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036 大使、福州ノ観察使ニ与フル為ノ書

 8月10日に赤岸鎮にたどりつきそこで45日留まったとすると、赤岸鎮を出たのはおそらく9月25日頃だったと思われる。それからまた250㎞を海上に浮かぶこと10日余り、10月3日一行は福州の馬尾港に入った。

 福州は、楓霞山脈を源とする閩江が東シナ海に流れ込む河口を少しなかに入った閩江河岸の大きな都市で、空海の頃もこの地の政治経済・外交交易の中心であった。馬尾港は福州の町から東南約20㎞のところにある古くからひらけた大規模な港で、福州の玄関口としてその発展のもとになっていた。

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馬尾港近くの閩江
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今、近代都市の福州

 この港で一行の上陸手続きは難航する。交渉役たちが州の治所に出向いたところ怪しまれ、州吏が船にやってきて全員を引きずり出し船を封印してしまった。
 この時代、馬尾港クラスの大きな港では外国の船に対する扱いが厳重になっていた。朝貢船に対しては鄭重で関税も取らなかったが市舶といわれる交易船には所定の関税をかけていた。空海たちの船は、見知らぬ上にアポなしの船で怪しまれたに相違ない。
 大使は思わぬ事態に当惑しながら何回も文書を書き、それを通訳にもたせて州の治所を往復させた。しかしそれもその都度黙殺され徒労に終った。
 大使は東シナ海の嵐の時から空海のただならぬ霊威を感じていた。この頃の空海には生来の異能的オーラのほかに、山林や海浜で積み重ねた修行によって醸成された独特の神威がみなぎっていたはずである。この難事の時、大使はそれに感じた。聞けば書と文をよくするという。大使は慇懃に空海に文書の代筆を頼んだ。空海はそれにすぐ応じ、唐の文章家でさえ唸るような美文の上申書を書いた。『性霊集』に残る有名な「大使、福州ノ観察使ニ与フル為ノ書」である。以下、その全文を紹介する。

賀能啓ス。高山澹黙ナレドモ、禽獣労ヲ告ゲズシテ投リ帰キ、
深水言ハザレドモ、魚龍倦ムコトヲ憚ラズシテ逐ヒ赴ク。
故ニ能ク西羌、険シキニ梯シテ垂衣ノ君ニ貢シ、
南裔、深キニ航シテ刑厝ノ帝ニ献ズ。
誠ニ是レ明ラカニ艱難ノ身ヲ亡ボスコトヲ知レドモ、
然レドモ猶命ヲ徳化ノ遠ク及ブニ忘ルルナリ。
伏シテ惟レバ大唐ノ聖朝、霜露ノ均シキ攸、皇王宜シク宅トスベシ。
明王武ヲ継ギ、聖帝重ネテ興ル。九野ヲ掩頓シ、八紘ヲ牢籠ス。
是ヲ以テ我ガ日本国、常ニ風雨ノ和順ナルヲ見テ定ンデ知リヌ、中国ニ聖有スコトヲ。
巨棆を蒼嶺ニ刳メテ、皇華ヲ丹墀ニ摘ム。蓬莱ノ琛ヲ執リ、崑岳ノ玉ヲ献ズ。
昔ヨリ起テ今ニ迄ルマデ、相続ヒテ絶ヘズ。
故ニ今、我ガ国主、先祖ノ貽謀ヲ顧ミテ今帝ノ徳化ヲ慕フ。
謹ンデ太政官右大弁正三品兼行越前国ノ太守、藤原朝臣賀能等を差シテ、
使ニ充テテ国信別貢等ノ物ヲ奉献ス。
賀能等、身ヲ忘レ命ヲ銜ミ、死ヲ冒シテ海ニ入ル。
既ニ本涯ヲ辞シ、中途ニ及ブ比ニ、暴雨帆ヲ穿チ、戕風柁ヲ折ル。
高波漢ニ沃ギ、短舟裔々タリ。
凱風朝ニ扇ゲバ、肝ヲ耽羅ノ狼心ニ摧ク。北気夕ニ発レバ、胆ヲ留求ノ虎性ニ失フ。
猛風ニ頻蹙シテ、葬ヲ鼈口ニ待ツ。驚汰ニ攅眉シテ、宅ヲ鯨腹ニ占ム。
浪ニ随テ昇沈シ、風ニ任セテ南北ス。
但ダ天水ノ碧色ノミヲ見ル。豈ニ山谷ノ白霧ヲ視ンヤ。
波上ニ掣々タルコト、二月有余。水尽キ人疲レ、海長ク陸遠シ。
虚ヲ飛ブニ翼ヲ脱シ、水ヲ泳グニ鰭ヲ殺ス、何ゾ喩ト為スニ足ラン哉。
僅カニ八月ノ初日ニ、乍チニ雲峯ヲ見テ欣悦極罔ス。
赤子ノ母ヲ得タルニ過ギ、早苗ノ霖ニ遇ヘルニ越エタリ。
賀能等万タビ死波ヲ冒シテ、再ビ生日ヲ見ル。
是レ則チ聖徳ノ致ス所ニシテ、我ガ力ノ能クスル所ニ非ズ。
又大唐ノ日本ニ遇スルコト、八狄雲ノゴトクニ会ヒテ高台ニ膝歩シ、
七戎霧ノゴトクニ合ヒテ魏闕ニ稽顙スト云フト雖モ、而モ我ガ国ノ使ニ於テハ、
殊私曲ゲ成シテ待スルニ上客ヲ以テス。
面リ龍顔ニ対シテ自ラ鸞綸ヲ承ル。佳問栄寵已ニ望ノ外ニ過ギタリ。
夫ノ璅々タル諸蕃ト豈ニ同日ニシテ論ズベケンヤ。
又竹符銅契ハ本姧詐ニ備フ。世淳ク、人質ナルトキハ文契何ゾ用イン。
是ノ故ニ我ガ国淳樸ヨリ已降、常ニ好隣ヲ事トス。
献ズル所ノ信物、印書ヲ用イズ。遣スル所ノ使人、姧偽有ルコト無シ。
其ノ風ヲ相襲イデ今ニ盡クルコト無シ。
加以ズ使乎ノ人ハ必ズ腹心ヲ択ブ。任ズルニ腹心ヲ以テスレバ、何ゾ更ニ契ヲ用イン。
載籍ノ伝フル所、東方ニ国有リ、其ノ人懇直ニシテ礼義ノ郷、
君子ノ国トイフハ蓋シ此ガ為カ。
然ルニ今、州使責ムルニ文書ヲ以テシ、彼ノ腹心ヲ疑フ。
船ノ上ヲ撿括シテ公私ヲ計ヘ数フ。斯レ乃チ、理、法令ニ合ヒ、事、道理ヲ得タリ。
官吏ノ道、実ニ是レ然ルベシ。
然リト雖モ遠人乍チニ到テ途ニ触レテ憂多シ。
海中ノ愁猶胸臆ニ委レリ。徳酒ノ味未ダ心腹ニ飽カズ。
率然タル禁制、手足厝キドコロ無シ。
又建中以往ノ入朝ノ使ノ船ハ、直ニ楊蘇ニ着ヒテ漂蕩ノ苦シミ無シ。
州県ノ諸司、慰労スルコト慇懃ナリ。左右、使ニ任セテ船ノ物ヲ撿ベズ。
今ハ則チ、事、昔ト異ナリ、遇スルコト望ト疎ソカナリ。底下ノ愚人、竊ニ驚恨ヲ懐ク。
伏シテ願ハクハ遠キヲ柔クルノ恵ヲ垂レ、隣ヲ好スルノ義ヲ顧ミテ、
其ノ習俗ヲ縦ニシテ常ノ風ヲ怪マザレ。
然レバ則チ涓々タル百蛮、流水ト与ンジテ舜海ニ朝宗シ、
喁々タル万服、葵藿ト将ンジテ以テ堯日ニ引領セン。
風ニ順フ人ハ甘心シテ逼湊シ、腥キヲ逐フ蟻ハ意ニ悦ンデ駢羅タラン。
今、常習ノ小願ニ任ヘズ。
奉啓不宣。謹ンデ言ス。

 これを読んだ福州の刺史兼観察使(巡察使)の閻済美は、書風・修辞・内容ともにずばぬけた異国の僧空海の文章力に驚嘆し、すぐさま州吏に命じ先ず船の封印を解き全員を船のなかに保護した。さらに宿舎を13棟も建ててそこに住まわせ、充分な食糧を提供した。同時に使いを長安に急行させ、事の次第を報告するとともに取扱いの指示を仰いだ。
 使いは39日後に帰ってきた。一行を国賓として鄭重に遇せよとの勅命が下ったのである。閻済美はじめ州官吏の態度と待遇は一変した。

 やがて10月も終る頃、長安の都から迎えの勅使が福州にきた。乗員120名中、船員はこのまま船に残り船の修理や船荷などの整理に当る。長安に行くのは大使以下随行員の高等官たち、あとは留学生である。ところが留学生空海の名が長安へ行く人の名簿になかった。空海はさすがにあわてた。すぐ大使にかけあったが、選抜の権限は州の刺史にあった。空海はまた閻済美にあてて上申書(「福州ノ観察使ニ与ヘテ入京スル啓」)をしたためた。はずされた理由は、空海の文章の才におどろいた閻済美が空海を福州に留め自分の配下として使おうとしたらしい。

日本国留学ノ沙門空海啓ス。
空海、才能聞コヘズ、言行取ルトコロ無シ。
但ダ雪中ニ肱ヲ枕トシ、雲峯ニ菜ヲ喫フコトノミヲ知ル。
時ニ人ニ乏シキニ逢テ留学ノ末ニ簉ハル。
限ルニ廿年ヲ以テシ、尋ヌルに一乗ヲ以テス。
任重ク人弱クシテ夙夜ニ陰ヲ惜シム。
今、使ニ随テ入京スルコトヲ許サレザルコトヲ承ル。
理、須ク左右スベシ。更ニ求ムルトコロ無ケン。
然リト雖モ居諸駐ラズ、歳、我ト与ナラズ。
何ゾ厚ク国家ノ馮ヲ荷テ、空シク矢ノ如クナルノ序ヲ擲ツコトヲ得ンヤ。
是ノ故ニ其ノ留滞ヲ歎ヒテ早ク京ニ達スルコトヲ貪ル。
伏シテ惟レバ中丞閣下、徳、天心ニ簡バレ、仁、遠近ニ普シ。
老弱袖ヲ連ネテ徳ヲ頌スルコト路ニ溢レ、男女手ヲ携ヘテ功ヲ詠ズルコト耳ニ盈ツ。
外ニハ俗風ヲ示シ、内ニハ真道ヲ淳クス。
伏シテ願ハクバ彼ノ弘道ヲ顧ミテ、入京スルコトヲ得セシメヨ。
然レバ則チ早ク名徳ヲ尋ネ、速カニ所志ヲ遂ゲン。
今、陋願ノ至ニ任ヘズ。敢ヘテ視聴ヲ塵シテ伏シテ深ク戦越ス。
謹ンデ奉啓以聞。謹ンデ啓ス。

 事なきをえて空海は長安に行く23人のなかに加えられた。幼少期から漢籍に親しんできた空海が、中国の有職故実や中国人の文章についてどれだけの素養を身につけていたか、この福州でのできごとがすべてを物語っている。
 23人は11月3日、勅使が用意をしたチャーター船に乗り馬尾港を発って閩江をさかのぼり南平に向った。「難波ノ津」を出てからもう半年、やっと長安への途についたのである。

 この福州に滞留中、空海はその当時国家認定の官寺であった開元寺に参拝したはずである。546年の創建というこの寺は、当時は大伽藍を誇る禅寺であった。その規模は、奈良の官大寺の比ではなかった。その後いくたびか盛衰をくり返したが近年までまったく荒廃していた。ようやく改革開放や日本からの空海ツアーに乗るかたちで今復興されつつある。
 この寺にはいつの頃からか高野山のものに似た空海像がある。住持は日本の僧侶だとわかると奥堂にあるそれに対面させてくれる。
 このほか、高野山真言宗の配慮で最初福州郊外の鼓山湧泉寺に建てられ後にここに移された「空海入唐之地」の石碑と修行大師の像が建っている。

 空海がここに泊ったとか、40数日間滞留したという伝えもあるが、留学生としての身分上そこまで行動の自由があったかどうかは疑問である。ただ空海が入定して18年の後、空海の姪の息子である天台宗の円珍(第5代延暦寺座主)が新羅人の商船で入唐し、福州で開元寺の恵潅という和尚に見えた際「五筆和尚は健在か」と聞かれ、「入滅した」と応えると「未曾有の異芸」と言って胸を叩いて悲しんだという。

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 福州には空海が参拝したといわれる寺がもう一つある。この地では景勝地として有名な鼓山湧泉寺である。福州の東の郊外、馬尾港を見渡す位置にある鼓山は巨石や湧泉や洞窟や老松が絶景を織りなす1000m級の山で、その中腹に湧泉寺がある。ここには空海が訪れたという「羅漢泉」という涌水がある。

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 この寺は、空海が福州に入るより少し前の唐の時代、霊嶠という禅僧が華厳経を奉じて開創したという。当初は華厳寺といった。今も禅寺である。たぶん空海はこの山に登った。まだできたばかりのこの寺に詣で、本尊の釈迦如来像を拝んだであろう。今は、大雄宝殿(本堂)正面に巨大な釈迦如来が鎮座している。帰り道ではかずかずの景勝に感嘆し、大峯石鎚の峻険を思い出しつつその感興を漢詩にしたに相違ない。求聞持法を修してみたい衝動にも駆られたであろう。

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