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005 神童の霊威的気質

 言葉の異能のほかに真魚は、「神の御子」らしく幼少の頃から神威・霊威といったものを自らかもし出して周囲を納得させ、また神威・霊威にさとく、深山幽谷のなかあるいは洞窟滝水のなかにそれを感じとる超能力に長けていたと思われる。
 さらに言うなら、後に大学寮を出奔して山林に入り道術雑密虚空蔵求聞持法の山岳修行の世界に飛び込むのに躊躇しなかったのには、生まれながらにして神威・霊威にさとい霊的な気質が手伝っていたことは想像に難くない。

 今三豊市となった旧三野町大見の弥谷山の山ふところに四国霊場第71番弥谷寺がある。予讃線で「海岸寺」の次の「津島」のところから県道と分かれよく整備された山道をたどると、ほどなく道の駅「ふれあいパークみの」の遊園地と娯楽施設が目に飛びこんでくる。
 大型の遍路バスはここの駐車場に止め歩いてかなり急な山道や階段を登る。ここは四国霊場の難所の一つである。歩き遍路の場合は市街地からここまで入るのに難儀なのに、ここからがまた一層大変なのである。
 しかし、自家用車やタクシーの場合は有料ながら舗装道路ができていて、大師堂直下の108段の階段手前までつけられるようになっている。この階段を登った正面にもう一つ石段があり、その上に大師堂がある。そこから左手に本坊、右手に参道があり、多宝塔・雨霧城主五輪塔・鐘楼・観音堂・十王堂・護摩堂・通夜堂・磨崖仏・本堂へとつづく。

 この山に7才の頃の空海がしばしば来て学行を積んだといわれる。大師堂の奥の間となっている「獅子窟」は、唐の長安から帰国した空海が大同2年(807)にここにきて虚空蔵求聞持法を修していたところ、空中から突如五本の宝剣が降ってきて同時に金剛蔵王権現が現れ、そのお告げに従い千手観音像を自ら造顕して中央の峰に奉じたという。ここも善通寺海岸寺と同様、大同2年の草創となっている。
 この弥谷寺の一番高所に建つ本堂から、眼下の松山道の向うに五岳山の一つの我拝師山(481m)7合目付近の出釈迦寺奥の院禅定寺と捨身ヶ岳のあたりが遠望できる。

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大師堂奥の獅子窟
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捨身ヶ岳

少年期の空海が、

   仏法に入り多くの衆生を救わんとするわが願い、成就するものならば
   釈迦如来があらわれて証明を、成就しなければ一命を捨て諸仏に供養する。

と唱えて断崖から身を投げたところ、落ちてゆく空海の下の方に紫雲がわき起り大光明とともに蓮華の花に座した釈迦如来が現れて空海を抱きしめ「一生成仏」と宣したという。空海特有の奇瑞伝説である。

 弥谷寺は本来下から歩いて登ることになっている。ここは昔から死者の霊魂が帰り集まって住む山といわれ、山中の岩崖の五輪塔に遺骸や遺髪を葬る「弥谷参り」で名をなしてきた。
 そのなごりか、遍路道つまり参道の道端には今では磨耗し変形してしまった無縁仏の石碑が残っていて往時を偲ばせる。つづら折の道を登りつめると左手に「仰ぎ堂」、さらに坂道を登り階段が見えるあたりが「札の辻」と呼ばれる往時の高札場で、右の岩のなかには「穴薬師堂」があり、そこを過ぎるとまもなく名物のあめ湯とトコロテンを供する「俳句茶屋」がある。
 ここまでですでに汗をかき足腰に疲労感が広がっている。ここから「仁王門」をくぐり約500m、262段の石段が待っている。死者の霊は、このような山でなければ容易に里に戻ってしまうのだ。登りきって右に進むとそこが車の入れる終着場で、108段の直線階段の下である。この上の大師堂の入口の付近には、昭和の中頃まで亡くなった人が使った松葉杖やコルセットさらに遺髪まで納められていたという。

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死者の霊の宿る参道
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俳句茶屋

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108段の石段の上に建つ大師堂へ

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