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030 潮流逆巻く海峡「早鞆ノ瀬戸」

 船団は「長門ノ津」を出て安芸灘を横切り周防の「麻里布」や「熊毛ノ浦(室津半島上関)」に寄り、「佐婆津(徳山)」や「中関(三田尻)」などを経由して、長門の「早鞆ノ瀬戸」(関門海峡)へ入った。

 船団は「長門ノ津」で数日停泊し、船体の保守点検や食糧などの補給を行ったと思われる。ここが前年の暴風で損傷した遣唐使船の修理地だとしたら、その時に修理を行った船大工たちがまた集められ、点検補修にあたったであろう。
 やがて風を得て潮に乗り、船団は能美島(江田島)沖から宮島に沿って「麻里布」へと向ったに相違ない。「長門ノ津」からは安芸灘を横切り周防大島経由で「熊毛ノ浦(室津半島上関)」に向うのが能率的に思えるが、当時の瀬戸内の海上交通は遣唐使船のような大型外洋船であっても風待ち潮待ちの港から港へとたどるゆっくりとしたものであった。

 「麻里布」からは沿岸に沿って南下し、周防大島との海峡(大畠瀬戸)を通り、室津半島の「熊毛ノ浦」へ。そこから「佐婆津」あるいは「中関」を経て、周防灘を一路「早鞆ノ瀬戸」に向かったであろう。
 「難波ノ津」を出てもう1ヶ月近くになろうとしていた。船団はようやく本州西端の長門と九州東端の豊前を左右に見る「早鞆ノ瀬戸」にたどりつくのである。

 波おだやかな瀬戸の海を漂うように渡ってきた遣唐使船団も、この海峡の難所にさしかかりどの船にも緊張が走ったであろう。櫓を漕ぐ手が少しでも緩めば速い潮流に押されて船が止まり、押し流されて岩礁や岸辺に乗り上げたり他の船に衝突もする。「よつのふね」は必死にここを越えなければならない。
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 「早鞆ノ瀬戸」は、周防灘がまるで河川のように一気に狭くなる今の関門海峡東口一帯の水域で、海峡にかかる関門橋の東(下関側の「火の山」のすそと門司側の「和布刈公園」との間)のあたりをいい、橋の向こうは「源平の合戦」のあった壇の浦である。一番狭いところで幅が約650m。水路が屈曲(航行可能な水域は約500m、空海の頃はもっと狭かったと思われる)していて潮の流れが速く(最大で9.4ノット(時速約17.4㎞))しかも潮流の変化が激しい海の難所である。
 船の航行性能が進んだ現在でも、潮流に逆行して進もうとする船が潮流に押されて前に進めず、操船が不自由になって停留したり、岸辺に乗り上げたり、後続船や対抗船と衝突することもある。そのためにここを通る船は3ノットを超える速力で航行しなければならず、その力のない船は潮流が変わるまで待たなければならないことになっている。この狭い海峡で一隻でも停留すれば、後続の船はこれを追い越すこともできず次々と停留することになり海難事故につながりかねないのである。
 遣唐使船は、「早鞆ノ瀬戸」に入るしばらく手前から櫓を漕ぐ体制に入り、潮流の抵抗がはじまる海域の前から漕ぎはじめ勢いをつけてこの難所に入ったにちがいない。最大で9ノットの潮流を、たらいと同様の手漕ぎの帆船で渡るのは一苦労であっただろう。船員たちは疲れはて「赤間関(下関)」の船泊か彦島のどこかの津浦に停泊したにちがいない。漕ぎ切ったその余勢で響灘に出るほど、生やさしい航路ではなかったはずである。

 この当時「赤間関」(のちに赤馬関、馬関)といわれていた現在の下関港一帯は、瀬戸内の津浦と同じように古くから拓け、「那ノ津」方面に向かう船と瀬戸内に向かう船が行き交う海上交通の要衝で、港には大小の船が出入りしてさぞ活況を呈していたであろう。時には新羅船など外国船も見えていたと思われる。

 門司側の和布刈神社の一の鳥居のそばの小さな公園のなかに門司関址の石碑が建っている。大化2年(646)、ここに「門司関(文字ヶ関)」が置かれ、この海峡を往来する人や船などを調べたり、飛鳥京や難波宮と大宰府を行き来する朝廷役人の世話や駅馬を置いたという。
 元暦2年(1185)、源義経の軍に敗れた平家一門は安徳天皇とともに壇の浦に沈み滅亡した。この戦いで勝敗を分けたのもこの狭い海域の潮流であった。

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 この戦いをはじめ下関はしばしば日本の歴史の転換点となる現場となった。幕末の文久3年(1863)には、長州藩がこの海峡を通ろうとするアメリカ商船を攻撃し「馬関戦争下関戦争)」が起った。明治28年(1895)には、日清戦争の講和条約(「下関条約」)がこの海峡を望む割烹旅館「春帆楼」で締結された。

 門司側の「戸ノ上山」のふもとの戸上神社の片隅に満隆寺という小さな寺がある。大同元年(806)、唐から帰った空海が関門海峡を通っている時に霊感を感じ、浜辺に船をとめて上陸し山麓にお堂を建て17日間密法を修したのがこの寺のはじまりだという。この海峡にも空海伝説が残っている。

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