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第2章  四層の建物

第1節  自分とは何か 

  自己の究明こそ、仏教に限らず、古来よりインドのすべての哲学・宗教の根本的なテーマでした。もちろんそれは〈私たち〉にとっても重要な問題です。 

  〈私〉とは何か─。これは自明のようでいて案外、いや非常にむずかしい問題です。自明のように思われるのは、正常な人なら誰でも自分を他人と混同するようなことはないからです。私は私であり、私以外のものではない。こんなことは言うまでもなく当たり前の話です。わざわざ例をあげるのもどうかと思いますが、たとえば他人が食事をしても私は満腹になりません。 

  では、どうして私が他人ではなく、私であるということを知っているのでしょう。私が私である根拠はどこにあるでしょう。 

  まず、「身体がある」ということが、おそらく一番わかりやすい〈私〉の根拠だといえるでしょう。鏡に映った自分の姿を見て、誰でも「私が映っている」と言いますね。体のない私は考えられません。 
  次に、痛いとか熱いとか楽しいという感覚も〈私〉の根拠だといえるでしょう。もし、何の感覚もなければ、たとえ体があったとしても〈私〉はないも同然です。 
  それからイメージも〈私〉の根拠です。〈私〉はいろんなことを思い浮かべます。それがイメージです。いろいろと経験したことが、もし何一つとして頭に思い浮かばなければ、〈私〉はやはりないも同然です。 
  イメージというのは表層意識です。これに対して深層意識というのがあります。イメージを映像にたとえるなら、深層意識はフィルムにあたると考えればわかりやすいでしょう。この中に〈私〉に関するありとあらゆる情報が蓄えられています。それがなければ映像も生まれません。この深層意識があるということも〈私〉の根拠です。 
  また〈私〉は物事を識別し、いろいろと判断をし、決断を下します。理性のはたらきといったらよいでしょうか。これがないと体を動かすこともできません。この判断能力というのも〈私〉の根拠です。 

  とりあえず以上の五つを、〈私〉の根拠と考えてさしつかえないでしょう。さて今述べたことは、実は、観自在菩薩が考えた通りのことなのです。 

  自分とは何だろうか。自分を自分たらしめているものは何だろうか。それをつきつめてゆくと、「体がある」「感覚がある」「イメージを持つ」「深層意識がある」「判断をする」、この五つがある。これらが〈私〉を〈私〉たらしめている根拠だと思い至ったのです。  

  この五つのことを「五蘊」といいます。般若心経に出てくる用語では、色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)がそれぞれに対応します。「薀」とは、〈私〉という経験主体を構成する基幹的な要素、といったほどの意味です。 
  五蘊があるから〈私〉という存在は確かめられるわけですし、この五蘊のうち、どれ一つを欠いても〈私〉は〈私〉でなくなってしまいます。いいかえれば、〈私〉という存在は五蘊なのだ、ということです。 


第2節  五蘊の瞑想 

  もう少し続けます。でも、本当に〈この体〉が〈私〉なのでしょうか。手足や髪の毛が〈私〉なのでしょうか。この考えは少しよく考えてみれば、おかしいということに気づくはずです。 
  ふつう「私には髪の毛がある」と言って、「私は髪の毛である」とは言いません。体のどの部分をとっても、また全体としてみても、それはあくまでも「私の体」にすぎません。体は〈私〉のいわば所有物なのです。 
  体は〈私〉を〈私〉たらしめている根拠には違いありませんが、どうやら〈私〉そのものと考えるのは無理のようです。 

  感覚も同様です。「私は痛い」という時、それは「私に痛みがある」ということであって、痛みそのものは〈私〉ではありません。「私は痛みである」とは誰も言わないでしょう。表層意識としてのイメージや深層意識や判断もまた同様です。これらは「私のもの」ということはできても、それじたいは〈私〉ではありません。 

  そうすると、五蘊は〈私〉の根拠だとは言えても、五蘊そのものは〈私〉ではない。つまり、〈私〉は五蘊ではない、ということになりはしませんか。では五蘊以外の〈私〉がどこかにいるでしょうか。体もない、感覚もない、表層意識も潜在意識もなく、判断もしない〈私〉という存在がどこか別にあるのでしょうか。 
  五蘊とは別に〈私〉は、やはりどこにもいそうはありません。でも、五蘊は〈私〉ではない。すると〈私〉は一体どこにいるのでしょう。〈私〉とは何でしょう。 

  ふしぎなことに、〈私〉はどこにも見当たらないのです。これは一見とても奇妙な結論です。〈私〉を探究していくと〈私〉はいなくなった! 
  でも、現に〈私〉はここにいるではありませんか。議論の進め方が間違っていたのでしょうか。それとも現にここにいると思いこんでいる〈私〉は幻なのでしょうか。 

  この奇妙な考察は何を物語っているのでしょう。 
  これは実はインド人が考え抜いてきた「自己と世界のあり方」についての、とても厄介ながら重要な問題に関連しています。インドのサンスクリット語では、たとえば「私は痛い」を「私に痛みがある」と表現します。インドの哲学者たちは、これは、〈私〉という実体(じったい)に〈痛み〉という属性(ぞくせい)がある、ということであると分析しました。 

  さらに別の例をあげると、「このバラは赤い」という場合、これは、バラという実体に赤色という属性がある、ということです。 

  実体と属性とはどのような関係にあるのでしょうか。属性なき実体も、実体なき属性もありえません。色も形も香りもないバラを考えることができないように、バラでも何でもなくて、ただ色だけ、形だけ、すなわち属性だけが単独で存在することも不可能です。しかし、その一方で、実体と属性とが別物であることも確かです。 

  ややこしい話になってしまいましたが、般若心経を理解するうえで必要と思われる予備的知識として申し上げました。ただ、ここではこれ以上は深入りせず、要点だけを大雑把にまとめますと、あらゆるものごとを実体と属性という枠組みでとらえて世界の成り立ちを考えようとしたのがインドの伝統哲学でした。それに対して、実体と属性に分けることは人間の思惟が生み出した虚構であると主張したのが仏教だったのです。 

  仏教はインドのバラモンの伝統的(すなわち「正統」)哲学に対して巨大なアンチテーゼ(すなわち「異端」)として登場し、かつ最後までアンチテーゼであり続けました。その最大の論点のひとつとして、〈実体─属性〉をめぐる認識論があったのです。 

  観自在菩薩が深遠な般若波羅蜜多の行をしている時、(わが身は)五蘊なり、(しかもその五蘊は)皆空なりと照見した。 

  般若心経の最初のこの短い一文は、そうしたインド哲学史上の大論争を背景に生まれたものです。仏教側の結論を一言でいうと、「五蘊皆空」ということだったのです。そして、重要なことは、これは単なる哲学上の一つの見解というよりも、「般若波羅蜜多の行」という瞑想実践によって得られる修行の成果であったということです。 


第3節  五蘊皆空のヴィジョン 

 漢訳の「五蘊皆空」は「五蘊は皆(みな)空(くう)なり」としか読めません。五蘊というものがあるのだけれど、それはすべて空なのだということです。「空」については次回に説明しますが、この読み方では、五蘊というものはとにかく否定されなければならないということになってしまいます。実際に一般の解説書では、そうしたニュアンスで五蘊と空との関係が理解されているように見受けられます。 

 ところが、サンスクリット語の原典によると、この箇所は「(わが身は)五蘊なり、しかも、その五蘊は空である」と、二段階に分けて読まねばなりません。 

 同じことではないかと思うかもしれませんが、全然違います。漢訳が間違っているわけではありませんが、この読み方の違いは重要で、般若心経全体の理解にかかわってくると言っても過言ではありません。 
 観自在菩薩は、まず「(わが身は)五蘊なり」と観察し、その次に、「それらはすべて空である」と観察したのです。この空のヴィジョンは、はるか高みにおけるこの上ない見晴らしというべきものでした。それが「照見した」という語に表れています。「観ること自在」という名の観自在菩薩にして会得しえた高度なヴィジョンだったわけです。 
 ここで肝心な点は、その前段階として五蘊のヴィジョンが不可欠だった、ということです。そして、それもまた、やはり高度のヴィジョンには違いなかったのです。 


第4節  仏伝レリーフの教え 

  お釈迦さまが初めて説法をされた場所として知られるサールナートの考古博物館に、一つの興味深い石造のレリーフ(浮彫)が展示されています。 
  お釈迦さまのご生涯の中で起こった四つの著名な場面を刻んだもので、その図柄じたいは仏伝レリーフとして特別に変わったものではありません。誕生、修行、初転法輪(初説法)、涅槃(入滅)の四大事跡を描いたものです。 

  ただし、そのレリーフは、四つのエピソードがちょうど四層の建物のように配置されているのです。建物の一番上には瞑想中のお釈迦さまの姿が刻まれています。 
  四層の建物と屋上の釈尊─。この構図のレリーフは般若心経のモチーフを余すところなく表現しています。 
  一体何のことかと思われるかもしれませんが、順を追って説明しましょう。 


仏伝レリーフは次のようになっています。 

一階──釈尊誕生の図
二階──釈尊修行の図
三階──釈尊説法の図
四階──釈尊入滅の図
屋上──釈尊瞑想の図


般若心経が想定していると思われる四層の建物とは次の通りです。 

一階──幼児のフロア
二階──世間のフロア
三階──舎利子のフロア
四階──観自在菩薩のフロア
屋上──仏陀のフロア


より一般的な名称をつけると次のようになるでしょうか。 

一階──幼児レベルのフロア(無意識の領域)
二階──日常レベルのフロア(自己形成の領域)
三階──小乗レベルのフロア(無我を知る領域)
四階──大乗レベルのフロア(空を観る領域)
屋上──秘蔵レベルのフロア(人知を越えた眺望の領域)


  般若心経には観自在菩薩と舎利子のふたりしか登場しません。しかし、このお経は観自在菩薩が舎利子に語りかける(教えさとす)というストーリーですから、両者の間にはレベルの相違があります。 
  具体的にいうと、 「五蘊あり」というヴィジョンは、舎利子のいる三階の小乗レベルのフロアで得られるものです。それを踏まえて得られる「すべては空」というヴィジョンは、観自在菩薩のいる四階の大乗レベルのフロアに至って初めて会得されるものです。 

  ところで、この対話を作り出しているのはお釈迦さまの瞑想だったわけですから、当然、観自在菩薩の上に仏陀のレベルがあります。そこが「仏説」の位置です。ただし、そこは人知を越え、全方位に眺望のきく最高無比のレベルですから、「五階」ではなく、やはり「屋上」とするのがふさわしいでしょう。 
  また、舎利子といえども、お釈迦さまの十大弟子の筆頭と呼ばれたすぐれた出家者です。舎利子はすでに三階のレベルに達しています。その下(つまり二階)は一般世間に相当するでしょう。通常の人々はこの世間に生きています。それは普通のおとなの世界です。そこに至るまでのプロセスとして、幼児レベルの世界があるのは当然でしょう。 

  お釈迦さまも人の子として誕生しました。お釈迦さまも、幼児レベルから出発したのです。そして人の子として成長し、修行のすえに、ある段階を経て仏陀となりました。その段階を象徴的に、舎利子のレベルと観自在菩薩のレベルとしたのが般若心経なのです。 

  仏伝レリーフはお釈迦さまの偉大な生涯を偲ぶためのものには違いありませんが、同時にまた、それは人が達し得る最高の高みへのプロセスを示したものであり、それゆえにこそ仏弟子たちが歩むべき規範として尊重されてきたものでした。 
  それはちょうど一階から二階へ、二階から三階へと階段を昇っていくプロセスに喩えられます。サールナートのレリーフは、その消息を如実に描き出したものでした。

  般若心経をさまざまな観点から解釈し、たとえば「何事にもこだわるな」といった処世の教訓を引き出すことは、出来ないことではありません。ほとんどすべての解説書はこのたぐいのものですが、ただ、それはあくまでも「世間」のレベルの話です。そこにとどまるのも結構だけれども、その上に三階、四階のレベルがあるんだよ、この見晴らしのいいところに昇ってきてごらん。「観」の一字に始まり、至高の観点そのものを説く般若心経にこめられた、この大いなるメッセージをこそ読み取るべきでしょう。 

  そこで問題は階上への通路ですね。どうやって昇るか? もちろん、答えは用意されています。般若波羅蜜多が、階段です。具体的には、「掲諦、掲諦、...」の真言を念誦すること。この「般若波羅蜜多」と称する真言(心、心咒)こそが、階上への通路なのだというのが、般若心経の究極のメッセージです。最上階に至った観自在菩薩が舎利子に伝えたのは、まさしくこのことでした。 

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