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048 声心雲水倶ニ了々タリ

 空海の思索の集大成は、やがて『弁顕密二教論』から『即身成仏義』 『声字実相義』 『吽字義』 『秘密曼荼羅十住心論』 『秘蔵宝鑰』という一連の代表作に示されるのだが、私はこの空海独自の密教思想とそれをもとに展開した密教世界(思想・芸術・国家仏教・社会的実践)のことを「空海密教」と言い、空海亡き後、弟子らが(真言)宗として展開した密教教学を「真言密教」と言って、敢えて区別している。

 その空海の思索は、すでに唐土の帰路そして太宰府観世音寺に滞留中にはじまっていたに相違なく、その思索の中心には恵果和尚から受法した「金胎不二」の密教があり、それを補完するかのように華厳・天台・法相・三論があった。

 空海は、渡唐前すでに『大日経』が世法から大乗仏教の極(華厳)までのすべてを摂受し、その上で大乗が有時間的には不可能の領域においたサトリの成就を、『大日経』は即時的に可能にする具体的成就法を明示していることを知っていた。さらに長安で、この『大日経』よりもっと徹底した成就法を説く『金剛頂経』系の三摩地法を学び、『大日経』(胎蔵界)と『金剛頂経』(金剛界)が「二而不二」となる理法もえてきた。

 空海はしばしば槇尾山寺を出て和泉の葛城山麓に足を向けた。高貴寺という求聞持法に適した小寺があった。そこで何を思索したか。空海には正統密教の第8祖として、また師恵果和尚の遺誡に従い、「金胎不二」の密教をこの東国に弘める義務があった。それをはたすために、構想しつつある独自の密教をより深くよりグローバルに思索したであろう。

 空海の密教は最新の仏教であった。最新であれば、先ず密教を旧来の仏教の上に置く教判が必要である。幸いなる哉、空海が仏教思想史を歪曲する必要もなく、『大日経』が示す通り、大乗仏教の上に密教が位置するのは仏教思想史の必然であった。
 空海はそれに従い、釈尊の「無執着」の教えから華厳までを「顕教」(応化の仏が相手の根機によって法を説く)といい、(法仏自らが法を説く)「密教」と峻別した。しかし空海は次に、「顕教」と「密教」との「絶対矛盾的自己同一」を考えた。空海は、劣位に置いた「顕教」を「密教」に至るに必要な階梯として位置づけ独自の密教体系のなかに包摂する。そこに、空海独特の「一即多」「多即一」の世界が見える。ずっとお世話になってきた南都仏教への気配りもあっただろう。

 南海電鉄の「金剛」駅(または近鉄「富田林」駅)からタクシーをとばして約30分ほど、葛城山系の山すそに高貴寺はまさに世俗の塵を避けるようにたたずんでいる。「金剛」駅前からつづく住宅地をぬけ富田林のシンボルのようなPL教団の白い巨塔を仰ぎみながら東に進むと、道は次第に正面の葛城山系に踏み入っていく。民家はまばらとなり、坂道を上っていく両側の風景はもう山里のものだ。
 地元のタクシーでさえめったに入らないためか、ベテランの運転手も高貴寺に近づくと道に不案内であった。駐車場にタクシーを待たせ、簡略な案内板にしたがって左に歩きはじめるとすぐ史跡高貴寺と彫られた石碑が建っていて、その奥に赤い山門が目に入る。道をたどりなかに入ると、
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あざやかな紅葉に彩られた境内が寂として物音も人声もなく広がっていた。すぐ、

閑林ニ独坐ス草堂ノ暁 三宝ノ声一鳥ニ聞ク
一鳥声アリ人心アリ 声心雲水倶ニ了々タリ

が脳裡をよぎる。

 伝えによれば、この寺は文武天皇の慶雲年間、役行者が金剛・葛城山系の神霊の籠る二十八ヶ所に『法華経』二十八品を一巻ずつ納める経塚を祀った際、第二十五品の「観世音菩薩普門品」(『観音経』)を配したことにはじまるという。大学寮を飛び出した真魚が最初に山に伏した時、実はここにもしばらくいたことがあったのではないか。
 この寺の周囲の日陰にはシャガ(射干)が群生し、5月中旬になると濃い紫と黄色のアヤメに似た花をつけ、ほのかな香しい臭いがあたりに漂うため香花(こうけ)といわれ、この寺は当初「香花寺」といわれた。
 ある時空海がこの寺に来て密法を修したところが、高貴徳王という菩薩を感得したことから「高貴寺」と呼ぶようになったという。その後弘仁年間、空海が嵯峨天皇の勅によってこの寺に金堂・講堂・東西両院・経蔵・鐘楼・食堂・仁王門を建立し、輪奐を調えたといわれている。

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 細い小道を進むと正面に金堂が見え、道の左に土塀がつづき、そのなかは学寮・本坊・庫裡となっている。金堂の右に開山堂があり、江戸期の律僧として名高い慈雲尊者の尊像が祀られている。ご住職の案内で非公開の堂内に入れていただいた。正面の立派な厨子のなかに、比較的大きな慈雲尊者の坐像が安置されていた。ちょうどそこに外国人を含む小グループがきて運よくいっしょに拝観できた。日本の書道を勉強しているという。慈雲尊者は書や梵字の揮毫家であり梵語・悉曇の大家だった。
 この寺にはかつてフランスの仏教学・アジア言語学(とくにサンスクリット学)の巨匠シルヴァン・レヴィがたずね、慈雲尊者のお墓に詣でている。

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 寺伝によると、慈雲尊者がこの高貴寺に入ったのは安永2年(1773)で、以来文化元年(1804)に87才で(京都、阿弥陀寺で)示寂されるまでの30年はここで過ごされたという。尊者は、当時の退廃した仏教を釈尊の正法に帰そうと大願をおこされ、戒律の重視、梵語の研究(『梵学津梁』)、袈裟の改革、僧侶の育成、上下僧俗の教化など、不朽の大業を残された。尊者の学問は、梵学・仏学を中心に儒学神道に及び、帰依する人は皇族をはじめ藩主・僧尼・在家1000人に及んだという。その遺骸はこの寺の奥の院に葬られている。

 金堂と講堂のあいだをつなぐ橋渡しの下をくぐって石段や山道を登るとほどなく、奥の院の御影堂の屋根が見えてくる。登りきったところに慈雲尊者が居住したらしい粗末な庵室があり、それにつづいて左手に御影堂が建っている。
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ここで空海が求聞持法を修したのか、その趣旨のお堂であることが書いてある。そのお堂のなお奥に尊者の御廟がある。そこに立ってみれば、

声心雲水倶ニ了々タリ

がよくわかる。

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