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第十九章 兜率天[とそつてん]へ

第十九章・写真  空海という人物を語るとき、人はさまざまに言います。

 矛盾の人、闘う人、多面体の人、宇宙飛行士、行動の人と。

 現実的、社会的、都会的な人間、その反面の冥想的、孤独的、田舎の人間としての空海。

 空海はこの二面性の矛盾に悩みながらも、みごとにそれを総合した人でした。そして優れた現世的才能である書道や文章の達人で芸術家であり、社交の才をもち人間統率にも天分をもつ人でした。

 都で国家鎮護、衆生救済の密教活動を続ける一方、「山に入らむ」「山に帰らむ」ことを強く求め、高野山に帰り自然の中で修行と瞑想の行を繰り返しまし た。生涯に渡る多彩な文筆活動、密教書の著述、土木技術、医学、気象学、薬学、天文学、地質学、仏画仏師の指導、筆墨の製作、庶民教育など、あらゆる文化 活動を通じて人々を空海の理想である密厳浄土の建設に誘いました。

 しかも当時の最先端の知識をもって仏教以外に実に多元的な活動を続けました。

 この空海も天長九年(八三一)、「悪瘡」が体にでき、恢復の徴が見えないのを理由に、朝廷からの大僧都位の解任を希望しつつも永遠の密教流布を誓ったのでした。

 翌年、万燈万華会[まんどうまんげえ]の願文を草し法会を行いました。

 この願文の中で空海は「虚空尽き衆生尽き、涅槃尽きなば我が願いも尽きむ」と永遠の誓願を述べています。

 そして晩年入定に至るまで断穀修行をつづけました。それを門徒が心配しましたが、「命すでに涯りあり。強いて留むるべからず。唯だ尽期を待たむ。もし時の至るを知らば必ず山に入らむ」と言い放ちます。

 入滅の時刻も予言したことになっています。「吾れ入滅せむと擬するは今年(承和二年−八三五)三月二十一日寅の刻なり。もろもろの弟子等悲泣することなかれ......吾れ生年六十二、臘四十一なり」。

 そして五十六億七千万年後の暁に竜華樹の下で、弥勒菩薩が成道するまでの間、一切衆生を天上界より見守って弥勒とともに兜率天から下生する、という誓願が述べられていたといわれています。

 空海の入定に対し、生前交誼の深かった嵯峨天皇は、「得道の高僧氷玉清し、杯[はい](船)に乗じ、錫[せき]を飛ばして滄溟[そうめい]を渡る化身世に住す何ぞ久しからむ......」という七言十六句の「海上人を哭す」という御製の詩を下賜して、その死を悼みました。


◎弘法大師号の宣旨が下ったのは醍醐天皇の延喜二十一年(九二一)だったのです。

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