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035 難破船で唐土「赤岸鎮」に漂着

 東シナ海の波間に漂うこと34日、まさに生と死の狭間を行きつ戻りつする決死の漂流であった。帆が折れ、船体が損傷し、櫓も使えず、難破船同様になりながらたまたま中国の東南部に向う潮流に乗ることができたにちがいない。遣唐使船の「南海路」や「南路」もこの潮流を利用するものであったと思われる。

 漂流中空海はどうしていたか。水や食糧を嵐のなかで多くを失い、空腹や疲労で病に倒れる者もいたであろう。不安や退屈にさいなまれ精神不安定になる者もいたであろう。しかし空海は泰然自若としていたと思われる。空海には山林修行で鍛えた自然の猛威や飢餓状態に耐える強靭な体力と精神力があった。嵐の最中でもおそらく求聞持法を厳修し、不順に転じた宇宙の「五大」を順調に向わせ、風を鎮め波を治めていたであろう。波間に浮かんでいる時は、順に転じた「五大」の運気がそのままであるように虚空蔵菩薩に祈ったと思われる。ほかの乗員たちは、空海の修法がいかなる仏法かわからないにしても、僧の行う当然の行為として自然にまた頼もしくそれを受けとめたであろう。

 一行はやっとの思いで台湾海峡西方の唐土に漂着した。赤岸鎮、今の福建省霞浦県福寧湾の内湾奥にある赤岸村の浅瀬であった。

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 この村は赤岸渓(今の羅漢渓)という河が流れ込む遠浅の内湾の奥にあり、古くから天然の漁港が拓けていた。村人は半農半漁の生活を営みおだやかに平和に暮らしていた。唐の初期には長溪県の県令がここには置かれ、早くにひらけた大きな村であったらしい。
 司馬遼太郎が「岬の地肌が赤かった」と書いたように、この地の赤い地面を象徴して「赤岸」という説があるが、実際は「五行」の考えから赤(紅)とは南のことのようである。「五行」説によ
れば、木・火・土・金・水の五つの元素がお互いに相入し合いすべての物や現象が転変し生成循環をくり返すという。そのうちの火は「五色」としては赤(紅)、「五方」としては南、「五時」としては夏にあたるのである。夏暑い南の岸、といった意味か。
 このあたりの海域は潮流の関係で暴風雨さえなければ日本との往来に便利で、後に倭寇がよく出没し福建人との間で密貿易を盛んに行ったところでもある。
 しかし唐代は、遣唐使船をはじめ日本の外洋船はほとんどが揚子江の河口や明州越州をめざし、そこから帰途にも着いた。空海らが乗った第一船も明州・杭州か揚子江から「京杭大運河」を逆のぼり揚州をめざす予定ではなかったか。おそらくこの地に到来した日本船は最初であったろう。

 この赤岸鎮では村人から海賊と誤解されたり襲われたりすることもなく無事に上陸できたと思われる。しかし泊る宿はない。一行は浜辺で思い思いに場所をえらびそこをしばしの休息の場とした。大使は早速交渉役や訳語(通訳)を村の役所らしいところに行かせ、ここに漂着した次第と身分や渡海目的を明かし上陸と長安へ行く便宜の措置を願い出たが、村長にはその真意が通じたかどうか、長溪県の役所の方に回るよう勧められた。昔閩人が領したこの中国東南の多様言語の地で、同行の通訳の唐語がどこまで福建人に通じたかは甚だ疑わしいが、ともかく交渉役らは長溪県の役所に赴いた。

 ところが県でも結果は同じだった。県令の胡延泝という役人も、日本の国使一行が東シナ海で遭難しここにたどりついたのを信用しなかったのか、地方官として国交問題の措置権限がなかったのか、言葉が通じなくて本意が伝わらなかったのか、答えは「ここでは対応ができないから州の役所に行ってもらいたい。ただし、陸路は道が険しいので海路を行った方が安全である。だが今のところ、福州の刺史(長官)は前任者が病気で辞め後任がまだ赴任していないと思う」ということであった。

 やむなく一行は、福州に向けて250㎞の海路を南にまた船に乗って行くことになった。赤岸鎮では45日を費やした。入国手続きで長引いただけではないだろう。おそらく難破船同様の船体や帆などの用材を調達し応急の修理をしたにちがいない。この船は空海らが下船した後福州に留まって本格的な修理を行ったらしく、翌年春には明州に回漕され、その6月大使の藤原葛野麻呂らを乗せて対馬に帰還する。
 この赤岸鎮での日々、空海は何をしていたのだろうか。おそらくじっとはしていなかっただろう。浜では漁民に自ら近づき自分の唐語が通じるかどうか確かめただろうが、たぶん閩語を話すこの地の人には通じなかった。町に出て人々に好奇の目で見られながら仏教寺院を探したであろう。もしあれば何宗のお寺か、その由緒や縁起を聞いたであろう。道教の神祠があれば、人々に交じり線香をあげお参りもしたであろう。そしていちはやく中国人の日常的な宗教行動を理解しはじめていたに相違ない。奈良の大学寮で教授たちから教えられた「唐」とこの地の実際は大いにちがっていた。空海はかつての恩師の顔を思い浮かべながら苦笑したであろう。

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 赤岸村からさほどに遠くない建善寺にもたずねたと思われる。潙仰宗という南宗禅の一宗の寺で、その時期には千人を越える禅学の僧たちが学んでいたほどの大寺院だったという。空海は初めて中国の禅寺にふれ、伽藍や禅僧の修行の凛とした厳しさを目のあたりにしたにちがいない。この寺には唐代に日本の僧が泊ったという記録があり、空海の可能性がいわれている。その故か、今この寺には空海の記念堂が開山霊祐尊師の記念堂と相対して建てられている。

 今、福州市から霞浦県の赤岸村まで(約250㎞)湾岸高速道路で3時間の道程になった。これまでは、途中寧徳県を通りいくつもの峠を上下し、曲がりのつづく海岸線を越えて7時間もかかった。赤岸の浦には、真言宗(高野山)の関係者によって「蔡海亭」がつくられ、村の田園のなかには「空海漂着記念碑」が建てられ、最近はホテルまで建った。
 平成元年10月には、霞浦県を中心に空海の密教思想や日中友好の事蹟に関心をもちその研究をしている好学の士が集まり、寧徳市霞浦空海研究会が設立された。その成果のなかにこの赤岸村の漂着地研究や長安への道程解明などがある。平成6年5月には高野山真言宗の手により「空海大師紀念堂」が完成し、空海大師の立像が祀られた。また、翌平成7年には、紀念堂に向かう道路に「空海坊」という大門が建てられている。


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