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空海の生涯

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046 虚シク往ヒテ實チテ帰ル

 五島列島福江島の玉之浦町にある「西の高野山」大宝寺は、大同元年(807)、空海が帰国後最初に立ち寄った寺で、それを機にそれまで三論宗であっ

047 独自の「顕教」「密教」構想

 大同3年(808)6月19日、朝廷は太政官符を発し、空海を在唐20年の留学義務から解くよう民部省に申し送った。 空海の国禁犯しの罪は許され

048 声心雲水倶ニ了々タリ

 空海の思索の集大成は、やがて『弁顕密二教論』から『即身成仏義』 『声字実相義』 『吽字義』 『秘密曼荼羅十住心論』 『秘蔵宝鑰』という一連

049 平安京における密教弘法

 大同4年(809)の春頃であったろう、和泉国司に対し「空海を京に住まわしめよ」との太政官符が下る。  同年(809)7月、空海は満を持し

050 嵯峨天皇の政と文芸のサポート

 大同4年(809)10月、高雄山寺に落ち着いたばかりの空海のもとに嵯峨天皇からの使い(大舎人山背豊継)がたずねてきて、『世説(新語)』(後

051 国家のために東大寺に潅頂道場を開く

勅ニ依リ東大寺ニ渡リ、南院(真言院)ヲ建立ス。(『御遺告』)弘仁元年当寺別当ニ補ス。勅ニ依テ西室第一僧坊ヲ賜フ。寺務、四箇年。(『東大寺縁起

052 早良親王の怨霊(御霊)の魂鎮め

 空海の身辺は多用多忙がつづいていた。 高雄山寺には実弟である真雅(後の東大寺別当、東寺長者)が来て弟子になるなど、少しずつ密法の弟子の養成

053 東大寺二月堂「お水取り」(修二会)の密教化

 関西地方に春を告げるという東大寺二月堂の「お水取り」の行事は、天平勝宝4年(752)、東大寺を開いた良弁の弟子の実忠がはじめた。実忠はかな

054 密教様式による初の堂宇設計

 興福寺は朝廷貴族の筆頭藤原氏一門の氏寺である。私寺であって官大寺であった。南都法相の論学をもってその法統とする。その故に、北円堂にはインド

055 良きライバル最澄の法城

 最澄のその法城だった比叡山延暦寺のことを少し書いておこうと思う。  延暦寺は、延暦7年(788)、東大寺で「具足戒」を受けた最澄が比叡山

056 入唐留学の主要動機はサンスクリットの修学

 御室桜や『徒然草』(「仁和寺の僧」)で有名な京御室の仁和寺は、仁和2年(886)、光孝天皇の勅願により伽藍の建設がはじめられ、次の宇多天皇

057「五筆和尚」、当意即妙の書法

 この時期、空海には朝廷の公務のほかに唐の書や詩文を通じての嵯峨との親交が目立つ。  弘仁2年(811)の『劉希夷集』『王昌齢詩格』『貞元

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