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空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第六回

◆第2日目(1996年6月25日)−悩める空海、捨て身の山・生老病死は人生の危機管理・「坂の上の雲」と名もなき漁民−

●第二十一番札所・太龍寺

第二十一番札所・太龍寺
 翌朝、久しぶりの遍路ルックに身を整えると朝一番のロープウエーに乗る。早過ぎたのか、百人乗りのゴンドラの乗客は私たちだけである。

 西日本一の長さを誇るというロープウエーは、U字型に大きく蛇行した那賀川の上空をひとまたぎすると、眼下に素晴らしい眺望を展開していく。剣山山系の 遥かな頂には、山岳ダービーで奮戦した鶴林寺の屋根が瞥見された。太龍寺は、焼山寺、鶴林寺とともに「阿波の三難所」といわれる峻厳な山岳霊場であり、か つて空海が修行した由緒ある霊場でもある。

 ゴンドラは難所の谷間をあっという間に飛び越えて行く。ゴンドラの床の中央が一部鉄格子にしてあり、そこから吸い込まれそうな谷間をのぞけるようにして ある。だが、鉄格子の上に乗るのは少し勇気がいる。それが面白くていい年をした遍路夫婦がまるで子どものようにはしゃぐ。一体この二人は何をしているのだ ろう?

 岩石だらけの胸突き八丁の「遍路ころがし」を何と10分で来てしまった。山頂のロープウェーの待合所で、売店のおばさんに椎茸茶を振舞ってもらって外へ 出てみると、太龍寺はもう目の前にあった。正面の広い階段の左右に黒塗りの大きな石柱がまず目に飛び込む。左に「四国霊場第二十一番」、右に「舎心山太龍 寺」と彫られた字が真っ白く浮き上がっている。おそらくロープウエーで来る参詣者のために造ったものらしく、まだ新しかった。

 石段を登って山門、仁王門をくぐって行くと、深山の懐に包まれた境内には凛とした冷気が満ち、相当深くて広いことに驚かされた。納経所でもらった境内の 地図を見ると、本堂、大師堂、多宝堂、求聞持堂などをはじめ、六角経堂、護摩堂、弁天堂、中興堂、鎮守堂など諸堂が配置されている。西の高野山といわれて いるそうだ。私たちはこの霊場に心洗われる思いで他の寺よりも長居をした。

 空海は若いころ吉野や四国の山で修行したといわれている。空海はもとは僧ではなかった。彼は官僚になるべく奈良の大学で学んでいたが、官の学問に疑問を 感じて仏教を志す。そして、18歳のときに大学を飛び出し、約束された将来も家も故郷も全て捨てて一介の私度僧となって山野を放浪した。

 そのとき、一人の沙門から虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を授かった。虚空蔵菩の真言を一日1万遍唱えるという修行を積めば、一切の経法とその文義を暗記できるという。そして、修行が成就したあかつきには虚空蔵菩の化身である明星が飛来するという。

 7世紀、インド仏教の発展として興った密教は、奈良時代にはすでに日本に断片的に入っており、奈良仏教や日本古来の山岳宗教と混在しながら、主に吉野の 修験者あたりが盛んに修法していたといわれている。これらは雑部密教といわれ、空海の確立した日本真言密教(雑密に対して純密または正密という)とは区別 されている。

 ともかく吉野の金峯山などで修行を積んだ空海は四国に渡り、好んで山岳を登攀しては修行に明け暮れた。そして、若き空海が決死の修行をした史実に残る阿 波の太龍嶽がここ太龍寺である。だが、一日1万遍唱え、百日の荒行をもってしても明星はついに姿を現さなかった。空海19歳のときであった。

 ロープウエーから眺めれば、険岨な岩峰の頂上で求聞持法を唱える空海の座像が小さく見える。谷響き、山谺する空海の声が聞こえてくるようである。舎心ヶ嶽と呼ばれるあの峰は、悩める空海の捨て身の「捨身ヶ嶽」でもあったのだろう。

 舎心ヶ嶽の向こうは海である。空海はここで山を降り、そして海へと向かった。妻に誘われて四国に来た私もまた、空海を追って山を降りて行った。



●第二十二番札所・平等寺

第二十二番札所・平等寺  那賀川上流に沿った鷲敷ラインから195号線に入り、ひとまず里へと下る。

 最近は道路標識が充実しており、神社仏閣の案内標識も多く、主要道路の要所要所には必ず大きく掲げてある。その標識を見つけるまでが勝負である。一度目 指す札所の案内標識を見つければ、そこから霊場は近い。あとは手書きの案内板などを見落とさなければ、まず道に迷うことはない。

 すんなり到達した平等寺は、田園ののどかな車道に面した明るい感じのする寺であった。仁王門には五色の幕が張られ、山門を中心にして両翼に延びた寺の塀が、さらにのびやかな印象を与える。

 朱塗りの仁王像に一礼して境内へと入る。森を背にした本堂が山の中腹から涼しげに私たちを見下ろしている。本堂へは42段の男厄坂おとこやくざかと13段の女厄坂を登って行く。石段にはおびただしい数の1円玉や10円玉が散りばめられている。厄落とし信仰なのだ。
「はい、1円玉」
 妻が1円玉を一握り私に与えた。小銭は普段から賽銭用に貯め込んでいたのでかなり持ってきた。
「ちゃんと一つずつ並べながら登るのよ」

 厄年でもないのに妙なことをやりたがる。さっさと登りたい気持ちを抑えて、私は1円玉を置きながら一段一段登る。そして、石段を見つめながら思った。
(小銭といえども、このまま放置しておくのはもったいない。こんなにばらまかれた硬貨を寺は回収するのだろうか。いや、きっと定期的に回収するはずだ。集めるとしたらどうやってやるのだろう。そうだ、シダ箒で階段の上から掃き落せばよい)

 霊場に来てこんなことしか頭に浮かばない私は、やはりいいかげんな遍路である。

 先に登った妻は(無心で厄落としをしている?)夫の姿をカメラに収めている。そして、次は女厄坂である。妻は自分も撮ってくれという。なるほど、彼女はこれが目的だったのだ。

 1円玉を並べる。こんなことが愉しいのだろうか。いや本人は実に愉しそうである。彼女は高価なブランド商品や貴金属類を欲しがったことは一度もない。(女は御しやすいのか、はたまた御しにくいものなのか)わからなくなって、心の中でそっと空海に問いかけてみる。

 女厄年は33なので、13段の女厄坂を女遍路が登るときは、残る20を空踏みして登るそうである。妻はどうもやった様子がない。それもそのはず、彼女の 厄年はとうに過ぎていた。人生は何でも面白がること。彼女の信条である。なるほど、これにまさる厄除けの秘訣はあるまい。
(1円を、並べて登る平等寺......)(一縁を、結び辿りし平等路......)暇な頭で一首ひねってみたが、下の句が思い浮かばなかった。

 195号線をさらに海へ向かって40分ばかり走り、津峰山の「津峰神社」を探すが、標識が見つからなくて少々てこずる。両替もしたかったので国道沿いの銀行に入って、ついでに道を尋ねようと思った。

 カウンターの女子行員は両替機を使ってくださいというが、考えてみればそんなものを使ったことがない。私はいまだにキャッシュカードとかいうものすらよ く理解できないでいる。常に現金主義なのだ。世間ではたいていやっている地方税や保険料の銀行引落しなども嫌いで、面倒だが全て自分で振り込んできた。給 料の自動振込みは家庭における父権を失墜させ、税金の天引きは国民に納税意識を失わせるロクでもない制度だと思っている。
「すみませんが、使い方がよくわからないのですが」

 と先ほどの女子行員に言うと
「じゃ、こちらで両替いたしましょう」

 女の子はにこやかに受け付けてくれた。道も丁寧に教えてくれた。ついでにどこから来たのかと質問するので、広島だと答えると
「私、広島に友達がいるんです」

 と急に自分の方から話し出した。そして、広島のお好み焼きはうまかったとかなんだとか喋り出した。それが自然で嫌味がない。明るく親愛感にあふれてい る。私もついカウンター越しにその若い娘とおしゃべりをする。車に戻って発進しようと思ったら、せっかく聞いた道を忘れていた(美人だったことは覚えてい た)。

 津峰神社の展望台レストランで昼食にした。各地に新奇のテーマパークの流行るご時世、ここはほとんど客足の跡絶えた、もと観光地の殺風景なレストハウスであった。だが、注文をとりに来た一人きりのウェートレスはこれまた気立てのよい娘さんだった。

 先ほどの女子行員もそうだが、そうじて徳島の女性は気持ちがいい。街の食堂やホテルの従業員もみんな愛想がいい。それは妻も感じていた。「讃岐男に阿波女」とは本当かもしれない。

 参道入り口の半円形の珍しい階段を登って、そこから徒歩で5,6分だと聞いたので登り始めると、わずかな急坂に妻はもう息を切らせ始めた。私も足腰が弱っていることに驚いた。二日目からは脚も慣れるが、旅行の第一日目はいつもこうである。

 山の上の神社は深閑とし、本殿の前には土俵があった。土俵の脇で四股を踏んで柔軟体操をしていたら、ニワトリが二羽首を振り振り通り過ぎて行った。形ばかりの貧相な土産物屋があり、店番の老人は口を開けて眠っていた。
「体、鍛えましょうよ」
「全くだ。運動不足だ。これまで仕事ばかりだったからなあ」
「年を取ったらまず脚が弱るのよ。最後は車椅子か寝たきりになるにしても、それまではできるだけ自分で動きたいじゃない」
「でも、みんな最後は人の手を借りることになる。それが自分の子どもや孫の年にあたる医者や看護婦さんだ。はたして、僕ら団塊の世代は頼りになる次世代を育ててきたといえるかな」
「最近では、スーパーで子どもの目の前で堂々と万引きする若いお母さんが多くなってきたそうよ。かつて日本人は世界でも子育てが一番上手な民族だといわれたことがあったのに、今では一番下手になったんじゃないかしら」
「16世紀、日本に来たフロイスが書き残している。ヨーロッパ人から見た当時の日本人は最もモラルが高く、礼儀正しい優秀な民族だったそうだ。それが今は どうだろう。戦後、経済の復興には成功したけど、人心の復興には失敗したと思うな。それはモラルの低下だ。つまり、教育が失敗したということだ」
「こういうことが教育評論の話や他人事ではなくて、実感として切実にみんなが感じるときは、高齢社会を迎えたときでしょう」
「そうなんだ。医療問題とか、老人福祉制度や設備環境などは専門家も議論するが、一番肝心なのは人的環境だと思うよ。今のような子どもの育て方をしている と、今にきっと日本は老人に冷たい社会になるだろうよ。考えてもごらん。いま学校で陰湿ないじめという弱者虐待が日常化しているが、あれは近未来の日本社 会の縮図だと思うよ。あの子たちが大人になる頃は、能力主義とやらの、今よりもっと過酷な競争社会になり、これまで以上のストレスがたまるだろう。そんな 中でいじめを日常化してきた子どもたちが弱者に対して急に優しくなるだろうか。今度は日本全体にいじめや犯罪が蔓延するだろうよ」
「老人を食い物にするシルバー産業、老人福祉を食い物にした高級官僚も最近いたわよね。オヤジや老人狩りをする青少年犯罪、かつての日本では考えられなかった事件がもう続発しているっていうのに、みんな呑気よね」
「敬老はいまや軽老だもんな。そのうち棄老さ」
「自分が足腰立たなくなって、若い人の世話にならなければならなくなってから、私たちの言っていることが実感できるのでしょうね」
「そのときは遅いんだ。生老病死というお釈迦さんの教えは人生の危機管理でもあるんだよ。仏教の国とは思えないね」
「あなた、本当はこの土地の人柄を見ていたのでしょう? 特に老いを迎えたときの自分が安心して身をゆだねられる人情のある所はないかって。銀行のお姉さんはやさしそうでしたか? 実は私もそうなのよ。徳島の人は少なくとも好感がもてるわね」

 二人とも徳島に来たときから、どこかでこの地の人情に注意を払っていたことは確かである。

 帰りは無人のリフトに乗って下山した。阿波の松島と呼ばれる橘湾の情景が、いつしか薄曇りとなった空の下に、浮き島のような島影を点在させている。

 そこはかとない人情に触れた土地を、妻はリフトに揺られながら眺めている。その後姿が何となくさびしげである。私たちは老後をどこでおくるかまだ決めて いない。いま住んでいる広島市で暮らさなければならぬ理由は何もない。私たちはもともと広島の人間ではない。そして二人きりである。私たちには子どもがで きなかった。

 日和佐町の二十三番札所に向かう途中、国道沿いの喫茶店で休憩した。(中略)

 ひと休みした後、再び発進。今度は妻は日和佐の「潮吹き岩」を見るのだというので、国道をそれて小さな漁村に入って行く。村は閑散として人気がない。そこで車を降り、潮を吹き上げるという岩の見える埠頭の先端まで歩いて行った。

 沖に向けて突き出した岩の一群を眺めていると、間もなく岩礁の中ほどから勢いよく潮が吹き出た。鯨が潮を吹いたようである。わざわざこんなものを見物に来る観光客はいない。辺りに聞こえるのは潮騒ばかりで、海風がどんよりした空の下で戯れているだけだった。

 人影のない波止場で海を眺めている中年夫婦に興味をもったのか、犬を連れた見知らぬ老人が近づいて来て、私たちにこの村の昔話を語ってくれた。

 それは、村がまだ貧しい漁民の集落だった頃のことである。沖合を航行中、嵐で難破した外国船の乗組員を村人たちが身を挺して救助した。この海岸から勇敢にも怒涛の海へ小船を漕ぎ出し、初めて見る異国の人々の命を救ったのである。

 明治25年、7月23日のことだった。難破船はノースアメリカン号、英国船だった。この知らせに感激した英国首相は、後日村人に感謝状とともに金一封と銀メダルを贈り届けたという。老人は海に生きた祖父たちの快挙を語った。

 万引きするのも日本人、そしてこれも日本人である......。

 私は海を見ていた。

 私は近代国家建設に邁進する明治政府と、名もなき村人の壮挙とを思い合わせていた。日本の対英外交はその後急速に進展を見せている(日英通商航海条約は 海難救助のあった2年後、明治27年に結ばれている。列強の不平等条約に耐えてきた日本が、それによって治外法権を撤廃し、関税自主権の一部を回復し た)。

 遭難救助と日英条約の締結に因果関係はないだろう。ただ、時は日本が「坂の上の雲」を目指して駈け上がろうとしていたときで、自国の存立を富国強兵と殖 産興業に賭けていた。同時に「坂の上の雲」への道は、欧米列強の支配する世界のパワー・ゲームに加わる道でもあり、日本の近代史の大きな岐路であった。

 しかし......である。はたして、あの村人たちが「坂の上の雲」を見ていただろうか。私にはそうは思えなかった。人種差別の意識もなく、ただ人命救出に命を賭けた素朴な日本人の姿しか思い浮かんでこなかった。
「ご老人、ここは何というところですか」
「志和岐といいます。平和を志すと書きます」
「ぎは岐れ道の岐ですね」
「そうです」

 老人もまた海を見ていた。三人は潮風の中でしばらく海を見つめた。

 阿波の国最後の霊場、薬王寺はもう間近であった。



●第二十三番札所・薬王寺

第二十三番札所・薬王寺  空海とともに同行三人の旅は続く。

 阿波路を辿ってきたお遍路さんは、第二十三番札所・薬王寺を打てば「発心の道場」の打ち上げとなる。四国霊場では阿波の国(徳島県)を「発心の道場」と呼び、すなわち第一番札所・霊山寺から第二十三番札所・薬王寺までを指す。

 ちなみに、土佐の国(高知県)は「修行の道場」といわれ、第二十四番札所から第三十九番札所の16ヶ寺である。伊予の国(愛媛県)は「菩堤の道場」とい われ、第四十番から第六十五番の26ヶ寺。最後の讃岐の国(香川県)は「涅槃の道場」と呼ばれ、第六十六番から第八十八番まで23ヶ寺である。

 なお、四国霊場の寺を「札所」と呼ぶのは、もともと巡礼者が参詣したとき寺が木のお札を与えていたことに由来する。祈願をする巡礼者はそのお札を本堂へ打ち付けていたことから、霊場順拝を今でも「札を打つ」といっている。

 もっとも、木のお札はその後紙のお札に変わり、貼り付けられるようになった。今でもお堂の鴨居や柱に打ち付けられた木札や貼られた紙札を目にすることが 多いのはそのためである。おそらく、諸堂の損傷がひどくなったためであろう。現在は、納札を御堂の前に設置してある箱の中に入れることになっている。

 さて、日和佐の薬王寺は阿波国の締めくくりに相応しく豪壮な寺だった。門前町の賑わいを見せる大通りに面した寺の駐車場に車を駐めて、私たちはまたお遍路さんに変身する。

 ここにも厄除け坂があった。寺のスケールはちょっとした城郭並みである。それだけに、女厄坂33段、男厄坂42段、男女還暦の厄坂61段というのも立派 なもので、特に男女厄坂の石段の下には、薬師本願経を一石一字に彫って埋められているという。1円玉はいっそう夥しく敷きつめられている。お遍路さんも多 いが、この寺の縁日には数万人の人出で賑わうそうである。
「近くに千羽温泉があるのよ。それで湯治も兼ねた参詣客で賑わっているのね」
「お年寄りにはいいところだな。厄除けの寺だし、何しろ医王山、薬王寺というくらいだからね」

 御詠歌は《皆人の病みぬる年の薬王寺 瑠璃の薬を与えまします》というものである。本尊はむろん薬師如来である。

 1円玉を置きながら石段を登りきると、広々とした境内に出た。正面が本堂、左手に大師堂、護摩堂。建ち並ぶ堂宇の中で右手の山頂にはひときわ立派な瑜祇塔ゆぎとうがそびえている。瑜祇塔の前は展望台になっていて、足下に小さな日和佐の街並みが一望できる。街並みは中心を流れる川を挟んで日和佐港へと連なる。その向こうは太平洋である。ウミガメの産卵で有名な「大浜海岸」は近い。
「ウミガメの産卵を見られるかしら。今夜泊まるウミガメ荘は、夜中に産卵が始まったら館内放送で知らせてくれるんですって。ウミガメが上陸する大浜海岸のちょうど前にあるのよ。でも逢えるかしら、ウミガメに......」
「なんとか逢いたいなあ。やっぱり一泊じゃ無理かなあ」

 とはいえ二人の期待は相当なものだった。実は今回の旅ではウミガメの産卵を見るために、妻はわざわざ大浜海岸に泊まる計画を立てていた。「発心の道場」最後の札所を打ち終えた二人は、ウミガメとの対面に胸ふくらませて先へ進んだ。

 薬王寺を出た頃は日も傾いでいた。あとはひたすらウミガメ荘へと一直線、といきたいところだが、途中でまた寄り道。妻はまだ見たいものがあると言うのだ。「えびす洞」である。

 海岸の県道を走らせて行くと、道路沿いに「えびす洞」と書いた小さな石柱を見つける。早速、車を止めて磯へ下りていく。岩場に続く細長い遊歩道を歩いて 行くと、間もなく地底から響いてくるような潮鳴りが聞こえてきた。音の震源地まで行ってみると、驚いたことに海に迫り出した岩壁に巨大な穴が開いている (高さ52メートル、直径30メートル)。波が穿った洞門だ。夕暮れどきの岩塊の相貌は巨大な魔物が口を開けたように見える。

 外海から洞窟に押し寄せてくる小山のような波が轟音を立てて崖下で炸裂する。波はにわかに凹んでいくかと思えば、たちまち膨らみ昇って荒岩に襲いかかる。仄暗い洞窟で深々と呼吸をしていた海の生き物は、突如野生の雄叫びを轟かせた。
「こわいぃ」と妻。

 可愛いものである。私はこんな場所にくると急に元気になるので、もっと近づいて覗いてやれとばかりに、崖の下におりようとすると、
「ダメ、ダメ、危ないってば、やめて、いけません。ケンゴさん!」

 実にウルサイ。私にとっては危なくも何ともない。海の岩場は子どもの頃の遊び慣れたる庭である。付き合い方も心得ているつもりだ。しかし、妻が心配するのでやめておいた。

 自然は囁きまた吼える。小川のせせらぎから雷雨にいたるまで、それらはときにはおそろしげに見えても私には快い。自然はそうやって人に語りかける。人気 のない山野に一人あって、私は寂しいと感じる人間ではない。大都会のあの群衆の中の孤独に比べれば、自然とはいつも直截な交感ができる。恐ろしいのはむし ろ人間のほうだ。

 ウミガメ荘は国の天然記念物のアオウミガメが上陸する大浜海岸の前にあった。しかも、私たちはちょうど産卵期に来ていた(産卵期は5月中旬から8月中旬。産卵は夜の10時頃から早朝にかけて、上陸は特に大潮の夜)。

 部屋に手荷物を置くと、私たちはさっそく大浜海岸に立ってみた。懐かしい磯の香が鼻を突く。

 ウミガメは美しい海岸を求めてやって来るというが、遠くまで弓状に延びたこの砂浜はまことに美しい。海は生動し、波は次々と生まれては広大な浜に押し寄せてくる。二人は海の律動に包まれながら、細やかな砂を踏みしめて大浜を歩いて行った。

 沖には群れ立つ波頭が隠見される。波頭はあちらこちらに現れてはまた身を沈める。やがて互いにぶつかり合い、犯し合いながらまたたく間に一団の山波に膨 れ上がると、続けて幾重にも折り重なるようにして、こちらへ、こちらへと押し寄せて来る。それは、まるで巨大な怪鳥が翼を広げて襲いかかってくるようだ。 波は後退る私たちの前で、一気にその身を巻き込んで怒号とともに砕け散る。散華した余波は砂の鏡面を走り、二人の足跡を吸いとって一斉に退いて行く。

 今度は私たちが波を追いかける。波は隊列を整えると、再び力を増幅して襲いかかってくる。それはまるで大人が子どもを脅かしつつも細やかに戯れてくれる かのように、砂浜をどこまでもどこまでも追い上げて来る。驚き逃げ惑う子どもたちの足元に、最後は泡立つやさしい水の舌を差し出して引き上げて行く。

 (今夜ウミガメに逢える)

 二人は時を忘れたように日暮れる海と戯れていた。

 満月である。

 人の世が眠りにつくと、万物の阿頼耶識あらやしきは 瞬時に無限の時空を飛ぶ。海辺は膨大な歳月を寄せては返す波に掃き寄せられ、緻密な砂の滞積は徐々に傾斜をなし、しだいに豊饒な大浜の砂丘を形づくって いった。月の雫は青暗い海面に霏々と降り注ぎ、さざめく渚は海の神話を囁き合い、底澄んだ海は太古の記憶を呼び起こしていた。

 刻は満ち、大潮を迎えた。

 銀色に煌めく小波がひときわ清らかに砂丘を洗い流すと、そのあとに一つ、か黒い小石の影が残されていた。影はかすかに動いたかに見えたが、それは束の間 のことであり、また静止した石の姿に戻る。いつしかその石影は小岩ほどの大きさにもなり、月光はその濡れ輝く緑の甲羅を照らし出す。清涼な砂の絨毯の上に は、万里の彼方から訪った太古の使者を迎えていた。

 妻と私は、浴衣の襟を合わせてそこにかがんでウミガメを見ていた。母ウミガメはその緑褐色の重厚な甲羅を自力で砂浜に運び揚げると、ひとつ大きくため息をついた。やがて両の後脚で懸命に掘った穴の中へ、一つ、また一つ、輝くようなやわらかい命の真珠たまを産み落とし始めた。

 そのとき、私は見た。憂いを含んだウメガメの目から、白い涙が溢れ出るのを......。

 夜が明けていた。

 妻はまだ横で静かに寝息を立てている。まどろんだ頭の中に月の影が残る。昨夜遅くまで寝つかれずにウミガメ上陸を知らせる館内放送を待っていたが、とうとうウミガメは現われなかった。

 朝、ウミガメと逢うはずだった砂浜に妻が立っていた。口数少なく、彼女はいつまでも水平線を見つめていた。

 ウミガメは年々その数を減少させているという。さもあろう。この国の海岸は汚染され、どこもかしこもあの醜怪なコンクリートの塊、テトラポットがのさ ばっている。コンクリート経済大国ニッポン......ウミガメが来なくなったとき、この国は亡びる......。ふと、夢で見たウミガメの涙が私の脳裏をよぎった。

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