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脳死移植/いまこそ考えるべき脳死移植

【声明文】

前文

私たち密教21フォーラムは、いわゆる「脳死からの臓器移植」問題を宗教者も発言すべき「生命倫理」の問題としてとらえ、「脳死臨調」の段階から強い関心をもってこの問題を見続けてきた。そして、いくたびかの研修や議論の集約として、「脳死は人の死ではない」との統一見解に達し、現行の「脳死による臓器移植」には反対することに至った。

私たちは、「人の死」の定義は、この文明社会で長い時間をかけて受容された万人共有の「自然法」であるべきだと考える。またそれを支えるのは、とくに死の判定に中心的役割をもつ医師の見識と経験の積み重ねであり、医師への信頼に基づく家族親族の死の受容であり、家族の要請に応えて行われる宗教(家)の死の意味づけである、と考えている。 ところが、「人の死」の定義に政治や法律が動員され、この文明社会に新たな死の定義が突如乱入した。「臓器提供する場合は脳死は人の死であり、提供しない場合は脳死は人の死ではない」という相矛盾する「二つの死」の定義を、「臓器移植に関する法律」(平成9年法律第104号)は議員立法の政治妥協としてもちこんだのである。「人の死」の定義へのこの政治の乱入、この「不道徳」に私たちは先ず強い異議をもつに至った。

この「法律」施行により何が起きたか。まず「殺人行為の合法化」。心臓も動き体温もある脳死者の身体から、まるで「臓器狩り」のように、「生きた臓器」を「複数」「まるごと」切り取り、その結果「人為的に」脳死者の息の根を止めるという「不道徳」。これは他の臓器移植とは似て非なる医療行為で、脳死体が「死体」であるという「法律」の適用がなければ「殺人行為」である。この「法律」によって移植外科医の「殺人行為」が免責となり合法化されたのである。 ドナーカード等により本人が臓器提供の意思表示をしていたとしても、私たちが慣れ親しんできた倫理観・罪悪感は、「まだ生きている臓器」を切り取り、その結果患者を「人為的」に死に至らしめる行為を「殺人行為」と認識してきた。これまで私たちが共有してきた倫理観・罪悪感を踏み越える「不道徳」を犯すのなら、拙速な政治手法をとらずに、時間をかけた「生命倫理」の議論とその成果を国民に説明する「説明責任」があるべきであった。

さらにかずかずの「不道徳」「不備」。「ウソ広告」の疑いをかけられたドナーカードの普及のためのテレビコマーシャル。「日本臓器移植ネットワーク」職員による1000万円にのぼる使い込み事件。移植手術が行われた指定病院の脳死判定の密室性と不備を否めない医療体制。マスコミによるドナーおよびその家族のプライバシーの侵害。移植外学会首脳の傲慢な発言。レシピエントの初の死亡(移植不成功)。さらには「臓器あさり(カニバリズム)」目的の「モラルなき産業」の触発、等々。 この「脳死移植」の周辺で起きている数々の問題は、とても「科学の恩恵」という「美名」や「人命尊重」という「美談」に属するものではなく、私たち日本人が永く共有してきた倫理観や罪悪感を踏みにじる科学の行き過ぎ、私たちにとっての「不道徳」ばかりである。 しかるに「法律」施行後3年の見直し時期にあたる昨年秋、厚生省の研究班は奇妙な「人間性善説」を持ち出し、「本人の意思表示がなくとも、人間は(誰でも)臓器提供をする<善意の本性>をもっているはず、反対を明確にしていない限り死後の<臓器提供の自己決定をしている>存在」と決めつけ、現在の法律で禁止している「15歳未満の子供の脳死移植」を可能にしたり、「本人の意志が確認できない場合は親族の同意で代行できる」といった内容を盛りこんだ意見書をまとめ、今年の通常国会に法案提出の動きを示している。

これは、私たち日本人が「仏教」や「神道」や「儒教」を基層文化とし、長い間共有してきた「生命観」「死生観」とはまったく異質な考え方であり、為にする我田引水の「性善説」に過ぎない。はたしてこんな普遍性のない独りよがりな倫理観を法律改正の中心思想にしていいのだろうか。私たちは、このような手段を弄してまで脳死移植の定着のために巧をあせる推進派関係者の「生命倫理」の「妥当性」「公共性」「普遍性」を厳しく問うものである。


声明

私たちは以下のことを表明し、それを具現するために必要な活動を行うものである。

私たちは、「脳死は人の死ではない」との見解から、現行の「臓器移植に関する法律」に基づく「脳死からの臓器移植」は「合法的殺人」を前提としなければ不可能であり、「法律」の導入と「法律」による保護にもかかわらず「不道徳」な医療行為であることに変わりなく、これに反対するとともにその停止措置を強く要望する。
私たちは、「社会倫理」の立場から、「ウソ広告」の疑いがかけられたドナーカードPRのテレビコマーシャル、「日本臓器移植ネットワーク」職員による公金使い込み事件、「臓器売買」の危険性、等々、前文に挙げた「脳死からの臓器移植」が結果として社会にまきちらす「不道徳」のかずかずに警鐘を鳴らし、その一日も早い停止を要望する。
私たちは、「人間は臓器移植をする<善意の本性>をもっているはず」という奇妙な「性善説」を持ち込み、脳死状態からの蘇生の可能性が大人よりも高いとされる子供の「脳死からの臓器移植」を「15歳未満から容認」したり、「本人の意思確認ができない場合は親族の同意で代行できる」ようにする、という内容を盛り込んだ平成12年秋に厚生省研究班がまとめた現行法の見直し案は、「臓器提供拒否」を「ノンドナーカード」などによって予め意思表示しておかない限り臓器提供を承諾しているものとみなされることなり、これは「本人のリヴィングウィル」を最重要視する「医の倫理」「生命倫理」を著しく逸脱する「不道徳」と断じ、その法案化と国会上程の停止を強く要望する。


【私たちの見解】

脳死移植がもたらした「いのちをもてあそぶ不道徳」

はじめに

いわゆる「脳死移植」問題について、なぜ私たちが強い関心をもち情報収集やセミナーや公開フォーラムを行って学習を重ね、機会あるごとに発言をしそしてここに「見解」を表明するのか、その理由をまず述べておきたい。

理由(一)=「脳死移植」について「生命倫理」の観点から宗教者の見解を社会に伝える使命

 人類社会の定着した文明では、「人間の死」の決定に関与する資格があるのは、人体の「生命維持活動の停止」を確認する知識と経験と技術をもつ医師(医学)と、「死体の処理」と「告別」の儀式と「人間の死の意味づけ(魂の在りよう)」および家族・縁者の「死の受容」「悲しみからの立ち直りの援助」を行う知恵と経験と信仰をもつ私たち宗教者(宗教学)、そしてこの両者の助言に基づいて愛する人の「死」を受容する家族・親族・縁者(当事者)であった。

 ところがこの近代国家日本の成熟した文明社会に、「臓器を提供する場合にかぎり脳死を人の死とする」という世にも不思議な「死の定義」を持ち込み、「ひとの死を待ち」「ひとの臓器を欲しがる」野蛮な「カニバリズム(人肉あさり)」が突如として乱入した。いわゆる「脳死移植」である。 「脳死臨調」から「脳死・臓器移植法」可決に至る過程では、「殺人訴訟」の影響で遅々として進まない日本の「脳死移植」の現状にいらだつ移植外科医・移植コーディネーターを中心とする「脳死移植推進派」の人たちが、あろうことか政治・法律・行政というおよそ「死の定義」とは次元を異にする分野の人たちを動員し、矛盾に満ちた「我田引水」の「二つの死」を強行導入した。

 この医学界でもほんのひと握りにしか過ぎない移植外科医や移植コーディネーターの「自惚れ」と「傲慢さ」を助長する「生命至上主義」は、いまや行き詰まりの奈落にある科学的合理主義と科学技術を看板とする「近代主義」の「落とし子」である。私たちはこの「脳死移植推進派」の人たちの時代遅れの医療の「知性」と「倫理」に対し強い憤りを表明する。 去る十月に世界医師会会長に就任された日本医師会会長・坪井栄孝氏が指摘されているように、時代はもう「医学・医療」と「哲学」「宗教」のクロスオーバーによる「医の倫理」「生命倫理」を創出する時代となっている。その動きは医学界の全体にすでに顕著に現れている。私たちは単に「脳死移植」に反対することにとどまらず、「医学」と「宗教」の相互理解を推し進め、両者の融合した新しい「知恵」を二十一世紀社会に提案していくべきだと考えている。そうしたスタンスで、私たちは宗教者としての使命として「脳死移植」問題にかかわっている。


理由(二)=「死」の問題について発言しない宗教者としての僧侶仲間への問題提起

 一方また「死」の問題は、寺院の日常業務の中心に葬儀執行を置いている私たち僧侶にとって、また宗教者として社会のさまざまな問題とくに「死」や「いのち」の問題では発言を期待され求められている僧侶にとって、最重要課題であり最も専門的であるべき課題である。  にもかかわらず、伝統仏教の各宗各派所属の僧侶の皆さんは、この「脳死問題」について見解を公表することに消極的でほとんど発言らしい発言を聞かない。天台宗を除き、各宗のご当局、宗議会、研究者・研究機関においても、みなご同様である。

 私たち「出家」は「出世間」だから、「世間」の問題には「執着」「頓着」せず「無関係」でいい、というお考えなのであろうか。それとも「脳死問題」といっても、伝統教学や事相では「死」や「いのち」の問題を学んでこなかったからわからない、というのであろうか。あるいは「脳死問題」はふだん「葬儀」で出会う檀家さんの「死」とは別次元の問題だから関係ない、というのが日常的「業界思考」なのであろうか。ともかく宗教者の発言がこれほど求められているのに、現実はみな黙して語らない。

 さてさて、私たちは、十月二十一日に東京築地の本願寺「伝道会館」で開催した公開フォーラム「いまこそ考えるべき脳死移植」の案内を、東京都内仏教寺院約二三〇〇ケ寺に出したが、それに呼応して出席された方はほんのわずか、案内状の数の一パーセント程度であった。救いは真言宗智山派の教化センタースタッフと密教学の碩学津田真一先生がお見えになったくらいで、まず「関心がない」と断ぜざるを得ない、これが伝統教団所属の僧侶の皆さんの現実である。 こんな状態で、はたして「団塊の世代」をサポーターとしていく二十一世紀の仏教寺院が、「死者儀礼」と「現世利益」という既存の「寺院経済プログラム」だけで、社会的発言力もない存在のまま生き残れるのだろうか、それほど二十一世紀の日本社会は甘いだろうか。「団塊の世代」は依然として「おがみ屋稼業」に終始することに疑問をもたない私たち僧侶を「帰依すべき宗教者」とみなすであろうか。仏教情報や教義教学は私たちの頭越しに電脳世界の情報ハイウェイを駆け巡っている。坊さんに救いを求めなくてもサブカルチャーがある。坊さんなどに仏教を聞かなくても書店に仏教書が並んでいる。インターネットで検索もできる。こうした僧侶を必要としない情報化・多様化の社会で、私たちはこのままで日本の仏教を背負っていけるのだろうか、「宗教者」としての自己の存在価値を自ら問う時にきている。「脳死移植」は新しい「密教学」を勉強するのにもってこいのテーマでもある。


「脳死移植」に関する私たちの異議

移植外科医・厚生省研究班・国会各会派の「脳死移植問題」担当者への異議

 私たちは、脳死移植に関して「脳死は人の死ではない」「脳死移植は合法的殺人」という見解に立っている。「臓器を提供する場合は脳死は人の死であり、臓器を提供しない場合は脳死は人の死ではない」という「二つの死の定義」について、「死」の「文明論」として絶対に容認できない疑義と、人の「死」をもてあそぶ科学者の唯物論と傲慢さ、それをサポートしている国会議員(立法府)・厚生省(官僚・行政府)に改めて異議を表明する。


レシピエントとそのご家族への異議

 難病や重病で長い闘病生活をされている方にはたいへん酷な異議だが、自分の「生きられる時間」を一日でも長くするために、見ず知らずの人の「脳死」を待ち、あるいは心のどこかでそれを期待し、あるいは他人の臓器を欲しがったり当てにしたり、さらに「まだ動いている臓器」を「脳死者」の身体から切り取り、その人の「息の根」を止める「殺人行為」の結果を受けとめる、それまでして生き永らえることに「躊躇」や「遠慮」や「疑問」や「罪悪感」をもたないのか。  また「脳死移植」にかかる高額な費用を全額自己負担できるのか、もし「公的資金」が使われるとしたら自分の「幸運」と「生存欲」への「コスト」の高さについて疑問をもたないのか。


ドナーカードをもっている人への異議

 どうせ生きられないのなら自分の臓器の一部でも「ひとの役に立つ」のなら希望者にあげてもいい(廃品利用価値理論)、自分は死んでも「身体の一部がまだこの世で生きられる」のならそれはすばらしいことだ(ヤドカリ的生存理論)、というにわか仕立ての軽い「ヒューマニスト」になっていないか。  要するに、自分で使えなくなったものはどうせ捨てるのだから誰かのものになってもいい、という「使い捨て感覚」「消費者感覚」「物のやりとり感覚」で「いのち」の問題を感じとっていないか。そんなことを「ヒューマニズム」だの「善意」だのと思い込むのは浅はかな「知恵」である。


移植コーディネーター・臓器ネットワークの人たちへの異議

 「脳死移植」で受益者となる人の数はごくごく限られた人である。同じ難病で苦しんでいても、「脳死移植」によって救われる人と待っても待っても救われない人、つまり「生」と「死」の分かれ道はいったい誰が何の権限で決めるのか。  グァテマラで起きた日本人観光客への暴行殺人事件は、現地で頻発している「臓器売買」ブローカーの子供誘拐とまちがわれたものであった。先日もロシアで「臓器売買」を目的とした子供誘拐未遂事件があった。フィリピンでは日本の「脳死移植」の普及をあてこんだ日本人ブローカーによる「臓器狩り」が横行しているという。これはゆゆしき国際問題である。  皆さんの仕事は「合法的殺人」のほう助・共犯ではないのか、そういう躊躇や危惧はもたないのか、不道徳をまきちらす自己矛盾と社会的道義的責任を感じないのか。


指定医療機関の医療体制と脳死判定検査への異議

 指定医療機関の「脳死移植チーム」のほとんどは、各科の医師や検査技師の臨時的な編成によるもので、常時対応できる専門チームを組んでいる余裕などない。休暇や出張などで肝心のスタッフが不在で緊急の検査や治療に支障が出る場合もある。  救急救命で入院した患者に、その疾患に対応した適切かつ積極的な救命治療が行われず、ある時点からある「意図」により治療の方法が「脳死移植」の方向に変えられても家族はもちろん誰も気づかず、ある筋からの指令や意図に基づいて「脳死移植」に誘導される「密室的」「非人道的」治療が可能である。これは医療提供者による「いのちのもてあそび」行為である。  脳死判定ほか臓器移植などの医療行為の情報開示(「いのちのもてあそび」を防止するため)の問題と、ドナーや家族および受益者のプライバシーの保護という問題と、相矛盾する命題をかかえこんでいる。これは大きな社会倫理の問題である。  脳死判定基準(竹内基準)が義務づけた判定検査方法に重大な医学的疑義があることが、第一回の脳死移植(高知赤十字病院)であきらかになった。また、検査は密室での作業のため、検査ミスが起きても容易に改ざんされる可能性がある。


ドナーカードの低普及率と実施数の低迷への異議

 政府機関によるテレビコマーシャルを動員しても「ドナーカード」の普及率がきわめて低く、また「臓器移植法」成立当初の「三年間で一〇〇〇例」という実施予測も大きく狂い、平成十三年一月一日現在たったの十例である。このことは国民的合意が得られていないこと、医学界でも異議の多い移植外科医の殺人罪免責目的の法律の欺まん性が見え見えなこと、を証明している。


「見直し案」への異議

 子供の脳は脳死状態から蘇生する可能性があり、脳死判定は行わないのが世界の医学界の通例だといわれている。要望や陳情が多いとか、かわいそうだとかの政治的・情緒的レベルで、十五歳未満の子供に「脳死移植」を適用するのは「生命倫理」の観点から反対である。 また、若い元気な臓器を確保するため、とくに高速道での二輪車事故による脳死事案に目をつけ、十五歳未満の子供の場合と同様に「本人の意思確認ができない場合は親族の承諾でいい」という「死者の人権無視」の不道徳が議論されたと聞く。私たちはこの政治的行政的不道徳の横行に強く反対するものである。  このおぞましい見直し案には「人間は(誰でも)臓器提供をする善意の本性をもっているはず、反対を明確に表明していない限り死後の臓器提供の自己決定をしている存在」という「人間観」が登場した。これでは「黙っていると臓器提供の意思があったもの」と見なされ、いつのまにか臓器摘出の手術台に乗せられているという危険性がある。こんな世界の倫理学や哲学や宗教学にも登場したことのない奇妙な「性善説」を我田引水し、「臓器提供は自明のこと」に世論を誘導しようとする政治的策謀や不道徳律を私たちは絶対に是認することはできない。


私たちの視点 「このいのち仏のいのち」

「脳死」は「部分死」である。人間の身体ではしょっちゅうこの「部分死」が起きている。最小の単位での細胞の「アポトーシス」から「臓器の壊死」まで常にどこかで細胞や組織が死んでいる。「脳死」はたまたま人間の生命維持装置である「脳幹」に「部分死」が及んだのであって、他の臓器はまだ生きている。これを「人の死」とするのは乱暴だ。 身体のどこかが痛む、傷つく、病む、老いる、これみな「部分死」の結果である。人間の身体は「部分死」が重なりあるいは拡大しついに致命的な「三兆候死」に至る。痛む、傷つく、病む、老いる、健康な時にできたことができなくなる、若い時になんでもなかったことが負担になる、医師の診断によって身体の異常を宣告され、人生の残り時間を気にし出す。誰もそこで不安とあせりを持ち悩み苦しむ。残念ながら戦後の日本人は「延命」には熱心であったが「人生の終わりの哲学」に熱心ではなかった。だから、「死の予兆」の前でただうろたえたじろぐ。「予習」ができていないのだ。 身体が痛み、傷つき、病み、老いることは、「少しづつ人間であることをやめていく」ことである。目が不自由になる、聞こえなくなる、匂いに鈍感になる、食べ物がおいしくなくなる、歩けなくなる、思考力が落ちる、この「部分死」の兆候は実は『般若心経』の「無眼耳鼻舌身意」、つまり「生への執着からの開放」で「般若」の「智慧」に近づくことであり、それはすなわち「仏になる」ことが始まっていることなのだ。「部分死」としての「脳死」は、「人の死」どころか私たちの仏教的解釈では「人間(生への執着の状態)」から「成仏(生への執着が消えた状態)」への大いなる第一歩だということになる。

「生への執着」と「それからの開放(無執著・サトリ)」こそ仏教の大命題であった。釈尊が言った「無明」とはまさに「生への執着」のことであり、「四諦」「八正道」とは「生への執着」からの開放への道筋と実践方法であった。  大乗はこの「生への執着の開放」を「不生不滅」の論理や「空観」の「観法」によって獲得しようとした。そして「無明」を克服した境地を「涅槃寂静」といった。またその「涅槃寂静」の境地に向かおうとする心を「菩提心」といい、そこにすべてのものを導こうとする願いや意志を「大慈悲」といい、導き手を「菩薩」、「大慈悲」の当体を「如来」といった。  「涅槃(ニルヴァーナ)」はよく「死」の意味にも使われる。「釈迦涅槃図」はそれである。「生への執着からの開放」「無執著」「サトリ」「涅槃」「入滅」が「死」と同義的に見られるのは定着したイメージである。 密教ではこれを「不滅の滅」といった。「不滅」=「大日如来(の生命活動)」の「永遠のいのち」の「一部」としての「滅」する有限の「いのち」を生きている「私」。「不滅(ほとけ)」と「滅(わたし)」という「二世界」の対応関係(チャネリング)によって「成仏」が瞬時に可能になる直路を示した。密教は「人の死」をも瞬間に「成仏」としたのである。  すでにお分かりのように、仏教は「死」という人間の「苦」を「仏となること(成仏)」に「昇華」してきた。この価値転換こそ仏教が「救いの宗教」たり得ている一つの証拠である。仏教の伝統からして「部分死」状態の「脳死」を「全体死」つまり「成仏」とみなすのは到底無理である。

「生命科学」の発達によってDNAの世界が解明され、ついに「ヒトゲノム」の解読が八〇パーセント成功したという。螺旋型のDNAのなかに、その人の「生命情報」が一定の法則性によってコピーされていることがわかってきた。私たちの「生命の神秘」のなかでは「宇宙の法則」としか言いようのない「生命維持の秩序」がきちんと機能しているのである。  この「宇宙の法則」のもとで、ひとりひとりの人間が「いま」「そこに」「そうあるべくして」「そうあらしめられている」つまり「生かされている」のである。その「宇宙の法則」「生命維持の秩序」のことを仏教(密教)では「大日如来」の「大悲」の活動とした。まさに「生命科学」が解明した世界は、とうの昔密教の行者が「感得」した「宇宙観」であり、科学では「宇宙の法則」と言う「真理」を「人格神」の「温もり」と「潤い」で「大日如来の大悲」と言ったところに「宗教の知恵」がある。

私たちは、「いのちは誰のものか」という問いに対し、「このいのち仏(如来・大日 如来)のいのち」「私たちは仏のいのちを生きている」「死後はそのまま(即身成仏)ア字のふるさと(如来の大いなるいのち)にたち帰る」と答える。  また、「いのち」「からだ」という「生命活動」は、それを支えるひとつひとつの臓器に至るまで「法爾自然(ほうにじねん)」「随縁無作(ずいえんむさ)」の理によるものであり、「そこにあるべくしてある」存在倫理(如来の大悲)がそこにある。  従って、人間の「いのち」「からだ」は、むやみに人間の浅知恵と都合で切り取ったり移し変えたりするような「物」ではない。「宇宙の法則」に従い「そこにあるべくしてある」ものなのである。それが人間の「いのちの本性」である。だから「死」に至っては、そのままそっくり「大日如来」に「投帰」すべき「いのち」である。私たちの身体の臓器ひとつひとつが「宇宙の法則」「真理」に対応しているのだから。人間はその「真理」の前に「謙虚であるべき」である。  これは、密教の教義や信仰を超えて、「自己」と「エゴ」と「個人」」と「私有欲」に終始してきた二十世紀「近代主義」によって人間が陥った「自惚れ」や「傲慢さ」を反省し、二十一世紀の人間が「共有」するに十分な普遍性に満ちた崇高な「イデア」である。

この視点から私たちは、「オレのいのち」「私のいのち」あるいは「臓器のやりとり」といった「いのち」の「物質化」や「私有化」を容認していないのである。「このいのち」は「仏のいのち」であり、この「私」のものではない。私たちは「仏のいのち」を生きているのだ。事実、「自分のいのち」と思い込んでいる「このいのち」ほど「自分」で自由にならないものはない。「自分」の意志によってどうにもできないものなのだ。 こうした宗教的「生命観」や「死生観」を戦後日本人は学んでこなかった。一億国民がみな「科学至上主義」「物質文明論者」である。私たち僧侶にもその責任の一端はある。その意味でもこの「脳死移植」の問題を通じて、仏教者が「生命倫理」や「生命観」「死生観」について宗教教育のボランテイァ活動を展開していくことはきわめてタイムリーかつ重要なことである。

この「脳死移植」問題に対して仏教(密教)者の立場から発言する際にもっとも重要なことは、まず、その依拠を探しに、釈尊の「前生譚」である『ジャータカ』の物語に安易に飛ばないことである。膨大な『ジャータカ』のほんの一節にしか過ぎない「捨身飼虎」の話を持ち出して「臓器提供」が仏典にも説かれている、と錯覚するのはおかしい。しかも、経典の内容は「物語」であったり「宇宙論」であったり「論理学」であったり「哲学講義」であったり、いずれも人間の日常的意識を越えた「非日常」に「象徴化」された「イメージ」と「言葉」の「フィクション編集」である。そこに書いてある記述を「リアルなもの」とそのまま現実に適用するのは無理がある。 例えば、「脳死移植」の問題でかならず問題となる「臓器提供は布施行か」という問題。大乗経典の編纂の時代にあり得なかった「臓器提供」を大乗の「布施行」にあたるかどうかを検討したところで、いささか見当違いの議論だといわざるを得ず、ましてや仮にも「布施行」だということになったとして、いまの仏教(密教)者が自ら「いのち」を差し出して「臓器提供」の模範を示すはずがない。そうした非現実的な「戯論」を私たちは慎むべきである。 次に私たちがよくやるのだが、祖師の言葉に飛びつき、自分の言葉で「解釈」もせずそのまま論拠にしてみたり、経典や論書(原典)のある部分をつまみ食い的に依用したり、章句をそのまま引用して論拠にしたり、難しい仏教用語や教義をそのまま転用したりせず、自分の頭で解釈し、自分で思想したことを自分の言葉で発言することである。  はっきり言えば、現在の「脳死移植」や「生命倫理」の問題を仏教は扱ってこなかった。仏典のどこを探しても、そんな問題を述べているものはない。だいたい仏教の経典編纂はそんなことをテーマにして行われたことはないからである。「人工呼吸器」がなかったついこの間までこんな問題は私たちの社会にはなかったくらいだから、当然といえば当然である。 結局私たちの何が問われるか、それは「生への執着」に答えられる仏教思想の「編集(力)」である。私たちは『大日経』や『金剛頂経』や『理趣経』そして弘法大師空海の数多くの著作という、「生と死」を考えるのに必要かつ十分な「データベース」に恵まれている。この「無執著の執著」「非有の有」「肯定の哲学」「生きる喜びの宗教」である「密教」の豊富な「データベース」のなかから必要なモードやコンテンツを検索し、自分の頭で「反・脳死移植・論」を「オリジナル編集」することである。

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