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岡本かの子

秘蔵寳鑰
 今回は佛教で人間の心をこんな風に分類し修養に便利のやうに段階をつけてゐるといふことを述べて見ませう。つまり精神修養の學年制度です。それには幸ひ弘法大師の十住心というふものがあります。此の十住心の分類は弘法大師が創設された眞言宗の密教哲學の方で用ゆるもので他の宗派には又それぞれ違った學年制度がありますが、内容にはそう大差無いやうであります。
 十住心といふのは十種の等級の心といふ程の意味で、大師の著作秘蔵宝鑰の述べられてありまして、此處に載せたのは其の本の始めに十住心を頌で説かれた部分です。これが却って要領がよく摘めるやうに存ぜられます。

第一 異生羝羊心
凡夫狂醉して、吾が非を悟らず。
但し婬食を念ふこと、彼の羝羊の如し。
 異生羝羊心と言ふのは、全然ほうり放したままの凡夫の心です。本能だけに動かされてゐる時の人間の心です。異生とは凡夫といふほどの意味、羝羊は牝羊、丁度それに似た状態の心と言ふ意味です。
之に付いてゐる大師の註釋を讀みますと、「凡夫狂醉して、吾が非を悟らず」。私達誰でも立派な智慧の種子を持ってゐるのを忘れてしまって、末梢的な慾望や競争心に醉ひ狂ひ、而かも一向氣が付かないでゐる。
「但し婬食を念ふこと、彼の羝羊の如し」。但しはひたすらと言ふこと、婬食は必ずしも性慾や食慾のことばかりではなく、虚榮や無理な物慾は皆な婬食、ひたすらそれに憧がれ追ひ求むること丁度あの下等な羊のやうだと言はれてゐるのであります。

第二 愚童持齋心
外の因縁に由って、忽に節食を思ふ。
施心萠動して、穀の縁に遇ふが如し。
 愚童持齋心は、もう少し向上して本能動物の羊から、愚かな子供の程度に昇級しました。「持齋」の齋は齋戒沐浴といふ時使ふ齋戒と似た意味で、多少本能を取締り、勝手な慾望を整調するだけの氣になった人間の心の状態です。
 註釋には「外の因縁に由って、忽に節食を思ふ」。外面からの教育感化によって、これはいけない我儘享樂は、ちと減食節食しなければと思ひ付いた處と言ふ意味です。また「施心萠動して、穀の縁に遇ふが如し」と言ふのは、他人に奉仕する氣持ちも起って、人間らしい道の足を歩み出して來たといふ事です。「穀の縁に」とは穀物の種子が芽を萠すべき縁の雨に遇ひ出したと言ふことです。

第三 嬰童無畏心
外道天に生じて、暫く蘇息を得。
彼の嬰児と犢子との母に隨ふが如し。
 嬰童無畏心は、今度は愚かな子供ではなくて、性質の良い純な赤ん坊の程度に昇級しました。佛教の教育では、愚かな子供より無垢な赤ん坊の方が學年は上級と見えます。
 註釋には「外道天に生じて」、此處で天と言ふのは、精神的の滿足が望みのままに得られる世界を言ひます。例へば天國と言ったやうな所です。そういふ世界が宇宙の何處かに實在してゐるとしてもいいし、又私達現實の生活がそうなって苦痛が無い樂しみばかりの日が續く境遇としてもよろしいです。兎に角そういふ身分になって「暫く蘇息を得」―暫くほっと息を入れます。
 外道とは佛教から見て本筋でない、わき道の教へに導かれた天國としてあります。何故と言ふに、此の境遇へ行くのは樂しみを目的としたもので、そして其處へ行く方法としては多く有為の信仰―つまり有限的の宗教的手段に導かれます。無限的の宗教的手段でないから、其の外道の教への信仰が破れれば忽ちまた逆戻りします。(略)それは丁度「彼の嬰児と犢子との母に隨ふが如し」で赤ん坊や犢が母親や母の牝牛に従って胸に頭を突込んで居る間はちっとも無畏即ち不安が無い、それに似てゐる心と申されたのであります。

第四 唯蘊無我心
唯し法有を解して、我人皆遮す。
羊車の三藏、悉く此句に攝す
 「唯し」はたった一つとか、ただただとか言ふ意味、「法有を解して」は此の宇宙に眞理のみあるのを了解してといふ意味、そして其の眞理とは、どんな眞理であるかといふと、さきに般若心經のときにちょっと説きました人間の存在は五蘊から成立してゐるといふ眞理です。
 ざっともう一度其の説明を繰返してみますと、人間は精神的要素と肉體的要素とが因果律によって假に結合してゐるもので、時々刻々新陳代謝の手を休めない、従って固定不動の自我といふものは無いといふ眞理でありまして、すべて人間の罪悪や苦痛といふものはあまり此の自我に愛着し過ぎるところから起るものでありますから、一面のみを示して、そんな自我なるものは人間に無いぞ、人間はただただ五蘊、即ち精神的要素と肉體的要素と組合せたものに過ぎないぞと説いた法、即ち眞理であります。
(略)此の心の段階は、無我になって執着が無くなったのは、一段と成功した心境の變化です。けれども代りに人間社會は全部非生命的な分子の寄り集まりのやうに思はれ易く、理想も無視し、博愛も無視し、石膏細工と同じ、言はば冷たい物質主義に傾き易くあります。それではまだまだ完全な思想とは言へません。
 偈句の「我人皆遮す」は其の自我の考へも他人といふ考へも皆断ち切ってしまったと言ふ意味で、それからどうかと言ふと、上の文句へ意味が跳ねて「唯し法有を解して」で、ただ一面の眞理あるだけを悟ってと斯うなるのであります。
 法華経の中に、「三車の喩へ」と言って先づ小兒に乗り良い小車から順々に中車大車を與へて行って、終ひには完全無缼の人格の頂上に運ばれやうとします。此の段階の心境は、其の三車の中で一番小さいが乗り良い羊車で運ばれる心境です。それを「羊車の三藏、悉く此句に攝す」と示されました。三藏とは經・律・論を指し、つまり佛教の學修科目です。此處では羊車程度の學修科目に屬してゐるものは、皆「此の句」即ち此の學級年度におさめ入れられてあるといふのです。

第五 抜業因種心
身を十二に修して無明種を抜く。
業生已に除いて無言に果を得。
 「身を十二に修して」の十二は、十二因縁のことで、人間が現實の苦を招く其の根本原因は遠く人間の持ってゐる無明の性、即ち不怜悧な本能から發してゐるとします。そしてその途中の発展の段階を十二に分けて説明をした精神分析と修養法と混ってゐる原始佛教哲學の一つを此處に擧げてあります。
(略)いま此の十二の因縁即ち人生苦痛の運命の組織やコースや性質を知って、而かもこれを避けることになりました。「身を十二に修して」とは其の事です。中にも根本の執念深き不怜悧の素質を突き止めて、心中から拂ひ除けられたと致します。「無明種を抜く」とは其の事です。すると「業生已に除いて」、業生とは氣に染まない運命の生まれることで、其のことも既に無くなってみれば、「無言に果を得」、黙々としてゐても智慧明らかに安心立命は得てしまってゐると言ふ意味です。
然し此の十二因縁を觀察研究して安心立命を得る學科程度は、先に申しました三車の喩への中では、羊車より少し大人の鹿車の乗物で運ばれるところでまだ本當の人格完成ではありません。

第六 他縁大乘心
無縁に非を起して、大悲初めて發る。
幻影に心を觀じて、唯識境を遮す。
 「無縁に非を起して」は、今迄の利己主義の求道と違って、自分とは全く縁の無い他人の上までも憐れみ救ふ氣持を起して來て、といふことです。「大悲初めて發る」は、此の自他平等の見地に立つ求道の精神こそ即ち大乘佛教の原則でありまして、人は此の心の段階に立つに至って、初めて天地と歩みを共にする大慈悲が發せられるといふのであります。
そして此の心の段階の教養思想になってゐるのは何だと申しますと、「幻影に心を觀じて」宇宙の事物は皆、映晝のシーンのやうなもので、單なる幻影に過ぎない。その源を探ねるならば、之を映し出す撮影機の「心」の上に在る―とする思想で、此の理法を研究するのを「觀」ずると申します。
この理法を突き詰めてゆくと「唯識境を遮す」、唯識は唯心と同じことで、人間萬事ただ心の働き一つが要と認められるやうになり、「境」とは周囲の客觀世界の事物で、それ等のものは一切實體が無いものだから、「遮す」乃ち考へから省いてしまふ、切捨ててしまふといふことです。此の佛教課程は唯識論などによる唯心哲學の支配下にある課定です。

第七 覺心不生心
八不に戯を絶ち、一念に空を觀ずれば、
心原空寂にして、無相安樂なり。
 「八不に戯を絶ち」の「八不」は「八不中道」といふ佛教論理學で今此の論理法によって心の實體を突き止めて行きます。八不とは八つの否定法といふ意味で、例へば人間の性質でも、どしどし變るものは絶對の信用性は措けない、さればといって餘り變らな過ぎて大人になっても子供の心の儘のやうなのはまた何時變るか判らない恐れがあるから、これまた信用が措けないといふ風に、心をも、ああでもない斯うでもないと檢討して行きます。「戯」は遊びのもの、浮いているものといふほどの意、そんなものは八不の法で分析して捨てます。すると最後に残るものは「空」といふ事葉で表現される絶對性の上に立つ心的状態になります。
 そこを「一念に空を觀ずれば、心原空寂にして」といふのです。心原は心の源のこと。「無相安樂なり」、無相は姿の無いこと、姿といふやうな固定したものもない心境だから、壊れも消えもせず、此處に大安心大安樂を得るといふことです。

第八 如實一道心(一道無為心)
一如本浄にして、境智倶に融ず。
此の心性を知るを、号して遮那といふ。
 此の心の段階としては前段の空觀より更に立ち上って現象界に意義を認めて行く佛教課程です。成程、宇宙の根源を分析して見れば「空」に歸する「空」なるものこそ實在だ。それはいい、私達はその思想によってもう何一つ捉はれるところも無い心境を保持した。そこで今度は其の自由さに於て再び世の中の現象を取上げて見るとします。するとそれは假りの幻影には違ひないが、幻影である儘に偉大な意義があるではないか。何故ならば私達の現實生活は他ならぬ其の幻影中に於てのみ營まれるからであります。
 斯ういふ風に自心の持つ「空」なる實在の世界と、自分の住む假りの現象界と、此の二つのものが調和し融合してゐる中間の世界、此の三つの世界を時に應じ、ばしょに適して使ひこなして行く、之を空・假・中三諦の法門と言って天台の實相哲學が教ふるところのものです。
 「一如本浄にして」は、此の現象界、實在界、及び中間の調和の世界の三つも、元來本質に於て一味清浄のものであり、決して善惡美醜を爭ふべきものではありません。
 「境智倶に融ず」は、この客觀の世間もそれを知覺判斷する主觀の智慧も實相哲學の上から圓満流通してゐる一つの生命體である。「此の心性を知るを」―此の生命の實性を悟るのを、「号して遮那といふ」。遮那は毘盧遮那即ち大日如來の事で、大日如來の覺りを捉んだといふものだと言ふのであります。

第九 極無自性心
水は自性無し、風に遇うては即ち波たつ。
法界は極に非ず、警を蒙って忽に進む。
 此の段階は前の諸経驗を經、更にこれ等の諸経驗を超えて、宇宙生命は實に婉轉微妙、計るべからず窮むべからざる働きをしてゐるところを體得した心境で、其の自由さを水に譬へて、水に我儘な自性といふものは露ばかりも無く、風といふ機縁に遇ふと忽ち波立つやうに、生命はどんな必要にも早速應じてその勤めを盡す。また生命の世界を法界といふ名を以て説明して、生命の世界はこれで極まり楽付くといふことが無い、呼出しに遇ふと直ぐ何處へでも働きに行く。つまり宇宙の生命と言ふものは生命といふピカピカ光って貴さうな状態では一秒たりとも存在しては居ない。意外な賤しいもの汚ないものにも變幻して、ひたすら大道の進行を計ってゐる。

第十 秘密荘厳心
顯藥は塵を拂ひ、眞言は庫を開く。
秘寳忽に陳して、萬徳即ち證す。
 弘法大師は眞言宗密教を開かれた方でありますから決論をご自分の法門を價値付けるところへ持って來られました。
 顯藥といふのは他の宗派を指すので、それ等の顯教は迷ひを拂ふ藥であり、眞言密教は進んで眞理の庫を開く鑰である。すると其處に貯へてあった秘密の寳は取出され、忽ちに値打を發揮してあらゆる効果が現實に證據立てられるぞ。其の秘寳と言ふのは何だといふと、「即身成仏」―現實生活その儘が覺者ぼ生活であることを教へる密教の教門だ、と大師は言はれるのであります。
(「秘蔵宝鑰」、『総合仏教聖典講話』岡本かの子著、1934)


即身成仏義より

  六大無礙にして常に瑜伽なり
  四種曼荼各々離れず
  三密加持すれば速疾に顯はる
  重々帝網なるを即身と名づく


眞言密教の建て前
 「六大無礙にして」の六大とは、地大・水大・火大・風大・空大の五大と、それに識大と合せた六大のことで、此處に使ってある「大」と言ふ字は、構成要素と言ったやうな意味で、宇宙の實體は此の六つの構成要素の組合せから成立って居るとするのが密教の建て前です。地大は「堅さ」、水大は「濕い」、火大は「物をこなす力」、風大は「動き」、空大は「自由さ」を備えていることによって、その存在を認められます。以上五大は宇宙の物質界の構成要素です。あと一つの識大と言ふのは生物の持つ精神界の構成要素で、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿梨耶識。無垢識の九識に分けます。
 斯んな風に物質的な五大と、精神的な識大と、合せて六つの構成要素が宇宙を支へて居るとしてありますが、然しそれは強ひて分類して認めるまでで、その六大の眞實の存在状態は互いに融け合ひ、互いに通じ合って、いささかも矛盾撞着が無い。ただただ渾然油然たる一大生命態であります。此の様子を「六大無礙にして常に瑜伽なり」と大師は言はれたのです。無礙は妨げ無く障りないこと、瑜伽は梵語のYogaの音譯で相應と言ふ意味、即ち合致渾一してる状態です。此の宇宙一大生命を人格化して、大日如來と申します。

 以上は宇宙生命の内容に就いての説明でありますが、今度はその生命が、どういふ風に此の現象世界に現はれてゐるかと申しますと、此處に「四種曼荼」といふことが説かれてあります。曼荼は曼荼羅の略で、梵語のmandalaの音譯、宗教的な分類的、組織的、象徴的に圖繪で現したもの、或は文字で現したものなど四種類の曼荼羅がありますが、此處で大師が使はれて居る意味は「宇宙現象の全部」といふことです。
 その一々の現象は、此の世の中の人間性として現はれ行はれるあらゆる智・情・意と其の對稱となりものだが、それは迷ふ人が扱へば迷ひとなり惡となりますけれども、覺者が
扱へば悉く宇宙の大生命の「派出」、即ち大日如來の眷属となって生命を活かし切る働きに参與する。例へば人間の心の中の怒りと言ふものも、ただ我武者羅な怒りは人を迷惑さす許りですが、一度自分や他人の惡事に向って注がれる時は貴重な怒りとなります。それを、外に忿怒の相を表し内心に慈悲を蓄へて居る不動明王とか降三世明王とかの姿に於て表現してあります。つまり曼荼羅は善用された人間性の標本のやうなものです。
 大師が説かれてゐるのをもう一度説明しますと、此の複雑な人生の種々相や、現實の諸現象が、宇宙生命に繫がって活きてゐる點をよく見究めて見よ。するとこれ等の曼荼羅も、色々の姿形をしながら、その儘でおのおの根本生命の媒介に依って互に手を繫ぎ合って、一大生命の一部分となって居るではないか、其處のところを「各々離れず」と示されたのであります。

理想と現實の人格の一致完全
 「三密加持すれば」の三密と言ふのは、身密・語密・意密の三つのことで、身體の備えを如來の教へ通りにし、口に如來の教へられた言葉を唱へ、心に如來の姿を觀ずるのです。即ち人間の肉體精神の肝要な部分を如來の教へられた形式で押へ、契合させるのです。これを「密」と言ひます。すると「形式即ち内容」の理法によって、其處に「加持すれば」即ち補助し救けると言ふ意味で、自分の内に存在する佛性の發露の力に依り、また宇宙生命の引發が加へられて、「速疾に顯はる」、すみやかに顯はれる。
 何がすみやかに顯はれるかと言ふと、前述した六大が圓融し、四種曼荼羅が相繫がって居ること、宇宙の大生命即ち大日如來の覺體は遠く離れた向ふのものではなく、三密加持しつつある私達の凡心凡身が、大日如來の覺體と一致點を見出す、と言ふ覺證が心上にすみやかに顯はれる。眼を開けば宇宙の存在何一つ自分の生命と繫がりを持たぬものは無い。「重々」は複雑なる現象が繫がって、一條の生命になることの形容詞。「帝網なるを」は、前第四講に説いた華嚴經の帝釋網、生命の繫がりを網の目で形容したもの。その生命そのままわが身なのを「即身と名づく」、此の状態こそ「即身」すなわち理想の完全人格に、現實の私達の人格が一致した時であると言はれたのであります。
 右のうちで一番此の宗教として實踐的に大事なところは、三密の中の語密です。密教の教義によると、諸佛諸尊は衆生救濟の爲めに必らず特殊の誓願を起され、その誓願はまた眞言と言って先づ第一に救濟の合言葉となる象徴的言語を衆生に與へられます。皆梵語のもので例へば、不動明王の眞言はナマクサマンタバサラタンセンダ・・・といった具合のものです。これには非常に悉しい聲字哲學の組織があります。
(「即身成仏義より」、『総合仏教聖典講話』岡本かの子著、1934)


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【参考文献】               
★『母の手紙-母かの子・父一平への追想』(岡本太郎、チクマ秀版社、1979年) 
★『一平・かの子-心に生きる凄い父母』(岡本太郎、チクマ秀版社、1995年) 

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