空海年表・クウカイ クロニクル
時輪タントラと大蔵経[850〜]

空海のあとを継いだ真済、真雅ら、最澄のあとを担った円仁、円珍らの活動のもと、日本密教がさらなる広がりをみせていく。日本では東寺に続き、神護寺、醍醐寺、仁和寺などの諸寺院の整備、東アジアでは宣宗皇帝、遼の太宗、新羅の憲康王が仏教を保護し、西方ではインドの諸王朝に加え初期アンコール王朝が勃興し、諸宗派は爛熟期を迎えた。

年代
850
堅慧、室生山麓に高野山を摸し仏隆寺創建(現室生寺金堂、弘仁・貞観仏残す)
850
左近衛少将良峯宗貞が出家し、僧正遍照となる
850
仁明天皇、祖先の垂仁天皇の霊夢により状景を招いて下矢田寺建立(地蔵信仰おこる)
850
仁明天皇の勅願によって熱田神宮別当補佐職、常磐山神護寺建立(現神宮寺)
850
円仁、陸奥の毛越寺金剛王院を建立するという
850
仁明天皇没、文徳天皇即位
850
この頃から、律令制崩壊(貴族、寺社の荘園拡大)
851
真雅、嘉祥寺創建(仁明天皇生前の御願により、歓喜天を祀り悉曇を学ばせる)
851
真済、神護寺の伽藍整備を開始
851
円仁、鶏足寺開き、天台・真言兼学の道場とする(13世紀、慈猛が中興)
851
円珍、右大臣藤原良房・権中納言良相の支援をえて入唐決定、大宰府に向かう
851
嘉祥年間、藤原基経、深草に真言宗極楽寺建立(現日蓮宗宝塔寺)
852
仁明天皇、智泉大徳を偲んで岩船寺宝塔を建立
853
真済、神護寺五重塔建立
853
真紹、京都東山に五智如来を本尊とする禅林寺創建
853
時康親王、班子女王と結婚
853
円珍、新羅商人の船で出航、琉球に漂着、唐船に乗り換えて唐に向かう
853
真言宗の年分度者の課試がすべて東寺に移され高野山が衰勢に向かう
854
仁寿年間(851-854)、藤原良房、真雅とともに嘉祥西院建立
854
光定、延暦寺別当に任じられる(延暦寺に天皇御願の四王院建立)
854
円仁、天台座主となる
855
畿内の大地震に、東大寺大仏の首が落ちる
855
真如法親王、修理東大寺大仏司検校となり大仏修復はじめる
856
真済、僧正に任じられるも、亡き師の空海に僧正の位を譲って辞退
857
文徳天皇、空海に大僧正を追贈、真済を僧正とする
856
藤原緒嗣、東山の山荘を神修上人に施入し空海開創の法輪寺再興、仙遊寺とする(後の泉涌寺)
856
円仁、文徳天皇に両部灌頂を授け、皇子の時有(素延)・毎有(算延)らに灌頂を授ける
857
藤原良房、太政大臣となる
857
陸奥の極楽寺を定額する(最北の定額寺、700堂塔、36僧坊を備えるという)
858
文徳天皇、帯解寺の伽藍整備(勤繰大徳の開基になる厳渕千坊の一院)
858
藤原良房、摂政となる(藤原北家、政権掌握)
858
円珍、帰国(真言止観を唱える)
858
文徳天皇没、広隆寺に念仏・読経する
858
天皇即位をめぐり、真済は惟喬親王、真雅は惟仁親王の祈祷
858
真雅、行教(益信の兄)を宇佐八幡宮に派遣、藤原良房の外孫惟仁親王の即位を祈祷
858
惟仁親王、清和天皇に即位、藤原良房が政権掌握
858
円珍、博多に帰り、鴻臚館に入る
859
安祥寺[五智如来像]成る
859
円珍、宮中に召され将来した金胎両部の大曼荼羅献上
859
延暦寺の尊意、高山寺に修行し法力を見る(後に明恵、華厳・真言兼学の道場とする)
859
真雅、東寺の長者となる
859
藤原良相、崇観院・延命院を建て、流浪者・病人を救済
859
僧円珍、三井寺(園城寺)を修造し、将来した経籍を収める唐房建造
850
宣宗皇帝、令狐綯を宰相に任じる
850
この頃、詩人劉綺荘、官州刺史となる(『揚州送人』『共佳人守歳』など)
850
南宗禅の祖、馬祖道一の塔建立(南宗禅興隆)
851
裴休、塩鉄転運使となり、漕米法改正、税茶法創設(国家財政の立て直しをはかる)
851
西域の吐蕃駐留軍を排撃した張議潮、帰義軍節度使となる(西域回廊11州、唐に帰属)
851
宣宗皇帝、荐福寺の弘弁を招いて法を問い、円智禅師として紫方袍を賜う
852
宣宗皇帝、裴休を宰相とする
852
杜牧、地方官を歴任し中央に戻って中書舎人となる(『遣懐』『題烏江亭』などを作す)
853
宣宗皇帝、仏舎利を礼拝し仏教に帰依
853
この頃、宣宗皇帝、日本僧円載に帰依し長安の西明寺に留める
853
円珍、福州に到着、福州都督府より「公験」下付、開元寺に宿泊
853
円珍、開元寺の寺主、恵灌に空海の安否を問われる(36巻の経論・章疏・図像・碑記を書写、三蔵般若怛羅からサンスクリットを学ぶ)
853
円珍、天台山国清寺に入り、越州から訪れた円載に伝燈大法師位を授ける勅牒を渡す
853
段成式『寺塔記』
854
慧萼、再び入唐(五台山に観音像をえる)
854
潭州岳麓寺の僧疏言、西域に仏典を求める(経典5048巻を持ち帰る)
855
不空三代の弟子、西域僧・智慧輪訳『大円寂経説字母品』
855
円珍、長安に至り、円載とともに青竜寺の法全から伝法灌頂を受ける
855
円珍、画工の慶に御願の大曼荼羅を描かせる
855
円珍、法全が撰述した『蓮華胎蔵悲生曼荼羅広大成就儀』『蓮華胎蔵菩提幢標幟普通真言蔵広大成就瑜伽』を書写
855
『五部心観』できる(円珍請来、園城寺蔵)
855
円珍、大興禅寺不空三蔵院に不空骨塔を拝し、智慧輪に会う
855
五台山の日本僧、田口円覚、長安の崇仁房で円仁に会う(蘇州の海商、徐方直を紹介)
856
円珍、洛陽の龍門石窟、金剛智の墓に参詣、白居易の墳墓を望見
856
円珍、天台山の国清寺に日本国大徳僧院を建てる
856
チベット僧の法成来たって「瑜伽」を説き、漢文・サンスクリット・チベット文字を用いる(その弟子、『分門記』を残す)
857
円珍、『日本国比丘円珍入唐求法目録』作成
857
裴休、黄檗希運に帰依し『黄檗希運禅師伝心法要』を編集
858
慧萼、舟山列島に五台山で入手した観音像を祀り補陀落山寺創建(現善再寺)
858
五台山の仏光寺の東大殿塑像を修復
858
剣閣鶴鳴山の磨崖天尊像を造営
858
円珍、台州の海門から渤海商人の李延孝の商船(延孝船)に乗り日本に向かう
859
温庭筠、宣宗皇帝に召され、無礼の廉で放逐(『煙水何曾息世機』『江海相逢客恨多』など)
859
南詔王酋龍、帝を称し独立(北ベトナム領有をめぐって唐と戦う)
859
浙東の賊、裘甫、官軍をたびたび破る
859
宣宗皇帝、丹薬を飲んで急死、宦官によって懿宗皇帝即位
859
宦官が朝政を握り、唐の内政、外交の混乱深まる
859
段成式『塑像記』
850
パーラ朝マヘンドラパーラ王即位
850
この頃、プラティハーラ朝ボージャ1世、ガンジス流域西部から中部に進出、北インドの大半を支配
850
この頃からラーシュトラクータ朝アモーガヴァルシャ1世、東チャールキアを攻める
851
唐から帰国した新羅の梵日国師、崛山寺創建
851
張議潮の反乱軍、沙州(敦煌)の吐蕃駐留軍を排撃
851
新羅の文聖王、清海鎮を廃止し張保皐の元部下を慶州の碧骨県に移動
851
新羅に張保皐の部将の反乱おこり、一部は北九州に移る
854
新羅の廉居和尚、葛陽寺創建(現在の龍玉寺という)
854
パーラ朝の将軍ヴィグラハパーラ1世即位するも、息子ナーラーヤナパーラに譲位
855
新羅の文聖王、慶州南山の昌林寺三層石塔に『無垢浄光大陀羅尼』、金銅板の[国王慶膺造無垢浄塔願記]を納める
855
パーラ朝ナーラーヤナパーラ王、プラティハーラ朝ボージャ1世に攻められ、ガンジス下流域を保持
855
パーラ朝ナーラーヤナパーラの宰相グラヴバシュラ、象軍と水軍でプラティハーラ朝の騎馬軍を防ぐ
856
西ウイグルの龐特勤、唐王朝から懐建可汗の称号を受ける
857
新羅の文聖王没、憲安王即位
858
新羅に冷害・旱魃、飢饉広がる
859
新羅の道詵、青岩寺建立
859
新羅の憲安王、各地に使者を派遣し穀物を供給、水利事業・農業振興事業展開
859
この頃、南詔の崇聖寺三塔できる
860
行教、宇佐より八幡大菩薩を男山の護国寺に勧請し、石清水八幡宮創建
860
貞観年間、杲隣、京都修学院を開くという
860
この後、杲隣、東国に下向し伊豆修善寺、小田原金剛宝寺を創建するという
860
円珍、唐に伴った円敏・僧命・康済らと新羅神祠を創建したと伝える
860
新羅の僧尼に仏頂尊陀羅尼を誦経させ歳事とする
861
真如法親王、東大寺に無遮大会を開催(大仏の修理落成)
861
真然、伝灯法師位となる
861
行教、讃岐の栄福寺に八幡神を招く(両部神道道場となる)
861
惟喬親王、京都を出て近江の君ヶ畑、金龍寺に住まう
861
真如法親王、入唐求法を志して奈良から大宰府に入る
861
真雅、聖宝に受明灌頂を授ける(無量寿仏を得仏)
862
嘉祥寺西院を貞願寺とする(真雅入住、藤原良房の施入に大伽藍出現)
862
藤原南雄、珍皇寺に『法華開題』を撰す
862
聖宝、讃岐巡錫中に10歳の少年(観賢)の才能を発見
862
円珍、三井寺において宗叡に伝法阿闇梨位の潅頂を授ける
862
真如法親王、宗叡を伴い、肥前柏島に新羅海商、張支信の船に乗り唐に向かう
863
真雅、聖宝より観賢を預かる(十八相印・両部大法を授ける)
863
怨霊を鎮めるために下御霊神社創建
866
藤原基経の妹、高子、清和天皇の女御に入内(貞明親王を出産)
866
常陸太守、上野太守などを歴任した時康親王、太宰帥に就任
866
宗叡、帰国、真如法親王がインドに向かうと伝える
866
宗叡、東寺に灌頂壇を開く
866
僧綱に法印大和尚、法眼和尚、法僑上人の三階をおく
866
応天門の変(伴善男流罪、大伴氏没落〉
866
大宰府・山陰諸国に新羅賊船の防衛強化
867
東寺御影堂[不動明王像]成る
867
菅原道真、文章得業生となり、下野権少掾を拝命
867
『藤原有年申文』(草書から平かなへの移行)
868
円珍、延暦寺の座主となる
869
京都八坂神社の祇園会はじまる
869
藤原氏宗ら編『貞観式』、藤原良房ら編『日本後記』
869
常康親王、雲林院を仏寺とし僧正遍昭に付託(天台寺院となる)
869
貞観津波、多賀城損壊、死者約千人という
860
裘甫、役所の倉庫を開いて壮士を募り反乱軍を組織(裘甫の乱)
860
王式、人民を慰撫しチベット族、ウイグル族の帰化兵を用いて裘甫の乱を鎮圧
860
この頃、臨済宗祖臨済義玄、曹洞宗祖洞山良介活躍
862
真如法親王・宗叡・禅然ら、明州に入る
861
女流詩人魚玄機、17才にして『情書』を書く
862
徐州など4県を守備する武寧藩鎮の兵、新任の節度使の温璋を追放牛僧孺、李宗閔の推薦で、兵部尚書・同平章事に返り咲く
862
裘甫の乱を平定した王式、忠武藩鎮と義成藩鎮の軍勢を用いて武寧藩鎮の反抗を制圧
862
真如・宗叡、汴州(開封)の玄慶より金剛界灌頂を受け天台山巡礼
863
唐王朝、武寧藩鎮の兵を再編し、独立をめざす南詔制圧に向かわせる
864
真如法親王・宗叡、長安に入り、留学僧円載に迎えられる
864
真如法親王、青龍寺の法全より伝法灌頂を受ける
864
『蘇悉地儀軌契印図』(東寺蔵)
864
真如法親王、入竺官符を得て広州から雲南に入る
864
高駢、安南都護となり、ベトナム領となっていた交州を唐に編入
865
『莫高窟記』(莫高窟前庭の刻文)
866
真如法親王、蘇州の海商の帰依を受ける田口円覚、弟子の安展、従者の丈部秋丸らとともに天竺に旅立つ
867
皮日休、蘇州刺史となる(茶園を営む詩人陸亀蒙と詩を唱和し『松陵集』を残す)
868
桂州に赴任して南詔と対峙した武寧藩鎮の軍隊、料糧判官の龐勛を盟主に徐州への帰還をはかる(龐勛の乱開始)
868
女流詩人魚玄機、侍女を殺害して獄中に『獄中作』を著す
868
雕板印刷による『金剛般若波羅密経』出版
869
龐勛率いる軍兵、北に進軍し徐州を占領
869
唐朝、沙陀族の朱邪赤心が率いる騎兵を用いて龐勛の反乱軍を鎮圧
860
新羅の憲安王、43代僖康王の孫、金膺廉の才能を見て王女を降嫁させる
860
この頃、プラティハーラ朝ボージャ1世、イスラム帝国と友好関係築く
860
澈鑑禅師道允、證心寺建立(石像如来像安置)
861
金膺廉、新羅の景文王に即位
861
新羅の景文王、元聖王の夢告に鵠寺を整備
861
この頃までにヤアクーブ・サッファール、アフガニスタン、インダス流域を征服
861
ヤアクーブ・サッファール、ホラーサーンを征服し、サッファール朝開く
862
新羅の道詵、千年後の末法に仏教再興する拠点として道先寺建立
863
南ベトナムにチャンパ(占城)の新王朝おこる
863
南詔の景荘帝、北ベトナムの林邑を占領
864
新羅の道詵、白鶏山玉竜寺に入る(風水地理説を説き、『秘記』を著す)
864
ジャワのマラタム王国おこり、シヴァ教導入
864
サマルカンド・フェルガナを領したアヘマッド没(サーマン朝の始祖)
866
新羅に伊允興の乱(国情悪化)
867
新羅の普照國師體澄、道義禅師の白蓮寺跡に松広寺創建
868
新羅の崔致遠、12才のとき唐に留学
868
澈鑑禅師、双峰寺創建(澈鑑禅師塔建立)
869
吐蕃の地方領主、民衆を束ねて反乱(吐蕃王朝の支配層を排撃)
870
この頃、源仁、真雅・宗叡より伝法灌頂を受ける
870
この頃から源仁、空海が高雄山で実慧に伝え宗叡に継承された「檜尾ノ伝」と高野山で真雅に伝えた「槇尾ノ伝」の融合を工夫
870
太宰少弐藤原元利麻呂、新羅と通じ逮捕
871
清和天皇、空海開基という超日寺を訪れ、朝日寺とする
872
藤原良房没、藤原基経が実権を掌握
872
右大臣源融、政界を去り風流に遊ぶ(河原院に塩釜の景観を模した庭園造営、在原業平らが集まる和歌サロンとなる)
872
真雅、東寺法務に就任(初めて真言宗を束ねる長者となる)
872
観賢、東大寺に具足戒を受け、三論・法相を学ぶ
872
惟喬親王、出家して比叡山麓の小野宮に隠棲
873
会理、東寺に出家(宗叡・聖宝に密教を学び、仏師として活躍)
873
清和天皇、多数の皇子・皇女に源姓を与える(清和源氏)
874
宗叡、両部曼荼羅を造り、宮中修法院持念堂に安置
874
高野山の真然、東寺の真雅から[三十帖策子]を借覧
874
聖宝、笠取山上に[如意輪観音像][准胝観音像]を安置(後の醍醐寺)
874
道昌、葛井寺を修築し法輪寺とする
874
実慧の弟子、真紹発願の神護寺の銅鐘を和気彜範が完成
875
下総俘囚の乱おこる
876
清和天皇退位、9歳の貞明親王、陽成天皇に即位
876
藤原基経、摂政となる
876
清和天皇の皇后正子内親王、嵯峨院を大覚寺とする
876
真然、実慧の援助を得て高野山の堂舎を整え、大塔完成という
877
南淵年名ら舶載の白楽天尚歯会屏風をえて尚歯会(詩歌・管弦の敬老の宴)を催す
877
菅原道真、式部少輔に任ぜられ、文章博士を兼任
877
貞観年間、早良親王(崇道天皇)の霊を慰めるために崇道神社創建という
878
法華寺[十一面観音像]成る
878
出羽の夷俘の反乱拡大(小野春風を鎮守将軍に任じる)
879
藤原基経・菅原是善ら『日本文徳実録』
879
宗叡を東寺長者とし、真然を別当とする
879
藤原基経・菅原是善『日本文徳天皇実録』を完成
870
朱邪赤心、朔州刺史に任じられて唐の皇帝の姓を戴き李国昌と名乗る
870
詩人・画家の羅隠、呉の反乱を鎮めた銭鏐の幕僚となる(『江東甲乙集』『淮南寓言』など)
871
智慧輪、法門寺宝塔に金銀二重の舎利箱奉納
872
禅宗の義存、魚骨峰に入り堂宇建設(応天雪峰寺)
873
僖宗皇帝即位(宦官の勢力拡大、節度使の割拠)
874
高駢、剣南西川節度観察使となり、四川に入った南詔軍を防ぐ
874
塩商人の王仙芝、河南に挙兵、天補平均大将軍兼海内諸豪都統と号す
874
新羅の留学生、崔致遠、外国人の科挙「賓貢科」に合格(宣州の県尉に赴任)
875
塩の闇ネットワークを担う黄巣、王仙芝の反乱に加わる(黄巣の乱開始)
877
円載、日本に帰る船が難破して亡くなる
877
江淮塩鉄転運使の高駢、王仙芝の農民反乱軍を破る
878
王仙芝は官軍に破れて戦死、黄巣は広州を陥落させる
878
李国昌と息子の李克用、韃靼の有力豪族を服属させるも鎮圧される
878
高駢、諸道兵馬都統、江淮塩鉄転運等使となって黄巣軍の防衛に就く
871
南詔建極大鐘成る
873
ホラーサーンに拠ったターヒル朝亡ぶ
875
ナスル1世、サーマン朝を開く
875
サーマン朝ナスル1世、第15代カリフ・ムウタミドにマーワラーアンナフル全域を安堵される(イラン・イスラムの近世ペルシア語文化おこる)
874
新羅の景文王、唐の僖宗の宣諭使を受ける(唐羅の交流さかん)
875
新羅の憲康王即位
875
新羅の道詵、高麗の太祖王建の出現を予言するという
875
真如法親王、インドに向かう途次、マラヤあたりに客死
876
新羅の憲康王、皇龍寺に百高座を設け講義・討論を行なわせる
877
吐蕃王朝に反抗する反乱軍、吐蕃の根拠地ロカのヤルルン渓谷占領(吐蕃王朝滅亡、チベット分裂〜1041、仏教の民衆化)
877
アンコール朝インドラヴァルマン1世即位
877
アンコール朝インドラヴァルマン1世、王都ハリハラーラヤ建造開始(ロリュオス遺跡)
877
この頃、アンコール朝の大貯水池インドラタターカ開掘開始
878
ラーシュトラクータ朝アモーガヴァルシャ1世、64年の治世を終えクリシュナ2世即位
879
アンコール朝インドラヴァルマン1世、ヒンドゥー教寺院プリヤ・コー建立
879
新羅の憲康王、国学(官僚養成機関)に出向き、博士らに命じて講義させる
880
真然、高野山にて聖宝に両部灌頂の秘法を伝授
880
宗叡、清和上皇の落飾の師となり、両部灌頂を授ける 
880
清和上皇、貞観寺から山林寺院行脚の旅に出る
880
清和上皇、大和、吉野から摂津の勝尾寺、山城の海印寺、丹波の水尾に至る
880
清和上皇、水尾山寺に入寺(終焉の地と定め仏堂の造営に着手)
880
在原業平『業平集』、菅原是善『菅相公集』
880
清和上皇、嵯峨の清霞観に移り、粟田口の円覚寺に没、陽成天皇即位
881
真然、「三十帖策子」を高野山に移す
881
山陽・南海・山城・摂津・播磨等の海賊を追補
882
真然、高野山別当に就任
882
真然、真言宗年分度者6人のうち金剛峯寺分3人を高野山からの推挙とする
883
上総俘囚の乱おこる
883
宮中に源益の殴殺事件、藤原基経、陽成天皇に退位を迫る
883
光孝天皇の皇子、僧観裕、会津の天王寺建立(行基作の十一面観音像安置)
884
時康親王の皇子、定省王、臣籍に降り源定省となる(後の宇多天皇)
884
陽成天皇退位、太宰帥の時康親王、55歳で光孝天皇に即位
884
藤原基経、関白となり政権掌据
884
東寺長者・宗叡没し、真然が引き継ぐ
884
東寺の源仁、聖宝に伝法灌頂を授ける
885
源仁、東寺第二長者となり、実慧・真雅の法流を束ねる
886
光孝天皇、国家鎮護の寺院として西山御願寺(仁和寺)創建
886
開鏡上人、光孝天皇の勅により須磨寺七堂伽藍を整備
887
源仁、聖宝・益信に伝法阿闍梨灌頂を授ける
887
真然、高野山に真言堂・多宝塔(西塔)、[大日如来像](塔内現存)完成
887
光孝天皇没、字多天皇即位
888
真然、西山御願寺(仁和寺)の金堂落慶供養の導師をつとめ
888
仁和寺[阿弥陀三尊像]造像
889
真然、金剛峯寺に座主職を置き、弟子の寿長を座主に補す(金剛峯寺座主職確立)
889
藤原淑子、亡夫藤原氏宗終焉の山荘を円成寺とする(益信を別当とする)
888
巨勢金岡に弘仁以降の詩人像を御所の屏風に描かせる
880
黄巣の反乱軍、長江を北に渡る
880
高駢、揚州城に籠って戦わず、黄巣の北上を許す
880
僖宗皇帝、王建に導かれて蜀に逃れる
880
道士杜光庭、僖宗に随って入蜀(『録異記』『道徳真経広聖義』)
880
黄巣、長安に無血入城、皇帝に即位、国号を斉とする
880
皮日休、黄巣の政権の翰林学士に任じられる
880
田舎儒者の家に生まれた朱温、黄巣軍に加わり夏州節度使の諸葛爽を投降させる
880
唐と斉の年号・暦の相違に四川、江東で雕版印刷の暦が大量出版
880
貫休、江陵の仏寺に[十六羅漢図]描く
880
韋荘『泰婦吟』
880
新羅人官僚、崔致遠、「討黄巣檄文」を書く
881
古意の詩人・農学者の陸亀蒙、僖宗皇帝に招かれるも没する、農書『耒耜経』)
881
張南本、成都金華寺の壁画描く
882
僖宗皇帝、李克用を雁門節度使に任じ黄巣軍の鎮圧を命じる
882
雕版印刷による『剣南西川成都府樊賞家暦』
882
黄巣政権の東方の拠点、陳州を預かった朱温、唐朝に帰属(全忠の名を与えられる)
882
張素卿、道教尊像画により希夷真君の号を賜る([老子過流沙][朝真図])
883
李克用、京師東北面行営都統に任命され唐の藩鎮連合軍を率いて黄巣軍を大破
883
黄巣、長安を放棄し朱温が守備する陳州を包囲
883
僖宗皇帝、長安に復帰
883
王建、神策軍使・西川節度使・壁州節度使となり蜀を掌握
883
李克用、黄巣軍を追って陳州に撃破(李克用と朱全忠の覇権闘争開始)
884
黄巣、山東兗州に逃れ、李克用の追撃を受けて殺害(黄巣の乱終結)
884
浙江省の飛英塔創建
884
新羅人官僚、崔致遠、僖宗皇帝の朝書を携えて帰国
885
この頃、イブン・バットゥータ、長安を訪れ僖宗皇帝に拝謁(『三大陸周遊記』)
885
節度使、自立を企て抗争激化する
888
唐の昭宗即位
888
黄巣の乱鎮圧に功績を挙げた王建、四川の璧州刺史となる
889
羅隠の弟子・希覚、天台山に受戒し、慧則に学ぶ
880
この頃から、チベットのボン教と仏教の習合、ニンマ派(古派)形成
880
新羅の普照國師體澄、迦智山寺に亡くなり、憲康王、寺名を宝林寺とする
881
アンコール朝インドラヴァルマン1世、ピラミッド型寺院バコン建立
884
崔致遠、新羅に帰り「侍読兼翰林学士所」(唐羅の外交文書作成)に配属
884
新羅に飢饉、海賊出没
884
新羅の憲康王、軍勢を大小百艘に分乗、飛帆するという
885
新羅の憲康王、唐に黄巣の乱の平定を祝賀する使者を送る
885
新羅に金蕘の反乱
886
新羅の憲康王没、定康王即位
885
プラティハーラ朝マヘンドラパーラ1世即位
885
プラティハーラ朝マヘンドラパーラ1世、パーラ朝を除く全インドに君臨
886
崔致遠『桂苑筆耕集』
888
新羅の国政を侫臣・辟幸事が握る(以降、新羅に反乱続出)
889
カンボジア王ヤショヴァルマン1世、ハリハラーラヤに即位、アンコール朝復興
840
ヤショヴァルマン1世、ハリハラーラヤの貯水池中央にロレイ建造、祖先の霊を祀る
889
ヤショヴァルマン1世、東バライ完成
890
宇多天皇、仁和寺を完成(天台宗幽仙を別当とする)
890
包丁人の祖・山陰中納言政朝、長谷観音の御告げで攝津総持寺創建
890
聖宝、宇多天皇の勅を奉じて金峯山の毒蛇を除き入峯の道を開く(役行者の霊に導かれ龍樹の浄土に恵印法流を継承という)
890
観賢・貞崇『霊異相承恵印儀軌』
891
益信、東寺長者となる
892
仏師会理、慈尊院の[弥勒菩薩像]を造像
893
菅原道真、遣唐使を廃止
893
宇多天皇と皇后、増命・益信に播磨清澄寺の創建させる
895
聖宝、東寺権法務として後七日御修法を勤修
895
聖宝、観賢に伝法灌頂を授ける
895
聖宝、役行者が開いたという風閣寺を再興(当山派修験宗根本道場となる)
895
観賢、聖宝より三論・真言密教を学び伝法灌頂を受ける
895
五位以上の親王が畿内から出ることを禁ずる(王孫の関東・西国下向多い)
895
安祥寺の[五智如来像]造像
896
聖宝、仏師会理を用い東寺食堂の整備開始
897
字多天皇が遺誡し退位、醍醐天皇即位
898
昌泰年間、醍醐天皇、菅原道真を伴い、笠置寺に参詣するという
899
一説に聖宝、宇多法皇が東大寺での受戒に戒和尚を務める
899
[伝真言院曼荼羅](東寺蔵)成る
899
仁和寺の円堂院建立(観賢の奏請によって声明業の年分度者一人を置く)
899
聖宝、鳳閣寺に最勝恵印三昧耶法による秘密灌頂の法儀執行(修験道の事相おこる)円明、東大寺21代別当となる
899
宇多法皇、東寺に益信より受戒(法皇のはじまり)
890
この頃、羅漢画の貫休(禅月大師)・山水画の荊浩活躍
891
王権、南詔を蜀から撃退、四川全域を支配下に置く
891
雪峰義存、弟子とともに四明山・丹丘山・天台山をめぐる(〜894)
896
鎮海軍節度使の銭鏐、大越羅平国を建てた董昌を滅ぼし両浙を平定
892
ヘーヴァジュラ・タントラ経典『大悲空智金剛大教王儀軌経』漢訳
892
楊行密、揚州を占領して淮南節度使になる
893
王審知、福州を攻撃、現在の福建省全域を勢力下に置く
895
唐王朝、分裂(董昌、帝を称し自立、李克用、晋王となる)
895
楊行密、濠州に唐憲宗の8男・李恪の玄孫という孤児の李昪を養子とする
895
李昪、楊行密の一家に馴染まず、徐温の養子の徐知誥とする
897
敦煌に仏画[熾盛光仏五星図](大英博物館蔵)
897
宣武節度使朱全忠、大軍を率いて南下、楊行密、敗れるも揚州を守る
898
王審知、閩王となる
898
雪峰義存、王審知に仏心印を説く
898
雪峰義存のもとで備頭陀と称された玄沙師備、安国院に移る(「十方世界は一顆の明珠」の思想、羅漢桂琛、法眼文益に受け継がれる)
890
ヤショヴァルマン1世、新都ヤショダラブラ(第1次アンコール王都)建設開始
890
ヤショヴァルマン1世、ヤショダラブラの中央に須弥山を模したプノンバケン寺院建立
890
この頃から、インドに仏教・ヒンドゥー教の「スィッディ」(密教的な悟り)をえた「スィッダ」(成就者)の活動盛んになる
890
この頃から、インドの行者「スィッダ」、保護された僧院の修行を離れ、僧院の外に出て、民衆の言葉を用い、民衆の救済活動を繰り広げる
892
韓半島西南部に甄萱、後百済を建国
895
新羅の王建、鉄円太守となる(高麗建国へ)
897
この頃、ジャワのロロ・クランジョ寺院建立
898
新羅に弓裔、松岳に都をおき自立(904、摩震国となる)
898
ジャワの古マタラム王バリトゥン即位、壮大なヒンドゥー寺院チャンディ・ロロ・ジョグラン建造開始
900
この頃、宇多法皇、日本初の観音霊場とされる中山寺を真言宗とする
900
菅原道真『菅家文章』できる
900
観賢、仁和寺別当となり、鳴滝の般若寺創建
900
宇多法皇、金峯山・高野山に参詣(聖宝の弟子、助憲が大峯検校職となる:三宝院流)
900
承俊律師、山科勧修寺を開く
901
藤原時平・菅原道真編『日本三代実録』
901
益信、宇多法皇に東寺灌頂院で伝法灌頂を授ける
901
延喜年間、日蔵道賢上人、吉野山如意輪寺建立
901
この頃、聖宝、真然より譲られた多聞天を祀る草庵を編む(現大円院)
901
この頃、聖宝、役行者ゆかりの君尾山光明寺再建(真言系修験の寺となる)
901
醍醐天皇・藤原時平、菅原道真を大宰府に左遷
903
菅原道真、大宰府の配所に憤死
904
醍醐天皇、醍醐寺に臨幸し下醍醐釈迦堂建立(907上醍醐薬師堂、五大堂建立)
904
宇多法皇、仁和寺に御室を造営し移る
905
聖宝、佐伯の氏人から東大寺東南院を付属され院主となる
905
観賢、東寺長者となる(男山八幡宮の検校を兼ねる)
905
元宇多天皇の侍童(後の寛空)、白雲寺の神日の許で出家
905
紀貫之・紀友則編『古今和歌集』
907
宇多法皇、熊野詣をする(皇室初の熊野詣)
907
観賢、東寺灌頂院に御影供始修(空海への大師諡号授与の運動おこす)
907
醍醐寺、醍醐天皇御願寺となる(聖宝、准胝堂に祈祷し、朱雀・村上両帝誕生という)
908
仏師会理、東寺食堂の[千手観音像][四天王像]を完成
908
宇多法皇、大覚寺にて寛空に両部灌頂を授ける(この後、寛空、観賢の弟子となる)
908
日蔵上人(道賢)、笠置寺の千手窟から兜率天に入るという
909
聖宝、醍醐寺に醍醐天皇の皇子誕生の護摩供を修す
909
醍醐天皇、醍醐寺の堂塔を整備させ田園を賜う([薬師三尊]造立)
900
竜華霊照、雪峰を下り、斉雲山に入る
902
楊行密、東面行営都統・中書令・呉王を拝命
903
蜀の王権、唐皇帝より蜀王の地位を与えられる
903
韋荘、王建に従い吏部侍郎・同平章事となる
903
韋荘、杜甫が住んだ浣花草堂を修復し邸宅とする(『浣花集』を残す)
903
詩画僧・貫休、蜀を訪れ、蜀王に歓待(『禅月集』残す)
904
南海交易の豪商出身の劉隠、広東・広西を掌握し静海軍節度使となる
905
呉王の楊行密死去、長子の楊渥が継位(奢侈に耽って旧臣に疎まれる)
907
朱全忠、唐の昭宣帝より禅譲を受け、後梁を建国
907
地方の軍閥(節度使)、後梁の受禅を認めず政権樹立、五代十国の分裂時代到来
907
蜀王の王建、皇帝に即位(塩・鉄などの資源開発、絹産業振興)
907
商人の家僕から朱全忠の副将に成り上がった高季興、荊南節度使となる
907
湖南節度使の馬殷、後梁に入朝、楚の武穆王に封じられる
908
李克用没し、後梁に後継戦争おこる
908
李克用の長男・李存勗、太原に晋王となる
909
呉王楊渥、徐知誥を昇州防遏使兼楼船副使に任命
900
この頃、タジキスタンのイラン系タジク族のサーマン朝、チュルク族の傭兵を用いてイラン東部・アフガニスタンを制覇
900
この頃から、インド東部の「スィッダ」の活動を背景にアパブランシャ語による修行歌群(サラハパーダの二行詩集)が現れる
900
このろから、パーラ朝にチャルャーパダと呼ばれる新期インド・アーリア語の東部方言群の修行歌群出現(ベンガル語、アッサム語、オリヤー語、マイティリー語の原型)
901
韓半島北部に弓裔、後高句麗を建国
902
契丹族の耶律阿保機、河東・代北を攻め取り、城郭を龍化州に築く
902
耶律阿保機、龍化州に開教寺を建立
907
耶律阿保機、可汗に即位(室韋部・越兀部・烏古部などの奚諸部を討つ)
908
耶律阿保機、龍化州に首都の上京を整備
900
この頃、吐蕃の廃仏から逃れたマル・シャキャイェーシェー、ユゲジュン、ツァン・ラプセル、ドメー地域に逃れ中国僧から具足戒を受ける(僧院共同体の復興開始)
910
命蓮、信貴山に毘沙門天を祀る(朝護孫子寺の開創)
910
この頃、最古の五十音図『孔雀経音義』(醍醐寺蔵)
910
東寺で空海を祀る御影供がはじまる
912
東寺長者となった観賢、金剛峯寺座主を兼摂
913
醍醐寺[釈迦三尊像]成る
914
三善清行「意見封事十二条」
915
宇多法皇、高野山の[三十帖策子]を東寺にもどす院宣を発する
916
高野山座主となった無空、[三十帖策子]を持って下山(山城の円提寺に死去)
917
無空一門の下山に高野山荒廃(初度の中絶)
918
醍醐天皇、[三十帖策子]の散逸を惜しみ、観賢に収集させる
919
観賢、醍醐寺座主・高野山検校を兼任
919
観賢、[三十帖策子]を集め奏覧し東寺に戻す(宝相華迦陵頻伽蒔絵壗冊箱に納める)
910
後梁の『大梁新定格式律令』発布
910
この頃、楚の武穆王、茶・絹・綿の産業をおこす
910
この頃、蜀帝の王建、仏寺を保護し、木版の儒教・仏教の経典の出版隆盛
911
広東・広西に独立した劉隠、後梁の郢王から南海王に封じられる
911
南海王劉隠、左遷された官僚の子孫、戦乱から逃れてきた知識人を用いて国家を形成
912
朱全忠死去、荊南節度使の高季興、荊州・帰州・峡州を押さえて自立
913
蜀帝の王建、道士杜光庭を金紫光禄大夫とする(道教経典を蒐集「正統道蔵」を構築、『道教霊験記』『洞天福地岳瀆名山記』など)
915
呉の旧臣、徐温・張顥は楊渥を殺害、徐温は張顥を倒して斉国公に封じられる
916
毛文錫、前蜀の兼文思殿大学士となる(『茶譜』『毛司徒詞』『前蜀王氏紀事』を著す)
919
楊隆演、呉国王になり、徐温は大丞相・東海郡王となって国政を掌握
917
南海王劉隠を継いだ劉龑、皇帝を称し南漢王朝開く
919
呉越軍、長江を遡って侵攻、徐知誥、呉軍を率いて大勝
916
呉越王銭鏐、功臣山に功臣院を建立(呉越の仏教興隆のはじまり)
910
この頃、吐蕃の廃仏から逃れたサドゥパーラ、西チベットのガリに逃れる
910
アンコール朝ハルシャヴァルマン1世即位
910
アンコール朝ハルシャヴァルマン1世、プラサット・クラヴァン寺院建設
910
この頃、ジャワのマラタム王朝、ジャワ密教を国教化
910
この頃、インダス流域のプラティハーラ朝マヘーンドラパーラ1世、ガンジス流域を除くインドの版図を維持
912
耶律阿保機、天雄寺建立(捕虜の僧、崇文ら50人に仏を祀らせる)
912
高麗の太祖、建国に功があった稀朗の由緒によって海印寺を高麗の国刹とする
915
デカン高原にラーシュトラクータ朝インドラ3世即位(インドを旅したアル・マスウーディーの記録に90万の軍勢・30000頭の象部隊を有すると記す)
916
ラーシュトラクータ朝インドラ3世の北伐、プラティハーラ朝の首都・カナウジ破壊
916
耶律阿保機、国号を契丹、元号を神冊と定める
918
耶律阿保機、上京に仏寺・道観・孔子廟を整える
918
王建(太祖)、高麗を建国
918
プラティハーラ朝マヒーパーラ1世、ブンデルカンドの地方領主ハルシャの援助を得て失地挽回
919
耶律阿保機、孔子廟に拝謁、皇太子・皇后を道観・仏寺に拝謁させる
920
この頃、三跡(小野道風・藤原佐理・藤原行成)活躍
921
観賢の運動により、空海に弘法大師の諡号が下される
921
観賢、観空・淳祐内供(菅原道真の孫)とともに高野山の廟窟を開き、空海の遺骸に更衣(空海入定留身信仰広まる)
921
淳祐内供、廟窟に空海の膝に触れ、生涯薫香が消えなかったという
923
菅原道真の罪を取り消し本官に複す
925
淳祐、観賢より伝法灌頂を受けるも、醍醐寺座主を辞退し石山寺普賢院に入る(石山寺中興)
925
淳祐が書写した経典、著述に空海の薫香が移り、「薫の聖教」と尊ばれる
923
済高、東寺長者、高野山座主を兼任
924
無空、峰禅に師事した峰宿、初代高野山執行となる
925
般若寺にて淳祐、観賢から伝法灌頂を受ける(淳祐、石山寺に隠棲)
926
寛朝、宇多法皇の門に入り、出家する
926
醍醐天皇、救世の博織・梵唄を愛し、空海の真蹟と五鈷杵を授ける
927
興福寺の寛建、五台山巡礼に出航(菅原道真・紀長谷男の詩集、小野道風の書を持参)
927
東大寺講堂復旧(仏師会哩、[千手観音][虚空蔵菩薩][地蔵菩薩]を造像)
923
晋王の李存勗、後梁の後継者を平らげて後唐の荘宗に即位
923
後唐の荘宗、破壊された洛陽を復活(唐文化の復興)
923
雲門文偃、韶州の雲門山を開き、光泰院(雲門寺)建立(雲門宗形成)
924
後唐の荘宗、陝西に割拠する岐王・李茂貞を降伏させる
924
南漢の南宮造営に寧遠軍節度使・王定保、『南宮七奇賦』を献じる
924
荊浩、節度使王処直の墳墓に山水画を描く[王処直墓山水壁画](画論『筆法記』)
925
後唐の『同光刑律統類』発布
934
高従晦、荊南の文献王に即位
934
南の文献王、呉・閩・南漢・後蜀に臣従、交易中継地として荊南を栄えさせる
925
高季興、後唐より荊南の南平王とされる
925
後唐の荘宗、四川の前蜀を滅ぼす(五代王朝の最大版図を実現)
925
後唐の皇太子李継岌、蜀遠征中に誤って東北面行営都招討使の郭崇韜の謀反を伝える
925
後唐の荘宗、郭崇韜一族を処刑し、後唐に内乱勃発
926
後唐の荘宗、李克用の仮子・李嗣源に沙陀族の精鋭軍を預け反乱鎮定に向かわせる
926
沙陀族の軍閥、李嗣源の皇帝擁立に動き、洛陽の禁軍、荘宗を斬殺
926
李嗣源、皇太子李継岌を滅ぼし開封に遷都、後唐の明宗に即位
926
後唐の明宗、儒学者馮道を用い、宦官を抑制、大規模な検地実施し税制整備
927
雪峰の弟子、耳相行修、天台宗の国清寺から銭塘江に遊ぶ
927
呉越の武粛王銭鏐、慧因禅院を建立
920
パーラ朝ラージヤパーラ王即位、プラティハーラ朝のビハール西部占領に対抗
920
耶律阿保機、大小2種の契丹文字を制定
920
チョーラ朝バラーンタカ1世、マドゥライ陥し、セイロンの援軍を破ってパーンディア朝の版図を併合
926
この頃までに、耶律阿保機、突厥・吐渾・タングート・ウイグル・沙陀諸部・女真を服属させ、中国10余州を占領
926
耶律阿保機、渤海を改めて東丹とし、長男の耶律突欲を東丹王とする
926
高麗、北進政策の一環として渤海遺民を吸収
927
耶律阿保機、渤海遠征の帰途に急死
927
耶律阿保機の次男・耶律堯骨、契丹の太宗に即位し、耶律突欲は東丹王にとどまる
928
アンコール朝ジャヤヴァルマン4世即位、コー・ケーに遷都し新都建設
929
古マタラム王国のダクサ王の子孫とされるムプ・シンドク王、クディリ王国建国
930
藤原兼平、妻の信仰する十一面観音を祀る尾張笠覆寺を造営
930
醍醐天皇譲位、朱雀天皇即位
930
宮中に落雷(藤原清貫・平希世ら没する)
930
信貴山の命蓮、召されて宮中に天皇を加持する
930
醍醐上皇没する(菅原道真の怨霊説流れる)
931
源順『倭名類聚抄』
935
紀貫之『土佐日記』(かな文化発生)
935
平将門の乱はじまる(〜940)
937
岩船寺の[丈六阿弥陀如来坐像]連立
937
この頃、空也上人、京洛を念仏して行脚し信徒を集める
938
朱雀天皇の密勅を受けた寛朝、神護寺護摩堂にあった空海敬刻の不動明王を奉持し東国に下向
939
平将門、上野国府に新皇を称する
939
藤原純友の海軍、備前介藤原子高を虜にする
930
後唐の明帝、山東に入った耶律突欲を招き滑州節度使に任命
930
この頃、呉越国の磁器産業おこる(平安貴族、秘色青磁と尊ぶ)
930
この頃、羅隠、呉越王銭鏐に仕え銭塘県令・塩鉄発運副司・諫議大夫を歴任(『讒書』『甲乙集』)
930
南漢王劉龑、交趾を攻め取り、占城(チャンパ)を侵略
930
成都尹の孟知祥、蜀を占領した後唐の明宗に抵抗して自立
932
呉越の銭元瓘、世宗文穆王に即位、租税免じ民力蓄える(文集『錦楼集』)
932
呉越の文穆王、杭州西興の化度院建立(雪峰の弟子、師郁が住持)
932
これ以前、雪峰義存、明州の翠巌山に入る
932
孟知祥、蜀全土を掌握、蜀王となる(後蜀王朝)
932
前蜀帝となった孟知祥、黄筌を林待詔・司翰林図画院事に任じる(鉤勒塡彩の花鳥画)
933
後唐の明帝没、李従珂(末帝)即位するも後唐国内の軍閥割拠
933
後唐に亡命していた耶律突欲、遼の太宗に後唐への軍事介入を促す
933
天平節度使に左遷された石敬瑭、後晋皇帝(高祖)に即位
933
後晋の高祖、遼の太宗に援兵をえて河北を統一
933
泰山に眼病を治癒する僧出現(泰山神・泰山三郎、威雄大将軍とされる)
933
耶律突欲、李従珂の刺客に暗殺される
934
呉越の文穆王、福州より来た竜冊道怤を迎えて千春竜冊寺創建
934
孟昶、後蜀の後主となり、農業養蚕を推奨、科挙をおこない政治改革
935
呉越の文穆王、呉山の西南の宝山に宝山院を整備、瑞竜幼璋を迎える
935
呉の徐知誥、尚父・太師・大丞相・大元帥・斉王となって実権を掌握
935
王昶、閩王に即位、応道大宏孝皇帝と称し巫術、道教に心酔する
935
閩王、陳守元を天師とし道士譚紫宵を崇め、巫師林興重用、水晶で飾った紫微宮造営
935
この頃から、閩の南宗禅の禅僧、呉越に移りはじめる
936
後晋の高祖、建国を助けた遼に燕雲十二州を割譲、毎年30万疋の絹の献上を盟約
937
呉の徐知誥、徐誥と改名し、呉の睿帝から禅譲される
939
呉皇帝となった徐誥、唐王朝の末裔の李昪を称し、国号を唐(南唐)とする
939
南唐の李昪、「升元条格」制定(冤罪を抑止、経済の発展)
939
朱文進、閩王・王昶を弑殺、王延羲を立てる
930
東丹王の耶律突欲、一族とともに山東半島に亡命
932
西イランにシーア派のブワイ朝成立
933
契丹の太宗、後唐に亡命した耶律突欲の誘導によって後晋の高祖に援軍を出す
935
契丹の太宗、皇后の病気平癒願って弘福寺に飯僧、観音菩薩に布施
935
法眼文益、羅漢桂琛から印可を得る(崇寿院、報恩禅院、清凉大道場開き、法眼宗おこる)
935
新羅の敬順王、高麗の太祖(王建)に国を譲渡(新羅滅亡)
936
高麗の太祖、後百済を征服し韓半島を統一
937
契丹の2代太祖、国号を大遼とし、唐人を官僚として採用
937
高麗の太祖、雲門寺に荘園を与え、扁額を奉じる
937
白族の段思平、雲南の大義寧国の楊干貞の政権を打倒して大理を建国
938
遼の太宗、後晋から燕雲(幽薊)十六州を割譲される
938
遼の大雲院(仙岩院)大仏殿建立(維摩変相図などの遼代壁画)
938
遼の太宗、契丹の部族制固有の職名を唐風に改める
938
遼、版図を五道に区分、首都上京(内モンゴルの赤峰)、副首の東京(遼陽)・中京(寧城)・西京(大同)・南京(幽州)を整備
940
寛静、平将門鎮定のため、羅生門に兜跋毘沙門天を安置し密法を修す
940
寛朝、下総公津ヶ原に不動護摩を修し平将門を調伏(成田山新勝寺開山)
940
平将門、平貞盛・藤原秀郷連合軍との合戦に、流れ矢に倒れる
941
藤原純友、殺され西海の海賊平定
941
道賢、金峯山に鎮護国家を祈念(蔵王権現から年月王護の札を授かるという)
944
寛空・救世、神護寺に伝法灌頂を受ける
945
菅原道真の怨霊を祀る北野天満宮を創建
947
この頃、多田満仲、中山寺を源氏の祈祷所として造営
947
明達律師、鑑真・空海ゆかりの屋島寺に四天王像連立(山岳仏教の霊場となる)
948
仁和寺に寛朝、寛空から両部灌頂を受ける
949
元杲、石山寺の淳祐から伝法灌頂を受け醍醐寺延命院に住す
949
朱雀上皇、醍醐寺に法華三昧堂を建てる
940
この頃、蜀に彩色画家、王筌・徐熙活躍(宋代院体画に発展)
941
呉越王銭佐即位、軍閥を粛清、民間の租税を免じ関梁の禁を除く
942
南漢の劉龑没、継承争いにより混乱が続く
942
後唐の高祖崩御、石重貴、出帝に即位
942
後唐、景廷広の建議により契丹への臣下の礼を廃し対決姿勢を示す
942
呉越王銭佐、仏日院建立し杭州仏日を招じる
943
南唐の帝李昪、方士を妄信し金丹を服用して没、李璟、元宗に即位
943
この頃より、河北に蝗害が発生、遼の侵攻に逃戸飢民が大量に発生
943
呉越王銭佐、後晋により呉越国忠献王に封ぜられる
943
竜華寺の住持、真覚大師を讃える[後漢大慈山建幢残刻]
943
閩の太祖王審知の9男・王延政、建州に自立、皇帝を称し国号を殷とする
944
この頃、『仏頂尊陀羅尼』を主とする経幢が善男善女の連名で建立される
944
朱文進、隆道大孝皇帝を称した閩王・王延羲を刺殺
944
朱文進、閩王の王族を粛清、後晋の出帝により閩国王に冊封される
944
閩の旧臣、殷王・王延政を招いて朱文進を倒し閩王朝復活
944
後唐の劉知遠、幽州道行営招討使に任じられ、遼との修好をはかる
944
南唐の元宗、閩を攻撃、閩王・王延政を捕えて羽林大将軍に任じる
944
呉越の忠献王、竜華宝乗院建立(弥勒信仰の傅大士の霊骨を納める)
945
後晋の[趙重進装修摩騰大師真身及金剛一對等記](中国に仏教を伝えた攝摩騰を記念)
945
『祖堂集』成る
946
後唐、三度目の遼の侵攻に開封陥落、出帝降伏し遼の捕虜となる
946
呉越の忠献王、南唐に攻撃された福州の李弘達を救援
946
呉越の忠献王、南唐軍破って福州を併呑
946
後唐の劉知遠、皇帝に推挙されるも断る
947
呉越の銭倧、忠遜王即位、軍閥の専横おこる
947
楚の宮廷闘争激化し
947
劉知遠、後唐の軍閥・遼の太宗の推戴を受けて、後漢の高祖に即位
947
劉知遠の弟、劉崇(後の北漢の高祖)、太原の河東節度使となる
947
遼に遣使した繭翰の旅を記録した胡晴『陥遼記』
947
南唐の李璟、群臣を楼に召し詩宴を開き、肖像画家高冲古・仕女画家周文矩・界画家朱澄・花鳥画家徐崇嗣に合作させる(董源、雪竹寒林を担当)
897
天息災、法賢と改名、『最上根本大樂金剛不空三昧大教王經』、寂天『菩提行経』など訳出
948
後漢の劉承祐(隠帝)即位、枢密使の楊邠・副枢密使の郭威の権勢強まる
948
呉越の忠遜王、統軍使胡進思のクーデターに越州幽閉(詩と酒に暮らす)
949
後漢の権力闘争激しく、郭威が軍閥、官僚の支持を得て反乱
949
凌霄、募金して霊石山風篁峰に報国看経院建立(雪峰義存の弟子、竜井通が入る)
940
この頃、ラーシュトラクータ朝クリシュナ3世の北伐、プラティハーラ朝マヒーパーラ1世、グジャラートを失う
940
チャンデーラ家のヤショヴァルマン、グジャラートを奪還し領地とする
940
この頃から、チャンダーラ家のヤショヴァルマン、カジュラホにヴィシュヌ神の宮殿として、ラクシュマナ寺院建設開始
941
アンコール朝ハルシャヴァルマン2世即位、プラサット・トム建造
942
遼の太宗、皇室の祭天地・木葉山に御堂を建立し幽州大悲閣の白衣観音像を移す
942
遼の太宗、皇太后の病気平癒願い、木葉山の観音菩薩堂に5万人の僧尼に斎をふるまう
942
この後、遼の太宗、毎年祭天地の儀礼執行(契丹の民族宗教と仏教・道教融合)
943
高麗の太祖、『訓要十条』(仏教尊重・貴族の心得)を朴述熙に伝えて没する
943
高麗の太祖、『訓要十条』に道詵大師の風水地理説による寺院建造を遺言(韓半島に風水普及)
944
アンコール朝ラージェンドラヴァルマン1世即位、カンボチア統一、ヤショダブラに遷都
944
ラージェンドラヴァルマン1世、王宮バンテアイ・スレイ建造(第2次アンコール王都)
944
ラージェンドラヴァルマン1世、バクセイ・チャムクロン寺院、プレ・ループ寺院建造
944
大理の皇帝・段思平、仏万尊を鋳させる
945
南ベトナムのチャンパ王国(占城)、カンボチア軍と交戦
945
シーア派のムイッズ・ウッダウラ、イラン西部・中東制圧、バクダードに入り、アッバース朝カリフから、大アミールの称号を得る(ブワイフ朝成立)
946
遼の太宗、大軍を率いて後唐を攻め、開封を陥落させて華北を占領
946
遼の太宗、後唐の出帝・石重貴を負義侯に封じる
946
遼の太宗、華北を維持できず北帰の途に没する
946
後晋から帰還した耶律突欲の嫡男・耶律兀欲、遼の南京(幽州)を押さえる
946
大理の2代皇帝、段思良、「楼石坪碑」を刻ませる
946
耶律兀欲、遼の南征軍に支持され、上京に進軍
947
耶律兀欲、述律太后が立てる太宗の弟の李胡軍を破り、遼の世宗に即位
948
遼朝から耶律姓を賜った韓匡嗣の一族、薊州独楽寺を開く(遼の守護寺となる)
948
遼の世宗、南北の枢密院を設け、部族連合から中央集権体制に移行
950
この頃、『竹取物語』『伊勢物語』成立
950
寛空、金剛峯寺座主、東寺長者となる
951
村上天皇、醍醐天皇を追福して醍醐寺五重塔を建造
952
慶滋保胤、二十五三昧会を組織
952
雅真、金剛峰寺座主寛空に招かれ、荒廃した奥の院の空海廟、塔の復興開始
952
雅真、丹生明神・高野明神の2社創建(在地豪族から高野山復興支援を得る)
956
日延、唐土より帰国、呉越王の宝塔を招来
958
仁海、7才にして高野山に登り、雅真検校に師事
950
この頃、華南に董昌・巨然活躍(水墨画さかんになる)
950
後漢の劉承祐(隠帝)、郭威の軍勢と戦い兵乱の中に没する
950
この頃、儀晏、烏巨山に住し、眼病に験力があって開眼と称される
951
郭威、後漢皇帝に立てた劉贇を殺害して皇帝に即位し後周を建国
951
劉崇、太原に北漢を建国、遼に支援を求めて後周に敵対
951
後周の『大周続編勅』編纂
951
南唐の元宗、楚を滅ぼし湖南を掌握(南唐の最大版図)
951
馬希崇、南唐に仕え湖南節度使となる
951
南漢王劉晟、南唐軍を撃退、曁彦贇に巨艦を率いさせ商船を掠奪
952
[感化寺禅師智辛塔記]
952
明招山に四十年、禅を鼓吹した徳謙を讃える[明招院寿塔碑]建立
954
後周の郭威没し、天雄軍牙軍の総指揮官、柴栄が世宗に即位
954
この頃、呉越の宝塔寺に南塔を建造、釈迦真身舎利塔を安置
954
北漢の劉崇、遼の世宗の援軍とともに後周を攻める
954
後周の世宗、矢石を冒して督戦、将軍趙匡胤の奮戦によって北漢・遼連合軍を破る
954
後周の世宗、節度使の有能な軍人・行政官を抜擢、皇帝が指揮権をもつ殿前軍編成
954
後周に密教盛んとなり『仏頂尊勝陀羅尼経付訳經縁起』など流布
954
呉越の忠懿王、慧日永明寺建立し、道潛を招く
955
後周の世宗、勅願のない寺院を破却(世宗の仏教弾圧)
955
呉越王銭弘俶、八万四千宝塔を鋳造
955
後周の『大周刑統』成る
955
後周の世宗、後蜀を攻めて秦州(現甘粛省天水)を初めとする4州を奪取
956
南唐の将軍となった湖南の馬希萼の武将・周行逢、南唐から自立し楚を復興
955
この頃、後蜀の後主、器を愛好して七宝装飾蒐集、西北四州を後周に奪われる
957
南唐の世宗李璟、後周の世宗に攻められ、江北十四州を失陥
957
南唐の世宗李璟、帝号廃し国主を名乗って後周の年号を用いる
957
後周の范質、朝廷に上書して法令の修訂を建議(「宋刑統」に実現)
958
呉越の宝塔寺、火災に焼亡
958
南唐、後周に長江以北の領土割譲、皇帝号を廃して国主と名乗る
958
水墨画家李成、王朴の招きで開封に出て、山東・江南を放浪([喬松平遠図][晴巒蕭寺図])
959
栖厳寺の伝統を記す『五代栖厳寺新修舎利塔殿経蔵記』
959
後周の世宗、北漢、遼を攻め、燕雲十六州の南寄りの2州を奪取
959
後周の世宗、遼の南京(幽州)を包囲中に発病、開封に帰って没する
950
この頃、カシミールの学僧、シャーキャシュリーが中央チベットを来訪(多くの僧に受戒し、チベットに僧院共同体、復興しはじめる)
950
この頃、ラチェン・パルギゴン、西チベットのラダック統一、シェイを王都にラチェン王朝を興す
950
この頃、インドに『バーガヴァタ・プラーナ』成立(クリシュナ信仰の経典)
951
遼の世宗、北漢の世祖の華北統一戦に出兵、帰還の途に没する
951
林邑(北ベトナム)の呉朝、呉昌岌・呉昌文、丁部領の根拠地、華閭洞を包囲
951
遼の太宗の嫡子・耶律述律、世宗の一族を粛清して、遼の穆宗に即位
951
光宗、太祖の願堂の大報恩寺・仏日寺竣工
950
この頃、オグズ族のクヌク氏族に属するテュルク系遊牧集団セルジューク、アラル海の北方からガザフスタンに入る
952
パーラ朝ゴーパーラ2世即位、プラティハーラ朝の攻撃にラーシュトラクータ朝と結んで失地の回復に努める
955
サーマン朝に従属するアフガニスタンのテュルク系マムルーク(奴隷軍人)のアミール(将軍)・アルプテギーン、カズナを領する
956
高麗の光宗、奴婢按検法発布(後三国時代の混乱期に奴婢となった者の身分回復)
956
イランから中東・インド・カスピ海沿岸を旅したマスウーディーの旅行記『黄金の牧場と宝石の鉱山』
960
寛空、京都の北山に蓮台寺創建し、五智如来を安置
963
空也上人、十一面観音を本尊に西光寺創建(弟子の中信、六波羅蜜寺とする)
963
天台僧増賀、多武峰に登り、道場を築く
964
大旱魃に醍醐寺の元杲、神泉苑で祈雨法を行い験力を現す
965
元杲、寛空から具支灌頂を受け、聖宝・寛朝両流の法匠となる
968
この頃、『宇津保物語』『落窪物語』できる
968
興福寺の真興『成唯識論』(後の子島流・中院流に伝わる訓点・真興点を用いる)
968
真教『金剛峯寺建立修行縁起』(一説に仁海著、空海の入滅を「入定」と記す)
960
遼・北漢連合軍、南下して後周を攻撃
960
7才の柴宗訓が後周恭帝に即位(周太后が政務掌握、范質・王溥・趙匡胤補佐)
960
幼い恭帝に不安を抱いた後周の軍人、趙匡胤を擁して開封の陳橋に結集
960
恭帝、殿前軍点検の趙匡胤に禅譲、宋の太祖に即位
960
宋の太祖、柴宗訓を鄭王に封じて房州に移し保護(以降、柴氏は名家として400年続く)
960
趙匡胤、後周武宗の廃仏を停止、訳経院・印経院建立
960
呉越の忠懿王、延寿に霊隠山新寺を建てさせ、第一世とする
960
天台徳詔、般若寺を再建(開堂十二会説法)
961
延寿、永明寺に入り法華経1万3千部を念じる
961
これより、延寿、『宗鏡録』百巻・『万善同帰宗』六万巻を著す(華厳・天台・法相を一心に統合し禅浄双修を唱える)
961
延寿、真言の「仏頂尊勝陀羅尼」の経幡を建て観音信仰などの現世信仰を汲みこむ
961
高麗の諦観法師が入宋、『天台四教儀』を著す
961
南唐国主の李璟没(詞をよくし『詞律』、「攤破浣溪沙」残す)
961
南唐国主に李煜立つ
963
宋の太祖、全国統一に乗り出す
963
荊南国主高継沖、楚を攻める宋軍に降伏、宋の節度使とされる
963
荊南王に宋の領土献上を勧めた孫光憲、黄州刺史となる(『北夢瑣言』)
963
楚王の周保権、宋の太祖に降伏
963
『宋刑統』『建隆編勅』発布(刑統・令・編勅・式の法体系)
963
李藹造『滅邪集』を出版し破仏を扇動した罪で沙門島に流罪
963
呉越の忠懿王、天竜寺を創建
964
宋の太祖、後蜀を攻撃、前蜀の後主王衍を捕え、護送中に殺害
964
呉越の忠懿王、宝塔寺を復興、武粛王・文穆王の銅像を入れる
964
華厳志通、呉越の忠懿王が建立した普門院第一世となる
965
この頃、董源、李璟に仕えて後苑副使となり宮廷画家として活躍(南宗画の開祖)
965
宋の太祖、後蜀王妃・花蕊夫人を後宮に入れる(『花蕊夫人宮詞』を残す)
965
宋の太祖、後蜀の黄筌らの画家を北宋画院に編入
966
郭忠恕の三体書[宋陰符経碑]
966
宋の太祖、行勤ら157人をインド・西域に派遣し梵本経典を蒐集させる
967
宋の首都・汴京に原本を失って落衰した密教復興おこる
968
袁正巳書[仏説摩利支天経黄帝陰符経碑]
968
南唐に韓煕載、中書侍郎となり政権掌握(豪奢な生活を顧閎中[韓煕載夜宴図卷]に描く)
968
普門希弁、呉越の忠懿王が建立した奉先寺に入る
969
宋朝、僧侶を招集し三学十餘條の試験、全問正解者に紫衣を授ける
969
王溥、太子太師となる(『唐会要』『五代会要』を撰する)
960
中央アジアを統一したカラ・ハン朝、20万帳もの遊牧民をイスラム教に集団改宗
960
アラビア文字を使って記されるテュルク語「カラ・ハン朝トルコ語」広まる
960
プラティハーラ朝ラージヤパーラ王即位
960
この頃、プラティハーラ朝が緒地方に配した封臣(サーマンタ)、独立しはじめる
960
プラティハーラ朝から、ラージャスターンのラージプート族のチャーハマーナ朝、マールワーのパラマーラ朝、ブンデールカンドのチャンデーラ朝などが分離独立
965
高麗の光宗、通度寺に釈迦の袈裟箱を開いて霊威が現れるという
965
林邑に十二使君の乱
968
丁部領、林邑を統一、大勝王と称し国号を大瞿越国とする(ベトナムの丁朝)
968
高麗の探密大師、安心寺創建
969
アンコール朝ジャヤヴァルマン5世即位
969
アンコール朝の王都ヤショダブラに西バライの工事開始、ピミアカナス、クレアン建造
970
初めて、祇園御霊会を行う
971
救世、高野山座主に補任(南山声明を興す、舞に優れ救世舞という)
971
定誉、興福寺に入り、法相宗を学ぶ(後に真興より子嶋流真言密教の灌頂を受ける)
976
京都を大地震が襲い、京都の大寺の多くが倒壊
977
この頃、寛朝、東密声明中興(修学段階を設け、『理趣経』『大阿闍梨声明』に点譜)
978
良源、延暦寺根本中堂を完成
978
藤原兼家、東三条殿を建造(寝殿造)
970
錢塘江辺の月輪峰に六和塔建立
970
この頃、天台山に智者行満活躍(天台と禅の交流深まる)
970
この頃、天台山の義寂、天台の教義の復興をめざす(争乱に失われた典籍多い)
970
この頃、江南に禅の法眼宗さかん、天台宗・南山律宗復興
971
宋朝、「金銀字仏経各一蔵」を成都の工人に発注
971
南唐国主の李煜、宋に臣従し江南国主と称す(詞・音曲を愛し遊興にふける)
971
宋の太祖、海軍を催して南漢を攻略
971
南漢王劉鋹、財宝を船に積み込み逃亡、宋軍の捕虜となる(王族として優遇される)
972
宋朝、仏経一藏(13万板)を雕し「僧先道後」を詔する
973
薛居正、参知政事・門下侍郎となる(『五代史』を監修)
974
宋の太祖、曹彬・潘美に南唐の首都金陵を攻めさせる
975
宋の太祖、州の解試、吏部の省試に皇帝が試験する殿試を加える(皇帝は官僚の師となる)
975
呉越の忠懿王、永明智覚『宗鏡録』の序文を書く
975
南唐国主の李煜、宋に降伏、開封に護送される
975
南唐画院の巨然、李煜に従って徐崇嗣・董羽とともに開封に赴き、北宋画院に入る
976
宋の太祖、呉越遠征を目前に崩御、弟の趙匡義、太宗に即位
976
世寿、大慈山に塔を建て、宋太宗、額を下賜して寿寧禅院とする
976
宋朝、僧尼の試経科を復す
976
燕文貴、開封に行き、相国寺の天文道で山水画を売る
976
宋の太祖没、趙匡義、太宗に即位
976
郭忠恕、国子監主簿に召され歴代字書の校定を命じられる(漢字の変遷を『佩觽』にまとめる)
977
『十善業道経要略』(拓本)
977
宋版の『宋金剛般若波羅蜜経』(全6巻)
977
静志寺舍利塔基地宮壁画(南壁門2天王・東壁梵王・西壁帝釈・北壁釈迦牟尼真身舍利)
978
呉越の忠懿王、入朝して呉越の地を宋に献じ淮海国王に封じられる
978
杭州湖墅の香積寺建立(「運河第一香」とされ、霊隠・天竺を参拝する巡礼多い)
978
僧賛寧、開封に上り洛陽の仏教教団管掌
979
北漢の英武帝、宋の太宗の太原親征に降伏、彭城公に封じられる
979
宋の太宗、中国全土を再統一
979
宋の太宗、燕雲十六州の回復を狙って親征、高粱河に敗退
979
楽史、中国周辺の異民族の歴史地理を記述する『太平寰宇記』編集
970
この頃、セルジューク、アラル海東方のジェンドを拠点に南のステップ地帯・丘陵部に遊牧しながら、イスラム教に改宗
970
高麗の光宗、華城の龍珠寺に初めて水陸齋を開設
971
越国の丁部領、文武僧道の階品制定
972
北インドのマルワー地方に自立したラージプート族のパラマーラ朝の軍勢、ラーシュトラクータ朝に侵入
972
ラーシュトラクータ朝カルカ2世、封臣のチャールキア家タイラ2世によって廃位される
975
南ベトナムの占城(チャンパ)に大乗仏教のプラコー寺院建立
976
高麗に国への忠誠や貢献に応じて田地・柴地が支給される田柴科制施行
977
ガズナ政権5代目の支配者・スブクティギーン、サーマン朝に代わってアフガニスタンの大部分支配(カズナ朝成立)
978
占城のヴィジャヤ王即位
979
越国に後継者争いの内乱、越国王の丁部領、丁璉とともに侍衛の杜釈に刺殺される
979
越国の丁璿、阮匐・黎桓らによって皇帝に擁立(黎桓、摂政・副王として実権掌握)
981
寛朝、宮中に五壇法を修し不動明王があらわれるという
983
興福寺の真興、吉野の仁賀から密教を学び、河内善成寺で灌頂を受ける
985
永観年間、真興、子嶋山寺再興、観覚寺を創建し真言宗子島流真言密教を興す
985
源信『往生要集』
985
円融太上皇、寛朝を戒師に出家し、覚如と号す
986
寛朝、真言宗初の大僧正となる(『金剛界次第』『不動次第』を著す)
986
花山天皇、藤原氏の策動により退位、熊野詣でに旅立つ
987
奝然、帰国(大蔵経5000巻、伝国の釈迦像を持ち帰る)
989
寛朝、花園天皇の勅により広沢池畔に遍照寺建立(広沢流)
989
済信、寛朝から灌頂を受ける(東大寺別当・勧修寺長吏・東寺長者法務歴任)
980
施護、法天ら、西域僧天息災を連れて西域から帰還し、宋の太祖に謁見
980
螺渓義寂、高麗より失われた仏教典籍を蒐集
980
螺渓義寂、天台教学の再興・華厳学の再構築をめざす
980
この頃より、螺渓義寂、天台三大部とともに『妄心還源観』『唯心法界観』『禅源諸詮集都序』などを講じる
980
太平興国寺の西に訳経院建設開始
980
龐仁顯『太上老君常清静経』『太上昇玄消災護命経』
980
宋の太宗、ベトナムに出兵し、黎桓に敗退
980
義寂、呉越の忠懿王を動かし高麗・日本に仏教典籍を求める(天台教学復興)
980
巨然、学士院北壁に煙嵐暁景の山水壁画を描く([万壑松風図][溪山蘭若図]など)
980
四明智礼、円頓の宗旨を悟了
981
王著、太宗に召され著作佐郎・翰林侍読となる(草書・隷書に優れ[淳化閣帖]残す)
981
李昉・徐鉉ら編『太平広記』の版刻出版(前漢から北宋初期までの奇譚7000余篇蒐集)
982
天息災・法天に施護が加わり、最初の『聖仏母小字般若波羅蜜多経』、『大乗聖吉祥持世陀羅尼経』、『無能勝幡王如来荘厳陀羅尼経』の訳出成る
983
翰林賛寧奉修『大宋高僧伝』
983
『宋版大蔵経』(5千48巻)完成
983
吐谷渾(タング-ト)の李継捧、宋に静州以外を献上し服属
983
東大寺の奝然入宋、『宋版大蔵経』を乞う(宋太宗より法済国師号、紫衣を賜る)
984
宋の太宗、『新訳三蔵聖教序』を著し、天息災らに下賜
984
遵式、天台16代の宝雲より天台の秘奥を授けられる
984
天息災らが訳した3部の新訳密教経典を刻版流通
984
易卦を数理的に解釈する象数学の陳希夷没(紫微斗数・河洛理数・麻衣相法の創始者とされる)
985
王延徳『西州程記』
986
孟夏・源清『十不二門示珠指』『金光明玄義』
986
木工から身を起こした馬殷、湖南一帯を制圧し湖南節度使となる
986
蘇易簡、翰林学士となる(『続翰林志』『文房四譜』を著す)
988
宋の『咸平編勅・儀制勅・赦書徳音』成立
988
翰林通慧大師賛『高僧傳』を上表(宋版の大蔵経に加える)
980
越国の黎桓、阮匐・丁佃の反乱を鎮めて、越国皇帝に即位(ベトナム前黎朝)
980
越国皇帝・黎桓、宋の太宗のベトナム侵略軍を破る
980
この頃から吐蕃王朝の末裔、ガリのララマ・イェーシェーウー、仏教復興運動開始
980
この頃、ララマ・イェーシェーウーの援助でチベットのラダックのリンチェン・サンポ、カシミールに留学
980
この頃、セルジューク、南下してトゥーラーンに入り、サーマン朝に仕える
982
越国皇帝・黎桓、占城の都ミーソン聖域(ダナン)に攻め込む
982
パラメッシュヴァルマンュ王、越国軍に殺害され占城崩壊
982
遼の聖宗即位 国内の混乱に立ち向かう
982
高麗の探密大師の猶子宏廓大師、安心寺を新建して普賢寺とし華厳宗の大刹となる
982
タングートの李継捧、夏・綏・銀・宥・静の五州を宋に献じて開封に移る
982
李継捧の族弟、李継遷、夏州の東北三百里の地に移って自立
983
成宗、北宋から大廟堂図・社稷堂図・文宣王廟図を輸入し王宮を建造
984
遼の聖宗、先代の景宗の忌日に諸道京鎮の寺院で香を焚かせ斎を催す
985
タングートの李継捧、銀川を根拠地とし定難軍留後を自称(遼の義成公主の降嫁をうけて夏国王に封ぜられる)
986
遼の聖宗、開龍寺に戦役に殺した敵兵の菩提を弔う
990
仁海、石山寺の元杲より伝法灌頂を受ける
990
藤原定子、中宮となる(女御文化興隆)
990
この頃、安倍清明活躍(陰陽道)
990
花山法皇の勅願により、益子寺創建(後の西明寺)
990
この頃、高野聖の活動おこる
991
円仁と円珍の門弟が争そう
991
仁海、小野に曼荼羅寺(随心院)を創建(小野流)
991
藤原詮子、東三条院と称し国母として国政を後見(出家して日本最初の女院となる)
993
この頃、清小納言、中宮のもとに出仕
994
金剛峯寺の大塔・講堂、雷火で焼失(正歴の大火)
994
雅真、再び金剛峯寺の大塔復興にあたる(天野社に居を移し復興を指示)
994
東三条院、高野山の方式を維持するために天野社に天野丹生明神社領志賀郷を寄進
995
藤原道長、内覧となり、内覧左大臣として20年間最高権力の座に就く
995
雅真、高野山奥院の御廟を完成
995
宋の源清の延暦寺座主に宛てた手紙「宋源清大徳寄北嶺座主暹賀書」、「宋源清大徳寄北嶺諸碩徳書」、新書5部とともに届く
996
園城寺の慶祚、『法華竜女成仏権実疑難』を書き、宋の源清の手紙の返書に付けて回答
996
真興の弟子、清海、感得した浄土を描いて「清海曼荼羅」をつくる
997
真興の弟子、清範、維摩会講師を勤める(文殊の化身と尊敬され藤原道長・定子が帰依)
998
寛朝から広沢流、元杲から小野流の灌頂を受けた雅慶、東寺一長者兼高野山座主となる
998
京都の周辺の村落の田楽、はじめて洛中になだれこむ(畿内村落の富裕化)
991
四明知礼、乾符寺内の小院に入る(現法華院)
991
王禹偁、誣告を受けた徐鉉を擁護、商州の団練副使に左遷(『小畜集』『外集』)
992
遵式、宝雲寺に法華・維摩・涅槃・金光明経を講じ浄土念仏僧参集
993
『太平御覧』成る
993
王小波、宋朝の茶の統制に反対して均産一揆を起こし四川を攻略
993
呂蒙正、宰相となり内政に専念、隣邦との修好、戦争をやめて出費抑制を主張
994
天息災訳『頻那夜迦成就儀軌経』成る
994
李順、王小波の反乱を引き継ぎ成都を占領、大蜀王を称する
995
宋の太宗御製『秘蔵詮』
995
源清、日本の叡山に『金光明経玄義』を求める書簡を送る
996
宋の太宗御製『秘蔵詮』『緣識』『逍遙詠』を大蔵経に加え頒布
996
四明知礼、居朗・顕通が喜捨して建てた保恩院に天台智顗の教法を伝え始める
997
宋の太宗没、真宗皇帝即位
998
真宗皇帝、宋の太宗御製『継聖教序』を天竺三蔵明教大師法賢に下賜
998
宗昱『注法華本跡十不二門并序』
998
真宗皇帝、宋の太宗御製『崇釈論』を出版
999
真宗皇帝、遼と西夏の連合軍を防ぐ
999
柳開、遼の侵攻に真宗の親征を請い先鋒を願い出る(古文の復興を志す、『河東先生集』)
990
この頃、リンチェン・サンポ、ラダックに32人の建築家・仏師・絵師を連れ帰り大量な仏典を持ち帰る
991
ジャワのグディリ王ダルマヴァンシャ即位
992
遼の聖宗、五台山の金河寺に詣で、盛んに斎を催す
992
パーラ朝マヒーパーラ1世即位、ビハール地方の失地回復
992
ジャワのクディリ王ダルマヴァンシャ、シュリーヴィジャヤの交易独占を阻止するためにスマトラ遠征
922
ジャワのクディリ王ダルマヴァンシャ、仏教を奉じるシュリーヴィジャヤに対抗してヒンドゥー教導入
922
この頃、『マハーバーラタ』の古ジャワ語訳
993
遼、高麗に侵攻(徐煕の外交によって和平、高麗、契丹に服属)
994
遼の聖宗、延寿寺に景宗の石像を安置
995
インドのパーラ朝マヒーパーラ1世即位、プラティハーラ朝は弱体化、ラーシュトラクータ朝とのチョーラ朝の抗争に失地回復
998
カズナ朝マフムード、ソグディアナ北部とホラズムの領有をめぐりセルジュークと同盟
999
サーマン朝アブド・アル・マリク2世、カズニ朝マフムードと抗争
999
カラ・ハン国、ブハラ征服、北からサーマン朝を滅ぼしトランスオクシアナ併合
999
カズニ朝マフムード、弱体化したスンニ派のアッバース朝を支援、強勢になったエジプトのシーア派のファーティマ朝のカリフに対抗する政策
999
遼の聖宗、西夏と結んで南征、宋に侵入
999
高麗の穆宗、智光国師から具足戒を受ける