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空海の生涯

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040 延暦二十三年十二月二十三日、長安城に入る

 陸路を進む一行は、やがて鄭州に入った。開封から約70㎞、紀元前の古い時代から拓けた黄河流域の古都である。ここにはせいぜい1泊であったろうか。一行は休む暇もなく道を急いだ。
 鄭州から約100㎞を進むと九代の王朝が都とした古都洛陽であった。洛陽ではさすがにしばし休息したと思われる。空海は早速、奈良で渡来僧や長安留学経験者から何度も聞かされていた白馬寺に参拝したであろう。勅使の案内で使節一行とともに表敬したと思われる。
 洛陽にはほかに、善無畏三蔵『大日経』を漢訳した大福先寺があり、郊外の龍門には三蔵が眠る広化寺などの旧蹟があったが、『大日経』をめざす空海以外には一行のなかに感興が湧くはずはなかった。空海は、2年後の帰路ここでしばらく過ごすことになる。

 洛陽を出た一行はほどなく西に道をとった。郊外にある「龍門石窟」寺院に詣で、5世紀の末から7世紀末にかけて造営されたみごとな石仏の彫像群に圧倒されたであろう。空海はここでも唐という国のスケールを思い知らされた。
 ここまで来て、空海には中国の仏教というものがいかなるものであるかもわかってきていた。水運でたどってきた都市では禅が盛んになっていた。天台華厳も密教も見えず、奈良で学んだ法相三論もなかった。空海は思わず勤操をはじめ大安寺興福寺東大寺の僧たちを思い出したであろう。

 あわただしく「龍門石窟」から道を戻し、洛陽から3日ほどのところに峡谷の谷底のような「硤石」という寒村があった。馬車の通行にすこぶる難儀な悪路であった。ここから約2日で、一行は浙江への古道「仙霞嶺」とならぶ陸路最大の難所「函谷関」の険路に入った。
 「函谷関」は三ヶ所あった。洛陽側から漢時代につくられたもの、魏時代につくられたもの、そして秦時代につくられたもの、である。今それぞれに当時の古道や遺跡が残っている。近年までここは外国人には禁制の地域だった。

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 「函谷関」の険路は空海一行にとって最大にして最後の難関だったであろう。約100㎞の道中に3ヶ所、きついアップダウンのきつい山道を越えるのである。唐土のスケールの大きさとともに、進めども進めどもなお着かない長安の遠さをいやというほど味わったであろう。大使や随員は公用が済めばまたすぐこの道を戻るのである。

 「函谷関」を越えると約2日ほどで「潼関」に入る。ここは天然の要塞のような狭隘にして険峻の地である。古くから軍事上の要衝となり、空海らがここを通る約50年前、「安禄山の変(安史の乱)」の際安禄山率いる反乱軍はここで天下分け目の戦いに勝利し、余勢をかって副都洛陽を陥落させとうとう長安を制圧した。唐代にはこの「潼関」の守りが首都長安の守りに直結していたため、「函谷関」よりもむしろ重要視された。箱根の関所はこれに似ている。
 この「潼関」からはいわゆる関中の地で、道も広くおだやかな平坦路となった。3日ほどのところに、かつて玄宗が「華清宮」を造営して楊貴妃と冬を過し、後に白楽天長恨歌に詠んだ「驪山」の温泉がある。一行は玄宗と寵妃の故事を語りながらここで休息したかと思われる。そろそろ長安が近いこともわかった。

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 ここからは長安まで30㎞を一気に急いだ。やがて、黄河支流の渭河(水)に流れ込む灞水の河岸に出て行く手に長安らしい景観が遠望できるようになった。一行にどよめきが起った。灞水にかかる2町もの灞橋を渡りながら各々に笑顔が戻った。灞水の岸辺にならぶ柳の細枝がそよぐ寒風に揺れていたであろう。
 12月21日、延暦23年もまもなく暮れようという年の暮、空海の一行は長安の入口ともいうべき長楽坂を下りやっと長楽駅に着いた。京を出発してから幾日を要したであろうか。「難波ノ津」を発ってからとっくに半年が過ぎていた。

十二月廿一日、郡ノ長楽駅ニ到上シ宿ス。
廿三日、内使趙忠、飛龍ノ家ノ細馬廿三匹ヲ将イテ迎ヘ来タル。
兼ネテ酒脯ヲ持シ宜シク慰ス。駕シテ即チ京城ニ入ル。(『日本後紀』)

大使ニ給スルニ七珍鞍ヲ以テシ、次使等ニ粧鞍ヲ給ス。
十二月二十三日、都長安城ニ到上ス。
京華ニ入ルノ儀、記シ尽スベカラズ。見ル者遐邇ニ満テリ。(『高野大師御廣傳』)

 一行はここで2日間休息した。勅使一行に厚く礼を述べ、お互いに長旅の労をねぎらったであろう。空海もさすがに心の高揚を抑えられなかったにちがいない。2日はまたたく間に過ぎ、12月23日、内使の趙忠が用意した駿馬23頭に1人ひとり跨り列を正して長安城に入った。

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 長安は、紀元前3世紀から、西周・秦・西漢・新莽・西晋・前趙・大夏・後秦・西魏・北周・隋・唐と、12の王朝がここに都を置き、中国の古都の一つとして3000年からの歴史を刻んできた城郭都市であった。
 唐は7世紀のはじめ、隋の太原総督だった李淵煬帝の留守中(江南の運河漫遊)に都長安を制圧し、翌年江南にいた煬帝を殺して隋を滅ぼし建国をしたのにはじまる。在位が45年に及んだ第6代皇帝玄宗の前半の時代(8世紀前半)に絶頂期を迎え、西は中央アジアのシルクロード諸国(高昌吐蕃亀茲突厥等)を従えるほどの強大な国家を形成した。しかし後半期は、玄宗が楊貴妃に溺れて政権をおろそかにするなか9年にわたり「安禄山の変(安史の乱)」に揺れ、玄宗後は地方で節度使が中央では宦官が力をもつようになり、幾度か試みられた軍政改革も財政改革も思うように成功せず、さらに周辺諸国との外交・交易も次第に弱体化し、内外ともに衰えを見せはじめた。時代は徳宗(第9代)がこの年の正月に薨去し、その長子順宗(第10代)が年末に即位するもまもなく病に倒れ、わずか7ヶ月で皇位を追われて長子憲宗(第11代)に譲位する時になっていた。

 空海たちは長安城(京城)の東面の城壁中央の「春明門」から城内に入った。長安城は東西約9㎞、南北約8㎞、幅6mの城壁に囲まれていた。城内中央北面に「皇城」があり、その正面奥に「宮城」があった。さらにその右(北東)奥には歴代の皇帝の住居である「大明宮」があり、東西1.3㎞、南北2.3㎞という広大な地に、南半分には紫宸殿・宣政殿・含元殿といった政務用の宮殿が建ち、北半分には迎賓館の麟徳殿や広大な太液池を中心にした池庭があった。

 長安城の中央正面に「明徳門」があった。ここから、皇城の正面中央の「朱雀門」を通って宮城の正面中央の「承天門」まで「朱雀大街」という大通りが通じていた。その道幅が100歩(約80m)だったという。この朱雀大街によって左街(東)と右街(西)とに区分されていた。

 左右街それぞれに55坊と1市(「東市」、「西市」)があったので、長安城内は110坊2市といわれた。ただし、空海一行が入った頃は、左街に玄宗皇帝の離宮「興慶宮」ができていたので坊数が少なくなっていたはずである。おおむね、左街には宮殿や庭苑あるいは貴族や官吏の邸宅が多く静かで、右街は商いをする商家が多くにぎやかであった。坊と坊との間には「朱雀大街」の半分ほどの幅の道路がまっすぐに通り、四角には「武候鋪」という交番が設けられ衛士が在駐して城内の警備・治安にあたっていた。

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 この時期の長安は政治的には衰退の傾向にあったが玄宗皇帝の時代に頂点に達した唐文化はまだ衰えていなかった。空海は先ずそのことを喜んだにちがいない。文章家としては唐宋八大家に数えられる古文復興主義の韓愈(退之)柳宗元が、詩文家としては白居易(楽天)・劉禹錫、画家としては張璪・周昉・邊鸞らが、書家では顔眞卿亡き後の柳公権、また空海に書法を教えたといわれている韓方明がいた。

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 長安は国際都市でもあった。空海は、平城京の比ではないこの国際色豊かな都で、今でいうグローバルスタンダード(世界基準)や国家のグランドモデルを身につけるのである。当時、唐に朝貢した国の国使・随員の数は四千人を越えたという。唐と国交を結んだ国は、ほとんど世界に広がり、唐の朝廷にひとたび吉凶があると各国から慶賀・弔問の使者が長安に集った。
 さらに当時の最高学府である長安の「国子監」には、高麗新羅百済、高昌・吐蕃、渤海、日本などから留学生が来ていた。中国の君子は一切の異民族を差別なく扱う仁徳が要請されている。それ故古来中国は外国人の来訪に対して寛容で、使節の接遇や留学生の処遇そして官吏としての登用などにも差別をしなかった。阿倍仲麻呂藤原清河が唐の朝廷に重用されたのもその好例である。
 空海は、城内のそこここに、高麗・新羅・百済・渤海・契丹・突厥・鉄勒回紇・吐蕃はじめ中央アジア・インド・セイロン・ペルシャ(胡人)などからきた人を見た。彼らはそれぞれ国の服装を身につけながらも、あるいは流暢にあるいはたどたどしく、長安の言葉を口にしていた。空海は自分の唐語が通じるのにすぐ気づいた。

 一行はまもなく、宣陽坊(左街「東市」の西側)にある外国人用の宿舎に入った。鴻臚寺(館)ではなく使院(公館)であった。鴻臚寺(館)は同じ時期に朝貢にきていた吐蕃と南詔(雲南地方の吐蕃の友好国)の一行で満室のようであった。
 大使藤原葛野麻呂ほか随員はにわかに忙しくなった。この年新年早々の徳宗の薨去に対し、28日には宮城正面中央の「承天門」で儀仗を立てて国家としての弔意を表した。その日、順宗(第10代)が即位したが、父帝の喪中のため城中はいたって静かであったという。

 明けて延暦24年(大同元年)正月、大使らは国使としての新年朝賀を無事に終え、長安滞在わずか30日にして、2月11日帰途につく。

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