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060 聖俗往還の密教イニシエーション

 高野山造営にあたり、空海たちは慈尊院丹生都比売神社という二つの拠点から山上に向い、またそこに戻ることをくり返したであろう。

 そのことから推して、空海らが上り下りした道は今「町石道」となっている「高野街道西口」、通称「大門口」ルートにプラス三谷坂(勅使坂)の上部であったろうと思われる。
 この道は、史録に確かな事例として、治安3年(1023)関白藤原道長が登り、寛治2年(1088)白河上皇も登っている。その第4皇子で仁和寺第4世門跡の覚法法親王も、この2道を使って高野山に詣でている。
 道長が参詣した頃は、寺領もわずかで東寺の末寺に甘んじ山奥の荒れ寺のように寂れていたらしいが、道長の子で関白太政大臣となって藤原氏を栄華に導いた藤原頼道をはじめ摂関家や法親王が参詣するにつれ、大師の眠る霊山として次第に活気をとり戻していった。時を経ても、藤原氏一族による空海への帰依・サポートがそこに見える。
 おそらくこの2道は、空海らが高野山に入る頃には主要な登山道として通じていたはずで、もともとは丹生一族や山の民が狩猟や山の幸や水脈確保や水銀採掘などのために古くから整備してきた生活道であっただろう。

 後世、高野山に上る参詣道は7本にもなった。「高野七口」といわれる。江戸時代の古地図などでわかる。
「高野七口」のうちで、「京街道」「京・大阪みち」「東高野街道」「裏街道」などとよばれる「不動坂口」は、奈良や京・大阪方面からきて橋本で紀ノ川を渡り、学文路から極楽橋を経て「大門」をめざす最短コースで、江戸期から大正時代にかけては茶屋や宿屋が軒を連ね、一般庶民の往来がもっとも多かったといわれている。昔は7本の道それぞれに「女人堂」があって、明治5年までは女人禁制の故に女性はそこまでしか入れなかった。現存する「女人堂」はこの「不動坂口」のものである。

 「龍神街道」とよばれる「湯川口」は、高野山の南の有田や龍神温泉方面から湯川・護摩壇山を経て花園そして「大門」への道で「龍神口」「保田口」「梁瀬口」ともいわれる。

 「熊野街道」とよばれる「大滝口」は、熊野本宮方面から十津川村・野迫川村を経ていくつもの峠を越え「大門」をめざす熊野古道の一つ「小辺路」のことである。最近世界遺産になったことでこの道が人の耳目を集めている。「熊野口」ともいわれる。

 「熊野街道」の「相の浦口」は、「龍神口」と「大滝口」の中間のルートで有田や龍神方面から相の浦を経由して今の「霊宝館」のところに出るルート。昔から一番参詣者の少なかった道である。

 「大峰街道」とよばれる「東口」は、文字通り大峰山と高野山を結ぶ修験行者道で大峰山の山上ヶ岳から洞川・天川村阪本を経て今井辻・陣ヶ峰・桜峠そして「中の橋」に出るルート。「大峰口」ともいわれる。

 「大和街道」といわれる「黒河(くろこ)口」は、橋本筋から紀ノ川を渡り、賢堂・市平・久保・黒河・平などの小集落を通り、「奥の院」の北東に連なる摩尼山と楊柳山の間の黒河峠を越え、「奥の院」の裏手の三本杉のところへ出るルート。「大和口」「粉撞口」ともいわれる。

 そして「高野街道西口」ともいわれる「大門口」が、慈尊院から天野を経て山上の「大門」をめざすルート。これが昔の表参道で、町石道(胎蔵曼荼羅の分)になっている。

 高野山は空海の入定後何度か衰微の時期があった。そのたびにそれぞれの参道も荒れたことであろう。
 この町石道は、もともと空海が木製の五輪塔婆を建てたものといわれているが、鎌倉時代の文永2年(1265)に高野山遍照光院の覚斅(かっきょう)上人が1町ごとに石の五輪塔を建てることを発願し、鎌倉幕府の要人であった安達泰盛らの勧進によって後嵯峨上皇や幕府の有力者であった北条政村時宗らの援助も集まり、200余基が発願20年後の弘安8年(1285)に完成したものである。この表参道の一大整備プロジェクトによって、寺勢かならずしも芳しくなかった高野山はふたたび隆盛に向った。

 町石道には二つのルートがある。一つは「壇上伽藍」から「大門」を経て慈尊院までの山道20㎞。もう一つは「壇上伽藍」から金剛峯寺を経て奥の院の「御廟」に至る山上平坦の道の4㎞である。

 「壇上伽藍」から慈尊院までの山道には、「根本大塔」の近くの「中門」跡西側の杉林のなかにある1町石から1町(108m)ごとに慈尊院境内の石段途中にある180町石まで、180基の五輪塔が建っている。この180基の五輪塔のそれぞれに胎蔵曼荼羅の180尊の梵字(種字)が刻まれている。このほか、途中1里ごとに1本、合計で4本の里石が建てられていて、それを加えて184本である。

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壇上伽藍-慈尊院、1町石
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壇上伽藍-慈尊院、
二つ鳥居付近からの天野の里
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壇上伽藍-慈尊院、
180町石

 「壇上伽藍」から奥の院「御廟」までの道には、「根本大塔」の東の石段下にある「愛染堂」の前の1町石から1町ごとに奥の院「御廟」(玉垣内)の36町石まで、36基の五輪塔が建っている。これらのそれぞれに金剛界曼荼羅37尊の梵字(種字)が刻まれている。しかし古来、本尊大日如来の分の1基がない。
 この理由は、「元来三十七基造立したというのが通説になっているが、三十六町石は御所芝に建てられており、三十七町石を建てていたとは考え難い。従って三十七基造立したとすれば、中門(「大塔」近くに「中門跡」がある)の前に基石を建立して、それを大日如来に当てたものか。又は町石三十六基全体をして大日如来に当てたものと考えられる」(『高野山町石道の研究』愛甲昇寛)と言われている。

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壇上伽藍-奥の院、1町石
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壇上伽藍-奥の院、8町石
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壇上伽藍-奥の院、36町石

 五輪塔に刻まれている文字をよく観察すると、鎌倉時代の年号のほか施主名や「為○○○○」という為書きがあり、親族縁者の供養や仏法興隆の祈願を目的としたことがうかがえる。施主には太上天皇から貴族・高級武士・僧侶の名が見え、北条家の執権政治に名を馳せた安達泰盛など鎌倉幕府中枢の人の名が目立つ。2道をあわせて220基。町石道は金剛界・胎蔵界のすべての仏たちを動員したマンダラの道である。
この町石道は覚斅上人をはじめ山上の高僧たちが考案したといわれるが、高野山への参道に一町ごとの道標を建てるというプロジェクトディベロッパーとしての知力ばかりでなく、高位高官の人たちを動かす教化力や、彼らを単なる外護者に終らせず両部諸尊の曼荼羅海会に引き込む教理的な構想力(潅頂の応用)には感嘆するほかない。

 さらに言えば、吉野・熊野・高野と三つの「野」に象徴される古代宗教のトライアングルをなすこの地域は、「ヤマ」と「サト」の観念が古くから濃厚にあったところである。全行程を俗(人間、サト)から聖(大日如来、ヤマ)へ、聖(大日如来、ヤマ)から俗(人間、サト)へ往来往還するヤマ・サトの道でもあった。
 人々はこの町石道を登って山上他界で世俗の塵を払い、生まれ変わって六根清浄となりサトに下りた。そしてヤマでその身についた霊気をサトにもたらし、サトでの暮しのなかでヤマへの信仰とそのご利益を説いたであろう。これを密教的に言えば、町石道を往還することは金剛・胎蔵両曼荼羅の諸尊の海会にこの身を投帰し、大日如来のまばゆい遍照光に照射されて海会の諸尊と無二一体となる、イニシエーションの儀礼だったとも言える。

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