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049 平安京における密教弘法

 大同4年(809)の春頃であったろう、和泉国司に対し「空海を京に住まわしめよ」との太政官符が下る。

 同年(809)7月、空海は満を持して京の高雄山寺に入った。高雄山寺は和気氏の私寺であった。和気氏は清麻呂最澄(天台宗)の外護者となって以来、次代の広世もこの寺を最澄に任せ、伯母の広虫(清麻呂の姉、出家名「法均」)の追善法会も最澄に頼んで行ったくらいであった。空海はその山に迎えられたのである。最澄は自分の立場の変化をを察知し、進んで空海に住持の座を譲ったのであろう。

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和気氏御廟
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空海の住房跡、現在大師堂

 この人事を根回ししたのは、おそらく勤操東大寺をはじめとする南都仏教勢力の宿老たちであった。和気氏の私寺の住職人事であるにもかかわらず、そのレベルを越え国家仏教の宿老たちが介入したに相違ない。
 和気氏は当時平安京の朝廷内でも権勢を誇れる立場にあった。清麻呂は孝謙天皇時代の道鏡事件で一度流罪になったが孝謙の没後復権し、桓武の信認をえた。清麻呂は日頃から、南都の仏教勢力の政治介入に手を焼いていた桓武に遷都を奏上し、平安京の造営にあたっては大夫の重責を担った。南都の国家仏教勢力とその背後にいる藤原氏一門にとり、清麻呂は不愉快極まりないはずの人物であった。最澄への不満もこの辺からきていたかもしれない。
 和気氏は、広世が亡くなり、その弟の五男真綱や六男仲世の時代になっていた。司馬遼太郎は奈良の宿老たちが真綱に空海の高雄山寺晋住を談判したというが、事はそんなに単純ではなかっただろう。 
 私の推測では、たぶん勤操が空海をよく知る藤原葛野麻呂を動かした。葛野麻呂は藤原氏の一門で、清麻呂の娘(真綱・仲世の姉)を妻にしていた。この時期中納言になり、正三位にも上り、天皇の近臣の地位にあった。空海が正統密教の第8祖となって短時日で帰国したことに驚きつつも、無事に帰ったことを誰よりも喜んだのは彼であった。唐土福州に上陸する際彼の窮地を救ったのは空海であった。彼は、義弟たちに空海の文章と唐語の異能を熱く語って聞かせ、最澄に代って高雄山寺に迎えるべきであり、空海を外護することで南都の旧勢力とも融和できるであろうことを説いたと思われる。

 最澄はこの事態を甘受した。
 高階判官の手を経て空海が朝廷に提出した「請来目録」を一覧して、空海が長安から持ち帰った密教の経軌・論疏章・真言讃・曼荼羅・法具・絵像等のただならぬ質量に最もおどろき、かつショックを受けたのは密教受法の経験をもつ最澄であった。
 最澄は空海と同じ第十六次遣唐使船で唐に渡り、天台山での修学の帰途たまたま越州峰山道場龍興寺順暁から密法を受法した。最澄が提出した「将来目録」のなかに密教があることを大いによろこんだ桓武に命じられるまま、延暦24年(805)の9月、最澄はこの高雄山寺で国家的行事として日本最初の潅頂を行ったものの、自分の密教が正統密教なのか否か不安をおぼえるなか、空海の「請来目録」を見て、さらに空海が正統密教の第8祖となって帰ってきたことを聞き、自分の密教と高雄山寺での国家潅頂の不備をすぐ察したに相違ない。

 最澄は、自分の未学未修の部分を率直に認め、下臈である空海に対して慇懃な態度で臨むほどに生真面目な仁者であった。高雄山寺をさっさと明け渡したのは、おそらく空海の密教の本物さを一番よくわかったからであり、自分の密教の不備を補うのに格好の依止師が現れたとて、むしろ歓迎をすべきと判断したからであろう。事実、最澄は高雄山寺に空海が入るのを待ちかねていたように、翌8月にはもう密教経典12部55巻の借覧を申し出ている。

 さらに弘仁3年(812)10月、最澄は直々に乙訓寺の空海を訪ね、金胎両部の潅頂受法を願い出る。
 有名な高雄潅頂は、11月15日に金剛界が行われ、最澄と和気真綱・仲世の三人が入壇を許され、翌12月14日に胎蔵界が行われ、その時に空海が記録したといわれている「潅頂暦名」には、延暦寺ではなく興福寺の僧として最澄の名が見える。最澄とともに参加した泰範は元興寺の僧としての身分で受法している。

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 ただこの時の潅頂は、「受明潅頂」(学法潅頂)という密教入門者のための略式の潅頂であり、正式な密教伝法のための「伝法潅頂」ではなかった。空海は長安の青龍寺恵果和尚が自分にしてくれた通りの手順に従ったまでであった。最澄はおそらく潅頂というものをよく知らなかったのではないか。終ってから、受法した潅頂が自分が望んだ阿闍梨位をえるための潅頂ではなかったことを知り、途方にくれて「私が正式な潅頂(伝法潅頂)を受けられるのは幾月かかるのでしょうか」と空海に聞くと、空海は「3年かかります」と答えたという。この時の受法者は皆、密教修行を経験していない僧俗、しかも仏道に入門したばかりの童子が多数加わっていたことからも正式な「伝法潅頂」ではなかったことは明らかである。
「伝法潅頂」は、一定の密教修行を成満した者でなければ許されない。空海の当時は修行の成満以外にも密教の根機に富むことが条件であったことも考えられ、安易に受法がかなうものではない。

 空海の帰国、そして高雄山寺入りは最澄の身と仏教にも大きな影響を与えたのである。

 空海の聖跡として重要な位置にある高雄山寺(現在、神護寺)ではあるが、本堂内に展示されている「潅頂暦名」(写し)や境内伽藍の隅にある往時空海の住房であった大師堂など、空海の事蹟として重要なものに関心を寄せる観光客は皆無に等しい。この寺が日本密教発祥の地であることを改めて銘記しておきたい。
 高雄山の一帯は「三尾めぐり」といわれる京の紅葉の名所で毎年11月下旬の紅葉の時期になると観光客でにぎわう。となりが(槇尾山)西明寺、その奥に(栂尾山)高山寺がある。その高山寺を再興した明恵上人(高弁)は、奈良東大寺において華厳を学んだほかに仁和寺真言密教も修学し、鎌倉時代初期の顕密諸宗の復興につとめながら念仏の流行に対抗した。また建仁寺において臨済禅も修め、40年にも及ぶ観行中の夢想をつづった『夢記』ほかを著している。

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高山寺、明恵上人御廟
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西明寺

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