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059 高野山造営の政所と母の菩提と弥勒慈尊

 空海は身辺なおあわただしかったが、嵯峨から高野山を下賜されるとただちにその造営にとりかかった。

 まず弘仁7年(816)6月から年末にかけ、實慧泰範らの弟子を高野山と紀ノ川南岸の山麓に派遣し現地調査をさせた。高野山と紀ノ川南岸の土地は、若き日の空海が山林修行者として幾度となく渉猟したところである。空海は弟子たちに、高野山の地形・地理や水銀鉱脈のこと、また山麓の丹生の一族と丹生都比売神社のことなど詳しい事情を教え、山上伽藍の予定地や資材・人夫の調達などについて具体的に指示をしたであろう。
 空海の気持ちが昂ぶってもおかしくはない。高雄山寺はあくまで和気氏の私寺であり、空海のわが意のままにはならない仮住まいである。別当に任ぜられた東大寺は前の年に離れていた。帰朝10年にして空海に自らの密教を集大成するための道場、私寺開創のチャンスがきたのである。

 おそらく實慧や泰範らは先ず山麓の天野にある丹生都比売神社に向かったであろう。空海が住房とした境内の曼荼羅院に止宿し、そこを当面の根拠地としたであろう。
 ここで、彼らは丹生の一族の主だった者に資材の調達と運搬、道路や水の治山治水、資金や食糧の確保、人夫の世話ほか工事道具や生活用具など一切の助力を要請し、良い答えをもらえたものと思われる。

 この天野の里のすぐ近くを、高野山と紀ノ川そして奈良や京を結ぶ旧表参道が通っている。この道をたどって紀ノ川に向い山を降りていった先、紀ノ川の南岸に慈尊院がある。
 弘仁7年(816)の創建というから、おそらく實慧や泰範らが紀ノ川の水運に至便なこの要衝の地に建設資材や人夫・生活必需品などを集め、山上にあげるための根拠地としてここに堂宇を建立し、あわせて山上伽藍が完成しそこに空海以下弟子たちが居住できるようになるまでの間の宿所あるいは厳寒期修行の道場とし、また高野山造営に関する庶事万端をつかさどる寺務所(政所)としたものと思われる。この時、紀ノ川の渡し場にあった「丹生官省符神社」が、今は慈尊院境内に移されている。

life_059_img-01.jpg 寺名の慈尊とは慈氏菩薩、すなわち弥勒菩薩のことである。空海が高野山の造営に苦心していることを知った母が讃岐から出てくるものの女人禁制の山上に上がることかなわず、空海は月に九度高野山から下りてきて母をたずねた。この一帯を九度山というのはそのためである。母は、空海が入定する1ヶ月前の承和2年(835)2月に亡くなるのだが、空海は母が弥勒菩薩になった夢を見、弥勒尊像1体を謹刻して母の廟に祀ったという。この寺を別名「女人高野」という。

 現在、慈尊院に参るには南海電鉄「九度山」駅から1.5㎞の道をゆっくり歩くか、時間のない場合は南海電鉄の特急「こうや」が止まる「橋本」駅からタクシーを飛ばすとよい。
 山門をくぐるとすぐ目に入るのが正面の石段とその右に建つ「多宝塔」の威容である。山門を入ってまもなくの左手に「本堂(弥勒堂)」と拝殿が並び立っている。正面の石段を登ると、途中の右側に、この慈尊院からのぼりはじめる高野山への「町石道」(表参道)の180番目の町石(高野山「壇上伽藍」からはじまる胎蔵曼荼羅の町石の最後の五輪塔)が建っている。
 長い石段を登りつめると「丹生官省符神社」がある。この社の右を通り抜けると、町石道へと進む。ほどなく社の裏手に179番目の町石が左側に、さらに進むと178番目の町石が建っている。その先は次第に山里に入り左右に背の低い柿木が多くなる。一帯は「富有柿」の産地である。

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慈尊院本堂
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石段途中の180石
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丹生官省符神社

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