空海年表・クウカイ クロニクル
阿闍梨空海と高野山[820〜]

9世紀に入り、空海と諸弟子によって真言密教の拠点である高野山が整備される一方、最澄の意志を引き継いだ天台僧によって、比叡山に大乗戒壇が築かれる。中央アジアではエローラ石窟最大のカイラーサナータ寺院が建造され、プラティハーラ朝、パーラ朝の華やかな仏教美術が開花したが、中国では武宗皇帝による破仏の嵐が吹き荒れ苦難の時代を迎えていた。

820
この頃、三筆(空海・嵯峨天皇・橘逸勢)の活躍
820
この年、『華厳経』(80巻)を書写、「華厳会の願文」を書く
820
空海、19歳の真雅(29歳年下の弟)に具足戒を授ける
820
空海『文筆眼心抄』、この後、『文鏡秘府論』を書く
820
真済、幹海(大安寺)を伴い出京するという(伊豆桂谷寺、下野薬師寺をへて関東巡錫)
820
この頃、空海、日光四本龍寺に入り、勝道の弟子・道珍に迎えられるという
820
空海、日光中禅寺に妙見尊星を感得し滝尾社創建すると伝える(二荒を日光とする)
820
藤原冬嗣『弘仁格』完成(即日実施)
820
この頃、空海、道珍に般若理趣三昧、受命灌頂などを授けると伝える
820
空海を開山とする滝尾寺が御願寺となり、道珍が第2世となる
821
藤原冬嗣、勧学院を創立
821
この頃、智泉、[四種護摩本尊][眷属図像]を描く(醍醐寺蔵)
821
この頃より830年ころまでに、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』を執筆
821
空海、真雅に印相秘義を説く
821
空海、満濃池の修築別当となり讃岐下向(3カ月で完成、恩賞で甲山寺を開く)
821
空海、『真言付法伝』を著す
821
空海、長安で制作した両部曼荼羅など27鋪を新たに図画
821
空海、請来した真言五祖画像に竜猛像・竜智像を加え、「真言七祖像」とし、飛白体の賛を書く(東寺蔵)
821
空海、故藤原葛野麻呂のために(理趣会)十七尊曼荼羅を描く
822
この頃までに、景戒『日本霊異記』を編集
822
空海、『三昧耶戒序』を書く
822
空海、平城上皇に三昧耶戒を授け入壇灌頂させる
822
真如法親王、空海の弟子となる
822
空海、讃岐大興寺を創建
822
如意輪観音を信仰する如意尼、皇太子大伴親王の寵愛を受ける
822
日野家宗、円仁から贈られた薬師如来を本尊に法界寺を創設
822
空海、東大寺に灌頂道場真言院建立、息災増益の修法をする
822
最澄、比叡山中堂院に入寂
822
国家鎮護の仁王経法を修す
823
この頃から、杲隣、高野山に修行を重ねる(現修禅院)
823
真紹、河内観心寺の五仏を造像
823
嵯峨天皇、藤原良房を派遣し空海を東寺長者とする(東寺を教王護国寺とする)
823
大和益田池潅漑を指導、大伴国道・藤原藤広の監督、藤原緒嗣・紀末成・真円律師らが指揮。(この頃、畿内・瀬戸内に灌漑整備進む)
823
空海、東寺に唐より請来した曼荼羅・法具を収蔵し密教道場とする
823
嵯峨天皇は上皇となり、淳和天皇即位(如意尼、妃となる)
824
淳和天皇と妃の如意尼、空海より如意輪法を受ける
823
この頃、嵯峨上皇、嵯峨院に移る(876年、大覚寺となる)
823
この月以降、空海、嵯峨上皇に灌頂を授け、円行に両部大法を授ける
823
東寺に真言学徒を住まわせ、学ぶべき書物目録『真言宗所学経律論目録』作成
823
空海、皇后院に息災法を修す
823
空海、清涼殿に大通方広法を修す
824
淳和天皇の命により、空海、室生寺再興(堅慧、空海を迎え弟子となる)
824
空海、大和長岳寺を創建すると伝える
824
空海、真済に金胎両部の灌頂を授け伝法阿闍梨とする
824
唯識の学匠・恵運、実慧の弟子となる(東寺で両部灌頂受ける)
824
この頃、智泉、神護寺の別院創建(後に明恵が西明寺として再建)
824
空海、神泉苑に請雨法を修す(祈雨法の験により少僧都に直任)
824
図書寮の写経、空海請来の新訳経本となる
824
和気広世・真綱、河内神願寺を高雄山寺に合併し、神護寺と改称(定額21僧認可、南都の学匠・円明・忠延ら、両部大法受ける)
825
空海、東寺にて実慧に両部の秘契を伝える
825
この頃(天長年間)、空海、淳和天皇の発願により、志明院を再興(鳴神岩屋不動)
825
この頃(天長年間)、空海、和泉国獅子窟寺に仏眼仏母の法を修すという
825
空海、東寺にて真雅に金胎両部、阿闍梨の印信を与える
825
空海、東寺講堂の須弥壇の造像を完成
825
高野山本院に智泉が寂し、空海、「嗟嘆文」を書く(金剛三昧院蔵[智泉古肖像])
825
空海、益田池の完成を顕彰し「益田池碑銘」を書く
826
空海、九度山慈尊院に大仁王会を始行(北室院蔵[五大力明王像]制作)
826
空海、桓武天皇の御忌の願文を書く
826
空海、東寺の五重塔建立に着手する
827
実慧、河内雲心寺を整備し、観心寺と改称
827
空海、下野国大慈寺の広智禅師に「十喩を詠ずる詩」を贈る
827
空海、大僧都に任じられる(仏舎利を内裏に請じる)
827
最澄、良峯安世の援助で延暦寺戒壇院建立
827
大極殿に僧500人が『大般若経』を転読、空海は請雨法を修す
827
空海、神護寺に笠仲守の亡妻の追善し、大日如来の一印曼荼羅を図画
827
空海、内裏に仏舎利を招じ請雨法を修す
827
良峯安世・滋野貞主ら『経国集』を撰上
827
淳和天皇、橘寺に伊予親王を追善し、空海が願文を書く
828
空海、日本初の字典『篆隷万象名義』を完成
828
空海、神護寺にて、道昌に両部灌頂を授ける
828
空海、攝津の安養院を密教寺院として再興するという(現久安寺)
828
如意尼、如意輪観音を本尊に神呪寺を開き、空海を招じて落慶供養
828
現存最古の片仮名を書き込む『成実論』(片仮名、五十音図へ)
828
空海、陸奥に赴任する伴国道に秘録・加持の神楽・詩文を贈る
828
空海、藤原三守から土地を譲り受け日本初の私学、綜芸種智院を創立
829
和気真綱・和気仲世より神護寺を委嘱される
829
空海が[飛白十如是](元神護寺蔵)を書くとすればこの頃か
829
道昌、嵐山の法輪寺に百日修行し虚空蔵菩薩を感得するという
829
空海、元興寺護命の長寿祝賀の詩を書く
829
空海、大安寺別当となる
830
滋野貞主ら『秘府略』(1000巻)を撰上
820
憲宗皇帝、長生を求めて金丹を服用し、宦官を虐待
820
憲宗皇帝、宦官・陳弘志に暗殺され、穆宗皇帝即位
820
穆宗皇帝即位、牛僧孺は御史中丞、李宗閔は監察御史、李徳裕は翰林学士となり、党を組んで政策を動かす
820
牛僧孺、冤罪事件を訴え収賄蓄財を処断し、清官として鳴らす
820
李渤、宰相、大臣の無能を批判して憎まれ、虔州刺史に左遷
820
柳公権、入朝して穆宗に書の骨法を説く
820
韓愈の高弟、李翺、朗州・廬州刺史に左遷
820
潙山霊祐、湖南の潙山に住す(仰山慧寂が法嗣となり、潙仰宗おこる)
820
この頃までに、韓愈「原道」「原性」「原毀」「原人」「原鬼」を書く
821
李徳裕、牛僧孺と組んだ李宗閔の科挙の不正を攻撃(李宗閔を地方に左遷、40年にわたる牛李の党争開始)
821
柳公綽、勅使の人数を限定し吏民の労を減らすよう奏上(宦官に憎まれ左遷、邠寧慶節度使となる)
821
穆宗皇帝、大理卿兼御使太夫の劉元鼎を西蕃会盟使とし、吐蕃の使者と会盟(長慶の会盟)
821
李渤、江州刺史となり、「白鹿洞」に読書(後世に白鹿洞書院となり、中国四大書院の筆頭とされる)
821
宗密、清凉山に遊び、終南山草堂寺に入って『円覚経疏』をつくる(後に『円覚経大疏鈔』を撰述)
821
この頃以降(〜839)、恵果の付法の弟子、義操没か
822
穆宗皇帝、善円寺に御幸し百万銭を布施
822
徐昴の「宣明暦」による改暦
822
杭州竜興寺の南繰、華厳社を組織
823
元稹、趙州に赴任し、『元氏長慶集』つくる
823
穆宗皇帝、通化門に毘沙門天像の造立を見る
823
唐に留まる三蔵法師の霊仙に、淳和天皇が渤海僧の貞素を介して黄金を贈る(霊仙、仏舎利、経典を日本に届ける)
824
敬宗皇帝即位、牛僧孺を鄂州刺史・武昌節度使に左遷(牛僧孺、武昌城壁を修築し、賦役や積弊を除く)
824
柳公権書[金剛般若経]
824
忠皎、西湖孤山に「石壁法華経」を彫る
824
穆宗没、敬宗皇帝即位
824
李徳裕、浙西から綾衣を献じる詔に『丹戻六箴』を書いて敬宗を諫める
824
この頃、元稹、『白氏長慶集』を編集
825
敬宗、勅により左街の安国寺、右街の興福寺に方等戒壇を設置
826
敬宗、相撲に興じ宦官を虐待、宦官の劉克明に殺される
826
劉克明の王守澄ら、劉克明らを討ち、江王涵を帝位に就ける
826
洪州龍興院に華厳結社組織
826
沙門・道士400人余人、大明宮に論争
826
僧惟真、道士趙帰真らを、嶺南に配流
826
敬宗皇帝、宦宮の劉克明に暗殺され、文宗皇帝即位
826
李翺、文宗皇帝に招かれ知制誥に任じられる(人性本善を唱える『復性書』を著す)
826
16才の李商隠、『才論』、『聖論』を著す(古文復興をめざす)
827
白居易・惟澄、進土趙常盈と隣徳殿で論争
827
新羅僧丘徳、仏教教函を収集し帰国
827
南泉普願、宣歙観察使の陸亘の求めで南泉山を下る
828
文宗皇帝、宗密を長安に招き、紫衣を与えて大徳とする(若き官僚、裴休と知り合い、『裴休拾遺問』を残す)
828
劉禹錫、再び都へ呼び戻され『再遊玄都觀』をつくる
829
白居易、洛陽履道里に住み『池上篇并序』をつくる
829
この頃、清晃ら姑蘇法華経院の石壁に8種の経典を彫る
820
ムハンマド・アルフワリズミー、0と1から9の記号をつかうインド方式の計算法を用いる
821
吐蕃王ティラルパチェン、唐に侵攻(長安に講和、甘粛省を割譲させる)
821
唐・ウイグル同盟強化のため、穆宗の妹・大和公主、ウイグルの崇徳可汗に降嫁
820
この頃、ラーシュトラクター朝のもとにエローラ石窟のカイラーサナータ寺院完成
820
この頃、新羅に王位継承に破れた王族や官僚、地方地主が連携する賊徒の横行多い
821
吐蕃王ティラルパチェン、唐、ウイグルと和平(長安の宮殿正門の外・ググメル山の国境・ラサのジョカン大聖堂正面に唐蕃会盟碑)
821
ホラサーンにターヒル朝が自立(イスラム帝国の地方軍閥の分権化開始)
821
新羅の無染、入唐して麻谷宝徹の法を嗣ぐ
822
新羅の金憲昌、熊津(公州市)を都として長安国と号し、旧百済の独立をめざす反乱をおこす
824
チベット初の訳経目録『デンカルマ』編集
824
渤海、仲介者的な商人を同行した使節を日本に派遣(藤原緒嗣は商旅と批判、以降、公式使節の往来は12年に1度の派遣が定められる)
824
新羅の道義、護国祈祷のために石南寺を建立
825
ヴァスグブタ『シヴァ・スートラ』(カシミールにシヴァ教成立)
825
ビルマにペグー(白古)おこる
825
新羅の双峰道允、入唐して南泉普願に嗣法
825
金憲昌の子、金梵文が高達山(京畿道)に反乱、平壌を首都とする
826
新羅の憲徳王、漢山州(京畿道)以北の州郡から1万人を徴発、浿江(大同江)沿いに300里の長城を築き、渤海の南下を防ぐ
826
新羅の興徳王即位
827
新羅の道成国師、琵瑟山中に瑜伽寺建立
828
吐蕃王チツクデツェン、サンスクリットの大蔵経のチベット語訳・編纂開始
828
吐蕃王チツクデツェン、七戸で僧侶一人を養い、僧に不敬を働く者を厳罰に処す命を発する(地方領主、民衆の反乱を招く)
828
張保皐、山東より帰国し、新羅の興徳王に新羅人の奴隷売買の実状を訴える
828
新羅の興徳王、莞島に清海鎮設置、張保皐に管轄させる(南海と黄海の海上交通支配、新羅の国際貿易を独占、僧侶の往来を保護)
828
新羅の洪陟禅師、唐より帰国して智異山実相寺建立(朝鮮初の禅宗伽藍)
828
新羅の徳雲祖師・インド僧侶スルとともに甘露寺建立(現泉隠寺)
828
新羅の香照と元寂、法広寺に財を喜捨して釈迦無二仏の舎利塔を立てる
828
新羅の金大廉、唐から茶の種子を持ち帰り、地理山(慶尚南道の智異山麓、双磎寺一円)に植える(新羅の喫茶おこる)
828
新羅に妖人事件(速富之術などの妖術による反新羅運動展開)
829
南詔王の勧豊祐、成都を占領、ビルマ、タイ、ラオス、カンボジアなどを攻める
829
新羅の黄面禅師、インドから仏の真身舎利を持ち帰り、竹林寺に三層石塔を建てて奉安(今の表忠寺)
 
830
勅により、空海、『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』を著す
830
天長年間(824〜33)、衛門三郎が初めて四国を遍路するという
830
出羽国秋田に大地震(人心動揺し、争乱の兆現れる)
830
空海、如意尼に秘密灌頂を授ける
830
空海、真済に金胎曼荼羅次第、儀軌の秘要を授ける(〜823.3『高雄口訣』へ)
831
空海、東宮講師となる
831
東寺にて、真雅に伝法灌頂職位を授ける
831
この頃、金剛峯寺の金堂と諸仏完成
832
空海、真済を伴い神護寺に入り寺域を整備させる
832
空海、高野山に隠棲(実慧に東寺、真済に高雄山寺を付嘱)
832
白山に加賀・越前・美濃の三登拝口を築く(白山信仰さかんになる)
832
最勝会結願、紫宸殿に空海、護命ら諸宗の学匠と論議
832
淳和天皇、紫野に御幸し雲林亭とする(皇后、農業を見る)
832
高野山に初めて万燈万華会を開催
832
空海、この日より五穀を断ち、禅定を常とする
832
円仁、比叡山横川に庵を結ぶ
832
真然に高野山金剛峯寺を預け、実慧に助成させる
832
空海、真雅に真言の秘印を授ける
832
清原夏野『令義解』撰上
833
この頃(天長年間)、神護寺[両界曼荼羅]成る
833
藤原家継、空海を開基として法輪寺(後の泉涌寺)を創建するという
833
恵運、大宰府観世音寺の講師・筑前国師となる
833
淳和天皇譲位、仁明天皇即位(3月)
833
円珍、延暦寺に受戒
834
空海、真如に両部灌頂を授ける
834
空海、高野山を訪ねてきた母を九度山の高野山政所(慈尊院)に迎える
834
空海、唐招提寺の如宝のため、受延らを率い『大般若経』などを書写
834
比叡山西塔釈迦堂落慶供養に、実慧らを率いて参加、咒願師を勤める
834
東大寺に「法華経」を解釈し、『般若心経秘鍵』を講義する
834
真然に即身成仏の秘文を授け、高野山2世とする
834
高野山に毘盧遮那法界体性塔二基、両部曼荼羅建立のため勧進
834
東寺三綱の詔勅下る(金堂・講堂・食堂・塔・西院の建造始める)
835
空海、母が高野政所に没し、慈氏寺・神通寺の2壇を築き慈尊院とする
835
真如、平城宮址に不退寺再興・超昇寺建立
835
実慧、秘法を修し、嵯峨上皇・淳和上皇の信頼をえて神護寺別当となる
835
真済『遍照発揮性霊集』完成(827年頃、編集開始)
835
内裏真言院に後七日御修法を修行(以降、恒例となる)
835
この頃、空海、高野山に悪瘡を病む
835
『官符』に「声明を四明の本体、三蔵の根源」と記す
835
この頃、空海、真然に愛染印法を授ける
835
金剛峯寺を定額寺とする
835
諸弟子に遺告する(『御遺告』)
835
空海、高野山に入定(諸弟子、七々の忌を修し遺骸を奥院石室中に納める)
835
仁明天皇の勅使、淳和上皇の弔書を賜う
835
大安寺の忠一に東海・東山道整備を命じる(渡船を増強、浮橋・布施屋をつくる)
835
真言宗年分度者の選定法確立(毎年9月24日に金剛峯寺にて試験を行い、合格者は高野山に6年籠山とする)
835
真済、空海の後を継ぎ神護寺経営(12年間山外に出ず伽藍の整備)
835
真済、『空海僧都伝』を撰す
835
嵯峨上皇、空海の入定を哀悼し「海上人を哭す」の詩を下賜
835
実慧ら、嵯峨上皇に「先師を哭する御製の詩を拝して恩を謝する表」を上表
835
常暁の門弟、鵜殿山平等寺に空海作の薬師如来、日光・月光両菩薩像を安置
835
仁明天皇、安芸の明光寺に正明院の勅号を下賜(七堂伽藍・十二子坊を備える)
835
最澄とともに空海の灌頂を受けた光定、仁明天皇に近侍し内供奉十禅師となる
836
実慧、権律師に任じられ、東寺長者となる
836
真然、阿波大滝寺に修行(『大滝寺縁起』を撰す)
836
道昌、太秦広隆寺の別当となり寺域・伽藍を復興
836
円明、東大寺真言院幹事となる
836
遣唐大使藤原常道に節刀を授ける
836
真済・実慧・円仁、遣唐使とともに唐土に出発
836
遣唐使船(円仁、実慧らが乗船)、遭難して壱岐島・値賀島に漂着
836
真済・真然が乗船した遣唐使船、大破して漂流(南海の島民に救われて帰国)
836
実慧の奏請によって高野山の造塔料に加賀の国税を賜る(高野山の大塔建造開始)
836
東大寺真言院に灌頂道場を置き、実慧が鎮護国家の修法(以降、東大寺真言院の鎮護国家・増益・息災法、恒例となる)
836
山代淡海、六道珍皇寺創建
836
四天王寺に落雷による火災に伽藍焼失
836
神道を度持するため諸国の神社で『法華経』を読誦
837
空海・杲隣の弟子、円行、四天王寺別当となる
837
諸国の国分寺に十一面観音法を修する
837
再び、遣唐大使に藤原常道を任命
837
真然、高野山伽藍の朝拝を行う(永式となる)
837
実慧、入唐する円行に青龍寺の義明への書簡・法服を託す
837
疫病流行し、諸国の国分寺に昼は金剛般若経を読ませ、夜は薬師悔過をさせる
837
陸奥・出羽に騒擾おこる
837
真音宗の修法者を毎年、諸国講読師に任ずる
838
円明、東大寺21代別当となる
838
承和遣唐使出航(円行、円仁、円載、常暁ら唐に出発)
838
諸国の郡司百姓に銭米を支給、郡館に『般若心経』を音写
838
比叡山に籠山する円珍に金色の不動明王が示現、[黄不動尊]に描かれる
838
能書に『金剛寿命経』を書写させ八省院で転読(内裏仏名懺悔の始まり)
838
光定、伝灯大法師位に叙せられ、延暦寺戒和上となる
838
仁明天皇の勅願によって勝持寺に塔頭四十九院建立
838
遣唐副使小野篁、渡航を拒否し隠岐に配流
838
承和年間、空海、最澄と論争した法相宗の徳一没
839
疫病に対して僧侶の呪験、医師の投薬・施療によって治療する勅令
839
真済、神護寺の別当となる
839
陸奥国の窮乏を救済するため、百姓3万人に3年の納税猶予
839
真済の指揮により東寺講堂諸仏の開眼供養
839
円行、帰国し恵果の遺品法具などの請来目録作成
830
牛僧孺、李宗閔の推薦で、兵部尚書・同平章事に返り咲く
830
柳公綽、辺境の河東に移されウイグルの軍官や沙陀の首長と交遊
830
韓愈の古文を継承した皇甫湜の死を惜しんで、白居易慟哭する
831
維州事件(吐蕃領の維州の帰属をめぐって、唐と吐蕃の関係緊張)
831
李宗閔、吐蕃の維州の守将の帰順を納れるよう上奏、牛僧孺に拒まれる(李徳裕と牛僧孺の党争激化)
831
白居易、香山寺を重修し香山居士と称す
832
文宗皇帝、維州の失陥を後悔し、李徳裕を兵部尚書・同平章事に復権
832
女流詩人、名妓として知られた薛涛没(元稹・牛僧儒・白居易・劉禹錫らと交遊)
833
この頃、禅宗の趙州和尚、諸国行脚を開始
833
宗密『原人論』
833
杜牧、揚州の淮南節度使牛僧孺の書記となる(『江南春』『題烏江亭』『阿房宮賦』、『罪言』『守論』などをつくる)
834
日本の最後の遣唐使来朝
834
遣唐使准判官・藤原貞敏、琵琶の名手・劉二郎より琵琶の妙曲を習う(劉二郎の娘・劉娘を妻とし、秘曲の楽譜を贈られる)
834
李商隠、泰山に遊び、『東至泰山,空吟梁父』の句をつくる
834
沙州の釈門教授、授洪『修功徳記』
835
文宗皇帝、長生殿内道場廃止、僧尼試験を実施し不合格者を還俗させる
835
甘露の変(文宗皇帝の意を受けた李訓、宦官粛正に失敗、宦官勢力増長)
835
詩人にして茶人、盧仝、甘露の変に巻き込まれ、宰相王涯の邸宅に殉難
835
杜牧書[張好好詩并序]
835
新羅僧梵日、入唐(樂山惟厳の法流を受け禅宗・闍崛山派を開く)
835
姚合編『极玄集』(王維ら21人の詩を集成)
835
詩人・賈島、長江県の手簿となる(僧侶の無本、韓愈に学んで還俗、『李欵の幽居に題す』などをつくる)
835
文宗皇帝、礼部侍郎李訓、太僕卿鄭注を用い宦官討滅を画す(政府の実権を握る宦官の王守澄と新興の宦官、仇士良を戦わせ、王守澄自殺)
835
甘露の変(仇士良、宦官を率いて文宗皇帝を捕囚)
835
仇士良、右驍衛大将軍に特進し、仏教政策展開
835
この頃(大和年中)、新羅僧無染、塩官済安大師に見え「東方の菩薩」と評される
836
文宗皇帝、諸州の寺院に観音像の建立を命じる
836
惟謹述『大毘盧遮那阿闍梨真実智品中阿闍梨住阿字観門』
837
文宗皇帝の勅により屠殺を禁じ斎会を行う
837
揚州七寺の僧に晴天を祈らせる
837
礼部侍郎の令狐綯、李商隠の詩を誉める(李商隠の名声高まる)
837
日本使臣貞敏、揚州開元寺に五百僧を供養
838
承和遣唐使船、揚州海陵縣白潮鎭桑田鄕に到着(大波に大破)
838
遣唐大使、藤原常嗣ら35名、皇帝に謁見するために長安に至る
838
円仁、円載、円行、常暁ら、揚州に入る(揚州の開元寺で経典を複写し仏画・仏像を模写)
838
円仁、崇山院の全雅に『金剛界諸尊儀軌』を借りて書写、両部曼荼羅、作壇法授けられる
838
円載、天台山に広修・維蠲から得た『唐決』を仁好に託して叡山に送る
838
常暁、揚州栖霊寺に配住、華林寺の元照から三論を相伝、金剛界法を伝授される
838
常暁、栖霊寺大悲持念院の文㻮に大元帥法、千臂千頭金毘羅童子法を学ぶ
838
常暁、宮廷出仕の画工李全らに[金剛海三十七尊種子曼荼羅][大元帥本身将部曼荼羅一鋪(総五十余身)]を描かせる
838
遣唐大使藤原常嗣、諸蕃五国の一国の大使として文宗皇帝に謁見
838
藤原常嗣、円仁・円載の天台山への留学を求め、円仁は不許可となる
838
円行、長安に赴き青竜寺の義真から受法
838
円仁、揚州を訪れた長安西明寺の宗叡からサンスクリットを学ぶ
838
唐朝を支えた令狐楚の死に李商隠、『奠相国令狐公文』を記す
839
常暁、1日僧斎を設ける(2月帰国)
839
青竜寺の義真撰『結縁灌頂次第』(円行、日本に招来)
838
藤原常嗣らの遣唐使節、楚州に戻り、円仁、円載と再会(円仁の留学不許可を伝える)
838
円仁、延暦寺から預った「義真疑問十ケ条」「円澄疑問三十ケ条」の回答を円載に託す
838
遣唐使節、新羅の海商・張保皐の配下、金正南が手配した新羅船で帰国の途につく(山東半島の登州、赤山法華院をへて博多に至る)
839
文宗皇帝、誕節に千僧会を設ける
839
白居易『白氏文集』(67巻)を蘇州南禅院に納入
839
李商隠、門閥派の李党に属する令狐家の援助を受け、李科挙及第者の派閥の牛党の王叔茂の娘と結婚(変節漢とみなされる)
839
円仁、唐に留まる決意を固め、赤山法華院に入る
839
慧萼等、入唐(皇太后橘嘉智子の宝幡・袈裟を五台山に施入)
839
円行、青龍寺に入り、実慧の書簡を円鏡に届ける
839
円行、恵果和尚の廟前に献供して常弁らと教義の論談
839
円行、義真より両部灌頂・伝法阿闍梨灌頂を受ける
840
文宗皇帝、新羅の使者金雲卿を謁見、新羅の人質・学生の帰国許可(唐・新羅の冊封関係成立)
830
アッバース朝カリフ、アル・マムーン、バイト・アルヒクマ(知恵の館)建設(ギリシア語文献をアラビア語に翻訳、アラビア科学おこる)
830
パーラ朝デーヴァパーラ王、トライカータカ寺院を再興、ソーマブリー寺とする
830
新羅の興徳王、洪陟禅師、慧照禅師と交遊(清規に規定する節倹・勤労・普請を重視する南宗禅に帰依)
830
この頃、南西インドのパーンディア朝シュリーマラ・シュリーヴァラバ王、スリランカに攻め込む
830
渤海王、大彝震即位(府・州の確定と中央集権的な行政制度の確立に向う)
830
この頃、唐江南・日本・渤海・唐というサイクルで多国間交易を動かす渤海商主の活動さかん
833
スリランカのセーナ1世即位、首都のアヌラーダプラからポロンナルワに拠点を移す
833
この頃、スリランカに金剛乗の比丘来たる(スリランカの密教興隆)
831
インドのブンデルカントにチャンデラ王朝おこる(バナラシの王の娘と月神の間に生まれたチャンドラバルマンの子孫という:後世、イスラム勢力と戦う)
832
ビルマの驃国、南詔に滅ぼされ、モン族とピュー族は南詔に連れ去られる
832
シャイレーンドラ朝のサマラトゥンガ王死去、姉のプラモーダヴァルダニーが摂政、その夫ラカイ・ピカタンが実権を握る
832
この頃から、ジャワのシャイレーンドラ朝の摂政プラモーダヴァルダニー、カイ・ピカタン、チャンディ・ロロ・ジョングランを含むプランバナン寺院群の建設開始
832
新羅の心地王師、5世紀末に建立された瑜伽寺を再建し、桐華寺とする
833
新羅に飢饉がおこり、流行病蔓延、倭国方面からの海賊来襲
833
新羅の興徳王、熊洞地方に侵入した倭国の海賊を仏力で退けたことを記念し、無染国師に聖興寺を建立させる
834
新羅の興徳王、王巡幸して民に穀物を分け与え、民心の安定を図る
834
新羅の興徳王、身分の上下に応じて色服・車騎・器物・家屋などを区別する「骨品制」を定める
834
アンコール朝のジャヤヴァルマン3世即位
835
新羅の興徳王、釜山の梵魚寺を建立
835
この頃、南インドのヨーガ行者リーラパ、国王にヘーヴァジュラタントラの灌頂を授け、民衆に利益をもたらすという
835
この頃、プラティハーラ朝のバージャウラーのヴィシュヴェーシュワラ寺院建立
835
この頃、ラーシュトラクータ朝アモーガヴァルシャ1世、ジャイナ教保護(エローラ第30窟〜34窟)
836
プラティハーラ朝ボージャ1世、カナウジに即位(インド統一に乗り出す)
836
プラティハーラ朝ボージャ1世、ヴァーラカ施与村を復活する銅板勅書
836
新羅の興徳王死去
836
この頃、全羅南道莞島に根拠地を置く海商、張保皐、東シナ海・黄海海上を制覇
837
プラティハーラ朝ボージャ1世、パーラ朝デーヴァパーラに敗れる
837
新羅の金明、反乱し閔哀王に即位(この後、新羅に反乱相次ぐ)
837
金明に敗れた金祐徴、張保皐に匿われる(金祐徴、張保皐の娘を皇太子妃とする約束)
839
金祐徴、張保皐の援軍に閔哀王を滅ぼし、神武王に即位(張保皐を感義軍使に任命)
839
新羅の神武王、唐との国交正常化をはかり、山東の淄青節度使に奴婢を送る(唐の文宗、奴婢を憐れんで帰国させる)
839
新羅の神武王急死、皇太子の金慶膺が文聖王に即位
839
新羅の文聖王、海商の張保皐を鎮海将軍に任命(骨品制による反対によって、張保皐の娘を妃とせず)
839
ウイグル第11代彰信可汗、ソグド系の大臣安允合に暗殺される
840
新羅の文聖王、唐の文宗に金雲卿を派遣
840
吐蕃王チツクデツェンの仏教尊崇政策にチベット経済破綻
840
円珍、比叡山の12年の籠山修行を終える
840
田三郎こと、田口円覚、唐に旅立つ
840
真済、神護寺別当になる(宝塔建立、五大虚空蔵菩薩像安置)
840
この頃、観心寺[如意輪観音]、広隆寺[阿弥陀如来像]成る
840
この後、円行、京都北山の霊厳院開き、播磨国大山寺に入る
840
この頃(承和年間)、源融、空海ゆかりの宝樹院に七堂伽藍を造営し大融寺とする
840
大極殿に最勝会を始修(4月に清涼殿で灌仏会を初催)
840
淳和上皇、勧農を勅す(皇后、農事を観る、諸国に黍・稷・麦・稗・大小豆を植える)
840
常暁、宇治法琳寺に初めて大元帥法を修する
840
新羅の清海鎮将軍弓福(張保皋)の使者が朝貢、新羅との国交は不許可、貿易は許可
819
弓福(張保皋)、840に支店を置いて新羅・日・唐の三国貿易に従事
841
実慧、東寺に二長者制を設け、真済を補任
841
藤原良房『日本後記』
842
筑紫観世音寺の講師、恵運、渤海商人李処人の船で博多より出航
842
真済、『高雄口訣』を編集
842
嵯峨上皇、薄葬を遺命して没
842
承和の変(橘逸勢・伴健峯を捕縛)
842
仁明天皇、皇太子の恆貞親王を廃し藤原良房の妹・順子が産んだ通康親王を皇太子とする
843
実慧、勅許を見て東寺に灌頂院創建(以降、春秋2回、灌頂・結縁を行う)
843
実慧、東寺に真言宗伝法職位を置く(真紹に伝法職位を授け、初の具支灌頂を実現)
844
この頃(承和年間)、道昌、大井川の堤防を修築(行基菩薩の再来と称される)
845
円珍、大峯・葛城・熊野三山を巡礼、那智の滝に参籠(円・密・修験の三道融会の三井修験道おこす)
845
実慧、空海が開いた綜芸種智院を売却、丹波国大山荘を得て東寺伝法会の資に充てる
845
物の怪により、百僧を請じて紫宸殿などで修法を行う
846
この頃、神護寺[五大虚空蔵菩薩像]成る
846
実慧、高野山金堂で真然、真紹に『大日経疏』講義(南山講学の始め)
846
円珍、山王権現の霊夢により入唐を決意
847
太皇太后橘嘉智子、大学別曹学館院を設立
847
真雅を東大寺別当とする
847
恒蔭王、東大寺別当の真雅のもとで出家し聖宝と称す(三論宗を本宗とする)
847
慧萼、蘇州の海商、徐方直が帰依する禅僧義空を伴い帰国(中国の禅宗の実情を伝える)
847
恵運、帰国(経論・仏具などの請来品の目録を奏上)
847
円仁、帰国(423部・合計559巻の経典を持ち帰る、天台密教を創始)
847
真済、実慧を引き継ぎ、東寺長者となる
847
長谷寺、壷坂寺を定額寺とする
847
在原業平、不退寺建立
848
この頃、仁明天皇の母、太皇太后橘嘉智子、義空を迎えて最初の禅院、檀林寺創建(檀林皇后として中国、新羅に知られる)
848
円仁、比叡山に常行三昧堂建立
848
この頃、源仁、東寺にて実慧から密教を学ぶ
848
慧萼、徐方裕の商船に乗って渡唐
848
恵運、仁明天皇の皇后藤原順子の発願により、安祥寺建立(小野流の根本道場となる)
848
承和年間、仁明天皇、東寺講堂の諸尊を後代の依るべき規範とする
848
日向の草野大膳弘利、能円了孝上人を招き永願寺建立
849
真済、実慧から恵果の仏舎利を相承
849
恒貞親王、出家して恒寂と称す(真如法親王から灌頂を受け、嵯峨大覚寺の初祖となる)
849
渤海国大使の王文矩来朝、応接した時康親王に皇位の相を認めるという
849
蘇州の海商、徐方直の弟、徐広裕来日(博多・蘇州貿易さかんとなる)
849
徐方裕の商船、慧萼、義空の弟子の胡婆を連れて再び来日
849
真如法親王、飛騨を行脚し千手観音・法華経の観音の霊夢に袈裟山千光寺を建立
840
甘露の変に自由を奪われた文宗皇帝崩御
840
文宗皇帝の異母弟、頴王李瀍が武宗に即位、李徳裕が宰相となる
840
武宗皇帝、新羅の文聖王を「開府儀同三司・検校太尉・使侍節大都督・雞林州諸軍事・兼持節充寧海軍使・上柱国・新羅王」に冊封
840
円仁、赤山法華院の新羅僧、聖林に五台山巡礼を勧められる
840
円仁、五台山に『法華経』と密教の関係に関する「未決三十条」の解答を得る(五台山所蔵の仏典37巻を書写、文殊菩薩の示現を観じる)
840
円仁、長安資聖寺に入る(3年間に、大興善寺の元政から金剛界大法を受け、青竜寺の義真から胎蔵界・盧遮那経大法・蘇悉地大法を授けられる)
840
円仁、長安の絵師・王恵に金剛界曼荼羅を描かせる
840
文宗皇帝没、武宗皇帝即位
840
李徳裕が宰相に抜擢され、昭義軍節度使劉稹の乱を平定(藩鎮の禍を除く)
840
この頃、新羅の禅僧無染、薬山に見え「外来の清風、人を凍殺す」と言わしめる
840
入唐した日本僧、田口円覚、五台山に修行(蘇州の海商、徐公直の帰依を受ける)
841
円仁、武宗皇帝に帰国を願うも不許可(以降3年、宝月三蔵からサンスクリットを学び、多数の仏典を書写)
841
顔真卿の書の後継者・柳公権[玄秘塔記]
841
武宗皇帝、道士趙帰真を宮中に召し金籙斎道場を開催
841
教禅一致を説いた圭峰宗密、草堂寺に没(『禅源諸詮集都序』)
842
白易居『白氏文集』(75巻本)完成
842
ウイグルの烏介可汗、温州に侵攻(杜牧、『早雁』を詠む)
842
禅の黄檗宗祖黄檗希運、錦陵龍興寺に入る
842
恵運の乗船、五島の奈留浦着に破棄、新造船で温州に着く
842
恵運、長安に入り青龍寺に義真から伝法灌頂を受ける
842
武宗皇帝の破仏開始(宰相李徳裕、強大化する僧院の管理を提言、私度僧・年少僧の追放令を出す)
842
宰相李徳裕、寺院の荘園没収を進め、仏像・仏具を溶解して貨幣発行
842
天台山の道士応夷節、上清大洞秘旨内法を得受(弟子に杜光庭)
843
恵運、この後5年間、中国の五台山など聖地を巡る
843
仏教保護者、宦官の仇士良死去
843
長安に僧尼外出禁止令、僧侶還俗令実施(日本僧の円載、円仁も還俗させられる)
843
マニ教寺院廃止令(マニ教徒を大弾圧)
843
吐蕃王国の分裂に、唐は安史の乱に失った河西,隴右を奪回
844
慧蕚、『白氏文集』を書写(日本にもたらす)
844
趙帰真、宮中より仏教排斥(内道場・内斎を停止)
845
池州刺使となった杜牧、放浪詩人・張祜と交遊(『登池州九峰楼寄張祜』を詠む)
845
道教以外の宗教を禁止(仏教寺院の仏牙・仏指を廃棄、仏像に替えて天尊老君像安置)
845
4600寺院を廃止、還俗した僧24万人という(円載、円仁も還俗)
845
外国人僧の国外追放令
845
円仁、長安を脱出(廃仏の中108日を歩いて登州の赤山院にいたる)
845
新羅の海商、張保皐の部将張詠、円仁の帰国船を建造(密告に円仁の乗船できず)
846
円仁の弟子、性海、師に宛てた文書・黄金をたずさえ渡唐
846
武宗皇帝、金丹を服用して没し、宣宗皇帝即位
846
宣宗皇帝、趙帰真らを処罰、長安両街に8寺を置く(全国の寺院復活)
846
宣宗皇帝、宰相の李徳裕を罷免し、牛李の党争を終結
846
白居易没、龍門香山寺如満塔側に葬るという
847
段成式、『酉陽雑俎』を撰す
847
李商隠、桂林刺史の鄭亜の宴の掌書記に招かれ、詩『桂林』を作す
847
円仁、性海、楚州から新羅商人金珍の貿易船に便乗して日本に向かう
847
恵運、張支信・元静等の商船に乗って明州望海鎮を出航
847
薬山禅師に参じた新羅僧梵日帰国の途につく
847
大中年中、法全、長安の玄法寺座主となる(『玄法寺の儀軌』を撰述)
847
この頃、禅宗の黄檗稀運、潙山霊祐ら活躍
847
この頃、[五大虚空蔵菩薩像]造像(恵運請来、観智院蔵)
847
この頃、張彦遠『歴代名画記』(854、4巻以降増補)
848
蘇州の海商、徐方直の弟の徐公裕、入唐間を往復(慧萼を唐に迎える)
848
李公佐、観察御史となるも、李徳裕派排斥に辞任(『南柯太守伝』『謝小娥伝』『廬江馮媼伝』『古岳涜経』を残す)
848
敦煌莫高窟第12窟の開削開始(東に維摩経、西に普賢・文殊、南に観無量寿・弥勒、北に薬師・天清問などの経変:〜906)
849
徐公裕、義空を慕う胡婆、慧萼とともに日本に渡る
849
許渾、監察御史となる(詩集『丁卯集』)
840
この頃、仏教とボン教の対立深まる(吐蕃王チツクデツェンの宮廷に仏教のグル・ロンポチェとボン教のデンパ・ナムカが論争したという)
840
この頃、パーラ朝デーヴァパーラ王、アッサム・オリッサから北インド、デカンに勢力拡大(パーラ朝の全盛期)
840
この頃、ラーシュトラクータ朝アモーガヴァルシャ1世『カヴィーラージャ・マールガ』(カンナダ語の演劇、文学さかん)
840
遊牧ウイグル国家、内乱とキルギスの攻撃で滅亡(バルハシ湖南の草原に移動)
840
遊牧ウイグル国家の九姓鉄勒の首長僕固俊、西ウイグル建国
840
この頃、ソーマプーラ寺のヴィルーパ、ヴァジュラヴァーラーヒー(金剛亥母)の真言を唱える行に専念(ダーキーニーの教示によって成就をえるという)
840
真鑑、唐から新羅に帰国、華厳宗の玉泉寺を重修し双渓寺とする
840
真鑑、新羅に唐の梵唄をもたらす(韓国仏教の梵唄宗長とされる)
840
真鑑、金大簾が唐からもたらした茶種を智異山一帯に蒔き茶園をつくる
841
この頃、新羅の文聖王、唐との冊封関係を背景に刺客閻長を用いて張保皐を暗殺
841
吐蕃の大臣ウェイダナジェン、チツクデツェン王を絞殺
841
吐蕃王ランダルマ即位(ボン教を信じ仏教を排斥、チベットの三賢、チェボリの寺院に仏法を守るという)
841
吐蕃王ランダルマの破仏(仏寺封鎖、仏像破壊、経典焼却、僧を還俗させ反抗する高僧を殺害)
841
新羅の宮廷闘争激化、弘弼の反乱が露見するも島嶼に逃れる
841
東アジアの海民を背景とする張保皐の部将、新羅政府に反抗(弓福の乱開始)
841
新羅の文聖王、日本との交易を拒否
842
仏僧ラルン・ペルギ・ドルジェ、吐蕃王ランダルマを射殺
842
新羅の文聖王、日本との民間交易許可(北九州の官人・入唐僧など貿易を通じて新羅商人と深く関わる)
843
ウイグルの七部3万人が唐の幽州に降る(三部の統領に李姓を与えられる)
844
新羅に南宗禅を伝えた道義の弟子、廉居を讃える[廉居和尚塔]造立(伝興法寺址)
843
吐蕃、王子のユムテンとムスーンの王位継承戦争により南北に分裂
845
この頃、パーラ朝のタントラ美術全盛
845
この頃、文殊の知恵を授かったというシャーンティデーヴァ(寂天)、霊威をあらわす
845
この頃、シャーンティデーヴァ(寂天)『ボーディチャリヤーヴァターラ』(『入菩薩行論』)
845
この頃、クリシュナチャーリン、マガダ王ドーンビーパにヘーヴァジュラタントラの灌頂を授けるという
846
新羅の道詵、谷城の桐裏山の恵徹から「無説説無法法」の境地を受けるという
847
東面招撫使の張仲武がウイグルを援助する奚を大破
847
在唐25年、「東方大菩薩」とされた朗慧無染帰国
847
朗慧無染を開基とする藍浦の聖住寺建立
847
聖住寺の壇越・金陽、張保皐の国際貿易を王京人のもとに再編成
848
豪古族の張義潮、吐蕃の支配に抗し西域回廊の民衆を率いて反乱
848
張仲武とキルギスの追撃にウイグルの遏捻可汗逃亡(ウイグルの王統断絶)
849
吐蕃軍、西域から撤退
849
ビルマ族、ピュー族の驃国を征服し、パガン王国建国