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037「仙霞嶺」越えの古道

長安までの道は、はなはだ遠い。
しかも、一行は旅程をきりつめていそぐ必要があった。

福州を出た一行は、道をいそいだ。そのさまは、葛野麻呂の復命書にあるところの、

星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ(『日本後紀』)

という表現で、その強行軍が想像できるであろう。
どの道をとったかは、かれらは記録を残していない。

中間目標として目ざさねばならないのは、杭州の町であった。杭州から、隋の煬帝が開鑿したという大運河が北にむかって出発している。福州から運河のあるその杭州までどのようにいそいでも、十七、八日はかかる。ほぼ陸行である。

最初は、山路であった。福州一円の重畳たる山岳地帯を脱け出す方法は、閩江に沿う道をのぼってゆかねばならない。
(司馬遼太郎『空海の風景』)

 司馬遼太郎が『空海の風景』を書いた頃には不明だった空海一行の長安途上ルートの全容が近年解明された。とくに、福州から杭州に至るルートは長く中国当局が外国人に公開しなかった地域にあり、たとえ学術研究目的であってもそこに入ることはできなかった。そのルートも明らかになったのである。ひとえに高野山大学の静慈圓先生と先生に信を寄せる日中両国研究者の度重なるご努力の成果で、真言末徒として心からの謝意を表したい。この項はその成果に負うている。

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『空海の歩いた道』(頼富本宏・永坂嘉光)から抜粋

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 空海らの一行は先ず福州の馬尾港から船で閩江をさかのぼり南平をめざした。閩江の船運はすでに発達していたようだが流れは逆流である。しかも福州近辺の下流ではゆるやかであっても南平近くの上流には急流もあり、約170㎞の流れに1週間はかかったと思われる。船は、無論勅使が福州の刺史に命じて用意した立派な帆船だったであろうが、大使ら一行が気が急くほどに早くは進まなかった。ちなみに陸路をとれば当時の官道を行く。司馬が書いたように、山が折り重なり、登っては下り、下っては登る、約250㎞の険路である。

 南平は周囲に山が迫っている狭隘の山地ながら、ここで合流する建渓・富屯渓の二河と閩江の水運で古くから拓けていた。それを象徴するように、唐時代のものといわれる停船場の近くにこの町に入る「延寿門」がある。空海らがこの南平に上陸したとすればこの門をくぐったにちがいない。あるいは上陸せずに、小休止の後建渓に進路をとり建甌に向けてすぐに出発したかもしれない。
 南平から建甌までは水陸両路とも約70㎞、空海らの一行は船をえらんだはずで、百葉船という小型船に分乗したであろう。当時ここではこの船が交通手段であった。建甌にも町に入る門(「通済門」)がある。一行は上陸してこの門をくぐったであろうか。ともかく先を急ぐ旅であった。その点河の旅は、海の航海とはちがい自然の猛威にさらされることもなく、陸路のように体力を消耗することもなく、都合で夜昼を徹してでも前に進むことができるのが最大の利点であった。
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「星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ」とはそういうことであっただろう。
 建甌からはさらに水路をえらび、百葉船で浦城に向かった。行程5日、距離にして150㎞前後である。浦城はすでに武夷山からつづく山地に入っていて、水運のみならず古くから官道の要衝としても栄え、大きな町を形成している。ここにも停船場のそばに門(「登瀛門」)がある。空海らはここで上陸し、つかの間の休息の後今度は陸路で二十八都鎮をめざす。

 奇岩奇峰の景勝地武夷山を左に見ながら浦城を出ぬけると、楓嶺関への急坂を登る。仙霞嶺の山地を越え浙江省の江山に下る官道「仙霞古道」を行くのである。その山中に二十八都鎮という古鎮の集落がある。 

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二十八都鎮
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 後漢末の184年、道教の結社「太平道」の祖張角が弟の張梁・張宝らとともに王朝に対して起こした反乱「黄巾の乱」を平定するため、この村に全国から朝廷軍の兵士が集められ駐屯した。文字通り軍事基地になったのである。空海らはおそらくこの村の農民の家に分宿している。ここで空海は携行用の非常食として高野豆腐を教えられたという伝えがある。この山間の雑居の村には清代の貴重な建築が多く残っている。

 ここからはもっぱら山中を行く古道である。古い石畳や関所や石碑が今も残っている。ダムサイトのような仙霞関の跡もそのなかにある。10㎞の古道が終る頃、右手側に江郎山の奇妙な姿があらわれる。三つの垂直に切り立った岩山がまわりの山を凌いでそびえている。 空海らはこの麓の古刹開明寺に宿したかもしれない。しかしこの山の頂上に立つような時間はなかったであろう。

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仙霞古道と仙霞関の碑
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江郎山の全景と裂け目道

 道を急いで、江山に出た。二十八都鎮から約90㎞の道のりを日に夜を継いで歩いた。日頃過酷な運動などしたことがない随行員のなかには、体力の限界を超えて歩けなくなる者や足腰に故障を言い出す者や身体の不調を訴える者もいたであろう。依然として空海は平然としていたに相違ない。この程度の険路は船上で身体をもてあまし退屈していた空海にとってむしろちょうどよい運動になったことだろう。ここからはふたたび水運を使って蘭渓江・七里灘・富春江・銭塘江を下り杭州に向かうのである。

 空海らはようやく杭州に着いた。東シナ海で遭難しなければ、とっくにこの杭州を経て長安に着いていたはずである。一行はさすがにここで休息したと思われる。身体に故障や不調ある者はその手当てにあたったであろう。ここからはまた「京杭大運河」の水運である。おそらく蘇州まで薬や医師の世話になる機会がなくなるからである。
 杭州は、杭州湾の奥、銭塘江の北側に、古い時代からひらかれた港湾都市で、この地の政治・経済・通商の中心として浙江随一の歴史を誇っている。この町の象徴でもある銭塘江は、毎年8月19日(旧暦の十五夜)にその河口から発生する垂直潮波の激しい逆流現象(「銭塘江潮」(海嘯、アマゾンではポロロッカ))で有名である。

 空海はその間町に入り先ず杭州を代表する名勝西湖に行き浩然の気を養った。夏の蓮はもう終っていたが、大陸の国らしい広大な自然の景観を目の当たりにし、この国のサイズ、世界のスケールといったものを実感したであろう。そして西湖からさほど遠くない開元寺や龍興寺をたずねた。

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 西湖からはかなり西方にある霊隠寺には立ち寄る時間がなかったのではないか。空海は長安からの帰路、浙江に4ヵ月滞在する。この杭州と越州・明州で時間をかけて仏教寺院をたずね仏典・書画を求めたり僧たちと交流している。おそらくこの霊隠寺にはその時参拝をしたのではないか。

 霊隠寺は、東晋の326年にインドの僧慧理が創建したという。当時も今も杭州最大の寺で禅宗十刹の一つである。空海が立ち寄った頃は人法ともに振い、修行僧が1000人を越えていたといわれている。しかし空海が長安を離れてほどなくの八四五年、後に入唐をした円仁が遭遇し身の危険まで経験した武宗の「会昌の廃仏」によって破壊された。しかし五代の頃ここを治めた呉越の王が大規模な伽藍復興を行い、その後も隆替をくり返したが、今は高さが約33m強もある大雄宝殿の威容のほか、東大寺の盧遮那仏をしのぐ20m近い巨大な釈迦如来が鎮座し往時の隆盛さを髣髴とさせている。境内の奥には空海大師の像も祀られている。
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 杭州には、仙霞嶺山地から流れ下る銭塘江の水運のほかに、隋の時代に煬帝が築いた「京杭大運河」の水運がある。途中、黄河と長江(揚子江)と交差しつつ延々2500㎞超、北京とこの杭州をつないでいる。604年隋の第二代皇帝に即位した煬帝はその翌年から運河の工事を開始し、まず黄河と淮水を通済渠でつなぎ、次いで黄河と天津を永済渠でつなぎ、さらには長江と杭州を江南河で結んだ。煬帝はこの大運河に龍船を浮かべ自ら好んだ江南地方への行幸をくり返したため皇帝のわがままといわれたが、実際は高句麗攻略などの軍事利用や大陸南北間の文物の往来流通のためであった。

 空海らはこの杭州でつかの間の英気を養い、北汽洋湖にある大運河の発着場から船で蘇州に向かったに相違ない。唐代の運河を今「古運河」と言っている。

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