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「国立墓地」構想に賛成できない

 
  政府は一昨年、官房長官が主宰し「国立墓地」構想を議論する有識者の懇談会をたちあげ、暮れの12月19日からスタートした。
この懇談会は、正式には「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」といい、趣旨を「21世紀を迎えた我が国は、来年、「日本国との平和条約」発効50周年を迎えることもあり、これを機会に、何人もわだかまりなく戦没者等に追悼の誠を捧げ平和を祈念することのできる記念碑等国の施設の在り方について幅広く議論するため、この際、内閣官房長官において高い識見を有する人々の参集を求め、この問題に関して懇談会を開催することとする」とし、会長に「道路公団民営化委員会」会長の職務を最後の土壇場で放棄した例の今井敬経団連会長、会長代理に劇作家の山崎正和氏ほか、経済人・学者・文筆家等10人のメンバーを委任し、すでに10回の会議を経て昨年暮れ12月24日に「報告書」を出している。

   「報告書」の内容は「はじめに」「追悼・平和祈念施設の必要性」「追悼・平和祈念施設の基本的性格」「追悼・平和祈念施設と既存施設との関係」「追悼・平和祈念施設をつくるとした場合の施設の種類等」「参考意見」の6項目にまとめられ、首相官邸のホームページで公表されている。

   任期途中で亡くなられた坂本多加雄委員(学習院大学教授)が終始一貫「国立墓地」構想に反対されたほかは、政府系の各種審議会や懇談会がいつもそうであるように、この懇談会も各委員全員の賛成の建前を貫いて、「国立墓地」の必要性の「理屈」をまとめた。

   全日仏は早速この「国立墓地」構想に反対を表明したが、なぜか空しい。官邸にいる政治家や役人には、坊さんの意見を聞こうなどという発想は全くないからだ。坊さんの団体に反対されたからといって痛くもかゆくもない。
普段から宗教人らしい見識も見せず、社会的な存在感もなく、選挙の時には知らん顔をしてどこを向いているのかわからない坊さんの意見など、聞く必要もないのだ。
生命倫理にかかわるいわゆる「脳死移植審議会」もそうであったが、この懇談会にも坊さんどころではない神職も含め宗教関係者は一人も呼ばれていない。
8月15日がくるたびに、総理の公式参拝をめぐって靖国の杜で賛否両側がエキサイトし、くわえて中国・韓国から痛烈な非難を受けるいわゆる「靖国問題」に、何とか無難なかたちで政治決着をつけたい極めて「政治的」な議論の場には、「政教分離」の原則からか宗教人は要らないようだ。
こと日本人の死生観や宗教観に深くかかわるこの懇談会に、「無宗教施設」を結論づける意図のためか、宗教界を代表する形での宗教者や宗教学者が呼ばれない現実を、とくに宗教学や仏教学で名をなしている学者の先生方はどう恥じておられるか一度聞いてみたい。「学」は政治から排除されてはならないからだ。なのにこういう国家的なだいじな場に声がかからないということは、宗教学や仏教学が世間からまったく相手にされていないマイナーな「死学」だということではないか。空海なら何というだろう。

   「報告書」は無宗教の施設を結論づけた。この懇談会の滑稽なことはこの「無宗教」にある。委員に宗教学者がいないとこういう話になるから恐ろしい。

   毎年8月15日に東京の武道館で行われる「全国戦没者追悼式」。壇上の中央に立てられ「全国戦没者之霊」と墨書された白木の「柱」、あれは戦没者の「霊」が宿る「依り代」ではないか。献花をして、合掌し、祈る、これを私たちは「礼拝」という。
その是非を問うつもりはない。しかしあれを無宗教と宗教人は言わない。立派な宗教儀式だ。政教分離の原則が邪魔をして、役人は無宗教として押し通すしかない。
その論理がこんどの「報告書」を支配している。「墓地」という以上、宗教に決まっている。それを「国立」で無宗教にしようというのだ。「霊」の宿る「依り代」を立てておいて「国の主催」で無宗教を装う。それが役人の知的レベルなのだ。そんな姑息なことをしないで、政府はもっと深い宗教の問題に手をつけるべきだ。
A級戦犯は靖国で護国の「神」になってはいけないのか。
戦勝国が敗戦国を裁くという、当時の国際法では認知をされていなかった不法な「東京裁判(極東軍事裁判)」で、充分な弁護や弁明も保障されないまま出された「ジャップ憎し」の判決に従い、絞首刑などの最重刑に服したにもかかわらず、A級戦犯といわれる人たちは死んで後60年経っても罪人でいなければならないのか。日本のメディアは、A級戦犯を自明の理として総理の「公式参拝」の是非にしか感心がない。近視眼すぎる。

   ここが、一番だいじなところではないのか。日本軍の残虐行為をうけた中国・韓国そしておそらくは北朝鮮の人たちも理解できない問題、いやわかってもらえない問題だからだ。この問題に正面から取組まないで「国立墓地」で逃げるのは自民党らしい常套手段で、難題を先送りにしてうやむやにするだけである。「報告書」は、戦争を知らない世代にもこの問題を理解徹底したいとしているが、それならなおのことである。

   A級戦犯が靖国に合祀されたのは昭和53年、福田内閣の時である。このA級戦犯の靖国合祀はもともと「戦没者と戦犯の遺家族援護策」という国内の戦後処理策の延長線上にある。
国家に殉じて「英霊」となった「戦没者」の遺族補償と、東京裁判で「戦争犯罪人」になった1200万人にのぼる「戦犯」のうち、獄死した人の遺族補償と、昭和31年から33年にかけて釈放されたA級BC級の人たちとその家族の補償を、靖国合祀・遺族援護・恩給で行ったのである。
むしろ遺族援護法や恩給法に世論の関心が高まった当時、「戦犯」の靖国合祀を問題視する国民世論は多くなかった。戦犯として刑に服し刑死した人を犯罪者とみなすことを日本人はしなかった。神とし仏とみなしたのだ。
謝るべきは謝り、説明すべきは説明すべきだ。私たち国民も、戦争の史実を勉強し知るべきだ。

   余談だが、戦後巣鴨拘置所の教誨師として、刑の執行を待つ戦犯の教誨活動に従事しながらA級BC級の減刑運動の最先端に立って奔走し、GHQとの困難な折衝などでの過労の末若くして世を去った真言宗の学僧(豊山)がいたことを銘記しておきたい。お地蔵さまを厚く信仰し、受刑者から「巣鴨の父」と仰がれた<代受苦>の慈父であった。

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