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深まる疑惑/問題だらけの脳死移植 -脳死は人の死ではない-

(大本・人類愛善会)  
生命倫理問題対策会議事務局長 松田 達夫 氏

 
 ご紹介いただきました松田達夫と申します。よろしくお願いいたします。限られた時間でございますのでやや急ぎ足になるかもしれませんが、なるべく多くのことをお話したいと思います。急ぎ足のお話になった場合にはご容赦いただきまして、上手にお聞きいただきたいと思います。特に後半もし時間がとれるようでしたら質疑を受けさせて頂きたいと思っております。先程お話を聞いておりますと皆様もう既に脳死について研鑽をしておられるとお伺いいたしました。私も対外的に外部の団体の方々に話をする場面があるのですが、その場合こういう言い方はふさわしくないと思いますが、本来、脳死問題に敵味方はないのですけれども、今日は味方の陣営で話をしているような大変心強い思いでお話をさせていただけると思って安心をしております。そうは言いましても先ず初めに脳死についての概略と、それに関わる一般的な観点でのいろんな問題点を少し紹介をさせていただいて、それから後半に大本の教義から見た脳死について、また、このたびの活動についてお話させていただきたいと思います。 

 今ご紹介いただきましたように人類愛善会と申しますのは大本の外にある団体ではなくて対外的になにかの活動をしようとする時に、宗教の枠を取り払っていろんな方に協力いただいて一緒に活動しようという場合に掲げる名称です。大正14年の設立ですから75年前、もう随分古いことになります。また生命倫理問題対策会議というちょっと長い名前ですけれども、これが人類愛善会の中に置かれています。私自身は亀岡にあります大本本部の職員として勤務しておりまして、その本部の中にそういう部所を持っています。その部所が生命倫理に関するお仕事をさせていただいております。 

 先ずは早速脳死に関してのお話から始めさせていただきます。レジメに簡単に「脳死と人の死」と書かせていただきましたが、ご存じの通りこれまで、これまでといいますのは脳死が法律で決まるまでですね人の死というのは一般に三兆候という形で確認されていました。それは心臓が停止すること、呼吸が停止すること、それから瞳孔散大という、これはちょっと医学的な用語ですが、要は瞳の部分が開いて固定している。ようするに光を当てても眩しいからといって閉じたりしないで瞳孔が開いたままになっている。そしてこの瞳孔が開いているということが今でいう脳死にあたる部分だと思っていただいたら結構だと思います。要は脳の機能がストップしているということを瞳孔散大というところから所見する訳なんですが、それでこの三つを称して三兆候といっております。一般にはお医者さんが死亡を確認する折に脈がない。そして呼吸をしていない。そして瞳、瞳孔を診るという。それでこの事を梅原猛先生が「長年の人類の文化であった三兆候というものが、この度変えられて脳死をもって人の死とするようになった」というように、これを本に書かれたり、発言されたことがあります。それに対して反論する人がありまして、この三兆候という確認はそんなに永年、何万年という昔ではないと。つまりそんなに昔はなく150年位昔からのことであると。何故かというとそれまでに聴診器という物がなかったから、そういうふうにきちっと確認する手段がなかったのではないかと反論されたことがありました。それからまた後に梅原先生の反論がありまして、聴診器が用いられるようになってからは正確に死が判断できるようになっただけの話で、それ以前から人は、脈がない、呼吸がないということをもって死を確認していたのだと。それを科学的に、つまり医学的に追認するようになっただけなのだと反論されました。矢張り人の死というのは呼吸をしていない、そして循環、つまり体内に血液が流れていない、心臓は動いていない、この二つは大変大きなものであるというふうに、これはもう世界中どこの国でも共通に認識されるものであるとおもいます。 

 これからの未来に死というものがどういうふうに確認されていくかというまあ良くない予測をいたしますと、現在、脳死が人の死に値すると考える人が出て参りました。脳死ということはもう助からない。これは一般的な言葉で言いますと、この人は甦ることがない、元の姿には戻らない。もう助からないのだから次の段階に移って良いというふうに解釈している訳なのです。そうすると脳死以外にももう助からないという状況は起こり得ると思います。死期が迫っている、間もなくこの人はもう亡くなる。つまり余命が極端に短い人。それから回復の見込みがない人。この人達ももう次の段階、つまり臓器を摘出するということに移ってよいというふうに流れていきそうな気配を感じます。脳死者から臓器の摘出をしてしまえばその人の命はそこで終わってしまいます。すでにアメリカからの学説として昨年発表されましたものに、死期が近い人、助かる見込みの極端に少ない人は臓器の摘出の対象にして良いというのがあります。例えばと言いますと、植物状態の方。これは脳の大脳、小脳の機能が停止しているのですが、呼吸は出来ている方です。だから寝たきりになっているけれども人工呼吸器を必要としない方。その方は回復の見込みが少ないということから臓器移植の対象にしても良いという説がもう既に出ております。まあ大変恐ろしいことであると思うのですが、それ以外に、もう間もなく寿命がなくなるであろう人もそういう対象にしても良いというような、そういう判断も今から出てくるかもしれません。 

 人の死は誰が決めうるか、レジュメに恣意的な人の死と書いてありますが、人が亡くなったというのは今、現在は医師免許を持ったお医者さんが判断することになっております。ところがそれによって全ての判断が出来るかというとこれは非常に難しいところがあります。それはまず、本人もそうなんでしょうけれど、周りの人総てが、この人はもう亡くなったと受け入れられることが出来て初めて人の死があるのではないかと思います。医学的、科学的世界での死という判定がそのままスーッと人の気持ちに受け入れられるかというとなかなか難しい面がございます。何故ならば呼吸が止まり、心臓が止まったとしても細胞はまだ生きている訳ですね。亡くなった方一晩たったら髭が伸びております。爪も伸びております。要するに細胞レベルではまだ死に至っておりません。完全に細胞レベルまで死に至るのには相当時間がかかります。それで今のところは先程申しました三兆候をもって死としておりますが、人々の心の中で本当にその人の死が受け入れられるのにはそれぞれのケースによってかなりの違いがあると思います。玉川大学助教授の小松美彦先生と言う方がいらっしゃいます。この方は脳死に関して「死は共鳴する」という本をお書きになっていらっしゃいますが、周りの多くの人によって死は受け入れられるのであるということをお話になる方ですけど、その方のお話の導入にこんなことをおっしゃいました。ライフスペースという一時期話題になった団体がありました。高橋何某という人が「定説」ということをよく口に出して言っていました。あそこでは一般の人が亡くなったと考える人を、この人はまだ生きているんだ、回復するんだと言って何日もずっと生きている人として扱っていたということがありました。一般の人があれを見たら誠に非常識で、なんていうことをするんだと思われたことでしょう。一般のTVでもそのように報道しておりました。ところが考えようによっては心臓が動き、汗もかき、排便もあり、涙も流すし、血圧も正常にコントロールされている。体温も平熱を維持している。しかし意識がない。脳が機能を停止しているという人を死人だと言ってメスで体を切り開くことのほうがもっと残酷ではないかと。こういう小松美彦先生のお話がありました。一般にもう既に亡くなったと判断している人を、まだ生きているんだと言うとまことに非常識な物の考え方のようにおもえますが、しかし冷静に考えた場合は体が暖かくて、心臓が動き、体の循環がある人に、この人は死人だといってメスが入れられ、喉のところから恥骨の上までバーッと開く行為の方が余程非人間的ではないかという小松先生のお話が大変印象深く残っております。 

 突然話が飛ぶようですが、私の父はもう亡くなって20年近く経つのですが非常に不思議な亡くなりかたをいたしました。1人で亡くなりましてね。まあ誰でも死ぬ時は1人なのですが。ある冬の日、父が自宅に居り、たまたま家族が留守をしていました。もともと体は丈夫な方ではなかったのですけれども、その日は体調があまり良くないということで横になろうと、1階のコタツを消して部屋の電気も消して2階に上がり、自分で布団を敷き横になったのですが、それから間もなく亡くなってしまいました。結果的には医師の診断で肺不全、つまり呼吸が止まれば肺不全、心臓が止まれば心不全というのですが、要は死んでしまったのです。亡くなる寸前に母が外出先から戻って参りました。丁度息を引き取る間際でしたが、かろうじて間に合ったというよりウロウロバタバタしている間に亡くなってしまったという状態でした。この場合お医者さんが立ち会って死に至らなかった場合は、警察の検死ということになります。いったん警察に身柄を引き渡さなければいけない訳です。まあ警察に遺体を持っていく訳ではないのですが、警察の方がこの場を維持して、そして指定されたお医者さんがやって来て死因を特定するわけです。例えば他殺かもしれないし、自殺かもしれない。服毒したかもしれない。そういうことが解明した時点で引き渡しがあります。まあそんなに長時間ではないのですが一端検死ということになりました。そこである種の病気が原因の肺不全であるという診断書が書かれました。先ほど、人が死を決めると言いましたが、この場合は私の父は死んでしまった訳で、お医者さんが死後訪ねてきて、どういう原因で亡くなったということを見定めたわけですから、要は死因を特定しただけなのです。ですから本来科学というものはその現実に直面してそれがどういうものであったということを確認するものであって、いつ死ぬということを積極的に決めようと動くものではないという印象を受けました。それに対して脳死の法律が出来て2人目の交通事故から脳死移植の対象になった東北の古川病院の場合はどうでしたでしょうか。自損事故といいまして自らが衝突をしたことから脳死状態になられてそして検死がありました。臓器移植の為の脳死の原因はおおむね脳内の出血、くも膜下出血とかその他の出血、それから交通事故というケースが非常に多いです。特にその中でも事故で脳死になった場合には今言いました様に検死になる訳です。そうでないドナーだったらそのまま病院にいますから脳死になったとしてもならなかったとしても最期に亡くなった段階でお医者さんが立ち会っていますから検死の必要がないのです。古川の場合には脳死になっているから検屍が必要だというので警察が入って脳死者を検屍いたしました。これはおそらく日本で脳死者の検死第1号、勿論脳死の法律が出来て2人目ですから。警察はこの人を死亡していると確認するわけなのですが、これが非常に不思議な状況で、機械の助けは借りているものの息はしているし、心臓は動いている、体は暖かい、そういう人を死亡だというのですから警察としても非常に不自然な死亡の確認だったでしょう。いかしそれをしなければ次の段階に進めない。科学が人の死をどこまで積極的に決められるかということは限界があると思われます。 

 先程来話をしています脳死は5つの確認によって判定されます。脳の中には物を考える大脳という部分と、運動を司る小脳とそして中枢を司る脳幹という3つにわかれておりますが、大脳小脳この2つが機能しない状態を植物状態といいます。この方は自発呼吸があります。ところが脳幹まで機能が止まってしまうと呼吸をすることが出来ません。この脳幹までの全脳の停止を脳死というのですが、厳密に言うならば現在は脳死のことを全能の停止ではなく脳の主要な部分の停止とみております。全脳の停止というのは現実には確認が困難なのです。脳死という状態に一端なりましても、これが元に戻らないこと。中には元に戻るケースがあるのですが、もう元に戻らないということをもって脳死と判定いたします。元に戻らないというのはどうして判断するかと言いますと、いったん検査をしてから6時間経ってもう1度診る。そうすると以前と変わらず機能を停止している。これをもってこの先ずっと戻らないと決めてしまうのです。何故6時間なのか、それは理由はないんです。私の調べた範囲内では日本が世界で1番短いんのすが、12時間という国もありますし24時間という国もあります。アメリカのハーバードでも24時間おきます。日本では6時間、もし7時間目に戻ったとしても、もう死んだということになってしまう訳なのです。脳の機能が停止し、ご存じの通り深い昏睡状態にある。そして瞳孔が4ミリ以上開いている。つまり瞳孔散大している。それから脳幹反射がない脳の反射がない。脳の反射というのは光を当ててみる対光反射とか角膜反射といいまして目の玉にもので触ってみると瞼が閉じるかどうか検査する。それから頭を持って振りますと目というのは振られた反対のほうに動き、固定しようとします。そういうことをしても目が全くそれに反応しない。 

 それから喉の奥にものをつっこむと吐き気をもよおす咽頭反射。こういうものがないかどうか、いろんな検査をして脳幹が機能していないかをしらべます。それから脳波が平坦であるか、頭部に2つの電極を付けて脳の表面の電位差をみます。実は脳の中を調べるのが本来ですが脳の中は調べられないので表面の脳波を観察します。動物実験では表面の脳波が無くても奥には活発に脳波が検出されるということがあると報告されています。そして最後に無呼吸テストというのをします。人工呼吸器で呼吸をしている訳ですが、これを10分間はずします。10分間はずしている間に呼吸が戻らなければこの人は自発呼吸がないと診断して、その上で6時間おきます。ちなみに高知の第1例目の方はお気の毒なことに、この無呼吸テストを5回も受けました。延べ50分間呼吸を止められた訳で大変申し訳ないことになってしまいました。何故申し訳ないという言い方をしたかといいますと、初めの3回は脳死ではなかった。つまり瀕死の状態で生きている人に10分間呼吸を止めた訳です。無呼吸テストをしたが脳波があった。脳波があったということは呼吸が出来ない状態で大変苦しんでおられる、まだ亡くなっておられない。まだ脳死ではないというところからまたもう1回初めに戻って検査をし直している。だから延べ5回の無呼吸テストになってしまったのです。だから先の3回の30分間はどういうことになるか。大変申し訳ないことをしてしまったと思います。ですから無呼吸テストは最後にすることになっているのです。多くのお医者さんがこの無呼吸テストは大変危険である上になおさら脳死に近づけるというふうに悪い影響を与えるということを主張されています。これが次にもあります脳死と脳死判定。この脳死の判定によってこの5項目がこうであると確認されて、しかも6時間後に変わりないということで脳死判定を終了いたします。そうするとこの人がドナーであれば心臓及びその他の臓器を他人に提供する意志を表している場合に限りその人は死亡ということになります。 

 情報の不足、脳死の正しい理解のためにとレジュメにありますが、今TVのコマーシャルでよく公共広告機構というのが流れてきます。大工さんの様な格好をしたおじさんが「私は生きている時には余り良いことをしてこなかったので、せめて死んだら人様のお役に立つんだ」といってドナーカードを見せますね。ところでJAROというところがあります。誇大な広告、嘘や誤解を与えるものがあればご連絡下さいという広告でしたから、ある時私はJAROに電話したことがあります。それは何故かと言いますと「あの広告は誤解を招きます。というのは私は生きている間に良いことをしてこなかったからせめて死んだら人様の為ということは、ドナーになることは良いこと、ならないことは良くないこと、という風に誘導していることになります。ですからこのCMは紛らわしいものです」といってJAROに言ったことがあるのですがJAROの方はそういうことは臓器移植ネットワークの方に言って下さい、と言われました。それでもう1回JAROに電話しまして「嘘のCMをしているところがあります。JAROというところが嘘の広告をしています。連絡をすると善処しますと言いながら善処しません」と半分冗談で電話したんですが、慌てて「いやいや私の方から連絡します」と言っていました。それと合わせて臓器移植ネットワークにも連絡しましたが、「1度考えてみます」と言っていましたけれどもいまだに流れています。これは非常に国民の気持ちを誘導しています。臓器移植は良いことだということを暗に言っているのです。「ドナーカードを持ちましょう」までならまだどちらの表示も出来るので良いのですが、「なにも良いことをしてこなかったから、せめて」というのは「臓器提供という良いことをさせてもらおう」という国民の意識の誘導になると思います。ちょっと話が余談になりましたが、この「情報の不足」というのは脳死というのはどういうものなのか、臓器移植をすることはどうことになるのか。そしてどんな手続きで、またそのことはその後どのように検証されるのか。本当に脳死になっているということがどのようなかたちで説明されるのか等々の部分がほとんど出されなくて、なかば呼びかけ一辺倒でドナーを募っています。それでよい面だけの情報をもって国民は判断させられて、それこそコンビニなどで手軽にドナーカードが手に入って、カードの上に丸をするだけで自分の死期が決まってしまうという怖い状況にあります。ですから個人のプライバシーにあたる、どこのだれが何歳で、とか、何県何市何町のだれだれさんが脳死になりましたなどということや、またその心臓がどこのだれのところに行きまして、このような顔のひとですなどと、そんな細かいことまで発表する必要はないわけです。それは全く個人のプライバシーですけれども、本来は、このようにしてこのような手続きが行われました。そしてレシピエント、ちょっと難しい言葉ですけれども、臓器を貰う人はこのようにして選ばれた人です。具体的な病名などはいりませんよ。このような情報をしっかりと流すべきです。 

 その他に問題と思われることはレシピエントの選定方法です。長期待機患者、つまり長く臓器を待って居られた方から選んだ、症状の重い人から選んだといいます。では症状が軽くて長く待っておられた方はどうなるのか、また症状が重いけれどもついこの間登録した人はどうなるのか。これは非常に答えにくい問答のようですけれども現実にありうるわけです。その上、レシピエントの方で臓器移植に反対されている場合があります。臓器を待っている立場であるのに反対をされている。なぜかといいますと、本当に臓器を待っている人には来ない仕組みになっているといわれるのです。どういうことかと言いますと、もう本当に重篤でこれ以上待てないと言う人で、今のままいくと余命が1週間2週間もたないかもしれない。本当は臓器を必要としている方なんですけれども。では臓器を移植する場合その人を選ぶかというとそういう人はあまり選ばれないんですね。まあ移植しなくても5年、最近の本に書いてあるところによると10年持つ。逆に言うと10年しか生きられないと言う人に移植する。そうすると10年生きられる可能性が高いのです。移植して1ヶ月で亡くなってしまったら失敗という烙印を押されてしまうのです。1週間の人が1ヶ月になればある意味で成功なんですが、移植を受けた人が1ヶ月後に亡くなったと聞くと一般の人は「あっ駄目だったか」と、こう思われてしまうんですね。だから10年もつ人、移植して10年生きられる人が選ばれる可能性が高いのだと言うことが本に書かれていました。移植をして10年、しなくて10年ということになりましたらどちらが良いでしょうか。この本を書かれた方はお医者さんですが移植を受けずに10年たった場合と移植を受けて10年たった場合とでは確実に移植を受けたほうが状況は悪いとのことです。しかも10年後には再び移植するか、もしくは大変危険な状態になる。また移植を断念された方で随分長く生きておられる方もあります。こういうことから移植の裏側にあるレシピエントの選び方もオープンではありません。臓器移植学会の理事長をされている野本亀久雄さんという方。この間もTV出ておられましたが、あの方がフェアー、ベスト、オープンという3つのスローガンを言っておられます。フェアーであること、ベストを尽くすこと、オープンであること。このオープンというのも、例えば現在、移植が行われた後検証する委員会が出来ておりますけれども、その検証した結果は非公開となっております。結果を非公開にするというのであれば、何のために検証するのかわからないのですが柳田邦夫さんが入られたと言うことで新聞にもちょっと報道されました。そしてフェアーという部分からもレシピエントの選ばれ方というのは直接担当されている一部のお医者さんにしかわからない。判定は正しいかという他の医療機関からの問い合わせなどのやり取りはありません。ただこういうケースはあります。摘出をされた方が先程申しました古川病院のように交通事故の場合、一般に事件事故としてすぐに報道されることがあります。古川病院の時がまさしくそうで、交通事故があったからすぐに地元新聞の三面記事に載りました。ところが事故に遭われた方がドナーカードを持っておられたとなるとこれは大変で、報道してはいけない。つまり本人が特定されるような情報を流してはいけないというので報道を取りやめました。でももう町には知れ渡ってしまい、あそこで事故に遭った人が脳死になったのだとわかってしまいました。これと似たようなケースで、あまりはっきり言いますと今言ったプライバシーに触れてしまいますので、わからんような、わかるような言い方をしますけれども、これは現実にあった話です。ある関東の方が、というとわかる人には判ってしまうと思うのですが、脳死になりました。それでその方からの移植がこの日本で行われました。その方には最初、新聞記者が集まったのです。何故かと言いますと自殺であったからです。ですからこれは脳死に成る、成らんに関係なく、どこそこで自殺がありましたということで新聞に載る可能性があります。そして病院に運ばれて、一旦は心臓が動き出して呼吸が戻ったのですがやはり脳の回復が思わしくなく、その後脳死になられました。ところがこの方がドナーカードを持っていたために、さあえらいことになったという具合で、すぐに新聞記事をとりさげなくてはということになりました。なんとか間に合いましたから新聞には載りませんでした。ところが新聞記者は勿論知っておりますから、脳死について本を書いておられる先生にコメントを求めました。先ず一つにはその先生のコメントを求める。もう一つは記者会見がある時になにか質問をするときのヒントを貰うということで夜中に電話がかかってきたそうです。「ある病院で脳死になられた方がいまして死因は自殺です。」死因は新聞記者なら知っておりますから。「入院の明くる日、脳死判定がおこなわれました。これについて、先生どう思われますか。」その先生は先ず二つ問題があるとおっしゃいました。 

 まず一つは、記者から聞いた話によると、その方は鬱病で通院されていた。通院ということは薬を貰っておられる。少し前にも名古屋の病院で人工呼吸器を入れるために使用した筋弛緩剤がまだ残っていて脳死判定を二回やり直しましたね。そういうことで精神的な病気で、投薬を受けている方が残念ながら自殺にいたってしまった。結果的には心肺停止、脳死になったとはいえ薬の影響は無くなったとは考えにくい。あくる日すぐに脳死判定ですから、この判定は本来ならするべきではないと話されました。別の先生にも私は話を聞きました。その先生は東京都内の救命救急で外科をしておられる先生ですけれども、その先生も私なら移植を断ります。カードを持っておられてもその対象外にしますと話されました。ところがこの自殺の患者さんは脳死判定を受けました。もう一つの問題点は、精神的な病気を持っておられる方が書いたドナーカードを健康な人が書いたものと一緒に扱ってよいものだろうか。しかもその方は精神的な病気から自殺を決意するにいたる精神状態にある。そんな人のドナーカードが健常者と同じ扱いでいいものか。自殺願望を持った人のドナーカードがどう判断されるべきなのかという、この二つの法律的、医学的両方の問題があるのではないかという話を記者の方にされたということです。ちなみに自殺者から臓器の摘出が出来ないわけではありません。変死の場合は出来ないのですが自殺であると原因が特定されればドナーになることは法律上、ガイドライン上、許されておりますから自殺そのものが問題ではありませんが、それに至る過程で色々な問題点があるのではないかということです。情報という意味ではこれは一般には出ない情報です。どこの誰という必要は全くないにしろ他の医療機関、先生などにそれを検証するなり判断を仰ぐシステムがいるのではないかと思います。先程の方は家族が強く拒んだ為に、つまり原因が自殺ということで世間には知られたくないということから、男女の別も言わないで欲しいと希望されました。ですから新聞には男女も年齢も発表しないという形がとられました。その中で共同通信社だったでしょうか、うちでは男女を発表しますという姿勢をとりました。何故ならば小柄な女性であったために子供に心臓が移植されたのであると。これでどの方か分かってしまうと思うんですが、普通二十代後半の大人の心臓が十代の子供に移植されるわけはないからです。肝臓は小さく切ることが出来ますが心臓はそうはいきません。単に大人から子供にというだけであれば不自然だということから、うちの社では小柄な女性であったというところまでは発表しますという見解をとりました。発表して欲しくないというドナー家族の要望があればとにかく発表しないという姿勢にも色々な問題の要因があるのではないかという気がいたします。 


 脳死と植物状態はっきり区別が出来る11%とレジュメに書いてありますが、これは島根県の大学生が独自の研究の為に調査をいたしまして約五百人の人に尋ねてみた結果です。色々な調査をしているのですが、その中に脳死と植物状態の違いがわかりますかという問いがあります。それに対してわかるというひとが11%、約十人に一人。国民全てにドナーカードを持つように奨励されている現在ですが、十人の内九人までが脳死と植物状態の違いがわからないままに判断しろと言われているわけですから、非常に情報不足ということが言えると思います。しかしこれが現実です。 

 次にドナーになることへの本人の決断と家族の同意と書きました。ドナーになることは本人の決断で丸をするわけですが、そこに家族欄がありまして、家族がそこに承諾するという形式になっております。ところが家族が誰なのかという問題が一つあります。例えば若い人であれば親になるのか、年配の人であれば子供になるのか、どの部分をもって家族とするのか。また家族全員が同意するのか一人でいいのか。色んな問題があります。しかし、今後進められようとする子供さんからの臓器摘出の場合、幼児の場合はおそらく親になるであろうと思われます。今年の四月に産経新聞で、ある人の実際の話が載りました。ちょっと紹介しますと、この方は大阪の四十三歳会社員です。「私の一歳の子供はインフルエンザで生死の境を彷徨い脳死状態に入った。一週間経っても顔の色艶はこれまでと変わりなく筋肉の衰えもない。毎日定量の小水をし、足をくすぐるとこそばいように引っ込める。私は祈り続けた。「まだ今なら間に合う。甦れ。」と。妻は娘の意識を呼び起こそうと耳元で歌を歌い続けた。二週間を迎える頃になり娘は衰弱を見せ始め、両親の体力と気力の限界をむかえるのを感じ取ったかのように静かに心臓の動きを止めた。妻は覚悟を決めていたのか言葉を口にせず、私は一声叫んですぐ黙った。同時にこみ上げてきたものは、この時間を有り難うだった。脳死状態とは受け入れがたい子供の死の猶予期間であり、この先も生きて行かねばならない親の悟りの時間であったということを日増しに感じた。この時間が与えられなかったなら、私は狂っていたかもしれない。二年が経過した今、小児の脳死移植に関する話題をよく耳にするようになった。もしあの時移植に頼れば助かるという立場に立たされていたならばどういう行動に出ただろうかと自問自答を繰り返す。親は何としてでも子供を助けたい。助けてくれる臓器の提供を請い願うに違いない。この相反する考えを比較して考えたが自分は眠っているとしか見受けられない娘の体を繋いでいる機械のスイッチを切れる人間では到底なかった。我が最愛である娘の命を止めて、人様の子供さんの命を重んじる人格は備えていないのだ。下さいとは言えないというところにたどり着いた。」という文章があります。 

 街頭活動で色々な人に出会います。私の親もこの間亡くなりましたという人がありました。その人が言うには「今の状態が脳死なのだろうなという時がありました。しかしその時に臓器提供を言われたら到底私は親の体を切って臓器を取り出すことは出来なかった」と。このような話も大変納得出来るとおもいます。我が子がそういうことになった場合にそこから臓器が取れるか、または生命維持装置を切ってもよろしいと言えるかどうか。これは大変な決断のいることだと思います。 

 救命医療の充実と臓器提供。高知の方の時にグレート5という大変重篤な、重体な状態であるということがよく話題に出ました。これは病院によって「私の病院ではその状態でも手術をします」とはっきり言っているところもあります。それで手術適用外だったとか、症状が落ち着いたら手術しましょうとか、高知の場合色んな言葉が出たのですが結局は行われなかった。ちょっと私が気に掛かりましたことは、新聞報道されなくなりましたが、患者さんは高知県の奥の方に住んで居られたそうですね町中ではなくて。だいぶ時間が掛かって病院に来られたのですが、高知赤十字病院に来る途中で高知の中央病院の前を通っておられるのです。何故あっちに行かれなかったのかなという思いもあるのですが、赤十字病院に到着したときには困難ではあるもののまだ呼吸があった。呼吸が困難になった場合に下顎呼吸になります。金魚を水から出すと口をパクパクさせますよね。人も呼吸困難になるとそのようになるので下の顎と書いて下顎呼吸といいます。通常救急病院で先ずされることは気道の確保。喉に器具を入れて呼吸をしやすいようにするのですが、高知の場合それがされないで、何を最初にしたかというとCTスキャン。頭の断層撮影をしているのです。そうすると撮影途中に痙攣がきました。素人的に言いますと呼吸が出来ずに苦しくて体が痙攣するのですが、そこでどうしたかと言うと、痙攣を止める注射をしているのです。そして撮影が終わった時には呼吸が無くなっていました。そういう状況を聞くと、これは救命しているといえるのかなあと考えてしまいます。あるお医者さんは、先ずCT撮影は後で、とにかく気道を確保して本人の呼吸を助けなければいかん。治療の方針を立てるためには断層撮影は必要だけれども、それが最優先で行われなければならないものではない。呼吸が止まっても続けなければならない検査。これは医療とも処置ともいえないでしょう。検査よりも救命が先だと言ったお医者さんが沢山あります。その間家族はどうされたかと言いますと、多分息子さんでしょうか、家族の一人が「お母さんはドナーカードを持っていたから」と言って再び遠い家までドナーカードを取りに帰られたのです。持ってこられた時には夜中になってしまい、お医者さんは帰ってしまっておられたのです。保険証を忘れたのではありません。なぜそんなに急いでドナーカードを取りに行かなくてはいけなかったのでしょうか。切迫脳死という言葉があの時出たように、もう間もなく亡くなるかもしれないというとき、家族がカードを取りに家まで帰るかなあと、私個人的にはまったく理解できませんでした。どういう風な心理が働いたのか、そのカードがあれば救命治療を少しでもしてもらえると思ったのでしょうか。全くわかりません。 

 そのカードのことでは、後日別の疑問が出されました。そのドナーカードのことについて赤十字病院の看護婦長さんが後日看護雑誌に書いている内容についてです。それは平成八年、家族でテレビを見ていてカードのことを知り、腎バンク協会、つまり腎臓病協会からカード送ってもらって書いたということでした。これがその通りであったなら、この方はいまのドナーカードは持っておられなかった事になります。つまり臓器移植法が出来る前の腎バンクカードというのは死後の臓器移植ですから、そのようなカードを持っておられたと看護婦長は看護雑誌に書いてしまったのです。ですからカードがそのままであるならば恐らく臓器提供の前に家族が本人の意思を示すものが無いままに、本人の意思だからということで承諾書を書いて移植をしたことになります。そのとおりであるならばこれは全くの法律違反であり、殺人になります。これは高知弁護士会を通じて病院に尋ねましたが返答は拒否、一切お答え出来ませんと言われました。いまだに誰もドナーカードを見た外部の人はありません。人権侵害申立ての中で、「その亡くなった奥さんのドナーカードと腎バンクカードとを二つ並べて筆跡鑑定をして貰いたい」ということまで言っていますが、病院側は全く対応する気配がありません。高知弁護士会の方々は「札幌であった和田心臓移植の時のように日本弁護士会まで立ち上がれば、もしかしたら強制的な取り調べが裁判所を通じて出来るかもしれませんが、高知弁護士会としてはバックに厚生省がいるとこれ以上何も言えません。協力願えなければ引き下がる他ありません。」と話されましたが、そういう不審なことが幾つか残っています。 

 次にレジュメに脳低温療法と脳死判定と書きました。脳低温療法は低体温療法とも言いますが、ご存じの方もあると思います。簡単に言いますと頭をぶつけた場合、体と同じように腫れ上がるのですが、頭蓋骨に囲まれているために内側に腫れがきます。そのために脳の中が圧迫されるのです。すると血管が詰まってしまって脳に血液がいかなくなる。ですから脳が死んでしまう訳です。脳内の温度が血液による冷却が効かないために上がってしまう。そのため余計脳死に近づくわけです。そのためには体を冷やして血液を冷たくして脳の腫れを防いで、その間に治療を進める。死んでしまう脳細胞をストップさせ脳の回復を待つ。こういうのが脳低温療法です。日本大学板橋病院の林成之教授が確立されました。しかしこれは非常に高度な治療方法で、世界でもなかなか成功しなかったものです。お陰様をもちまして日本では臓器移植がなかなか行われなかったものですから救命医療がどんどん進みまして、林成之先生の担当された患者さんで半分以上は後遺症なしに治った方がおられます。要するに脳死に近い方がそうはならないで助かっております。あまりにもこれがすばらしい医療であることから臓器移植のガイドラインの中に脳低温療法という言葉まで出てくるのです。脳低温療法を初めとする救命医療を尽くした上で不幸にして亡くなった場合、脳死からの移植が行われると。医療法の固有名詞まであがっているのです。ところが今まで八名の方が日本で法律施行以降脳死になられましたが、一人もこの低温療法は受けていません。理由は簡単です。出来ない訳があるのです。脳死の三例目に東京の慶應義塾大学病院で脳死患者が出ました。ここの病院での脳死移植は完璧というくらいきちっとした手順でされています。脳死判定検討委員長という立場でそれを担当された脳外科の河瀬斌教授が脳死者からの臓器摘出以後、大学内の新聞に記事を書いておられます。この方は将来移植を進めるために記事を書いたのですが、現在、脳死からの移植には幾つもの問題点があるというので四つ程の問題点を提起されています。費用の問題とか情報公開の問題とかが書いてありますが、河瀬先生の一番目の問題は「脳低温療法が脳死者には出来ない、この矛盾点をどうするのか」というものなのです。先程申しました8人が8人とも誰も受けなかったというのがここで分かるのです。何故かといいますと、脳死判定を五つ行うと申しました。それが確立されたあと六時間後にもう一回五つの判定を繰り替えします。この五つの判定するためには様々な条件があって、その中に体温が平熱であることというのがあます。非常に高熱であったり低温であったりしては正しい脳波を測ることは出来ないのです。例えば雪の中などで凍えてしまうと脳波は消えてしまうのです。分かりやすくいえば麻酔をかければ脳死と同じ状態になります。脳波は消えるし、対光反射はなくなるし、叩いても何もいわない、だから手術ができるのです。ところが麻酔をかけた人は麻酔がきれれば元に戻りますが、脳死の人は元に戻りません。ですから麻酔がかかっていれば脳死判定はできなくなる。それで薬の影響があっては駄目なのです。先程も申しましたがこの判定項目の中に体温が平熱であることというのがありました。低温療法では体温を32度位まで下げるのですが、これは熊の冬眠する位の温度です。この温度で体が維持出来る。そしてこれを十日から十五日間続けて脳の回復を図るのですが、かなり内臓は萎縮します。脳が助かればまた元に戻りますが、この低温療法を続けると臓器が使い物にならなくなる可能性もあります。誠に申し訳ない表現をしますと、私が奄美大島に行ったときにハブとマングースが闘う見せ物がありますが、その時のことを思い出してしまいました。大抵はハブにマングースが噛みついてハブが動けなくなるのですが、そうすると係りのおじさんが「これ以上やると売り物に傷がつきますので」と言って離すところがあるのですが、そんなことを思い出してしまいました。あまり続けると臓器が使い物にならなく成ると。もし脳低温療法を続けた上で、途中において脳死になってしまった可能性があったとしても脳死の判定が出来ない。もし判定するなら体温を平常に戻さなければいけない。元に戻す過程において感染症にかかる危険もあるし、元に戻すということはすなわち治療をやめることになります。もし仮に戻した結果脳死でなかったとしても、また再び低温療法を行うことは出来ない。だから大変人聞きの良い言葉で、「本人のドナーになると言う意志を尊重して・・」といいますが、別な言い方をすると「臓器を大事に守るために」ドナーの命が犠牲になっているのではないかと思われます。それで脳低温療法はドナーには出来ない、今後この事に関する問題の解決が必要であるというのが河瀬先生の問題提起の一つです。ですからガイドラインにある脳低温療法を初めとする医療を尽くした結果云々と書いてある事が全く嘘になってしまうのです。 

 また臓器移植が抱える問題として病院の混乱があります。どんどん摘出指定病院が増え、私のいる京都から奥まった亀岡にまで臓器摘出指定病院が出来てしまいました。これはある日突然厚生省から書面が来て、あなたの病院は摘出病院に指定されましたと一方的にくるわけで、設備や人員の不備など反論する余地もありません。そこでもし脳死者が出るとそのように対応しなくてはならない。しかしかかる費用分担の問題などは全く決まっていないので、丁度古川病院のように臓器摘出をしたけれども、その費用が不払いになっている現状があります。臓器移植ネットワークからは百万円しか出ないのに六百万円かかってしまった。後の五百万円は誰が払ってくれるのだと今だにもめています。もっと気の毒なのは脳死判定をし脳死となって、臓器提供をすることになり、お医者さんも沢山関わって医療を尽くしたが、残念ながら臓器は医学的理由により使用出来なくなり、移植を断念したというケースです。一般の人は新聞でそのように報道されると、そうなのだと単純に納得しますが、病院にとっては大変な迷惑です。その費用は誰も出さないということになりかねません。普通は臓器が行った先の病院が分担して出しています。今は国立病院で主に移植が行われていますので、国立病院の研究費と言うと聞こえは良いのですが、我々の税金で行われています。やるなら今ですよ。税金で移植が出来ますよと言うことになります。当然移植する患者数が増えてくればそれも不可能となります。そうすると個人負担になるか、もしくは健康保険が使われるのか。といっても今でも足りない健康保険の財源です。ある時点で出された案の中に、風邪のような簡単な病気や老人の医療費を削減して臓器移植にまわそうというのがありました。そうなれば風邪で病院に行っても保険が効かないということになって大変なこととなります。しかしそうでもしないと移植費用が足りない現実があります。現在は国の税金から間接的に使われて移植が行われていますが、今申しました様に臓器が使用できなかった場合ならばそれも出来ないので、臓器摘出した病院は全く費用のもって行き場がないという状況が起こってしまいます。 

 それと病院側の体制がきっちり整ってから指定されるのではなく指定が先にある。古川病院の様に院内の体制不備のための混乱から九時間後に初めて治療が始まったということや、駿河台病院で今年ありましたが、あそこの場合は混乱を防ぐ為に二日間救急患者の受け入れをストップさせたということが新聞に載りました。これはたいへん問題です。今臓器摘出の為に混乱を招く恐れがあるので、そのために二日間救急患者は受け入れませんというような医療拒否があっていいのかという問題が起こっています。 

 インターネットに紹介されている第二十三回臓器移植専門委員会議事録を見てびっくりさせられたことがありましたので紹介します。それは平成11年の暮れ十二月十三日の通産省で行われた専門委員会で、野本亀久雄理事長の発言の中にある言葉ですが、話したことがそのままインターネットに掲載されています。それを読んだ方々はびっくりされたことでしょう。これは最初に幾つか移植がありましたがずーっと中断いたしまして、その後今年に入って十二月に入るまでの話で、会議の最後の方に出た発言ですが、「こういう臓器移植の話は日本の場合ゆっくりもたもたやっていて、あるタイミングが来たら一気にゴーッとまわらなくてはいけないのですよ。いつがゴーッとまわるタイミングなのかは今じっと見ているところです。この間新しく手順書を作るとそれが普及するまで黙って見ておこうというのがだいたいの社会構造で、だからちょうどみながどうしようか隣の病院はするのかしないのか見ているところですね。今強引に突っ走るとどうなるかというと一般社会を敵にまわすというのではなく、医学界の中であの跳ね返りと言われるから、それはあまり良くない。だから面倒ですがある時期まで待ってゴーッとですね。この間の四例でも厚生省の若い人と日本中を歩いて、ゴマをすって歩いて、だいたい動くと思った時に動いたのです。四例ゴーッと動いてその後強引にいくかというと私は強引にいかなかった。皆にじっくりここで考えて欲しいと言ったのは日本の社会の性格からして四例終わったから十例二十例あのペースで突っ走ると色々な問題があるという話の方が先行して今度は非常に難しい問題になる。」こういうふうな発言をしております。「ではどうするかと言いますと一月まで何もない。実際は表面に立った動きはなくても関係する我々は一生懸命に努力して、皆が努力しているのに可哀想だなということにならないとだいたい動かない。一時間二十五分の映画のうち一時間二十分はいらいらして待っている。最後の五分間だけが実際のアクションと考えたらいいのではないでしょうか、私はそういう覚悟でいつもやっています。」これが野本亀久雄さんの発言なのです。非常に演出操作をされている様な気がいたします。要するに移植は行われない、でももうしばらく我慢してこうなったら移植出来ないのかなと満を持した頃にどっとやるのだという。本来脳死からの移植は不幸にして脳死の方が出たから起こることであり、この時期にやろうとかやらないとかいう問題ではないとおもいます。私はこの野本亀久雄さんの言葉を読んだときに「あれ、やっぱりか」と思いました。それはその前の話があるからなのです。これは公表されていないと思うのですが、あるところで、私の知っている慎重派の内科の先生が、推進派の会合でどういう話が出ているか聞いておこうということで出席された時の野本亀久雄先生の話です。これは法律が出来て一例も脳死からの移植が行われていない、つまり高知での一年位前のことです。「今は皆さん、移植はありませんが二月になったらやります。それまでじっと我慢してください。二月になったら必ずやりますから。二月になかったら私は辞めます。」と言ったそうです。なんと不思議な事を言われる方だなとその先生は感じられたそうです。また来年の二月というのはどうやって決まるのかなと。そして「二月になると忙しくなりますので今の内に鋭気を養っていて下さい」とも言われたそうです。二月の末に高知の第一例目があるのですが、野本亀久雄さんはなんと先見の明がある方なのだろうと尊敬してしまいそうです。これは私の知り合いの先生が聞かれた実際の話です。 

 この後少し急ぎ足でお話いたしますが、その他にもいくつかの問題があります。例えば不公平医療ということのお金の問題です。日本はまだ健康保険も使っていませんが、アメリカでの健康保険は高額と低額との保険の種類がありまして、低額の保険の人は移植が受けられません。高額の保険ではないと駄目なのだそうです。また現金を出すにしても多額のお金を持っている人しか受けられない。ケースによって違いますがかなりの費用がかかります。 

 それから臓器不足。これはどこの国でも臓器不足でありまして決して移植がどんどん行われている国だからといって臓器が足りているわけではありません。移植が行われれば行われる程臓器は足りなくなる。そういう状況になっております。臓器売買。これはアジアの国の貧しい人達に特に腎臓を売る人が多いのですが、病院の前に座って自分の臓器の売れるのを待っている人がいます。これは本当に生活に困っている人で、臓器一つ売れれば牛一頭が買える位お金が貰えるからで、そういうことを紹介した本の中の写真に、臓器を取った時の傷を見せているものが何枚もあります。こういうものは臓器移植が行われる社会が引き起こす気の毒な問題であると思うのです。 

 それからもう一つ怖いのは南米での誘拐事件です。子供が年間二千人位、白人ばっかり誘拐されるのです。誘拐団の中に日本では考えられないことに裁判官や警察官がいます。そしてその子供たちがヨーロッパに売られてしまうと言われています。そしてその誘拐は臓器が目的だと言われています。ガテマラで日本人が殺されたニュースが報道されましたが、これも現地では子供を誘拐をして臓器をとるのだという噂があったからということが報道されていました。それで日本人が小さい子供に声をかけたり写真を撮ったりすると誘拐されるのではないかという心配から町の人が暴動を起こし、日本人観光客を叩きのめしたという事件です。 

 それから高額医療。これは移植自体にも費用がかかるのですが、その後に免疫抑制剤という薬を飲み続けなければいけません。これに随分お金がかかります。大体一日九千円位の掛かるそうですから年間三百万円位にはなるでしょう。日本ではまだ移植した人が少ないからそういう問題もないのですがアメリカではその薬代が払えないので助けて欲しいという人があるそうです。移植は何とか受けたけれども後の薬代が払えない。三日飲まなかったら死んでしまいます。誰が代わって払うのか、どのようにその人の面倒を見るのか。移植を受けた人は皆、毎年毎年その薬代を本当に払っていくことが出来るのだろうか。変な話ですけれども幾つになっても、老人になろうともこの薬は飲み続けなければいけないのです。ご存じの通り自分ではない、他のものが体内に入りますので免疫を殺さなければなりません。自分に最も適合しているものを選びますが、全く一致したものは1億分の1という確立になりますから、適合要素の内の半分まで適合しているものを探し出し、残り半分を免疫を殺して自分の中に取り込むわけです。ですから、拒絶反応を起こさないために、自分の免疫を殺し続けるわけす。よい言葉ではありませんが人工的なエイズをつくるようなことになります。 

 それと他者を巻き込む医療であるということです。一人で完結しない。患者さんが来て、その人だけの治療というかたちで終わらない。誰かの命が終わるということをもって初めてその患者さんに治療が出来るという、こういうことが本来の医療になるかどうかということに非常に大きな疑問があります。日本内科学会のアンケートの中で、「移植でないと助からないと思われる患者さんに移植を奨めますか」という質問に、三割くらいのお医者さんは「奨めません」という解答をしています。何故かと言いますと「奨めても受けられないでしょ。受けられない医療を、移植すれば助かりますよなどということは、実現しない希望を抱かせるだけで虚しくさせてしまうだけだし、本人は移植したいと強く思っても出来ないでしょう。だから出来る場合には言うことはあっても出来ないことを、したら助かるなんて言ってしまったら余計辛くなるだけ。」ということで奨めないというお医者さんが大勢おられるというのも事実です。 

 そしてドナーの拡大と脳死判定の緩和。今ドナーが足りないというのは世界的にいわれています。そのためにある国では高速道路の制限速度を上げているそうですが、聞くところによると日本でも高速道路での軽四輪の制限速度が百キロになるそうです。脳死者を作るためにそうなるのかどうかはわかりませんが。しかし同じ例がドイツでもありました。ドナーが足りなくなった時に高速道路の制限速度が上がったそうです。それで、このようなことを言うといけないかもしれませんが、二輪に乗る人がヘルメット無しで乗れる様になった時にはドナー不足だと思って頂いてよろしいと思います。若い人が二輪で事故をした場合、頭を打つ確立が高いので脳死になりやすいものですから。そんな勘ぐりをしてはいけませんけれども。 

 それから小児の判定基準を作る。先程お話しをしました、子供の足を触ったら足を動かしたというのがありましたが、普通脳死というのは対抗反射、つまりつねってもどうやっても動かないはずなのに、子供が完全に脳死状態にあるのに足が動く場合があるのですね。矛盾に思われるかもしれませんが子供の脳死状態は不思議に生命力があるのです。大人は数日から一週間で死に至ると言われていますが、子供は数十日から一年近くそのままいる場合があります。だから子供の脳死判定は大人と違い、回復する場合もあって、大人の判定基準が子供にはそのまま当てはまりません。だから子供の場合の脳死判定基準を今作ろうとしています。現在案として厚生省に出されているものは、二回目の判定までの時間を単に六時間から二十四時間に延ばそうというだけで、それ以外は大人と同じにしようとしています。 

 それからアメリカのハーバード大学で、かつて「脳死ほど人の死を特定する確実なものはない」と発表したものが、今どの様に言っているかというと、「脳死ほど不確かなものはない」と。ですから今後は、最初にお話しましたように死期が近い人、回復の見込みがない人から臓器をとるべきだと言っています。「脳死であるとかないとか言うから混乱するのだ。脳死にこだわるべきではない。」といっています。なんとも変われば変わるものですね。 

 しかし現実に脳死とは大変判定が難しいものなのです。日本で行われた脳死判定でたくさんの疑問が沸いてきたりするので、後に追加されるマニュアルがあります。それは厚生省からの指導ですが、その中に何とも恐ろしいと思えるものがあります。それは「ラザロ徴候」というもので、これは専門的な言葉ですけれども、ラザロというのはキリスト教の聖者の名前で、死後復活したという話から亡くなった人が体を動かすことをラザロ徴候といいます。実際に目の当たりにした先生に聞いてみると、脳死状態で死亡と診断された人、この人たちに無呼吸テストを施したり、体にメスが入れられると体を大きく動かすことがあるのだそうです。そのとき、手をほんのちょっと動かすのではなく、万歳するくらい動くのだそうです。これは本人の自覚ある反応ではなく脊髄反射である。脳は決して働いていないと厚生省は言うのですが、専門家達でさえ「それはなかなか分かりません、脳に関係があるのかないのか判断はつきかねます」といわれます。厚生省の99年の指導では「ラザロ徴候によって無呼吸テストで呼吸を止められている最中に体が動き出すことがあっても、これは真の自発呼吸と間違ってはいけません。」という指導をしております。普通われわれは体が動いたらびっくりしてしまうのですが。 

 それともう一つは脳波テストをするために雑音が入る。要するに機械などの影響を受けて脳波と紛らわしい波が出る。その為の指導が追加されました。それは周りにあるものを遠ざけなさいというものです。どの様なものを遠ざけるかといいますと、例えば空調の風が当たらないようにするとかはまだいいのですが、電気毛布を使っていたらそれをはずす、心電図のモニターなどもはずすか遠ざける、人工呼吸器をはずすかまたは遠ざけると書いてあるのです。これはまさに矛盾したことで、人工呼吸器がないとその人は呼吸が出来ないのでそれを補助する為に使用している機械であるのに、しかも無呼吸テストは大変危険なので脳波が完全に無いことを確認して初めて行うテストなのに、脳波検査の為に雑音が入らないようにとの理由で外しても良いと書かれているのです。これがなぜ受け入れられるのか不思議でしょうがないのです。またその上蛍光灯も消して検査しなさいとも書いてあります。夜中であれば真っ暗にしても良いと。「ここまで指導するものなのか」とおもいますが、これは昨年の九月に厚生省からの指導として出ております。 


 デカルトの「我思う故に我あり」という言葉があります。人というのは意識があって考えるから人であって、逆にものを考えない、人としての意識が無いというのは、もうすでに人ではない、という考えがあります。その考えがもとになってデカルト的な発想から科学が人体をものとして扱って、どうこうするということが出来るのだというのです。ところが最近ではその人の意志、想念というものは、その人の体に一つではなく、それぞれの臓器にもある。心臓には心臓の意志があり、それぞれにその人の個性が存在するというふうに理解されてきだしました。ところがこれが進んで最近では、特にヨーロッパの中に「臓器は公共のものである」という考えが出てきました。人の臓器は公共のものである。だから人が脳死、つまり人格を失って人がものになったらその臓器は公共のものであるから他の人に、それを待っている人にあげるのは当然の事であるというのです。臓器移植法を改正しようという考えの中に町野案というのがあります。これは上智大学法学部の町野朔教授の提出された改正案ですが、その町野教授もその言葉を使っておられます。臓器は公共のものであるから本来移植すべきものであると国民は理解していると。国民の中に私はしないという人があればその人はそのように意思表示すればよいけれども、そうでない人は、つまり意思表示しない人は、臓器は提供するものと考えていると。これまた随分乱暴な考えです。臓器が公共であるなら医療費は無料になりますか、税金で払ってくれますかと言いたくなります。お医者さんに行くといくらいくら払って下さいと言われますので、決して公共のものではないと思うのです。しかしそういう案が新しく出てきているということです。対象になる方が脳死者だけではなく植物状態の人。それから痴呆や精神障害の重い人。それと生まれながらに脳が欠損している人。死刑囚など。こういう人達から臓器をとっても良いという動きがあります。 

 先程、脳死の人には意識があるのではないか、痛みを感じるのではないかという話をしましたけれども脳神経内科の古川哲雄教授が脳死状態の脳の中の脳幹が機能しているかどうかを動物で実験されました。例えば電極を喉の奥から脳に向かって入れますと脳幹に近づきますから、それで脳幹の電位を検査されました。そうすると脳の表面に全く電位差がない状態でも、脳の奥には脳波が所見されたそうです。ただし人間には脳の奥まで電極を突き刺すということは出来ません。ですから脳死判定の時に表面電位だけ見ているのですが、表面電位はなくても脳幹は活発に動いていると実験の結果はっきり認めておられます。それから小動物から手術的に脳を取り除き、どう反応するかという除脳実験をされました。脳を取り除いた鳩は全く動かないそうです。要するに反応がない、考えられない、判断が出来ない。どんなに大きな音をたてても動かないのです。しかし、余程嫌なことをすると反応するそうです。例えば羽を焼くとか、針で体を突き刺すとかすると二三歩歩くのだそうです。そしてまた止まってしまうのです。これは脊椎反射とか偶然体が反応するのではなく、嫌なことから逃れようとする意志がどこかに働くからで、脳が無くてもそういうことをします。逃れようとするのは痛いから、熱いからで、これは痛み、熱さがわかるからです。 

 脳死の人から臓器を取り出す時に麻酔を使うということがあります。考え方の視点を逆にしまして、我々が手術を受けるときに麻酔をかける場合を考えてみましょう。看護婦さんが手術中の患者さんを見ていて、指先が動いたり、血圧が上がったりするとすぐに「血圧が上がりました。」と先生に伝えます。するとまた麻酔をかけます。これは麻酔が覚めるかもしれないということで、麻酔から覚めてしまいますと起きあがってしまうかもしれない。大変危険なことになりますのでまた麻酔をかけるのです。特にガス麻酔は短時間でかかります。「1、2」そして3が言えるか言えないかくらいでかかってしまいます。それによって安全に手術を続行するということがあるそうです。脳死者からの臓器摘出をする際に、特に高知の場合、血圧が上がったので麻酔をかけたと西山医師が報告しています。しかもそれはガス麻酔でした。これは先程言った除脳テストをした鳩の様にかなりの痛みが伴ったのではないかと想像してしまいます。人間は痛い場合はそれを振り払おうと色々な動作をします。それが出来なかったら顔をしかめる。それも出来なかったら血圧が上がる。血圧が上がるというのは痛みを表現する最小の反応ではないかと。古川先生がおっしゃるには、インプットはあってもアウトプットが無い。そういう方は痛みを感じるが表現することが出来ない状態です。ですから多くの医者がそう想像しておりますとおっしゃっていました。恐らく激痛に耐えているのではないかと。ただこの先生の説はなかなか取り上げてもらえない、多くの場所で発言させてもらいたいがそうさせてもらえないとおっしゃっていました。 

 また脳死の人は、臓器を摘出する以外にどの様に利用できるかといいますと、生きた人と反応が同じということから製薬検査に使えたり、採血を繰り返して血液製剤を作るための機関にしたり、また生体実験に使えるというのでフランスで毒ガス実験に脳死者を使ったという事件がありました。これは生きているからこそ、そういうことが出来るわけで、しかも死人として、死体として扱われるという大変残酷なことになってしまいます。 

 ドナーカードは、本人の意思と家族の同意を記入するとありますが、今のドナーカードは大変安易なものでありまして、本人が書いたかどうか判らない場合があります。私たちが脳死・臓器移植反対の活動をしている中で遭遇したことなのですが、自分の知らないうちにカードが出来あがっていたという人が現れました。それは腎バンクカードだったのですが、私が知らないのに私のカードがあったという電話が事務局に入ってきました。調べてみると息子が父親も臓器提供するべきだと勝手に書いてしまったということだったのです。もしも家族がいない方が脳死になってしまった場合を考えると、いとも簡単にカードが偽造できてしまう恐れがあります。ドナーは登録制ではないので、カードだけで判断するとしたら、これは大変危険なものであるとおもいます。 

 ここで大本の教義に基づく死生観を少しお話したいとおもいます。大本の教義のことをお話しするのは押しつけがましく恐縮なのですが。大本では人というのはそれぞれの寿命という一定期間に何らかの使命を与えられてこの現実世界に生まれてくると教えられています。そして人はこの世に生きつづけます。何らかの目的が与えられてこの世に生まれます。この世に人として生まれるためには、自分という霊魂に肉体が与えられ、それが一体ならないとこの現界では生存することが出来ません。ですからそれぞれの使命に一番適合した肉体が与えられるわけです。男性としてこの世に存在する場合は男性の肉体が与えられ、現代に生まれべき人なら現代に、日本に生まれる必要のある人なら日本にというふうに、生まれる場所や時間もふさわしいものが与えられるのです。生まれながらに背の高い人もあれば低い人もあり、色々個性があり違いがあります。これは一人一人の使命が違うからおのずとそれぞれ違ってくるのです。それで、その違いをもって人を差別してはいけないのです。一人一人使命が違い、それにもっともふさわしい体や環境が与えられているのですから。雨の日には長靴を履く、登山の時には登山靴を履くというふうにそれぞれの人生に一番適合した肉体が与えられているというふうに理解をしております。その人がこの世で課せられた一生を終わって、そして再び霊魂が元の世界に戻るとしたらそれが死です。その時は、霊魂と肉体が分離する時。レジュメにありますように、それは即ち心臓、それから呼吸が停止したとき。その時をもって完全に肉体から霊魂が離れていく。肉体の方は大自然に帰すという意味で土に葬る。肉体はお返しするものと考えます。ところがその途中において、人の判断をもって肉体の一部を他の人に移し替えるということは、本来生まれてきたことの目的から少しずれてしまうことになります。そう意味で臓器移植は人の判断ですべきものではない。ましてやその霊魂と肉体がこの世の決められた過程を終える前に、いわばまだ心臓と肺臓が動いている間にこの人はもう助からないからと見切りをつけて心臓を取り出してしまうというのは、人為的にその人の寿命を縮めたことになり、死期を早めたことになります。そのように理解をしております。 

 そこで我々宗教者はこういうことが許されるという社会に対して何かものを言わなければならない。自分たちが信じているものと、世の中がそれと違った方向に行こうとしたときに、仕様がないと眺めていたのでは、何のために自分達は信仰をしているかということになります。 

 私たちは、そのことを深く考え、そして繰返し研修会を教団内部で行いました。そして言うべきことは言わなくてはいけない。するべきときにはしなくてはいけないと決心しました。言うべき事は社会に向かって声を出さなくてはいけないということから、一般の方を対象に、全国の主要都市で脳死・臓器移植反対の講演会を開きました。その活動を始めると、われわれ以外の多くの人も、そういう思いをしておられる方があるということを知りました。その人達とも力を合わせ、一緒になって一昨年から街頭活動を始めました。最初は今日の資料に入っているノンドナーカードとそのチラシを配り始めました。しかし世の中に大きく訴えるには、同じ思いの人がこれだけおられるのだということをアピールしようということになりまして、昨年の五月から今年の五月まで一年間かけて署名運動を行いました。これには大本信徒を中心として協力していただいて、外部の団体にも協力をお願いしました。活動のほとんどは街頭活動が中心となりましたが、あわせて知り合いを訪ねて署名をお願いする人や、ご近所に勧める方など、色々な方法で署名が集まってきました。 

 一年間の予定で行いましたが、昨年の秋頃に推進側の団体が厚生省に署名を提出するというニュースが飛び込んできました。四十五万人の署名を出すと。その当時こちらは二十万あるかないかの署名数でした。これはなんとかして頑張らなくてはということになり、昨年十月に署名のためのキャラバン隊を出しました。全国の思いを同じくしてくださる皆さんが参加していただけるようにということで、全国六コースに分けて六台の車に「脳死は人の死ではありません」と大きく掲げて、全国の各県をすべて回るというかたちで一ヶ月間かかって巡回いたしました。一ヶ月かけて全国を回ったおかげで、なんとか四十万人台になりました。お手元にある資料の人類愛善新聞に厚生省に提出したときの写真が掲載されています。このときは上半期、中間報告という形で提出いたしました。推進派の四十五万まではいきませんでしたが、約四十二万人の署名を厚生省に提出できました。 

 そして後半もまた再び続けました。そして今年の五月までに八十六万六千八百五十四人の署名が集まりました。この間、様々な体験をいたしました。その初めには我々自身が教団内部で繰返し勉強会を開き、互いに交代で講師に立って質疑応答をし合ったりして模擬講座をしました。それから何かの催しや行事がある度に脳死について話す、聞くプログラムを入れて勉強しました。 

 なかなか消極的に人の話を聞いているだけでは頭に入ってきませんが、いよいよ街頭に立ち、襷をかけて「脳死は人の死ではありません」と訴えると、まさに実地訓練になります。街行く人からいろいろなことを言われたり、質問されたりします。そのたびに自分の勉強の足りなさを痛感し、本気で考え、取り組むように多くの人が変わりました。 

 街角でよく言われることのひとつに「脳死が人の死ではないというのなら一人でも助かった人をいってみろ!」という言葉があります。まさにその通りで「脳死者が一人でも元気になったためしがあるのか!」と言われたら確かにいないのです。ところが脳死と判定された人で回復した人はいるのです。それはどういうことかといえば、その人は脳死ではなかったということなのです。脳死ではなかった人が脳死と判定されたという、これこそが問題なのです。全く回復しない人を脳死といいますが、厳密な見極めは出来ないといわれています。限りなく脳死に近いとしか分からない。また脳死と判定された人から子供が産まれたことがあります。これはアメリカで、今年の一月一日に子供さんを産んだ方があります。帝王切開です。脳死の人の帝王切開による出産は可能です。人は出産のときに子宮から信号が脳に行き、脳からホルモンが分泌され、それによって出産が始まるのです。ですから脳が死んでいたら自然分娩は出来ないのです。そういう質問に街頭で出くわすこともあります。そういうときはもっと勉強しなくてはと自分を省みて研鑽をし、また街頭に出る。中には誹謗中傷する人もあります。最初署名を始めた頃は町の反応が鈍かったのが、高知の一例目があってからは意外と反応してもらえるようになりました。当初若い人は無関心で、われわれを無視して通っていたのが、いざ移植が行われ、そういうニュースが流れると若い人の反応のほうがよくなりました。署名をすすめても私はいいですという年配の人には、いくら説明してもどうしても書いてもらえないのに対して、若い人は説明をすると、私もそう思いますと理解してくれて署名してくれる人が多くいます。それから夫婦でも旦那さんが書いてくれて、奥さんもどうぞとすすめると「女房は推進派ですから」というご主人もありまして、日常の家庭の話題になっているのだなあと感じました。それから私も人に勧めますと言って用紙をもらって帰る人もいます。このようにいろいろな人に出会いました。たしかに「私は脳死賛成派でドナーカードを持っています」と言う人も少しずつ出てきましたが、まだまだ世間ではカードを持っている人は少ないようです。熱心な人の中には一日に五百人以上の署名を集めた方がありました。また、一人で一年間に五千人以上の署名を集めた方もありました。この活動は五月で一端締めくくりまして、それから後はノンドナーカード立てを作り、ドナーカードと同じように、持っていきたい人にはチラシとノンドナーカードが持っていけるように、人が集まる場所、お店などに置かせてもらおうという活動をしています。また後半に集めた署名は今年の秋頃に厚生省に提出する予定です。 

 少し駆け足になってしまいましたが、こういうことで「脳死は人の死ではない」ということとノンドナーカード運動についての紹介をさせていただきました。ありがとうございました。 

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