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033 大宰府政庁で聞く東シナ海の危険

 大宰府は、奈良の平城京の都城を模し、南北に22条、東西に24坊の条坊に区画し、その中心に政庁を置いた。政庁は4町四方を敷地としたほか、大宰府学校院は2町四方、観世音寺は3町四方を有した。

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大宰府政庁復元
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大宰府政庁跡
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那ノ津~大宰府の官道図

 政庁の敷地には朝堂院様式の立派な建物が並んでいた。間口7間奥行き4間の「正殿」に、東西それぞれ各2棟の「脇殿」があり、さらに幅3間奥行き2間の「中門」、幅5間奥行き2間の「南門」、また「正殿」の後方には「北門」が建ち、それを囲んで「回廊」や「築地」がめぐらされていた。
 なお、西の丘の上には幅9間奥行き3間の穀物や財物を収める蔵があり、東の月山といわれる丘には「漏刻台」(水時計)が置かれていたといわれている。

 初代の大宰帥(長官)は、飛鳥朝蘇我氏の蘇我日向(そがのひむか)であった。日向は蘇我馬子の子である蘇我倉麻呂の子で、異母兄に右大臣蘇我倉山田石川麻呂がいた。
 大化改新後の大化5年(649)、日向は当時孝徳天皇の皇太子だった中大兄皇子(後の天智天皇)に「あなたを石川麻呂が殺そうとした」と讒言したため、孝徳は兵を向けた。石川麻呂は逃亡したものの翌日自害し、妻子ら8人もともに自害に及んだ。
 ところが、孝徳天皇が真相究明のために石川麻呂の自宅を捜索するとその無実がわかった。中大兄皇子は石川麻呂の死を悔み、後日初代太宰帥にする方法で日向を筑紫に左遷した。当時はまだ「那ノ津」の那津官家の時代であった。これを現在の地に移したのが日向だった。

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観世音寺復元模型
 観世音寺は、百済支援の目的でこの大宰府まで来て没してしまった斉明天皇の菩提のために天智天皇が発願し、天平18年(746)に完成した勅願寺で、南都の官大寺に匹敵する大伽藍を誇る西国一の寺であった。
 その周囲には、大宰帥蘇我日向が造ったという般若寺や、大宰府の鎮護のために建立された竈門神社(かまどじんじゃ)や、その神宮寺である竈門山寺(かまどさんじ)、さらには筑前の国分寺、後にここに流された菅原道真が約2年間を暮らしたとされる榎寺(えのきでら)などがあったといわれている。

 空海は政庁や観世音寺に足繁く来て役人や渡来僧から唐の情勢や渡海の実際を聴取していたと思われる。この太宰府に来て、船団の誰もが東シナ海での海上遭難を怖がりはじめていた。空海とて恐怖感に似た好奇心が高まるのを抑えられなかった。空海は、少弐に東シナ海の渡海の危険性を率直に聞いた。話の流れで、かつて海に没して帰らなかった大使や随員や留学生の不運まで話が及んだであろう。

 空海の当時、遣唐使船の構造にしてもその帆走能力にしても、大型外洋船として東シナ海を渡るのに恐ろしいほど不備であったばかりか、航海に必要な東シナ海の風の向きや潮の流れや天文地理の知識によくよく暗かった。その点ではあるいは空海の方が詳しかったかもしれない。だから空海はそのあたりの実際のことを少弐に確かめたかったにちがいない。少弐は自信なさそうにではあったが、知る範囲のことをすべて語ったであろう。

 少弐はまず、夏の東シナ海は海難事故の多いことを役人らしく統計的に語った。東シナ海は、旧暦の4・5月~7・8月(春・夏)には西南の風が吹き、9・10月~1・2月(秋・冬)には反対の北東の風が吹くことでほぼ一定していた。これが東シナ海の海洋気象の定説である。西アジアやヨーロッパから東アジアに来る時は春・夏に吹く西南の風を利用し、東アジアから西アジアやヨーロッパに向う時は秋・冬に吹く北東の風を使った。
 唐の時代も、インド洋や東シナ海を渡って中国にくる交易船は夏の西南の風に乗って来た。その船が帰るのは冬の北東の風が吹く時であった。日本と唐土の間の渡海もこの季節風を利用し、渡唐は秋から冬にかけてするのが道理であったが、空海の時代、それを知る人は大宰府のなかにもいなかったのであろう。そのためか、その頃唐に渡るのは夏の時期がえらばれていた。空海の乗った第十六次遣唐使船もまさに夏の逆風の時に東シナ海に浮かび、台風並みの暴風雨にさらされに相違ない。

 奈良の大学寮には天文暦を学ぶ科があったが、大宰帥とてそれを専らにした人はいなかったはずで、かえって奈良の大安寺などで渡来人と交わっていた空海の方が博識ではなかったかと思われる。空海は少弐の海難の話に何度もうなずき、東シナ海の渡海が命がけであることを覚悟した。
 この時代、当然羅針盤の如きものはなかった。島影もない大海原ではもっぱら天を仰ぎ月や星の位置を目安に方向を決めていたにすぎない。天文星宿のことは船員よりも空海の方が詳しかったかと思われる。空海はついこのあいだまで山林の修行生活を通じ毎日のように天文星宿を観察し、山地での方位を確認していたからである。
 また当時の造船技術も航行技術もすこぶる幼稚であった。「白村江の戦」の敗因は斉明天皇の勅命で建造した戦艦が実戦にはまるで役に立たなかったことだといわれている。この戦艦に限らず、当時の和船は危なくて唐から帰国するのに新羅の船を雇ったという例には事欠かないくらいであった。
 少弐はまた、この太宰府まで来ながら渡海の恐怖のあまりとうとう京に帰ってしまった遣唐大使のこと、その代理となった副使が不運にも帰途帰らぬ人になった話もしたであろう。

 宝亀七年(七七六)閏八月、第十四次遣唐使一行の上奏に、

今既ニ秋節ニ入ル、逆風日ニ扇グ。
臣等望ムラクハ、来年夏月ヲ待チ、庶クバ渡海ヲ得ン。(『続日本紀』)

とある。当時の官人の知識が実際と逆であったことがわかる。あるいは秋の順風を知りながら、渡海の恐怖が先に立ちわざとウソを言って回避しようとしたものであろうか。
 この時の遣唐大使は佐伯今毛人であった。今毛人は、東シナ海で命を落すことに恐怖し、この年の4月節刀を賜わって太宰府まで赴いたものの右の上奏を理由に11月になって奈良の都に帰ってしまった。しかも翌年4月再度大使に任ぜられ、出発はしたものの羅城門のところまで来て発病し(仮病の説あり)、副使の小野石根が大使の職務を代行することとなった。同年6月遣唐使船は出航をしたが、帰途逆風に遭い不運にも石根は60人の随員らとともに東シナ海に没してしまった。

 天平6年(734)10月、4船に分れ蘇州から帰途についた第八次遣唐使船は、大使の乗る第1船以外は皆遭難した。そのなかで判官平群広成以下115人を乗せた第3船は、はるか南のチャンバ王国(ベトナムの一部)に漂着し、一行のほとんどが殺害されたりあるいは病死して生き残ったのは4人だけとなった。
 然る後4人は唐の保護をえて天平10年(738)3月に山東半島の登州から渤海に送られ、渤海国使が日本に朝貢するのにともなわれて帰国するに至ったが、また海難に遭って出羽国に漂着し、やっと同11年(739)11月に6年目にして平城京に戻ったという。
 また、天平勝宝5年(753)11月、遣唐大使藤原清河の一行も4船に分乗して蘇州から出航したがまもなくちりぢりになり、藤原清河や阿倍仲麻呂が乗った第1船は、安南の驩州付近に漂着し、安南からまた遠路長安に帰った。清河も仲麻呂も結局故国の土を踏むことなく、唐土に眠ることになった。

 大宰府政庁で東シナ海渡海の情報を入念に入手した空海ではあったが、現実には皆が恐れていた通りになった。

 ところで、古代東シナ海の季節風を、春~夏が西南風で逆風、秋~冬が北東風で順風とするのは海洋気象学上逆であり、遣唐使船が夏季に渡海したのはむしろ妥当なことだったという説がある。
 しかしいずれにせよ、夏の渡海の一番の理由は東シナ海の季節風の動向ではなく、唐の朝廷への新年朝賀にタイミングを合わせることであった。

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