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空海の綴る"自然の道理とこころのあり方"

高山は(なぜか)風が起こりやすく
深海は水を測ることがむつかしい。
宇宙の果てを人々は知ろうとして見つけられず
(いずれにしても)光の存在と人の知のちからによってのみ、それらは探求できる。

カモメと鶴の足の長短にはそれなりの理由があり
蟻にも亀にも、その大小によって日の当たらないことはない。
おろかな者は架空の動物の飾り物を珍重し
人の上に立つ者は物事の真実のみを見る。
カラスの目には腐ったものだけが映り
犬はけがらわしい匂いにからだをすり寄せ
人は官能的な香りに惹かれるが
(それらは)糞ころがしが糞に執着しているようなものである。

人が他人への思いやりを失えば
方向を見失った犬や羊のようになり
物真似をするオウムのようにしゃべってみても
その言葉によって、ほんとうの賢さや善意が相手に伝わることはない。
オオカミの類いは鹿の仲間を追いかけ
ライオンは草食動物をかみ砕く。
きびしい寒さや暑さよりもはげしい感情を抱き
いいかげんな言動によってこころは傷つく。
白を黒だと言いくるめ
ほめたり、けなしたりして互いに災いをつくりだし
腹黒く
トラやヒョウのように威張りちらし
こころのなかのはげしい暑さにも気づかず
誰もが反省することなく、その身勝手さを改めない。

ヨモギは荒地や土手に群生し
ランの花は山の南に生い茂る。
日は矢のように過ぎ
四季が移り行くように人は逝く。
柳の葉は春の雨に開き
菊の花は秋の霜にしぼむ。
秋蝉が野外で鳴き
コオロギがとばりのなかで哀しく鳴く。
松とヒノキは南の嶺で砕かれ(て薪となり)
皇帝の眠る北の丘ではハコヤナギの葉がはらはらと散る。
人の身は生まれるときも死ぬときもただ一人
(その一生は)稲妻の光ように輝いて消える。
雁とツバメが代わる代わるやって来ては去り
桃の木は、その紅の花びらを毎年、地面に落とす。
美しい人の姿も歳とともにあせ
白髪もめでたきことにはならない。
古の人を今はもう見ることはできないし
今を生きる人もどうしていのちを長らえることができるだろうか。

(炎暑の日には)岩の上で風に吹かれて暑さをさまし
滝の飛び散るしぶきに涼をとる。
粗末な衣をまとい、ざれごとの歌をつくり
自然の庵(いおり)で詩を吟じて酔う。
のどが渇けば谷川の水を飲み
山の霞(かすみ)を食糧として腹を満たす。
長生きをするための薬草で心臓と胃をととのえ
もう一つの薬草で骨格を維持し、脂肪を得る。
五色の霞は山に照り映え、とばりとなり
白い雲は天空いっぱいに広がる。
(そのような生き方をした古の人に)
銀河をも越える高い境地に至り、仙人と呼ばれた王子晋(おうししん)や
暴力革命による新国家を嫌い、穀物を絶ち、山に隠れた伯夷(はくい)や
万象の道理とともに生きた老子(ろうし)や
王位に就くことを望まれたがそれをかわして自由に生きた許由(きょゆう)がいる。
(その人たちの語るところによれば)
空想上の鳥"鳳凰(ほうおう)"はアオギリの木に群れ
同じく"大鵬(たいほう)"は風の吹く寝床に眠ると言う。
仙人たちの住む空想上の山"崑崙(こんろん)"は西方にあり
不老不死の島"蓬莱(ほうらい)"は東方にあると言う。

社会での名誉とは、時世によって招かれた客人のようなもの (その客人のつとめを一生果たさなければならないとすると、それは面倒なこと。と荘子は言う)
(そこから逃れて)飛ぶ龍に乗って天空を走る。
飛ぶ龍はどこに向かうのか
広々とした汚れのない彼方。
汚れのない彼方とは無垢のいのちの住むところ
そのいのちの普遍の原理に囲まれ
原理にしたがういのちの種(しゅ)の群れは雨のよう
その中央にいのちの知のちからの象徴である大日如来の座がある。
いのちの知のちからとは何か
それはわたくしたちのこころのこと。
いのちの"からだ"と"言葉のひびき"と"意識"は地上に広く行きわたり
宇宙にその楽園(生命圏)を築いている。
大海原に島々は点在し
天地はいのちの知のちからを入れた箱。
万象を(空間という名の)一点に含み
すでにそのなかに、人が五感と意識によって捉えるすべての事柄が言葉のひびきとなって記されている。

野にいてそこを出て仕官することや、官を退き野に下ることは、鐘のひびきやこだまのようなもの、そんなことは世間に任せ
議論はまず、議論そのものによって真実は得られないこと(紀元前四世紀の中国の哲学者、荘子の「斉物(せいぶつ)論」によれば、議題となる「アレかコレかの選択」「正しいか正しくないかの判断」は相対的なものであり、究めればみな同じことであるからそこに結論はないとする)を相手に説く。
宇宙という概念は人の頭のなかでつくりだされたものであり
河や海は一つの元素、水によって出来ている。
(あらゆるいのちの)寿命は(太古から引き継がれてきたのだから)初めも終わりもなく
生きることに限界はない。
無数のいのちの光は宇宙に満ち
そのいのちの知のちからによって、人が最初に発する「ア」のひびきが言葉となって世界への橋渡しとなる。
「阿」の一字の悟りをほめたたえ
その悟りとわたくしの言葉が一体のものであることを思うと身は引きしまる。

行く雲は生じては消え
たなびきながら空しく飛ぶ。
愛欲にしばられることはつる草が伸び
生い茂って山谷にはびこるようなもの。
それよりも禅堂に一人座り
さっぱりとして、いのちの世界に遊べばよい。
(そうすれば)日と月が空と水を照らし
風や塵もさまたげるところが無く
(物事を、正しいと判断すれば正しくないことがあることになり、正しくないと判断すれば正しいことがあることになるから)正と否は一心同体であり
(物事を相対性よって見ると、アレがあるからコレも生じ、コレがあるからソレも生じることになるから、その相対性を外して見れば)アレとコレとの境界線は消えてしまう。
(そのように、区別を超越してしまえば、アレかコレかの選択に固執することは無くなり、どちらが正しく、正しくないかの判断にも惑わされることも無い。そのとき、人は物事の中心に立つ。と荘子は言う)
そうして、迷いのない世界に住し、こころの海を澄みわたらすことができれば
万物への慈しみが限りなく広がって行くだろうー

黒いカラスはまぎらわしく
呼び名が同じでも、違うものを指すこともあり
他人のこころはわたくしのこころとはちがうから
人の腹のなかは見えにくい。
(そこで、わたくし空海が)修行僧のために自然の道理とこころのあり方について
(そのビジョンを)一篇の詩文にして示すことにした。
(空海文集「山に遊びて仙を慕う」より 口語訳)

<あとがき>
 この詩文は文中最後にあるとおり、修行僧のために、その瞑想に際しての天眼(すべてのものを見透す目)、すなわち今日で言うビジョンをガイドするために書かれたものである。
 原文は漢詩であり、五言詩で百六句から成り立っている。つまり、五百三十字によって仕上げてある。各処に韻を用い、詩は音律をもって展開している。
 「一読する方々には、どうか文彩(漢詩にいろどりをもたらす韻の技法)のことはさて置き、含まれる内容を取り上げていただきたいと思う」と詩文の序で空海も述べておられるように、口語訳にあたってはその意味に力点を置いたので、詩としてのリズムは考慮しつつも、句の一部にその漢詩としての味わいを残す程度となった。弘法さんにお許しを乞う次第である。

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