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貯水池開発事業記-『大和の洲益田の池の碑銘並びに序』空海文<現代語訳>

 そもそも、夜空に輝く五穀(稲・麦・粟・豆・ヒエ等)の実りを司る星座と
 広大な銀河の流れの功徳によって、雨は地上に降りそそぎ
 湖水と大海によって、広く万物は潤っている。
 その潤いのおかげで、すべての植物はよく繁茂し
 動物は、その植物を食糧として生きられる。
 季節ごとに八方から吹く風が植物を育て
 万物を作りあげている諸元素の中で、水の元素こそが最大のはたらきをする。
 水のもたらす恩恵は何と、遠大なることよ、偉大なることよ。

  さて、イザナギ・イザナミの二神が生んだという日本列島の中の本州に、神武天皇の東征の際に熊野の国から太陽の化身である三本足のカラスによって導かれたという大和の国(奈良県)があり、その国に益田(ますだ)という(人工の)池はある。

 池のある場所は(五世紀前後に朝鮮半島から渡来した阿智使主・あちのおみを氏祖とする建築や土木工事、金属生産などの技術をもった帰化系氏族集団、漢氏の末裔の)倭漢直(やまとのあやのあたい)の旧宅のあったところ。旧名を村井という。

  去る八二二年、仲冬の月(旧暦十一月)に、大和の国の前身であった和の国の行政を監察する職にあった藤納言(とうなごん)と紀太守末(きのたいしゅのすえ)らは、この肥沃な土地がまだ開拓されていないのを残念に思い、日照りに対処できるよう、絶好の場所(川をせき止めて水を貯められる場所。今日の高取川が北西に流れる周囲の鳥屋町・白橿町辺り)を選定し、灌漑用の人工池を造ることを朝廷に申し出た。その計画案をただちに許可された嵯峨天皇は、藤公・紀公の両人と(土木技術に通じていた僧侶でわたくし空海とも親交のあった)真円律師らに命じて、事業を開始させた。

  それからほどなく、嵯峨天皇は上皇となられ、嵯峨野の離宮(今日の大覚寺)に移られ、その政変にしたがい、藤公は辞職し、紀公も越前に国替えになった。
 新しく即位された淳和天皇は、中国古代の聖天子堯が舜に帝位を譲られたように、嵯峨天皇からその帝位を譲られ、国土を統治されることとなり、その輝く徳をもって、天地を照らされ、日本列島の万民を慈しまれた。
 新天皇は、宰相に大伴国道(おおとものくにみち)を迎え、国の政治をとりしきらせ、同時に、藤原藤広を大和の国守に任じられた。したがって、国道と藤広の両公が益田の貯水池開発事業を引き継がれ、新たに監督されることとなった。
 新天皇と両公のご尽力により、カモの群れのように水路を行き交う青色の舟が次々と土を運び、数千頭の馬が毎日駆りだされ、その馬のように速い赤色の舟は人を乗せ、百人単位の人夫が夜を徹してくる日もくる日も休みなくはたらいた。
 荷馬車はゴウゴウとして稲妻のごとくに走り、男女の人夫はドンドンと雷の落ちるように現場にたどりつく。
 土はコンコンと降る雪のように積み上げられ、堰堤(えんてい:長さ南北約二百メートル、高さは八メートル、堤の幅は約三十メートル)はたちまちにして、雲のように盛り上がった。
 その築造しているすがたは、まるで霊なる神が(巨大な手で)土をこねているようだし、そのこねた土を大きな炉で焼きあげているかのようだった。
 そうして、またたく間に日数をかけずに工事は完成したのだ。
 この人工の池を造ったのは人であるが、それを可能にしたのは天のちからである。

  ところで、池の位置するところは、(貝吹山の方に向かって)龍蓋寺(りゅうがいじ:今日の岡寺。開祖は義淵僧正。わが国、法相宗の祖であり、その門下には東大寺の基を開いた良弁、菩薩と仰がれた行基がいる。因みに、益田の池の造成を指導した真円律師は法相宗である)を左にし、綏靖(すいぜい)天皇陵を右にする。大墓(おほつか:丸山古墳か)が南にそびえ、畝傍山(うねびやま)が北にそばたつ。北東には、久米寺(くめでら:空海はこの寺の塔において真言宗の根本経典の一つである『大日経』を感得したとされる)があり、その方位、鬼門を鎮め、南西には宣化天皇(せんかてんのう:在位中、朝鮮半島の新羅の圧政に苦しむ任那と百済を助ける目的のために、九州筑紫国那津の宮家に各地からの食糧を移送し、非常時に備えたという)の陵があり、その方位を押さえ、敵からの侵略を防ぐ象徴となっている。この地、高市郡(たかいちのこおり:今日の橿原市)には、そのほか、十幾つの天皇陵と古い墳墓がうずくまった虎のように点在しており、周囲は龍が臥せているような長い岡が連なる。
 (広大な貯水池の背後の)松の緑の茂る峰の上を白い雲はゆるやかにうごき
 その下を檜隈川(ひのくまがわ:今日の高取川)の水は激しく流れる。
 (その水を湛えた貯水池の水面には)春になれば紫や黄色の草花が刺繍のように映り
 ここを訪れた者はそれに見とれて帰ることを忘れ
 秋になれば紅葉の錦は林に広がり
 そこに遊ぶ人々はあきることがない。
 おしどりとカモは水に戯れて鳴きあい
 黒と白のサギの仲間は渚に遊んで、羽をひろげて舞い競う。
 亀はのそのそと首をのばし
 鮒と鯉は尾びれで水面をたたく。
 かわうそはたくさんの魚を捕らえて並べ
 成長した鳥のひなは餌を口にくわえて、母鳥に恩返しをする。
 満々とたたえられた湖面は大空を呑み込み
 重なる山々はその影を逆さに映し
 その深さは海のようだし
 その広さは中国の大河にも負けない。
 中国の都、長安の人工池、昆明池をも小さいと笑い
 インドの高地にあるという雪融け水を湛える広大な湖をもものともしない。
 虎が強がって湖面をたたけば
 さわぐ波は夜空の銀河にそそぎ
 水神である龍が唸って(大雨が降って、たとえ)堤が決壊しても
 ゆったりと水量は(大きな木製の導水管によって堰堤の外側に排水され)調整される。
 (中国の哲学者、荘子のいう)水の精の河童ですら、その堤防を溢れさすことはできず
 旱魃(かんばつ)を起こすという女神も、その水底を涸らすことはできない。
 大和の国の六つの郡はおかげで潤い
 貯水池からの水は、それらの郡の小川に引き込まれ、豊かに流れ、田畑にそそぐ。
 「天子に善あれば、すなわち万民これに頼る」という。
 (そのような統治が為されるならば)民は自らの手足によって舞い、千の荷車に豊作物を
積み上げ、そのまわりで歌って、腹を打ち鳴らし、手を打ち、足で大地を踏んで喜びを示し、その国と天子を讃えて健やかである。だが、中国の故事にもあるように、大きな池もたびたび桑畑に変わってしまうとある。そのことを心配して、この新しく開発された貯水池が失われることのないようにと、わたくし空海に碑文を書くように要請された。拙僧は不才の身であるが、仁(慎み深き思いやり)に対しては固辞すべからずという。そこで、時を見つけて、努力して文章を作った。以下が碑のため詩文である。

  (世界の始まり)
 目に見えず、耳に聞こえず、神もいず
 渾沌の中で、天と地はそのきざしもなかった。
 太古の世界を治めるという人もなく
 日本列島を生んだという神も存在しなかった。
 やがて、宇宙の気が集まり
 葦の芽のごとくに成長し始めると
 天空に風は吹きまくり
 万物の元素が生成し、そのはたらきを示した。

  (そうして)太陽と月が運行し
 山と河とが大地に配置され
 万象が森のごとくに連なり生まれ
 万物が雑然として発生した。
 (その大地で、人は)
 山菜や木の実を食いつぶし
 イネ科の自生穀物を食することを覚えると
 自然の池であろうが人工の池であろうが
 その水が穀物を育てる偉大なるちからをもっていることを知った。

  中国古代の天帝、堯(ぎょう)に例えられる嵯峨天皇と、兎(う)に例えられる淳和天皇は
 ともに思慮あつくして民を慈しまれ
 智の才を広く発揮し
 慈悲深いうえに思いやりをもって
 些細なことにこだわらず
 民に尽くすことは神のようであった。
 両天皇による万物への潤いは慈雨のよう
 その下の民の栄えは春のよう。

 貯水池開発事業の号令は雷のとどろきのように発せられ
 役人たちはすぐさま仕事を開始した。
 紀太守と藤納言が立案され
 その事業は豊かに結実へと向かった。
 (その後)
 大伴宰相が実施計画にあたられ
 大和の国守、藤原公が仕事を監督された。
 すぐれた人の才能には、すばらしい技術が宿り
 民はみな、その指揮にしたがった。

 ここに一つの池が誕生した。
 その名を益田という。
 それを掘ったのは人であるが
 完成したのは天のちからのおかげである。
 (工事にあたって)
 荷車や馬はたちまちに集まり
 男女の人夫は雲のごとくに連なった。
 みな子どものように従順に仕事をこなし
 完成するのに一年とかからなかった。

 (完成した池は)
 深く広く
 鏡のように紺色に澄み
 洋々として、たおやかに限りなく
 その眺望は果てしない。
 多くの谷川の水を一堂に集め
 多くの川に水を流し(大和の国の田畑を潤す)
 魚や鳥が泳ぎ
 あらゆる水の神もここに身を潜める。

 田の水路には水が溢れ
 新たに開墾した田にわたくし(民)が苗を植え
 苗はすくすくと伸び、稲穂をわたくしが刈り取る。
 穀物は島のようにも丘のようにも積み上げられ
 民のはたらきによって、国を守る兵士の食糧も充たされる。
 中国の孟子の説く、井田(せいでん:正方形の九百畝の田地を井形に九等分し、周囲を民田として八戸に分け与え、一戸あたり百畝、すなわち十反を分け与え、中央のみを公田として八戸の民で協働して耕作させ、その公田の収穫のみを税として納めさせる農地制度)はこの国の民のための制度。
 民は日の出とともにはたらき
 日が沈めば、家に戻って憩う
 井戸を掘ってきれいな水を飲み
 田畑を耕し、日々の食事を得る。
 この暮らしがあれば、天帝を煩わせなくてすむ。
 八二五年九月二十五日、これを池口の上に建てる。

あとがき
 "益田の池"は万葉集の歌に由来する歌枕にもなっている。「恋は増す(益す)」との意に掛けるからである。また、益田の池に浮いているジュンサイ(ぬなわ)は池の名物となったが、こころの揺れうごく様を表わし、その採集にあたって、茎を「手繰る」から「苦しい」を導くという。そのような比喩をもって作られた詩が後拾遺和歌集にある。"わが恋は ますだの池の浮きぬなは くるしくてのみ年ふるかな"である。通釈すると、わたくしのあなたへの想いはますます募り、益田の池に浮いているジュンサイのように揺れうごいている。その根茎を手繰り寄せるように、この恋は苦しいことばかりで、歳月ばかりが過ぎて行く。というようなことを詠ったものである。当時の人々にとって、どれほどこの益田の池が大和の国の風情として愛されていたかが分かる。空海もまさか、このような恋の池になろうとはと苦笑いされているであろう。しかし、今日、そのすがたは堰堤の一部の遺構を残すのみ、もう水辺の風景はなく、往時を偲ぶばかりである。

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