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空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第三十回

◆第六日目(7月1日)--諭吉と龍馬とこんぴらさん 死霊の山イヤダニ 空海曼荼羅と「まんだら四国」

 琴平の町に着いたのは昨日の3時だった。その日の午後は琴平見物。土産物店や骨董品店が軒を連ねる門前町の賑わいを楽しみながら半日歩き回った。名物の 高灯籠や、橋脚のない鞘橋などの史跡を見学。そして、四国のこんぴら歌舞伎大芝居で有名な「金丸座」(現存する日本最古の芝居小屋)などを見学した。

 今朝はホテルのロビー一面のガラスを通して、象頭山ぞうずざんの晴れた空が見えている。讃岐のこんぴらさんとして有名な金刀比羅宮は象頭山の山腹に鎮座している。

 九時、両側に土産物店が軒を連ねる参道の石段を上り始めた。参道入り口で大門までの365段を担いで登って行く名物石段駕籠いしだんかごは、もう客引きの準備を始めている。土産物屋には、森の石松の人形も片目をむいて愛敬を振りまいている。乾いた急な石段がどこまでも続く。

 大門をくぐれば、土産物店もなく神域となる。石塔が立ち並ぶ広い石畳の参道が一直線に伸びて、神社特有の清閑な空気が満ちている。本宮までは参道下から 数えて785段の石段である。登りつめたときには息が切れてヤレヤレと思う。ここまでが最もポピュラーな参詣コースで、ほとんどの参拝者は本宮で礼拝して ここから讃岐平野の眺めを楽しんで引き返す。私たちも汗をぬぐって讃岐富士を眺めた。

 妻はこんぴらさんは初めてだ。私は昔一度来たことがある。海上自衛官の頃、護衛艦で坂出港に入港したときである。着用していた白い夏制服が長袖の正装 だったためにとても暑かったのを覚えている。別に遊びに来たわけではない。艦長以下当日の上陸員は全員揃って参拝したのである。日本の船乗りなら誰でも一 度や二度はやってくる金刀比羅宮は、古くから海の守護神として船乗りの厚い信仰を集めている。

 本宮奥の絵馬堂には漁船、商船、タンカー、護衛艦、潜水艦、保安庁の巡視艇に至るまで、あらゆる船が詣でているのがわかる。帝国海軍の軍艦の写真も残っ ていて、船の絵馬や、写真などが所狭しと奉納されている。舵やスクリューなどもあり、まるでここは海の大師堂のようである。

 奥の院まで行くと、1368段である。あまり行く人はいないが、私たちは運動も兼ねて登ってみた。象頭山の山中深くさらに登ると途中にはいくつかの神社があって、奥の院の崖の上には大天狗とカラス天狗の面が海の方をにらんでいた。

 このような古代の神を守護神と拝む日本人も不思議な民族である。近代装備を誇る艦船はほとんどコンピューターの塊である。科学技術の粋を操る現代の船乗りとカラス天狗とはまるで縁がないではないか。

 この不思議の国ニッポンを欧米合理主義はどう考えるだろうか。おそらく、自然を収奪と対決の対象としかとらえなかった西洋人には理解できないことかもし れない。過酷な自然環境に育った彼らの歴史は、侵略と闘争の連続であった。現代は武力闘争からマネー闘争である。アメリカを中心とするマネーが日本企業を 買い漁っているようである。

 土佐の桂浜において、坂本龍馬の先見性は列強の覇権主義に欲望資本主義の謀略を感じたことだと語ったが、彼はしかし剣とソロバンを携えて世界の海に乗り 出そうとした変わった男である。彼のソロバンは国家を担っていた。龍馬の商売には私的利潤の追求というよりも、国事という発想が色濃くあった。私は、龍馬 の剣を日本文化の「聖性」を守らんとした「超理想」の象徴として語ったが、ソロバンもまた理想国家を体現するための「超現実」ではなかったかと思う。

 西洋資本主義というものをいち早く感知した龍馬は、ゆえに日本初の総合商社「亀山社中」(海援隊の前身)を創設している。のちに渋沢栄一や福沢諭吉が興 した本格的な日本株式会社なども、国事という使命意識をもっていた。また、いわゆる富国強兵の推進力となった日本の財閥も、理念においては渋沢や福沢と同 じである。

 だが、日本の旧財閥の功利的現実主義が、列強と競い合い、列強に肩を並べ、列強並みの近代国家になること以上の国家的目標があったのか、私は時々疑問に 思うことがある。なぜならば富国においては世界のトップレベルに躍り出た今日、さて日本は「富の意味」について世界にどのようなメッセージを発信するのか と聞かれたとき、この経済大国は何も答えられないからである。技術力、生産力、経済力ともに、すなわちニッポン株式会社が列強並みになったときの、国家と 日本人の生き方を、明治以来日本のリーダーたちは先送りしてきたのではないかと思うときがあるのだ。

 人間にとって、何が本当に大切であるか。学問は大切である。「一身独立し、一国独立す」ことももっともなことである。しかし、功成り名を遂げることを もって日本人を啓蒙しようとしたことは、どこか西洋に対する劣等意識があったように思える。取って取って取りきることが幸福になると考えたのは、西洋資本 主義である。日本人は捨てて捨てて捨てきったところにもまた真の豊かさがあると考えた。行基がそうである。空海がそうである。空也も一遍も西行もそうであ る。

 福沢諭吉や西周などを中心とした「明六社」という学術啓蒙団体が明治六年に結成される。ここに集う知識人の課題は、旧来の自国の因習や価値観を否定し、 日本人を文明開化の新たな人間観や社会観に向けて啓蒙することであった。新たな人間観や社会観はどこから生まれたのか。それは西洋思想である。「天賦人 権」なども、この世を人間中心に考えたキリスト教西欧社会の発想である。福沢が「学問のすすめ」に込めたメッセージ、すなわち個人主義、自由主義、功利主 義的学問観はいずれもこの国の古い価値観と対立するもので、新しくはあるが外来思想の影響である。

 さて現代は、福沢が望んだとおりの個人主義、功利主義、自由主義、欲望肯定の日本社会となった。モノ、カネが溢れ、「人事繁多」「多事争論」といった忙 しく活発で、変化に富んだ多元的な社会となった。だがはたして、その結果、福沢が主張したように自律的な秩序が保たれ、豊かで文明的に洗練された国になっ たといえるだろうか。

 私は違うと思う。この国は欲望資本主義に喰い荒らされ、人心は荒廃し、政、官、財はモラル・ハザードを起こし、学校も家庭も崩壊し、そしてもはや日本人 の人格の崩壊が始まったのが140年後の日本の姿ではないか。そのもとをたどれば、全ては個人の欲望と功利打算主義と拝金主義を強いる資本主義に追随して きた結果ではないのか。

 日本人は本来、カネはどこかで汚れたものだと感じる民族であった。一攫千金を狙うアメリカン・ドリームやギャンブル資本主義のような稼ぎ方は「好事魔多 し」といって、手放しで絶賛するような民族ではなかった。「悪銭身につかず」とか「子孫に美田を遺すな」などの人生知が、カネは必要だがどこかで用心すべ きことを知っていた。それは、日本人の、アングロ・サクソン以上に洗練された透明な感性が、行き着く果ての欲望地獄を知っていたからである。

「明六社」の進歩的知識人たちは、そもそも欲望の充足自体を何ら問題として見ていなかったようである。しかし、日本人の倫理意識の底には、常に欲望との葛藤があった。利己主義的な欲望を手放しで解放することに躊躇ちゅうちょしたのは儒教であり、欲望を否定したのは仏教である。最澄も法然も親鸞もそれで死ぬほど悩んだ。

 第一、欲望の問題をつきつめたのは空海密教であり、福沢が道徳的抑圧と感じた欲望の問題は、すでに空海によって高次なレベルで解決ずみであった。だが、 舶来ものの好きな明治のインテリたちは、母国の深い知恵を顧みるよりも、競って自由競争による欲望肯定論者(イギリスの古典経済に由来する市場経済の論 理)となったのである。

 小学生の頃、子ども向けの偉人伝で福沢諭吉のエピソードを読んだことがあった。諭吉は少年時代『西洋事情』という難しい本を読むえらい少年で、古い日本 の因習や迷信など信じない進歩的な少年だった。ある時、村人が畏れ敬う祠の中の神様は何だろうと、こっそり開けてみるとただの石であった。なんだ、石なん か拝んでいたのかと思った諭吉は、人目を忍んで他の石と入れ替えるのである。村人がそうとも知らずにその社を拝む愚かしさを物陰から笑う話だった。

 それを読んだとき、私は何か嫌なものを感じた。以来、福沢諭吉という人物にどこか親しみをもてなくなった。今思えば、著者は実証主義者諭吉の開明性を伝 えたかったのか、あるいは日教組選定の児童図書だったのかもしれないが、おかげで私は偉人福沢諭吉の偏見者に育ってしまった。

 さて龍馬のソロバンはどうであろうか。一般的に龍馬は自由主義経済の先駆者のように見られているが、私は明治の功利主義的合理主義者とは似て非なるもの であると思う。実は龍馬も啓蒙活動をやっている。海援隊には海軍、航海術、貿易という経営の三本柱の他に出版啓蒙という四本目の柱があった。龍馬の死に よってこの事業も夢半ばで終わったが、それでも龍馬の息のかかった海援隊三部作というのが残っている。

 慶応四年(1868)三月に刊行された『和英通韻以呂波便』は基礎英語テキストである。同年十二月刊『藩論』は地方自治を論じたものである。ここまでは われわれの知る龍馬らしい啓蒙であるが、それらより先に慶応三年(1867)、海援隊が真っ先に出版した『閑愁録』は、キリスト教を排し、仏教を勧める啓 蒙書であったことは意外に注目されていない。開国論者龍馬は、決して自国の文化を否定した合理主義者ではなかったようである。

 評論家、櫻田淳氏によると、日本国際文化センターの川勝平太教授が興味深いことを言っているそうである。川勝教授によると「東南アジア多島海は自由貿易 の発祥の地であった。イギリス人は東南アジアで自由貿易を学び、それをイデオロギーにした。自由貿易はアングロ・サクソンの専売特許ではない。その原形は 東南アジアにある」とのことである。

 また、京都大学の白石隆教授によれば、「英国の勢力が及んでくる以前の東南アジアは、人々の活動が、特定の排他的、閉鎖的な空間のなかに閉じ込められる ことのない『まんだらシステム』とも呼ぶべき自由貿易の秩序体系が維持されていた」そうである。「まんだら」とはいうまでもなく空海の根本思想の金胎両部 曼荼羅からきている。互いに孤立分断しているようでも、全てが一つにつながった全体のことである。

 皮靴を履き、万国法とピストルを持って海援隊を率いる龍馬は、いかにも開明的な印象を私たちに与える。多くの人は龍馬が生きていたら米カリフォルニアに 向かったろうと言う。しかし私は、彼はいずれ南海を目指したような気がする。同じ海洋民族のもつ進取性と開放性という価値が体現されている南洋諸国か東南 アジアへ向かったように思う。十八世紀以前に、すでに「まんだらシステム」と呼ぶべき自由貿易の秩序を形成した民族の知恵を見落としはしなかっただろう。 資本による収奪ではなく共生である。

 龍馬がこのカラス天狗を見たら......と、ふと思った。彼は諭吉のように馬鹿にするだろうか。龍馬はきっとカラス天狗にアカンベーをしながらも、やはり海の守護神のこんぴらさんを愛したような気がする。

 1時15分、琴平を後にして私たちは次の札所に向かった。

●第七十一番札所・弥谷寺

 琴平町から多度津を目指して善通寺市を抜ける。海寄りの国道11号線をさらに瀬戸内海方向に北上すると、やがて晴れ上がった空の下に弥谷山いやだにが見えてくる。山裾で車を降りて、私たちは再び民俗信仰の世界へと舞い戻る。

 山腹にある弥谷山の静かな山路を行くと、鬱蒼とした山阿さんあに仁王門がある。それをくぐると、一転してあたりには異様な空気が漂ってきた。陰森とした山径やまみちを辿るほどに、冥土の霊気のようなものが五感に伝わってきた。

 竹の生い繁る谷間の参道は、湿った土の臭いがひんやりとしている。小径は賽の河原になっていて、誰が積んだとも知れぬ小石がそこここに積まれている。苔むした石の地蔵が点々と並び、行き倒れた遍路の無縁仏のようでもある。

 崩れかかった地蔵堂の前を通り、賽の河原に架けられた石橋を渡って、小径は薄暗い樹林の中へ細々と続き、やがて山中他界へと入って行く。

 弥谷寺は古来死者の帰る山として弥谷信仰が続いている。山麓の人々はここにお参りする前に、まずお墓に行き、「イヤダニに参るぞ」と言って死霊を背負う格好をして、遺骨や遺髪を持って死霊を山に送り届けてきた。帰りは決して振り返ってはいけないことにもなっているとか。

 仄暗い林の中で、突如巨大な観音像に出くわしてドキリとした。風雨にさらされた観音像は、黒い涙のような雨跡をその青銅の頬にいく筋も流している。私た ちはやがて一直線の急な階段を登り、上りつめたところでやっと庫裏のあるわずかな平地に出た。右前方の雲水姿の大師像が目に入るとホッとした。

 鐘を撞いてまた石段を登って行く。岩陰に貼りついた細道の途中に求聞持窟があった。中に入ると、巌窟内の石仏の前には、阪神淡路大震災で被災した人の、 仏に訴える慟哭の声がビッシリと書かれた紙が置かれてあった。今は亡き人に会うためにきっとこの死者の山に来たのだろう。鬼気迫る文面に胸締めつけられる 思いがした。

 立ち並ぶ墓石の間道をさらに縫うようにして登って行くと、岩壁の下に幽陰なお水堂があった。比丘尼谷びくにだに経木塔婆きょうぎとうばの水供養場である。墓石や石仏に囲まれた水は澄んで冷たく、一口飲むと死者の霊がそっと忍び寄る気配がした。

 事実、この岩滴のたれる水場もかつては死骨を納めていた場所であった。五輪の塔の内の白い粉は人骨であったことも判明している。求聞持窟もかつては納骨納髪が納められていた場所だった。ここは墓場である。

 私たち二人は誰もいない崖下を、無数の梵字や五輪塔が浮き出る岩壁や、かずらの垂れ下がった磨崖仏まがいぶつを見上げながら石段をさらに登って行く。おしゃべりの妻は無言でついてくる。「こわい」と一言でも発したら先へ進めなくなるからだろう。ようやく岩山を背にした本堂(中は掘り込まれている)に辿り着いた。

 お札がところかまわずに貼られ、赤や白の幟旗や、人形や折り鶴、涎掛けや名刺や写真や経文など、実にさまざまな思いが取りすがっている。平成六年までは 本堂の壁に古い髪束が夥しく吊るされていた。(現在は寺が納髪を収納してくれる)。死者の髪束を供養する弥谷は、観念としての死霊の往く山ではなく、実際 に人骨を埋めてきた死霊の棲む他界である。

 大師堂は窟にかぶせるように建てられてあり、履き物を脱いで中に入るようになっていた。階段を上って堂内の祭壇の前で合掌する。後ろ正面の洞窟には、もの凄い数の位牌がビッシリと並べられている。

 祭壇の裏側に回ると「獅子の岩窟」と呼ばれる窟がある。奥には阿弥陀像、弥勒像、大師像の三体の石像が安置されている。片方の岩壁には穴が空いていて、 障子をはめ込んだ明かり取りがある。ここは大師が幼少の頃に窓から入る明かり(明星の窓)で学問に励まれた場所だと伝えられている。二人で灯明を上げて読 経する......。

 五来博士によると、かつては死者の霊は山に帰るという信仰があったが、さらに古くは霊は海の彼方に往くと信じられていたそうである。歴史的には、日本人 の死者の葬り方は水葬に始まり、その次に山中の谷に死者を捨てる風葬が行われ、奈良時代になって山の横穴の群集墳を作ってそこに死体を葬った。似た例とし て、沖縄では海岸にたくさんある洞窟に死体を一度入れて、その風葬骨を壺に入れて祖先の墓に納めていた。

 近代化された現代日本に、今なお生きているイヤダニ信仰を合理精神だけでは説明しきれまい。さあ、遍路旅を続けよう。

●第七十二番札所・曼荼羅寺

 再び琴平山の方角に引き返して善通寺市の郊外を行くと、緑に覆われた山が田圃の中にぽっかりと浮かんでいる。その我拝師山がはいしざんの麓に曼荼羅寺はあった。途中里芋畑の路傍に第七十三番札所の道標を見つけておいて(これは明日行く予定)、今日最後の霊場参りをする。

 曼荼羅寺は簡素だが、寺伝によると推古四年(596)、空海の先祖である讃岐の豪族佐伯氏の氏寺として創建されたとあるから、八十八ヵ所でも相当古い歴 史をもつ。かつては世坂寺と称しており、大師が唐より帰国後、本尊大日如来と金胎両部曼荼羅を勧請して安置し、それより曼荼羅寺と改められたといわれてい る。

 金胎両部とは、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅のことで、密教独特の宇宙観のことである。曼荼羅とは、サンスクリット語の「マンダラ」をそのまま漢字にした もので、「全体」とか「集合」とかいう意味だといわれている。密教では、我々のいる宇宙の本来の世界はそのまま仏の姿であると考えるから、宇宙の本質的意 味を示現したものということになる。

 それを色鮮やかな宗教的図画にしたものが曼荼羅図である。一般的には実感されにくい密教の神秘的な教義を多くの人に理解させるために、絵画による表現方法がとられたもの。イメージの図象学とでもいおうか。日本には空海によってもたらされた。

 胎蔵界曼荼羅図は太陽を象徴する大日如来を中心に四百九尊もの仏が描かれ、金剛界曼荼羅図は千四百六十一尊もの諸仏・諸菩が描かれている密教画である。 マンダの原語は「本質」という意味で、「持つ」という意味のラが組み合わさることによって「本質を極める」(真理を悟る)とか、「宇宙の根本の力を得る」 というようにも解釈されている。

 教義的には、胎蔵界は「理」の世界を、金剛界は「智」の世界を象徴しており、「理」とは密教的宇宙の物質的世界のことだと説明されている(私は存在の理 を現す世界の象徴だと考える)。「智」とは精神の世界、といっても人間精神のことではなく宇宙精神のことである(私は宇宙の意志というように理解してい る)。「智」とはいわゆる大日如来の「智慧」のことである。胎蔵界の大日如来が「理法身」、金剛界の大日如来が「智法身」と呼ばれるのはそういう教義によ るものである。

 密教の根本二大経典といわれるものが、「大日経」と「金剛頂経」である。胎蔵曼荼羅は「大悲胎蔵生曼荼羅」の略称で「大日経」に典拠している(金剛曼荼 羅は金剛頂経に典拠)。胎蔵曼荼羅図は十二大院によってその全体が構成されており、中央にひときわ大きく描かれているのが大日如来である。

「中台八葉院」には八葉の蓮弁にそれぞれ如来と菩が交互に描かれている。大日如来の周囲には東西南北に四尊の如来、その間に四尊の薩菩が坐し(計八葉)、それを取り囲む十院と、さらに外周を囲む最外院には無数の仏が湧出するように描かれている。

 中台八葉院は上方が東方とされて、そこに坐す宝幢如来ほうどうにょらいから右回りにそれぞれの如来を観想すれば、その意味は東方が「発心」、南方が「修行」、西方が「菩提」、北方が「涅槃」とされている。つまり、発心して修行を重ね、悟りを得て、そして涅槃に入る宗教的世界を知らしめているのである。

 四国の地形と「へんろ道」を右回りに辿れば、東方の阿波を「発心の道場」として南方・土佐が「修行の道場」、西方・伊予が「菩堤道場」、北方・讃岐が 「涅槃道場」となり、そのまま中台八葉院の構成になっている。つまり、私たちが旅してきた四国の遍路世界は、そのまま密教の「まんだら世界」だということ がわかるのである。

 東西南北を右回りに観想した中台八葉院は、最後に中央の大日如来の「方便具足」に到達する。方便具足とは、大日如来が常に悟りの世界を人々に方便をつ かって知らしめているという意味である。要するに、この八葉の蓮弁は右回りに回転し、人々の救済に向かって慈悲心を方便をもって降り注がせている様を現わ しているのである。

 とすると、胎蔵曼荼羅は、最終的に大日如来の智慧(説法)に触れる道筋だと解すことができる。四国遍路は「南無大師遍照金剛」と唱えつつお大師さんに巡 り会う旅だといわれるが、遍照金剛とは弘法大師のことでもあり大日如来のことでもある。「金剛」とは、金剛(ダイヤモンド)のように堅固なる仏の知慧の世 界を言い表したもので、その智慧は常にあまねく照り輝いているという意味が「遍照」である。

 ゆえに、大悲胎蔵生界から生み出された諸仏諸菩薩は、大日如来が姿を変えたものであり、のみならず宇宙の存在すべてが母なる胎蔵界から生み出されたもの であるから、智法身大日如来(金剛界)の宇宙精神も、また遍く万物に行きわたっていることになる。遍照金剛とはそういう意味でもある。ちなみに、大日如来 の「大」は大きいという意味ではなく、絶対という意味である。

 このようなところから、宇宙的存在の「理」を示す胎蔵界を母性原理、宇宙的精神の「智」を示す金剛界を父性原理と解釈されることもある。ただし、両界曼荼羅は相対的なものではなく、それ自体が一体であり、不二であるとされる。

 曼荼羅は多くの専門家が研究しているが、これを解説すると優に一冊の本になるほどだから、素人の私の講釈はこの辺で差し控えよう(ユングのマンダラ・シンボリズムの心理学的分析や渡辺茂博士によるシステム工学的分析など、最近は多方面から研究されている)

 いずれにしろ、私たちは「四国まんだら」の世界を「涅槃の道場」までやって来た。空海に会えるかどうかわからないし、まして大日如来の説法に触れることができようとはゆめゆめ思わないが、密教のマクロコズムとしての気宇壮大な調和の中にあることは感じてきた。

 境内には帰国後大師が植えられた「不老の松」が立っていた。円形の笠のような形をしており、高さ4メートル、東西南北7、8メートルの二段円形。樹齢千 有余年といわれる名木である。ここ弘法大師が生誕した讃岐には大師ゆかりの寺や物語が多い。幼少年時代の空海にとって思い出多き故郷なのである。

(明日は幼い頃の空海に会おう)
 明日の遍路を夢見ながら、この日は弥谷山の近くに泊まることにした。

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