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空海の目利き人

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菊地 寛

 今年は、弘法大師が入定してから、千百年になる。その遠忌のため各方面でいろいろな催しがある。それに就て「キング」から、僕に弘法大師を主人公として戯曲をかいてくれと云う依頼があった。
 自分は、弘法大師と同国の生れである。弘法大師の出生地たる屏風ヶ浦(一説に善通寺とも云う。多分善通寺に弘法大師の生家たる佐伯氏の本邸があり、風光明媚の海岸たる屏風ヶ浦に別荘があったのであろう。母の玉依御前は、出産のため別荘に居たのではあるまいか)の風光をも知っているし、幼年時代は(お大師様が・・・・)と、何かにつけて、聴かされたものである。
 だから、弘法大師のことは、自分でも書きたかったので直ぐ引き受けた。しかし、後で考えれば、これは自分が、弘法大師のことをよく知らなかったからである。

 自分は、戯曲の題材はないかと、幾冊かの弘法大師伝を読んだ。しかし、大師の一生中面白い戯曲的な場面になると、必ず奇蹟が伴うのである。
 弘法大師が、唐から帰って真言密教を立教してより数年後、嵯峨天皇の御前で、当時の奈良六宗と京都の天台宗の高僧とを、向こうに廻して、宗論をする。いわゆる「清涼殿の八宗論」の場面である。茲などは、面白いには違いないが、しかしそれを書くには、何うしても真言の教理を知っていなければならないし、真言に対抗した他の七宗の教義も、相当に心得ていないことには、問答などかけるわけはない。尤も、それには、弘法大師が当時の儒教や他宗の悟道と真言のそれとを比較検討された「十住心論」と云うのがある。それを読めば、真言宗が他宗に勝っていることが分かるのだろうが、この「十住心論」と云うのが生やさしいものではない。そんなものをたとえ研究して、問答させて見たところで読者の誰にも分からないだろう。その上、この宗論で大師は見事勝つのであるが、大師の即身成仏説には、皆反対して<即身成仏せし人証は何処にありや>と、詰め寄り、天皇からも勅問があるので、弘法大師は<然らば、その実証をお見せ申さん>とて、南方に向って、結跏趺坐し、大日の智拳印を結び、口の内に密呪を唱え、暫く三摩地の観念に入り給う、と見る間に面門忽ちに開け、見る見る内に金色の大日如来のお姿となり、頂に五智の宝冠を現し座下に微妙の蓮花を湧出し、さながら浄土の光景を現したので、他の七宗の連中は面縛して下ったと云うのであるが、こうした大奇蹟などは戯曲に書けっこはないのである。活動のトリックでもむつかしいだろう。近代劇の手法は、こうした奇蹟を近代的に解釈するのが通常だが、即身成仏の場面などは解釈の仕様がない。下手に解釈すればぶっこわしである。

 もう一つ戯曲になるかと思ったのは、法敵守敏との雨乞争いである。これは、諸君も御承知のごとく、「釈迦に提婆、弘法に守敏」と云う言葉さえある通り、守敏僧都は、当時弘法大師の一大法敵であり、呪力強大な高僧である。
 朝廷でも、相当重んぜられていて、弘法大師に東寺を賜ると同時に、守敏には西寺を賜って居り、僧位も弘法大師の上にいた位である。
 守敏は、学徳高く、法力秀れ、栗を水に入れて呪を誦すれば、栗が茹で栗となり、その栗を食べれば如何なる病者も忽ちに癒えたと云うのだ。嵯峨帝の天長元年の春、天下大旱した。帝が空海に雨乞の祈祷をせよと、勅せられると、守敏が横から異議を説え、<自分は空海より、年齢も上であるが、法位の上である、拙僧へ先に命ぜられるのが順序でござりましょう>と、そこで守敏に勅が下った。守敏欣んで、壇を築き祈雨の法を講ずること一七日、雷鳴轟き、大雨沛然として下った。市民歓呼の声を挙げて嘆賞した。これじゃ、守敏の勝利であるが、そのくせ加茂川の水は少しも増さない。おやと云うので、人を派して検べて見ると、雨が降ったのは、京都市内だけで東山は勿論、嵯峨御室のあたり、鳥羽伏見、どこもポツリとも降っていないので、忽ちインチキ雨であったことが分り、改めて弘法大師に勅が下った。大師は即ち京都二條の神泉苑に秘密の法壇を飾りて、一七日祈雨の法を行ったが、不思議なるかな、少しも効験もない。こんな筈ではないと、大師は定に入って、三千世界を眺め渡してその原因を尋ねて見ると、守敏が世界中の諸龍を瓶の中に封じ、呪力を以て出さないためである事を知り、大いに駭いたが、なおよく見渡すと、天竺無熱池の善女と云う龍王丈が、守敏よりも法力が上であるため、封じられて居ないのを知って、更に二日の日延を乞い、その龍王を召請して丹精を凝らすと、霊験忽ちに現われ、三日三晩の大雨となり、洛中洛外五畿七道の大甘雨となったと云うのである。
 その上、祈祷最中に、善女龍王が八寸ばかりの金色の蛇となり、九尺ばかりの長蛇の頭に乗って現われたと云う。
 しかしこれでは、あまりに奇蹟的で、どうにもならないのである。

 当時、直木三十五は、なお生きていて「東京朝日」に、「弘法大師」を書いていた。自分は直木の所へ相談に行った。丁度、山本有三も来合わせていたので、三人一しょになった。
 直木は、「弘法大師」を長編で書いているのだから、戯曲になるような場面を幾つか知っているのではないかと思ったからである。
 すると、彼は<久米寺で弘法大師が大日経を見付けるところはどうかな>と、云った。
 久米寺に於ける大日経感得は、大師の一生を通じて最も意義のある場面である。大師は、宝亀五年讃岐の国造の家柄なる、豪族佐伯公の二男と生れ、幼にして神童と云われた。父母からは「貴物」と名づけられ鍾愛されたが、七歳のとき衆生済度の大願を起した。
 十五の時、奈良の都(長岡の都と云う説もある)へ上って勉学した。大学に入って儒学をやったが、それで満足出来ず、専心仏教を研究し、二十二歳のとき、東大寺で具足戒を受け、一人前の僧侶となったが、当時存在したどの宗派をも信仰することが出来なかった。
 そのために、大仏殿の宝前で大誓願を起して、参籠をした。その心願は、
<私はあらゆる経文を読みましたが、心神に疑いありて、どれをも信ずることが出来ません。願くは、三世十方の仏達、我に不二を与え給え>
と云うのだ。不二は「不二の山」の不二で、唯一無二の妙法と云うことだ。
 すると、二十一日目に、祈願に疲れてとろとろまどろむと、夢に異人現われて告げて曰く、<茲に経あり、大日経と名づく。これ汝が求むる所なり、大日本の国高市郡久米寺の東塔下にあり>と云うのである。
手の舞い足の踏むところも知らないほどに、欣んで久米寺に走せ至り、東塔の心柱の下を探ると、果たして七巻の経文が発見された。これが大日経で金剛頂経と共に真言宗立教の基本の教典となったのである。
直木三十五の云う通り、異議ふかい場面である。しかし戯曲には書けない。弘法大師が東塔の中で経文を探すところを、いくら精細に書いても、弘法大師の偉さや、大日経が、真言宗にいかに必要であるかなどと云うことは、現わしようがないのだ。
第一、大日経がなぜ、東塔の下にあるかなど云うことは、戯曲の台辞などでは、とても現わせない。

誰が、大日経を茲にかくして置いたかと云うと、此の時より凡そ七八十年前に、天竺の僧善無畏三蔵が、日本に渡来し、大日経と共に真言宗を伝えんとしたが、<小国片域大機未だ熟せず、仍て此法を此地に止めて、まさに機を待ち時を待たんとす。来葉必ず弘法利生の菩薩来りて、この教を世に恢むべし>と、書いて、久米寺の東塔の下にかくして行ったのである。
即ち、善無畏三蔵が来たときには、日本の仏教はまだ進歩していず、真言宗を伝えるほどの名僧がいなかったので、将来に現われる弘法利生の菩薩を待つと云ったのだ。
つまり善無畏三蔵が、弘法大師の出世を予言したことになるのだ。
醍醐天皇が、空海上人に弘法大師なる謚号を賜ったのも、善無畏三蔵の此の文句に依るものだ。
それなら善無畏三蔵は、何人か。それは真言密教伝持の八祖の一人で、天竺摩伽陀国の王族で、八十歳の高齢で唐の長安に来て、真言宗の教典なる大日経虚空頂経を翻訳し、その序に日本へも渡来したと云われる人である。
ここまで来ると、真言密教或いは真言秘密とは、どんな教かと云うことになる。
弘法大師の戯曲なり小説なりを書く以上、真言秘密と云うことを説明しないわけには行かない。大抵の人は、知らないだろう。僕だって分らなかったのだ。分らないくせに、「真言秘密が、どうしたのこうしたの」と書くのはいやである。真言秘密が分らないばかりでなく、真言宗の用語はなかなか分らない。清涼殿の八宗論の所でも三摩地とか五智の宝冠など云うのが分らない。作者が分ってもいなくせに、そんな言葉を使うのはいやだ。そう思ったから、自分は大師伝の外に、真言の教義に関する本を数冊よんだ。真言秘密教の意味はいくらか分った。

(略)宗名だけでも、こんない難しいのだ。まして、弘法大師を小説や芝居に書いて、大師の云われる言葉の中の教義に関する言葉を、一々説明していたら、面白くも何ともなくなるだろう。
 真言の教義が、むつかしい上に、弘法大師の偉さは、その生涯を通じての偉さで、三十枚や五十枚で、まとめようとしたら、象の鼻や龍の爪だけを書くことになるのだ。

(略)直木の所へ行ったとき、山本有三曰く、「僕も実は、護国寺関係から、弘法大師の戯曲を書くように頼まれて、いろいろ研究したが書けない。謝礼まで貰っているのだが、もう十年近くなるが書けない。しかし、宗教家としては一番偉いのではないか。偉いから書けないのだ」。と、云った。山本が、十年がかりで書けないのだから、自分が一月や二月の準備では書けない筈だ。
 すると、直木が「僕達三人で考えても、戯曲に書くところがないのだから、誰が考えても無いだろう。」と、云った。
 それで、自分も諦めて、「キング」へ断った。すると、「キング」は諦めないで、それでは小説でもいいから、書いてくれと云うのだ。小説なら書けるだろうと思って、自分は更に引き受け直した。伝記も再読三読し、東京高野山別院の草繋全宜師に就いて疑義も質した。真言の教義も、いくらか分った。しかし、分れば分るほど、いよいよ奥がふかくなるようだ。
 弘法大師の面白いところは、久米寺で感得した大日経が、難解で読めないため、入唐を志し、三十一歳まで日本に伝わったあらゆる教典を研究し、語学も習い、留学僧となって、遣唐使に従って、入唐する。遣唐使の一行は、船四隻であるが、支那まで一月以上かかり、途中で四隻の中二隻まで、吹き流されて何処へ行ったか分らず、やっと着いたのが、今の福建省で、そこから長安まで行くのに五ヶ月かかる。然るに、その翌年六月、真言秘密教の正系の法脈を伝えている青龍寺の恵果和尚に面会すると、一眼見た丈で、「お前の来るのを待ちかねた!」と、云って真言密教の正統を伝えてくれる。門下の千人余の内、金剛界・胎蔵界の両方の潅頂を受けたのは、日本人空海と唐人義明の二人丈だ。

(略)しかも、恵果和尚は空海に法を伝えると、忽ち死んでいるのだ。空海が、一年遅れても恵果和尚に接することは得なかった。初対面の空海に、大事な法門を伝授して、真言秘密の宗門を処女地日本へ弘布しようとした恵果も偉いが、一月か二月かの内に、随分と難しい教理をすっかり会得した空海も、古今の偉人であろう。唐人の義明は師に先立って死んだので、真言秘密教は、日本にだけ盛んに弘通したのである。この恵果が真言密教の七祖で、空海は八祖である。
 この唐と日本の傑僧の会合こそ、真言密教の奇蹟と云うべきで、此の奇蹟に比べると、弘法大師伝の他の奇蹟は、子供だましのようである。

(略)
 弘法大師の真言密教が、なぜ日本に弘通したかと云うに、今までの仏教は理論倒れになり、例えば病人を前にしてこの病は癒るか癒らないか、この薬は利くか利かないかを議論している医者のようなものだった。所が、弘法大師は病気に応じて直ぐ薬を与えた。成仏と云うことをむつかしく論ぜず、凡夫もみんな仏性を備えていると論じた。悟れば凡布も仏なりと云うのだ。

  雲はれて後の光と思うなよ
      元より空に有明の月

と云う歌のように、自分の中に存在する仏を覚得すれば、直ちに成仏が出来ると説いた。生身のままで仏になれるのだ。外の宗旨では、菩提心を起しても仏になるのには、三劫かかる、真言宗は、生身のままで、すぐ仏になれるのだ。
 その教義を実証するために、空海は清涼殿で、即身成仏の姿を現わしたのだ。
 こう云う所を小説に書けば面白いのだが、教義を少しでも説こうとすれば、仲々容易でないし、教義を説かなければ、弘法大師は現われないのだ。殊に、恵果和尚と弘法大師の出合を書くとしたら、金剛界・胎蔵界の曼荼羅を説かねばならない。お寺に在るあの掛図は、真言宗の教義を図解したようなもので、仏教哲学の範囲である。うかうかと書けば、「真言宗早わかり」にはなるが、小説にはなりそうもないのだ。
 弘法大師は、二十年居るつもりで、留学したが、恵果和尚は、その天資を認めて忽ちに法を伝え、早く帰った方がいいと云った。恐らく、弟子の唐人達に憎まれて、迫害などされては、気の毒だと思ったのであろう。
 大師は、二年で帰ったが、しかしその間に、唐朝の学問は、可なり学習されたのであろう。天文、医学、音楽、書道、その他いろいろな物を伝えて来たのである。
 その上、教義は新しくて実際的である。即身成仏は、つまりこの世そのものを浄土にしようと云うのであるから、現世を安楽にするためには、いろいろな加持祈祷もするわけだ。帝王の長寿も祈れば、朝敵の調伏もするのだ。「薬子の乱」の時は、弘法大師が調伏の祈祷をすると、八幡大菩薩の姿が現われ、弓を引くと見えて、翌日朝敵仲成が流矢に当って死んだ。

 こう云う宗教が、上一人の尊信を得、下万人の信仰を獲るのは当然である。その上、大師は唐朝文化の精粋を心得ている。その上、大衆は今と違って、教育の普及しない愚民ばかりだ。智恵学問が当時の大衆と天と地の差のある弘法大師が、する事為すこと、一々奇蹟に見えたのも当然であろう。
 また弘法大師の学問知識はその法力と共に、大衆を救ったに違いないのだ。
 生身のままで成仏すると云う教義を実証するためには、弘法大師は、六十二歳のとき、高野において入定したまま、姿を留めると云うことになったわけである。
 だから、今もなお高野山奥の院の御廟の中には、弘法大師が端然として入定の姿のまま坐っているわけである。しかしその姿は末世の罪障多き僧俗の眼には、到底映らないであろう。もし、僧俗の眼に見えない時には、自分達が罪障の多いと云うことを反省せずして、入定の事実を疑ったりしたら、大変であるから、誰人も入れないことにしたと云うのである。

(略)自分は、弘法大師に関する小説も戯曲も書けなかった。しかし、それは、作家としての良心が、あったためだと云いたいのだ。いい加減にごまかしたら、いくらでも書けたであろう。しかし如何なる小説や戯曲をかいた場合よりも、勉強したことはたしかである。
 そして、同郷の先人たる偉大なる大師の教義をおぼろげながらも知り、その伝記を知悉したことは、自分としても、大いなる収穫であった。
 右は、小説も戯曲もかけなかった云い訳である。自分がこの一文を書いていたのは三月十九日の夜半過ぎである。忽ち門前に呼ぶ声があり、家人が門を開いて応接をしている。速達が来たらしい、自分がこの稿を草し了って、階下に降りて見ると果たして一封の書信である。開いて見ると、

 陳者、大本山善通寺に於て、来る昭和十一年四月、弘法大師一千百年御遠忌大法会を厳修せんとするに当り、讃岐の産める一大偉人弘法大師の霊を仰ぐもの香川県を中心とし、茲に大師の御忌奉賛会を組織致し善通寺を復興せんが為の紀念事業を翼賛し、以て大師の偉徳を讃仰し云々

 会合を開くための勧誘状で、松平頼寿伯を初め讃岐出身の名士数名の名を列ねてある。善通寺では、寺の都合で、遠忌を二年延ばすのであろうか。
 自分は夜中は執筆しない。所が、たまたま深夜の二時に、弘法大師のことを書いていると、こんな速達が時遅れて来るなど、偶然ではあろうが、奇蹟の親玉のような弘法大師である丈に何かしら、不思議な気がしないではいられなかった。
(「弘法大師」、『空海曼荼羅』夢枕獏編著、2004)


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