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空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第三十八回

逆打ちお礼参り~

 結願までの三年間あまり、私は四国霊場でさまざまな体験を通して空海について考えてきた。それらは各霊場で思いつくままに語ってきたが、霊場の印象が私にそのような感想を語らせたというほうが当たっている。また空海との対話のなかから、自分の後半生の生き方が(それは日本人の生き方を模索するものでもあるが)見えてきたような気がする。

 日本は今静かに沈みゆくタイタニック号に見える。船底の浸水は確実に水かさを増してきている。日本は二十世紀の終焉とともに明らかに一つの時代を終えようとしている。この大きな転換期に日本の針路を巡って識者はさまざまな意見を述べているが、一つだけはっきりと私に言えることは、「知識の時代」は終わったということである。

 明治以来、わが国は欧米諸国からあらゆる知識を吸収することに全力を挙げてきた。ことに戦後の国民生産は伝統的な職人芸と勤勉さが優れた技術革新に結実し、上質で精巧なもの作り大国として着実な経済成長を遂げた。だが、日本がトップランナーに躍り出たとき、すなわちキャッチ・アップの時代が終わったと言われだしたあたりからこの国の何かが狂い出したような気がする。おそらくそれは80年代、日本の銀行が土地バブルという虚業に酔い痴れたことと、国際金融市場(マネーゲーム)にこぞって手を染めたことが大きな要因であろう。

 しかし、実体経済からマネー経済(お金がお金を生み出す経済)への移行は、モノ作り国家がギャンブル資本主義の先進国である欧米経済を手本とした「知識収集型国家」を続けることに変わりはないのである。金融ビッグバンやグローバル・スタンダードに乗り遅れまいとしたこともそうである。しかも、その行き着いたところが世界一の負債を抱えたタイタニック号ニッポンである。もうキャッチアップの時代は終わっていたのではないのか。

 そうならば、新世紀は全く新しい国民的コンセプトを打ち立てるしかあるまい。私はそれを「知恵の時代」だと主張したい。知識を正しく運用するものが知恵である。知識は外にあって収集するものであるが、知恵はわが内にあって引き出すものである。ならば、日本の知恵はわが国二千年の精神文化の中にしかあるまい。今、最も必要なことは、虚心坦懐に自国の文化に埋もれている知恵を見直すべきではないだろうか。

 日本は所詮が応用科学(サル真似)の国だといわれてきたが、サル真似の国が本家本元が真似のできぬ技術大国に成長したのである。ならば、もう一度応用力を発揮しよう。今度は自らの文化が有する「知恵の応用」である。例えば世界的課題である自然環境問題は、自然と共存してきた日本人に解決の知恵は埋もれているはずであり、産業製品のリサイクルの方向にしろ、循環思想に生きてきた知恵がまだ貢献できる分野を拓けるだろう。

 中国の黄土地帯は、始皇帝の時代までは半分以上緑地帯だったが、わが国の森林面積は古代とほとんど変わらないそうである。その違いは、日本人は驚くべきことに二、三世紀頃から、すでに森林を伐採したあと植林をしていたそうだ。生態学も知らぬ古代人に乱獲や捕り尽くしを戒める心があったのも、生命循環の原理を心得ていたとしか思えないのである。このような知恵は、国際社会に通用する誇るべき日本文化である。二十一世紀は、例えばそういうものを起業コンセプトにして研究開発し、それを形にして世界経済に貢献するという、新しい日本型の消費経済の方向性が残されているはずである。

 エコロジーのテクニカルな対応は、むろん欧米でも盛んである。だからといって、従来のような欧米主流の研究姿勢は改めるべきであろう。なぜなら、彼らの自然環境のテーマは、あくまでも人間にとって快適であることが最優先されるからだ。人間が快適に生きるために自然を支配し改造してきた結果生じた自然破壊を、同じ人間中心の手法で解決しようとするなら、再び新たな問題が生じる恐れがあるからだ。バイオテクノロジーやクローン人間の研究は、将来必ず大きな問題を生むことになるだろう。人体も実は自然環境の一つなのである。それらは個人を救う当面の知恵であっも、人類を救う叡智とはならないだろう。

 「叡智」とは、「智慧」が背景になければ生まれてこないものである。智慧とは「神仏の智慧」のことにほかならない。人間の頭の計らいから生まれるものは「浅知恵」であり、おおむね「エゴの知恵」であることを本来日本人は自覚していたように思う。古代人はその信仰心が囁く「内なる知恵」に従って自然と共存していた。それは、アイヌ人にもアメリカ先住民族にもアボリジニーにも共通した智慧ではなかっただろうか。

 また「知識は外に、智慧は内にあり」とは、釈尊や空海が強く主張したことでもある。それは人間のもつ真の賢さに目覚めさせようとするものであった。現代のような情報が氾濫する社会において、個人の所有する知識量は膨大なものに増加したが、それだけ日本人が賢くなったと言えるだろうか。日本はすでに智慧なき情報化時代に入ってしまったような気がする。

 人生の拠り所となるものは情報量とはあまり関係なく、最終的には自己の中にある智恵に耳を傾けることしかないのである。この原則は国家経営も同じだと思う。国際社会のトレンドにあまり右顧左眄することなく、ここしばらく日本は自国の文化に埋もれている叡智を引き出すことに専念すべきではないだろうか。

 私たちの四国遍路は、自己の内なる声に従った行動であった。そして各霊場でやったことは、諸堂、諸仏に向かって「般若心経」を唱えてきただけである。このポピュラーな経典は仏の智慧のエッセンスだといわれており、解説書も多く出回っている。だが、結願して「般若心経」を読み直してみると、私の中から感じるものは専門家の解説とは全く正反対のものとなってしまった。今回は《お礼参り》の旅ではあるが、その前に私自身が考える「般若心経」について若干触れておきたい。

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