エンサイクロメディア空海 21世紀を生きる<空海する>知恵と方法のネット誌

空海の生涯

トップページ > 空海の生涯 > 空海の方法と日本 > 046 虚シク往ヒテ實チテ帰ル

046 虚シク往ヒテ實チテ帰ル

 五島列島福江島の玉之浦町にある「西の高野山」大宝寺は、大同元年(807)、空海が帰国後最初に立ち寄った寺で、それを機にそれまで三論宗であったのを真言宗に改めたといわれている。伝えでは、空海の乗った高階真人遠成の船はこの大宝寺の前に広がる大宝寺浜に入ったのだという。
 それが史実かどうかは別として、高階判官の船は8月も終る頃明州を出航し、当時使われていた「南路」をとり、秋風の逆風に難儀しながらも10日から2週間程度で東シナ海を渡り、9月半ばには福江島の玉之浦に着いたものと思われる。

life_046_img-01.jpg
life_046_img-02.jpg

 船は当然ながらしばし休む。帰着地の「那ノ津」はまだまだ遠く、水や食糧の補給も必要であったろう。5日から1週間そこで停泊したであろうか。船はまた海に出て列島の遣唐使船が寄港する津浦に出入りし、「那ノ津」に入ったのは10月早々だったであろう。

 空海は、無事大宰府に帰還した。
 帰国直後、大使高階真人遠成たちの一行は「那ノ津」近くの大宰府鴻臚館に留まりしばしの休憩をとっていたが、やがて京に向けて出発をする。
 しかし、空海は一人太宰府に残らなければならない。唐にあって20年間勉学にいそしむという留学生の定めを破りたった2年半で勝手に帰国したことは、空海の長安での偉業がいかに大きなものであったにせよ国禁を犯したことには変わりがなかった。空海は、その違背行為について朝廷の許しを乞わなければならなかった。

 10月22日、空海は朝廷に許しを乞う状をしたため、長安から持ち帰った新訳旧訳の経軌142部247巻・梵字真言讃等42部44巻・論疏章等32部170巻(合計、216部461巻)及び曼荼羅・法具・絵像・恵果和尚からの付嘱物などの目録(「請来目録」)とともに京に帰る高階判官に託した。許しを乞う状には、留学生期間を破り勝手に帰国した罪は死をもってしても償えるものではないが、普通ではえることのできない有難い法を生きて持ち帰ったことを密かに喜んでいると言い、自分が請来したえ難い法は国禁をはるかにしのぐ価値があると弁明している。

 朝廷に差し出された「請来目録」はほどなく、空海が言うほどにえ難きものかどうかを吟味するため、先に密教をもたらし高雄山寺国家潅頂を行った内供奉十禅師最澄によって点検されることになったであろう。最澄がそれを一覧してただならぬショックに見舞われたであろうことは想像に難くない。

 最澄は、還学生(短期国費留学生)として空海と同じ第十六次遣唐使船で唐に渡り、天台山智顗天台教学を学び在唐一年足らずで帰国した。天台山の帰途、越州峰山道場龍興寺順暁に従い不完全ながら密法を受法し、その時にえた密典類を「将来目録」として朝廷に報告をした。桓武天皇は大いに喜び、早速最澄に勅し高雄山寺において国家潅頂を行わせ、自らも受法していた。この潅頂は明らかに「受命潅頂」であった。これは、本来天台法華一乗と大乗菩薩戒の戒壇をもって新しい国家仏教たらんとしていた最澄にとって本旨ではなかった。
 最澄にとって密教は天台宗が国家仏教たるべき一部分にしか過ぎないはずであったが、あまりの桓武の喜びようにそれは言えないジレンマであった。そこに私費留学生の身分だった空海が長安で短期間に偉業をなしとげ、正統密教の伝法第8祖の位をえ、しかも自分の知らない密典をたくさん携えて帰国したのである。最澄は空海の「請来目録」を見て即座に自分の密教の不備を洞察し、高雄山寺で行った国家潅頂に落度があったかどうか気にせずにはいられなかったであろう。

 大宰府鴻臚館にいる空海のもとには時折、京や奈良からの情報がもたらされていたであろう。空海は高階判官に託した「請来目録」が都でどのような反響を呼んでいるか早く知りたかった。国家潅頂までやったという最澄の反応にも強い関心をもっていたに相違ない。
この鴻臚館にいる間、空海は持ち帰った経軌類の整理に精を出す一方密法の流布につながる世事にも早速意を用いた。
 年が替って大同2年(807)2月、日頃何かと世話になっている副官田中少弐の母の1周忌法要のために願文を表し、千手観音をはじめとする「十三尊曼荼羅」を画き『般若心経』『法華経』を写経して供養の品に供え、少弐自身には自ら造った梵漢(唐)対照『千手(観音)儀軌』を贈った。

 「請来目録」の提出から半年後の同年4月29日、大宰府政庁は大同4年(809)のはじめまで隣の観世音寺に留まるよう空海に命じた。約1年半の辛抱であった。
 空海は、この命令に従い、大量の請来品とともに観世音寺の「客僧房」に移り、そこに腰を落ち着けた。この寺の住持とは入唐の直前何度か面会し知遇をえていた。住持は、一昨年の夏留学生として第十六次遣唐使船に乗って出て行った空海が、密教という新仏教の第8祖の位をえて帰ってきたことに大いに驚きながら歓迎したであろう。
 ここでの1年半の足止めは、空海にとり師恵果の遺誡に従い受法した密法をこの東国に早く弘める意味では長過ぎるのだが、この国の国家仏教や国家事情をふまえ空海独自の密教を創案するためにはちょうどよい時間であった。何よりも都とはちがい煩わしい人間関係も雑用もなく、持ち帰った請来品の山にうずもれて好きなだけ勉強に打ち込めるからである。

life_046_img-03.jpg
life_046_img-04.jpg

 観世音寺の「客僧房」に落ち着いた空海は、請来品の山のなかから『略出念誦経』『三巻本教王経』をえらび出し『金剛頂経』の復習をはじめたであろう。そしてこの『金剛頂経』系の密教にも本尊大日とほかの如来・菩薩等との関係や「一切如来」といった概念に「一即多」「多即一」の華厳的思想が生きていることをすぐに読みとった。
 一方空海の脳裡では、長安で恵果から受法した密教を日本でどう展開するか、密教と華厳をどう位置づけ、三論法相などの南都諸宗をどう見るか、この時期に空海密教の芯となる「顕教」「密教」の教相判択が構想されはじまっていたと思われる。

Copyright © 2009-2024 MIKKYO 21 FORUM all rights reserved.