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032 大宰府「鴻臚館」

 この都城には左右十二筋の南北道路が走り、東西には二十二筋の道路が通じていて、精密な条坊をなしていた。その朱雀大路にあたる中央道路の奥に、内裏に相当する都督府がある。目の前にそびえている都府楼のいらかが、その位置を示していた。
 空海らが、このまま客舎である鴻臚館に入ったことは、疑いを容れない。どの時期の遣唐使の一行も、そのようにしていたからである。
 大宰府では、数旬、滞留した。
(司馬遼太郎『空海の風景』)

 司馬遼太郎は、大宰府鴻臚館が「那ノ津」から東南に約20㎞離れた大宰府政庁の敷地内にあると思っていたらしい。しかし昭和62年(1987)12月、平和台球場の改修工事にともなう発掘調査の際、大宰府鴻臚館の遺構が地中に残っていることが確認され、平成11年度から発掘調査が開始されている。大宰府鴻臚館が博多湾のすぐ近くにあったという発見はまだ存命中の司馬の耳にも達したはずで、司馬はどんな思いで聞いたであろう。

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 空海の時代、平安京羅城門の左右と「難波ノ津」と「那ノ津」の三ヶ所に鴻臚館が置かれていた。後に、嵯峨天皇が密教化による造営を空海に託す東寺は、桓武が建立した当初は鴻臚寺つまり京の迎賓館のあったところであった。
 大宰府鴻臚館は史書によると、承和5年(838)、円仁が加わった第十七次遣唐使の副使であった小野篁が「大宰鴻臚館」で唐人の沈道古と漢詩を和詠するという記述が初出である。円仁の『入唐求法巡礼行記』には「鴻臚館」とある。
 古くは筑紫館として早くから唐や新羅の外交使節をもてなしたり、大陸や朝鮮半島へ向かう遣唐使や遣新羅使や留学生の滞留施設として利用されていた。持統2年(688)には、新羅国使全霜林をこの筑紫館で饗応したことが『日本書紀』に見えている。空海らが宿泊した頃はおそらく鴻臚館といわれるようになっていたであろう。

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 寛平6年(894)、菅原道真によって遣唐使が廃止された後は、唐の商人の接待や外国人の入国管理や交易外交の場にあてられた。平和台球場跡地の発掘現場から多量の瓦類のほか中国越州窯の青磁や長沙窯の磁器や荊窯の白磁など、さらにイスラム陶器や西アジアのガラス器も出土している。
 11世紀になると「大宋国商客宿坊」と呼ばれるようになるが、放火によってすべてを焼失した後は寛治5年(1091)に宋の商客の李居簡が写経をしたというのが史書に残る最後の記録となった。

 空海はこの鴻臚館で数日休息をとった後、さっそく橘逸勢などを誘って大宰府の政庁をたずねたと思われる。逸勢は嵯峨天皇の皇后橘嘉智子の従兄弟で朝廷では能筆で有名だった。後に、空海・嵯峨とともに日本三筆と呼ばれる。二人とも中央の朝廷に通じていたから西国のはての地方行政機関に出向くことはとくに苦でもなかった。首尾よく、大宰帥とも面談に及んだかもしれない。帥らはかえって京や南都の様子を聞きたがったであろう。この時の政庁訪問で空海は田中少弐(大宰府次官)という好人物と出会ったと思われる。帰国後この地で過ごす間この少弐とは公私ともに親交を結ぶことになる。
 さらに空海は、政庁のすぐ隣にある観世音寺に出向き、広大な伽藍のなかから戒壇院をさがしそこにまっすぐ詣でたであろう。そして金堂を拝し伽藍を一巡して僧坊に回った。おそらく、奈良の勤操から住持に宛てた紹介状をたずさえて行ったと思われる。
 「那ノ津」での滞留は10日程度と推定されるが、その間空海は毎日のようにこの寺に通ったにちがいない。後に国禁をやぶり予定より早く帰国した空海はこの寺の「客僧房」で2年近く止宿させてもらうことになる。この時に住持ほか幾人かの僧と親しくなったのではなかろうか。

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大宰府政庁絵図
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筑紫観世音寺絵図

 この寺に行く時は、同行の霊仙もいっしょだったと思われる。霊仙は空海より15才年配であったが、南都の興福寺法相を修めた学僧だった。おそらく徳一らとともに興福寺の法相を担った人であろう。またサンスクリットをよく解したといわれ、長安では醴泉寺の般若三蔵のもとで810年に『大乗本生心地観経』を漢訳する際筆受と訳語をつとめた。長安における学績が顕著だったため弘仁2年(811)に三蔵の号を与えられ、天長2年(825)には淳和天皇から黄金が贈られた。その返礼として仏舎利や仏典を日本へ送ったという。
 霊仙は憲宗の外護を受けるほどの立場をえたらしいが、憲宗が仏教に反感をもつ勢力に暗殺されると自らも五台山に逃げた。しかし827年、霊仙の功績や名声を妬む僧により五台山の南の霊境寺の浴室で毒殺されたといわれている。開成5年(840)、第十七次遣唐使船で入唐をした円仁が霊境寺でその最期の様子を聞いたという。

 霊仙の事績から、当時南都のどこか(おそらく大安寺)でサンスクリットを教えていた渡来僧がいた確立が高いと私は思っている。空海といい、霊仙といい、長安ではじめてサンスクリットを学んだとは思えない。霊仙の語学力は、入唐後6年の810年、『大乗本生心地観経』の筆受と訳語をつとめるほどであった。それほどのサンスクリットと漢訳の語彙は6年では無理である。2人ともおそらく机を並べて、南都で相当に予習をしていたとみるべきである。

 観世音寺では最澄に偶然出会うこともあったろう。最澄はすでに1年もここで過ごしていたであろうから、乗船のため荷物とともに鴻臚館に移ったとはいえ、出航までの間やはりここで費やす時間が多かったに相違ない。しかし鴻臚館での日々、最澄と空海は敢えて交わる気配はなかった。たぶん、最澄は空海のことを何となく不気味に思いつづけていたのではないか。

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