空海年表・クウカイ クロニクル
空海入唐と両界曼荼羅[770〜]

インドで、パーラ王朝の支配のもと大規模な仏教寺院が造営され、タントラ仏教が発展した8世紀後半、チベットでは、パドマサンバヴァ(蓮華生)の指導のもと、土着のボン教に代ってチベット仏教の礎が築かれた。そのころ日本では、後に日本密教の二大祖となる若き空海と最澄がそれぞれの修行を深め、やがて二人を乗せた第十六次遣唐使船が大陸を目指して船出しつつあった。

770
道鏡失脚し、下野に配流
774
佐伯真魚、讃岐国多度郡屏風ヶ浦に生まれる。父佐伯直善通(国造)、母阿古屋(阿刀氏)、三男
774
勅により、高雄に高山寺創建
775
佐伯今毛人、遣唐大使に任命
776
出羽、陸奥に蝦夷、俘囚の大反乱おこる
776
開成皇子、箕面の善仲・善算に師事し大般若経書写完成(勝尾寺大講堂建立)
778
大和子嶋寺の延鎮、山城音羽滝に行叡を訪ね千手観音を彫る(清水寺へ)
779
『唐大和上東征伝』(淡海三船)成立
779
渤海使節、唐使節が来朝
780
蝦夷の大反乱おこる
781
光仁天皇の勅により、慶俊僧都、山城愛宕山に将軍地蔵を祀り、五台山に模して五峯五寺(高雄山寺・白雲寺・伝法寺・日輪寺・月輪寺)を配備
781
光仁天皇病んで退位、桓武天皇即位
781
和気清麿、愛宕五寺の高雄山寺を創建する
781
土師古人、菅原姓を賜り、氏寺の土師寺を道明寺とする
782
法相宗の徳一、筑波山に中禅寺を開く(「筑波山縁起」)
782
氷上川継の謀反露見(川継を伊豆、その母不破内親王を淡路に配流)
782
勝道、日光二荒山登頂に成功、山頂に祠を築く
782
桓武天皇を厭魅した咎で、三方王・山上船主・弓削女王を流刑とする
784
勝道、日光中禅寺湖畔に立木千手観音を彫って祀る(中禅寺)
784
藤原種継らを長岡京造営使に任じる
784
長岡京に遷都
785
この頃(延暦年間)、賢憬と修円、竜神の神域に室生寺建造(五重塔現存)
785
最澄、はじめて比叡山に登り、草庵を構える
785
藤原種継、暗殺される(大伴継人ら、逮捕され処断)
785
大伴家の頭領・大伴家持、多賀城に没する
785
藤原種継暗殺への疑いで、皇太子早良親王を淡路に流す
785
山林、寺院に陀羅尼を読み、呪詛することを禁じる
788
最澄、比叡山に庵室を設けて思索(比叡山延暦寺の起源)
788
坂上田村麿、多賀城から蝦夷征伐に向かう
788
恵運、10歳で出家し、東大寺・薬師寺に華厳・唯識を学ぶ
789
佐伯真魚、阿刀大足に論語・孝経・史伝・文章を学ぶ
774
不空三蔵入寂、大興善寺に不空の塔建立
774
勅によって不空の後継者は慧朗とされる(勅慧朗教授後學制一首)
775
恵果、朝廷に不空から「瑜伽祕密之宗、普賢深妙之要」を学んだと報告(恩賜錦綵謝表一首并答)
775
恵果、青龍寺東塔院に毘盧遮那灌頂道場を授かる
776
澄観、五台山に『華厳経疏』を著し華厳の根本道場設立(華厳・密教・天台・禅の僧侶・信徒の巡礼多い)
777
恵暁、五台山金閣寺の尊像の顔色印契を検校
777
懐素書[自叙帖]
777
五洩霊黙、洪州開元寺の馬祖道一に会い禅宗をめざす
779
代宗没、徳宗即位
780
顔真卿書『顔氏家廟碑』『自書告身』
780
楊炎の建議による両税法の施行(安史の乱からの財政立て直しをはかる)
780
インドから帰還した新羅僧・慧超、五台山に『大乗瑜珈金剛性海曼殊室利千臂千鉢大教王経』訳出
781
徐浩書[不空和尚碑](空海、『徐侍郎宝林詩』を請来)
781
インド僧、般若三蔵、広州に来る
781
新羅僧・恵日、入唐(恵果より金胎両部・蘇悉地などを受学、新羅密教を興す)
781
バルフ出身の伊斯、長安の大秦寺に「大秦景教流行碑」(ネストリウス派キリスト教)
781
徳宗皇帝、成徳・天雄・平盧・山南東道の藩鎮、梁祟義の乱を制圧
783
藩鎮勢力、元幽州節度使の朱沘を擁立し反乱(徳宗皇帝、長安を放棄し西方の奉天に逃れる)
784
楚帝を自称する李希烈、顔真卿を殺す
784
新羅僧・道義、五台山から曹溪山宝林寺に至り、六祖慧能の御影堂を拝して智蔵禅師のもとで修行(新羅に南宗禅を伝える)
785
李公佐、襄陽で白行簡と婦人を論じ、『李娃伝』の執筆を勧める
786
徳宗皇帝、藩鎮勢力を鎮圧し、長安を回復
786
不空の弟子・慧朗、天下の僧尼に仏頂尊勝陀羅尼を読誦させる
786
般若三蔵、ネストリウス派キリスト教の大秦寺にいたペルシャ僧の景浄(アダム)とともに胡本(ソグド語の原典)の『六波羅蜜経』の漢訳開始(『大乗理趣六波羅蜜経』)
788
澄観、大華厳寺に『華厳経疏』を講義
788
白居易、17才にして「昭君」の二詩を作す
788
般若三蔵『大乗理趣六波羅密多経』翻訳完成
788
南宗禅を開いた馬祖道一、石門山宝法寺に示寂
789
長安の醴泉寺に六波羅密経院を建立
789
般若三蔵、『六波羅蜜経』の『真言契印法門』を新訳
789
智通ら『大乗理趣六波羅密経疏』を上進
789
南宗禅の慧能の弟子の正午、黄檗山に般若堂を建立
774
この頃、北インドを統一したパーラ朝ダルマパーラ王、パハールプール大寺院(バングラデッシュ)を建造(インド後期密教の拠点となる)パハールプール大寺院(東南アジア大乗仏教寺院の原型)
774
般若三蔵、南インドに法称から密教を学ぶ
774
ジャワのシャイレーンドラ朝のチャンパ侵攻、ポー・ナガル旧聖堂破壊(シヴァのリンガ失われる)
775
新羅に貴族連合体制復活派の金隠居の乱、律令推進派の廉相の乱(唐風に改名した百官の名称を旧来に戻す)
775
吐蕃王チソンデツェンが招いたスヴァータントリカ派(中観派自立論証派)のシャーンタラクシタ(寂護)、密教僧パドマサンバヴァ(蓮華生)とともにラサのサムエー寺の定礎をつくる
775
この頃、シャイレーンドラ朝ダルマトゥンガ王即位(ジャワ、スマトラの仏教、パーラ朝の大乗仏教に刷新)
775
吐蕃王国(チベット)、ラサのサムエー寺の基礎がつくられる
775
この頃、密教僧パドマサンバヴァ(蓮華生)、ボン教の調伏に乗り出すという
775
般若三蔵、広州に向かい、スリランカに漂着
775
この頃、メコン流域のドヴァーラヴァティー王国に、釈迦の本生譚のレリーフ、サンスクリット語、パーリ語、モン語の銘文あらわれる
775
ラーシュトラクータ朝のクリシュナ1世没(この頃までに、エローラ石窟のカイラーサナータ寺院建設開始)
778
インダス流域のプラティハーラ朝のヴァトサラージャ、ガンジス流域のパーラ朝のダルマパーラ王と戦って破るも、東南インドのラーシュトラクータ朝のドウルヴァと戦って敗れる(インド中世の三国時代開始)
778
ジャワの仏教国シャイレーンドラ朝の興隆を伝えるカラサン碑文(ヒンドゥー教の古マラタム王朝をしのぐ:中国・ベトナム・ジャワ・ベンガル湾・アラビア海の交易激増)
778
ヒンドゥー教徒の古マラタム王国のパンチャパナ王と仏教徒のシャイレーンドラ王朝の王女の結婚に、大乗仏教のカサラン寺院建立
779
ラサのサムエー寺本堂が完成し経典解説、説法開始
779
シャーンタラクシタ(寂護)、ナーランダ寺院からラサに説一切有部の僧を招き、6人のチベット僧に受戒(チベット仏教教団形成)
779
パドマサンバヴァ(蓮華生)、吐蕃に四加行(ゾクチェン・大幻化網タントラ・八大ヘールカ・前行)を導入するという(チベット密教へ)
779
吐蕃・南詔連合軍が20万の大軍をもって成都を攻撃
780
この頃、カシミールにシヴァ教さかんになる
780
この頃、パーラ朝に無上瑜伽部の母タントラ経典『ヘーヴァジュラタントラ』(大悲空智金剛大教王儀軌経)形成
780
新羅の武烈王の系統が絶え、以降反乱が頻発する下代となる
780
渤海、東京から上京に遷都(都城の朱雀大街南端の左右に大規模な仏寺殿堂、朱雀大街北端の二坊内に仏殿閣樓))
780
この頃、シャイレーンドラ朝のダルマトゥンガ王、ボロブドゥールのパゴダ建設開始
780
この頃から、シャイレーンドラ朝のダルマトゥンガ王、仏教寺院チャンディ・ムンドゥ、チャンディ・カラサン、サリー寺院などを建設
780
この頃から、シャイレーンドラ朝のダルマトゥンガ王のもとで、サンスクリットの辞典『アマラテラ』の古代ジャワ語への翻訳をはじめる
780
この頃、インド東海岸、パッラヴァ朝の外港都市マハーバリプラムにヒンドゥー教の海岸寺院建設開始(タミル商人の貿易さかん)
782
新羅の宣徳王、唐に朝貢し「校大尉・雞林州刺史・寧海軍使・新羅王」に冊封
784
ジャワの古マラタム王国、ラケー・パナラバン即位(ヒンドゥー教のピカタン寺院を中心とする稲作共同体の碑文)
784
チャンパ王国(環王国)のサトヤヴァルマン王、ポー・ナガル寺院を復興(ガネーシャの彫像とシヴァ神の顔を浮き彫りし貴金属で保護されたリンガを寄贈)
785
この頃、ジェニャーニャパーダ、グフヤサマージャタントラ』(秘密集会タントラ)に基づく無上瑜伽密教を体系化
786
サラセン帝国、ハルン・アルラシッド即位(バクダード繁栄、イスラム商人のシルクロード、南海貿易さかんとなる)
786
吐蕃、敦煌占領し、禅僧の摩訶衍(マハーヤーナ)をラサに連れ去る
787
吐蕃のサムエー寺完成、ベセルナン管長となる(パドマサンバヴァ(蓮華生)、ヴィマラ・ミトラ、シャーンタラクシタ(寂護)、ヴァイローチァナら、サンスクリット語からチベット語への仏教経典の翻訳事業を進める)
788
新羅の元聖王、初めて読書出身科を設ける(知識人の採用開始)
787
吐蕃、西域制圧(西域・雲南などをめぐり唐と戦争続く)
789
吐蕃、白服突厥・カルルクと連合し、北庭大都護府襲撃(唐・ウイグル連合軍敗退)
790
佐伯今毛人没
790
勝道、下野国の総講師となり、上人号を賜る
791
この年、蝦夷討伐のために諸国に兵士・武器・兵糧の調達命令続発
791
佐伯真魚、奈良の大学寮明経科に入学(味酒浄成・岡田博士に学ぶ)
791
佐伯真魚、一沙門から「虚空蔵求聞持法」を受ける(一説に勤操あるいは吉野比蘇寺の僧という)
791
以降の佐伯真魚、797年ころまで阿波大滝嶽、土佐室戸岬、石槌山などの山野に修行
792
明経道において、呉音を廃し漢音を習わす
792
皇太子安殿親王(のちの平城天皇)、病臥にふし、早良親王の崇りとされる
793
佐伯真魚、和泉国槙尾山寺に、勤操から沙弥戒を受け、大安寺所属の沙弥「教海」となる
793
和気清磨、河内神願寺創建、[薬師如来像]造立(現高雄神護寺へ)
793
遷都のため、藤原小黒麻呂らに山城葛野を視察させる
779
桓武天皇、葛野に赴き、比叡山に行幸
794
平安京に遷都
794
平安京の大極殿竣工
796
東寺・西寺・鞍馬寺建立、都の鎮護となる
797
藤原継縄ら『続日本紀』の1部を撰上
797
教海改め如空こと空海、『聾瞽指帰』を著しさらに『三教指掃』に書き改める
798
如空こと空海、姉(智緑尼)の9歳の子(智泉)の才能を見抜き勤操に預ける
798
呉音を排し漢音を採用(各寺の年分度者に漢音を学ぶ者を採用〉
798
坂上田村麿、京都東山の観音寺に修行する延鎮に帰依、清水寺を建立
799
僧侶が山林に邪法を行うことを禁じ、山林の比丘・優婆塞を奏上させる
790
カシミールに派遣された車奉朝、徳宗皇帝に拝謁し仏典・仏舎利等を奉呈(得度して悟空となる:後に空海、悟空伝を伝える)
790
般若三蔵訳『般若心経』『諸仏境界摂真実経』『大乗本生心地観経』
790
柳公権、12才にして辞賦、書の頭角をあらわす
791
澄観、長安崇福寺に『華厳経疏』を講義
792
徳宗皇帝、黄檗山の般若堂の東に堂宇を整備し、建福禅寺の名を与える
792
韓愈『明水賦』『争臣論』
793
柳宗元、劉禹錫ら三十二人、進士に及第(唐王朝の復興めざす)
793
懐素書[東陵聖母帖]
793
潙山霊祐、江西に赴いて百丈懐海に学び法嗣となる
793
この頃以降、恵果、義操・法潤に胎蔵法を伝授、その後、義操に金剛界法を伝授(義操は義真に胎蔵法・金剛界法を伝授)
794
新羅僧の金地蔵、九華山の化城寺に99才で没す(地蔵と地藏王菩薩を同一視する信仰が生まれ、中国地蔵信仰の聖地となる)
795
南泉普願、安徽省の池州貴池、南泉山に禅院を構える
796
徳宗皇帝、沙門・進士を麟徳殿に集め、儒仏道三教を議論
796
澄観、南インドから招来された華厳経の梵本を『大方広仏華厳経』に翻訳(貞元新訳華厳経:これをもとに『大方広仏華厳経疏』を著す)
798
般若三蔵訳『華厳経普賢行願本』(40巻:四十華厳)
796
柳宗元『故御史周君碣』を作す
798
孟郊、50歳にして進士に及第、江蘇省溧陽の尉となる(『古別離』『帰信吟』などをつくる)
799
徳宗皇帝、淮西節度使に就いた呉少誠の乱を平定
799
澄観、徳宗皇帝に華厳を講義し清涼国師の号を受ける
799
新羅僧梵修、澄観『華厳経疏』の後半を故国に伝える
790
般若三蔵、カシミールに使いし、紫衣を賜る
791
ウイグル、北庭を奪還、唐軍と共に塩州・霊州を攻撃し、吐蕃を破る
791
吐蕃王妃ドサ、摩訶衍の弟子となる
792
吐蕃に中国系禅宗とインド系仏教が「悟り」をめぐって争う(サムエー論争)
792
ジャワのシャイレーンドラ朝サングラーマグナンジャヤ王、ボロブドゥールのパゴダ完成
792
ジャワの古マラタム王ラケー・パナンカラン、アバヤギリ・ヴィハーラ建立
793
牟尼室利三蔵、ナーランダ寺院を出て唐に向かう
794
デカン高原のラーシュトラクータ朝、ゴーヴィンダ3世即位(東カルキアを服属させ、全盛期現出)
794
インド僧カマラシーラ、パーラ朝より吐蕃に入る
795
サムエー寺にカーマラシーラ、摩訶衍を論破(チベットでインド仏教が正統となる、チベット僧は瑜伽・中観を学んだ後、密教を修めると定める)
795
ウイグル、中央アジアを領し最盛期(ウイグル文字創始)
795
新羅の元聖王、縁会国師に帰依して京城に見性寺(現在の奉恩寺)を建て、王宮の西に望恩楼を築く
796
吐蕃王チソンデツェン死去、ムネツェンポ王即位(仏教の普及をはかる)
798
吐蕃王ムネツェンポ暗殺、チグシンツェン執政下にボン教の復活、仏教を弾圧
800
桓武天皇、早良親王の怨霊に悩み崇道天皇の諡号を贈る
801
越前の漢神祭祀に牛の犠牲を禁じる(神道の仏教化推進)
801
藤原葛野麻呂を第十六次遣唐大使に任命
801
坂上田村麻呂を征夷大将軍とする(蝦夷戦争開始)
802
蝦夷の指導者アテルイ、モレら坂上田村麻呂に降伏(7月、入京し斬首される)
802
富士山大爆発(足柄路閉ざされ、箱根路を開く)
802
和気広世の乞いにより、高雄山寺に最澄「天台講演」
803
第十六次遣唐使船出航するも、暴風雨に引き返す
804
この頃、空海、久米寺の東塔に『大日経』を感得するという
804
実慧(讃岐佐伯氏)、大安寺の泰基に唯識を学び具足戒を受ける
804
蝦夷に動乱、坂上田村麻呂、再び征夷大将軍となって出征
804
如空改め無空、東大寺戒壇院に具足戒を受け官僧「空海」となる
804
空海、1年おくれの第十六次遣唐使船(遣唐大使藤原葛野麻呂の乗る第1船)に乗船
804
渤海使のために、能登に常院を設営
804
空海、最澄、霊仙、円基、金剛三昧ら、入唐の途につく(肥前田浦より出航、台風に襲われ、遣唐使船は四散)
804
秋田城を廃して秋田郡とする(蝦夷平定)
804
最澄、帰路に和田岬(神戸市)に上陸、最初の密教霊場、能福護国密寺を開創
805
最澄、上洛し唐で書写した経典230部460巻を披瀝(『台州越州将来録』をつくる)
805
最澄、桓武天皇の勅により高雄山に灌頂を行う
805
藤原緒嗣の提言で蝦夷征討・平安京造営を中止
806
天台宗公認(年2人の得度認められる)
806
桓武天皇没、平城天皇即位
806
空海、大宰府に到着(大宰府あるいは観世音寺に止住し日本密教を構想)
806
この頃、【三十帖策子】をつくる
806
この頃、空海、博多に最初の密教道場を建立すると伝える(現東長寺)
806
空海、高階遠成に託して「請来目録」を献上
806
最澄、一乗止観院(延暦寺)に円澄ら百余人に円頓大戒を授ける
806
この頃(大同年間)、阿保親王、葛井寺を再建
807
太宰少弐田中氏の母の一周忌に千手観音などの「十三尊曼荼羅」を描かせ願文を起草
807
忌部広成『古語拾遺』を進上
807
一説に、空海、一時入寮するという
807
大嘗祭の雑楽・伎楽に唐物を禁じる
807
京中の巫覡、淫祠を禁じる
807
藤原宗成、伊予親王に平城遷都を謀らせ発覚(11.12、伊予親王・藤原吉子自殺)
808
空海、岩船の阿弥陀堂を灌頂堂として、智泉に伝法灌頂を授けるという(報恩寺へ)
808
空海、雲心寺に北斗七星を勧請、七星如意輪観音を本尊とするという(後の観心寺)
808
この頃、空海、勤操が管理する槙尾山寺に入るという
808
和気弘世、弘文院を設立
808
この頃、智泉、河内国高貴寺に住む(空海とともに高雄山寺に入る)
809
平城天皇が譲位し嵯峨天皇即位、高丘親王が皇太子となる
809
和泉国を巡錫中の空海に高雄山寺入住の勅くだる
809
最澄が『大日経摂念誦随行法』ほか密教経典の借覧を乞う
809
嵯峨天皇の不予に崇道天皇・伊予親王母子の怨霊を怖れ130人の僧を度す
809
空海、嵯峨天皇の勅により、『世説』の秀文を屏風に書いて献じる
809
平城上皇、藤原仲成に平城宮を造営させる
800
ナーランダ寺院に学んだ牟尼室利三蔵、長安の大興善寺に来る
801
杜祐『通典』)
802
牟尼室利三蔵訳『守護国界主陀羅尼経』
804
陸羽『茶経』
804
白居易、教校書郎にあって『崔鶯鶯傳』をつくる
804
空海の乗船、福州赤岸鎮に漂着、大使に代って福州観察使に「大使の福州の観察
使に与うる書」を書く
804
空海、長安に着き宣陽坊の使院に入る
804
最澄、天台山に道邃・行満から天台教学を学び、翛然から禅、順暁から密教を相承
805
徳宗没、順宗即位、王伾、王叔文を首班に政治改革「永貞革新」をめざす(八司馬:韓秦・韓曄・柳宗元・劉禹錫・陳諌・凌准・程異・韋執宜の登用)
805
空海、西明寺に移り、空海と入れ替りに帰国する大安寺の永忠(在唐30年)に迎えられる
805
空海、遣唐大使藤原葛野麻呂に代わり、渤海王子への手紙を書く
805
この頃、空海、解書先生に書の骨法を習い、規矩を悟るという
805
遣唐大使藤原葛野麻呂、長安を去る
805
空海、醴泉寺に般若三蔵・牟尼室利三蔵から梵語・華厳・密教などを学ぶ
805
西明寺の志明・談勝らと共に青龍寺東塔院に恵果を訪ねる
805
空海、青龍寺の恵果より三昧耶戒・受明灌頂(胎蔵界灌頂)を受ける
805
空海、恵果より受明灌頂(金剛界灌頂)を受ける
805
空海、順宗皇帝の命により王羲之の壁書を修復し、五筆和尚と呼ばれるという
805
順宗皇帝、宦官・具文珍の宮廷クーデターによって退位、憲宗皇帝即位
805
空海、恵果より阿闍梨位を得る伝法灌頂を受け、灌頂名「遍照金剛」を授かる
805
仏画師丹青・李真らに金胎の大曼荼羅を描かせる(恵果和尚監修の現図曼荼羅)
805
写経生を集め諸経典書写、伝李真画 [真言五祖像]制作(ニ祖は後に追加、東寺蔵)
805
憲宗皇帝、順宗に仕えた改革派を左遷(王叔文を渝州司戸、王伾を開州司馬、韓泰を虔州刺史、韓曄を池州刺史、柳宗元を邵州刺史、劉禹錫を連州刺史に左遷、白居易は校書郎解任)
805
柳宗元『弔屈原文』、『梓人傳』
805
宮廷内道場の密教僧、粛清される
805
この頃までに、空海の『大日経』の解釈ノート『大日経疏要文記』成る
805
空海の師・恵果、青龍寺東塔院に入寂(六大弟子:金剛一界を伝授された剣南の惟上・河北の義円、胎蔵一界を伝授された新羅の恵日・訶陵の辨弘、金胎両部伝授を伝授された青竜寺の義明・日本の空海)
806
徳宗皇帝、西川節度使(四川西部)、劉闢の東川(四川東部)攻撃に出兵、劉闢を捕らえて斬刑に処す
806
般若三蔵、空海に『大乗理趣六波羅蜜経』を託す
806
空海、諸弟子を代表し恵果和尚追悼文「大唐神都青龍寺故三朝国師灌頂の阿闍梨恵果和尚の碑」を撰す
806
遣唐判官高階遠成に「本国の使に与えて共に帰らんと請う啓」を提出し、20年の留学義務を破って帰国を願い出る
806
前試衛尉寺丞・朱千乗、空海に送別の詩を贈る
806
徳宗皇帝、唐国内に仏寺の新造を禁じる(唐の仏教が陰りはじめる)
806
空海、越州に入り内外の経書を求め、『與越州節度使請内外経書啓』を書く
806
空海、橘逸勢とともに高階達成の船(東シナ海で遭難し修築した第十六次遣唐使船の第四船)で明州を出航
806
この頃(元和年間)、憲宗皇帝、知玄を悟達国師とする
806
白居易、『観刈麦』、『長恨歌』をつくる
806
浙江省に疫病蔓延(住民の半数が死亡という)
806
王伾、配流先の開州に刺殺される
806
韓愈、国子博士拝命、『感春』『秋懐詩』などをつくる
806
李肇『国史補』
806
梅彪『石薬爾雅』
806
茅山に錬丹術を修道した願况没(『貨陽集』)
806
この頃(元和年間)、『元和郡県図誌』編纂
806
この頃(元和年間)、『百声和尚碑』などに「茶」の字出現(これ以前、「荼」の字を用いる)
807
憲宗皇帝、鎮海節度使の李錡を討伐
807
不空の弟子・慧琳撰述『一切経音義』(100巻)
807
懐暉、長安の章教寺毘盧遮那院に入る
807
ウイグルの保義可汗、河原・大原府にマニ教寺院建立を許可される
808
牛僧孺・皇甫湜・李宗閔が進士に合格、失政を批判(宰相の李吉甫と宦官が憲宗に泣訴し、三人の進士を地方に転出)
808
清虚子編『太上経祖金丹秘诀』(火薬の製法、道教の練丹術さかんになる)
808
江西の真如禅寺創建(曹洞宗祖、洞山良价の弟子、道膺曾做が住持する)
809
白居易『新楽府』成る(806〜809)
809
李賀、17才の李賀、詩篇を携えて韓愈を訪問
809
空海、橘逸勢とともに高階達成の船(東シナ海で遭難し修築した第十六次遣唐使船の第四船)で明州を出航
809
柳宗元、永州の西山に遊び『永州八記前四記』をつくる
800
プラティハーラ朝のナーガパタ2世即位(北インド制圧、シヴァ教保護)
800
この頃、ラーシュトラクータ朝ゴーヴィンダ3世の外征(インド大陸西半部を制圧)
800
この頃、ミャンマーにドヴァーラヴァティー王国興隆(サンスクリット・パーリ・モン語の碑文、グプタ朝のサールナート様式の継承、上座部仏教さかん)
800
この頃、パーラ朝ダルマパーラ王、ヴィクラマシーラ寺院建立(金剛乗の拠点として栄える)
800
この頃、倶生乗(サンジャハ・ヤーナ)おこる
800
この頃、ジュニャーニャミトラ『聖般若波羅蜜多理趣百五十偈注釈』(『理趣経』の注釈))
800
この頃、「ヴィシュヌ・プラーナ」成立(ヒンドゥー教に密教理論導入)
800
この頃、ジャワのシャイレーンドラ朝のサングラーマグナンジャヤ王、チャンディ・セウを建立
800
この頃までに、チベットのゾクチェンの原型形成
801
新羅の昭聖王の王妃、桂花夫人、王の冥福を祈って阿弥陀仏造像(阿弥陀仏彫像史跡碑螭首・亀跌が残存)
801
新羅、独立していた耽羅国(済州島)からの朝貢を受ける
802
吐蕃王チソンデツェン、実権を掌握し仏教の支持者を復権
802
海東華厳宗の開祖義湘の法孫・順応とその弟子・理貞により、海印寺創建
802
カンボジアにジャヤヴァルマン2世、アンコール王朝おこす(南ラオスのワットプール地方を拠点とし、ブレンクーレンの丘に転輪聖王の即位儀式を行う)
803
ウイグルの懐信可汗、高昌からマニ教東方大司教区の慕闍(モジャク)を訪れ、高僧を招いてマニ教を国教とする
803
この頃、ベトナムのチャンパ王国ハリバルマン1世即位、唐の安南都護府を攻撃して驩・愛二州(タインホア、ゲアン、ハティン)を領有
804
新羅の哀荘王、日本との国交を回復
804
新羅の哀荘王、八公山(大邱)に把渓寺を建立
805
インダス流域のプラティハーラ朝ナーガバタ2世即位(イスラムの侵攻を防ぎ、ソームナートのシヴァ神殿を復興、ガンジス流域のパーラ朝を攻める)
805
新羅の哀荘王、唐の順宗より、開府儀同三司・検校大尉・使持節大都督・雞林州諸軍事・雞林州刺史・兼持節充寧海軍使・上柱国・新羅王の官爵を受ける
806
ラーシュトラクータ朝ゴーヴィンダ3世、プラティハーラ朝ナーガバタ2世の軍勢を破る(ガンジス流域のパーラ朝のダルマパーラ王の臣従を許す)
808
新羅の法朗、禅宗四祖道信の禅を伝える
809
シーレンドラボーディ、ベーチェク、『大日経』をチベット語訳
809
新羅の金彦昇、哀荘王を殺害し憲徳王に即位(唐の憲宗皇帝、開府儀同三司・検校大尉・持節大都督・雞林州諸軍事・兼持節充寧海軍使・上柱国・新羅王に冊封)
809
新羅の恵哲、海眼坪に海眼寺を創建(現在の曹渓宗銀海寺)
809
吐蕃、霊州から豊州一帯を制圧、ウイグルと唐を結ぶ参天可汗道を遮断
810
この頃、『白氏文集』が初めて日本に伝わる
810
この頃、平城天皇の勅により空海を開基に室戸金剛頂寺を創建するという
810
空海、東大寺別当に任ぜられる
810
空海、実慧に伝法灌頂を授ける
810
橘皇后、智泉に命じ報恩院に皇孫誕生を祈らせる(後の岩船寺)
810
平城上皇、平城遷都を命じる
810
嵯峨天皇、勅を発し『日本紀』の崇道天皇、藤原緒継の記事を改めさせる
810
嵯峨天皇、三関を固め、藤原仲成を拘禁、尚侍藤原薬子を解任(藤原薬子の変)
810
平城上皇出家、藤原仲成誅殺、藤原薬子自殺
810
高丘親王、皇太子を嵯峨天皇の皇子、大伴皇子に譲る
810
空海、伊予親王・藤原吉子の像を造り菩提を弔う
810
高丘親王、東大寺に入り真如と称す
810
高雄山寺に鎮護国家の修行を請う(密法を7日間行う)
810
空海、勅許を得て『仁王経』『守護国界主経』『仏母明王経』などの経典による実修はじめる
810
嵯峨天皇、皇子誕生に報恩院の堂塔を整備、岩船寺とする
811
空海、嵯峨天皇の勅により、嵯峨院に五大明王を刻し秘法を修するという
811
東山の清水寺、鎮護国家の道場となる(後に法相・真言を兼学)
811
陸奥三郡を置く(2月、全国の俘囚の計帖をつくる)
811
最澄、空海に密教の伝授を請う
811
蝦夷の動揺に文室綿麻呂を征夷大将軍に任じ鎮圧させる
811
空海、嵯峨天皇に劉廷之の詩集を献じる
811
空海、嵯峨天皇に徳宗皇帝・王陽詢らの書千部を進献
811
空海、乙訓寺の別当となる
811
大宰府、新羅の政情不安による賊船、難民船の出没を伝える
812
智泉、諸天灌頂神・菩薩灌頂神を書写(智泉様と称される)
812
この頃、空海[孫過庭書譜](御物)を書く
812
沿海諸国に兵を配し、新羅賊船に対する警備を命じる
812
嵯峨天皇、神泉苑に花樹をめで文人に詩を詠ませる(花宴節の始め)
812
最澄、比叡山の総別当を泰範、伝法の座主を円澄とする
812
摂津大輪田泊(現神戸港)の修築開始、空海、監督にあたる
812
泰範、最澄に職を請う書状を出す
812
嵯峨天皇に狸毛筆、『九就草』『王昌齢集』『雑詩集』などを献上([狸毛筆奉献表]を書きそえる)
812
空海、最澄に新仏教の道を提案、この日より2年間、最澄宛の5通の消息を書く([風信帖]にまとめられ、現存3通)
812
最澄、空海に『金剛頂経』の借覧を請う
812
最澄、光定を伴い乙訓寺に空海を訪問
812
高雄山寺に金剛界結縁灌頂壇を築く(和気真綱・和気仲世ら入壇)
812
この頃、東大寺の学匠果隣、空海の弟子となり、高雄山寺の上座を勤める
812
高雄山寺に胎蔵界結緑灌頂壇を開設([灌頂歴名]に最澄・賢栄・泰範ら太僧22人・沙弥37人・近事41人・童子45人と記す)
812
年末、高雄山寺に三綱設置 (杲隣を体毘履・実慧を毘訶羅莎弭・智泉を羯磨那陀とする)
812
最澄、泰範に法華儀軌の学得を嘱望する書を送る
813
空海、『金剛般若経解題』を著す
813
空海、父善通の邸宅近くに長安青龍寺を模して善通寺を建立
813
藤原冬嗣、興福寺南円堂を建立し、空海が鎮壇法を修する
813
永忠のため「永忠和尚、少僧都を辞する表」を書く
813
最澄、弟子の泰範・円澄らを空海のもとに送り密教を学ばせる
813
宮中に『最勝王経』を講義し、清涼殿の論議に列席
813
円澄・泰範・長栄・光定・康教らのため金剛界灌頂壇を開設
813
空海、弟子たちのために『教誡文』作成
813
空海、『仲寿感興詩』を賦し、『文殊讃法身礼方円図』『義注』を撰する
813
最澄、空海に貞聡を遣わし、『理趣釈経』『文殊讃法身礼方円図』『義注』の借覧を請う
813
最澄の借覧を断る「叡山の澄法師の理趣釈経を求むるに答する書」
813
最澄、空海に『文殊讃法身礼方円図』『義注』の借覧を重ねて請う
813
空海、真円律師のために『金光明最勝王経秘密伽陀』を撰す
814
小野峯守ら編集の勅撰詩集『凄雲集』
814
空海、『梵字悉曇字母并釈義』『古今文字讃』『古今篆隷文体』」を著す
814
嵯峨天皇、神泉苑に文人らと詩を賦す
814
空海、日光開山勝道上人のために『沙門勝道山水を歴て玄球を瑩くの碑』を撰す
815
陸奥守に赴任する小野峯守に、空海、『野陸州に贈る歌井序、雑言』を贈る
815
空海、渤海国大使王孝廉から書状・新詩を贈られ返書を書く
815
対馬に新羅訳語を置く(新羅船の侵入・帰化・騒擾多い)
815
この頃、空海『弁顕密二教諭』を著述
815
渤海国使王孝廉、空海に書状・新詩一章を送り、空海返書を書く
815
陸奥・出羽の馬を国家管理(権家・富家の馬購入を禁止)
815
空海「諸の有縁の衆を勧めて秘法の法蔵を写し奉るべき文」(東国の甲斐守・常陸守・会津の徳一・下野の広智禅師らに弟子の康守を派遣し、密教経典の書写を要請)
815
永忠、梵釈寺で嵯峨天皇に茶を献じる
815
畿内・近江・丹波・播磨に茶を植えさせ(毎年、献上させる)
815
最澄、東国布教に出京、上野・下野に『法華経』2千部(1万6千巻)を書写
815
渤海国使王孝廉、京都に入り、貢物を献じる
815
空海、式部丞藤原仲守のために願文を撰する
816
最澄『依憑天台集』(真言宗を批判)
816
最澄、泰範に法華・真言同一の主旨を述べ比叡山に戻るよう促す書状を送る
816
空海、泰範に代筆して比叡山の最澄に手紙を送り、顕密の優劣を論じる
816
最澄、円仁を連れて東国巡遊に出る(全国の6箇所に宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置き、地方教化・国利安福の中心地とする企図)
816
空海、高野山の下賜を嵯峨天皇に願い出る(7.7、勅許される)
816
空海、高雄山寺に勤操とその弟子に三昧耶戒・金胎両部の灌頂を授ける
817
空海、和泉国願成就寺(現慈眼院)を整備(空海造営の金堂・多宝塔・塔内[大日如来]現存)
817
空海、高野山に泰範・実慧を派遣、草庵を結び開創準備(現在の御影堂・廿一間僧坊)
817
この頃、空海、九度山に弥勒堂・高野山政所を建立(後の慈尊院)
817
東大寺円蔵の『実相般若経』の疑義に答える(『実相般若経答釈』)
818
この頃以前、広隆寺[不空羂索観音像】成る
818
この頃、空海『般若心経秘鍵』
818
『文華秀麗集』成る
818
泰河勝建立の広隆寺炎上
818
入朝した新羅僧に「新羅の道者に与える詩並に書状」
818
藤原藤嗣の周忌に薬師如来・遍照次侍菩薩を造刻
818
空海、高野山に登り経営を指図(狩場明神が白黒の犬を連れて案内したという)
819
この頃、空海、『秘密曼荼羅付法伝』を撰述
819
空海、東大寺に「金光明四天王護国之寺の額」を揮毫
819
空海、高野山伽藍建立のため、「高野建立の初の結界時啓白文」を書き、紀百継らに高野山開創の援助を乞う
819
空海、高野山の鎮守明神社を建立(丹生都比売神・狩場明神を祀る)、高野山の造営に着手(七里結界・伽藍造営開始)
819
勅により中務省(後の真言院)に入住
810
柳公綽、『太医箴』を献上して憲宗皇帝を諫める
810
元稹、宦官と争い江陵に左遷
810
李賀、父の諱のために科挙の受験を拒否される(韓愈、『諱の弁』を表して反論)
810
令狐楚書『唐成紀王祭北嶽碣』
810
新羅王子金憲章来朝、順宗の冥福を祈る仏像を献じ方物を貢す(これを記念し、張九齢が「敕新羅王金重熙書」を作す)
810
澄観、国師統となり、僧統清涼国師と号す
810
宗密、襄漢の恢覚寺に澄観の弟子の霊峰から『華厳経疏』を学ぶ
810
この頃、朗州司馬の任にあった劉禹錫『秦娘詩』をつくる
810
この頃(元和年間)、林宝撰『元和姓纂』(姓氏の乱れを正そうとする)
810
新羅の張保皐(張宝高・弓福)、徐州武寧軍に入って高句麗出身の北方軍閥、李正已と戦う(徐州節度使配下の軍中小将となり、赤山法花院建立)
811
宗密、澄観に師事する(2年仕えて華厳を究める)
811
般若三蔵の弟子となった日本僧の霊仙、三蔵法師の号を与えられる(仏教の秘伝の流出を怖れ、帰国を禁じられる)
812
李賀、沈亜之と交遊
812
柳宗元、永州西山に『永州八記後四記』を著す(『永州八記』成る)
812
憲宗皇帝、魏博節度使の田興、唐鄧節度使の李愬を服属させ、淮西の吴元済の反乱を鎮圧
813
清徹『四分律記』(20巻)
813
李吉甫『元和郡県図誌』
813
李公佐、瓦官寺で謝小娥に会い『謝小娥伝』を書く
813
李賀、「官卑しく復た何の益有らん」の詩句を詠じて故郷に帰る(『感諷』『蘇小小歌』『神弦曲』などを残す)
814
淮西節度使・呉元済反乱(節度使の分立多い)
814
禅宗の『百丈清規』を創った百丈懐海没
814
李公佐、洞庭湖に遊ぶ包山に登る(この頃、『古岳瀆経』成るか)
815
裴度、宰相となり、自ら軍を率いて節度使の反乱を鎮定
815
刺客により宰相武元衡没、御史中丞裴度、重傷を負う
815
盧仝、嵩山の少室山に隠棲し学問、作詩にふけり、盧仝七椀茶を工夫(『走筆謝孟諫議寄新茶』をつくる)
816
白居易、江州に『琵琶行』をつくる
816
劉禹錫、湖南の朗州に左遷を解かれ長安に戻る(湖南の民謡を改作し、『竹枝詞』を公表)
816
『竹枝詞』が政道批判として、劉禹錫、再び左遷される
816
宗密、終南山智炬寺に住持し『円覚経科文』『円覚経纂要』を撰す(その後、のちに長安の興禅寺に住持)
817
白居易、廬山の香爐峰の麓に草堂落成(俗世を離れて仏教、道教に遊ぶ)
817
敦煌に『乗恩等重修弥勒仏像帖』成る
817
般若三蔵訳『大乗本生心地観経』(日本僧の霊仙、訳経の助手を務める)
817
白居易、盧山に草堂を建てる(香炉峯の詩を詠む)
817
裴度・韓愈、准西節度使・呉元済の乱を鎮圧(唐王朝、一時安定)
817
景徳鎮を守備する浮梁古城建設(八卦型の城郭都市、越州の茶器の売買に栄える)
818
この頃までに、権徳輿撰『唐大興善寺故大宏教大弁正三蔵和尚影堂碑名并序』(不空の密教の法流を示す)
818
白居易、盧山東林寺の西廊を造る
818
洪州百丈山に百丈懐海の塔建立
818
憲宗皇帝の元和中興(淄青十二州を収復、藩鎮の跋扈を鎮める)
818
憲宗皇帝、方士の柳泌に天台山の”霊草”を採集させ、興唐観に長生薬を煉すという
818
日本僧金剛三昧、峨眉山に登る(その後、インドに入る)
819
憲宗皇帝、鳳翔法門寺の仏骨を宮中に迎え供養する
819
韓愈『仏骨論表』を上奏し、潮州に左遷
810
パーラ朝のデーヴァパーラ王即位(ヴィクラマシーラ寺院、ナーランダー僧院などに寄進、パーラ朝の仏教美術隆盛)
810
新羅の憲徳王、王子の金憲章を唐に送って、憲宗に金銀製の仏像などを献上
810
この頃、ジャイナ教徒がアラビア海の交易商人として活躍(ジャイナ教の寺院活性化)
810
吐蕃のサムエー寺の落慶法要(パドマサンバヴァ(蓮華生)、ヴィマラ・ミトラ、シャーンタラクシタ(寂護)、ヴァイローチァナら、サンスクリット語からチベット語への仏教経典の翻訳事業を監督)
810
この頃、吐蕃王チソンデツェン、王妃・同盟小国の王子・大臣を招集し、仏教信仰を誓約させる(チベットの仏教国教化)
810
この頃、吐蕃王チソンデツェン、僧官のタンボに寺院を経営させ、高僧のボチャンボに大臣を監督させ、国政を司らせる制度を施行
810
この頃から、パドマサンバヴァ(蓮華生)、高度な悟りを示す経典をテルマ(埋蔵経)としてチベット各地に隠したという(チベット密教、後にニンマ派を形成)
810
この頃、パドマサンバヴァ(蓮華生)、サムエー寺を去って羅刹国に赴くという
810
「新羅昌寧塔金堂治成文記碑」(昌寧仁陽寺、および関連する寺院の梵鐘・仏塔・仏像・金堂の建立年代を記す)
811
ウイグル・唐連合軍、北庭都護府奪還、ジュンガル盆地制圧にカルルクのウイグル服属(吐蕃の西域制圧体制崩れる)
812
ジャワのシャレーインドラ朝、サングラーマグナンジャヤ王即位
812
新羅、渤海に使者を派遣、北方の動向を伺う
813
渤海王の大言義、唐に大使節団を送り、渤海製の金銀の仏像を献上
813
ウイグル、漠南に吐蕃軍を破り、河西まで追撃
813
新羅に馬祖道一の門下、曹渓南禅の西堂智道の禅宗を伝える(雪岳山麓の陳田寺に禅門を開く:韓国の曹渓宗へ)
814
チベット王ティデソンツェン、欽定決定訳語制定(仏典翻訳の訳語統一、チベット語の語句の整理を目的とし、声明学との合致・仏教経典の意味に合致・吐蕃人の理解という仏典翻訳の三大原則決定)
814
新羅の馬耳山(鎮安)に金塘寺建立(雨乞いの神仏信仰)
815
この頃から、新羅の農民反乱激化、内乱状態となる
815
吐蕃王ティ・ラルパチェン即位(吐蕃の最盛期を現出)
814
インド西岸のラーシュトラクータ朝アモーガヴァルシャ1世即位(64年間の平和、マーニヤケータの都市建設、サンスクリット語・カンナダ語の文芸栄える、貿易商人のジャイナ教を保護)
816
唐との和平をはかる南詔王の勧龍盛、王嵯巓のクーデターに倒れる(南詔の独立性高まる)
816
この頃から、エローラ石窟、第30窟〜第34窟のジャイナ教石窟の開削開始
806
渤海の大仁秀、宣王に即位
818
渤海の宣王、新羅の憲徳王と王族の金憲昌派の対立を睨んで出兵
818
渤海の宣王、即位後、唐に蕃礼を欠かさず、2年ごとに日本に使節を派遣
819
新羅の憲徳王、山東の李師道の反乱に、憲宗の詔勅に応えて将軍金雄元ら3万の援軍兵を派遣