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第5章 「諸法」のヴィジョン

第1節  お釈迦さまの「説法」とは? 

 お釈迦さまが最初に説法をされたインドのサールナートは「初転法輪の聖地」として知られています。この「説法」という言葉は日常語として「教えを説く」といったほどの意味で使われていますが、厳密にいいますと、「説法」にはもっと限定された意味があります。 

 お釈迦さまの成道において初めて顕現した瞑想上のヴィジョンが法です。それはあまりにも「難解で世間の人には見難い」ものであるとして、お釈迦さまも最初は人々に説くことをためらわれました。しかし、梵天の「世尊よ、どうか法を説きたまえ! きっとわかる者もいるであろうから」という懇請を三度受け、ようやく説くことを決意された。それほどのものです。 

 しかも、それは「現見さるべきもの、時をまたないもの、来たり見よと言い得るもの、涅槃に導くもの、智者によって各自に知らるべきもの」(『増支部』)であり、そのような「法」が説かれるということは稀有のことで、まさしくお釈迦さまによって初めてこの世に示されたのでした。 
 つまり、お釈迦さまの成道において初めて顕わになった特殊な高度の瞑想上のヴィジョンが説き示されたということ。それが「説法」という言葉の厳密な意味です。なお、それ(瞑想上のヴィジョン)はいくつもあるので、しばしば複数形で「諸法」と呼ばれます。 

 般若心経で問題にしているのも、実はまったく同じその「諸法」なのです。前回説明しました「諸法空相...」の次の文に移る前に、律蔵『大品』の記述にそって、成道と初転法輪の内容について簡単に述べておく必要があるでしょう。


第2節  成道と初転法輪 

 お釈迦さまの成道において顕わになった「諸法」とは、律蔵『大品』によると、具体的には十二因縁の各項目をさします。  人はなぜ苦しむのか。お釈迦さまは菩提樹の下で、その原因を追求し、苦の元になる因果系列をつきとめます。伝統的な漢訳語で順に列挙しますと、次のとおりです。 

 無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死(愁・悲・苦・憂・悩) 

 これを「十二因縁」または「十二支縁起」といいます。先行する支分が因となって後続するものが生起すると観察することを縁起の順観といい、先行する支分の滅が因となって後続するものが滅尽すると観察することを縁起の逆観といいます。 

 このように観察された諸法が織りなす因果系列の仕組みを世間のレベルで解釈することはできません。ただ一つ確実なのは、要するに思いのままにならない人間存在の苦の根源は無明であり、無明が滅すれば苦も滅すると、お釈迦さまは看破されたのです。 
 次に初転法輪において、お釈迦さまは五人の比丘にまず「中道」を説きます。愛欲にふけることと、苦行で身をさいなむこと、この両極端を離れて中道を実践しなさいと、実践的な教えが示されます。 

 中道とは次の「八正道」です。  

 正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定 

 その前提として、この世の中には「四つの尊ぶべき理(ことわり)(四聖諦)」があり、それを見極めなければならないと説かれます。
第一番目は、「一切は苦」という理(ことわり)。具体的にいうと、〈生〉〈老〉〈病〉〈死〉の「四苦」に、〈愛別離苦〉〈怨憎会苦〉〈求不得苦〉〈五取蘊苦〉を加えた「八苦」です。これを「苦聖諦」といいます。 

第二番目は、苦の原因をさかのぼれば渇愛(かつあい)(むさぼる欲望)にゆきつくという 理(ことわり)。苦集聖諦といいます。これは十二因縁の順観の一部です。「集」とは各支(諸法)が集まることをさすと考えてよいでしょう。 

第三番目は、その渇愛を滅すれば苦も消滅するという理(ことわり)。苦滅聖諦といいます。これは十二因縁の逆観にあたります。 

第四番目は、苦を滅するために「八つの正しい道」があるという理(ことわり)。先にあげた八正道のことですが、これを苦滅道聖諦といいます。

 以上の〈苦・集・滅・道〉という「四つの理(ことわり)」が判明したとき、「私は智が生じ、光明が生じた」と、お釈迦さまはみずからの経験を語ります。この説法により、五比丘は相次いで「法の眼」が生じ、「法を見、法を得、法を知り、法に悟入」したと、律蔵『大品』は伝えます。最後は、色受想行識の五蘊についての説法で締めくくられます。 

 ちなみに、ここでなぜ五蘊かといいますと、五蘊が諸法の基本となるからです。十二因縁も実は「苦」の根源を追求した因果の系列において観察された諸法にほかなりませんし、「集」は十二因縁の各支の集まりそのものであり、「滅」と「道」はその順逆を観察して智に至る瞑想のプロセスそのものだと考えられます。 

 以上、律蔵『大品』が伝える成道と初転法輪の内容をざっと見てきましたが、この仏教の基本教理というべき諸事項が、驚くべきことに、ほぼそっくり否定されたかたちで般若心経でとりあげられていることに、賢明な読者はもはやお気づきでしょう。  


第3節  五蘊・十二処・十八界 


 この故に空の中には、色もなく、受想行識もなく、眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もなく、眼界もなく、乃至、意識界もない。 


   インドでは、法を分析し研究するアビダルマの学派がいくつも生まれたということを前回に述べました。諸法はさまざまな仕方で分類され、説一切有部という学派で最終的には「五位(ごい)七十五法」といわれる精緻な体系にまとめられました。 

 それは要するに、〈私〉とは何か、という問いに答えたもので、結論としていうと、〈私〉という実体はどこにもない。分析して数えあげれば七十五の諸法の仮の集合にすぎない、というものでした。 
 般若心経のこの段落では、「五位七十五法」に分類される以前の「五蘊・十二処・十八界」という分類法がとりあげられています。「処」も「界」も、サンスクリット語の原意から〈私〉の根拠という意味で理解してよいでしょう。 

 五蘊についてはすでに説明しました。十二処とは、人間にそなわった視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚の五感と、意識という六つの感覚機能(六根または六内処)と、これらそれぞれの感覚がとらえる六つの対象(六境または六外処)を合わせたものです。 
 列挙すると、眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処と、色処・声処・香処・味処・触処・法処の十二です。心経本文で「眼耳鼻舌身意もなく」と「色声香味触法もなく」といっているところが十二処にあたります。 

 十八界とは、十二処をそのままにして、それに六つの感覚機能とその対象とを縁として生じたそれぞれの識別範囲の六つを加えたものです。全部列挙すると、眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意界の六つと、色界・声界・香界・味界・触界・法界の六つと、眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界の六つを合わせた十八です。心経本文で「眼界もなく、乃至、意 識界もない」といっているところが十八界にあたります。(「乃至」は中間の項目を省略するという意味です。) 
 結局のところ、十二処は五蘊を細分化したものであり、十八界はそれをさらに細分化したものといえるでしょう。 

 これらの元をただせば、お釈迦さまの成道において顕現した「諸法」であり、また初転法輪で説き示された貴重この上ないヴィジョンです。後世の仏弟子たちがそれを煩瑣にすぎるほど丹念に分析することに精魂を傾けたのも十分頷(うなず)けることですし、紀元前後にこれだけ精緻な人間分析がなされたことは驚嘆に値します。 
 ところが、そのすべての諸法が「ない」と、般若心経は述べているわけです。 


第4節  十二因縁・四諦八正道 

 五蘊だけではなく、十二因縁も四(聖)諦もないと、次のように続きます。 


 無明もなく、また無明の尽きることもなく、乃至、老死もなく、また老死の尽きることもない。
 苦集滅道もなく、智もなく、また得もない。 


   本段ではまず、無明から老死に至る十二因縁の最初と最後の支分をとりあげて、それがなく、それが尽きる(滅する)こともないというのですが、これはお釈迦さまの成道において順逆に観察された諸法のヴィジョンがないといっているに等しいことです。  

 次に「苦集滅道もなく」とは、「四つの尊ぶべき理(ことわり)(四聖諦)」がなく、当然それに付随する八正道もないということです。なんと初転法輪で説かれた教え(諸法)もないということになります。  最後の「智」と「得」については、一般にまったく誤って解説されているので、正しい意味を説明しておきます。 

 ここでいう「智」は、お釈迦さま自身が初転法輪で述べられた「私は智が生じ、光明が生じた」における「智」をさします。それは四諦八正道の結果として生じる「智」のことですから、心経本文でも「苦集滅道もなく」のあとに「智もなく」と続く文脈から判断して、そのように解すべきでしょう。  

 古今のどの解説者も「智もなく、また得もない」を一つの文と解し、「智」と「得」を一対のものとみなしていますが、それは誤りです。これを損得の儲(もう)け話のように解釈するのは論外ですが、たとえば「さとりを得る」といった意味に解釈するのも間違いです。 
 般若心経の「大本」では、「智もなく」に続いて「得もなく、非得もない」となっています。「得」は「非得」と対なのです。 

 そもそも諸法とは、自己の経験内容を構成する要素として観察される瞑想上のヴィジョンのことでした。そのように自己を諸法に解体することによって〈私〉という一見自明な存在は実はどこにもなく、固定的な自我というものはない、つまり「無我」である、という仏教の基本的立場を補強するために、アビダルマ論師たちは法の研究に打ち込みました。 

 では、本来「無我」であるにもかかわらず、どうして〈私〉という存在があるようにみえるのでしょうか。アビダルマ論師たちはこの点についても考察し、どこかに諸法を結合させたり結合させなかったりするはたらきがあって、それがあるから自己形成ということが起こり得ると考えました。そうしたはたらきは経験内容を構成する法とは別種であるけれども、やはり法体系(「五位七十五法」)の中に含ませるべきだとしたのです。このように諸法を結合させるはたらき、すなわち諸法の獲得作用のことを「得」といい、結合させないはたらきのことを「非得」というのです。 

 しかし、般若心経はそれもないという。 
 結局、お釈迦さまの成道において顕わになったすべての諸法に言及し、そのことごとくが「ない」と、全面的に否定されたかのようです。 
 これを文字通りに受け止めると、お釈迦さまの成道も初転法輪も否定することになってしまいます。いかなるものにもこだわってはいけない、たとえ仏教の基本教理といえどもこだわってはいけないんだ、それが大乗の立場であり、般若心経の「空」という教えなのだと解説する人がいますが、それは間違いです。一体、どんな立場であろうと仏教の基本教理を否定するような経典がどこにあるでしょう。 
 後述するように、般若心経はいかなるものもないといっているわけではありません。無のオンパレードのようでいて、肯定すべきものはしっかり肯定しているのです。 


第5節  観自在菩薩のレベル 

 これまで説明してきましたとおり、ここは四階の観自在菩薩が三階のフロアのマスターである 舎利子に語りかけている場面です。 

 観自在菩薩のいる最上階には何もないのですから、そのままの眺望を舎利子に告げているわけです。ただし、端的に「何もない」といえばすむところを、「ないもの」をわざわざ列挙しているのは、その一つ一つの項目がいかに重要かを物語っています。なにしろお釈迦さまの成道において顕わになった諸法なのですから、これほど重要なものはありません。 

 サールナートの仏伝レリーフも三階の部分が「説法の図」でした。お釈迦さまこそが最初に三階のフロアに昇り、その階のヴィジョンを弟子たちに説き示された方でした。弟子たちは、これぞお釈迦さまの悟りの内実であると聞き、あるいは聞き伝えられたことを自分たちが理解したままの形で整理しました。それがやがて精緻きわまる膨大な法の体系となっていきます。 
 律蔵『大品』が成道の内容をもっぱら十二因縁に絞ったのは、ひとえに苦の根源は無明にあるとつきとめた、この最重要の一点を強調したかったからでしょう。 

 無明を滅したお釈迦さまに、老死はなかったでしょうか。お釈迦さまとて歳を重ねて老い 、齢八十で入滅されました。誰であろうと老死は避けられません。では、無明を滅するとはどういうことなのでしょう。そもそも無明とは何でしょう。 

 より適切な問いは、無明を滅する観点とは何処(どこ)か、です。無明の対極である明(智慧)のレベルが三階のフロアです。瞑想のプロセスを経て「これが無明である」という自覚を得た時が、二階の世間のフロアを卒業した時なのです。とはいえ、二階のフロアは依然としてあります。二階あればこその三階なのですから。つまり、一階ないし二階のあり方そのものが無明なのです。 

 三階の明のフロアとは、一階と二階を通過し、無明の何たるかを知るレベルだといえるでしょう。無明に起因し、思いのままにならない自己を構成するさまざまな要素をつぶさに知ることのできるレベルです。そのヴィジョンが「諸法」なのです。  
 瞑想上のヴィジョンにほかならない諸法を実在視することは、当然避けなければなりません。世間のレベルで自己に執着するのと同じことになってしまうからです。  

 アビダルマ論師が陥ったこの過(あやま)ちを糺(ただ)そうとしたのが、般若心経でした。そこで、いかなる諸法もない、という、もう一つ上のレベルのフロアを、どうしても設定する必要があったのです。 
 無明も老死も、自己という存在に必然的に付随します。でも無明を滅し、老死を滅する観点のレベルがあるのです。同様に、しかと諸法のヴィジョンを踏まえた上で、「諸法がない」というさらなる高次の観点のレベルに至って、観自在菩薩はまごうかたなく「一切の苦厄を度したもうた」のでした。

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