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064 国家鎮護の立体曼荼羅

 桓武天皇は南都の国家仏教勢力に手を焼き、その力の及ばない長岡京に遷都したがこれを中途で断念し、延暦13年(794)平安京に都を遷した。

 平安京の造営にあたり、桓武は延暦15年(796)、朱雀大路の南端つまり都城の玄関口である羅城門の左右に西寺東寺の二つの官寺を建立し、国家鎮護の寺とするよう命じた。西寺は都城の右京(西側)と西国を、東寺は左京(東側)と東国を護るという意図である。

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平安京復元

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西寺跡
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羅城門跡

 桓武は、平安京遷都(794)から大同元年(806)3月に薨去するまでの12年、南都の仏教勢力に対抗するため比叡山の最澄を庇護したのだったが、この新しい国家鎮護の寺を最澄に託さなかった。この時期の桓武にかぎって南都七官大寺から住持を迎えることはあり得ない。一体、創建の頃の東寺は国家鎮護の寺といいながらどんな寺であったのか。実際は、外国からの使節を宿泊させたり接待をするための迎賓館(鴻臚寺)だったともいわれる。

 東寺の伽藍様式はおそらく奈良の官大寺と変りなく、薬師如来をご本尊とする金堂や僧たちが経論を修学論義する講堂を中心に、南大門・中門・回廊・食堂などが建ち並ぶものであっただろう。しかし、この新しい国家鎮護の寺は造営に手間取り空海が入る頃も未完成だったろう。大伽藍には必須の五重塔もなかった。完成まで87年かかったという。結局のところ、新都にふさわしい国家鎮護の寺になるには20年という時間と空海という異才と密教という新仏教を待つほかなかった。

 ともかくも弘仁14年(823)の正月、桓武の遺業を継ぐかのように、嵯峨がこの東寺を空海に託し密教による国家鎮護の法城とするよう要請をした。嵯峨はほどなく春4月に退位し異母帝の淳和にあとを譲る。
 空海はこの寺を「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」(教王護国寺)と名づけ、早速10月に密教を学ぶ者の経・律・論の三学を規定した『真言所学経律論目録』(『三学録』)を朝廷に提出し、将来を担うべき僧50名を東寺に住まわせて密教を修学させた。

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 この時期、空海はまさに多忙だった。高野山の造営に辛苦するなか、10月に宮中の皇后院において「息災法」を修し、12月には清涼殿で「大通方広法」を行い、国家の中枢における密教流布が本格化している。
 さらに、翌天長元年(824)2月には神泉苑で請雨の祈祷に臨んで西寺の主守敏を下し、3月には小僧都に任ぜられて僧綱所の一員となり、6月には正式に東寺の造営別当に任ぜられた。
 また明くる年の天長2年(825)には東寺講堂の建立に着手し、『金剛頂経』『仁王経』に基づく「護国マンダラ」(羯磨曼荼羅)の建立に奔走し、つづいて翌天長3年(826)には五重塔建造に着手する。その翌年の天長4年正月には、淳和の病気平癒のために西寺とともに「薬師悔過」を修した。

 そうこうするうち、空海は天長8年(831)に病(瘡)をえ、翌年には高雄山寺の経営を實慧真済にまかせて高野山に引きこもり、翌々年の天長10年(833)には高野山を真然らにゆだね、静かな三昧行の日々になっていた。東寺講堂は承和6年(839)に落成したが、それを見届けることなく空海はその4年前(承和2年(835))に入定している。
 空海が東寺の講堂建設に直接かかわれたのはおそらくは企画立案の段階で、発願の天長2年(825)から東寺の東に日本初の庶民の子弟のための私立学校綜藝種智院を創設し「綜藝種智院式并序」を著した天長5年(828)まで、あるいは高雄山寺を弟子たちに託し高野山に隠棲をする天長9年(832)までの3年~5年くらいではなかったか。その後は高野山を出て宮中に出仕する際に東寺に止宿し指揮をとったかもしれないが、空海に残された時間はあまりなかった。

 だがこの講堂は、日本の都平安京に出現したはじめての空海密教様式による国家鎮護の殿堂にちがいはなかった。完成した講堂のなかに入ったとたん朝廷の貴族や南都の僧らはみな、一様に驚嘆の声をあげたにちがいない。講堂に空海が仕掛けたのは、須弥壇の上に金剛界「五仏」とそれに対応する「五菩薩」「五大明王」および「四天王」と「梵天」「帝釈天」の21の彫像が立ち並ぶ「立体マンダラ」であった。

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 金剛界「五仏」つまり「五智如来」(金剛界大日・阿閦・宝生・無量寿・不空成就、「自性輪身」群)を壇上中央に置き、その右側には「五仏」に対応する「五菩薩」(金剛波羅蜜多・金剛薩埵・金剛宝・金剛法・金剛業の「正法輪身」群)、左側には「五大明王」(不動・金剛夜叉・降三世・軍荼利・大威徳の「教令輪身」群)を並べ、さらに四方の端には「四天王」(持国天・増長天・広目天・多聞天)、左右の辺中ほどには「梵天」「帝釈天」を配置したのである。
 まさに、法界の仏たちがこの世に姿を現しこの国を守護するイメージをビジュアル化して見せたのだ。『金剛頂経』や『仁王経』の経説をベースに護国的編集を加え空海がオリジナル構想したのである。

 この講堂のほか五重塔にも空海のオリジナルな構想がある。塔の一層部分には、芯柱を金剛界大日にみたて、須弥壇の上、四角の芯柱の四面(四方)に阿閦・宝生・無量寿・不空成就の「四仏(如来)」、その間に金剛嬉・金剛鬘・金剛歌・金剛舞、金剛香・金剛華・金剛燈・金剛塗香の「八供養菩薩」の尊像が配置されている。これも奈良の官大寺に同じ五重塔がここで密教(法界体性塔)化されている。

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 講堂・五重塔にくらべ、本尊薬師如来と日光・月光の両脇侍菩薩および十二神将の像を祀る金堂は、空海もそのままにしたのか南都の官大寺と同じである。

 東寺にはこのほか、空海の住房があった西院に大師堂(御影堂)、その南面に本坊をはさんで「後七日御修法」が行われる潅頂院がある。

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大師堂(御影堂)
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潅頂院
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後七日御修法に向う僧列

 西寺は東寺よりずっと造営が遅れたらしい。その上に、約20年後の弘仁14年(823)、東寺が嵯峨天皇から空海に託された際、西寺は守敏という三論法相を学び密教を身につけたという僧に託されたのだが、守敏は何ごとにつけて空海と対立し、翌天長元年(824)2月、神泉苑での雨乞いの祈祷で空海に破れて(失意が高じ空海に向けて矢を放ったところ地蔵菩薩に阻止されたという)以後、守敏の信用失墜とともに西寺もふるわなくなったといわれている。現在は、往時の金堂礎石の一部が残るのみの公園(西寺公園)になっていて、昔の威容を偲ぶ便もない。

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