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空海の軌跡

(1)歴史舞台への登場
 
 空海が遣唐船に乗ったのは、延暦二十三年(八〇四)五月のことであった。三十一歳の時である。(なお、歴史上の人物の年齢は今風の「満年齢」ではなく、「数え年」である。「数え年」というのは生まれた年を一歳とし、新年を迎えたら一歳を加えるという数え方である。その年に満年齢となる数に一つ加えた数が「数え年」である。念のため。)
その前年三月に難波を出航した遣唐船は暴風雨に遭って中止となり、一年後の五月十二日に難波を再出発した。空海は四隻の船団の第一船に乗っていた。瀬戸内海を通って九州に着き、旅装もあらたにして肥前田浦の港を出立したのは、同年七月六日であった。前年より九州で待機していた最澄は、田浦より第二船に搭乗した。
平安仏教の二大巨匠が、このときお互いにあいまみえることなく、同じ遣唐船団に分乗して日本を出航していく様子は、壮大なドラマの幕開けになんともふさわしい。
しかも、出航した翌日には暴風雨に遭い、船団は離散し、大陸に漂着したのは、空海の乗った第一船と最澄の乗った第二船だけだった、というのもあまりに劇的である。
 空海の乗った船は八月十日に福州赤岸鎮に漂着した後、約二ヶ月も回航されて、十月三日に福建に着いた。そこでなかなか上陸を許されなかったところ、大使藤原葛野(かどの)麿(まろ)に代わって福州の観察使(かんざつし)に宛てて空海が起草した書状が現地の人を驚かせ、信用されて厚遇されるようになった、という胸のすくような場面から実は本幕となる。
それが今からちょうど千二百年前のことである。「空海入唐」というのは、単に空海の生涯の中の一事跡というのではなく、空海が歴史の表舞台に初登場した、まさに記念すべき開幕の出来事だったのである。
空海がどのような経緯で、また誰の支援により遣唐船に乗ることができたのか、ということは皆目わかっていない。正式な僧となっていたことは確かであるが、その身分は、還(げん)学(がく)生(しょう)の最澄とは大きく違い、一介の留(る)学(がく)生(しょう)にすぎなかった。二人の差は海外視察の大学教授と、長期留学を課せられた学生ほどの違いがあった。事実、その通りであった。
さて、最澄が空海の存在を知るのは、その二年後の大同元年(八〇六)十月に空海が帰国し、朝廷に提出した『請(しょう)来(らい)目録』を、何らかの機会に最澄が目にしたときであろう。大同四年(八〇九)七月に空海がようやく上京して高雄山寺に居を定めた翌月、最澄は空海に密典十二部の借覧を申し出ている。では、空海はいつ最澄を知ったか。
九州の港で乗船する最澄の姿を空海が目にしたかどうかわからない。その時すでに平安新仏教の旗手として脚光を浴びていた最澄は注目の的であったから、「あの方が桓武帝の信任厚い最澄だ」という声を空海は耳にしたかもしれない。むろん出航時に二人が対面したという事実はなく、その時点での両者の立場上ありうることではなかった。ただ、空海にとって、もはや最澄は眼中になかった。
なぜか。なぜだと思いますか。

(2)北伝仏教の伝統にしたがって
 空海は最澄の存在をいつ知ったであろうか。
 空海十五歳の時、外舅の阿刀大足にともなわれて生国の四国讃岐より上京する。延暦七年(七八八)年のことである。その四年前に都は奈良より長岡に遷っていた。造営途上の長岡はまもなく放棄され、延暦十三年(七九四)に平安遷都とあいなる。
 空海の上京が造営中の長岡であったか、旧都奈良であったかについては諸説がある。いずれにしても、奈良仏教界が空前のピンチを迎えている最中であった。
 延暦十年(七九一)、空海は十八歳で大学の明経科に入学する。それは平安遷都の三年前である。しかし、一年かそこらで退学してしまう。このへんの事情を伝える史料はなにもない。二十四歳の時の自著『三教指帰』(日本最古の思想劇)における自身の投影とおぼしき登場人物の描写から推測するのみである。
 なぜ大学を「一年かそこら」で退学してしまったか。幼少より天童の誉れ高く、一族の期待を一身に背負った立場を捨てて、仏道に身を転じた、というのは結果から言えることであるが、その決心はどこで生まれたのであろう。このまま官吏になる道を歩んでなにほどのことがあろうか、という思いだけであったか。
 空海は上京後、「最澄という人がいた」という噂を、きっと耳にしたであろう。
 空海より七歳年長の最澄は、超エリートであった。
 当時、東大寺戒壇院で受戒し、正式な僧侶になるということは、今ならさしずめ国家公務員上級職試験に受かるよりも何十倍もむずかしいことだった。正式な僧侶になれば、栄耀栄華が約束されていた。奈良仏教において、僧侶は特権階級だった。
その資格を、最澄はわずか十九歳で得た。しかし、たったの三ヶ月で東大寺を去り、比叡の山奥に籠もってしまうのである。奈良はもとより遷都したばかりの長岡京をすでに見限っていたとすれば、おそろしく先見の明があったとも言えるが、比叡を鬼門とする平安京はまだ影も形もない時分のことである。その動機はいかなる野心でもなく、あまりに純粋なものであった。
 日本は北伝の大乗仏教の系譜にある。
それは明治以降の近代仏教学の教える南伝系の仏教とは違うのである。
 近代仏教学によると、釈尊は、「二十九歳で出家し、六年間の修行の後、三十五歳で成道し、四十五年の布教の旅の末、八十歳で入滅された」ということになっている。現代の私たちが常識として知っているこの「釈迦の生涯」は南伝仏教にしたがっている。
 これに対し、北伝仏教では、釈尊は「十九歳で出家し、十二年の修行の後、三十歳で成道し、法を説いて世にあること四十九年、寿齢七十九歳で入滅された」ことになっていた。どちらが正しいかは、今は問わない。ただ、明治以前のすべての仏教者は、最澄も空海も北伝仏教を信じていた、ということは知っておく必要がある。
最澄は何を決意したか。途方もない決意をした。それは釈迦になること―。
 たしかに仏教者の本分は「成仏」を目指して修行に励み、かつ衆生済度に尽くすことである。つまり、釈迦をお手本として生きる、というのはすべての仏教者の信条であらねばならない。だが、それを自己の命題として、厳しく自己に課したのは、日本仏教史上、最澄が最初であった。そして、釈迦にならい、十二年の修行期間をみずからに課した。(今なお叡山に伝わる「籠山十二年行」はこれにちなむものである。)
 

(3)二人の巨匠がめざし、そして果たしたもの
 
最澄という超エリートの僧侶がいた。わずか十九歳で東大寺において受戒したにもかかわらず、三ヶ月ほどで、どこか遠い山奥に籠もってしまった―
という噂を空海は誰かから聞いたことであろう。上京直後であったとすれば、それは「今から三年ほどまえのことだが...」という話になる。「栄耀栄華の道を捨てて、何を考えていたのやら...」といった尾ひれがついていたはずである。
釈迦の「十九歳出家・三十歳成道」説は、当時において常識の範囲だったかもしれないが、一般のだれにとってもそれは雲の上のような話でしかなかった。
みずからの「十九歳」に特別の意味を見出したのは、後にも先にも最澄と、そして空海だけだった。それに関して最澄は先覚者であり、空海は後を追うかたちとなった。その年齢に達した空海はしっかりと、まだ見ぬ最澄を意識していたと断言して差し支えない。
したがって空海には、十八歳で大学に入学したものの、「一年かそこら」で出奔する、まことに必然的な理由があったのである。空海が何歳で退学したかということは不明とされているが、まず間違いなく、空海は十九歳で「世間を捨てた」のである。空海も釈迦を目指したのだ。そして、「三十歳をすぎるまで世に出まい」と決意したことであろう。空海の場合、その決意は貫かれた。しかし、最澄の場合は―。
平安遷都は、最澄にとって予想もしていなかった事態の展開だったろう。だが、延暦十三年(七九四)、平安新都造営に先だって、なんと桓武天皇は叡山の最澄を訪問している。新都にふさわしい本格的な仏教と僧が求められていたのである。最澄は、それまでの「論」中心の奈良仏教に対して、日本は「経」中心の大乗仏教でなければならないと考えていた。籠山するにあたって書いた『願文』には、最澄のひたむきで真摯な姿勢が披瀝されていて、それを高く評価する人が桓武天皇の側近にいたようである。
まさに時節到来というべきところであるが、それは籠山十年目のことであった。世に出るのはまだ二年早い、と二十八歳の最澄はそのとき思ったかどうか。
しかし、桓武天皇の絶大の信頼を得た最澄は、はや翌年に、宮中の内供奉十禅師に列座し、一躍平安新仏教の第一人者となった。
延暦二十年には高雄山寺で南都の名だたる学僧たちに対して天台を講じている。
延暦二十一年(八〇二)七月、最澄は上表して入唐を請うて勅許を得た。
この時の第十六次遣唐船は、ひとえに最澄のために計画されたものだった。
翌年三月に出航したその遣唐船がもし無事航海をしていたら、歴史は違う展開を見せていたことであろう。もちろん、その船に空海は乗っていない。
出航が延期となった翌月に、空海は受戒して正式の僧となったようである。正式の僧でなければ留学生に選ばれないからである、というのは誰の計らいだったのだろうか。
一般に空海の生涯に関して、二十四歳で『三教指帰』を著してから入唐までの期間を「空白の七年間」と呼ぶ。この間の消息がまったく不明だからである。それ以前の足跡については、『三教指帰』によって幾分は窺い知ることができる。だが、真に世のだれにも知られざる空海の本当に重要なタイムスパンは、十九歳から三十歳までの「十二年間」とすべきである。『三教指帰』は、いわばその中間報告であった。
十二年の修行を終えて、空海は当初の決意をまっとうした。それは延暦二十二年(八〇三)、寿齢三十歳のときのことである。空前絶後の偉業をなしとげたのだった。
 

(4)入唐前の空海
 
そうと分かれば、その後の空海の足跡は、さもありなん、というばかりである。
空海は、単なる「万能の天才」ではない。「超人」という言葉も似つかわしくない。
ブッダたることを、その身に現証したのである。やがて真言密教の中心教義となる「即身成仏」は、空海の「思想」なのではなく、空海自身が達成したことだったのである。
ところで、三十歳で「成道」した空海は、まずどこに赴いたであろう。
それは平安遷都から三年目のことであるが、新都の平安京ではなかった。
旧都奈良に姿を現わしたはずである。奈良の諸大寺は仏典の宝庫であったから、かつて空海は足繁く通い、伝来のすべての仏典を渉猟した。というか、渉猟しえた。世話になった礼を述べるつもりだったのかもしれない。
だが、空海の姿をみた南都の僧たちはどう思ったか。サールナートで釈尊の姿を見た五比丘と同じ印象を抱いたはずである。なにしろ目の前にいるのは、ブッダなのである。
南都の僧たちには、凋落の一途にある南都仏教を尻目に、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの新都の星、最澄に対抗できる唯一の救世主のようにもみえたかもしれない。
実際、最澄が生涯を通じて南都仏教と対立姿勢をとったのに対して、空海は南都仏教と折り合いがよく、唐より帰国後の弘仁元年(八一〇)には東大寺の別当(長官)にまでなっている。
空海入唐に関して、その支援者が誰であったかについては諸説あり、判然としない。予定されていた二十年滞在の費用というのは半端ではない。空海の縁戚の誰かが支援したのであろうとも推測できようが、ならばなぜそれを終生秘して語ることがなかったのか。皇室関係者であるとする説が有力だが、そうであったならば、公言していたはずである。なぜそれを隠す必要があったのか。
まずもって、空海は、「留学生」とはいえ、正式の僧侶の身分たりえた。僧侶の資格を与えうるのは、まだ奈良仏教の権限である。奈良の東大寺が認めなければ、正式な僧侶になれない。とすれば、答えは明らかである。
遣唐使の延期がきまった翌月に、空海を「正式な僧侶」にして留学生の資格を与え、空海乗船のためのあらゆる手はずを整え、資金集めをしたのは、実に南都の諸大寺であったと私は推測する。要するに、旧仏教の僧たちが「カンパ」したのだ。
もちろん、それを裏付ける史料はない。だが、史料がないこと自体が、それが公(おおやけ)の資金ではなかったことを物語っている。莫大な金額の用意と、よほどのツテがなければ、遣唐船に乗れなかったはずである。しかもそのすべては、当初の出航が延期と決まってから、あわただしく準備されたことだった。南都仏教が総力を挙げて、しかし密かに、空海を応援したと考えれば、すべての辻褄が合う。
当の空海自身が、遣唐船に乗るための何らかの努力をしたという形跡はないのだ。
もしかすると、空海の渡航を希望したのは、空海自身ではなく、南都の僧たちであったのかもしれない。空海の入唐を請い願い、画策した者が当時の他のだれであり得ようか。
九州の田浦の港で待機していた最澄が乗船するところを、空海が見たかどうかはわからない。最澄の姿を初めて見る機会であったから、見たに違いないと思う。「あなたが最澄か」と敬意をもって、しかと見つめたと思う。最澄は先達者である。十九歳で釈迦のようになろうとした日本最初の人物である。空海も同様の道を選んだ。空海は達成した。「あなたも達成したのですかな」とつぶやいたかどうか。
しかし、最澄であれ誰であれ、すでに空海の眼中にある人物はいなかったのである。
 

(5)長安にて
 
上陸した福建での「見せ場」となった一幕は、ほんの余興にすぎない。空海にとって福建の観察使を手玉にとることなど、造作もないことであった。
延暦二十三年(八〇四)の暮れの十二月二十三日、唐の都・長安に入る。
当時の世界の文化の中心地では、空海とて学ぶべきことはたくさんあった。壮麗な仏教寺院はもとより、ゾロアスター教、マニ教、景教(キリスト教)の祠堂もあった。筆の作り方から土木建築に至るまで会得する機会があった。インド僧の般若三蔵と牟(む)尼室(にし)利(り)三蔵からサンスクリット語ならびにインド哲学を学ぶこともできた。明治時代以前に、インド人から直接サンスクリット語を学んだ日本人は空海だけである。
入唐前に、帰化人のもとで唐語を習得したことであろう。空海は言語の天才であったから、数ヶ月で完全に唐語を会得した。福建あたりの方言すらも会得していたというのは凡人の想像を絶することであるが。サンスクリット語も半年もあれば十分だった。
書と文の国である中国では、今でも能筆家は絶大な尊敬を集める。大陸の人が舌を巻く書と文の才を発揮したのは、史上、空海のみである。空海の「異能」は、たちまち長安の都に知れ渡ったに違いない。しかも、空海はすでにして「正覚者」なのである。
通説や通念を離れて言うが、空海は「密教」を学ぶために唐に来たのではなかった。
たまたま当時の唐の都は密教全盛時代だった。空海はその拠点である青龍寺を訪れた。
長安に入って六ヶ月後のことである。その日を最も心待ちしていたのは、空海自身ではなく、青龍寺の恵(けい)果(か)であったにちがいない。空海が恵果に出会ったのは「偶然だった」と後に『請来目録』の中で書いていることに関して、ほとんどの史家は懐疑的で、司馬遼太郎などは「不正直」と断定しているが、まさか。
本来なら異邦の一介の留学生が、インド密教の法灯を伝える大唐帝国の国師たる恵果に面会することなどできえないし、ありえない。それが、会えたどころではなく、いきなり満面に笑みを浮かべて恵果が発した言葉が、「われ先(さ)きより、汝の来たれるを知り、相(あい)待(ま)つこと久し。今日、相まみゆるは大いに好(よ)し、大いに好し」であった。
恵果は一千人余の弟子をさしおいて空海に、すぐさま灌(かん)頂(じょう)を授け、みずからの後継者としたのである。真言七祖恵果に継ぐ八祖空海という系譜が、こうして生まれた。
その年の暮れ、十二月二十五日に恵果は示寂し、師の碑文を空海が書く。
劇的すぎる話の展開であるが、従来の史家のように、空海を、とびすぐれてはいるが、あくまでも異邦の一介の僧侶と考える限り、この事態は説明できない。
一介の日本人僧侶ならばありえない行動をし、ありえない結末を迎えた。
説明可能な理由は一つしかない。恵果はブッダに遭遇したのである。
さればこそ、「ああ、会いたかった、ついに会えた」という恵果の喜びの気持ちを表わした「相待つこと久し」という言葉が真実味を帯びてくる。千載一遇の出会いに感激したのは、ほかならぬ恵果のほうだったのである。
もっと言おう。密教が恵果より空海に伝授されたのではない。恵果が伝えたのは儀礼の方法とか修法の所作や曼荼羅等の法具類、仏典、仏像だけであった。これ以後インド密教の正嫡たる「遍照金剛」として、空海に密教の完成(体系化)が託されたのである。
こうしてわずか一年たらずで「唐の文化」をすべて吸収した。これ以上、唐土にとどまるまでもなく、天竺(インド)に行く必要もあるまい、と考えて当然だった。
 

(6)帰国後の空海
 
恵果より法灯を受け継いだ翌年、大同元年(八〇六)十月に帰国した。
長安の文化をごっそり持ち帰った。曼荼羅や法具の作成、諸経論の書写などに、二十年滞在予定の費用を惜しげもなく使った。二百十六部四百六十一巻、全部新しい経論ばかりである。かつて日本に伝来していた経典との重複はひとつもない。これを言い換えれば、空海はそれまで日本に伝来していた膨大な経典のすべてを知っていたということになる。
唐で仕入れた諸経論等と付法の経緯を記した目録を朝廷に提出した。その後、なぜかしばらく上京の許可がおりなかったということもあるが、空海は「謎の三年間」を過ごす。
帰国後の三年間、空海はどうしていたか。九州筑紫でしばしの滞在の後、故郷の四国に戻ったのだ、と思う。四国は生国であるばかりでなく、若い頃の修行の場でもあった。四国各地を歩き、その足跡が「遍路」の起源となったことであろう。遍路のみならず、後の大師信仰の原形となるような足跡を各地に多く残したであろう。空海の姿を一目見て、人々は帰依したことと思われる。
当然、旧都奈良にも赴いた。とりあえず「帰朝報告」をしたはずである。
空海にとって都(新都・平安京)の動静など、どうでもよいことだった。
しかし、そのころ新都では激震が走っていた。
空海が帰国する年の大同元年三月、桓武天皇が薨去した。その直前の一月、比叡山の天台宗に二名の年分度者を置く勅許を最澄は得ている。皮肉なことに、最澄にとって最大の理解者であり支援者であった桓武天皇が、最澄に期待したのは、最澄が唐でほんのついでにわずかに学んできた密教の呪力のようなのであった。都人たちは故早良(さわら)親王の祟りを恐れ、蝦夷の反乱に脅えていた。風水にかなう地を求めて「平安」の都が定められた。その上で鎮護国家のための強力な呪法装置が求められていたのである。
桓武天皇の第一皇子の安(あ)殿(て)親王(平城天皇)が即位した翌年の大同二年に、藤原宗成が伊予親王に謀反を勧め、発覚する、という事件が起きる。さらに大同四年には、平城天皇が病により嵯峨天皇に譲位した途端、尚侍藤原薬子とその兄仲成らが平城遷都ならびに平城天皇の重祚を謀り、関係者が処罰されるという事件(薬子の変)が起き、新都は騒然としていた。
まさにその最中、つまり大同四年、空海三十六歳のときであるが、嵯峨天皇の詔により上京。和気氏の氏寺、高雄山寺に居を定めるようになる。かつて最澄が南都の学僧に天台を講じた寺でもあり、それは、まず間違いなく最澄の計らいである。ただちに最澄は空海に密典の借覧を請うている。空海は気前よく貸し出す。
最澄と空海の交流は、こうして始まった。
この年の十月、勅命により、空海は世説屏風両帖を書いて上進する。否応なく空海の時代が始まろうとしていた。
その翌年(弘仁元年)、空海は十一月一日より、高雄山寺で国家のための最初の修法を行なう。この年に空海が東大寺の別当に就任したことは先に述べた。
弘仁二年(八一一)、空海は乙訓(おとくに)寺の別当にも就任する。翌年、その寺でとれたミカンを嵯峨天皇に献上している。わずかに空海の茶目っ気が窺われるエピソードである。時の帝に気軽に「このミカンはうまいよ。召されよ」と言ってのけている。
平安仏教の二大巨匠が、直接にあいまみえたのは、弘仁三年(八一二)九月、最澄が乙訓寺の空海を訪ねたときである。最澄は空海に灌頂を所望した。
その年の内に、高雄山寺で灌頂が行なわれた。最澄は、空海の「弟子」として、その他大勢の人々と共に結縁灌頂の列に連なった。
この時点で両巨匠の立場はすっかり逆転していた。もっともそれが、両者が直接会う最初で最後の機会だった。
 

(7)その後の足跡
 
以下は周知の年譜だが、参考までに記す。
高雄灌頂の翌年、最澄からの『理趣釈経』借覧の申し出に対して、空海は断りの手紙を出す。空海四十歳、最澄四十七歳のときのことである。泰範事件はその三年後に起きる。
空海四十三歳、弘仁七年(八一六)六月、高野山開創の上表文を出す。勅許を得て、翌年、高野山開創に着手。
空海四十八歳、弘仁十二年(八二一)、四国の満濃池を完成させる。
空海四十九歳、弘仁十三年(八二二)、東大寺に灌頂道場を建立。この年の六月、最澄没す。最澄畢生の願いであった大乗戒壇建立の勅許は、同年十二月に下りた。
空海五十歳、弘仁十四年(八二二)、東寺を給預される。
空海五十一歳、天長元年(八二四)、宮中の神泉苑で祈雨の修法を行ず。その功により少僧都を賜わるも辞す。
空海五十五歳、天長五年(八二八)、東寺の東隣に庶民のための私学、綜藝(しゅげい)種智院を開設する。
空海五十七歳、天長七年(八三〇)、主著『秘密曼荼羅十住心論』を、天長六本宗書の一つとして撰進する。あわせて『秘(ひ)蔵(ぞう)宝(ほう)鑰(やく)』を著す。
空海五十八歳、天長八年(八三一)六月、疾にかかり大僧都を辞するも許されず。
空海五十九歳、天長九年(八三二)、高野山上で万灯会を行なう。
空海六十一歳、承和元年(八三四)、宮中真言院で毎年正月に御修法を行なうことを奏上して、勅許を得る。
空海六十二歳、承和二年(八三五)一月八日より十四日まで宮中真言院にて後七日御修法を修する。一月二十二日、真言宗年分度者三名を上表し、翌日勅許。二月二十三日、高野山金剛峰寺、定額寺となる。三月二十一日、山上にて御入定。

二年後の承和四年に出航した遣唐船は、空海の弟子実慧より恵果阿闍梨の墓前の供物と空海入寂の報を記した書簡が託されていた。
空海の訃報を知った唐の青龍寺は、一山をあげて喪に服したという。現在でも、中国知識人の間で最もよく知られている歴史上の日本人として空海の名が筆頭にあげられる。
天安元年(八五七)に大僧正が追贈され、延喜二十一年(九二一)十月二十七日、醍醐天皇より弘法大師の謚号が与えられた。
 

(8)空海伝説の根拠
 
 空海が宮中の清涼殿でみせた「即身成仏」現証の光景は、現代では史実とはみなされていない。この有名な話を伝える『元亨(げんこう)釈書』は十四世紀の成立であるが、天暦十年(九五六)の『孔雀経音義序』にも載っていて、古くから信じられていたことのようである。
 紹介するまでもないが、それは次のような話である。
帰朝後まもない頃、宮中に諸宗の碩学が集まり、おのおの習うところを唱えた。空海は即身成仏の義を述べたところ、天皇から、理論はなかなか立派だが、その現証をみたいものだ、とのお言葉があった。空海は、三摩地の観に入ると、たちまち頂上から五仏の宝冠が湧き、五色の光明を放った。天皇は思わず礼拝し、ほかの僧や群臣たちも威光赫々たる仏の姿を拝して帰伏した。
つまり、空海が大日如来の姿をその身に現証した、という伝説である。これは荒唐無稽な伝説にすぎないのであろうか。
 明治になるまで、空海はまぎれもなく「日本のブッダ」だった。
今でも歴史上実在した人物が如来に等しい「本尊」として、「南無大師遍照金剛」と拝されているのは、あらゆる祖師の中で空海ただ一人である。「大師は弘法にとられ」の俗諺があるように、わが国で朝廷より大師号を贈られた祖師先徳は数少なくないのだが、「お大師様」といえば、昔も今も弘法大師空海だけをさす。わが国において「お大師様」とは、インドにおける「お釈迦様」と同義なのである。
だが、明治時代、近代仏教学が西洋から導入されて以降、一切の神秘性が忌避され、それまで人間を越えた存在として崇められていた空海は、明治のインテリから最も疎んじられるようになってしまった。最も人間らしく苦悩し続けた親鸞とか、求道一筋の道元がもてはやされた。平安仏教は貴族仏教という妙なレッテルまで貼られた。
 しかし、鎌倉仏教から日本の仏教は庶民のものになった、という通説こそ、明治時代に生まれた迷信である。
庶民をいうならば、庶民のための完全給付制・総合教育の学校を日本で最初につくったのは空海であった。満濃池の修築なども、地元民の要望に応えたものだった。そうした公的な事業を鎌倉仏教の祖師がたは誰一人として、何もしていない。空海の教育理念にそった寺子屋が生まれたのは室町時代であり、それが全国に普及したのは江戸時代である。
空海の再評価が始まったのは、戦後数十年たってからのことである。ピークに達したのは、昭和五十九年の弘法大師御入定千百五十年御遠忌であろうか。
空海の再評価は、「人間空海」の発掘から始まった。とりあえず伝説をはなれて、史実を丹念に追うという作業を通じて、偉大な人間としての空海が浮かび上がった。伝説に頼らずとも、日本史上第一級の宗教者にして文化人の実像が明らかになってきた。
それにしても空海ほど日本各地に伝説の多いひとはいない。各宗の祖師の中でも空海開基と伝えられる寺の数は群を抜いている。全国の弘法の湯とか逆さ杉など、後の高野聖が広めたであろう空海伝説は三千をくだらない。これほど庶民の信仰を集めている祖師もまた他に例を見ない。その理由を考えてみなくてはなるまい。
いろは歌も、五十音図も空海がつくったと信じられてきた。(空海ではないにしても、真言僧が「いろは歌」や「五十音図」をつくったことに疑いの余地はない。特に、「五十音図」はサンスクリット語の字音表の転用であるから、サンスクリット語の知識のある真言僧以外につくれるものではなかった。)
空海の場合、史実と判明していることでも、奇蹟としか思えないエピソードがたくさんある。人によっては、空海の大胆にして緻密な深謀遠慮と狡猾なまでの作為をそこに読み取るかもしれない。だが、空海が残した多くのどの著作も、そうした俗的な野心とは無縁のきわめて高度な視点から書かれていることを知るべきである。
伝説を排除することによって空海の実像があらわれるとは必ずしもいえない。幾多の伝説の中にこそ空海の実像が如実に語られているということもあるのではないか。
 すべての伝説が物語っているのは、空海は日本において誕生した唯一無比の尊いブッダであるという、歴然とした事実である。
清涼殿の伝説は、空海に接した当時の人々の印象と畏敬の念を象徴的に物語っているとはいえないだろうか。
自他共に平安仏教の第一人者と認める最澄は、空海の存在を知るや、終始、空海に対して、弟子たる態度をとり続けた。最澄の謙虚さを称える人は多いが、果してそれだけが歴史の真実といえるであろうか。
たしかに最澄は偉大な先覚者であった。日本仏教史上、釈迦になろうとした最初の人物である。空海はその後につづいた。
最澄は比叡山を開いた。その後、空海は高野山を開いた。
最澄は日本で天台宗をつくった。その後、空海は真言宗をつくった。
最澄は桓武帝の信任を得た。桓武帝亡き後、空海は嵯峨帝の信任を得た。
違うところは、最澄が終生、奈良仏教と対立したのに対して、空海は奈良仏教を包含してしまった。さらに違うところは、最澄の天台宗から優秀な後継者が続出し、鎌倉仏教の祖師を輩出したのに対し、真言宗は、ついぞ空海を越える人が出なかった。
最澄の後継者たちは、最澄の未完を補填すべく、意を尽くした。
それが噴出したのが叡山発祥の鎌倉仏教である。鎌倉仏教の祖師がたは、いい意味で一途だが、選別的・排他的で、非寛容だった。包括的であろうとした人はいなかった。その点で、きわめて最澄的だったといえば、言葉がすぎるだろうか。
空海の偉業は密教を大陸から請来したことではなく、三国伝来の密教を日本において完成させたことである。全仏教、のみならず人間精神の向上の全階梯を包摂する密教の体系化を成し遂げたのは、インド・中国・日本を通じて、空海以外にいない。それを凌駕しうるだれがいたであろう。これぞ無類の誇りとして、確認しておく必要がある。
(『智青』密教の遊歩道56 所収)

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