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067 東寺の稲荷神と秦氏の稲荷山と御霊会と

 天長3年(826)11月、多忙な高野山造営の合間をぬって、前年の講堂の建立につづき、空海は東寺にわが国初の自らの設計監理になる密教様式の五重塔の建設に着手した。

 南都の官大寺にはいくつも立派な五重塔が建ち並んでいるが、一層部分の四角の芯柱を本尊(金剛界大日如来)にみたて、それを中心に柱の四面を背に金剛界「四仏」が四方を向いて坐る配置は東寺の五重塔にしてはじめてであった。塔自体が大日如来(金剛界)、つまり「法界体性塔」である。この五重塔の用材を空海は伏見の稲荷山から調達したという。

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 一説では、この稲荷山の聖域から木材を切り出したため、それがたたって淳和天皇が病気になった。朝廷は官寺である東寺の造営にかかわることであったので、その罪滅ぼしとして従五位の下の官位を伏見稲荷大社に与え、天慶5年(942)に正一位を、応和3年(963)に京の東南の鎮護神と定めたという。

 平安初期、この山には朝鮮半島から渡来した秦氏の祖霊・山神・穀霊の稲荷神の社が祀られていた。和銅四年(711)2月、初午の日に、秦氏の遠祖である秦公伊侶具(はたのきみのいろく)が伊奈利山(稲荷山)三ヶ峯に3柱の神を祀ったのである。
 秦氏は、山背国葛野郡(今の京都市右京区太秦)や同じく紀伊郡(今の京都市伏見区深草)や河内国讃良郡(今の寝屋川市太秦)などの土地に土着し、農業土木や養蚕や機械の技術によって栄えた。京の太秦を本拠地とし、そこに蜂岡寺(広隆寺)を建立したり、松尾山には松尾大社を祀っている。

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 秦氏は桓武の平安京遷都の際に財力と技術を提供し、朝廷の認めるところとなり京で有数の氏族となった。八色の姓では「忌寸(いみき)」の姓を賜り、その系譜には明法家のほか神社の社家・朝廷の官人・郡司などに数多くの名がみえる。

 この秦氏の祖霊や稲荷社を祀る伏見稲荷山は、奈良時代から鞍馬山や愛宕山とともに修験道の聖地でもあった。空海の頃、東寺の密教僧の山林修行の場として使われていた。
 空海は嵯峨や淳和を通じあるいは朝廷の役務を通じ、官寺である東寺の造営別当として秦氏一族の者との交わりが充分にあったにちがいない。さらに東寺の密教僧の山林修行の場として、秦氏系の神職・社家の理解と協力も得ていたであろう。秦氏の側も嵯峨と空海の関係を知っていて空海には格別に好意的であったと思われる。伏見の稲荷山は、東寺の造営別当として空海にとっては必要不可欠の山であった。空海と秦氏を触媒に東寺と伏見稲荷山はジョイントされたのである。

 稲荷神とは、五穀と養蚕を司る穀物神(「宇迦之御魂(ウカノミタマ)」)・農耕神(「倉稲御魂(ウガノミタマ)」)で、稲荷明神ともいわれる。この伏見稲荷山が発祥の地である。
 稲荷信仰では神の使いとして狐が活躍する。密教では稲荷神をヒンドゥーの鬼神ダーキニー(「荼枳尼天」)で代替するが、「荼枳尼天」は夜叉羅刹と同種で人の死を知りその肉を食らう鬼神であったが仏に降伏させられて善神となり、これが日本では狐を「田の神」の使いとする農民の信仰と結びついて稲荷即狐と考えるようになった。

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稲荷神
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荼枳尼天

 東寺と伏見稲荷大社を結ぶ祭礼が今もつづいている。毎年、4月下旬の最初の日曜日から5月3日まで行われる伏見稲荷大社の「稲荷祭」である。この祭は、貞観年間(859~876)にはじまり、天暦年間(947~957)以後、恒例の大祭になったという。

 「稲荷祭」は先ず伏見稲荷大社を神輿が巡幸に進発するところからはじまる。今はトラックで運ぶ。神輿は伏見街道を北上して洛中に入り、七条通に出て西に進み、醒ヶ井通を南に行き、油小路通と東寺通が交わる交差点の角にある「御旅所」に移座する。かつては八条坊門猪熊の上中社旅所と七条油小路の下社旅所の2ヵ所に旅所があったが、江戸時代にこの地に移った。そこで大社に帰還する日まで氏子たちの参拝を受ける。これが「神幸祭」である。
 「還幸祭」は、5月3日、御旅所を発した神輿が「御旅所」前の東寺通を西に進み、東寺東側の通用門である慶賀門の前で並び(現在はトラックに載せられたまま)、東寺の僧から御供と読経を受け(かつて稲荷神が東寺に空海をたずねた時、空海が稲荷の化身の老人と同伴の女・子供を快く接待したという故事による。江戸時代までは南大門を入った中門の前で行っていた(中門御供))、慶賀門に面した大宮通を南下して大宮九条を右折し、東寺正面の南大門(仁王門)から山内に入り、すぐ左の八幡宮前に到着。東寺側はそこから神輿に御供をし、ふたたび南大門を出て九条通を東に、大宮通を左折して北に、松原通を東に、寺町通を南に、五条通を東に、伏見街道を南行して大社へ帰るのである。

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稲荷祭神輿
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御旅所(油小路通角)
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東寺慶賀門

 この祭はもともと「御霊会」であったという。5世紀頃、朝鮮半島から渡ってきてこの山背の地に定住した秦氏の御霊を鎮め、タタリを除く「御霊会」として行われたという。おそらく秦氏がこの地に根ざすには、人種差別や階級差別や迫害や搾取の悲哀をあじあわない時はなかったであろう。彼らは、未開拓であった山背の盆地を高度な農業技術によって開墾し、治水・農業・養蚕を行い、氏神(稲荷)を祀り、寺を建てた。しかし桓武の平安遷都にともない、艱難辛苦して開拓した土地を没収され、藤原氏ほかの朝廷貴族から疎まれ、時には失脚・敗着・抹殺の憂目にあった一族の要もいたであろう。それでも秦氏は忍従の身に堪えた。
 「御霊会」は平安京の民衆の間に起った魂鎮めの祭礼である。伏見の稲荷山に祀られている秦氏の祖霊のうち御霊といわれる怨霊は、しばしば宮中や市中に疫病というタタリをもたらしたであろう。民衆は、自分たちにもふりかかる災いを避けるため、秦氏のための「御霊会」を「稲荷祭」に代替してはじめたのであろう。

 東寺に伝わっている『稲荷大明神流記』に、次のような伝説があるという。

 弘仁7年(816)、空海は、紀州田辺で稲荷神の化身である異形の老人に出会った。身の丈8尺、骨高く筋太くして、内に大権の気をふくみ、外に凡夫の相をあらわしていた。老人は空海に会えたことをよろこんで言った。

 <自分は神であり、汝には威徳がある。今まさに悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者になったからには、私の教えを受ける気はないか>と。

 空海はこう答えた。

 <「(中国の)霊山においてあなたを拝んでお会いしたときに交わした誓約を忘れることはできません。生きる姿はちがっていても心は同じです。私には密教を日本に伝え隆盛させたいという願いがあります。神さまには仏法の擁護をお願い申し上げます。京の九条に東寺という寺があります。ここで国家を鎮護するために密教を興すつもりです。この寺でお待ちしておりますので、必ずお越しください>

 弘仁14年(823)正月19日、空海は嵯峨天皇の勅により、東寺を鎮護国家の密教道場にすることを任された。その年の4月13日、紀州で出会った神の化身の老人が稲をかつぎ、椙の葉を持って婦人2人と子供2人をともない東寺の南門にやってきた。
 空海は大喜びして一行をもてなし、心より敬いながら、神の化身に飯食を供え、菓子を献じた。その後しばらくの間、一行は八条二階堂の柴守の家に止宿した。

 その間、空海は京の南東に東寺の造営のための材木を切り出す山を定めた。また、この山に17日の間祈りを捧げて稲荷神に鎮座いただいた。これが現在の稲荷社(伏見稲荷)であり、八条の二階堂は今の御旅所である。空海は神輿をつくって伏見稲荷、東寺、御旅所を回らせたのである。

 この伝説が、空海と東寺(の五重塔の用材)と伏見稲荷(山)と御旅所をつなぐエピソードである。伏見稲荷には明治期の廃仏毀釈まで神仏習合がつづき、荼吉尼天法を修する真言寺院愛染寺があった。

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