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臓器移植問題――①仏教の論理(欲望について)

 先日、臓器移植法(A案)が解散前の国会で"駆け込み成立"した。そして脳死は一律に人の死と定めた。日本医師会・日本移植学会・患者の会や、臓器移植を進める支援団体の陳情とロビー活動が、ついに政治を動かしたのである。

 有り体に言えば、助かる見込みが少ない人はさっさと死んで貰いましょうという法律である。これによって、今後、国内での臓器移植は加速し、多くの患者が移植の恩恵に浴し、患者の感謝の声は医療現場に溢れ、そして脳死移植のコーディネートはコンピューターの中でさらにスピード化し、システム化し、権力化し、医療現場では、日夜人間が切り刻まれ、次々と臓器や目玉が取り出される様子を、人々は日常風景として受け止めるようになるのだろう。

 長澤弘隆師は「臓器移植法」改悪についてすぐに抗議文を書かれた。詳細は<長澤弘隆のページ>に掲載されてあるので是非一読することを勧めたい。私はとりわけこの問題に携わってきた訳ではないが、この法案に対する意思表示だけは公表しておきたい。私はこの「殺人法案」に断固反対する。その根拠について、これからシリーズでいくつかの理由を述べたいと思う。まずは「仏教の論理」である。

 実はこの問題について、10年前に私は四国遍路の途中で考えたことがあった。(「空海を歩く」<四国八十八ヶ所遍路・空と海と風と>第三十三回の冒頭)当時から私は臓器移植の根源を、人間の飽くことなき欲望ととらえてこの問題の危険性を感じてきた。

 最近読んだ『生命の探求¬-密教のライフサイエンス-』(法蔵館)では、人間が人間の生命を操作することに大いなる疑問を呈している。著者は松長有慶師(現高野山真言宗本山金剛峰寺座主)で、師もやはり「欲望の充足の容認」という視点から臓器移植を批判されている。

 「臓器移植の医療が実施された場合、仏教の側から考えられる憂慮すべき点は、人間の欲望の充足を安易に容認する危険性である。仏教はもともと欲望が苦の原因であるとして、その抑制を説いてきた。欲望を積極的に肯定した密教でも、自我に基づく欲望は退けられる。一日でも長生きしたいというのは人間の欲望であるが、それを無条件によしとして、医学は人間の欲望を満足させる方向に進んできた。そこでは人間の尊厳性は二次的な意味しか持たない。内容の如何を問わず、生命の延長を目ざす現代医学の意図するものが、短くとも充実した生を説く仏教の人生観と抵触するのではなかろうか。与えられた寿命を天寿と受け取り、生あるかぎり自己の内面性を高めることに努め、人間に与えられた本来の生命力を完全に燃焼し尽くす。そこには肉体的な生命の延長のみに腐心する現代医療に求め得ない心の安定がある」(同書P・213)

 臓器移植しなければ助からない患者の気持ちや、幼い命を救いたい親の心情は十分想像できる。助かる手段があるなら何でもすがりたくなるのは自然な感情である。移植手術はだれに非難されるべきものではない。病気はこの子の責任ではない。なのに日本で移植ができないのならと、海外での渡航移植を行った家族と患者のニュースも何度か見聞した。両親の必死の思いと、善意の支援者が資金集めに奔走する様子など、マスコミはしばしば美談仕立てで放映するからだ。

 欧米で手術をした場合、渡航費用、滞在費、手術費など合わせて最低一億円はかかるといわれている。それだけ莫大な費用をかけても命永らえようとする日本人の姿を見るたびに、私は同じ日本人として割り切れない気持ちになる。

 ユニセフの発表によれば、五歳の誕生日すら迎えられない子供どもが、世界で一千万人いるという。毎年約一千万人の幼い子どもが死亡しているのである。また住む家もないストリート・チルドレン、学校にすら行けないアフリカの子どもたち、水さえまともに飲めない子供たち、難民キャンプの子たちなど、医療も食料もままならぬ子どもは何千万人もいる。ほとんどが貧困や紛争などが原因で、これもこの子たちの責任ではない。一方では数千円で助かる幼い命が日々失われ、(毎日2万6千人以上)一方では一億円をかけて他人の臓器を移植してでも生かそうとする幼い命もある。

 私たちは、日本という国に生まれたことにもっと感謝すべきである。何しろ我が子さえ助かればいいのである。一億円のカンパは美談としてマスコミは支持し、誰もこれを批判することはできない。しかし、先進国という与えられた境遇に対してどこまでも不足を言い募るのがこれまた人間である。このことを忘れてはいないか。

 もし私が一億円かけて手術をして日本に帰ったとき、貧困国で死に行く子どもたちをテレビで見たならば、私は自分が恐ろしくなる。それは我さえよければという自己の執着心を覗き見るからである。このようなエゴの欲望を仏教では「渇愛」とする。釈尊は「渇愛」が煩悩(苦)の原因であると教えられた。我はまさに煩悩のカタマリである。

 科学文明は確かに人類に多くの恩恵をもたらした。命を救うのが医者の仕事であれば、臓器移植を推進するのは当然である。だがそれはあくまで医療の論理である。あるいは世界保健機関(WHO)が渡航移植を規制する動きを見せたことから、今国会で改正論議が高まったのは、世界の流れ(外圧)を先取りした国家外交の論理である。同時に陳情団体の要望に答えようとするのは政治家の論理である。あるいは欧米での臓器移植には莫大な費用がかかるから、国内のドナー(臓器提供者)を増やしてレシピエント(受給者)に幅広く流通させようというのは、需要と供給の向上(活性化)を目指す経済学の論理である。

 そして仏教には仏教の論理がある。それは上記のいずれの論理にも与しない独自の論理である。仏教の論理をいえば、臓器移植を進めようとする全ての理屈にノーを突きつけることである。それ以外に「仏教の良心」はありえない。仏教の戒めの第一番目は「不殺生」である。(五戒・十善戒)これが大乗仏教の精神である。ならば脳死という死の判定基準もあやふやの殺人行為を認めてよいものか。

 仏教の根本は欲望(煩悩)の超克である。反対に政治、経済、医療、総じて文明は欲望の充足である。それはイギリスの産業革命以来、今日に至る技術文明の発展が、人間の何に応えようとしてきたかを振り返れば誰にでもわかることだ。そして臓器移植の先進国は欧米である。そもそも日本人は、車の部品交換と同じように臓器を交換するなどという発想は湧かない民族である。欧米の影響である。(日本は歴史的にドイツから近代医学を移入してきた。ドイツは臓器移植の最先進国である)

 移植推進団体は日本を遅れているというが、それはただ現代医療の理屈であって、臓器移植に躊躇してきた日本人の感性は世界でもっとも洗練されている。この意味もわからずに、臓器移植を世界の趨勢として、日本までもがバスに乗り遅れまいと加われば、世界中が臓器移植という車のアクセルを踏むようなものである。

 ブレーキなき車はいずれ暴走するしかない。反対派の日本人の躊躇はそこにあった。技術先進国でありながら素朴な疑問を失わない日本人は、遅れているどころかはるかに洗練されているのだ。仏教者までもがバスに乗り遅れまいと推進派に与すれば、一体誰がブレーキを踏むというのだ。

 日本人は自然を敬い、山の神を拝み、自然の命の恵みに感謝を捧げてきた。欧米人は、人間に役立つものは自然から何でも収奪してきた。物質文明の進歩が人間を幸福にすると信じて、大量生産大量消費という資本主義経済の論理を世界に広げ、市場競争のアクセルばかりを踏み続けてきた。その結果、地球環境汚染、生態系の破壊、資源の枯渇と争奪戦、貧富の格差と民族紛争、そして国家エゴと国家エゴが衝突する核兵器武装の脅威である。

 過去に学べというならば、欲望の充足を前にして、「果たしてこれは人類を本当に幸せにする道なのか」と、一歩立ち止まって考えることである。暴走する前に、誰かが反省を求め、一方的な暴走にノーを突きつける勇気をもつことではないか。それはおおむね時流に棹差す「嫌われ者」にはなるが、せめて仏教徒だけでもその「嫌われ役」を引き受けるべきである。それが大乗仏教の崇高な誇りというものではないだろうか。(続く)

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