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「東アジアのなかの空海」

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<長澤>今日はお忙しいところをおいでいただきまして、まことにありがとうございます。ただ今から、「東アジアのなかの空海」と題しましてトークフォーラムを開催させていただきたいと思います。
 私はこのフォーラムを主催します真言宗僧侶の有志ネットワーク「密教21フォーラム」の事務局を預かっております長澤と申します。今日はこれから、ゲストの松岡正剛さんとのトークの相手をさせていただくことになっております。どうぞよろしくお導きのほどをお願い申し上げます。
それでは早速、ゲストの松岡さんを壇上にお招きしたいと思います、「松岡さん、どうぞ」(松岡氏登壇、拍手)。きょうは満席御礼の状態ですけれども、ほとんどの方が松岡さんをご存じだと思いますので、プロフィールなど詳しいご紹介を省きますが、どうぞよろしくお願いいたします。

きょうこうしたテーマで松岡さんをお招きしましたのは、とくにこのトークフォーラムを企画した私のなかでは、弘法大師空海さんの教えなり、あるいはその行動なり、あるいはその世界なりに、真言宗の僧侶であります私たちや、あるいは四国八十八ヵ所や高野山にお参りされるお遍路さんやお大師さまの信仰者の方々の、宗派とか信仰の立場では目が届かない、あるいは気がつかない、「東アジア」という広いグローバルな世界が背景としてあるのではないか、前々からそんな気がしておりました。
 具体的に言いますと、空海さんは若き日に平城京で東アジアというものを目にされ体験されて、そしてその東アジアの広い世界に自ら飛び込んで、その東アジアのなかからまたいろいろな価値世界なり方法なりをこの日本にもたらした、あの平安時代、九世紀の初めの頃に、密教という東アジアの最新のグローバルスタンダードとともにですね、東アジアの多様な文化や方法も付加してこの国にもたらした、その視点を明かしてくれる先覚者がどうも今まで見当たらない、そんな想いがずっとしておりました。
 それを語れるのは松岡さんしかいないんですね。ちょうど折りも折、松岡さんが「平城遷都千三百年」の記念事業に深く関わっておられまして、東アジアという視点でさまざまなプロジェクトを担当されておられます。『空海の夢』以後の松岡さんにご指導いただきながら「母なる空海プロジェクト」をやってきた私どもが、「東アジアのなかの空海」というメッセージを世に出すには、いままた松岡さんだと、こういう次第になったわけであります。

 皆さまには、はじめて弘法大師空海さんを学ぶ方から相当にお詳しい方まで、空海さんとの距離感はいろいろあろうかと思いますけども、空海という人が単に真言宗の開祖とか「南無大師遍照金剛」といって信仰する対象だけでなく、広く東アジアの視点で見るべきグローバリストであり、日本人なら誰も一度は学んでおくべき「知と方法の巨人」であることがおわかりいただければ有難いと思っております。

 それでは早速、松岡さんとのトークに移らせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<松岡>じつは長澤さんこそ、空海の世界について私よりも数段お詳しいので、今日は二人で互いに話すということでよろしくお願いします。

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■日本と東アジアをつなぐ視点

<長澤>では最初に、松岡さんが日頃考えていらっしゃる、松岡さんが見ていらっしゃる、あるいは松岡さんのお仕事の中核であります「編集」という「方法」から見た東アジア、そういった東アジアのイメージについてまずお話をうかがいたいと思いますが、その前に、今年いよいよ本番になりました「平城遷都千三百年」のプロジェクトのなかで、松岡さんが深く関わっていらっしゃるお仕事について少しうかがってみたいと思います。そこにも東アジアが相当に色濃く反映されていると思いますので。
 ここに、松岡さんから頂いた『NARASIA』という本がありまして、すでに読んでいらっしゃる方もおいでかと思いますが、平城京すなわち「奈良」と「アジア」をかけた造語で『NARASIA』。これが第一集です。第二集がつい最近出まして相当分厚な本になっております。これらについてもご紹介をいただければと思います。
 とくに「弥勒」という名前をつけたプロジェクトがあるそうですね。

<松岡>今年は、平城京に遷都されてちょうど1300年目に当たる年ということで、奈良県からの依頼で、この『NARASIA』シリーズの編集制作などを進めています。きっかけは、一昨年、奈良県に荒井正吾知事が着任されて、それまでの箱物事業の計画をすべて取り払って、「平城遷都千三百年」を機に、日本と東アジアとのあいだに「知のネットワーク」をつくりたいという相談を受けたことから始まりました。それを「弥勒プロジェクト」と名付けたいというアイデアも知事から出されたものです。
 こうして、シリーズ本やウェブサイトの制作、日中韓の子供と女性による電子フォーラム、東アジアの地方政府の首長たちが集うコミッティなど、一連のプロジェクトを組み立てました。今年5月にはすでに大極殿が落成し、10月にはそこに天皇・皇后をお迎えして記念式典がおこなわれますが、そのときに来場者に御覧いただく大型ハイビジョン映像や、また子どもたちによる「平城京宣言」の原案などもつくっています。今年暮の12月18、19日には、平城遷都1300年を締めくくる「グランドフォーラム」を2日間にわたって開催することになっています。
 これらの事業では、100人以上の有識者による委員会の議論や研究をもとにしています。平城遷都の時代から今日までの1300年を振り返って、日本は東アジアとの関係のなかでいったい何を取り入れ、何を継承し、何を変化させてきたのか。神仏や宗教をはじめ、政治・経済・産業・文化などあらゆるジャンルを総点検しています。
 もともと、「日本」という国名は天武天皇のときに初めて使われ、それ以前は「倭国」でした。そのころの「倭国」は必ずしも現在私たちが考えるような「日本」の領域をさしていたのではなかった。新羅・百済と深い関係を持ちながら、伽耶、昔は任那と呼ばれていたような領域のように、あるいは対馬のように、倭国は列島だけで孤立しているのではなく、東アジアとのあいだで頻繁に出入りをしていただろうと思われるんですね。
 そういうなかで、なぜ平城京に向かうなかで倭人は「大和」あるいは「日本」という国名を立てたのか。こういうことをもう一度振り返って、日本という国の成り立ちから東アジアとの関係を見直していくということが「弥勒プロジェクト」の狙いです。
 そういう視点から平城京というものを捉えると、二つの意味で日本初のキャピタルだったと言えると思います。「キャピタル」という言葉には、いまでも「首都」という意味と「資本」という意味との両方がありますが、まさに平城京は、日本にとってのソーシャルキャピタルとエコノミカルキャピタルの二つが同時に成立したモデルでした。しかも、いまで言う五街道、平城京を中心にした主要な道路インフラもほとんど整いましたし、施薬院とか悲田院のようなターミナルケア、あるいは障害者に対するケアも始まった。大きく言えば社会保障というものがスタートを切った。
 もっと根本的には唐の律令をまねてジャパナイズした法体系や租税のルールがつくられました。さらには国の正史として『古事記』と『日本書紀』が編纂され、またそういったことを進めるために不可欠な文字が整備された。すなわち、中国から取り入れた漢字を万葉仮名としてカスタマイズし、漢語と和語をデュアルスタンダードにした。
 このように見て行くと、平城京の成立とともに、今日の日本の社会の基盤がほとんど整備されていたことがわかります。
 問題は、そのような平城京モデルがその後、どのようになっていったのか。首都が移されて平安京時代になり、さらに鎌倉幕府が生まれ、室町・戦国時代をへて、江戸時代には政治の中心が東に移りました。そのまま明治の開国があり、戦争があり、戦後体制から現代へと歴史をへてきましたが、そのなかでいったい何が継承され、何が変化したのか。
 たとえば、天皇制は残っている。それから南都六大寺の時代からは変遷しましたが、仏教も寺院も残っている。通貨はさすがに当時の富本銭とか和同開珎から変遷して「円」になりましたが、でも当時から通貨ということは考えられていた。
 当時つくられたものの中でもごく基本的なものはだいたい今日にも残っているのではないか。けれども1300年のあいだに何かは大きく変化したわけですね。そういうことを多重多層の切口で考えてみようというのが、「弥勒プロジェクト」の大きな方針になっています。

<長澤>日本の国づくりと東アジアの関係を考える上で、この奈良県の試み、いいお話をうかがいました。
 ところで、話が急に奈良から外れて恐縮ですが、先週は京都へいらっしゃったようで、白川静先生生誕百周年のフォーラムでしたか。このところ、そうした機会に講演をされたり、『白川静』という本を書かれたり、白川先生の漢字学を紹介するテレビ番組にも出られたり、松岡さんが白川漢字学の語り部となって漢字文化の淵源を伝えてくださっていますが、私たちは東アジアというと単純に「漢字文化圏」とか「儒教文化圏」とか、そういう術語とイメージだけでとらえがちで実際その内奥に分け入っていくことをしません。
 白川先生のフォーラムでは、中国学とくに儒教にお詳しい加地伸行先生ともご一緒だったようですが、加地先生がこの頃よくおっしゃる東アジアにおける「儒教的な家族主義」、アングロサクソンの個人主義に対して東アジアの家族主義について、もう一度私たち日本人は考え直さないといけないところにきていると痛感しています。

 毎年8月15日(終戦記念日)が近づくと、出撃前の若い兵士から故郷の親兄弟に宛てた手紙や書簡が報じられますが、「国への忠」「親への孝」まさに儒教ですね。純粋で健気です。空海さんも、「綜芸種智院」の設立にあたって教師の心得のなかに「思、忠孝を存す」と言っておられます。儒教は、日本人が身を律する上で、また社会道徳として、生活規律として、長いこと日本の精神的基盤でした。それがいま壊滅的です。
 これから7月・8月はお盆の季節ですが、このお盆の由来をたどりますと『盂蘭盆経』という中国でつくられたお経に出会います。このお経、ベースが儒教なんですね。親には孝行を、亡き親(先祖)にはさらに孝養を尽くす。親や先祖に孝養を尽くす人は、長生きができて富にも恵まれるという教えです。

 私などは、お盆というのは今は亡き家族と生きている家族が、年に一度手づくりの食事をしながら一家団欒をする行事だから、普段バラバラに暮らす家族もみんな集まらなければだめだと言ってはばかりませんが、最近はそうした家族がなかなか集りません。みんな自分の都合で動いていて、ご先祖の都合はあと回しです。それでも、お盆の期間、高速道路が渋滞し新幹線や飛行機が満員になりますが、先祖への孝養というより夏の家族旅行の一環で、いまは亡き親や先祖を偲ぶ慰霊の里帰りではなくなっています。極端には、大型連休、バカンスの代名詞ともいえます。かつて日本の兵隊さんが苦難の末に戦陣に散ったグアムやサイパンで、いまや慰霊どころか日本の若者がノーテンキに遊びほうけています。お盆休みというのは、いまは亡き親や先祖を偲ぶ慰霊のために日本国中一斉に仕事をお休みにするわけなんですが、家族主義も亡き人への畏敬の念もどこかに置き去りになっています。

 死者(例えば親)との厳粛な告別と感謝の儀式であるはずのお葬式も、お布施が高いとか安いとか、高ければ戒名は要らないとか、何でも安きにつく消費者感覚の次元でさわぐアナログな大衆民主主義が横行して困っております。お寺はスーパーではありませんし、死者への感謝料であるはずのお葬式のお布施にディスカウントを持ち出すのは、見当ちがいの上に無節操です。
 大手スーパーのイオンまでが葬儀業界(シルバー産業)に参入して、葬儀布施を定価にしました。つまり、葬儀のお布施が大手スーパーの安売り商品に成り果て、そのことを特売日の買い物のように歓迎する無節操な大衆愚民化が、大都会の一部で、菩提寺もなく、親しい住職や親族の縁も薄い、老後不安の人の間で広がっています。
先祖供養の仏教、死者儀礼の仏教は、東アジアとくに中国の儒教的精神にその源流がありまして、朝鮮の人たちが親や先祖を大変尊ぶ姿を見ると、核家族で老父母と同居しないことをむしろ是とした戦後日本の個人主義、アメリカンデモクラシーを鵜呑みにしてきた戦後の私たちはちょっと恥ずかしくなります。そのことを、加地先生がこのところ盛んにおっしゃっておられます。

 最近、「お葬式は要らない」だの「戒名無用」だのと、落ちぶれた宗教学者が愚劣な本を出しまして・・・。世の中が不景気になるとなぜか葬儀の費用にいちゃもんがつく、新生活運動も虚礼廃止も香典・香典返し受け取らずも続いたためしがないんですが・・・。

<松岡>島田裕巳さんがさかんに非難していますね。

<長澤>私たち業界の愚痴を言っているようで恐縮ですが、実は日本の伝統的宗教習俗とか古き良き伝統文化が危機に瀕しているという問題でして、そういうことも少し頭の隅に置いていただいて、東アジアのなかの、加地先生が言われるいわゆる家族主義、もう少し大げさに言うと、戦後のアメリカンデモクラシー、個人主義、合理主義、物質主義、それからもっと言うと最近の消費者優先主義、あるいはモノとモノとの等価交換のような経済観念というのと、宗教的価値次元にあるお布施とか戒名料とかの話をごちゃまぜにされてかかられることが最近やたら目立ちまして、頭を痛めているところなんです。
 私はお寺の現場で40年住職をやっていまして最近つくづく感じるんですが、東アジアの伝統的な家族主義といったような価値世界と、戦後アメリカからもちこまれた個人主義、合理主義、物質主義、民主主義、自由主義という価値世界とが、「団塊の世代」の前まではうまく両立してきたのですが、この頃は東アジアの価値観がどんどん劣勢になっていると、日本や日本人の拠って立つべき価値世界がなくなってますます漂流する、あこがれていたアメリカもゆらいでいます。
 きょうはちょっと、こういう話のついでで恐縮ですけども、「東アジア」というテーマのなかで松岡さんのご意見をうかがってみたいと思います。

■日本と東アジアを層で分けてみる

<松岡>結局、日本を含めた東アジアというのは、北から南まで、東から西まで、けっこう広域なんですね。中心は照葉樹林ですがちょっと北へ行くと針葉樹林が広がり、南は高温多湿の熱帯雨林へとつながっていく。この気候の違いはさまざまな文化風土の違いになってあらわれます。たとえば医療ひとつをとっても、中国の鍼灸は北方で発達しました。衣服を脱がなくても肌が露出しているところをつついて直すことができるからですね。でも南に行くと薬草がいっぱい生い茂っていますので、それを煎じて飲み、汗をかいて裸になって治す。同じ中国でも北と南にはそれくらいの違いがある。その北方文化と南方文化の違いが、針葉樹林の北海道から落葉樹林の九州・沖縄にもだいたい移っているわけです。
 そういうなかに、ユーラシアを渡ってきたさまざまな文化文物がそれぞれの風土の文化と混じりあいながら定着していく。シルクロードだけではなく、たとえば麺ロードとか、ギョーザロードとか漬け物ロード、あるいはセラミックロードとかガラスロードとか、さまざまなロードが、東西南北の日本列島へとつながっているわけです。

 一方、時代を区切っていくことで、東アジアの文化の重層性がこのように見えてきます。たとえば中国文化のいちばん古い層には、三皇五帝と呼ばれる絶対王たちの時代があります。たびたび洪水を起こす黄河と長江(揚子江)の氾濫を治め、治水をなし遂げた絶対王たち、禹や舜といった皇帝たちの時代がいちばん下層にあるわけです。これを「古国」とか「方国」と言います。「方国」というのは中国の世界観の「天円地方」の「方」であり、これが「地方」という言葉の元になっているんですが、中国ではこの「地方」がとんでもなく大きい。
 日本でも古代から治水は大問題でした。といっても狭い国土のなかでは大洪水はなく、鉄砲水をどう治めるかということがもっぱら問題でした。このように最古層のところを比べても日本と中国ではまず違う。
 中国初期の夏・殷・周の時代は、治水とともに易を占い、甲骨金文文字によってそれを表すということが、すでにスタートを切っていました。そのころの日本は一万年の長きにわたる縄文時代であり、文字をもたないオラルコミュニケーション社会でした。卑弥呼の時代ですら「百余国」と呼ばれるような小さな国々に分かれ、人々は祭祀を中心に集落を形成していた。このシャーマニックなアニミズム文化は東アジアに共通するものですが、同じころに治水を司る絶対王をいただいていた中国の古層とは決定的に違いがあります。

 その次の時代の層がどうなるかというと、殷が解体され周になり、このとき鉄器や青銅器がたくさんつくられますが、たちまち春秋戦国の群雄割拠の時代になります。このとき、「諸子百家」と呼ばれる、古代ギリシア哲学に匹敵するかあるいは優るぐらいの知者のモデルがずらっと出そろいます。ほとんど今日のアジア的な知識、あるいは世界的な知識の原型が一斉に生みだされたわけです。このなかから、孔子・荘子・老子・荀子・孟子、さらには墨子といった、たくさんの思想リーダーが登場します。これが、仏教がまだ中国に入る以前の中国の第二層です。
 このとき、孔子や孟子や老子や荘子たちによって語られたことが、漢字文化の定着とともに共有されていきました。これが儒学・儒教の起こりであり道教の起こりです。のちに弘法大師が「丹」に関心を持ち密教的にタオイズムを採り入れていきますが、すでにこの第二層の時代、鉱物や薬草を服薬して長生術にするような考え方も芽生えていました。
 さきほど長澤さんの言われた儒教をルーツとする先祖供養についても、この時代に体系化されています。じつは儒学を創始した孔子が、喪葬を司る家の出自でした。「儒」という文字自体が葬儀に関わるという意味であり、死に関わるということが「儒」だったわけです。孔子は、その「死」に関わることを理念としながら、君主に「仁」とか「義」とか「孝」を説いた。
 このころの日本はまだ縄文が続いています。火焔土器が終焉して亀岡式土器になるとか、青森や長野のあたり、あるいは山陽などでそれぞれの栄枯盛衰はありました。

 次に第三層ですが、簡単に言うと、イネとコメと仏教をたずさえながら、中国自身の技術革新、イノベーションが起こった時代であると言えます。絹織物や高度な磁器技術のイノベーションが起こったところに、西域から仏教が入りはじめ、さらに稲作文化が江南地方を中心に広がってきて、これがすべて一緒に日本に入ってくるわけです。だいたい紀元前後のこと、有名な「漢委奴国王」の金印のころですね。いわゆる弥生時代の末期です。日本はやっとこのとき、イネと鉄と漢字をほぼいっしょに取り入れた。
 そのとき日本が受け取った漢字というのは、稲荷山古墳の鉄剣に刻まれた呪文のようなものですが、すでにそこには中国的なシステムやヒエラルキーが含まれていたと言えます。
 中国は諸子百家の時代が終わって、泰漢帝国の時代です。始皇帝によって文字も統一され、漢の武帝は朝鮮半島に楽浪四郡を置いて地方政治をおこないました。そのいちばん端っこの任那に日本が進出していくわけですが、中国からすれば当時の日本は一地方政府という位置づけだったわけです。

 以上のことを整理しますと、大洪水を治める絶対王の第一層の上に、やがて諸氏百家の哲学が乗り、さらにその上に仏教と稲が乗る。この三つの層を日本はほぼ同時に受け取った。つまり、稲作とともに、百済からの儒教博士からもたらされた先祖供養と、そして仏教的なもの、さらに縄文時代からおそらくあったと思われる神祇信仰が最初から重なった状態で、日本の第三層目がスタートしました。
 その後、漢帝国が割れて後漢になり洪武帝が出てくると、中国のグローバル・スタンダードが朝鮮半島と日本を揺さぶり始めます。最終的には新羅と唐が連合軍を組んで百済を攻め、これに対して日本も百済を応援して初めての対外戦争を経験します。ちょうど天智天皇から天武天皇のあいだ、大海皇子の時代です。有名な「白村江の戦い」です。ここで日本は敗北するわけです。
 このとき初めて日本は、東アジアの地方政府であってはならない、自立した国家になるべきだということを自覚します。すでに聖徳太子もそういうことは言っていたんですが、隋の煬帝に押し切られていました。ようやく大海皇子が天武天皇になり「日本」という国名を掲げ、そして藤原京とともに大官大寺(今の大安寺)を建て、仏教によって国の礎を準備しはじめます。
 すでに蘇我氏も仏教に帰依していましたが、それはまだ自分の家の宗教、「氏族仏教」というものでした。蘇我氏は有名な「嶋」という庭をつくったり飛鳥寺の金堂をつくったりしていますが、まだまだそれは縄文・弥生的な、集落型の仏教だった。ところが、「白村江の戦い」に負けて日本が自立せざるをえなくなり、いわゆる国家鎮護仏教へと転換していくわけです。
 このとき日本が取り入れた仏教は北魏仏教でした。なぜ奈良の大仏をつくったかといえば、北の華厳経的な大きなスケールの仏教が入ってきたためですね。唐の則天武后の時代の「華厳国家論」を、天武天皇から聖武天皇のあいだにグローバルスタンダードとして取り入れたわけです。

<長澤>いまのお話から、日本の国づくりの最初の時代の中国・朝鮮との文化的・政治的なつながり、あるいは稲作や鉄とともに仏教がどのように取り入れられていったのかということがおわかりいただけたと思います。
 いま、松岡さんから「華厳国家論」のところまでお話いただいたわけですが、空海さんはこの時期に奈良の大学寮に入学して「東アジア」を学ぶわけです。そして、唐の長安に学んで新しいグローバルスタンダードとしての「密厳国家」「マンダラ国家」をもたらすんですね。
 日本の仏教が「国家鎮護」から「庶人救済」「死者儀礼」に傾くのは鎌倉になってからですが、私どもの仕事というのは、東アジアや日本仏教の伝統のなかで、それをどうやって保ち続けるかという歴史的な大きなノルマを背負っています。社会がどんどんとアメリカナイズされていく現代日本のなかで、どうやって東アジア文化圏の歴史を、お坊さん一人一人が継承しくか、脂汗の垂れるような辛い仕事ですが、実は大変重大な任務を背負っているんだということを、いまの松岡さんのお話から類推していただければ幸いです。

■全東洋街道における高野山

<長澤>余談が長くなりました。このへんで、本論に入ってまいりたいと思います。実は、高野山が5年後に「開創千二百年」になります。つまり、弘法大師空海さんが聖地高野山を開かれてからあと5年で1200年です。ことしの奈良の1300年と合わせて高野山が1200年ということになることに、何か偶然でないような気がしております。
 前に松岡さんから一度ご紹介をいただいた写真家の藤原新也さんが、思い出すと、『全東洋街道』でしたか、その作品の撮影でずっとシルクロードからインドを旅されて、最後が高野山だったというお話を伺ったことがありますが、そんなことを含めて松岡さんに少し高野山というものをどう考えるかお聞きしたいと思います。

<松岡>まず、古代中国における山岳信仰が日本にも入ってきていたんだと思います。早くからのちに言う修験に当たるようなものも入っていたでしょうし、白山の秦澄上人とか、日光二荒山の勝道上人のような人々が聖地としての山を次々に開いていった。
 じつは日本の民俗学で非常に謎とされているのが、日本がこれだけ海に囲まれていながら、山の神や川の神や田の神の数に比べて、海の神が著しく少ないのはなぜかという問題です。おそらく、山というものに対してもともともっていた日本的な信仰に、中国的な信仰が加わり、海の信仰を圧倒していったのではないか。
 もう一つは、さきほどの葬送儀礼にも関係しますが、日本には「他界観念」というものが縄文時代からずっとありました。すでに古代に亀棺のようなものがつくられ、屈葬や火葬や水葬や土葬といった死者の弔い方が連綿と続いていて、しかもそれは中国のように儒教とか道教とか仏教という大きな括りではなく、それらを混ぜて習合的におこなわれていた。この他界観念と山の信仰が早くに結びついて、「山中他界」という観念、すなわち山を死者の魂が住まう霊域とする考え方が広まっていました。仏教用語で言うと、山というものは浄土と穢土、此岸と彼岸の中間であるとみなされたわけですね。じつは山だけではなく海にも「海上他界」というモデルがあり、これは補陀洛信仰ともつながりますが、おそらくこれはのちに生まれたものではないか。どうも最初は山だったのではないかと思います。

 高野山もそういう日本的な信仰の山としてすでにあったわけです。そこに弘法大師が訪れ、丹生都比売や狩場明神に会って、「ここだ」と思われるにいたった。このとき、すでに大和朝廷がその前にできていたことも重要だと思います。
 さきほどの話の連続で言えば、もともと日本人がどこから来たかという大問題があります。だいたい北九州から海洋民族が、また中国や朝鮮半島の民族も稲とともに入ってきて、日本列島を北上し、瀬戸内海や山陽を通って大和に入ったと考えられています。じつは大和の前に、難波、すなわち大阪のあたりに最初の王朝がつくられてまして、これを「河内王朝」といまの日本史では言います。ただしその河内王朝が短命に終わり、すぐ竹内街道を越えて大和へ入った。そうして奈良のキャピタルをつくったわけです。
 奈良盆地を地理上で見ると、笠置、生駒、二上、葛城、金剛という山々がめぐっていて、そのまま吉野、高野、熊野へとつながっていく。その熊野から海上他界に入っていくんですが、そこまでの間はずっと山中なんですね。その中間に高野山がある。私はこの一帯を日本のミステリーゾーンと呼んでいます。おそらく若き真魚こと空海は、南都に遊んでいたころに、これらの山々に何かを感じていたのではないか。吉野には大海皇子がしょっちゅう入っていましたし、持統天皇もやたらと行幸していた。さらにのちのち、後醍醐も後白河もみんな吉野に入っていく。おそらく空海は「この吉野の奥には何があるのか」と考えていたのではないか。
 ご存知のように日本列島には中央構造線が走っています。九州から四国を縦断して、紀伊半島を抜けてちょうど高野の下を通って伊勢に抜けていく。この中央構造線に沿って、日本の鉱脈が形成されているんですが、非常に極端な言い方をすれば、若き空海は何かそういうものを感じたんだろうと思うんです。とりわけ水銀鉱脈への関心です。それとイオン信仰、すなわち水のイオン信仰が加わって、高野あたりの丹生川を含めたあの界隈を、七里結界したのではないでしょうか。

■レアバリューに敏感な密教

<長澤>山岳信仰、「ヤマ」ですね、高野山は。紀伊山地はまさに「ヤマ」の世界ですね。またいま、中央構造線の話が出ましたが、これがまさしく古代日本を動かした「ヤマ」ですし、空海さんはこの「ヤマ」との関係を抜きにしては語れません。その中核といいますか、象徴といいますか、それが空海さんにとっての高野山なんですね。亡くなる直前に「吾、永く山に帰らん」と弟子たちに遺告しています。
 会場の皆さん、中央構造線の話はあるいはご存じかと思いますけども、大ざっぱに言いますと、九州の佐賀あたりからはじまりまして、大分県の北部と福岡県の南部の県境あたり、それから四国のだいたい北側を横切って、その真ん中に愛媛県と高知県の県境にあります四国一高い石槌山という、これも修験の山で、空海さんはここでも厳しい修行をしていますが、それが紀伊半島に入りまして、紀ノ川沿いにずっと横に行きまして、その先に丹生都比売神社というお社があって、これは「丹生(にう)」の鉱石、辰砂・丹砂ですけども、この丹生や丹生都比売神社と空海さんの高野山開創の話がありますが、中央構造線は紀伊半島で急に北上しまして、そして松岡さんがいつかテレビで出演された瀧原宮を通って、伊勢神宮を通って、そして美濃・三河に出まして、そして豊川稲荷を通過し、そして今日お見えの宮坂さんがおいでの諏訪湖畔の岡谷を通り、諏訪大社を通って、何と私どものフォーラムの上村会長のお寺のある旧岩槻市の南を通って千葉県に抜けていくという、だいたいネット上で調べた図ですけども、日本のパワースポットがずらっと並んでいます。

<松岡>まさにミステリーゾーンですね。

<長澤>この構造線に沿って、銅、鉄、そして水銀鉱脈が点々と連なっていきます。

<松岡>とくに古代の日本では、どうも黄金よりも白銀、水銀のほうが重視されていた感じがしますね。水銀は女性にかかせない白粉の原料にもなっていました。伊勢白粉が有名です。水銀を使い過ぎると危険だということになって明治時代に禁止されましたが、日本人は長らく水銀をいろいろ用いていた。空海も早くに水銀のレアメタル性というか、レアバリューに気がついていたのでしょう。
 どうも密教というのは、こういう希少価値というものに非常に敏感な宗教という気がします。そこが顕教とは違うところで、同じ仏教ではありながら、少数のものに向かって熟したいと志向性が強い。少数のものをもっているかぎり多数をも制することもできるという考え方があったのではないか。これは今日でいうレバリッジですね。とくに弘法大師の初期の感覚にはそういうものが強かったのではないか。たとえば南都六大寺は、すでに当時は絶対多数になっていたわけですが、空海にとってそんなものはおもしろくないんです。それよりも一人で山に入ったほうがいいと考える。一種のドロップアウトですね。
 そうして高野山を発見された。すでに東大寺でも水銀は金メッキ技術として使っていましたが、その鉱脈がどうなっているかといったことはまだよくわかっていなかったと思います。おそらく宇佐とか九州から来た水銀を使っていたのではないか。でも空海は、絶対に畿内に鉱脈があるはずだという確信をもっていたのではないか。そうして、もっと次のレベルの、明日のレベルのレアバリューをめざしていたのではないかと思います。

<長澤>ということは、話を少し膨らませていただくと、レアなもの、あるいはマイナーなもののところから何かを掴んで、やがてビッグ・マジョリティになるという道筋が、空海さんにはとくにありますね。

<松岡>まさにレバリッジのテコの原理です。理論的にも曼陀羅的にも教義的にも、あるいは行法的にも、レアな価値観が大きなものを覆うというレバリッジが効いている。これは、最澄なんかにはちょっとない感覚ですね。

<長澤>ご存じのように、空海さんは四国の今の善通寺市でお生まれになって育って、それで17歳ぐらいで平城京に出て、もうすでに都は長岡京のほうに移った直後でしたけども、いずれにしても大きな都の実力を蓄えたままの平城京の大学寮に入学をして、そこで学ぶわけですけども、あっというまにそのエリートコースをやめちゃうわけですね。
 自分の意思で決断をして、それは中央の朝廷の官僚になってエリートコースを歩む姿を夢見ていたご両親からすると、大学をやめて乞食の姿をして山に入ってしまうなんていう親不孝は、ほんとはありえないわけですけども、その道を選ぶわけですね。常識ではありえない、まったくマイナーでレアな世界に。

<松岡>あえてそういう道を選ぶことに確信をもっていたんでしょう。さきほどから戦後デモクラシーと伝来の仏教とは違うという話を長澤さんがされていますが、戦後民主主義というのはまさに多数決ですね。何でもわかりやすくしようという価値観です。私は、密教が栄えるのは易行じゃないと思うんです。難行だからこそやさしいものも覆えると言うべきです。それがレアなもの、マイナーなものをマジェリティに変える秘法だと思います。
 もちろんいまの時代では多数決も必要です。けれども、密教や、少なくとも私の仕事である「編集」というのは多数決ではだめなんです。本当に大事なことには、どんなに難解と思われようとほかの言葉に代換できないものがある。
 空海の『三教指帰』なんて、中国の難しい言葉ばかりですよ。いまの時代に伝わらないからといって、最初からパラフレーズしたら終わりですよ。たとえば「即身成仏」という言葉が今日の社会に通用しないと思ってしまったとたんに、もう密教は終わってしまう。

<長澤>どうも空海さんは、紀伊半島の中央構造線の横軸と、日本修験の古代から、役行者やなんかが開発した山の宗教の山道、この縦軸をわかっていて、つまりレアの道に何かマジョリティーを見ていたのではないでしょうか。
 それで最後は熊野に行くわけです。熊野は皆さん、世界遺産になってよくご存じの熊野古道で有名ですけども、熊野はいわゆる「擬死再生」(一度死んでよみがえる)信仰、とくに那智大社の観音信仰、さっき松岡さんが言われた補陀洛信仰、その観音さまの浄土「補陀洛」が海の彼方にあって、沖縄ではニライカナイ、つまり「常世」の世界をめざし海に舟を漕ぎ出す、そういう信仰が古代からあって、どうも空海さんは修行時代に山だけではなく、海べりの修行もしたような形跡があります。より難行、よりレアです。

<松岡>室戸岬も行っていますからね。

<長澤>四国八十八ヶ所のお遍路さんは、「遍路」の「遍」は熊野では「辺」、幾何でいう辺、「辺路」は「縁(へり)の路」つまり海べりの行者路を行く行者ですね。で、その辺路が歩く行者路を同じく「辺路」と書いて「へち」「へぢ」といいます。どうも空海さんは、平城京のどこかで知ったんでしょうが、日本の横軸と縦軸のパワースポットラインをすでにわかっていた、そういうことがちょっと松岡さんのお話から思い浮かびました。
 そういう軸関係で考えると、高野山はそのクロスの真ん中にある。松岡さんはたぶん、『空海の夢』だったと思いますけども、吉野、熊野、高野と、「「野」のトライアングル」ということをおっしゃっています。さっきの話に戻っていくわけですけれども、空海さんは自分の最後の事業として密教道場をそこに開くわけですが、そうすると日本のミステリーゾーンの真ん中に東アジアで最新のグローバルスタンダードである密教をもってくるという構想ですか。

<松岡>満を持して高野山に入ったんでしょうね。空海は唐から帰ってからしばらく大宰府にとどまり、ようやく京都に入るんですが、そのときもすぐには中央に進まないで高尾山の神護寺あたり、辺路にしばらくいましたね。そういうことを何度かしながら、東寺と西寺に移り、いよいよ高野山に入る。このような空海の動き方は、日本史を見ていてもちょっと珍しい。清盛の福原とか頼朝の鎌倉開府とか、奥州の藤原純友や将門や義経のようにちょっと変わった人々はいましたが、空海は独創的ですね。

<長澤>さっき、中国や朝鮮半島などからの山岳信仰、山の宗教、そういうお話を述べていただいたわけですけども、日本にも古くから、ほぼ時を同じくするような形で、とくに紀伊半島にそういう山の修行の宗教があったというのが、松岡さんからお話がありましたけれども、松岡さんご自身と高野山のかかわりについて、ちょっとここで話を転じてみたいと思います。
 松岡さんは高野山には何度もご縁があっておいでになって、また高野山のためにいろいろなことでご努力いただいてきましたけれども、あの1986年の高野山サンギィーティという出来事は、ほんとに私どもにもたいへんな反響がありましたけれども、ちょっと思い出話で恐縮ですが、あれは高野山大学の百周年の記念事業で、あれは松長先生の仕掛けでしたか。

<松岡>仕掛け人は松長さんと毎日新聞です。松長さんから「ぜひ高野山に蓮弁を開きたいのでモデレートしてほしい」と頼まれて、「では外人さんを3人ぐらい呼びましょう」ということで、コリン・ウィルソンとライアル・ワトソンとフリッチョフ・カプラを招きました。日本側は私と松長先生だけです。金堂をお借りして、ちょっと不思議な2日間の国際シンポジウムをやりました。

■全仏教史の終着点、高野山

<長澤>きょうは持ってきませんでしたが、あのときの出版が『即身』というタイトルの本で残っておりまして、もう古本屋の書棚にしかありませんが機会がありましたらお求めいただきたいと思います。
 ここでちょっと、私から高野山というものの仏教史上の位置づけについて会場の皆さんにご存じいただきたいことを述べさせていただきますと、仏教の歴史というのは大づかみに言って、紀元前にインドのお釈迦さまでスタートしまして、だいたい10世紀頃、密教というスタイルでインドでは終ってしまいます。イスラムに侵略されてインドの仏教寺院や仏教そのものが破壊されてしまったからです。その間、小乗のアビダルマから、大乗の般若経・法華経・浄土経あるいは護国経典系、中観・唯識の二大思想、そして華厳経系、密教系の仏教と、順次中国に伝わって、中国から日本に伝わってきました。

 ここで空海さんのことを特別に持ち上げる意味ではないんですけれども、日本のとくに名高いお坊さん、宗派を興したようなお上人さんたちのなかで、直接インドの仏教に触れて、インドの仏教の価値世界を日本にもたらしたのは、空海さんしかいないんです。
 それは端的に言うと、空海さんが学んだ密教の経典類は、漢訳であっても内容はほぼインド仏教オリジナルのもので、三論のように、法相のように、禅のように、華厳のように、浄土のように、中国仏教化されていませんでした。さらに、空海さんはインド僧の般若三蔵や牟尼室利三蔵から生のサンスクリットを学んでいます。だから空海さんは、唐の長安で、実はインドの宗教哲学や言語を直接学んだんですね。
 日本仏教の祖師方で、直接インドの思惟方法を知った人はいません。「ノーマクサマンダバザラダン センダマカロシャダ ソワタヤウンタラタカンマン」、これはお不動さまのご真言ですが、サンスクリットです。空海さんはこのサンスクリットが読めて書けて意味がわかりました。長安から帰ってサンスクリット(梵語)の字典をつくったくらいです。
で、中国の漢字に直すときに、中国人の翻訳家はこれをインドの言葉そのもので、漢字を当てはめて音読みにしました。意訳をしませんでした。トランスレートしませんでした。たとえば「オーム(オン、オーン)」なら「オーム」で漢字の「唵」という字を当てました。そういうことからして、空海さんが学んだ密教経典というもののなかには、真言・陀羅尼というのがやたら出てまいります。私たちが護摩を焚いているとき、何を口でつぶやいているかというと、インド言語のご真言を唱えているわけです。
 それはあの当時、サンスクリットができませんと密教は受法できないんです。恵果和尚が長安にきたばかりの空海さんをすぐに後継者として抜擢したのはサンスクリットの語学力、つまり真言・陀羅尼の読み(発音)と記憶、あるいは解読が抜群だったからにちがいありません。
 残念ながら最澄さんは、同時代の空海さんより若干先輩ですけども、中国には行きましたがサンスクリットはできませんでした。中国化された天台学で充分だったんです。鎌倉仏教の栄西さんにしても道元さんにしても同じで、チャイニーズブッディズムの禅を学んだんです。法然さん・親鸞さん・日蓮さんに至ってはインドも中国も未知で、日本国内でしか通じない仏教です。

 何が言いたいかですが、空海さんはインド仏教を理解し中国仏教をわきまえ、仏教思想の本流を時間軸の上でも正しくトレースできた人で、その意味で高野山というのは全仏教史、仏教正史の終着点だということなんです。
 インドのお釈迦さまにはじまって、そのあと部派仏教になって、そのあとのアビダルマ仏教、これを小乗仏教というんですが、そのアビダルマ仏教を批判した大乗仏教、これは般若経系がスタートして般若思想というのが最初に興り、大乗仏教のなかで菩薩とか如来といった救いの仏さまが登場してきて、民衆のため、在家の信者のため、サポーターのためのお経や教えが誕生して、そしてインドの仏教はお釈迦さまの「思弁哲学」から「宗教」へ、救いの宗教・信仰の宗教へ、大乗仏教の時代に変身するわけですが、その救いの部分をもっと強調したのが仏教史最後のステージの密教で、空海さんはその密教を学ばれた、しかも密教以前の仏教思想史をちゃんと視野に入れてです。その意味で、高野山は仏教史の終着点、高野山は仏教史から言うとほんとの本流が流れ着いたところ、終着駅であると、それを言いたかったわけなんです。

<松岡>まったく同感です。密教は仏教全史を負って登場したものですが、まさに空海は仏教史のすべてを引き取ろうとしていますね。

<長澤>私があまりしゃべっていてはいけませんので、また松岡さんへのクエスチョン・タイムにしたいと思います。
 きょうのお話の中心部分に入ってまいりたいと思いますが、空海さんが平城京でのあの大学寮の学生時代、あるいは山に入って、平城京という場、あるいはあの周辺の山々で、東アジアの何をいったい見たり聞いたり知ったのか、というところへ入ってまいりたいと思います。そのへん、少しお話しいただければと思います。

<松岡>それはやはり、空海が四国から平城京の大学寮に出てきて見聞きした1300年前の奈良の風景から始まったのではないかと思います。当時の平城京はそうとうエキゾチックでした。今年の5月に大極殿の復元工事が終わりましたが、あの大極殿の瓦ひとつとっても、まったく大陸風のものです。青年空海の見た平城京は、ほとんど海外に来たかのような風景だったことでしょう。おそらく何人もの異国人、異邦人もいたでしょう。
 また、そこで語られている言葉や読経のボーカリゼーション、使われている漢字のなかに、三国伝来のものやアジア的なものを強く感じたでしょうね。そのなかで、青年空海は、外国語を習うか、まだ誰も読めていないような『金剛頂経』や『大日経』を読もうか、いろいろと考えた。あるいは、東大寺の別当である金鐘寺の良弁が『神変加持経』や『孔雀明王経』のようなものを読んでいると聞いて、「いったいなんだろう」と興味津津になった。そうしたなかで、当時のグローバルスタンダードの本場である長安に行ってみようと思ったのではないか。
 しかも、青年空海は仏教のみならず、留学前に著した『三教指帰』を見ればわかるように、儒・仏・道を一緒に見ようとしていた。これがすごいと思うんですね。奈良に来てあっというまに南都の大学で学ぶことでは足りなくなるほど知識を吸収してしまったわけです。
 そこへもってきて、空海は弥勒も好きですね。おそらくは、新羅の花郎(ファラン)という青年貴族たちが伝えた弥勒信仰に何かハイパーセクシュアルな感覚、官能的なものも感じたのではないか。これは最澄や円珍にはまったくない華やかで都会的センスです。こういったもの一切を感じて、全東洋街道に赴きたくなったのではないでしょうか。

<長澤>少し分けてみますと、奈良の大学で何学科に進んだかというと、空海さんは両親の期待を背に「明経科」という、これはいまの東大の法学部みたいなもので、中央朝廷の官僚養成の学科、エリートコースに進むわけです。ここで学ぶ科目は、中国の「経書」というものですね。さっき松岡さんが言われた儒教の古典である『四書五経』、例えば『論語』『孟子』。そういった類のものから、さっきやはり松岡さんがおっしゃられた「易」ですね。銀座の手相を見るおばあさんが、威張ってぴちゃんぴちゃん芸能人をたたくテレビ番組がありますけども、あの易の元になってる『易経』。そういったものを学ぶわけですけれども、だいたい正面で学んだのが儒教。
 これは当時としてはまったく正統の学問を学んだわけですよね。私なりの勝手な解釈ですけれども、儒・仏の「仏」はやはり大安寺でしょうね。そこで終生の師匠になる勤操さんに出会っていますね。それで「道」教はというと、これが「ヤマ」だと思うんですね。
どうも平城京の周辺には儒・仏・道、東アジアの全部の精神世界、宗教・哲学・思想、そういった精神的な世界のエキスが全部あって、空海さんはそれを全部マスターしたのではないかと。

■空海と渡来系技術集団秦氏のつながり

<松岡>当時の平城京には、秦氏などのたくさんの渡来氏族が、すでに何世代かを越えて定着していましたね。空海はそういう渡来人たちとも交流していたでしょうね。


<長澤>ええ、ちょっと私が調べたところでは、秦氏という、京都に太秦(うずまさ)というところがあって、半跏思惟像の弥勒菩薩を祀る広隆寺で有名ですが、あの太秦の「秦」というのが「はた」ですね。
 この秦氏という氏族が朝鮮半島の南の、さっき松岡さんがおっしゃられた「伽羅(から)」、任那の近くに、済州島のちょっと上のほうの海岸べりのあたりに小さな郡がありまして、伽羅国、あるいは「伽耶(かや)」というところから秦氏が北九州に入ってきたようです。で、いま私が言いました大安寺というお寺は、いま奈良の市内でちょっときびしい境内ですけれども、昔は国際仏教センターといわれるくらいに大変大きなお寺でした。朝鮮半島や大陸からきた渡来僧・帰化僧、あるいはその他の渡来人が集合して国際交流センターになっていました。
 で、そこの大安寺の代表的なお坊さんの勤操さんと出会って、仏道入門の志を立てるという話になってるわけですけれども、この勤操さんが実は秦氏出身です。

<松岡>それは非常に大きな符牒ですよね。

<長澤>で、同じ秦氏でも、最後はさっき言った京都の太秦を本拠地にする、京都の秦になっていくわけですけども、もともとはどうも河内から大和にかけて北九州方面から流れてきて定着した。で、時々、空海さんの生涯をたどっていきますと、久米寺というお寺、現在も橿原神宮駅で降りると間もなくのところに久米寺というお寺がありますけれども、久米寺の東塔の下で『大日経』を発見し、その内容がいまひとつわからないので唐に渡る決心をするという話になるんですが、その久米寺の南、あとでまた出てくるかもしれませんが、「大和の益田池」という灌漑池が当時ありまして、その周辺に渡来人の大集落がありました。いまは近鉄吉野線が通っていて、「明日香」という駅があって、明日香の里がその東側に展開していますけども、その近鉄線の明日香の里と反対側あたりは、一大渡来人の居住地であったようです。
 それが、古文書ですと「大和国高市郡」となっていますけれども、勤操さんはそこから出ておられます。それから私見で恐縮ですけれども、勤操さんとともに空海さんがずっとお世話になった元興寺の護命さんというお坊さん、この方も美濃国(今の愛知県・岐阜県あたり)の秦氏の出身です。この方々とのご縁がずいぶん空海さんをサポートしてくれたんじゃないかなと。

 あと大安寺で思い出されるのは、たぶん仏教僧が、とくにこれはインドから発してますけども、仏教僧として課題学習がありまして、これを「五明」と言います。要するに五つの学問。最初に、「声明」(しょうみょう)という、お坊さんが唱える歌詠のようなお経の唱え方。それから空海さんを考えるときに大事なのは、次の「工巧明」(くぎょうみょう)。技術、ハイテクですね。このなかにひょっとして技術集団秦氏との関連があるかもしれません。

<松岡>おおいに関係あったでしょうね。秦氏は建築からテキスタイルまで、さまざまなイノベーションにかかわっている一族ですからね。それが工巧明に入っていたんでしょうね。

<長澤>ここで何かドッキングしてるような気がします。実は空海さんの故郷の讃岐平野は、水田耕作が早く発達しておりました。この近くに、九州から入って四国に渡った秦の一族が讃岐で定着しています。おそらく、空海さんの実家の佐伯家という豪族の家は広く大きな水田を耕していたと思うんですけれども、秦氏の農業技術、とくに溜め池。讃岐平野にはいっぱい溜め池がありますね。水田用の水利です。そして小さな水路が流れていて、網の目のように田んぼに回っています。これは、秦氏がもたらした農耕技術だというのが有力な説です。
 ですから、空海さんはたぶん少年のころから、育ちのなかで水田や水利とのかかわりで、秦氏という外国からきた氏族がとなりにいて、技術が非常に優れているんだというようなことはよく知っていたのではないかと思います。

<松岡>天文暦法なども、大学で学んだのかもしれませんが、ひょっとしたら秦氏から教わっていたかもしれませんね。

<長澤>唐に渡るとき、東シナ海で空海の乗った遣唐使船は難破して漂流しますが、船を動かす乗員よりも空海さんの方がずっと天体観測にすぐれていたと思われます。あの大海原を漂流すること30数日で、台湾海峡の大陸側の方に漂着するのは偶然ではなかったと思います。
 もう一つ驚くことは、秦氏がもたらした鉱山技術です。さっきも「丹」のことでちょっと触れましたけども、銅の鉱脈を見つけることと、その銅の採掘、それをまた精錬をして、銅という青銅にするとか、あるいは奈良の大仏鋳造の銅を作るとか、そういうのは全部秦氏がやってましたので、これのサポートというのは空海にとっては大きかったのではないかと。
私ばかりおしゃべりしていて恐縮ですが、あとちょっと気がつくのは、「五明」のなかの三番目で不老不死、長生きのための術、「医方明」なんですが、医学・薬学、とくに薬学の方。これはさっき松岡さんのおっしゃられた「丹」と、それから道教の道者たちがよく服用する丹薬ですね。要するに水銀の丸薬ですが、これを飲むと長生きをする、歳をとらないと。この医方明というのもどうも無視できない。あとは「内明」、これは今の言葉でいうと仏教の教理学、基礎学ですね。あと「因明」、これは仏教論理学ですね。

<松岡>あるいは弁証術ですね。『三教指帰』を何度か読みましたけども、あんなに素晴らしくバランスがとれた書き方、構成、シナリオ、ロジック、やっぱり「五明」全部を押さえてないとできないと思いますね。しかもキャラクターを分けながらそれを語りますね。だから大学をドロップアウトしたとはいえ、勤操や大安寺も含めて、あの書き物はみんな混ざっていたという、編集学校がどこかにあったんじゃないかと思うんですね(笑)。

<長澤>いま、空海さんがこの世におられたら編集学校の名誉校長かもしれません。大学をドロップアウトしたというのは、大安寺などで仏教教理や五明を知って、たぶん大学の勉強が物足りなくなっちゃったにちがいありません。

<松岡>おそらく空海はそういった人々と対話をしながら多くのことを学んだのではないかと思います。まったく比べようもないんですけども、私も早稲田大学に入ったときに授業があまりにもつまらなくて、もうやめようかと考えていた時期がありました。そこで思い直して、自分から気になった先生に会いに行き、教室ではなく研究室で話すようにしたんです。じつは古代ギリシアのプラトンが『対話扁』を書いたように、ディアローグという方法は、学びの基本的なモデルなんですね。空海の学習方法にも、これが活きていたように思います。
 『三教指帰』以降の空海の著作を見ていても、途中からまるで相手を変えるように文章を変えてしまいますね。あれは、おそらく空海には対話の相手が見えていたからだと思うんです。

<長澤>ここでちょっと話を転じまして、空海さんと虚空蔵求聞持法あるいは弥勒信仰のこと、そしてそれらと秦氏の関係についてふれておきたいと思います。
空海さんは皆さんがよくご存じのように、虚空蔵菩薩の求聞持法という、虚空蔵菩薩のご真言「ノウボウ アキャシャギャラバヤ オン アリ キャマリ ボリ ソワカ」を何万遍も繰り返し唱える難行をされて、それで室戸岬の洞窟で明星すなわち虚空蔵菩薩のシンボルである金星が空海さんの口に飛び込んできた、そういう超常体験をしたと書き残しております。
 虚空蔵求聞持法という「ヤマ」の難行を空海さんに教えたのは大安寺の勤操さんや戒明さんだという説がありますが、私は元興寺の護命さんだと思っています。行場はおそらく吉野(の比蘇(山)寺)だったでしょう。大安寺の「ヤマ」の行場です。吉野には早くから秦氏が入っていましたし、空海さんより少し時代が早いころ神叡という高僧がいて自然智宗という山岳信仰や虚空蔵求聞持法をよく成就したといわれています。神叡さんは渡来系の人だったとも言われていて秦氏だったかもしれません。
 それからもう一つ。さきほどから出ております「平城遷都千三百年」、松岡さんが中心でかかわっていらっしゃる「弥勒プロジェクト」の「弥勒」。空海さんは、弥勒菩薩を大変に信仰しておられて、亡くなられる直前に(空海さんの場合、亡くなったとか死んだとかっていう言葉を使わず「ご入定」というのですが)弟子たちを集め「私はこれから弥勒菩薩の浄土(兜率天)へ行く、五十六億七千万年ののちにこの世に下生してみなが何をやっているかつぶさに点検する」と遺言(遺誡)しております。虚空蔵菩薩とともに、この弥勒菩薩の信仰ももっていました。

 この二菩薩とのただならぬ関係、それがどういう背景からかというのをちょっと調べてみますと、そこに秦氏のネイティブな信仰が浮上してきます。これを詳しくやってますと長くなりますので、そのへんで止めておきますけれども、実は九州の、さきほど言いました大分県の北部と福岡県の南部の県境のあたりにある英彦山、これも古くから修験の山ですけれども、秦氏が最初に定住した九州の地で、その少し南に宇佐八幡宮がありまして、さきほど松岡さんがおっしゃった秦氏の「八幡神」、日本の八幡信仰のおおもとですけれども、そこが「秦王国」といわれております。
 さっき「花郎(ファラン)」の話を松岡さんがされましたけれども、その「花郎」が虚空蔵菩薩の化身であるとか、弥勒菩薩の化身であるとか、そういう新羅系の山岳信仰がそこにありまして、空海さんがなぜ虚空蔵や弥勒に親近感をもちアクセスするのかという背景はどうも秦氏にあるのではないかと思われます。

 さて、話は世界の中心ともいうべき唐の長安で空海が見たであろう東アジアについて、移ってまいりたいと思います。
 空海さんは長安に留学いたします。当時の留学生は20年間在唐しなければなりませんでしたが、空海さんは長安に入って半年後には密教の師僧になる青龍寺の恵果和尚に巡りあい、そのもとで特別な抜擢をされて密教の秘法を授かり、その密教を日本に広めるためにたった2年足らずで20年在唐の留学生規定を破り日本へ帰ってきてしまいます。これも空海さん独特の突き抜けですが、そのエピソード、いきさつは別としまして、世界の都ともいうべき当時の唐の長安の様子を、今、この時点で縷々語るのもちょっと大変なことですけれども、松岡さんにお話を伺いたいのは、松岡さんがこの本の中でも触れていらっしゃいますが、恵果和尚という空海さんがお世話になったお師匠さんの密教、これを松岡さんはこの本で「密教インターナショナリズム」、いわば国際的密教、インターナショナルであると、たぶんその象徴的なエピソードとしては、空海さんを自分の後継者(正統密教の伝法第八祖)に指名して「お前は早く日本へ帰り、私が伝授した(正統の)密教を日本には広めなさい」と言ったということにも表れていると思いますが、「密教インターナショナリズム」というとらえ方、それをまずちょっとお聞きしてみたいと思います。

■東アジアの国際感覚とデュアルスタンダード

<松岡>仏教学や仏教史ではそういう言葉をあまり使っていないと思うんですが、今でも中国というのは歴史上、どこかを侵略するというわけではないんですね。で、大きな国で、帝国を何度もやってきましたが、どちらかというとモンゴルに侵略され、清朝も阿片戦争以降、欧米列国にどちらかというと蹂躪されてきて、むしろベトナムを属国にするとか、インドシナ半島を属国にするというよりも、華僑のように人が行くんですけれども、そういうどちらかというと侵略的な国ではないと思うんです。実は韓国もそうだと思うんですよ。
 そういうなかで仏教を見てみますと、「ナショナリズムとしての仏教」という側面があるように思うんですね。とくに恵果和尚の前の不空とか一行の時代は、私は不空のものを読んでみて、あ、これは一国仏教主義だな、と思ったんですね。王権のための、国家繁栄のための、本気の仏教だなと。そういう意味では覇道というか、王法仏教主義と言ってもいいと思うんです。
 これはインドの仏教の起源を考えると、さっきは中国の国土の話をしましたけれども、全然ちがうんですね。で、インドというのは気候も風土も種族も言語も信仰も多種多様で、マガダとか、カルカッタとかガンダーラとか、まったくちがう風土があり、その前には土着のドラビダ人のようなものがあって、非常に複雑怪奇、それが渾然としています、混沌といった方がいいかもしれません。そういう意味ではそもそも多神的ですね。ユダヤ教的ではない。それに比べて中国は一皇帝を戴くとか、既存のヴァイローチャナを戴くとか、次の大日如来=マハーヴァイローチャナを戴くように、何か大きなコスモロジーを一国に下ろせる国だなと。
 これに対して恵果和尚は、すでにそのころの長安が、さすがにそれまでの中国とちがって、ネストリウス派のキリスト教も入り、ゾロアスター教も入り、西域のソクド人の文化も入り、胡座も入り、それから楽器の変遷をだいぶ前に見たんですけれども、例えば二胡、弦なら弦も二胡から日本の琵琶になるまでに、長安の時代に、ちょうど空海が行かれた時代に、ものすごいたくさんの弦楽器になってるんですね。で、またそれは日本では正倉院から琵琶になりますけども。
 そういうふうに見てみると、不空・一行・恵果和尚の間というのは、不空から数えると百年ぐらいだと思いますが、そんな長くないんですよ。唐の都長安は一挙に国際都市化しているように思うんです。
 だから青龍寺に恵果和尚がおられたころは、ものすごくインターナショナルだったろうと。そこに韓国から学びにきた、日本から学びにきた、西域からきた、インドからきた、ベトナムからきた、という人たちがいたので、あそこで恵果和尚という人はまさに密教というグローバルスタンダードを東アジアに散らせた人だという、非常に大きな役割をもっておられると思います。
 それって、これから仏教学というより歴史学が明かさなければいけないことで、ちょうどレヴィ・ストロースがブラジルに行って『野生の思考』を書くとか、もうヨーロッパの思考だけでは足りないと言うとか、サイードがエルサレムに生まれてニューヨークへ行き、「ヨーロッパ人は全部東洋をエキゾチックに見すぎていて、西洋中心の辺境と見ているけれども、逆だ」と言ったような、そういう歴史的な役割を恵果和尚が果たしたのかなと。そういう意味も込めて、ちょっと『空海の夢』にはそこまで書いてないところもあるんですけども、感じますね。
 だから、空海はそれのスピリットを受けて、「じゃあ、帰ろう」というんで、もう戻ってきちゃったんじゃないかと思うんですね。

<長澤>私費留学生の身分であった日本の青年僧が、在唐たった数カ月で恵果和尚に認められ、「密教伝法の第八祖」というアジャリの位に抜擢されちゃうわけです。密教の師資相承を駅伝に喩えると八番目のアンカーになったわけですね。
 唐の密教、つまりインド・中国の東洋の思考といいますか、世界の視座といいますか、空海さんはそれを日本にもたらす役目を命じられて、立場が個人から世界へといいますか、ローカルからインターナショナルへと劇的に変化したわけですね。
 恵果和尚が密教すなわち仏教史の本流を東アジアに散らした背景には、和尚の死の35年後に起る武宗の「会昌の廃仏」の予知がありますか。唐の朝廷のなかでは、いつも道術に長けた道士がいて道教の信仰がステイタスをもっていました。廃仏は天子が道教に偏重すると起りますね。
 日本では、明治初期に天皇絶対の中央集権国家を建設するために神道を国家神道とし、そのあおりで廃仏毀釈が起りました。仏教寺院が壊滅的な打撃を受ける事態が起るんですけれども、「会昌の廃仏」を空海さんが予感してたかどうかは別にしましても、私は松岡さんが言われる「密教インターナショナリズム」は、空海さんをして相当に励ましたんではないかと思っているんです。「やってやろうか」と。

<松岡>19世紀のウィーンやゲッチンゲン大学、20世紀に入ってからプリンストン大学もそうでしたが、一国の力を挙げるための学問が、あるとき急激に世界に向かって開花するということは、歴史上何度か起こっています。とくにナチスのような勢力が勃興すると、アインシュタインも誰も彼もみんなアメリカに行って、アメリカでインターナショナルな学問の花を咲かせるということが起こる。やはり廃仏に近い終末的な予感があって、みんな動いたわけですね。
 もうひとつは、かつてのバクダッドやパリやウィーンのように、文化都市が成熟しきって一気に国際都市になるということももちろんあります。石田幹之助先生の『長安の春』という有名な本にあるように、長安もたいへんな世界都市だった。そのなかで恵果と空海という、日中をつなぐ奇跡のような関係が生まれたんだと思いますね。

<長澤>ここで、長安で空海さんが見た東アジア・学んだ東アジアということに入っていきたいと思ってたんですが、時間もだいぶかぎられてきましたので、私の方から少し絞って松岡さんにお伺いしたいと思います。
 まず、松岡さんがよくいわれるデュアルスタンダード、ダブルではなくデュアル。サンスクリットでは「両数」ですが、空海さんの密教、というより恵果和尚の「両部不二」の密教、『金剛頂経』というお経と『大日経』というお経を元にした金剛界と胎蔵界という二つの世界を、恵果和尚は一つのようにして空海さんに教えられました。われわれの用語で「金胎不二」といいますが、松岡さんの言葉を借りると「二つで一つ」だという、これをこの『NARASIA』のなかでも松岡さん書かれています。デュアルスタンダード、東アジアの知恵といいますか、方法といいますか、いかがでしょう。

<松岡>そもそも仏教がなぜインドに生まれたかということのなかに、デュアルスタンダードが潜んでいると思うんですね。
 ごくわかりやすく整理すると、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教などの一神教の世界観では、つねに唯一絶対神であり、メッセージはシングルです。これらの宗教は熱砂の砂漠で生まれたということが関係しているのではないかと思います。つまり右に行ったらオアシスがあるかもしれないが、もしオアシスがなければ死に直面する。生か死かの二者択一を司るものが神の思し召しであるという宗教です。ディシジョンメーキングの宗教なんです。この砂漠の宗教、すなわちユダヤ・キリスト教の上に、今日のアングロサクソン的な契約社会や資本主義的社会がつくられてきました。
 これに対して、仏教や東アジアの多神教的な信仰は、森が生んだ宗教であると言えます。森のなかは、多種多様な恵みとともに危険性も満ち満ちています。向こうへ行ったら蛇がいるかもしれない、こっちに行ったら果物が多いかもしれない、このへんは洪水になるかもしれない、向こうの密林には獣がいるかもしれない。このようなありとあらゆる魑魅魍魎に囲まれたところで育ったものが瞑想の宗教であり、曼陀羅の宗教なんですね。
 こういうところでは、二者択一や強力なリーダーシップよりも、合議や熟慮や保留がきわめて重要になります。また、衆議をどういう座でおこなったか、そこでどういう意見が出たかということも残しておいて、それをインターフェース上に並べでおくということも重視します。曼陀羅というのはまさにそれですね。しかもそれには二つの仕組み、すなわち胎蔵界と金剛界があった。
 空海が長安で学んだ仏教は、インド的なデュアリズムに、さらに中国的なデュアリズムが加わったものだったと思います。というのも、さきほど長澤さんが言われたように、もともとサンスクリット語で書かれた経典を、中国は漢訳化しているからです。天才的な鳩摩羅什や玄奘によって、サンスクリットの陀羅尼の音を残しながら、漢語によって仏教を解釈するということがおこなわれていたわけです。
 弘法大師は、恵果の金胎不二の曼陀羅を持ち帰り、北九州に二年留まってから京都に入るわけですが、その二年間に十三尊曼陀羅とか、いろいろ工夫しています。おそらくインド的、あるいは中国的なデュアルスタンダードをどのように日本に当てはめるか、あるいはまた今ふうに言えばものすごくアイコンの多いシステムですから、悩んだりもしたことでしょう。でも、結局そのまま日本に入れちゃったわけですね。そして七日御修法を宮中にまで持ち込むという大胆不敵なことをおやりになったわけですが、もともとそういうものがアジア全体に潜んでいたのではないかというのが、私のデュアルスタンダード説なんです。
 もちろん、日本にもそのデュアルスタンダードがずっとあった。神仏習合とか和御霊と荒御霊とか、漢字と仮名とか、「あはれ」と「あっぱれ」とか、荒事と和事というように、つねにあった。ちょうど弘法大師の時代、つまり嵯峨天皇時代は、漢風と国風がデュアルスタンダードとなって弘仁貞観という独特の美術様式をつくり上げた時代でもあった。
 さらに延喜・天暦の時代になると延喜式という日本の律令ができますが、それはもう唐の律令とは違い、格と式を分けて完全にデュアルにつくられていました。弘法大師はおそらく、そういったものの先駆者でもあったのではないかと思います。

<長澤>その延長線で松岡さんがよくいわれます「和魂洋才」「和魂漢才」、中国の中華料理から日本のファッションデザインから、そういうことになってくると至る所にデュアルスタンダードが日本の文化には活きていますね。

<松岡>平城京をつくったときに、すでに大極殿とともに常の御所、いわゆる内裏がありました。平安京における紫宸殿と清涼殿の関係に当たるものですね。そのときにフォーマルな政治空間は中国様式、カジュアルな生活空間は和様式でつくられました。中国様式は朱色で瓦の屋根ですが、和様式は高床式で檜皮葺きで白木づくりです。この和漢の様式の切り替えを、平城京も平安京も「旦(あした)」で区切っていました。「旦」というのは夕方のことで、だいたい午後四時ぐらいが一日の始まりになっていたわけです。まさに「彼は誰どき」の薄暮のなかで中国的なものがフワッと消えて、そこから夜に向かって内裏のなかで女房たちが素晴らしい女流文化を開花させていった。
 嵯峨天皇の書にはまさにその和様化があらわれています。空海もそのような平安京の文化圏のなかで独自の書体をつくり、御大師流という今日の書道のなかに継承されているような流れを残していますね。

<長澤>フォーマルとカジュアルのデュアルスタンダード、松岡さんのお話を聞いていて突拍子もないことを思いついたんですが、会場の皆さんに笑っていただいて結構なんですけれども、日本の伝統古典音楽、あるいは舞踊とも言える舞楽や雅楽のステージに、あのEXILEの歌とダンスをコラボできないかなと。これって、デュアルスタンダードにはなりませんか。
 たまたま、天皇陛下と皇后陛下の、あれは在位20年だったですか。二重橋前の広場でEXILEが特別な歌とパフォーマンスをやりましたね。それを天皇皇后両陛下が二重橋の上で提灯をもたれてじっと見ていらっしゃった。あの奥の宮中には賢所があり、日本の神々の代表が鎮座しています。あの夜は宮中の神々がEXILEによる歌舞音曲の奉納、神前芸能をお許しになっているとテレビ画面から直感したんです(笑)。
 突拍子もないことですけど、これからいろいろな神社の神前で、お寺の仏さまの前で、雅楽や舞楽と一緒にEXILEがやっていいんじゃないかと。いかがでしょう。

<松岡>それはもうまったく大丈夫です。是非そうされるべきです。本来、日本の天子や貴族たち、あるいは武家の頭領たちが特別に認める芸能者というのはみんなトランスジェンダーなんです。男でも女でもないものまで行く表現力が重要だった。それは国栖舞、隼人舞のころからずっとそうですし、白拍子も世阿弥もそうですね。だからEXILEもいいんですが、古来の伝統でいうなら、もっと男色的でいいし、もっとエロティックでいいんです(笑)。
 今の日本は官能やエロスを適当なコンプライアンスやセクシュアル・ハラスメント問題で全部切ってしまったために、もう一方のタナトス、死までが抑圧されてしまったんです。仏教が死や他界と関わっている以上は、いまの時代にエロスをもうちょっと引き受けてもいいんじゃないですか。だいたい、いまの若いお坊さんはぜんぜん官能的じゃない。もっとイタリアン・ルックの袈裟とか、アルマーニの袈裟とか(笑)、そういうものも身につけてほしいですね。

<長澤>そうですか、人間の死とエロスですか。大きな命題ですね。密教は仏教として唯一、エロスを正面から見据えているはずですね。ご存じの『理趣経』は、よくセックスを説いたお経などといわれますが、それは俗説でありまして、実はエロスの本質は本来清浄なものだと、これが密教の「空」ですね。人間の俗なるこだわりを超えています。大乗のいう相対的「空」をもっと突き抜けています。真言宗の若手僧侶はもっとカッコよくですね。

<松岡>日本文化における男の色気、男のエロスというものは仏教がつくったものなんですよ。私は今後も小説を書く気はないし、オペラや映画にかかわる機会もないと思いますが、もし誰もやらないのならば、自分でやってみたいなと思っているのが、墨染めのなかの、袈裟のなかのエロスの世界ですね。映画でもオペラでも小説でもいいんですが、もう一度五山のすべてを持ち上げて描いてみたいですね。
 平安の白河法皇以降、後白河、後鳥羽、後醍醐ぐらいまで、そしてそのあとの武将たちが競い合った美意識というのは、ほとんど仏教から取り入れています。なぜ武家が仏教に帰依したかというと、もちろん浄土信仰や死という問題もあったんですが、官能もあったはずなんですね。それがいまの仏教文化からあまりにも失われている。なかなか言い出しにくい話なんですけどね(笑)。

■東アジアの多様と統合

<長澤>もう少し話を進めさせていただきます。もう一つ、空海が身につけた密教のなかに、松岡さんがおっしゃる多様性、あるいは多様性の統合というようなこと、ちょっとさっきのお話とタブるところがあるかと思いますけども、とくに例として一つ挙げるとすれば、大日如来という新しい仏さまを密教が取り入れた、日本の東大寺の大仏は「盧遮那仏」といって、さっきご紹介がありましたように、『華厳経』の世界のご本尊ですが、空海さんはその盧遮那仏を超える「大毘盧遮那仏」を恵果和尚から学んで日本にもってきました。
 これは私の解釈ですけども、松岡さんがよく譬えられる東寺の「立体曼陀羅」の中央に金剛界の大日如来がお座りになっていらっしゃる。で、東寺は嵯峨天皇の命令で密教化するんですけども、新しい平安京の、新しい仏教の拠点になるわけですが、その拠点に空海さんのデザイン設計で立体曼陀羅を造り、その真ん中に大日如来がお座りになっている。これは、古い都平城京の東大寺の盧遮那仏と対比していいのかなと。すなわち国家仏教の統一原理のような役割を大日如来がもたされた、そういう背景があったのかなと思うんです。
 しかし、それよりもお話ししていただきたいと思うのは、空海さんの密教の一つの特徴的側面である「多様と統合」のような、そういう日本的「方法」の側面から、何かお気づきの点がありましたら。

<松岡>おっしゃるように密教、とりわけ空海は、多様性をもって表現することによって統合化していく方法論をもっていたと思います。これが空海密教のすごいところです。
 『十住心論』などは、ずっと第九華厳心まで読んで、いよいよ第十になるともうさっぱりわからない。煙にまかれて五里霧中のなかで、言葉だけがきらきらして終わっていく。それでもう一度読みなおしてみると、第一住心からすでに必要なことはすべて書いてある。
 他の文章を読んでも、やはりそうです。多様性にどんどんステップを進ませていく。まるで「一、二、三、たくさん」というふうに進んでいく。例示を三つで終えるかと思うと、次には十例ほども示されていたり、逆にたくさん例示するとか言いながらひとつもしないで、次の表現形式に切り替えてしまう。
 これは論理の統合性をめざす方法とは違うものなんですね。シンタックス(構文)というか、システムあるいはフォーマット、コンピュータ用語で言うアルゴリズムというか、そういうものと、そこに乗ってるセマンティックス(意味)を合わせる名人だと思います。
 こういう方法は、空海以外にも三浦梅園とか山崎闇斎、宮本武蔵や岡倉天心、あるいは『「いき」の構造』の九鬼周造などにも見られますが、それほど多くはないですね。
 たとえば九鬼周造は、「粋」というものがあるということを言うときに、江戸紫という例を出すんですね。江戸紫は明治の紫と何が違うかということを言いながら、「婀娜な深川、勇みの神田」という言い方と、江戸紫と明治の紫との関係性程度の多様性を出しておきながら、次にそれらは全部「粋」であるというふうにもっていく。ここで突然「神もやらぬ苦しい恋心」というものに転倒してしまうわけです。そうすると「神もやらぬ苦しい恋心」がいちばん粋であるということが、「婀娜な深川、勇みの神田」という例証ごと活きていくんです。そういう解釈が、論理の統合性ではなく、ユーザーの側のレセプターのなかで起こっていくような方法で書かれている。まさに名人芸ですね。けれども、これを徹底的に文章としてやれた人はそう多くない。
 ただし、芸能には多くあります。能の複式夢幻能とか、あるいは文人画とか、歌舞伎とか浄瑠璃とかは、まさに空海的な手法、多様性と統合化をずっとやっています。
 ですから、これからは密教側がもっと九鬼周造を、浄瑠璃を、取りに行ったほうがいいんですね。せっかくの空海密教の多様性と統合性、素晴らしいダイバーシティとインテグレーションの関係を、普通の空海解釈に戻すべきではないと思います。

<長澤>宗派仏教の閉鎖性、内向きの論理が、私たちを世の中の動きや「知」の動きに無関心あるいは鈍感にさせているのと、何より寺を背負ってその維持にあくせくしなければならない、そこのところをせめて私たちのようなグループが突破していかなくてはならないとつくづく思います。
 あと松岡さんが時々譬えられる、今のコンピュータ文化の話で、端末とホストコンピュータのような関係というのは、大日如来のことについて言うと、何か言えそうですか。

<松岡>皆さんもご存じのように、不動明王と大日如来と同じなんですが、それはキャラクタリゼーションを変えてるわけです。アバターなんですよ。大日如来のアバターが不動明王なんですが、そういうことは徹底して密教はやりましたね。
 そのアバターやアルターエゴ、オルタネイティブと言ったほうがいいんですかね。オルタネイティブについては、密教ほどすごい思想とメソッドをもっているとこはないんじゃないでしょうか。

<長澤>互換性ということですね。私はコンピュータをさわるようになって、密教がよりわかりやすくなったという経験者ですが、さっきマンダラをインターフェースというふうにお話をされました。仏さまの絵一つ一つはアイコンだと思いますし、そこにカーソルをもっていってクリックすると別な、例えばパソコン上ですとインターネットのワード検索をすると、ワードクリックで次の情報空間にポンと飛びますよね。
 密教でいう真言というのは、いわばあれはコンピュータのコマンドみたいなものですし、パスワードとも言えるわけですね。異次元の言語なわけです。真言や陀羅尼のことをコンピュータ言語だと思っていただくとわかりやすいんですが、真言というのは普通の生活用語でもありませんし、専門的な学術用語でもありません。言ってみれば、異次元の仏の世界と交信できる言語だとすると、それを唱えることで異次元の情報世界にポーンと飛ぶという、その速さ(速疾性)とか、そういうことをいま思い出しました。
 会場の皆さんでコンピュータなしでは仕事もできない日常をお暮らしの方が多いと思ったんで、いま、ちょっと付け加えさせていただきました。

■空海が書に見た東アジア

<長澤>ところで、きょうの対談のなかでどうしても松岡さんにお聞きしたい、触れていただきたいというのが、書、書法のことです。空海さんは、長安でいろいろなカリグラフィーに出会っていますが、これはちょっと松岡さんじゃないとお話を聞けないので、いかがでしょう。

<松岡>空海は『声字実相義』『吽字義』といった文字論を書いていますが、一文字一文字が意味世界をもつコスモスであるというふうに考えていたと思うんです。そういう真言思想の持ち主だったからこそ、長安で「五筆和尚」と言われるような活躍したという伝説も生まれたんでしょうが、やはり中国の書法を見てショックも受けただろうと思います。
 というのも、日本には六朝の王羲之のような書家は長らくいませんでした。やっと光明皇后が王羲之のまねをして『楽毅論』を書いていますが書はヘタクソです。長屋王も王羲之をまねていますがあまり上手ではない。ところがとつぜん平安時代になると空海、嵯峨天皇、橘逸勢が天才的な書を書くわけです。これはやはり中国の書法に本格的に触れたことが大きかったと思います。
 なかでも空海の書は、ありとあらゆるコスモスに変幻自在です。鳥にも龍にも草にも風にもなりうる。そういうマントラとしての書は、のちにはイスラムにも生まれますし、もちろん中国にも張旭とか懐素とかいった天才がいるんですが、日本語のマントラと日本の書法をもってそこまでやったというのは珍しいですね。
 筆というのは基本的には伏せて仰ぐという動作によって運んでいきます。このあいだに一切のコスモスを抱えていくわけです。もうひとつはプラーナ、呼吸ですね。空海が文字は風気であると言っていますが、マクロコスモスを吸ってミクロの文字に変えていく。そのミクロを読んだ人はやはり風気を通してマクロコスモスに至ることができる。こういう書を残した人というのは、江戸時代の慈雲飲光など何人かいますが、なんといっても大師流が圧倒的ですね。

<長澤>有難うございました。書あるいは書法は、見方によっては空海さんが長安でえた最も豊穣な東アジア文化だったのではないかと思われます。この書のおかげで、空海さんは帰国後嵯峨天皇と親しくなり、レアな辺路(へち)から一気に中央つまりマジョリティーの世界に突き進んだわけです。

そろそろ最後になりますが、空海さんが高野山をお開きになって、間もなく1200年。この開祖のエピソードにはいろいろな話がありますけれども、松岡さんに最後にお聞きしたいのは、空海さんをよく調べたり書かれたりしていらっしゃってきて、空海の密教がいまの私たちに、とくに今日おいでの皆さんに、一つでも二つでもメッセージ化してお伝えしたいようなことがあったら、励ましの意味もこめて、ちょっとお聞かせいただけたらと思います。急なことで恐縮ですけれども。

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■「OS」としての空海密教、日本の「母なるもの」としての空海

<松岡>システムが好きな人はぜひ一回密教をやるといいと思うんですね。それから自分の方針が一つに絞れない人も絶対に密教をやるといい。自分が矛盾していると感じている人も、それから何か自分がやってきたことを着替えたい、乗り換えたい、持ち替えたいと思っている人にも空海密教はぴったりです。こういう人間の移り気のすべてを密教がシステム化しているからです。
 密教というのは、仏教のなかの何か特殊な楼閣のように思われている方もいるかもしれません。あるいは特殊に進化したものと思われているかもしれませんが、じつは日本の中世の社会政治経済体制のなかでは密教こそがOSになっていたんですね。密教が下敷きになって、そこに八宗と呼ばれる八つの宗派が乗った。歴史的には遅くスタートを切って完成した密教が、日本社会のベーシックなOS、すなわちマザーになったというわけです。
 なぜあとからでき上がったものなのにマザーになれるのか。こういう視点から密教システムというものを見ていくのもおもしろいと思います。OSと八宗のことだけ、ちょっとお願いします。

<長澤>そうですね。OSつまりオペレーションソフトがないとアプリケーションが開かない、動かないわけですね。ですから、イメージとしては、空海密教というのはある意味、日本の文化の母、つまりさまざまな日本の文化を起動させるもとの基本ソフトであり、母なる空海。
松岡さんがおっしゃった八宗というのは奈良時代の南都六宗(倶舎・成実・律・三論・法相・華厳宗)に平安時代の天台宗・真言宗を加えたものなんですが、空海さんはこれらの一番後に出てきて『十住心論』で他宗をみな否定即肯定しつつ、自分の空海密教のなかに活かしました。批判して退けるのではなく、批判しながら受け容れていく、それが空海さんの密教OSのすごいところです。

 話が少し飛びますが、皆さんが今日の社会状況のなかで、どこかで「日本」ということを意識する時があると思います。とくに外国人との接触の多い方は、「日本」というものをどう説明するか、うまくできないことが多いかと思います。私たちは戦後民主教育のなかで育って、「日本」というものを学校でも親にも戦争で負けたショックのせいか教えられてきませんでした。「日本」というものを知らず、自分探しとともに、日本探しをされていることがあるのではないかと思います。
 皆さんには「日本」を知る、とくに日本固有の知恵といいますか、松岡さん的に言えば「日本の方法」といいますか、是非空海さんや空海密教を通して「日本」にアクセスしていただきたいのです。それは、対立的なもの・反対的なものを避けたり切り捨てるのではなく、自分のなかに取り入れ許容する、矛盾対立する価値世界の両方を生かす、そうした知恵や「方法」の宝庫だと言えます。
 私も、実は皆さんよりだいぶ年が上ですけども、古今東西の「知」の世界をさまよい続けて空海さんと出会い、空海さんの密教世界を世界思想史のなかに的確に位置づけた世界で最初の本『空海の夢』を書かれた松岡さんに頼って、空海の世界を勉強したわけです。空海さんや空海密教の専門家であるはずの真言僧でありながら、空海さんの世界がわからなかったんです。
 それで教わったことは「母なるもの」、空海さんの密教世界が日本の何千年もかけてきた伝統的な「日本」というものの分母に据えてさしつかえない、そういうお話も伺い、それを松岡さんは「母なる空海」という表現もしたり、マザーと言ったり、そういう母国語の母、あるいは母なる大地の母といったイメージで言ってくださって、私はこれで腑に落ちた、救われたような気がしたわけです。

 きょう、こういう会を催させていただいて私が皆さんにメッセージとして伝えたいことは、もともと何千年も東アジアの一員として、漢字文化圏・儒教文化圏のなかで、私たち日本は生きてきた国ですけれども、戦争で負けて戦勝国アメリカの占領支配を受け、アメリカの軍事力や生活物資の豊かさに圧倒され、奔放な自由と科学的合理主義にもとづいた大衆民主主義に染まり、アメリカに盲従することが平和の道だと、アメリカのポチになることで繁栄できるのなら文句は言うまい、漢字文化圏を忘れてローマ字を習い会話のできない英語を大学受験の主要科目とし、儒教文化圏の美風である家族主義を忘れて年老いた父母を切り捨て、「家付き・カー付き・ババア抜き」の核家族を享受し、結局孤独な高齢者、高齢者の万引き、子供のしつけができないヤンママ・ヤンパパ、そのはてにわが子殺し、そして「葬式は要らない」「戒名無用」です。
 アメリカにあこがれ、アメリカに盲従し、アメリカに文句を言わず、アメリカをOSとすることが、私たちの国にとって個人の人生にとって、かならずしも幸せではないことがわかってきました。いま、日本はもう一度東アジアの一員として軸足を移すべきだと思っております。東アジアは日本の古くからのOSだからです。空海さんもそこにいるからです。

 松岡さんの「編集」になる「日本の方法」は、質量ともにこれまで日本の知識人が誰もなしえなかった日本論です。日本という国や日本人というのは、昔から東アジアの文明に学びながら、こんなにもすぐれた知恵と方法を生み・育て・伝えてきたんだということを教えられます。私は、その松岡さんがいち早く空海さんをそうした目線で見ておられ、一冊の本にまとめてくださったことに、甚く感が動いたわけなんです。
 そこのところをきょう、ちょっと話が飛んで恐縮ですけれども、空海さんのいろいろなことを話してまいりましたけども、今日の帰りに、自分たちが日本人であるという意味について、何かをとらえていただけたなら幸いだと思っております。
 なんか締めくくりの言葉になっちゃったようですけども、そんなような気がしております。松岡さんとはいわゆるマザー、空海、あるいは空海密教というものを、日本の文化の母なるものとしてとらえなおすということを、私たちに示唆していただいてまいりました。OSというのはそれのまた言い換えであります。ちょっと的外れでしたか。

<松岡>いや、その通りです。もうおっしゃる通りです。要するに、なぜコンピュータはエニアックなどの草創期からいくつかのOSが競争してきたにもかかわらず、最終的にすべてマイクロソフトになってしまったのか。最後に生まれたOSにあらゆるソフトを乗せてしまうようになったからですね。
 やっぱりそういうことを仏教や宗教もやるべきなんです。おそらくこのままいくと、アイパッドに乗らないものは使えなくなっていきますよ。だったら、早くアイパッドの中にも両界曼陀羅を入れるべきです。そこを指でタップすれば仏教の全歴史が見えるようにすればいいんですよ。ほとんどのアイコン(尊像)にあれだけの名前がついていて、漢和辞典みたいにもなっているわけですし、ムドラーも決まっているし、色も全部付いている。「アイパッド曼陀羅」を早くつくってしまえばいいんです。

 最後にもう一つだけ加えておきますと、いま仏教の世界では檀家とお寺さんとの関係も変質しつつあります。冒頭に出ましたように、お布施や戒名の意味も誰も説明できなくなっている。けれども、お寺と檀家に潜んでいる問題は、日本の宗教におけるリスクとリターンとオプションの関係として、現在の経済学や社会学の成果を総動員してでも現代的に説明しきるべきだと思うんですね。お坊さんの日々もかつての宗教者の日々とは変貌しているんですから、伝統が失われることを嘆いているばかりではなく、歴史的現在を引き受けていったほうがいいと思います。
 これは仏教界だけではありません。新聞や雑誌などのメディアも、学校や大学教授や教師たちも、みんなそれぞれの領域でもっと引き受けていくべきことです。地域やコミュニティも同じです。ましてや密教にたずさわる皆さんは空海のような素晴らしいモデルをお持ちなんですから、ぜひ他のジャンルに先駆けてやるべきだと思います。

<長澤>こういう視点から、いまの私たちの状況に助言をいただくことはおそらくありませんね。これをどう受け止め現実にどうこなすか、なかなか難行ですが、これは私どもへの励ましのメッセージとして受け止めたいと思います。

 以上、松岡さんに助けていただいて無事に何とかそれらしいことができたんではないかと思いますが、またいろいろな機会に皆さんとお目にかかって勉強させていただけたらと思っております。
 きょうは大勢、満席御礼の状況で有難うございました(拍手)。松岡さん、どうも有難うございました(拍手)。

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