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世界遺産となった仮名乞食の原郷

 先年の日光の「二社一寺」に続いて、日本人固有のメンタリティーつまり「和魂」の「原郷」ともいうべき吉野・大峯・熊野三山・高野山を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が、このたび世界遺産に登録された。

 少し詳細に言えば、
 
霊場「吉野・大峯」(ここには吉野山・金峯山寺(蔵王堂)・金峯神社・吉野水分神社・吉水神社・大峯山寺が含まれる)
霊場「熊野三山」(ここには熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社・青岸渡寺・那智大滝・那智原始林・補陀落山寺が含まれる)
霊場「高野山」(ここには金剛峯寺・丹生都比売神社・慈尊院・丹生官省符神社が含まれる)
参詣道「熊野参詣道(=熊野古道)」(これには、伊勢方面から新宮・速玉大社を経て本宮に至る「伊勢路」、京都・大阪方面から和歌山・紀伊田辺に至る「紀伊路」、紀伊田辺から紀伊半島南端の海辺を通り、那智大社を経て本宮に至る「大辺路」、紀伊田辺から山路を通って本宮に至る「中辺路」、高野山からほぼ直行する「小辺路」が含まれる)
参詣道「大峯奥駆道」(吉野・六田の柳の渡しから大峯山寺や山中の行場を経て熊野本宮大社までの七日間の修験行の道。熊野から吉野へ向うのを順峰、その逆を逆峰という)
参詣道「高野山町石道」(高野山壇上伽藍から麓の慈尊院まで一町ごとに建つ五輪塔一八〇基の道(胎蔵界)、壇上伽藍から奥の院御廟まで三十七基の道(金剛界))となる。
 この地域は、吉野修験・大峯奥駆・熊野修験・女人結界・山上他界・補陀楽渡海・よみがえり(黄泉帰り)・神仏習合(本地垂迹)・浄土信仰・蟻の熊野詣・辺路・海の修験・王子社・金剛界と胎蔵界、など、神奈備と自然信仰と密教とが混然として融合している霊域である。

 世間一般では、一部の地域を除き往時ほどの賑わいを失ったこの霊地が、世界の名所旧跡に名を連ねることで、日本国内から、いや世界中から多くの参詣客や観光客がこの地をおとづれて、再び昔の賑わいを取り戻すのではないかといった早とちりに似た期待感がふくらんでいるようであるが、私たち真言僧は、そうした世間の動向よりも、かつてこの地に「仮名乞児」となった山林修行者・空海が歩を印し、しばしば2000メートル近くの断崖絶壁によじ登り、時には海浜の洞窟に篭もって海上他界の補陀楽浄土を念じたり、時にはところを選んで求聞持法を修したりしたことに思いめぐらして、空海若き日の空白の期間にどこで何をしていたのかといった謎の部分にも想像をたくましくしてみることが肝要かと思われる。

 この地に、若き日の空海が足しげく通ってきて、ヤマの行に励んでいたことは容易に想像がつく。
 両親や親族の期待を一身に担って、奈良の都の大学で立身出世のエリートコースを歩んでいたはずの19才の空海が、突如大学を出奔して姿をくらまし、20才の時に和泉の槇尾山寺で勤操大徳から沙弥戒を受け剃髪得度したことと、24才の時に『三教指帰』を著わすほかは、31才で渡唐する直前東大寺で具足戒を受けて官僧になるまで、全く消息がわからない空白の時期があるのは周知のとおりである。

 大学出奔から数えれば12年、『三教指帰』から数えれば7年、この時期に真魚を教海・如空と名を変えながら、いったいどこで何をしていたのか。

 思えば、渡唐の時には密法受法の準備万端を調え、入唐してわずか2年足らずで密教伝法の第八祖となることからして、この時期の空海がかなり濃密な仏教の勉強と過酷なまでの山林修行をたゆまず行っていたのではないかと想像するのが穏当であろう。
この空白の期間については、研究者間においても諸説あるが、ここでは措く。
 筆者は、大学出奔後『三教指帰』を著わすまでの約5年は、止宿先の佐伯院の隣りにあった大安寺で仏教の基礎(例えば、釈尊の仏教や小乗)を学びながら、しかし6割から7割の時間は奈良の都からそう遠くない葛城・金剛の山中を歩き、吉野・大峯・熊野・高野の修験の行場で修行し、ところを選んでは求聞持法を修していたのではないかと推量している。

 その推量の背景となるひとつのきっかけが『三教指帰』にある。
 「仮名乞児」に仮託して、空海は、亀毛先生(儒家思想)と虚亡隠士(道教)を痛烈に批判する。亀毛先生は子供の頃から公私共にお世話になってきた伯父で経学者の阿刀大足であり、虚亡隠士は山林修行で親しい仲間の道術士たちだったりするのだが、にもかかわらず「仮名乞児」は遠慮会釈なく儒・道二教を価値のないものとして切り捨てる。
 この自信は、尋常ではない。戯曲の誇張だと言い切れないほどに、空海の内なるところでよほどの激越な精神革命が起きていなければここまでの論難はできない。

 想像するに、大安寺での机上の仏教修学ではなく、この自信は山岳での修行が積み重ねられた結果のものにちがいない。手厳しい論難の奥に、命を落すかも知れない苛烈な山岳修行から得た、誰をも近づけないような超常的に高揚した強い意思の塊がのぞけるからである。
 きっと、『三教指帰』を書く頃の空海は、ほとんど釈尊の仏教や小乗そして大乗にまで勉強が進んではいたが、むしろ机上の勉強よりも近畿から紀伊にかけての山々に伏して、大自然の運行のなかに身を任せ、自然のうごめきのなかに霊性を感じ、その霊性と感応しながら宇宙の星と交感するような秘密の体験に夢中になっていたのではないか。そうした空海にしかない神秘体験の自負が、「仮名乞児」に強弁をさせている気がしてならない。
 このたび世界遺産に登録された吉野・大峯・熊野三山・高野山の霊域とそこをつなぐ古道(「辺路」)は、若き日の空海にとってたっぷりと自然の霊気を堪能できた思い出の場所だといっても過言ではあるまい。

 今、吉野に世尊寺というお寺があり、空海のその頃は比蘇寺といった。ここに唐から渡来した神叡という僧がいて、よく求聞持法を成就したという。
 空海がよく出入りしていた大安寺と比蘇寺とは、実は密接な関係にあった。その当時、例えば法隆寺と福貴山寺、興福寺と室生寺のように、平地寺院と求聞持法などの山林修行を行う山岳寺院がセット関係となる結びつきがあったのである。
 伝教大師最澄の剃髪の師といわれる大安寺の行表は、晩年この比蘇寺で暮らし、最後は大安寺で亡くなっている。
 好奇心旺盛な空海が、大安寺で比蘇寺の神叡のことを聞き、奈良から近いこの吉野に足を運び、神叡に求聞持法の伝授を請うたのは想像に難くない。

 そして、その吉野から空海は高野に入っている。大峯を経て熊野本宮に出、険路の「小辺路」を直行してたどったのかもしれない。現実には、<吉野より南に一日>とは今も「(大峯修験の)行者の宿」が立ち並ぶ天川村洞川の里あたり、そこから<西に行くこと二日>とは洞川から大塔村を経てまっすぐ西へ、または十津川村(温泉)に出てそこから「小辺路」を登り、それぞれ高野山へと向ったであろう。どの道にしろ、この紀伊の山地は若き日の空海(「仮名乞児」)のホームグランド、つまり「原郷」であったにはちがいない。

 昔、人は、山の上に「あの世」(他界)があり、神や先祖の霊がそこにいるとみなし、麓の里から山を拝し、山に入るときは身を清め、里の神に酒や塩や米を献じてから「六根清浄」となって「入らせていただく(入峰)」ものだった。
 山や滝や岩をご神体として敬い、山の水や恵みに感謝し、決して山の神を怒らせることをせず、つつましく、自然に寄り添って生きていた。山を征服し、山を汚し、山を壊すことなど夢にも想像しなかった。

 この紀伊山地には、科学知識や技術の力で山を征服し、自然を破壊して、人間の欲望を満たすことは起きなかった。「仮名乞児」の「原郷」には、今も自然崇拝の信仰が息づき、これこそが「和魂」の在り処である気がしてならない。ユネスコは、「無魂米才」と揶揄され、魂がないままのさまよえる日本人に、「紀伊山地の霊場と参詣道」は、「和魂」の「原郷」だからこそ世界遺産にふさわしく、日本人が誇りをもって後世に伝えるべきものなのだと教えてくれたのである。

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