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空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第五回

第1章 道草遍路〔第二回〕《1996年6月24日〜6月29日(5泊6日)》

◆司馬遼太郎の『空海の風景』を読んで

 実は私は、空海については日本史で学んだ程度の知識しかなく、空海の思想と生涯について具体的なことはほとんどわかっていなかった。だが、以前から強く魅かれるものがあり、機会があれば識りたいという気持ちはあった。

 それで、二度目の遍路旅に発つ前に司馬遼太郎の小説『空海の風景』を読んでみた。さすがに国民的な歴史作家だけあって、空海の思想と生涯があますところなく書かれてあった。密教がどういうものかということも概略理解できた。

 以前、私の知人が『空海の風景』を読んで感動し、高く評価しているのを聞いていたので、ある期待をもってこの長編小説を読んでみた。しかし、さほどの感動は得られなかった。

 空海の歴史上の知識は得られたが、息吹きのようなものが感じられなかったのである。「人間空海」に逢いたいのだが、それにしては私が直感的に抱いていた空海像とは異なっていた。

 四国遍路の弘法大師は、実像に迫ろうとした司馬遼太郎の目からは完全に捨象されていた。確かに信仰上の弘法大師と、歴史上の人間空海とは同一とはいえないだろう。霊場巡りの中から空海に逢ってみたいという願いは、もしかすると自分勝手な思い込みなのかもしれない。



◆第1日目(1996年6月24日)−お大師さんを忘れて出発・問題は解決を伴ってあらわれる・西洋的理性と東洋的悟性−

 出発のその朝はあいにくの小雨だった。私たちはどうも天気には恵まれないらしい。それでも遍路用具一式をスーツケースに詰め込み、旅仕度を整えて 予定通り自宅を出た。第一回目と同じ10時30分発の「ひかり」に乗るべく、広島駅のホームで新幹線を待っていたとき、ふと妻がいつも肩にかけていた紺色 のビニールケースがないことに気がついた。
「あれ、お軸はどうした?」
「えっ? あっ、忘れてる」

 さあ、大変である。列車はもうすぐやってくる。
「しまった。家に置いてきたぞ」

 遍路グッズ一式をスーツケースに納め、それに入りきらない杖は私が二本とも持ってきた。遍路中、納経帳を入れてある頭陀袋は私が、御印集軸は常に妻が持ち歩いていたので、つい気がつかなかったのだ。

 妻はべそをかいたような顔をして私を見る。お大師様を忘れるとは何という不心得な遍路なのだろう。不信心な二人を象徴しているではないか。いや、事実不 信心なのである。したがって、理屈を言えばこのまま出発してもよいのである。掛け軸は店の主人に強いられて購入したものだし、順拝の証であるスタンプ納経 帳はちゃんと持ってきている。私は半分言い訳を考えつつも、このまま出発するべきか否かの岐路に立たされた。

 列車がホームに入ってきた。
「やっぱり取りに帰ろう。一本遅らそう」私は決断した。
「そうね、あとで後悔するような気がするわ」妻もすでに私と同じ選択をしていた。
 結局、私たちは「お大師さんをお迎えに」自宅までタクシーを走らせる。往復1時間半のロスとタクシー代を費やしてしまった。今回は初っぱなからずっこけてしまった。前途が思いやられる。

 だが、新幹線に乗ってしまえば何やらホッとして、やっぱり取りに帰ってよかったと思うようになった。現金なものである。すると、気分まで明るくなってもうおしゃべりを始める。
「だって、旅の間中ずっと心残りですものね」
「そういう旅は楽しくないからな」

 旅も人生もできるだけ憂いは少ないほうがいいに決まっている。のちのち禍根を残すかどうかは、日々の一つひとつの局面の選択にあると言えよう。人間の存 在のありようとは一瞬一瞬の自己選択であり、しかもそれは理性という自由意志によって可能であると主張したのはヨーロッパの哲学者たちだった。人間は神の 意志のうちに創造されたとする人間の本質的な存在規定は、彼らによってその「くびき」を解かれた。近代的自我と呼ばれるものである。

 「神からの自由」は理性と自由意志の勝利のように思われた。デカルトは「われ思う。ゆえにわれ在り」と言い、ニーチェは「神は死んだ」と言い、ハイデッ ガーは「今ある自己からの脱出ができるものは人間だけである(脱自存在)」と言い、サルトルは「実存は本質に先立つ」「人間は、彼が自らつくるところのも のより以外の何ものでもない」という現実存在主義(実存主義)を主張した。それらは近代人にとって人間存在の新たな方向性を与えたかに見えた。しかし、実 存哲学が二十世紀、西洋のニヒリズムを克服できなかったのは何故だろうか。
「君はどうして取りに帰ろうと思ったんだ」
「あとで後悔するような気がしたからよ」
「だろう。つまりそういう気がしたんだ。この場合はともかくとして、人間が行動を選択するとき、理屈では説明できないことってよくあるだろう。特に人生のターニング・ポイントになるような岐路の選択は、いったい何を拠り所とするのだろう。理性だけだろうか」
「私の場合はね、例えば人生の難局に直面したときは、まずその問題について悩んだり考えたりすることをとりあえず放棄するのよ」
「一種の思考停止だな」
「そう、そうしてまず頭を白紙の状態にしてみるの。そうやって頭の中をカラッポにしていると、フッと方向性が見えてくるの。見えてくるっていうよりも聞こ えてくるって感じかしら。そうやって自分の道を選択してきたのよ。その選択は私にとっては結果的におおむね正しかったわ。もちろん、正しかったと思える結 果に到達するには意志的な努力はしてきたけど」
「それが東洋的な悟性というものだよ。西洋的理性の対極にあるものだ。それにだな、理性と言っても所詮、頭のはからいのことだろう。つまり、無明の頭で解くしかないじゃないか。理性の力だけで問題を解決しようとすればするほど、別の問題が生じることだってあるんだ」
「そうね。無明の頭で問題を解決しようとすると、かえって問題がこじれることはあるわね。おそらく問題のとらえ方の違いでしょう」
「というと?」
「つまり、問題とは正解付きの問題集みたいなものよ。正解はそこにすでにあると思うの」
「それが頭の中をカラッポにしているとフッと聞こえてくる声なんだよ」
「あとは正解に到達するための現実手段という数式を立てるだけよ。それなら私のようなオバチャンにだってできるもの。もっとも私の場合、算術でしか解けないけどさ」
「そうなんだ、正解はすでに提示されているんだ。そのことを先に直感してしまう。その力を哲学的にいうと感性、東洋的悟性というんだ。到達の仕方は人それ ぞれのやり方でいいんだ。合理という西洋的理性はそこではじめて発揮されるんだ。問題は本来解決されているというパラドックスを見抜いた君はえらいぞ」
「そんなことがどうしてえらいの」
「うん、実はお釈迦さんが全く同じこと言ってるんだ」
「あなた、お釈迦さまとまたディベートしていたの?」
「いや、さっきから僕の金剛杖にびっしり書かれている般若心経を読んでいたらふとそう思ったんだ。ほら、最後に羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提 婆訶(ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー ハラソウギャーテー ボージー ソワカ)って書いてあるだろう」
「ヘーンなの。蛙の鳴き声みたい」
「ばか、これはサンスクリット語の音訳じゃないか。一種の呪文さ」
「あっ、そうか、マントラなのね。じゃ、私も覚えようっと。ギャーテー ギャーテー......」
「しょうがないな。まあいいや、その呪文の意味はね、"到れり、到れり、彼岸に到れり、みな彼岸に渡り切っている。悟りは成就した。めでたし"というような意味なんだそうだ」
「言いたいことわかった。つまりお釈迦さまは"悩むことは何もない。問題は本来解決している。正解は出されているよ"って言っているじゃないか、こう言いたいんでしょう」
「当たり。だから、問題は解決を伴って現れると解釈したオマエさんはお釈迦さんと同じだと言ったんだ」
「またまたあ、おだてても何も出ませんよ。なんでそんなこと考えたの」
「うん。学生時代実存主義って流行っただろう。理性と自由意志だけが人間の生き方を決定するとしたあの哲学は、もしかすると、この頃盛んに言われてきた能力主義とか競争原理とかに関係があるんじゃないかと思ったのさ」
「そうね。世の中何かギスギスしてきたわよね。私が四国に行きたくなったのも、こんな世相にストレスがたまったからなのよ」
「だから、西洋哲学はもう新世紀には対応できないのじゃないかって思うんだ。自由意志は確かに夢と希望を与える。今流に言えば自己実現さ。でも、こういう 思想の上滑りは、資本主義経済社会の中にあっては世俗的な能力開発につながりやすいんだ。アメリカンドリームの国からカーネギーやナポレオン・ヒルのよう な成功哲学ビジネスが大流行したことと、あながち無関係ではないと思うんだ。日本人もかなりの知識人やエコノミストたちが熱狂したけどさ。僕はそれが果た して人間を本当に幸せにするのか疑問をもっているんだ。なぜかといえば、自己選択による上昇志向の心情には、完全性は常にかなたの前方にしかないという自 己矛盾があるからだよ。逆にいえば、現実とは常に未完であり、実存しようとすればするほど、かえって人生に満足できないことだってあるからさ。そこで生じ るのは自己不満の感情だ。こういう価値観を何の疑問もなく受け入れた社会はまず競争社会となるね。そして、常に他者との比較によって自己を保とうとする。 すると、家庭が、次に教育現場がおかしくなるよ」
「男って両刃の剣なのね。本当に救われない生き物なのね。何か、常により完全な、より輝かしい太陽のようなものを目指して前進するしかないの?」
「当然、そう思うだろう。実はこのような欧米流の人間観こそ資本主義にとっては思うツボなんだ。資本主義とは常に市場に"需要"という名の"不満"が必要 だからだ。これまで資本主義は人間の欲望を無限に開拓し、消費を無限に推し進めることによって発展してきた。そして、勝者のみがより多くの富を獲得し、敗 者は勝者をさらに富ませるための、文字通り消費(される)者となってきた。無限成長なんてあるわけがない。こういうネズミ講みたいな成長至上主義の経済シ ステムには根本的に問題があることぐらい、バブルが崩壊しなくてもわかっていたことじゃないか。目の前にニンジンをぶら下げられて死ぬまで走らされる馬 じゃないぞ、俺は」
「確かに資本主義市場経済の最大の国アメリカが豊かかどうかは疑問よね。離婚率やホームレスは先進国では世界一だし、麻薬や凶悪犯罪も世界一だし、勝者と敗者がハッキリと二分されちゃうのよね」
「そうなんだ。理性とは本当に目覚めた理性なのか、無明の理性なのかを自問しなければ、何か大切なものを失う危険性があるんじゃないか。もしそうなら、近 代的自我とはもしかすると欲望というサタンかもしれないよ。欲望を輝かしい成功という太陽に見せかけたサタンの魔術に引っかかっているのかもしれないよ」
「あのね。昔から男って生まれつきの神経症だとは思っていたけど、それは資本主義を考えだした西洋人のほうが重症だわ。仏教のことはよくわからないけど、多分お釈迦さまは本当の太陽の位置がわかったのよ」
「というと?」
「つまり、本物の太陽は前方に輝いているのではなくて、自分の背後に照っているってこと」
「......あっ、そうか。うまいこというなあ。さすが街のオバチャンだ」
「オバチャンだからわかるのよ。お釈迦さまも東洋人だから気がついたのよ。太陽を前方に置くとどうなる? 自分の影がうしろに伸びるでしょう。 それは自 分の姿でもあるのよ。でもね、太陽に向かっているかぎり、自分の影が等身大なのかそれ以上なのか、どんな形をしているのかわからないでしょう。ただ背後に 得体の知れない黒い影がある。おそらく無意識のこの感覚が、西洋の不安哲学の正体じゃないかしら」
「なるほど、だからフロイトなんかの精神分析学も出てきたんだ。現代病って不安神経症だね。僕はそもそも実存主義っていう言い方が気にくわなかったよ。イ ズム(主義)ではなくて、実存そのものだ。イデオロギーじゃなく実存の根を深めることが現実存在の本当の意味だと思っていたよ」
「そうよ。実存を深めることよ。そうすればわかるわ。太陽は自分の背中を暖かく照らしているってことが。当然自分の影は目の前にあるのだから、それははっ きりと見える自分の姿でしょう。しかも、影の動き方向などすべて自分の思うようにコントロールできるわ。これが実存イズムじゃなく、本当の実存じゃないか しら。どこか不安があって?」
「さすがだ。まるでお釈迦さんの自灯明の教えみたいだな。仏教の本でも読んだのか」
「一冊も。レディースコミックなら毎日読んでいるけど。ね、ね、ふくふくフニャンってマンガ私大好きなの。一人暮らしのおばあちゃんとまぬけな猫の話なんだけどさあ。帰ったら読ませてあげるわね」

 二人は大学時代に知り合ったせいか、今でも時々学生のような会話になることがある。気がついたころには徳島に到着していた。

 広島の駅では人の視線が気になっていた金剛杖も、徳島駅ではまったく気にならない。ここはお遍路さんの融け込める土地である。駅前レンタカーでは偶然に も一回目の旅で世話になった同じ車(白のカペラ)が待機していた。なにやら旧知に再会したような気分になり、ここでも軽い安堵感を得た。運転も慣れてい る。さあ出発。

 今回の計画は第二十一番札所・太龍寺から第三十五番札所・清滝寺の15ヶ寺である。例によって妻が道草を組み込んでいるので、敬虔な遍路旅というよりもズッコケ珍道中になりそうだ。

 かねて知りたる道、国道55号線を小松島方面に向かって西に走り、羽ノ浦町を過ぎたところで那賀川に沿って県道に入る。太龍寺は那賀川の上流、賀茂町の標高600メートルの山頂付近にある。

 初日は太龍寺山の麓で一泊した。このホテルは太龍寺に挑む歩き遍路の遍路宿としても利用されているようで、すでにそれらしい客が投宿していた。ただ歩き 遍路とはいっても、全行程を何がなんでも徒歩で踏破する人もいれば、途中で列車やバスなど適当に利用しながら回る人もいるようだ。お遍路さんには年配者が 多いが、皆がみな峻厳な山岳地に徒歩で挑むわけではない。太龍寺へは平成5年からロープウエーで登れるようになっていた。

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