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029 遣唐使船建造修理の島「長門ノ津」

 「風早ノ浦」を出た船団は安芸灘を女猫の瀬戸へ。上蒲刈・下蒲刈両島を左舷側に過ごして倉橋島の東沖を南下し、鹿島を迂回して倉橋島の「長門ノ津」に入ったであろう。「長門ノ津」は古くから拓けた瀬戸内有数の津で、遣唐使船の新造や修理もここで行われたという。
 第十六次遣唐使船は前年の夏「難波ノ津」を出航したものの瀬戸内の悪天候で航行不能になり、船体の修理のために1年延期になった。その修理はここで行われたという話もある。

 天平8年(736)、遣新羅大使阿倍継麻呂の一行が「風早ノ浦」を出て長門島の磯辺に停泊し、翌日、周防の「麻里布(岩国)」に向ったという。その時に詠んだ歌が『万葉集』にあり、その歌碑が今倉橋島の桂浜の白砂の上に建っている(「万葉集遺跡・長門島松原の石碑」)。

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 倉橋島は古来、長門島と呼ばれてきた。磯辺とは今の桂浜と推定される。
 船団は「風早ノ浦」からこの倉橋島の磯辺に向かったはずである。倉橋島の北端の「音戸の瀬戸」を通れば江田島・宮島を過ごし周防国の沿岸(「麻里布」「熊毛浦」の方面)に最短距離を行けるのだが、潮流は速く、海峡の幅は狭く、海底は岩盤で対岸と陸続きの浅瀬であったため、船底がタライのように平らであっても、大型外洋船は座礁難破の危険があるため倉橋島南部の磯辺(桂浜)に出入りした。「長門ノ津」とは奥に桂浜をひかえた湾全体のことであったにちがいない。

 『日本書紀』 『続日本紀』に諸国に遣唐使船の造船を命じる記述が見え、9回のうちの7回が安芸国になっている。おそらく遣唐使船の建造は安芸がこれを専門とし、他国で行われたのは何かの事由で例外的であっただろう。
 古資料に安芸国内に3ヶ所の「船木郷」が見える。1国に3ヶ所も「船木郷」が存在する国はほかになく、安芸が造船の用材を豊かに産出する国であったことが推定できる。さらに安芸は山林での用材の育成と伐採、そして運搬と製材、さらに建造と、すべての工程が国内でまかなえる。朝廷はこの安芸に造船を奨励した形跡がある。隣国である備中・備後・周防では製鉄や塩田がさかんに行われたのであるが安芸にはそれらがなく、その代り造船では他国を寄せつけなかった。律令国家の国策ではなかったか。

 さて、安芸は安芸でも、遣唐使船が建造されたのはこの倉橋島であっただろうか。伝説では、倉橋島で島の大木を切り出して遣唐使船を建造したということになっているが、倉橋島のどこで造られたか、その場所が特定されているわけではない。安芸でも倉橋島だけは製塩が許されていて、島の山林の大木は製塩の用材として使われ、造船用の適材は残っていなかった可能性もある。しかし、倉橋島に伝わる遣唐使船建造の伝えは荒唐無稽の話ではない。
 遣唐使船は船底が平らなわりに喫水が意外に深かったらしく、完成して進水する際に砂や泥に船底がもぐってしまうところは不向きである。その点、安芸の国内でも倉橋島の桂浜や本浦は砂浜が発達し潮も速いので進水の時に水面に浮かびやすいのだという。

 遣唐使船の建造は国家プロジェクトである。朝廷は遣唐使船を建造する国をえらび、そこに起工予定時期や竣工予定時期また必要な資材の品目・数量を知らせるとともに勅使を事務官や技官とともに派遣する。
 造船の実務は木工寮の工部が担当する。工部は船の設計や資材の調達を行い、貴賎を問わず船大工を採用し官人として待遇した。
 通達を受けた国では早速造船の場所をえらぶ。勅使が現地に着くと、その国の国衙で歓待の宴がひらかれ、つづいて勅使ほか一行は国司・郡司に案内され造船予定地に入り、そこで造船場所が決められるのである。工期は約6ヶ月である。
 用材・資材と船大工ほかの労働力は、みな国内各地から徴用された。倉橋島の場合はどうであったか。船大工として徴用されたのはおそらく、舟造りに熟練していた安芸郡海里や佐伯郡海里の海の民で、倉橋島の海の民ではなかったであろう。

 倉橋島は島の大木が用材として使われたわけでもなく、地元民が船大工として活躍したわけでも多分なかった。かかわったとすれば、勅使一行のもてなしや徴用されてきた船大工の世話や雑役雑用だったかもしれない。決して島民として自慢になるものではなかったが、後のこの島の造船の歴史を考えれば、国家プロジェクトである大型外洋船建造の高揚感や先端技術による生きた造船技術の吸収があったにちがいない。

 遣唐使船は、2本の帆柱(マスト)に竹材で編んだ網代帆を張る中国のジャンクに似た帆船であった。全長20m~25m、幅7m~8m、重量100t未満のものを標準とした。用材は、主に楠を使い、杉や檜や松も多く用いた。船底は平らで、甲板上部の宮づくりの船室に大使や副使などの使節団員を乗せた。

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 倉橋島は最北端の音戸で本州と接している。この狭い海峡が「音戸の瀬戸」である。潮流の速いわずか100m幅の早瀬であるが、ここも古くから瀬戸内海路の要衝であった。この海峡はとくに水深が浅く、引き潮の時は大きな岩礁に砂地までが露出し、満ち潮の時でも1m程度の水深だったという。
 おそらくこの事情に起因したものであろう、平家一門の権勢を誇るかのような豪華で大きな船を仕立て、京から厳島神社参詣に向かう最短の海路を確保するため、あるいは日宋貿易等で往来する交易船の船泊りとして活用するため、太政大臣平清盛が仁安2年(1167)にここの浅瀬を開削し、大型船が出入りできるようにしたといわれている。工事は短期間に人夫6万人を動員し、彼らのなかには人柱に使われた者もいたといわれるほどの難工事であったと伝えられているが、これが史実であるかどうかは明らかではない。

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 清盛の死後3年の元暦元年(1184)、その遺徳を偲び水辺に清盛塚が建立されたという。今、室町時代に建てられたといわれる宝篋印塔を中心とする「清盛塚」が「音戸大橋」直下の音戸町の波瀬に静かにたたずんでいる。

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