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空海の構想―もう一つの人間の大地―

Ⅰ構想の源流-紀元前、荘子とブッダの説いた人間論

(1)混沌(コントン)王の死
 
  南海の(とある地方に、世界を識別し、そのイメージを言葉《声と意味と文字》にちぢ め、その知識に頼って、つかの間の人生を過ごす民がいた。この民は、たえず、目新しい言葉の組み合わせを考えては、おたがいに納得しつづけなければならなかった。この民の)王の名を"シュク"(左脳によって生きる人)という。
北海の(とある地方に、世界を感情によってとらえ、その都度の快・不快感にしたがっ て、つかの間の人生を過ごす民がいた。この民は、たえず、目新しい感情移入できるもの 《音楽など》を作っては、自分や他人のこころを慰めつづけなければならなかった。この民の)王の名を"コツ"(右脳によって生きる人)という。

その二つの地方の中央に位置するところ(に、言葉《知識》にも感情にもとらわれずに、 自然のあるがまま、成すがままにしたがい暮らし、つかの間ということさえ知らずにありのままに生きている民がいた。この民は、そういうことだから、南や北の民のように、余計なことに悩まさられることはなかった。この民)の王の名を"コントン"(間脳のよって生きる人)という。

南のシュク王と北のコツ王は、ときどき、中央のコントン王のところで出会うことがあった。(コントン王の風ぼうは、目も口もなく、もやもやしていて、すべてが分別されることなく、全体がひとつにまとまり、まるくとけあっているような人物であった。その)コントン王のおおらかさによって、二人の王は訪問のたびに、ここちよい時を過ごすことができた。

この、いつもお世話になりっぱなしのコントン王のご恩に、二人の王はなんとか報いたいものだといろいろ相談し、「わしらには、目の穴が二つ、耳の穴が二つ、鼻の穴が二つ、口の穴が一つ、全部で 七つの穴があるから(美しい色を見てそれを配色したり、妙なる音を聴き作曲したり、 美味しい食べ物を味わい、料理したり、安らかに呼吸することによって)人生を楽しむことができる。ところが、コントン王は、その穴を一つもお持ちでない。ひとつ、お礼のしるしに、二人して、コントン王のお顔に七つの穴をあけてさしあげることにしよう。」と決めた。
それではと、二人の王はノミとツチを手にし、コントン王を訪問し、お顔に穴をあけ始めた。(毎日、一つずつあけることにして、初めの日には片目を、次の日にはもう片方の目をあけた。
  こうして、コントン王は世界を目で見なければならなくなった。
  その次の日には片耳の穴を、そのまた次の日にはもう片方の耳の穴をあけた。
  こうして、コントン王は世界の音を耳で聞かなければならなくなった。
  そして、その次の日には片方の鼻の穴を、その次の日にはもう片方の鼻の穴をあけた。
  こうして、コントン王は世界の臭いを鼻でかがなければならなくなった。
  そうして、とうとう七日目には口の穴があけられた。
  こうして、コントン王は美味しい食べ物を味わうだけならまだいいが、口で言葉を話さなければならなくなった。)
ところが、七日目に七つの穴がそろったところで、コントン王は息絶えてしまった。  (そうさ、五感によってたえず悩まされ、おまけに、その五感によって頭に浮かぶイメージを識別して言葉や音楽にするなんて、そんなみみっちいことで、この"いのちの宇宙"の広がりをせばめて生きるなんて、そんなことは、コントン王には耐えられないことだったのだ。)( )内 筆者

今から2300年前に中国の宋(現在の河南省)の地方に生まれた哲学者荘子の寓話である。今日も、ヒトビトは誰もが言葉(知識)と芸術と芸術的なるものによって生きているが(つまり、大脳の極めて人間的な欲望を満たすためにいきている)その結果、本来のいのちの持つ知力を見失ったようだ。(つまり、内外の自然界を感知し、コントロールする間脳からの情報を見失った)
 それらによって、今日のヒト科のこころの問題がすべて起きている。ヒトもまた、自然界の生物の一員である以上、コントン王のおおらかないのちの知力を補完しておかないと、こころが耐えられるはずがない。そのことに荘子は気づいていたのだ。

荘子よりも約百年前に、インドでブッダが生まれている。ブッダも、ヒトの意識(脳)の本質をきまじめに追求している。そして、意識にいのちを対峙させ、"ヒトの一生の意識の原理"を思索した。

  "ヒトの一生の意識の原理"《十二因縁説》
  1、ヒトは、意識する脳を持って生まれてくる。
  2、だから、世界を識別することを性(さが)とする。
  3、識別することによって、あらゆるものに名まえをつけ、あらゆるもののかたちやうごきを分類し、言葉にする。(知識)
  4、名まえと分類されたかたちとうごきを、目・耳・鼻・舌・からだ・意識によって知覚し、認識する。(ように学習させられる)
  5、知覚し、認識されるものは
   ・色彩とかたちとうごき
   ・声と音
   ・臭い
   ・味
   ・感触
   ・法則
    である。
  6、それらによって、あらゆる対象となる世界に遊ぶ。
  7、しかし、やがて、対象にたいして快・不快が生じ
  8、快・不快によって、情動が起こり
  9、情動によって、執着が生じ
 10、執着によって生きようとし
 11、そのちからによって、生まれ、生まれ、生まれて、
 12、そして、老い、死ぬ。

 だから、「ヒトの執着が、識別を因とし、情動を果としている」とブッダは気づいた。その識別の元が五感と大脳なのである。コントン王の急死のうなずけるところである。
 

(2)知性か知力か
 
それでも、ヒトは識別を進める。それが知性である。知性とは、ヒトの五感と大脳の右と左によって生みだされる人間中心主義の意識のことである。これらが手のつけられないクセものなのである。そこからは、間脳や小脳からの情報が抜け落ちているのだ。ところが、ヒト科以外の動物にとっては、これらの脳からの情報が主体者なのだ。この生態学的知能(知力)を見失っているヒト科の意識の偏りを救済しようとした人、それがブッダでもある。ブッダは、ヒトの知性そのものがこころを乱している元であるとして、それが識別によってもたらされるものであるならば、そんな識別はもともと自然界には無かったのだし、ヒトの意識が作りだした勝手なものであるから、ヒトビトの納得のいくところで、原因と結果を自在に示せばよい。そんな方便を上手く使いこなした人である。しかし、方便を用いるにあたって、ヒトの知力にも思いが至っていた。そこが並みのヒトとはちがうのだ。
 では、その知力、知性の足らざる何を補完しているのか、それが"あるがままに生きる"ただ一点にしぼられた能力なのだ。 

  知性(ヒト科の大脳の右と左によって生みだされる人間中心主義の知)
  知力(神経細胞の感知力の総体によって生みだされる生態学知)

 ところで、知性は方便(言葉)によって諭すことができるが、知力はどうやって伝えることができるのか、それは、ブッダが修行によって得た全人格に依る。(としか、言いようがない)
  荘子は、知力の存在を上手く寓話にして示した。
 

(3)文明ともう一つの文明
 
知性の様式によって構築されるもの、それが文明であるが、荘子に言わせれば、それは 徒労の代物である。「こうした、(広大な宇宙の中の)ちっぽけな存在なのに、ヒトは(知性によって)世界を見極めようとするから、先行きでは混乱してしまって、何も分からなくなるのだ。」と荘子は言う。
 そして、余計な知性に関わらないもう一つの文明を
  「民には民の本来の生き方がある。民に与えられた、それぞれの等しい持ち分とは、自らの手で好きなようにデザインした布を織り、それを着ることと、畑を耕して、穀物や野菜を作り、それを腹一杯、食べることである。
   そのことが、一番、自然であり、自然にしたがって生活できれば、ヒトビトはゆったりと歩き、こころも落ち着き、表情も穏やかである。
   そんなヒトビトの住むところには、無理に切り開いた山道はなく、谷川には不必要な舟や橋もない。すべての生物が生き生きと繁殖し、自然と里は連なっている。そこには鳥や小動物が群れていて、草木はほどよくのびのびと茂っている。ヒトは鳥や動物と一緒に遊び、カササギの巣でさえ、近くに寄ってのぞくことができる。」
と言う。

この文明以前の文明を司っていた知力と引き替えに、ヒトビトは知性を手に入れた。その知性によって
  「宗教」(善悪の倫理による"戒め"の典型)と
  「哲学」(真理の論証)と
  「芸術」(各種媒体による"美"の創造)と
  「科学」(識別と実証・技術とモノづくり)が生み出された。

ヒトはそれらを信仰し、議論し、創作し、学問化し、文明を築き、生き始めた。
  「この文明は、一度始まってしまうと止めることができない。」
と荘子は言う。そして、今までに多くの文明が歯止めが効かなくなって、滅びていった

 しかし、賢明な一部のヒトビトは、文明の発生・展開・収斂・崩壊に関わることを避け、シンプルに生きてきた。
 今日、そのもう一つの文明の最後の聖域にまで、知性による文明の手が及んでいる。(先 進国による地球規模の開発の波であり、そのために、先住民族の生活の場が脅かされている)

しかし、考えてもみようよ。いっときの価値観にもとづく今日の文明でもって、それを地球全体に広げてしまっていいのかを。文明は何時かは必ず崩壊するのだから、環境よって住みわけ、知力によって生活し、文化の多様性を有するあらゆる先住民族の生き方を人類全体で担保しておくことが必要なのではないか。そこには、知性によって辿り着けそうもない、エコロジカルで持続可能なライフスタイルがある。今日の知性に頼らずともヒトは本来的に有する知力によって、実際は生きていけるのだ。この知力を担保しておいてこそ、幾度、文明が崩壊しても、人類は存続できる。

 では、あるがままに生きる生物共通の知力とは何なのか。もっと詳しく知りたくなる。それを論理的に説いた人物が日本にいた。弘法大師空海である。

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