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空海の生涯

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021 朝廷貴族の雄藤原氏一門との親和

 南都の法相宗にはもう一つ興福寺という法城があった。興福寺は、藤原氏を頂点とする朝廷貴族のトップクラスや国家仏教の高僧や善知識が出入りするサロンであり、身なりも怪しげな一介の沙弥がうろつけるような場所ではなかった。
 如空が最初に足を踏み入れた時にはおそらく怪しまれ、この大伽藍のなかで右往左往したにちがいない。それでもこの寺の法相学の講筵に列することができたとすれば、勤操の口添えや阿刀大足の根回しのおかげであったろう。
 この興福寺に具体的な空海事蹟はないものの、唐から帰国後の南円堂の設計をはじめとする藤原氏一門との親和関係から推して、この時期この興福寺でかなり高いレベルの僧俗に知遇をえて薫陶を受け、また仏教と国家権力の関係を具に見聞したであろうことが想像できる。

 興福寺は朝廷貴族の雄藤原氏の氏寺である。飛鳥・藤原・平城と都が移っても、朝廷貴族のトップとして藤原氏の権勢は絶大なものであった。それだけに興福寺の寺勢も国家の支配体制や藤原氏の興廃と不可分の関係にあった。
 興福寺はそもそも山階寺(やましなでら)といい、藤原鎌足の重病平癒を祈り夫人の鏡女王が山城の私邸に建てたものである。その後それを飛鳥の廐坂(うまやさか)の地に移し廐坂寺といった。さらに遷都とともに平城京左京三条七坊の地に移され興福寺となったのである。
 爾後、天皇家や藤原氏の力によって次々と堂塔伽藍が整備され、平城京の時代には四官大寺、平安京の時代には七官大寺の一つに数えられた。摂関家である藤原北家の庇護のもとで寺勢は大いに盛んになった。

 仏教寺院であるにもかかわらず、平安時代には春日大社の実権をにぎり、大和国を領地とするほど権勢を誇った。鎌倉~室町時代には、幕府は大和国に守護を置かないほどだった。江戸時代には2万1000石の朱印が与えられ、奈良の官大寺が次々と衰退していくなか国家仏教の特権的地位はゆるがなかった。しかし明治の神仏分離廃仏毀釈はこの興福寺にも致命的なダメージを与え、伽藍は荒廃の一途をたどった。
 今は鹿が遊ぶ奈良公園のなかに、ひっそりと仮の講堂・五重塔・東金堂・国宝館・南円堂・北円堂・三重塔が点在するばかりで往時の栄華を偲ぶ姿にないが、創建1300年を迎える平成22年の完成をめざし、中心の聖堂・中金堂をはじめ中門・南大門・北円堂回廊の整備が進められている。西ノ京の薬師寺につづき往古の大伽藍が復元されることはまことに喜ばしいかぎりだ。

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 この興福寺は、朝廷貴族一の歴史と権勢を物語るように、仏像彫刻ほかの国宝・重文の宝庫である。有名な阿修羅像のほか、北円堂の無著世親像はその中でも光彩を放っている。鎌倉時代、いや日本を代表する仏師運慶の晩年の作である。薬師寺が法相学の大恩師玄奘三蔵への帰依を守り伝えているのと同様、ここはインド唯識学の大論師である無著・世親兄弟への帰依としてその尊像を守り伝えている。

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北円堂
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無著(アサンガ)像
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世親(ヴァスバンドゥ)像

 その北円堂の南方に建つ南円堂は、藤原北家の当代であった藤原内麻呂の依頼を受け唐から帰った空海が設計監督を行った。空海にとって初の密教様式による堂宇の建築指導であった。以後藤原北家は他家におくれたものの家門繁栄し、冬嗣良房・基経の時には天皇の外祖父となり、道長・頼道の時代には摂関政治の栄華を極めた。

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南円堂
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東金堂
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 そのせいか空海にはしばしば藤原氏一門のサポートが見える。その根拠地がこの興福寺ではなかったか。ひとのあまり注目するところではないが、法相宗の碩学徳一(徳溢、得一)との親和関係はその一例であろう。すでにこの時期、如空の頃の空海はこの興福寺を舞台に藤原氏直系の徳一とかなりの親交をもっていたと思われるのである。
 徳一は藤原仲麻呂(恵美押勝)の子(四男あるいは十一男の説あり)で、藤原不比等の曾孫にあたる。おそらく興福寺を依居とし、東大寺元興寺で名をはせた玄奘三蔵→道昭系(『瑜伽師地論』系)法相の学匠であり、「自然智」とのかかわりも考えられる山岳修行者でもあった。生没年不詳で、天平勝宝元年(749)~天長元年(824)、天平宝字4年(760)~承和2年(835)の説のほか、生年にはまた神護景雲元年(767)、天応元年(781)の説がある。
 「弱冠」(20才前後)の年齢で東国のはての会津に移ったという推論があるが、当時藤原氏生え抜きの青年僧が「具足戒」を受ける年齢に、興福寺から離れることができたであろうか。また、後に空海に宛てて送った『真言宗未決文』最澄との論争に見える仏教の博識や、南都における法相論師としての名声をそんな若さでえられるものであろうか。少なくとも円熟期を迎える40才台までは南都にいて、如空の頃の空海と興福寺で出会っていたのではないか。
後世の伝によれば、延暦元年(782)常陸筑波山に中禅寺を開き(「筑波山縁起」)、空海が唐から帰国した翌年の大同2年(807)頃、会津磐梯山の麓に移り慧日寺を建立したという。
その徳一が空海には好意的だった。空海より十才前後先輩のこの論客が、山岳仏教ことには虚空蔵求聞持法を成就し南都の学解仏教に本格参入してきた如空の頃の空海を好ましく思い、『瑜伽師地論』や「自然智」を教えたと思ってもおかしくはない。

 後に、長安から帰り高雄山寺に腰を落ちつけた空海は、数年後密教立論の書『弁顕密二教論』を著わす一方、弘仁6年(815)、密典の流伝のために甲斐・武蔵・上野・下野・常陸などの東国へ弟子の康守を送り、甲斐国司の藤原真川、常陸国司の藤原福当麻呂、下野大慈寺の広智(円仁の師、道忠のグループ)、そして会津慧日寺の徳一に密教典籍36巻の書写を依頼する。同じ頃、大宰府(おそらく観世音寺)へも経典書写の勧進を行ったという。
 甲斐の藤原真川、常陸の藤原福当麻呂は共に藤原氏の朝廷高官で、真川は後に大臣となり、その後任に空海は奈良の大学寮時代の唐語の恩師浄村浄豊を推薦した間柄であり、福当麻呂は興福寺南円堂の設計監督を空海に頼んだ藤原内麻呂の五男で冬嗣の異母弟、いずれも空海とは藤原氏の誼でつながっていた。
 また広智は円仁の師として有名であるが、一方鑑真和上の高弟道忠の弟子で、道忠は下野の大慈寺などを拠点に下野・上野・武蔵に道忠教団といわれるグループを形成して最澄を支援し、会津の徳一との間に論陣を張っていた。最澄はそれを引きとるかたちで徳一との論争に入ったのである。
 道忠には後に天台第二代座主となった上野緑野寺の円澄がおり、広智には第三代座主円仁・第四代座主安慧と、第五代円珍・第六代惟首・第七代猷憲の師の徳円がいる。
このうち円澄は、最澄の命で泰範とともに空海のもとで密法を受学し、弘仁3年(812)の高雄潅頂では胎蔵界を、翌年金剛界を光定・泰範らと受法し、天台座主になる2年前の天長8年(831)には道忠・徳円ら10数名と晩年の空海に真言付法(伝法潅頂)を要請している。
 当時、真言・天台と宗を異にしながらも、垣根を越えて密法の受法をする交わりがあった。そうした人脈のなかで、空海は広智とも信頼するに足る知遇をえていたのであろう。天長4年(827)には、「十喩詩」(『大日経』の「十縁生句」を詩にしたもの)を広智に贈っている。ただ、広智は密典の書写を行わず、同じ道忠の弟子で上野緑野寺の教興に頼んだという。

 この頃、円熟期の徳一は磐梯・吾妻連山の修験(大伴修験)を中心に、「山の神」「田の神」の信仰を土地の豪族から農民の間に広め、徳一教団の輪を会津から常陸・下野にかけて大きく形成していた。空海はその徳一にも密教流布を頼んだ。徳一の助力を確信的にあてにしている。
 その時空海が徳一に宛てた協力依頼状がある。末尾に「遠すぎて親しく交われないので時々書簡を恵んでほしい」旨を書き添えている。二人が親しい関係にあったことが読みとれる。

摩騰遊バズンバ振旦久シク聾シ、康会至ラズンバ呉人長ク瞽ナラン。
聞クナラク、徳一菩薩ハ戒珠氷玉ノ如ク、智海泓澄タリ。
斗藪シテ京ヲ離レ、錫ヲ振ヒテ東ニ往ク。
始メテ法幢ヲ建テテ、衆生ノ耳目ヲ開示シ、大ヒニ法螺ヲ吹イテ、万類ノ仏種ヲ発揮ス。
咨、伽梵ノ慈月水在レバ影ヲ現ス、薩埵ノ同事何レノ趣ニカ到ラザラン。珍重、珍重。
空海大唐ニ入リテ学習スル所ノ秘蔵ノ法門、其ノ本未ダ多カラズ広ク流伝スルコト能ハズ、
衆縁ノ力ニ乗ジテ書写シ弘揚セント思ヒ欲フ。
所以ニ弟子康守ヲ差シテ彼ノ境ニ馳セ向ワシム。
伏シテ乞フ、彼ノ弘道ヲ顧ミテ助ケテ少願ヲ遂ゲシメバ、幸甚、幸甚。委曲別ニ載ス。
嗟、雲樹長遠ナリ。誰カ企望ニ堪エン。時ニ風雲ニ因リテ金玉ヲ恵ミ及バセン。
謹ンデ状ヲ奉ル。不宣。   沙門空海 状ヲ上ル。
         四月五日
      陸州徳一菩薩 法前 謹空
       名香一裹、物ハ軽ケレド誠ハ重シ。撿至ラバ幸ト為セ。 重空
 (『高野雑筆集』)

 徳一は空海が弟子康守に託した『観縁疏』を読み、空海密教への十一の疑問(結集者の疑、経処の疑、即身成仏の疑、五智の疑、決定二乗の疑、開示悟入の疑、菩薩十地の疑、梵字の疑、毘盧舎那仏の疑、経巻数の疑、鉄塔の疑)を『真言宗未決文』にまとめ空海に送った。そこには『大日経』の聞法者や説法処や真言付法の問題ほか、即身成仏・五智五仏・発菩提心・法爾随縁(六大縁起)・声字実相法身説法といった、空海が後に表明する密教思想の根幹にふれる鋭い指摘があった。しかし、これをにわかに空海密教への批判というのは早とちりである。
 『真言宗未決文』を具に読めば、十一の疑義が空海密教批判ではなく、大乗(法相・華厳)からの『大日経』や密教の基本に関する不可解と戸惑いの表明であることがわかる。例えば、

 『大日経』は、毘盧舎那仏(大日如来)が普賢菩薩(説法処に集会した四菩薩の首座)や執金剛手金剛薩埵(秘密主)、同じく集会した十九の執金剛(密教の菩薩)の上首)等に対して説法したものであるが、『大日経』の初めに言う「如是我聞」の「我聞」(私は聞いた)というのはいったい誰が聞いたのであろうか。(大乗までの経典は、釈尊の説法を)阿難迦葉など(が聞いたことになっているが、彼ら)はもう亡くなっている。
 では、龍樹(龍猛、真言付法の第三祖)がその集会にい(て聞い)たというのだろうか。
 そうではあるまい。(そもそも『大日経』は、龍樹が「南天の鉄塔」で金剛薩埵(付法の第二祖)から授かったというではないか)『大日経』は、毘盧舎那仏が普賢菩薩(徳一はここで金剛薩埵を普賢菩薩と混同している)に口授し、さらに普賢菩薩から龍樹に口授したのである。それでは、普賢菩薩(金剛薩埵)が「我聞」したのか。そんなことはない。普賢菩薩(金剛薩埵)は二乗(声聞・縁覚、仏道の自利行者)や凡夫(煩悩具足の衆生)の目には見えない(堅固な菩提心の象徴である)。どうして人間に交って集会するであろうか。(第一、結集者の疑)

 龍樹が著した『発菩提心論』に「真言行者は凡位(凡夫の心位)から仏位(仏の心位)に直入することができるので、(華厳経などで言う大乗の)十地の菩薩の心位を飛び越えてしまう。真言行者は行願・勝義・三摩地の三つの行によって即身成仏するのである」と言うのだが、(大乗から言えば)そこに二つまちがいがある。一つは(大乗の要諦である)菩薩行 (利他行)がないこと。もう一つは(大乗の根本である)慈悲(「」の発心)が欠けていることである。
 大乗の菩薩には無量の修行(六波羅蜜に摂せられる)があるが、真言行者の行といえば(行願・勝義・三摩地)みな観行ばかりで、これは六波羅蜜の静慮波羅蜜だけを行ずるのみで、他の五つの波羅蜜を行じないことになる。行を欠いて成仏することなどありえないではないか。
 菩薩は、慈悲を母とし方便を父として、五生(除災生・随類生・大勢生・増上生・最後生)を受け、久しく生死流転しながら、常に一切の衆生を済度し無余涅槃に入らしめんと誓っているものであるが、真言行者は衆生を捨てて自分が先に成仏しようとする。どこに慈悲があるのか。二乗の自利行と同じではないか。・・・。
 あの真言天台の学徒は己の宗の所依の経論をよく推究もせず、みだりに別宗を立てて即身成仏などと言うのは、いろいろな論を違え、あとにつづく学僧を誤らせることになる。(第三、即身成仏の疑)

 真言の学徒は、梵字は梵天外道や仏が作ったものではなく、あるべくしてそのようにある(法然)ものであり仏が(私たちの前に)顕すもので、有為でもなく無為でもないというが、それは実体がなく兎の角のようなものである。梵字は墨と筆で書かれたもので、物質的なものである。どうして自らあるべくしてあるのか。(第八、梵字の疑)

 当時南都仏教のトップレベルの学僧でも密教の不可解はこんなものであったろう。徳一には、大乗(華厳)では宇宙法界の当体で(声字をもたず)説法をしない毘盧舎那が、密教(『大日経』)では(声字をもって)自ら説法すること、大乗(法相・華厳)では久しく止観行に励み永劫にわたって菩薩行を積み重ねなければ法界(サトリの境界)に入ることができないのだが、密教(『大日経』)では観行(観法)によって速疾成仏が可能だとすること、真言陀羅尼を表記する梵字(サンスクリットのアルファベット字体)は人間が書く文字にちがいないが、密教では如来の言語(声字)であるから法性(真理性)そのもので、自らあるべきようにあって(法爾)、さまざまな縁によって(人の)文字として顕れると考えること、等々について理解が及ばず、最後の11番目では「南天の鉄塔」伝説(真言付法)は口伝(口伝え)であり文章による文伝ではないから信ずるに価しないと言ったりして、ほとんどの議論がかみ合っていない。

 しかし、都を離れ会津にいる徳一にとっては新しい仏教である密教を理解する絶好の機会であった。徳一は結局密典の書写に協力しなかったという説をよく聞くが、それはむしろ逆で、徳一は康守がたずさえてきた密典36部をむさぼるように書写したに相違ない。おそらく、そのなかに『大日経』のほか主要な密教典籍が含まれていた。だからこそ『真言宗未決文』にあるように、いち早く『大日経』『大日経疏』『菩提心論』『釈摩訶衍論』や真言付法の事情に通じることができた。この時期会津にいる徳一がそれほどに密教典籍や密教事情に通じられたのは、空海に頼まれた密典36部の書写をしたからに他ならず、書写こそが密教理解の早道だった。この件の以前に東国の徳一のもとに本格的な密典が伝えられた形跡はないのである。
 徳一はまた、『真言宗未決文』に付記し「ここに述べた疑問は仏法を謗る行いで、無間地獄に堕ちる報いを恐れる。ただ、私は疑問を解決して智慧の理解を増したいと願っているだけで、ひたすら帰依し信じて、その宗を専らにしたいだけである」と質問状提出の真意を述べている。密典の書写協力をしていなければ厳格な学僧がこのようなことは言わない。だから空海は反論をせず、後年『即身成仏義』 『声字実相義』 『吽字義』 『秘密曼荼羅十住心論』 『秘蔵宝鑰』 『付法伝』などを著し、親和・畏敬の先学徳一の指摘に間接的に応えたのである。

 徳一はこの時期すでに東国の天台勢力(道忠のグループ)と論争を始めていた。空海も最澄と決別してまもない頃で、前年の弘仁5年(814)には下野日光山勝道上人の求めに応じ「沙門勝道、山水ヲ歴テ玄珠ヲ瑩クノ碑并ビニ序」を認めている。かねて、南都の仏教勢力が支持し旧知の仲でもある空海の東国進出を、南都法相出身の徳一が歓迎しないはずがない。同じ東国の霊山である日光山修験の先達勝道上人とよしみをもつ空海の密教を、磐梯修験の地で受容することを密かに喜びもしたであろう。だから、法相の身でありながら密典を鋭意書写し、密教にいち早く通じ、三鈷杵を自ら持し、密教法具を慧日寺に多く残したのだろう。

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復元された会津・慧(恵)日寺
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会津・慧(恵)日寺遺跡
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徳一像(磐梯山慧日寺資料館)

 比叡山の最澄は、広智や道忠から空海の東国進出を伝え聞いたのか、すぐに動いた。その頃空海との親交も途絶え、種々切迫感を感じたという説がある。翌年の弘仁7年(816、この年空海に高野山の下賜が認められる)、東国の事情に詳しい円澄・円仁などを伴い上野緑野寺や下野大慈寺を足がかりに東国を巡錫した。それを機に道忠たちから徳一との論争を引きとり、それ以後5年間(弘仁8年(817)~弘仁12年(821))「三一権実論争」をくりひろげた。
 徳一は、『仏性抄』、『中辺義鏡』三巻、『遮異見章』三巻、『恵日羽足』三巻、『破原決権実論』、『破通六九証破比量文』、『中辺義鏡残』二十巻を著わし最澄の天台教学を徹底批判し、最澄は『照権実鏡』、『守護国界章』九巻、『決権実論』、『通六九証破比量文』、『法華秀句』三巻を著わして徳一に反論した。勝負はつかないまま最澄の死で終ったが、その結果最澄は東北地方への進出を阻まれたのである。

 ところで、最澄が東国に巡錫した弘仁7年(816)、藤原冬嗣が大納言と陸奥・出羽二国の按察使(地方の国司の行政監察を行う中央官僚)を兼ねた。冬嗣と空海はお互いに嵯峨天皇のブレーンとして旧知の仲で、この3年前の弘仁4年(813)、冬嗣は父内麻呂の遺志を継ぎ、空海の設計監督のもと興福寺南円堂を完成させている。
 こうした事情を考えると、冬嗣が陸奥按察使の立場から藤原氏一門の徳一に対し、空海の東国進出を奨め最澄の天台を阻止する密命(興福寺を含む南都仏教勢力の政治的意志)を伝えた可能性がなくはない。とすると、徳一は東国のはてを天台勢力から守るために南都仏教勢力の切り札として会津に下向したとも言える。

 磐梯山麓には、大同2年(807)に、空海が朝廷の命により(噴火した)磐梯山を鎮め、清水寺(後の慧日寺)を建立したという伝えがある(「龍宝寺縁起」)。「恵日寺縁起書」には、昔空海がこの地にきて、たびたび噴火して田畑を傷め土地の人々を悩ませる病悩山という名の山を磐梯山と改め、この魔性の山を鎮めるために寺の建立を発願し、もっていた三鈷杵を投げて適地をえらんだところ山麓の紫藤の上に落ちたのでそこに清水寺(後の慧日寺)を開創し、薬師三尊などを祀った。するとそこに磐梯山の山の神が現われたので、空海は舞楽で歓待をし山の神を磐梯明神と名づけた。空海は滞留すること3年、後を徳一に託して去った、とある。
 実際は、『今昔物語』ほかの史書にあるように、清水寺(後の慧日寺)は徳一の開基に相違はないが、驚くことに徳一の関係する会津から常陸にかけての寺院は、その多くが空海の開基、徳一の初代となっている。二人の親和関係はこうした地方の伝承にも残っている。

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