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遍路と弘法大師信仰

 周知のとおり四国遍路とは、弘法大師空海ゆかりの八十八ヵ所の霊場(寺)を巡拝するものである。しかし八十八ヵ所すべてを空海が開創したという縁起は、歴史上は容認されていない。それにもかかわらず、今日でも多くの遍路が弘法大師空海を慕って霊場を巡っているし、また空海をめぐる伝説や奇蹟・霊験は四国遍路の随所に充ち溢れている。このことは何を意味するのか。つまり四国遍路における弘法大師信仰とはいったいどういうものであるのか、いくつかの視点から考えてみた。

◆遍路の成立過程
 まず四国遍路の起源をどこに求め、そしてどのようなプロセスを経て今日に伝わる弘法大師を信仰する四国遍路が形成されたのかを概観してみる。

 四国遍路の前史らしきものは平安末期の『今昔物語集』(1140年前後)に遺されている。

今昔(いまはむかし)、仏の道を行(おこなひ)ける僧、三人伴なひて、四国の地(へち)と云は、伊豫・讃岐・阿波・土佐の海辺の廻(めぐり)也

 ここには四国の海辺を歩く三人の仏道修行僧の姿が描かれている。枕詞も"今は昔"というのだから、四国の辺地という海辺を巡り歩く修行はこの時代より古くからあったと考えられる。注目すべきは修行が行われていた"海岸沿いのミチや土地"のことを「辺地」(へち)と称しているという点である。

 また『梁塵秘抄』(1169年)に遺された今様歌には次のような僧歌がある。

我等が修行せしやうは、忍辱袈裟をば肩に掛け、又笈(おい)を負ひ、衣はいつなくしほたれて、四国の辺路(へじ)をぞ常に踏む

 これも四国遍路の前史がわかる確かな文献である。ここではでは、辺地(へち)を辺路(へじ)と言い換えている。(へじと読むのが学術的な説である。)但し大師信仰に裏付けされた四国八十八か所霊場の巡拝、あるいは巡拝者を意味する場合、「辺路」の文字は「へんろ」と読む必要がある。というのはこれが「遍路」に変遷するからである。いずれにせよこれらの文献から12世紀にはすでに四国の海辺の辺地を廻るという修行形態があったことがわかる。

 五来重博士は、周囲をすべて海に囲まれた島国日本には山岳信仰に先立つ「海洋信仰」があることを主張した。「海洋信仰」とは、死後、霊魂が海の彼方に住まうという常世信仰であり、海上他界信仰であり、祖霊や福神・海神(龍宮の神)が海の彼方から福をもたらすという来訪信仰(龍神信仰)などが重層的に混合した海洋民族独特の宗教のことである。

「遍路」の前史である「辺路(へじ)」は、熊野三山につながる紀伊半島の大辺路(おおへじ)中辺路(なかへじ)にも見られるように、辺路(へじ)修行は四国に限ったことではない。熊野灘では、海洋民俗宗教に仏教が混交することによって、中世、補陀落渡海が流行したことがあった。那智の浜では実際に小舟に乗って西方の観音浄土を目指して補陀落渡海をした僧侶たちの記録が『熊野年代記』に記されている。補陀落とは、観音菩薩が住む「ポータラカ」という観念上の浄土のことである。四国の足摺岬や室戸岬も補陀落へのスタート地点であった。いずれにせよ実際は観音菩薩を念じつつ自らを水葬するというものである。水葬は海洋民族の洋上他界信仰が源流であることはいうまでもない。

 四国霊場には古代の聖域との関わりをうかがわせるものが多い。おそらく神道的な霊域であった場所を修行者たちが好んで訪れ、私度僧時代の空海もまたそのような行場に参入したようである。後に熊野の補陀落渡海思想なども混交して四国の辺地霊場が形作られたと考えられる。空海が「辺路(へじ)修行」をしたかどうかは不明であるが、虚空蔵求聞持法を修するために四国の行場を渉猟したことは明白である。(『三教指帰』)

 では、「辺路(へじ)修行」はいつから弘法大師を追慕する「遍路(へんろ)修行」となったのか。『梁塵秘抄』は大師の入定約300年後の成立であるから、おそらく弘法大師ゆかりの行場を参拝する修行者は現れていたに違いない。ただ当時は専ら聖(ひじり)や仏道者が修行として行っていた「辺路(へじ)修行」であり、後世のような八十八か所巡拝という「辺路(へんろ)修行」であったかどうかについて不詳である。

 「辺路(へんろ)修行」に在家者も混じるようになったのは、何といっても大師の入定留身信仰からである。11世紀初頭から広まり始めた入定大師信仰は、僧侶や修験者や高野聖などによって全国津々浦々にまで広められ、たちまちにして朝野の人々の心をつかんだ。それに伴い、弘法大師空海の生まれ故郷である四国では、大師の足跡を訪ね歩くという信仰形態が生まれたものと推測される。それによって「辺路(へんろ)修行」は聖や行者だけでなく、在家信者も参入する「遍路修行」となり、15世紀前後(室町時代)には大師信仰に根ざす四国遍路の原型が形作られたといわれる。

 近世に入ると、遍路はよりいっそう一般化する。江戸時代には遍路の指南書やガイドブックも刊行され、それに伴って"へんろ道"では遍路宿や道標なども整備される。また、「善根宿」や「お接待」といわれる地元の人々のサポートなどもあって、弘法大師の圧倒的な人気と共に一般民衆の遍路も日常的に行われるようになる。このような変遷過程を経て、今日にも見られる遍路特有のさまざまな性格が生じることとなった。かくして、現在のような大師一尊化による四国八十八ヵ所霊場札所が完成されたのである。

 では、大師信仰と遍路とはどういうものか。ここでは国内の"巡礼"との比較で考えてみる。 "巡礼"という信仰形態は日本各地にあるが、"遍路"と呼ぶのは四国遍路だけである。しばしば「四国巡礼」などという文字を見かけることもあるが、正確には「四国遍路」である。たしかに"巡礼"には違いないが、四国で生まれ育った筆者には奇異な感じがする。地元では遍路を"巡礼"とは決していわない。これは単なる表現の違いだけではなく、筆者にはその内実に本質的な違いを感じるのだ。

◆巡礼と遍路の相違
 日本の巡礼を代表するものは観音霊場である。日本百観音といわれるように(西国三十三所、坂東三十三所、秩父三十四所、合計100)、巡礼はいずれも観音菩薩を本尊とする霊場を巡拝するものである。そこには本尊の統一性があるが四国八十八ヵ所霊場における本尊はバラバラである。大日如来や阿弥陀如来、釈迦如来や薬師如来、観音菩薩や地蔵菩薩、虚空蔵菩薩や弥勒菩薩、文殊菩薩に不動明王、その他諸々で、実にバラエティーに富んでいる。四国霊場は多様な神仏が複合し、その形成過程においても、様々な信仰が重層的に発展して形成されてきた。「まんだら四国」と呼ぶ人もいるが言い得て妙である。

 次に信仰対象である。観音信仰とは観音菩薩と結縁すれば極楽往生を約束されるという彼岸・浄土思想によって成立している。また、観音菩薩は歴史上の個人を指すものではない。後世日本の各地には不動明王霊場や薬師如来霊場など、本尊を特定して巡拝する霊場は各種存立したが、本尊はいずれも歴史上の実在ではない。

 それに対して、四国八十八か所の"主尊"は歴史上実在した弘法大師空海だといえる。そのすべての霊場札所では必ず巡錫姿の大師像が出迎えており、本堂と共に例外なく「大師堂」が建立されている。このことからも伺えるように、四国霊場を統括する実質上の"主尊"は歴史上実在した弘法大師空海であることが知れる。さらに遍路は各霊場では本尊の真言だけでなく、必ず「南無大師遍照金剛」(「弘法大師空海に帰依します」)という宝号を唱える。

 つまり、観音巡礼の結縁対象が観音菩薩であるのに対して、四国遍路の結縁対象は大師遍照金剛ということがわかる。遍照金剛とは、唐において密教を相承した空海が師の恵果阿闍梨から賜った灌頂名で、「この世の一切を遍く照らす最高の者」、即ち大日如来のことを指している。つまり四国遍路における"結願"とは、弘法大師空海イコール大日如来と"結縁"させて頂くための修行旅なのである。わかりやすく言えば、四国遍路の"結願"とは「現世においてこの身のままに」大日如来の血脈に連なる(あるいはそのことを自覚する)一つの修行儀式ともいえるのである。少なくとも弘法大師を通して大日如来に接近していく。これは遍路本人の自覚の有無に関わらず、遍路旅そのものが結果的にそのような世界に導くといった方がいいのかもしれない。

 現代の仏教といえば、鎌倉時代に庶民レベルにまで浸透した浄土思想を起点とするものが多い。当時の末法思想は現世を穢土と見做し浄土を欣求するものであった。しかし日本の浄土思想に先立つ空海の密教はそもそも現世を重視する。基本的に現世肯定である。遍路と巡礼の違いを信仰的原理から検証した文献があるかどうか筆者には不明だが、少なくとも高野山大学大学院の「遍路学」では特段検証してはいない。研究的な意味がないのかもしれないが、四国遍路の特色を考えるとき、筆者にはどうしても気にかかるのである。

 自分が大日如来の血脈にあるという自覚はひとつの「覚り」ともいえよう。観音信仰の目的が死後の極楽往生であるなら、四国遍路は現世において往生(成仏)することであるともいえる。そうならば、そこには「彼岸」と「此岸」という基点の置き方の相違が浮上する。つまり成仏の場所が「あの世」と「この世」という天地ほどの違いがあるということだ。これは一般的な仏教思想に関わる大問題である。しかし四国遍路におけるこの違いこそが、顕教(一般仏教)と密教の特徴をシンボリックに表していることに気がつかれるであろう。ざっくりいえば顕教→観音巡礼、密教→四国遍路である。

 四国遍路が現実性に立脚していることは、四国霊場という聖地空間の中で、具体的事象として実感することが多い。筆者も遍路途上でいくつも不思議な体験をしたが、空海をめぐる伝説や奇蹟・霊験は四国遍路の随所に充ち溢れているのはそのことを物語っているように思われる。弘法大師を慕って全国から巡拝者が訪れ、なお遍路のリピーターが続出する現象は、おそらくその具体性・現実性に触れるからであろう。現代の遍路は必ずしも信仰心が篤いとは限らないが、信仰的には無自覚のままにただ巡拝しているなかで、実は遍路はその事を"体験している"ように思える。

 そのこととはいったい何か?それは実人生において「何かが変わる」というこの "現実"である。密教的な不可思議な現実である。最も多いのは健康が回復したとか病気が治癒したとか祈願がかなったとかであるが、実はこの効験こそが、空海の主張する真言密教の核心部分なのである。

◆空海の現世志向
 真言密教の核心部分である現実性(現世肯定)について教義的に見てみよう。空海は密教が従来の仏教(顕教)よりも優れていることを『弁顕密二教論』で、次の五つの観点から特徴づけている。法身説法説、果分可説、三密加持、成仏の速疾、教益の優である。その中で「成仏の速疾」は「即身成仏」に直結する空海の思想と実践である。

 空海の『即身成仏義』は無類の難解書であり簡単には取り扱えないが、それを承知で筆者の解釈で可能なかぎり接近してみよう。空海は『即身成仏義』において「一切の仏法はこの一句を出ず」と賛嘆しているように、「即身成仏」の一句は仏教の究極であり、密教の根本命題であることを説いている。それまでの大乗仏教学では、成仏という最終目的に到達するには、通常「三大無数劫」という天文学的な歳月を必要とされると考えられていた。それに対して空海は、成仏は速疾に可能であるという斬新な教説、すなわち「現実論」を打ち出したのである。これが空海密教の「即身成仏」であるが、その根拠とは何か。

 サンスクリット語の第一人者である宮坂宥洪師の解説を概括すれば次のようである。
 「それまでの仏教は『如何にして我が成仏するか』という問題の立て方をしてきた。ところが空海は『成仏』という言葉を『仏に成る』という意味では考えていない。真言密教の根本経典である『大日経』のサンスクリット原典は現存しないが、チベット語訳に残るサンスクリット原題を見る限り、『成仏』のサンスクリット語は『アビサンボーディー』であり、これは『現等覚』を意味する。驚くべきことに『成仏』には『凡夫が仏に成る』という意味は本来無く、もっぱら『仏である』と、ただこれだけを意味するのだ。空海はこの原義を正しく理解していたであろう。日本仏教の僧侶たちの中で、インドのバラモンに師事してサンスクリット語を完全にマスターしていたのは空海一人である。」

 またこのようにも言われる。
 「仏陀の叡智は釈尊ただ一人の内にあるものではない。仏陀の慈悲は釈尊ただ一人が発揮しうるものではない。むろん仏教の真髄といえる『智慧と慈悲』を、この世に実現した釈尊は稀有にして至高の存在であった。だが、それは釈尊がつくりだしたものではなく、釈尊が見出した普遍の法であった。そのことは釈尊自身が明言している。普遍の法は宇宙に遍在しているものであろう。 ならば、それは我が身のうちにも、すべての衆生にもそなわっていてしかるべきだ。『智慧と慈悲』の当体である仏心は、宇宙の万象に宿っている。そうであればこそ、一切衆生は救われる。空海はそう確信したのだ。」 (詳細は本サイト・宮坂宥洪のページ、「即身成仏-成仏と万人救済の両立」)。

 現代の宇宙科学や生命科学は、物理的な分析によって現象や存在を説明してきた。要素還元主義はデカルト以来西洋科学の伝統的思考である。しかし無意志的に見える宇宙のはたらきに空海は仏の「識大」(智慧と慈悲)を直感した。仏心が宇宙の万象に宿るなら我が身にも宿る。我は宇宙の子である。空海は仏心宿る人間を「仏の子」と観じた。

 確かに、もともと「仏の子」が成仏するのであれば「三大無数劫」という長い時間がかかるわけがない。顕教では凡夫と仏との間には遠大な乖離があるが、空海密教には本来仏と衆生との距離はない。これを覚らせるのが真言の力である。衆生(あらゆる命)が仏の子であるなら救済(成仏)は現世において可能である。これが「即身成仏」の原理である。

 即身成仏の考え方は空海以前からあったが、「万人の救済」という視座を仏教史上初めて理論づけたのは空海であった。宮坂宥洪師は、空海の独創性は「成仏」という基本的には自利志向のテーマに「衆生」という利他の視点を導入したことであるといわれる。このように「成仏」と「救済」を関連づけた仏教思想家は空海だけである。真言密教があくまでも大乗仏教である所以でもある。

 また顕教では覚りへの過程、すなわち因分を説いてはいるが、果分たる覚りそのものは言説を超えたもので説き得ないとされてきた。しかし、空海によると密教はその果分たる法仏の自内証(法身説法)そのものが露わになる教であるいう。三密加持はそのための真言門における実践である。我の三密(身密・語密・心密)と仏の三密が相感応しあって、渾然一体、融合、調和する世界が顕現される。いわゆる入我我入である。『即身成仏義』の六大説はその根拠を読み解く詩であるが、そこに「即身成仏」の理由がシンボリックに表現されている。

 能生と所生、つまり生み出すものと生み出されるもの、包むものと包まれるものが本来一つであることを、すなわち万物の究極的な姿を密教は実感させるのである。仏の身体も衆生の身体も不異にして異であるという現実である。であればこそ「三密加持すれば速疾に顕わる」という「即身成仏」の実証性が主張されたのである。

 「即身成仏」の原理的根拠をあえていうなら、衆生は本来「仏である」ことだと筆者は考える。釈尊が説く「法」は宇宙の普遍的な真理であり仏心である。『即身成仏義』の中で空海は言う。「曰く身とは我身、仏身、衆生身、これを身と名づく」と。そして三者は「不同にして同なり、不異にして異なり」と。

 「即身成仏」とは己の成仏だけが目標ではなく、いや、空海はそれよりも現世において先に衆生を救済するというのが悲願であった。この誓願は顕教が主張する三劫成仏(事実上あの世での成仏)を逆転させる空海の強烈な現世肯定である。空海は鎌倉仏教のように現世を穢土というような否定的な捉え方はしていない。何故なら空海は現世を仏の世界ととらえていたからだ。衆生身(生きとし生けるあらゆる命)は仏身である。我も仏身である。であるからこそ、仏の世界は本来この世であり、仏の力は我にはたらき、この世にはたらくのである。現在この世が愚かで醜く穢土と思うなら、人は本来の力(仏性)を発揮してこの世を密厳浄土(仏国土)にせよ。大日如来の血脈にある衆生は、如来の加護により原理的にもそれは可能である。空海のこの大悲願を遍路の結願後、筆者は高野山で空海から聞かされたような経験がある。

 こういうとそれは信者の幻聴だといわれるかもしれない。「即身成仏」も密教の神秘思想であり、仏教の異端だという人もいる。だが考えてもみよ、釈尊は三劫成仏ではなく、生身のままこの世で覚りを開かれた。覚者(ブッダ)=仏になられたのは生前であり、あの世で成仏されたわけではない。誤解を恐れずにいえば、釈尊こそが「即身成仏」であるといえるのだ。仏教学的には異論もあろうが、筆者が言いたいことは、釈尊の問題意識は現実における諸行無常を起点にしており、死後の世界を語るものではない、ということである。仏説とはこの世の「法」を説かれた仏陀たる釈尊の教えである。

◆大師信仰の現実志向
 空海は塵芥で汚れた心を洗って埋もれた仏性を掘り起こせば、現世において成仏できるという。人は生きているうちに目覚めなければならない。伊予(愛媛)には、強欲悪鬼の衛門三郎が托鉢のため門口に立った旅僧を弘法大師と知らずに棒で追い返す話がある。その後、度重なる不幸に見舞われた彼は、弘法大師に詫びるために大師を追いかけて遍路旅に出る話だが、長い遍路旅の末に遂に巡り会うのである。衛門三郎は泣いて弘法大師に懺悔する。苦難の遍路旅が、かつて悪鬼と嫌われた強欲な心を洗い流し、衛門三郎の心に仏性を磨き出したといえよう。

 弘法大師の後を追って二十余回の遍路旅の末に巡り会うというこの伝説が、地元四国では遍路の起源とされてきた。これを起源にすると遍路は9世紀初頭のことになるが、弘法大師との邂逅を願う「遍路の精神」においては確かに起源といえる。

 ここから、四国では時空を超えて今もお大師さまが遊行されており、遍路の途上いつか必ずお大師さまに巡り会えるという強い現実志向(遊行大師信仰)が生まれたものと考えられる。衛門三郎の伝説に類するこの手の遍路体験談(本当にお大師様に出会った)が四国に数多く存在するのは、このような遍路の現世志向の強さの現れであろう。衛門三郎の伝説はあの世で弘法大師に会うのではなく、この世で巡り会う話である。

 ところでこの遊行する大師像は、穿ってみれば日本の庶民が抱く神概念と無関係ではなさそうである。日本人にとって神仏や霊は常に浮遊し移動するものであった。古代の山岳行者の多くが神仏霊を捧持して遊行していたことを考えると、遍路の「同行二人」(お大師様と同行する)にも、大師の霊格を捧持して修行するという観念が感じられるのである。四国人のお遍路さんを尊崇する気持ちはおそらく移動する神概念とも無縁ではないのではないか。

 四国の大人たちは伝統的にお遍路さんを大切にする。子供にもそのように教えてきた。そうはいってもわんぱく盛りの子供のことである。筆者の甥っ子などは遍路の収め札をメンコぐらいに思っていた。本堂の収め札の箱の中から、数の少ない金や銀のお札を拾っては、親に叱られながらも境内で遊んでいた。しかしこの腕白が成長すると変わるのである。

 だいぶ以前の話だが、女優の左幸子さんの歩き遍路経験をエッセイで読んだことがある。あるとき歩きくたびれて郊外のバスに乗ったが、あいにく座席はガラの悪そうな若者たちが占拠していた。ところが彼女が乗り込んできたとき、若者たちははじけるように立ち上がって席を譲ってくれたというのだ。その理由を、最初は自分が女優の左幸子だと気づいたからだろうと思ったそうだが、そうではなく、ただ遍路だったことがその理由だったという、その鮮烈な体験を語っていた。若者がはじけ飛んだのはただの親切心ではなく、「同行二人」のお遍路さん、つまりお大師さんが乗り込んできた!そう感じたのだ。それが当時の四国の若者が遍路に抱く一般的な感覚であった。四国では確かにお大師さんは生きておられるのだ。

 このような体験の他に難病奇病が平癒したという例は実に多い。密教は瞑想によって自然界(大日如来)と合一する神秘行法である。これを現代風に言えば、人間と自然との心身の交感・交流と観ることも出来る。昔から病遍路の中には奇跡的に難病が治癒したケースが数多くみられ、それは大師様のお陰、四国遍路の功徳と信じられてきた。しかし、本来自然のなかから命を授かった人間が、その多くを山道や海浜を歩く遍路の途上で、自然の霊気、エネルギーを浴びることによって本来人間にそなわっている自然治癒力を回復したとも考えられる。だがこれは自分の力であって自分の力ではない。自分を生み出してくれた自然界の力である。このように四国遍路は生きとし生けるもの全てに大日如来の命が流れていることを自覚する、まさに密教的世界を体感できる旅路でもあるのだ。

◆現代人と遍路
 昔時の遍路は信仰の力を背景にした苦行の行程であったが、現代は観光、健康、信仰の三拍子そろった、気軽に楽しく体験できる(巡礼の旅)となっている。道路網、交通網の発達や都市化によるルートの安全確保、休憩所や宿泊施設の充実などがそれを可能にし、さらに旅行社やメディアなどの明るいイメージとしての取り上げ方などが、現代人をいっそう四国霊場へと誘っているようだ。

 団体バスの巡拝やマイカーの利用など、短期間で回れるこのような遍路ブームの中にあって「歩き遍路」をする人々が増加していることは注目されてよい。さらに相次ぐ「歩き遍路体験記」の出版や、インターネット上での情報発信なども現代遍路の特徴である。つまり結願後なお社会へ発信することを考え合わせると、単に宗教的現象という括り方では収まりきれないものがあるように思う。多くの遍路には「何かを掴みたい」という思いがあるが、それが切実であるならば遍路に出かける動機に宗教性があるはずだが、必ずしもそうはなっていないところが現代遍路の特徴ではなかろうか。 

 現代人は"本当に"遍路をやったのか?その考察のたたき台として、歩き遍路の体験談を辰濃和男氏(元朝日新聞記者)の『四国遍路』(2001)と、作家の山本和加子氏の『四国遍路の民衆史』(1995)に求めてみたい。前者は遍路体験記のベストセラーであり、後者は体験記のみならず遍路史としても『遍路学』(加賀美智子、高野山大学)で評価されている。両者の共通点は、結願後なお四国にこだわり遍路記を書いた点と、中高年を迎えた人生の節目に「四国に誘われた」という動機である。辰濃氏のように定年退職したあと「山河に身をゆだねて」「独り旅をしたい」というのも、子育てを終えた山本氏が、「心の中に空洞ができたようで、何か手応えが欲しい」というのも、遍路に出かける現代人の多くに通底する心情である。

 四国の魅力とは、そのような心情に応えてくれる何かを想起させる異次元の地である。なにしろ白装束の遍路衣装や、納経墨書や小道具、地元のお遍路さんを遇する「お接待」などの宗教的装置が用意されている。確かにそのような環境を好んで選択するという意味では宗教的なものを求めていると言えなくはないが、必ずしも自覚的なものではない。先の二人も告白をしているように、特に宗教に馴染んだことも興味をもったこともない。弘法大師に帰依する気持ちもない。これも遍路記を著す人々の多くが表白しているが、ここに現代人の遍路観が見えるようだ。

 とはいえ、辰濃氏は「天声人語」を執筆してきたほどの教養人である。四国霊場と弘法大師との関係や、各霊場の「大師堂」の尊像が空海であることぐらいは承知であろう。しかし、自分が訪れる場所が空海の霊跡であるという自覚や関心はほとんどない。例えば、海を語るに欠かせない室戸岬の「御厨人(みくろど)窟」での彼の感想はこのように記されている。「翌朝、空海が修行したと伝えられる洞窟に入った。コウモリがいた。」 これだけである。何ともノーテンキなインテリお遍路さんだが、彼にとっての四国遍路は、「山河に身をゆだねた」寺巡り健康ウォーキングなのだろう。

 しかし、辰濃氏が旅の途上で享受する特殊な遍路体験(お接待、親切、触れ合い)は、四国人の大師信仰とその文化が生み出したものである。お遍路さんの丁重な扱われ方は、長年培ってきた大師信仰の伝統があってのことで、ただのボランティアや地域観光事業の一環ではない。とすれば、遍路体験とは「大師信仰とは何か」に気づき、あるいは感じることである。彼ほどの知識人がそうではなかったように、現代のインテリ遍路には概ねこうしたものが多い。

 山本和加子氏は、遍路とはどういうものか、その歴史や暗い史実に迫るなど、辰濃氏よりもはるかに正面から遍路を見据えている。しかし遍路信仰のもつ宗教的内実からは必ずしも正鵠を得ているとは言い難い。例えば大正、昭和にかけて、四国に蔓延したハンセン病遍路の救助運動は、仏教徒からではなくキリスト教者であったことを高く評価しているが 、キリスト社会の近代思想があの隔離収容所の地獄の歴史につながったことを見落としている。

 ハンセン病は「接待」くらいで感染する病気ではない。四国にハンセン病遍路が溢れたのは、彼女がいうような感染が原因ではなく、全国のハンセン病患者が集まった結果にすぎない。村を追放された業病持ちの彼らも四国に行けば"食えた"からである。彼らが四国で食いつなぐことができたのは、遍路すべてを「同行二人」と見る強烈な大師信仰、即ち「接待」という布施(食糧供与)が四国にはあったからである。

 大師信仰には受容の思想はあっても隔離収容の発想はない。それはキリスト社会の近代的思想である。愛の善意と慈悲とは似て非なるものである。団塊世代が大量にリタイアする昨今、彼らもまた第二の人生を求めて"完全な遍路スタイル"で「自分探し」の旅に出かけているようだ。だが、イエス・キリストに無関心のままに、敬虔なクリスマスの聖夜をただ楽しむ現代人の気持ちがないか、「歩く」前に自問してみることは無駄ではあるまい。

◆現代人を遍路に駆り立てる力
 四国遍路は現代の一つのブームである。歴史的には江戸時代に次ぐ第二次ブームといわれている。現代人を四国遍路に駆り立てる力は何か。これを探るのに最もわかりやすいヒントが『遍路学』 に引用された現代遍路に関する各種のデーターである。中でも総理府広報室の国民の意識調査と遍路順拝数との対応は興味深い。日本人は戦後一貫して「物の豊かさ」を求めてきたが、昭和55年ごろから「心の豊かさ」を重視しはじめた。それに伴って遍路の数がそれまでに比べて飛躍的に増加(約3倍)している。昭和59年から63年にかけてはさらに増加(約四倍)している。

 これらのデーターから、『遍路学』では遍路順拝数の増加の背景に、経済の発展と国民の意識や行動の変化、その連動、そして「もの」の重視から「こころ」の重視への意識転換などを認めている。そこに見えてくるものは生活のゆとりと遍路の増加である。「お伊勢参り」や「西国三十三所観音巡礼」が示すように、庶民の参拝には宗教的動機と同時に観光的動機が含まれていた。四国遍路は比較的観光要素は少ないといわれているが、江戸時代庶民の経済力の向上とともに四国遍路がブームとなったことを勘案すると、いつの時代も経済力と巡礼旅行は連動するものと思われる。とはいっても宗教的動機を抜きに語れないのが昔時の巡礼や遍路であった。

 現代遍路には宗教的な動機は希薄なままに遍路に旅立ち遍路を繰り返す。現代人に昔時の遍路との違いがあるとすれば、それこそがまさに遍路へと駆り立てる「現代的な力」だと考えられる。例えば旅行の特質として遠隔地への移動、非日常的時間の体験、日常的自己からの解放、地元の人々との触れ合い、などとすれば、四国遍路は実にそれらを充足させてくれるのである。

 まず四国は島国のせいもあり本州からは遠いという感がある。何よりに都会人にとって四国霊場は異次元の空間である。聖なる場所における札所順拝という宗教的行為が心を落ち着かせ、脱日常性を高める。また白衣の遍路衣装に身を整えるだけで、地位や肩書きに関係なく誰もが等しく遍路になれる。つまり日常の柵(しがらみ)から自己を解放できるのである。年齢性差に関わらず人々がこれほど簡単に変身できる世界はない。しかも、お遍路さんは四国においては尊崇の対象であり、「善根宿」や「お接待」などを通して土地の人々の親切心や触れ合いを味わうことができる。その上「結願」という自己達成感は何物にも換えがたい。これらが通常の観光旅行とは異質な四国遍路の魅力であり現代人を駆り立てる力であろう。

 しかし遍路は本来修行者の「修法」のひとつである。庶民にとっても現世利益のあらゆる願掛けや、死者の供養、成人通過儀礼など切実な宗教的行為であった。つまり修行者や庶民の真摯な心が遍路という形の宗教的行為を形成してきたのである。今日でも地元の遍路は強い大師信仰に根ざしており、そのために何十回も回る地元遍路は珍しくない 。そのような遍路は当然弘法大師への「帰依の旅」と心得ている。

 現代遍路の特徴として、必ずしも宗教的動機は高くないという点を挙げたが、これらの特徴は四国以外の土地の、それも比較的高学歴の都会人に見られる現象である。彼らが遍路に魅了される要因をもう少し探ってみよう。

 特に宗教や信仰心を持たぬままに聖地を旅する都会人は、本来部外者であるはずだが、四国遍路に限っては大切に受け入れられる。遍路というだけで異邦人である自分が好意的に迎えられるのだ。何と、この私を"拝んでくれる"のである!現代人にとってこの体験は強烈であり、遍路以外で味わうことはできない。そして徐々にではあるが、そこに目に見えぬ力を背中に感じ、それが「オダイシサマ」という聞きなれない不思議な人物の力が作用していることに気づくのである。人々は「同行二人」の内実をこのようなプロセスのうちに実感し、そして四国遍路に"ハマる"のである。地元ではこれを「お四国病」という。

 山本氏はいう。「正直いって私の遍路行きは興味半分であった。弘法大師がどういう人か私はほとんど知らないし、知らない遠い昔の人に義理だてする気持ちもなかったが、道で行き交う素朴な地元の人たちの接待にふれ、その大師信仰のこころを裏切ってはならないような心持になった。前へ前へ突き進んで、結願を見るまで遍路をやめるという気は自然になくなっていた。」と告白している。

 また遍路の途上で出会った青年の話も記している。全行程山歩き気分のジーパン姿の若者遍路が、足の裏のマメが潰れて靴下が血だらけになった。もうやめようと思っていたとき、近くのミカン畑で働いていた人に「おへんろさ~ん、これお接待します」とミカンをもらった。ここで遍路をやめたら悪い気がしてこうやって歩いていると彼は語った。彼は白装束なんか恥ずかしいから、普通の山歩きの格好で来たのに、どうして遍路とわかったのか不思議だった。しかもやめようと思っていたまさにその時、地元の暖かさに触れて遍路を続行しているという話も紹介している。(『四国遍路の民衆史』山本和加子)

 挫折しそうになったとき、四国では不思議に何らかの援助や励ましに出会うのである。もう一歩も進めずにうずくまっている遍路の話を聴いてあげるお婆さんもいる。そのような場面を筆者は何度も見てきた。地元社会では遍路に対する日常的な行為も、遍路にとっては非日常的な体験なのである。地元の人の親切に触れるたびに、不信心な「ナンチャッテ遍路」も目に見えぬ「オダイシサマ」のご加護を感じずにはいられなくなる。お大師様は、日々活動しており、さまざまな姿をとってその姿を人々の前に現すからである。『遍路学』ではそれを、聖地空間の道中で、「オダイシサマ」という言葉に出会い、「オダイシサマ」にひびきあう「自分」を発見していく過程だと分析している。これが現代人を遍路に駆り立てる本当の力であろう。

 「歩き遍路」は、言われるほどには信仰心が厚いわけではないが、例えばトライアスロンのような体力試しに挑んだ「歩き遍路」も、弘法大師に無関心な「癒し系インテリ遍路」も、こうして徐々に、「信仰遍路」に"形成されていく"のである。むろん筆者も、その後の辰濃氏も山本氏も例外ではなかった。他から強要されるわけではなく、信仰心の有無にも関係なく、自らの意志で信仰の世界に入っていく。これが宗派や教義や思想を超えて、あらゆる相違を超えて全体を包摂する四国霊場の密教的な力である。

 空海はこのプロセスを以下のように言う。

如来の法身と衆生の本性とは同じく、この本来静寂の理を得たり。然れども衆生覚せず。故に仏、この理趣を説いて衆生を覚悟せしめたまふ。」(『即身成仏義』)

 ここに、無明なる遍路を覚り(悟り)へと導く大日如来の説法が説かれている。理屈でもなく、言語でもなく、文字ですらない。山河に吹き抜ける風のような神秘的な説法である。四国の聖地空間を異動していく遍路たちは、空や海からその説法に触れていくなかで、大日如来たる「オダイシサマ」が四国の山野にこだましているのを感じ取っていくのである。

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