫を産みだす設計図&lt;ＤＮＡ&gt;と、その転写機能をもち、それらによって、まちがいなく成長・繁殖し、太陽光と大気と水を基本エネルギーとして生きている。そのことがすべての生命に共通する自性のすがたである。</div><div>　その本質によって、生命は進化し、多様な種を生みだした。種とは、同じすがたをしているグループを指し、その形質がＤＮＡによって等しく流出してきて、環境に適合し、子孫を繁栄させたものである。</div><div>　また、種ごとの個体は遺伝の法則によって、少しずつ変化した個性をもち、その雌雄の個性の掛け合わせが、次の新たな個性をもつ個体を生み、進化している。</div><div>　そうして、そのようにして生まれてきた無数の個体そのものが、それぞれに三十八億年前の生命を受け継いだものである。個体は受け継いだその身体を用いて、それぞれに生き、生長し、他と交わるから、個体には自と他の分別がある。</div><div>　その個々の生物が一様に、早い遅いはあれ、動作(生長と行動)を起こし、対象物や環境とコミュニケーションを取り、そうして、生の意志を主張するという生命活動を行なう。</div><div>　それらの生命の無垢なるすがた&lt;法身(ほっしん)&gt;とその根源の活動の象徴が&lt;大日如来&gt;である。</div><div>　その大日如来、すなわち、生命をもつものが、次の四つの完成された知のはたらきをもち、存在の輝きを放つ。</div><div>　(１)代謝性&lt;金剛(こんごう)ハラミツ菩薩&gt;</div><div>　(２)物質・エネルギーの生物間における相互扶助性&lt;宝(ほう)ハラミツ菩薩&gt;</div><div>　(３)自然の法則性&lt;法(ほう)ハラミツ菩薩&gt;</div><div>　(４)作用性&lt;カツマハラミツ菩薩&gt;</div><div>　生物は、生命を維持するためにその体内において、一連の化学反応を行なう。それを代謝という。その代謝によって、体内に取り込んだ物質を分解してエネルギーを得、そのエネルギーを使って有機物質を合成・生産することができる。そのことによって、生物は個体の生長と生殖を可能にする。また、その物質とエネルギーを相互扶助することによって、生物が共に生きて行ける。それが内なる自然の法則であり、外なる自然の法則ともなる。その自然の法則にしたがい、生物は活動し、その活動によって環境に作用し、生態系を形成する。</div><div>　それらの根源の知のはたらきをもっているから、生命が存在する。</div><div><br /></div><div><b>Ⅳ－２生活知&lt;大円鏡智(だいえんきょうち)：アシュク如来&gt;</b></div><div>　生きることの根源は呼吸と睡眠にある。</div><div>　呼吸によって、植物は空気中の二酸化炭素に水を加え、光に反応させ、炭水化物を作りだす。そのとき、廃棄物として酸素を放出する。動物は植物の作った炭水化物を食べ物として体内に取り入れ、吸い込んだ酸素で燃焼させ、エネルギーにする。そうして、二酸化炭素を放出する。その二酸化炭素を植物が摂取する。</div><div>また、地球の自転にともなう太陽光の明暗によって、原則的に昼間には起きて活動し、夜間には眠って休息する二十四時間リズムを繰り返す。眠っているときもすべての生物が呼吸している。</div><div>　だから、呼吸と睡眠が、生物が生活してゆくためのもっともシンプルなすがたを映すことになる。そこに生きるための理念もある。</div><div>　その理念とは次の四つである。</div><div>　(１)存在&lt;金剛サッタ菩薩&gt;</div><div>　(２)自由&lt;金剛王(おう)菩薩&gt;</div><div>　(３)慈愛&lt;金剛愛(あい)菩薩&gt;</div><div>　(４)喜び(安楽と満足)&lt;金剛喜(き)菩薩&gt;</div><div>　すべての生物は呼吸と睡眠によって、存在することができている。だから、その存在に妨げがあってはならないし、常に自由であることが確保されなければならない。そうして、そのことを思いやることがお互いにできれば、そこに慈愛が芽生え、その慈愛に満ちた生活によって日々の安楽と満足の喜びを得ることができる。</div><div><br /></div><div><b>Ⅳ－３創造知&lt;平等性智(びょうどうしょうち)：宝生(ほうしょう)如来&gt;</b></div><div>　あらゆる生物の生活には、動物であろうが、植物であろうが、衣・食・住が必要だ。それらを生物が生産し、相互扶助している。その扶助の連鎖によって、自然界は秩序を保つことができている。</div><div>　そのように、物質から創造された生命が、生きるために物質とエネルギーを自己生産する能力を発揮し、そうして、その生産した物質とエネルギーを相互に扶助しあうことによって、生命圏が創造される。その全体からみれば、生物のすべてはどのような生命であれ、平等の創造性を担っている。そこに創造の根本理念がある。</div><div>　その理念に導く、生命の創造性の原理とは次の四つである。</div><div>　(１)生産&lt;金剛宝(ほう)菩薩&gt;</div><div>　(２)光合成&lt;金剛光(こう)菩薩&gt;</div><div>　(３)相互扶助&lt;金剛幢(どう)菩薩&gt;</div><div>　(４)開花&lt;金剛笑(しょう)菩薩&gt;</div><div>　無機物質(二酸化炭素と水)から、太陽光を利用して有機物質(炭水化物)を生産しているのが植物であり、その光合成と呼ばれる天然の食糧プラントによって、動物は食べ物を得ることができ、その植物を食料とする動物を別の動物が捕食する。このように、すべての生物が相互扶助することによって、個々の生活が成り立つ。そのことによって、あらゆる生命が開花できるから、そこに微笑みがある。</div><div><br /></div><div><b>Ⅳ－４学習知&lt;妙観察智(みょうかんざっち)：無量寿(むりょうじゅ)如来&gt;</b></div><div>　あらゆる生物があるがままの万象を、神経細胞や知覚によって観察し、判別し、世界とのコミュニケーションをはかっている。そうして、コミュニケーションをとることによって、個体と個体、個体と種、個体と自然とが共生できている。観察とコミュニケーション、そこに学習の普遍的な理念がある。</div><div>　では、その理念にもとづいて何をどう学ぶのか、それが次の四つである。</div><div>　(１)法則の観察&lt;金剛法(ほう)菩薩&gt;</div><div>　(２)法則の道理&lt;金剛利(り)菩薩&gt;</div><div>　(３)原因の処方&lt;金剛因(いん)菩薩&gt;</div><div>　(４)表現と伝達の方法&lt;金剛語(ご)菩薩&gt;</div><div>　万象は法則をもち、法則は緻密な観察の積み重ねによって感知される。</div><div>　その法則によって、道理が生まれる。</div><div>　法則と道理によって、原因に気づく、その原因に合わせて処方をほどこすことができる。</div><div>　処方の実践には的確な表現と伝達の方法が必要だ。</div><div><br /></div><div><b>Ⅳ－５身体知&lt;成所作智(じょうそさち)：不空成就(ふくうじょうじゅ)如来&gt;</b></div><div>　生物は環境に合わせた持ち分の身体能力によって行動し、無垢なる習性を発揮し、住み場所となる空間をすみわけて生活している。そこには、種ごとの固有の所作はあるが、そのおおもとにあるのは、次の四つの行動規範である。</div><div>　(１)救済作用&lt;金剛業(ごう)菩薩&gt;</div><div>　(２)自身の保護&lt;金剛護(ご)菩薩&gt;</div><div>　(３)障害の打破&lt;金剛牙(げ)菩薩&gt;</div><div>　(４)無心の遊び&lt;金剛拳(けん)菩薩&gt;</div><div>　生物間の相互扶助の原理からすれば、それぞれの個体が共に生きて存在していること自体が、互いの衣・食・住を救済する作用そのものであり、そのような連鎖のなかで、個体そのものは対象物と環境から自らの身を護り、障害を打破し、生長して子孫を残す。そうして、そのような日々にあって、住み場所である空間(地面・水中・空中)に無心に遊び、安楽のひとときを得ている。</div><div><br /></div><div><b>Ⅴ知の神々&lt;二十天&gt;</b></div><div>　人間の知は神々を誕生させた。知を神々にすることによって、宇宙に存在させることになった。そうすることによって、天体と願望と花・水・火と時間が神格をもって、人間と同居することになった。</div><div>　(１)ナーラーヤナ(水の上に住む神)：すべての根源となる神&lt;ナーラーヤナ(梵名)天&gt;</div><div>　(２)童子神(梵天の息子)&lt;クマーラ(梵名)天&gt;</div><div>　(３)原理と慈悲の神&lt;金剛崔天(こんごうざいてん)&gt;</div><div>　(４)宇宙の創造神&lt;梵天(ぼんてん)&gt;</div><div>　(５)戦闘の神&lt;帝釈天(たいしゃくてん)&gt;</div><div>　(６)太陽神&lt;日天(にってん)&gt;</div><div>　(７)月神&lt;月天(がってん)&gt;</div><div>　(８)華鬘(美しい花飾り)の神&lt;金剛食天(こんごうじきてん)&gt;</div><div>　(９)土星の神&lt;彗星天(すいせいてん)&gt;</div><div>　(10)火星の神&lt;熒惑天(けいわくてん)&gt;</div><div>　(11)西南の守護神&lt;羅刹天(らせつてん)&gt;</div><div>　(12)風神&lt;風天(ふうてん)&gt;</div><div>　(13)子宮の神&lt;金剛衣天(こんごうえてん)&gt;</div><div>　(14)燃焼(エネルギー)の神&lt;火天(かてん)&gt;</div><div>　(15)福徳の神&lt;毘沙門天(びしゃもんてん)&gt;</div><div>　(16)宇宙の維持神(ヴィシュヌ神)の化身&lt;金剛面天(こんごうめんてん)&gt;</div><div>　(17)時間(死)の神&lt;焔摩天(えんまてん)&gt;</div><div>　(18)勝利の神&lt;調伏天(ちょうぶくてん)&gt;</div><div>　(19)息災と歓喜の神&lt;ヴィナーヤカ(梵名)&gt;</div><div>　(20)水神&lt;水天(すいてん)&gt;</div><div><br /></div><div>　以上のⅠ～Ⅴまでの考察内容が、成身会に図示されている諸仏の知と、今日の科学によって、わたくしたちが理解している生命観とを照らし合わせたものである。</div><div>　では、それらの知が成身会にどのように配置されているのかを、次に解説する。</div><div><br /></div><div><b>｢成身会｣の構造</b></div><div>　まず中央に｢一大円輪｣があり、その中が井桁(いげた)に区分されている。井桁の中央にあるのが｢生命知｣であり、井桁の上下、左右の四方に｢生活知｣と｢創造知｣と｢学習知｣と｢身体知｣が配置される。生命のもっている四つの知のちからである。その生命と四つの知のちからから、それぞれに四つの知のはたらきが発生する。それらの知のちからとそのはたらきによって、生命は、｢生の喜び｣と｢生の装い(ファッション)｣と｢生のリズム｣と｢生の舞い｣の癒しを得る。また、一大円輪の四隅には、物質の四大要素があり、それらの物質によって自然界の空間ができていて、その中で、生命が生存していることを示している。その生命が知(意識)を発揮する。</div><div>　次に、一大円輪を包む二重の方形には、多様な生命が無数に存在していることを示し、その生命のすべてが一様に世界を知覚する能力をもち、嗅覚によって香りを、視覚によって色彩を、触角によって光りのもたらすエネルギーや水のもたらす潤いを感知し、それらによって、物質からの癒しを授かる。</div><div>　そうして、その方形の外側を、知の神々(天体と願望と花・水・火と時間)が取り囲んでいる。</div><div>　</div><div>　以上の生命の根本の知のちからとその各種はたらきが、｢金剛界マンダラ｣の中心に位置し、司令塔となり、その他の八つのマンダラを牽引している訳だが、それでは金剛界マンダラ全体の構図はどのようになっているのかを、次に記す。</div><div><br /></div><div><b>｢金剛界マンダラ｣全体の構図</b></div><div>　九会(え)のマンダラの中心にあるのが｢成身会(じょうしんね)｣(一会)であるが、その下方にあるのが｢サンマヤ会(え)｣(二会)であり、その左が｢微細会(みさいえ)｣(三会)、その上が｢供養会(くようえ)｣(四会)、そのもう一つ上が｢四印会(しいんね)｣(五会)、その右が｢一印会(いちいんね)｣(六会)、もう一つ右が｢理趣会(りしゅえ)｣(七会)、その下が｢降三世(ごうざんぜ)カツマ会｣(八会)、もう一つ下が｢降三世サンマヤ会｣(九会)である。</div><div>　一会は、無垢なる知のはたらきの原理を形象(仏像)によって示す図であり、その原理をシンボル(仏塔・五股杵・宝珠・蓮華など)で示したのが二会、原理の諸要素を存在の最小単位としてとらえたのが三会、原理の諸要素が相互に扶助作用をしていることを示すのが四会である。</div><div>　五会は、知が前記一会～四会までの四つの表現媒体(形象・シンボル・単位・作用)によってできているとし、次の六会で、それらの知のはたらきが、生命の存在ただ一点に帰結することを示している。</div><div>　七会は、その生命が雌雄の愛の結びつきによって存在することを示し、八会はその存在する生命が、成長力(下垂体ホルモン)&lt;降三世(ごうざんぜ)明王&gt;、環境適応力(甲状腺ホルモン)&lt;グンダリ明王&gt;、気力(副腎ホルモン)&lt;大威徳(だいいとく)明王&gt;、精力(視床下部ホルモン)&lt;不動明王&gt;の作用によってコントロールされていることを示す。九会は八会の仏像図をシンボルによって表現し、そのシンボルを操作することによって、身体に潜むちからにアクセスせよと説く。</div><div>　また、上記の｢降三世サンマヤ会｣をスタートして、右側から左回りにマンダラを巡るルートでみると、右側は肉体のコントロールを示し、そこから生命存在の核心｢一印会｣に至り、左側に回って精神のコントロールを説き、そうして、中心の根本の知&lt;悟り&gt;の世界に入ることになる。</div><div><br /></div><div>　以上、空海の説く悟りは、マンダラの中にあるというが、そのマンダラに成身会を通してアプローチしてみた。</div><div>　紀元前にブッダは、その悟りを｢これがあるからそれがある、これが生じるからそれが生じる｣｢これがなければそれがない、これが滅するからそれが滅する｣といった、極めて哲学的な命題にして説いた。そのことから、そののち、ナーガールジュナ(龍樹)が存在を考察し｢生じないし、滅しない。断絶しないし、連続しない。同一ではないし、別でもない。去ることもないし、来ることもない｣との｢空(くう)の論理｣による悟りを説き、それが大乗仏教の骨子となる教義となった。それに対して、密教の第八祖、空海は、悟りの目でみれば世界は空(くう)ではなく、そこに実在していると説く。そうして、実在している世界と意識は一体のものであるという。</div><div>　その実在する世界を、悟りの目で観察した結果がマンダラである。</div><div>　そこに図示されている世界は決して神秘などではなく、今日の科学の視点でみれば合理的である。</div><div>　そこに記された根本の知によって、悟りの世界が実在している。</div><div>　その世界にわたくしたちがいる。</div><div><br /></div> ]]>
        
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    <title>知の住みかとは何か－現代語訳『大日経開題』</title>
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    <published>2010-08-31T23:26:18Z</published>
    <updated>2011-09-30T10:18:27Z</updated>

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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.mikkyo21f.gr.jp/">
        <![CDATA[<div>　人びとは自らの知の真実の住みか(帰る家)を知らない。(だから、)戦争や災害による死・飢え・本能に狂い迷い沈みおぼれ、四種の生存形態、ほ乳類・鳥や爬虫類・水棲類・昆虫や両生類の中をさまよい歩く。</div><div>　(そのようなことだから、)苦しみの根源を知らず、無垢なる知に帰る心もない。(つまり、なまじっか知を授かったばかりに、経験したことの快・不快を記憶し、そのことを因として、欲望をもち、欲望が心の苦しみを生み、知の休まるところはないから、無垢なる知の存在に気づかない)</div><div>　ブッダはそのことを哀れんで、人びとの知の帰るところと帰る方法を示してくれた。</div><div>　その帰路には、牛車(求道と慈悲の行ない)や羊車(教えを聞いて悟ること)を利用する方法があるが、その方法では、曲がりくねった道に沿って、ゆっくりと進むから、無限に近い時間がかかる。</div><div>　(しかし、自らが有する無垢なる知のちからによる)不可思議なはたらきをする乗り物は、大空に舞い上がり、速やかに飛び、生きているあいだに必ず知の真実の住みかに到達する。</div><div><br /></div><div>　人間界の倫理や天界の浄土といえども、(知のもたらす苦によって)焼き尽くされることから免れることはできないが、戦争や災害による死・飢え・本能の三つの世界に比べれば、まだ楽であって苦ではない。</div><div>　だから、心やさしいブッダは、しばらくのあいだ、人と天の乗り物(倫理と浄土)を説いて、人びとを三途(さんず)の恐ろしい苦しみから救う。</div><div><br /></div><div>　声聞(教えを聞いてさとる人)と縁覚(師をもたなくて自らさとる人)による知の住みかは小さな城であるが、前段の倫理と浄土の知によって生きる人びとが、まだ生死の苦しみから抜け出していないことに比べると、すでに(知の苦しみの)燃えさかる家の外に出ている。</div><div>　だから、ブッダは、羊車(声聞)と鹿車(縁覚)を用意し、しばらくのあいだ、まぼろしによってつくり出した城で人びとを休息させる。</div><div><br /></div><div>　菩薩(求道と慈悲の行ない)と権仏(方便として説かれた知の最高の境地)の二つの住みかは、まだ知の真実の住みかではないが、前出のもろもろの住みかに比べれば、これはこれで大いに自在で安楽な、生滅変化を離れた静寂な住みかである。</div><div>　だから、ブッダは、牛車(菩薩)と大白牛車(権仏)の大小二つの牛車を与えて、その帰舎(知の住みか)を示した。</div><div><br /></div><div>　(しかし、)上述の二つの知の住みかは、ただ室内の中の荒れや汚れを掃除しただけのものであり、まだ知の住みかの地中の真実の蔵を開いていない。</div><div>　大海の塩分をなめるだけでは、竜宮にあるという不思議なちからをもつ宝玉を手に入れることはできない。</div><div>　浅い教えから深い教えに、近い心境から遠い心境へと、物事はよりよい世界へ、よりすばらしい境地へと展開していくものだが、菩薩と権仏は、まだ蜃気楼のようなまぼろしによってつくりだされた仮の住みかである。</div><div><br /></div><div>　では、知の究極の住みかとは何か。</div><div>　<b>(イ)行為の三要素&lt;三密(さんみつ)&gt;</b></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>いのちの無垢なる知のちからは、生きとし生けるものの行為の三要素である動作・伝・意思と相応することによって開示する。(その開示したそれぞれの要素は別のものでなく平等であり、お互いもまた、無尽に相応したものである）</div></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>　(１)動作&lt;身密(しんみつ)&gt;</div><div>　(２)伝達&lt;口密(くみつ)&gt;</div><div>　(３)意思&lt;意密(いみつ)&gt;</div></blockquote><div><br /></div><div>　<b>(ロ)さとりの階梯&lt;五相成身(ごそうじょうしん)&gt;</b></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>自らが有しているいのちの無垢なる知のちからに目覚めるための階梯。</div><div>(１)分別による言葉から離れて、自らの心の根底にあるいのちの無垢なる知のちから</div><div>にアクセスすることを発起し、祈る&lt;通達菩提心(つうだつぼだいしん)&gt;</div><div>(２)まるくて白く清らかな月輪を心に浮かべ、その中に自らのもついのちの無垢なる</div><div>知の光を映し出す&lt;修菩提心(しゅうぼだいしん)&gt;</div><div>(３)映し出されたいのちの無垢なる知の光の中に、あらゆる生きものが空気を呼吸し、</div><div>そのことによって生き、夜になれば眠り、眠っているときも呼吸し、そうして、日</div><div>が昇ると起き、その太陽光エネルギーによって活動・成長しているのを見る。そこ</div><div>にすべての生きものの生活の根幹がある。その根幹によって知が生起していると知</div><div>る&lt;成金剛心(じょうこんごうしん)&gt;</div><div>(４)その、紛れもないいのちの無垢なる知のちからが、自らを含め、あらゆる生きも</div><div>のの生の行為、すなわち動作・伝達・意思そのものの根源であると気づく&lt;証金剛身</div><div>(しょうこんごうしん)&gt;</div><div>(５)そうして、自らがいのちの無垢なる知のちからそのものであるとさとる。この目</div><div>覚めを堅固にさせたまえ、祈り&lt;仏身円満(ぶっしんえんまん)&gt;</div><div><br /></div><div>　以上の五段階の想念によって、自らのもついのちの無垢なる知のちからと身体が一</div><div>体であることに目覚める。(＊この｢五相成身｣については、本文後半｢入真言門住心品｣</div><div>用語解説の項目で再度、記述あり）</div></blockquote><div><br /></div><div>　<b>(ハ)知のメディア&lt;四種マンダラ&gt;</b></div><div>　　知は根幹となる四つのメディア(媒体)によって生じる。</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>(１)イメージ(色・かたち・うごき・音・匂い・味・触覚による心象)&lt;大マンダラ&gt;</div><div>(２)シンボル(個別のイメージが暗示する意味・価値・合図)&lt;サンマヤマンダラ&gt;</div><div>(３)単位(分子などの物質言語・数量・文字・響き)&lt;法マンダラ&gt;</div><div>(４)作用(モノまたは場、あるいはそれらと人間との相互間に生じる反応・変化)&lt;カツママンダラ&gt;</div><div><br /></div><div>(このメディアによって生じた知のちからによって、生命は四つの生のはたらき&lt;生活知・創造知・学習知・身体知&gt;を為している)</div></blockquote><div><br /></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>　これらの四つの知のメディアのちからと、その生のはたらきがいのちの無垢なる知の根本&lt;マンダラ&gt;である。(そこに知の究極の住みかがある)</div></blockquote><div><br /></div><div>　以上が知の住みかの真実の蔵である。この蔵を開くことによって、知はほんとうの住みかを得ることができるのだ。</div><div><br /></div><div>　(さて)この蔵の秘密の鍵を握っている者は、キリンの角のようにきわめてまれである。(それに引き替え)自分の心に迷っている者は、牛の体毛のように多い。</div><div>　だから、ブッダは、量り知れない教えを説いて、(誰もが本来的に有している)いのちの無垢なる知の住みかへの帰路方向、すなわち一切智智(いっさいちち)の方向へと人びとをまず導くのである。</div><div>　(その帰路方法をみれば、)それぞれの乗り物はみな異なり、浅い教えの乗り物もあれば、深い教えの乗り物もある。(そのことによって、帰路に時間差が生じる)しかし、無垢なる知のちからは誰もが有しているものであり、その根本の知に相応する行為のすべては本来、平等で同じものなのである。</div><div>　(だから、)このことに気づかずに乗り物に迷う者は、帰路を間違えて命をおとし、正しい帰路の方法を得て知の住みかに到達する者は、その根本の教えによって目覚める。</div><div><br /></div><div>　その根本の教えが集合しているところ&lt;マンダラ&gt;とは、究極の知の主体であるいのち、つまり大日如来を象徴とする生命の存在(身体)そのもののことである。</div><div><br /></div><div><b>　(ニ)身体の根源&lt;四種法身(ししゅほっしん)&gt;</b></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>知の主体の究極である生命の存在＝身体&lt;自性(じしょう)法身(ほっしん)&gt;は</div><div>多様に進化した種のすがた&lt;等流(とうる)法身&gt;と</div><div>種の遺伝の法則による個性をもったそれぞれのすがた&lt;変化(へんげ)法身&gt;と</div><div>個体そのもののすがた&lt;受用(じゅゆう)法身&gt;の</div><div>三つの身体を孕(はら)んで、完全円満なる円のまた円を成している。</div></blockquote><div><br /></div><div>　また、それらの身体の心のはたらき、すなわちいのちの無垢なる知のはたらき&lt;マンダラ</div><div>&gt;は、菩薩行(求道と慈悲の行ない)の最終段階にあたる階梯、&lt;十地(じっち)&gt;</div><div>①歓喜地(かんきじ)：衆生救済立願の喜び</div><div>②離垢地(りくじ)：無垢なる心の展開と実行</div><div>③発光地(はっこうじ)：真実の教えの体得</div><div>④焔慧地(えんけいじ)：無垢の知の輝き</div><div>⑤難勝地(なんしょうじ)：自由自在な方便を用いた利他行</div><div>⑥現前地(げんぜんじ)：縁起の法の体得</div><div>⑦遠行地(おんぎょうじ)：無垢の知による衆生世間への奉仕</div><div>⑧不動地(ふどうじ)：無想の境地</div><div>⑨善想地(ぜんそうじ)：世界の真理の現実への応用</div><div>⑩法雲地(ほううんじ)：客体と主体の一体化した無量無辺の境地</div><div>を超えて、本来的な存在の原理のそのまた根本である。</div><div><br /></div><div>　ガンジス河の砂の数にも等しい多様な生きものは、永久(とわ)にそれぞれのもつ知の真実の住みかに住し、限りないさまざまなすがた・かたちと、それらの有しているいのちの無垢なる知のちからとはたらきによって、常に世界を飾り、その本来からある世界に遊ぶ。</div><div>　(その)真理の世界に目覚めた人であるブッダや、その世界の原理を求める人でなければ、誰が行為の三要素(動作・伝達・意思)の本質を見、（マンダラの)四つのメディアが示す世界の真実を学ぶであろうか。</div><div><br /></div><div>　量り知れないほどに数の多い生物の身体といえども、いのちとしてとらえればただ一つのものである。だから、無数の生物が有している海の滴のような無数の知も、ただ一つのいのちがもつ知とみな同じであるとさとっているのは、ブッダ、すなわち生命を象徴する大日如来その人である。</div><div><br /></div><div>　(その大日如来の)清らかな身体は、月輪に乗って(マンダラの)中央に位置し、その周りを蓮の花弁に乗った諸仏が補佐する。</div><div>　心の主体であるいのちの無垢なる知のちからを如来の庭とすれば、その庭、すなわち広々とした道場はすべての大地にいきわたり、如来のすばらしいお供の者たちが、つらなりわたる雲海のように世界に満ちている。</div><div><br /></div><div>　文字は真理の言葉を写し、モノ・コトの意義を限りなく明らかにする。真理の雷鳴が、地中に閉じこもっていたいのちの知の本性を呼び起こし、教えの甘露は(弥勒の菩提樹と呼ばれる)龍華樹(りゅうげじゅ)の根や葉にふりそそぎ、人びとの迷いを除いて、さとりの眼を開かせ、そのいのちの無垢なる知の光を輝かさせる。</div><div><br /></div><div>　<b>(ホ)普遍の物質要素&lt;五大(ごだい)&gt;</b></div><div>　　①固体(地)</div><div>　　②液体(水)</div><div>　　③エネルギー(火)</div><div>　　④気体(風)</div><div>　　⑤空間(空)</div><div><br /></div><div>　という五つの普遍的なものによってつくられ、いのちの無垢なる知&lt;一心&gt;があまねくゆきわたっている人間も、魚や獣や鳥の郷に住むものも、飛び・もぐり・走り・跳ねる行動によってエリアをすみわけるものも、みな同じく種&lt;四生：四種の生存形態。胎生(ほ乳類)・卵生(鳥や爬虫類)・湿生(水棲類)・化生(昆虫や両生類)&gt;の網(あみ)を破って、共にいのちの無垢なる知の住みかに入らん。</div><div><br /></div><div>　<b>(へ)知の規範&lt;胎蔵マンダラ&gt;</b></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>生命の存在そのものを象徴する大日尊と</div><div>八弁の蓮の花の上の知の根本のちから&lt;諸如来&gt;と</div><div>｢知の１２院｣</div><div>○八弁の蓮の上の知の根本のはたらき&lt;中台八葉(ちゅうだいはちよう)院&gt;</div><div>普遍の物質要素&lt;五色界道&gt;</div><div>○知を発揮する個体力(精神)&lt;遍知(へんち)院&gt;</div><div>○個体力を制御する内分泌物質&lt;持明(じみょう)院&gt;</div><div>(精神と物質)</div><div>○思想(精神)&lt;釈迦(しゃか)院&gt;</div><div>○創造性(精神)&lt;文殊(もんじゅ)院&gt;</div><div>○万物の構造(物質)&lt;虚空蔵(こくうぞう)院&gt;</div><div>○物質とエネルギー代謝&lt;蘇悉地(そしつじ)院&gt;</div><div>(感性と理性)</div></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>○感性&lt;観音(かんのん)院&gt;</div></blockquote></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>○大地(感性)&lt;地蔵院&gt;</div><div>○理性&lt;金剛手(こんごうしゅ)院&gt;</div><div>○文明(理性)&lt;除蓋障(じょがいしょう)院&gt;</div><div>のもろもろの知のはたらきを司る&lt;諸菩薩&gt;と</div><div>その知のはたらきをバックアップする物質力&lt;諸明王&gt;と</div><div>それらの知の規範とはたらきの場に集合している無数の生命と</div><div>それらのすべてを守護している</div><div>　○天体の運行と神話&lt;最外(さいげ)院&gt;の神々に</div><div>帰依します</div><div>イメージとシンボルと単位と作用の知のメディアによって示される真理の世界に</div><div>あまねくいきわたり、いのちの無垢なる知を発揮している者たちよ</div><div>本来の象徴の意味を越えることなく</div><div>このマンダラの道場に集合して</div><div>世界の真実を明かしたまえ</div><div>(以下、普礼・滅罪・三昧・菩提心の各｢祈りの言葉｣省略)</div></blockquote><div><br /></div><div>　現出した知のはたらきの跡によって、知の住みかにある無尽の蔵を勇気をもって示すことができる。地面に出た先端を見て、土の中の根を想像することができるが、例えば、象の足あとが他の動物の足あととは飛び離れて大きく、その踏みしめたところが深く広いのを見て、そのすがたを見なくても、その象が身体もちからも巨大であると知ることができるように、また、激しい雷雨が降りそそいで、鳥や獣を死なせ、多くの河川が洪水をおこし、山を崩壊させ、陵(おか)を駆け上るとき、その源(みなもと)を測らなくても、まさにこの龍(水の神)のすさまじさと大きさを知ることができるように、生命の存在そのものの知を示す大日如来もまた、知ることができる。</div><div>　(それは)いっときの間に、あまねく地上の生きとし生けるものに応じて、その能力とタイミングを計って、たくみに生命がそのすがたを完成させるから、そのすがたによって根源の存在があることを知る。すなわち、いのちの無垢なる知のちからが、あまねく多くの状況の根と先端、つまり原因と条件を見分けて、自由自在に生命世界を現出させているから、そこに大日如来が存在していると知る。</div><div>　いま、この経は、すべてのいのちの無垢なる知の住みかにある秘密の蔵、すなわち生命の存在そのものである身体が、その内面にある自らの蔵を開いてさとることが根本の知であると説く。</div><div>　これによってブッダは、菩提樹の下に坐したままで目覚めの時機を得たし、その目覚めによって自らの知の住みかに住し、生きとし生けるものすべてを救済する教えを考案された。そうして、自らの身体をもって、真理を楽しむことを修行とされ、より勝れた教えを求めることと、心を集中して平静に保つ瞑想とを、おのれの清らかなる勤めとされた。</div><div><br /></div><div>　(教えを考案するにあたって)広く量り知れない意義を伝えることのできる文字を有していることは、あたかも虚空がすべての存在を包んでいるかのようであり、広く数百数千の深い瞑想を統一しているということは、大海が無数の湖をその中に呑み込んでしまうのに似ている。</div><div>　文章の林は繁茂して、数々の｢祈り言葉｣の花を開かせ、深淵なる意味はまんまんとして無数の珠玉の飾りとなり、ひろくゆきわたる。</div><div>　わずかにでもこの文字の門に入れば、たちまちに無限に近い時間を｢ア｣の一字を念じるだけで超え、(そのことによって)無量の幸いと知の展開するいのちの意義を、三つの行ない(動作・伝達・意思)を為す身体に具(そな)えることになる。</div><div><br /></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>戦争や災害による死・飢え・本能・悪事・倫理・浄土の六つの世界に住むものと</div><div>乳類・鳥や爬虫類・水棲類・昆虫や両生類の四種の生きとし生けるものは</div><div>みなこれ父母であり</div><div>飛ぶ虫、地中の虫もみないのちあるものである。</div><div>願わくは、汚れなく清らかな眼を開いて</div><div>(すべての生きもののもつ)動作と伝達と意思の源を照らし</div><div>分別による縛りを解いて</div><div>無垢なる五つの知(五智)の上で</div><div>遊ばせよ。</div></blockquote><div><br /></div><div><b>　(ト)知&lt;五智(ごち)&gt;の生のはたらき</b></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>(１)生命知(無垢なる知のちからとはたらきを生みだす生命の存在そのもの)　　　</div><div>(２)生活知(呼吸・睡眠・情動)のはたらき</div><div>(３)創造知(衣・食・住・遊・健・繁殖などの生産・行動と相互扶助)のはたらき</div><div>(４)学習知(万象の観察・記憶・編集)のはたらき</div><div>(５)身体知(運動・作業・所作・遊び)のはたらき</div></blockquote><div><br /></div><div>　(このように)もし、(人びとが)内なる知の世界の安楽を得るならば、外なる環境世界も安らかに落ちつきを得るだろう。心の主体の世界(知の住みか)を清め、知のはたらきを安らかにすること、この経のテーマとは、まことにこのようなことであろうか。</div><div><br /></div><div>　『大日経』住心品の正式名は『大毘盧遮那成仏神変加持経(だいびるしゃなじょうぶつじんぺんかじきょう)』入真言門住心品(にゅうしんごんもんじゅうしんぼん)という。</div><div><br /></div><div>　(以下は、その題名の用語解説)</div><div>　｢大毘盧遮那(だいびるしゃな)｣：梵語でマカベイロシャノウという。漢語では除暗遍明。これは太陽の別名である。しかし、太陽とすると光は一方向からであり、外を照らすと内にはとどかず、明るさは光の照る面だけである。また、昼は照るが夜は照らない。だが、いのちの知の光はそのようなものではない。すべてにわたって照らしだし、内と外、方向と場所、昼と夜を区別しない。</div><div>　そのように、この地上にあっては(太陽のもたらす暖かさによって)草木・森林が、その植生にしたがい育つ。どんなに厚い雲が垂れ込め、太陽が隠れていても、やがて、強い風が雲を吹き払い、また顔を出す。(この点において、太陽が見えないといっても)太陽のエネルギーは永久的に存在しており、いのちの知の光も同様である。</div><div>　(いのちの知の光が)無知・悩み・無駄な議論の重い雲におおわれていても、光がなくなったわけでなく、その光がさとりによって際限なく輝いたとしても増すものでもない。(なぜなら、知の光は最初からいのちと共にあり不変である)</div><div>　(というようなことで)太陽の光と、いのちの無垢なる知の光&lt;大日&gt;とは分けてとらえるべきである。</div><div><br /></div><div>　｢摩訶(まか)｣：梵語でマカという。これには三つの意味がある。一つには時空において限りがないから大という。二つには数量が無尽であるから多大という。三つにはこれ以上に勝れたものがないから最上という。この三つの意味をもっているから摩訶(大)毘盧遮那という。</div><div><br /></div><div>　｢成仏(じょうぶつ)｣：(成仏の成るとは)本来的に完成していて、誰もが生まれながらにして有しているいのちの無垢なる知に目覚めることであるから、それが原因と条件とによって生じるというような成るではない。</div><div>　(だから)経文にいう、｢わたくしは本来生じないということをさとり、言語による論理を捨てた。（そうすることによって)もろもろの分別がもたらすあやまちから抜けだし、原因と条件とを遠く離れ、空は虚空に等しい(空間に存在するものは、人間の知覚によってとらえたものにすぎない。だから、空なるものが本来実在している)ことを知る｣と。</div><div>　この本来完成されていて実在するいのちの知がすでに成っているのであって、小さな完成の(原因と条件とによる)成るではない。</div><div><br /></div><div>　｢仏(ぶつ)｣：具体的には(梵語で)ボダという。これは正しい知に目覚めたという意味である。ありのままに過去・未来・現在のもろもろの生命(多様生物)の数、非生命(物質)の数、不変であるもの、不変でないものなどのすべての存在法則を知って、明瞭に目覚めた人をブッダ(ボダ)という。</div><div>　目覚めた人は、耐え忍ぶ鎧(よろい)と、精進の甲(かぶと)をもって、生活規律を守る馬に乗り、瞑想の弓と、いのちの無垢なる知のちからとはたらきの矢をもって、外に向かっては悪事をくだき、内に向かっては迷いを滅するから、目覚めた人(ブッダ)なのだ。</div><div><br /></div><div>　｢神変加持(じんぺんかじ)｣：旧訳では不可思議なちからを得ることをいい、あるいはブッダによる加護をいう。そのちから、つまりいのちの無垢なる知の不可思議な自然体のちからがなくては、(前出)十地(じっち)の菩薩の修行もその境界がなく、その限界も分からない。(また、その無垢なる知は)条件がなくなればすぐに消え、動機があればすぐに生じ、始めもなければ終わりもない。(だから)不可思議なちからを得るという。</div><div><br /></div><div>　｢経(きょう)｣：(梵語ではタントラという)貫きとおしてばらばらにしないという意味。言葉をタテ糸とし、無垢なる知をヨコ糸として、個体のもつ動作・伝達・意思の三つの行為の真実を織って、すべてのものを包含する海のような錦(にしき)とする。その模様に千の異なりがあっても錦が錦であるように、いのちのすがたにも万もの差別があるが、すべては一ついのちである。</div><div><br /></div><div>　｢入真言門住心品(にゅうしんごんもんじゅうしんぼん)｣：梵語の原典には、具体的に二つの題がある。初めには真言修行の章をいい、次には真言門に入る住心、すなわち真実の知の住みかに入るための章をいう。</div><div>　｢真言｣とは、梵語でマントラという。真実の言葉、ありのままの言葉、あやまりなくあやしくないとの意味をもつ。龍樹の記した論書ではこれを秘密の記号という。</div><div>　生きとし生きるものはみないのちの無垢なる知を有しているが、それが一切を知る知である。この知をさとることによって、すべてをありのままに明らかに知ることができる。そのさとりのプロセスは以下のようなものである。</div><div>　①真実の言葉を入り口にして、自らのもつ無垢なる知のちからにアクセスする心を起こし、②その心に即してあらゆる修行をし、③心の正しく等しいさとりを見、④心の絶対自由と大いなる安らぎを証明し、⑤心に衆生救済の方便を発起し、心をいのちの無垢なる知のちからによって満たし清める。</div><div>　以上のように、因から果に至るまで、みなその心にとどまることなく、しかもその心に</div><div>とどまる。だから、真言門(真実の言葉の入り口)から入る、心の住みかの章という。</div><div><br /></div><div>　(以下は、経｢住心品｣の冒頭の文章、｢かくのごとく我聞けり、一時(あるとき)薄伽梵(ばがぼん)は如来の加持せる広大なる金剛法界宮に住したもう｣の用語解説)</div><div>　｢薄伽梵(ばがぼん)｣：無垢なる知の光に目覚めている身体のことをいう。(つまり、ブ</div><div>ッダのこと)</div><div>　｢如来(にょらい)｣：いのちの無垢なる知のちからのことをいう。その知のちからの住みかとなっているのが、あらゆる生物の身体であるから、この身体こそが無垢なる知の居場所なのである。(そこに心の主体がある)</div><div>　心の主体には、もろもろのいのちの無垢なる知が住んでいて、しかも、その心の主体そのものが、いのちの無垢なる知のちからのはたらきの一部でもあるのだ。(そのように)すでに、すべてにあまねく行きわたるいのちの無垢なる知のちからによって、生命はそのすがたを現している。すなわち、いのちの無垢なる知のちからと、生命のもろもろのすがたは無二にして無別である(つまり、一体である)。しかも、(いのちの無垢なる知はその)不可思議なちからをもって、一切の生きとし生けるものに、身体と動作の秘密の色とかたちを見せ、(表現伝達手段の一つである)声(音)の響きによって言葉の秘密の意味を聞かせ、(各種の知覚反応と直感にもとづく)意思によって秘密の教えをさとらせる。また、その不可思議なちからの発現の仕方は、(個体のもつ)能力・性質にしたがうから、さまざまであって同一ではない。</div><div>　｢広大金剛法界宮(こうだいこんごうほっかいぐう)｣：広は無尽であること、大は際限のないこと、金剛は真実の知のこと、法界とは真理の世界のことである。広大なる真実の知をもつ真理の世界、すなわち身体そのもののこと。</div><div>　その身体が、自らのもついのちの無垢なる知のちからに目覚めることによって、そのちからが加えられ、慈悲と方便の見事なはたらきを保持するようになる。(そのように)この上なくすばらしい知の主体の住むところだから、真実の知の宮(住みか)という。</div><div>　(その知の住みかが)古(いにしえ)にブッダがさとりを開いたところである。</div><div><br /></div><div><b>あとがき</b></div><div>　空海著『大日経開題』&lt;衆生狂迷本&gt;を現代語に訳してみた。青年期の空海が奈良高市郡久米寺の東塔で入手し、その説くところを感得したのが『大日経』である。正式には『大毘盧遮那成仏神変加持経(だいびるしゃなじょうぶつじんぺんかじきょう)』という。題名の意味は本文にあるとおりである。</div><div>　｢この身が今生において済度される｣という最新の仏教の教えであり、なぜ済度されるのか、どうしたら済度されるのかがその中に説かれていた。合理的な精神の持ち主でもあった青年僧は、これこそが自分の求めてきた教えであるとすぐに確信した。</div><div>　だから、この経典について実地に学びたいとの思いが、空海に唐への留学を決意させ、そうして、インド伝来の密教の第八祖となって帰国した。</div><div>　それほどの意義をもつ『大日経』を、空海自らが講義したものの中の一編である。</div><div>　その講義によると</div><div>　１、人びとは自らの知の真実の住みかを知らない。</div><div>　２、だが人を含め、すべての生物は、生まれながらにいのちの無垢なる知のちからをもっている。</div><div>　３、知を観察すると、知は四つのメディア(イメージ・シンボル・単位・作用)によって生じている。(知は言葉による知識と論理だけで生じているのではない)</div><div>　４、そのメディアによって、知は生のはたらき(生活知・創造知・学習知・身体知)を為している。</div><div>　５、そのいのちの根本の知を誰もが身体にもつ。</div><div>　６、その身体が根本の知によって動作・伝達・意思の三つの行ないを為して生きている。</div><div>　７、その身体は自然を構成する五つの物質要素(固体・液体・エネルギー・気体・空間)と同じ要素によってつくられている。(だから、身体と自然は同体である)</div><div>　８、その身体はいのちの四種のあるがままのすがた(生命・種・遺伝・個体)を包含したものである。</div><div>　９、その身体が知の主体者なのだ。</div><div>　10、知の展開にあたっては、精神と物質・感性と理性によってバランスが計られ、内分泌物質によって知のおおもと(身体)が制御されている。それが知の規範となる。</div><div>　11、その規範&lt;胎蔵マンダラ&gt;が、知の真実の住みかである。</div><div>　12、その住みかの知が、真実の言葉(文字と声音)となって無限に展開する。</div><div>　というような経の内容が見えてくる。</div><div>その合理的な済度の教えと、今日の全包括的な思想に差異はない。</div><div>わたくしたち現代人は、知の真実の住みかにいつになったら帰れるのだろうかー</div> 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    <title>空と縁起の一考察　⑦</title>
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    <published>2010-07-01T01:45:51Z</published>
    <updated>2011-08-01T11:32:50Z</updated>

    <summary>第七回　仏の世界―存在と意識―　　◆量子論と空海の直観－縁起と空の非分割－　縁起...</summary>
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        <![CDATA[<div><b>第七回　仏の世界―存在と意識―</b></div><div><b><br /></b></div><div><b><span class="Apple-style-span" style="font-weight: normal; ">　　◆</span>量子論と空海の直観－縁起と空の非分割－</b></div><div>　縁起について簡単な例を考えてみよう。例えば先の事故の例でいえば、ＡＢ二人の人間が同じ方向に歩いていたとしよう。Ｂは事故が起きる直前、何かのはずみでＡに遅れたために、先に行ったＡが事故に遭遇しＢは難を免れたというようなケースはよくある。ある瞬間にBに顕前したこの何かのはずみ（急にショーウインドウが見たくなって立ち止まったとか、ふと迂回路を選んだとか）も「内臓秩序」から顕前するというのがボームの理論である。</div><div><br /></div><div>　私はこれを「見えない世界」より出現する「縁」の不思議と考えている。逆にいえば「見える世界」（縁起の世界）は「見えない世界」（空の世界）より現れてくるということである。ボームは縁起論としてことさらに採り上げていないが、その考えは究めて示唆に富む。</div><div><br /></div><div>　再度確認しておこう。ニュートンの力学に始まる自然観の特徴は厳密な決定論の志向である。宇宙という巨大空間は、因果律に支配され、機械論的であって、完全に決定的であると考えられていた。これによって、宇宙は微細な粒子によって構成されており、世界を構成するのは分離・独立して存在する不変・不可分の一群の素粒子（基本粒子）であり、それらが宇宙の基本であると想定するのが一般的であった。</div><div><br /></div><div>　最初、この素粒子と考えられたものは原子であった。だが原子は原子核と電子からできており、原子核はさらに陽子と中性子に分割されることがわかった。まもなくこれらも転移を受けて数百種の不安定な粒子となることが見出され、現在では「クォーク」とか「レプトン」とか「バルトン」などと呼ばれるさらに微小な粒子を仮定して、これらの転移を説明しようとする。このような際限のない粒子の細分化は、最終的に宇宙は必ず完璧に説明できる構成単位があるに違いないという不動の信仰であった。</div><div><br /></div><div>　だが、機械論的秩序を最初に問い直したのが相対性理論だった。アインシュタインは、粒子概念はもはや基本的と考えることはできず、宇宙(実在)を構成するものは「場」であると提案した。つまり相対論の要求を満たす法則に従う「場」こそ実在を構成するものとしたのである。アインシュタインの「統一場理論」は、機械論的秩序に相対論が呈した強力な疑義であった。ところが機械論的秩序に対してはるかに重大な疑義を提起したのが「量子論」であった。実際それは相対論が提起したそれをはるかに凌ぐものであるといわれている。</div><div>　</div><div>　相対性理論が旧来の物理学者の物質観に与えた影響とは、粒子の概念を根本的に修正したことである。量子論は相対論といくつか重要な点で理論の対立はあるが、両者がその根底において共通する原理は「分割できぬ全体性」である。</div><div><br /></div><div>　この「分割できぬ全体性」に相応しい秩序概念を提唱したのがボームの「内臓秩序」である。彼は外からは確認できないままに情報全てが、全体性の中に＜包み込まれている＞という概念に到達した。これは旧来の物理学を支配してきた「顕前秩序」（明在系）と著しい対比をなす。なぜなら、「顕前秩序」においては、個々のものはすでに＜引き出されている＞からである。</div><div><br /></div><div>　それに対して「内臓秩序」による探求は、宇宙が「不可分の全体性」であることから出発する。さらに「顕前秩序」を＜引き込む＞・＜引き出す＞という二つの運動を考える。</div><div><br /></div><div>　そこから存在の基本的かつ普遍的なものを「内臓秩序」（暗在系）とし、「顕前秩序」（明在系）は前者の法則から二次的・派生的に流出し、後者の秩序が妥当するものは一定の限定された文脈中だけだと主張する(1)。</div><div><br /></div><div>「内臓秩序」の最大の特徴も、相対論と量子論が認めるように「分割できぬ全体性」という宇宙観である。</div><div><br /></div><div>高エネルギー理論物理学のフリッチョフ・カプラはこのようにいう。</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>「原子物理学の観測過程を注意深く分析すると、素粒子を独立した実在として考えるのは無意味で、実験の準備と測定との相互関連としてしか理解できないことがわかる。つまり、量子論は、宇宙の基本的な合一性を明らかにした。世界は独立して存在する最小単位に分割することはできない。物質の内部をどんなに探っても、『基本的構成要素』は見つからず、全体の中の部分がたがいに関連しあう複雑な織物としてあらわれてくる(2)。」</div></blockquote><div><br /></div><div>　空海も宇宙の「分割されぬ全体性」は夙に確信していた。例えば『声字実相義』では次のような問答文を設定している。</div><div><br /></div><div><b>質問者</b>「物質が分子に分解できるものならば、原子にも分割できる部分があるはずである。それなのに、物質にある分割できる部分は原子には存在しない（とあなたはいうが）、それは何故か」と。</div><div>　＜色聚にまた方分あらば、極微にも方分あるべしや。然も色聚には分あり。極微にはあらず。何をもっての故に(3）。＞</div><div>　それに対して空海は原子というものは分割できないと言い切り、次のように答えている。</div><div><br /></div><div><b>空海</b>「原子というものは、分割を押しすすめていった極限として想定した概念である。したがって、これは色なる集合（物質）に存在すると仮定したものであり、原子の中に、さらにそれより小さい原子があるということはない。だから、原子には分割しうる性質はないのである。」</div><div>　＜極微すなわちこれ分なるに由って、これはこれ聚色の所有なり。極微にまた余の極微あるにあらず。この故に、極微には分相あるにあらず(４)。＞</div><div><br /></div><div>　しかしながら原子は原子核と電子によって構成されており、その原子核も陽子と中性子によって構成されているから、このかぎりにおいては質問者が正しく空海が間違っているように思える。しかし注意すべきは、訳文では原子となっているが、空海は今日の原子物理学でいう厳密な意味での原子を指しているのではないということだ。</div><div><br /></div><div>　空海の時代、自然を構成するのは地・水・火・風・空の五大要素（五大形態）が観念されていた時代である（密教はこれに識大を加えて六大無碍）。それらを構成する最小単位を仏教では「極微」という概念しかなかった時代である。つまり空海の答える「極微」が分割できないという意味は、まさに「粒子の世界は基本的な構成部分には分割できない」という相対論や量子論とほぼ同じ概念だと考えられる。</div><div><br /></div><div>空海は、物質は「分割できぬ全体性」として把握するしかないと直感していた。つまり一切の存在とは固定的実体的な原因（粒子の集合）によってその存在（在り方）を恒久的に得ているのではなく、物質相互の相依性（縁）を原因としてその存在（在り方）を世界に開示しているにすぎないと考えていた。だから一切の存在が何らかの原因によるとしても、その究極の原因（究極の粒子）を明らかにすることはできないのである。この主張は存在に関する『吽字義』でも繰り返し述べられている。　例えば、</div><div><br /></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>「あらゆるものは必ず多くの原因から生じており、原因から生じたものにはすべて始めとか、その生ずる本となるものがある。この生みだす本の原因をさらに観察すると、その原因の原因があることになる。ところが、このように遡及していったとしても、最終的に根本原因を見出すことはできない」</div><div>一切の法は衆縁より生せざることなきをもって、縁より生ずる者は、ことごとくみな始あり本あり。今この能生の縁を観ずるに、またまた衆因縁より生ず、展転して縁に従はば、誰かその本となさん。(5)＞</div></blockquote><div><br /></div><div>　しかし世界は存在する。ではこの事実をどのように理解すればよいのか。最終的な原因は突き止められないとしても、われわれにとって世界は明らかに存在するからだ。</div><div><br /></div><div>　空海の世界観はこの点唯識瑜伽行派よりも積極的である。空海は世界の存在性（本質＝真実）を概念的にも論理的にも説明することはできないが、この世界が存在するという実在性こそが真理であるとする。しかもこの事実を積極的・肯定的に受け入れることが仏の覚りの智慧（一切種智）であるという。</div><div><br /></div><div>　ここに至って存在の根源は本から不生、すなわち因縁より生じたと考えるしかないが、空海はこのような存在性（真実＝不生）の究極的の在り方を、[本不生際]という概念でとらえ、この在り方こそが全てのあらゆるものの根本（万法）に他ならないとした。</div><div>＜かくの如く観察する時に、すなわち本不生際を知る、これ万法の本なり(6)＞</div><div><br /></div><div>　空海は究極的な原因を明らにすることは「不可得」(知ることはできない)という立場をとりつつも、宇宙は常に法身大日如来が「阿字」の一字をもって真理を覚らせていると観じた。つまり存在や現象は大日如来の説法であるとして認識していた。故に法界（真理の世界）はこの世の全てを包摂する。つまり「因」も法界であり、「縁」も同様に法界であり、因縁生起したものも法界にほかならないという。いいかえれば「縁起の世界」は常に法界と連結しているということになる。これが空海密教の宇宙観であるといえる。</div><div><br /></div><div>　ところで法身の説法は宇宙において人間に顕示されるということは、宇宙（法界）と人間存在とのコミュニケーション（交流・交感）を原理的に認めなければならないことになる。このような前提は密教では自明の理であるが、この理屈は二元論（精神と物質の分離）の西洋科学では明らかに非合理なことであった。また科学至上主義の現代人にとっては怪しげな神秘主義（オカルティズム）と映ることさえあった。</div><div><br /></div><div>　空海は日照りで苦しむ農民を助けるために盛んに請雨法行ったという伝承は各地にあるが、合理主義者はこれも伝説の域に封じ込めようとする。ついに密教の護摩供養や祈祷に至るまで、非科学的な呪術（まじない）と見る日本の進歩的知識人や科学者たちは決して少なくない。（その筆頭が脱亜入欧の福沢諭吉）しかし宇宙と人間の意識について、今日ではむしろ西洋の方から真剣に研究する科学者が頻出している。</div><div><br /></div><div>　有名なブランドン・カーター（イギリスの宇宙物理学者）の提唱する「人間原理anthropic princilple」（1968）も、いわば脳と宇宙との関係である。カーターは宇宙の存在と人間の存在の間に密接な関係があることを公準としている。すなわち宇宙の物理的特性は人間の「意識によって生じえた」という事実と関係があるということである。（この「人間原理」の支持者としてはスティーブン・ホーキング博士が有名である。）</div><div><br /></div><div>　オギュスタン・ベルク（フランスの地理学者）によれば、世界に意味があるとすれば、それはわれわれの世界への関係性の中にしか存在しえないという。つまり、われわれ人間を世界に存在させる諸々の関係は、そのこと自体によって、われわれを「倫理的な存在」として、その土台を据えるというのがベルク博士の考えである(7)。&nbsp;</div><div><br /></div><div>　いずれにせよ、今日ようやくたどりついたニューサイエンスの発見を、すでに１２００年も前にわが国の空海が明言していたということに驚かざるをえない。フリッチョフ・カプラも世界的な理論物理学者であり、デイヴィト・ボームもブリジストン大学でアインシュタインと研究を共にし、アインシュタインから後継者と見られていたノーベル賞受賞物理学者であるが、彼らの研究の核心を空海はほぼ正確に答えているのだ。</div><div><br /></div><div>　これをただ当時の学問や瞑想だけで把握できるものだろうか。私はもっと動的なはたらき(三密行)によって、空海もまた神秘的な世界と相応渉入したであろうと考えるのである。</div><div>ベルクの言い方をすれば、宇宙の倫理と空海の倫理が共振したのである。</div><div><br /></div><div>　さて第三回で私は釈尊の解脱について、高度な覚りの瞬間には、超越的な何かと感応するのではないかと述べたが、これを「内臓秩序」のような、「ある隠された世界」から釈尊の深層心理に届いた神秘的なエネルギー（メッセージ）と考えてもいいだろう。逆にいえば釈尊の意識が「内臓秩序」に飛び込むとでもいうような運動である。これは勝れて心の透明な人間にはたらく神秘力のように思われる。しかし仏教はこれを特殊な人間に限ってはいない。本来万人にもはたらく本質的な能力だと認めた。如来蔵といい、仏性といい、成仏といい、その可能性を指した言葉ではないだろうか。</div><div><br /></div><div>　つまり、人間は「縁起の世界」に支配されていても、「空の世界」とのつながりによって、現実に何らかの変化を起こす能力が潜在的に与えられているということである。物理学的にいえば、この力は「暗在系」に与えるある種の＜ゆらぎ＞のようなものではないかと考えられる。</div><div><br /></div><div>　村上保壽教授のいうように、密教の主体性とは、カオス的無限定性から秩序へ向かうはたらきではなく、むしろ（日常性）からカオス（存在の実相）へと向かう「はたらき」であるとすれば、私はそれに倣って、密教の主体性とは、顕前秩序（明在系）から内臓秩序（暗在系）へ、すなわち「縁起の世界」から「空の世界」へと向かう「はたらき」であるといいたい。</div><div><br /></div><div>　　◆<b>人間はみな仏の子</b></div><div>　複素相対論で著名なフランスの物理学者ジャン・Ｅ・シャロン博士は、人間は「虚の世界」に属する実在で、「実の世界」とは別次元の世界の実在であると主張しているという。次元の違いから人間の世界が「虚の世界」とされるならば、他に異次元の「実の世界」の存在が推測される。これは一つのヒントを与える。</div><div><br /></div><div>　例えば点と線だけの一次元の世界に住む生物がいるとしよう。そこに二次元の平面に住む別の生物が出入りすれば、一次元の生物は突然見えない世界から現われたり消えたりするように見えるだろう。さらに高さをもつ三次元の世界の生物が出入りすれば、二次元の世界の生物は同じような不思議を感じるであろう。</div><div><br /></div><div>　われわれは一般的には四次元まで認識することができるが、もし「空の世界」がさらに多次元であれば現実に認識することは不可能である。もし「空の世界」からの情報があれば、ただ不可思議であり、いわゆる超常現象としか表現できない。また空海がいうように、「空」を呑むものが「仏」であるなら、「仏の世界」とは想像も及ばぬＮ次元としかいいようがない。</div><div><br /></div><div>　しかしこれは一次元（点と線）が二次元（平面）を構成し、二次元（平面）は三次元（立体）を構成し、三次元は四次元世界をというように、つぎつぎ多次元世界を構成しながら、最終的には仏のＮ次元に包括されるということでもある。逆にいえば、われわれの日常である諸行無常の世界は、どのようにあがいてみても「仏の世界」に包まれているということになる。</div><div><br /></div><div>　別のいい方をすれば、人は本来みな「仏の子」であるということである。空海が、衆生の心とは本来汚れなき満月のような心であると繰り返し語るのはそういう意味であろう。ただ日常的秩序世界の住人であるわれわれには自覚しにくいだけではないだろうか。「如実知自心」とはそういう自己に目覚めることではないだろうか。それが「明」という仏の智慧でもあろう。</div><div><br /></div><div>　　◆<b>宇宙の自己統一性と密教思想</b></div><div>　ジェイムズ・ラヴロックは、地球は自己統一性を志向する巨大な有機システムと見た。宇宙物理学者のエリッヒ・ヤンツは宇宙全体が散逸構造を持った自己組織化システムではないかと考えた（8）。ヤンツはそれを｢宇宙の心」と呼んだ。彼は「神は創造者ではない。宇宙の精神なのだ」という。私はそれを「大日如来の心」と呼ぶ。</div><div><br /></div><div>　大曼荼羅図はこのような宇宙精神(実相)を仏の尊像として描いたものであろう。松長有慶師は、曼荼羅の典拠となる経典を調べた結果、曼荼羅は今日のように平面に絵画的に表現されるものではなく、本来、宇宙の根源的な生命を、三次元ないし四次元的な空間で表現すべきものであるという。もともとそのような多次元的な象徴表現であった。すなわち、曼荼羅の宇宙観は物質・光・音・エネルギー、など現実世界に存在する一切のものが、次元を超えて、本質の上で結びついていることを示しているという(9)。</div><div><br /></div><div>私は、曼荼羅は宇宙の自己統一性を表現していると考えるが故に、ミクロの命がマクロのいのちとつながっていると見る密教思想において、人間の「縁起」においても本来自己統一としてのバランスがはたらくと考える。如来の慈悲とは、実はそのことではないだろうか。</div><div>山折哲雄氏は、次のようにいう。</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div>「龍樹以後、唯識説と並んで成立した新しい思想に如来蔵思想がある。(略)『般若経』の空の主張を徹底的に突き詰め、それを乗り越えたものとして如来蔵が説かれるのである(10)。」</div></blockquote><div>大乗仏教では如来蔵と法身は同一の真如とされる。宇宙が不思議であれば、宇宙の子である我もまた不思議である。「空」から顕現した万物の命（色）は即ち「空」である。まさに「色即是空」である。ここにおいて「空」とは存在の無化ではなく、宇宙的大生命の肯定の理法となるのではないだろうか。それが「密号の空の覚り」であるように思われる。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><b>＜注＞</b></font></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">(1)　D・ボーム『全体性と内臓秩序』青土社</font></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">(2) &nbsp;F・カプラ『タオ自然学』工作舎p.80</font></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">(3)『弘法大師空海全集』第二巻、筑摩書房 pp.284~285</font></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（4）前掲書同頁p.285</font></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">(5) 前掲書同頁p.306　</font></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">(6) 前掲書同頁p.306</font></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">(7) オギュスタン・ベルク『地球と存在の哲学』ちくま書房</font></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">&nbsp;(8) エリッヒ・ヤンツ『自己組織化する宇宙』工作舎</font></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">(9) 松長有慶『生命の研究―密教のライフサイエンス―』法蔵館 p.131</font></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">(10)『仏教文化辞典』佼成出版社 ｐp.32-33</font></div><div><br /></div> ]]>
        
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