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014 虚空蔵求聞持法の練行と捨身

 真魚は紀伊から四国へと行場を移した。山岳修行や辺路行の進化や充実感を引っさげて四国に渡った。すでに真魚の五体は鍛えられまるで獣のように山林を動き、五官は鋭敏になり風や水の音も鳥や獣の声もすべて真魚の一身に集まり、唱える真言陀羅尼の声は山を越え谷を越えて虚空に響き渡ったに相違ない。『声字実相義』の「五大に皆響きあり」はそうした感覚から出たものであろう。

 おそらく紀伊の加太(今の和歌山市加太)から小船を漕ぎ出し友ヶ島四島を伝い紀淡海峡を横切って淡路島に上陸したであろう。さらに福良の湊から蜑(あま、海人)の舟を頼り、鳴門の潮をしのいで阿波の撫養の湊に入り、そこから古道として有名な撫養街道を使って内陸に入るか、海浜を室戸に向って南下するかであったろう。ともあれ、真魚は阿波の太龍岳をめざした。

阿国大瀧岳ニ躋リ攀ヂ、土州室戸ノ崎ニ勤念ス、
谷響キヲ惜シマズ、明星来影ス。

 『三教指帰』のこの一節が、少年期の空海が太龍岳によじ登り、命がけの修行を行ったことを伝えている。
 太龍岳、すなわち山頂の近くに四国霊場第21番太龍寺のある太龍山には東西南北の舎心ヶ嶽(今は、南北の舎心岩)があった。

 「舎心」は「捨身」のことで行場の岩場から谷に身を投げることである。空海の当時、ある熊野の辺路(へんろ)禅師のように、実際に「捨身」を敢行する行者がいた(『日本霊異記』)。それが後の修験に「業秤」「覗き」(大峯山の「西の覗き」「東の覗き」など)となって残ったが、それが那智や足摺岬では海中や「常世」への「捨身」(補陀洛渡海)となった。
 空海捨身の伝説はここだけではないが、若き日の空海が山中(修験)と海辺(辺路)でいずれもこれと同類の木食草衣の行者であったことが読みとれる。

 真魚は千仭の谷を見下ろす岩に坐し陀羅尼の読誦や虚空蔵求聞持法を修している時、谷底に向って落下しながらも空中浮遊する霊威を感得したにちがいない。谷に落ちてゆく空海の身体が虚空蔵菩薩と一体と化して空中に浮遊する感覚(一種の幽体離脱)を体験するのも不思議ではない。室戸では、明星(虚空蔵菩薩のシンボル)が虚空蔵菩薩の真言を唱えつづける空海の口に飛び込むのだ。山岳修行は、むしろそのような霊験をめざす神秘主義的な傾向にあった。

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 太龍寺は延暦17年(798)、桓武天皇の勅願により空海が虚空蔵菩薩を安置して開創したと伝えられている。この前年空海は『三教指帰』を著した後、消息がわからなくなる(空白の七年)。はたしてそのような時期に桓武の勅命が空海に下りるだろうか。寺伝とはえてしてそうしたものと割り切るほかはない。

 二層の山門をくぐると参道の両側に樹齢1000年の老杉が立ち並び、その奥に六角堂、護摩堂、庫裏等、さらに30段の石段を上ると鐘楼門、そこから70段の石段を上ったところに弁天堂、 本堂、大師堂、多宝塔と堂塔が並んでいる。大師堂の周辺は高野山奥の院に似て、大師堂の前に御廟橋、裏手に御廟がある。求聞持堂では今も虚空蔵求聞持法が修せられているという。

 四国八十八ヵ所霊場のなかで焼山寺鶴林寺と並び阿波の難所であった太龍寺も、平成4年には西日本最大のロープウェーができ、今はふもとの道の駅「鷲の里」駅から山上の「太龍寺」駅までたったの10分で上れるようになった。
 以前は太龍寺への道しるべでもあった民宿坂口屋にご厄介になり、急な坂道を上り下りしたものだが隔世の感である。私はかつてこの参道の途中で激しい雨のため立ち往生し、ずぶぬれになった難儀の経験がある。


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