エンサイクロメディア空海 21世紀を生きる<空海する>知恵と方法のネット誌

空海の生涯

トップページ > 空海の生涯 > 空海の方法と日本 > 054 密教様式による初の堂宇設計

054 密教様式による初の堂宇設計

 興福寺は朝廷貴族の筆頭藤原氏一門の氏寺である。私寺であって官大寺であった。南都法相の論学をもってその法統とする。その故に、北円堂にはインド大乗仏教瑜伽行派(唯識派)の論師として名をはせた無著(むぢゃく)・世親(せしん)兄弟の尊像が祀られている。

life_054_img-01.jpg
life_054_img-02.jpg
life_054_img-03.jpg

 その北円堂に対する南円堂の設計監督を空海が行っている。空海が手がけた初の密教様式の建築であった。北円堂の唯識、南円堂の密教、当時の南都仏教の実際を象徴している。

 藤原の姓は、中臣鎌足が大化改新の勲功により天智天皇から賜った氏姓「藤原朝臣」に由来する。源・平・藤・橘の「四姓」の一つである。
 「四姓」とは、天皇から賜姓された四つの氏姓をいい、「源(みなもと、げん)」・「平(たいら、ぺい)」・「藤原(ふじわら、とう)」・「橘(たちばな、きつ)」をいう。
 また「朝臣」とは、天武天皇が制定した位姓「八色の姓(やくさのかばね)」すなわち「真人(まひと)」・「朝臣(あそみ・あそん)」・「宿禰(すくね)」・「忌寸(いみき)」・「道師(みちのし)」・「臣(おみ)」・「連(むらじ)」・「稲置(いなぎ)」のうちの一つである。
 源・平・橘は皇族から臣籍へ降下する際に賜姓され、藤原はもと中臣氏で鎌足・不比等親子に賜姓された。
 鎌足の死後、藤原氏は一時衰亡の危機もあったが、不比等の時代以降、藤原氏は権勢を欲しいままにし、藤原氏か皇族出身の源・平・橘の姓でなければ官位につけないといわれた。のち、摂政・太政大臣・右大臣・左大臣などの重職は藤原氏のさらに一部の一族の独占するところとなった(五摂家・清華家など)。
 不比等が世を去ると、その男子の4人がそれぞれ藤原南家・藤原北家・藤原式家・藤原京家の四家を興した。このうち南円堂建立の願主となったのは、二男藤原房前を祖とする藤原北家藤原内麻呂であった。

 その子の冬嗣は、「薬子の乱」の折嵯峨天皇の側近(蔵人)の一人として頭角をあらわし、乱平定に功をあげていた。冬嗣は当然、嵯峨から空海の人となりや事蹟について聞いていたはずである。父が空海に頼んだ南円堂建立の事業を自分が継続して行う縁に恵まれたことを大いに喜んだにちがいない。

life_054_img-04.jpg
life_054_img-05.jpg

 興福寺南円堂は弘仁4年(813)に完成した。冬嗣が父内麻呂の追善供養のために建てたかっこうになった。基壇の造成の際には、地神を鎮めるため和同開珎や隆平永宝の銅銭をまいた。また空海自身が密教式鎮壇作法を行っている。堂内には、講堂から移したご本尊不空羂索観世音菩薩のほか、四天王真言八祖が祀られた。
 南円堂完成のあと、藤原北家の力は益々強くなり、内麻呂・冬嗣ゆかりの南円堂は興福寺のなかでも特殊な位置を占めるようになった。空海は帰国後ほどなくして、京の和気氏と南都の藤原氏という朝廷内で勢力拮抗する貴族の一門を共に味方につけたことがこの事例からもわかる。吉運であった。

Copyright © 2009-2024 MIKKYO 21 FORUM all rights reserved.