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知の住みかとは何か-現代語訳『大日経開題』<衆生狂迷本>

 人びとは自らの知の真実の住みか(帰る家)を知らない。(だから、)戦争や災害による死・飢え・本能に狂い迷い沈みおぼれ、四種の生存形態、ほ乳類・鳥や爬虫類・水棲類・昆虫や両生類の中をさまよい歩く。
 (そのようなことだから、)苦しみの根源を知らず、無垢なる知に帰る心もない。(つまり、なまじっか知を授かったばかりに、経験したことの快・不快を記憶し、そのことを因として、欲望をもち、欲望が心の苦しみを生み、知の休まるところはないから、無垢なる知の存在に気づかない)
 ブッダはそのことを哀れんで、人びとの知の帰るところと帰る方法を示してくれた。
 その帰路には、牛車(求道と慈悲の行ない)や羊車(教えを聞いて悟ること)を利用する方法があるが、その方法では、曲がりくねった道に沿って、ゆっくりと進むから、無限に近い時間がかかる。
 (しかし、自らが有する無垢なる知のちからによる)不可思議なはたらきをする乗り物は、大空に舞い上がり、速やかに飛び、生きているあいだに必ず知の真実の住みかに到達する。

 人間界の倫理や天界の浄土といえども、(知のもたらす苦によって)焼き尽くされることから免れることはできないが、戦争や災害による死・飢え・本能の三つの世界に比べれば、まだ楽であって苦ではない。
 だから、心やさしいブッダは、しばらくのあいだ、人と天の乗り物(倫理と浄土)を説いて、人びとを三途(さんず)の恐ろしい苦しみから救う。

 声聞(教えを聞いてさとる人)と縁覚(師をもたなくて自らさとる人)による知の住みかは小さな城であるが、前段の倫理と浄土の知によって生きる人びとが、まだ生死の苦しみから抜け出していないことに比べると、すでに(知の苦しみの)燃えさかる家の外に出ている。
 だから、ブッダは、羊車(声聞)と鹿車(縁覚)を用意し、しばらくのあいだ、まぼろしによってつくり出した城で人びとを休息させる。

 菩薩(求道と慈悲の行ない)と権仏(方便として説かれた知の最高の境地)の二つの住みかは、まだ知の真実の住みかではないが、前出のもろもろの住みかに比べれば、これはこれで大いに自在で安楽な、生滅変化を離れた静寂な住みかである。
 だから、ブッダは、牛車(菩薩)と大白牛車(権仏)の大小二つの牛車を与えて、その帰舎(知の住みか)を示した。

 (しかし、)上述の二つの知の住みかは、ただ室内の中の荒れや汚れを掃除しただけのものであり、まだ知の住みかの地中の真実の蔵を開いていない。
 大海の塩分をなめるだけでは、竜宮にあるという不思議なちからをもつ宝玉を手に入れることはできない。
 浅い教えから深い教えに、近い心境から遠い心境へと、物事はよりよい世界へ、よりすばらしい境地へと展開していくものだが、菩薩と権仏は、まだ蜃気楼のようなまぼろしによってつくりだされた仮の住みかである。

 では、知の究極の住みかとは何か。
 (イ)行為の三要素<三密(さんみつ)>
いのちの無垢なる知のちからは、生きとし生けるものの行為の三要素である動作・伝・意思と相応することによって開示する。(その開示したそれぞれの要素は別のものでなく平等であり、お互いもまた、無尽に相応したものである)
 (1)動作<身密(しんみつ)>
 (2)伝達<口密(くみつ)>
 (3)意思<意密(いみつ)>

 (ロ)さとりの階梯<五相成身(ごそうじょうしん)>
自らが有しているいのちの無垢なる知のちからに目覚めるための階梯。
(1)分別による言葉から離れて、自らの心の根底にあるいのちの無垢なる知のちから
にアクセスすることを発起し、祈る<通達菩提心(つうだつぼだいしん)>
(2)まるくて白く清らかな月輪を心に浮かべ、その中に自らのもついのちの無垢なる
知の光を映し出す<修菩提心(しゅうぼだいしん)>
(3)映し出されたいのちの無垢なる知の光の中に、あらゆる生きものが空気を呼吸し、
そのことによって生き、夜になれば眠り、眠っているときも呼吸し、そうして、日
が昇ると起き、その太陽光エネルギーによって活動・成長しているのを見る。そこ
にすべての生きものの生活の根幹がある。その根幹によって知が生起していると知
る<成金剛心(じょうこんごうしん)>
(4)その、紛れもないいのちの無垢なる知のちからが、自らを含め、あらゆる生きも
のの生の行為、すなわち動作・伝達・意思そのものの根源であると気づく<証金剛身
(しょうこんごうしん)>
(5)そうして、自らがいのちの無垢なる知のちからそのものであるとさとる。この目
覚めを堅固にさせたまえ、祈り<仏身円満(ぶっしんえんまん)>

 以上の五段階の想念によって、自らのもついのちの無垢なる知のちからと身体が一
体であることに目覚める。(*この「五相成身」については、本文後半「入真言門住心品」
用語解説の項目で再度、記述あり)

 (ハ)知のメディア<四種マンダラ>
  知は根幹となる四つのメディア(媒体)によって生じる。
(1)イメージ(色・かたち・うごき・音・匂い・味・触覚による心象)<大マンダラ>
(2)シンボル(個別のイメージが暗示する意味・価値・合図)<サンマヤマンダラ>
(3)単位(分子などの物質言語・数量・文字・響き)<法マンダラ>
(4)作用(モノまたは場、あるいはそれらと人間との相互間に生じる反応・変化)<カツママンダラ>

(このメディアによって生じた知のちからによって、生命は四つの生のはたらき<生活知・創造知・学習知・身体知>を為している)

 これらの四つの知のメディアのちからと、その生のはたらきがいのちの無垢なる知の根本<マンダラ>である。(そこに知の究極の住みかがある)

 以上が知の住みかの真実の蔵である。この蔵を開くことによって、知はほんとうの住みかを得ることができるのだ。

 (さて)この蔵の秘密の鍵を握っている者は、キリンの角のようにきわめてまれである。(それに引き替え)自分の心に迷っている者は、牛の体毛のように多い。
 だから、ブッダは、量り知れない教えを説いて、(誰もが本来的に有している)いのちの無垢なる知の住みかへの帰路方向、すなわち一切智智(いっさいちち)の方向へと人びとをまず導くのである。
 (その帰路方法をみれば、)それぞれの乗り物はみな異なり、浅い教えの乗り物もあれば、深い教えの乗り物もある。(そのことによって、帰路に時間差が生じる)しかし、無垢なる知のちからは誰もが有しているものであり、その根本の知に相応する行為のすべては本来、平等で同じものなのである。
 (だから、)このことに気づかずに乗り物に迷う者は、帰路を間違えて命をおとし、正しい帰路の方法を得て知の住みかに到達する者は、その根本の教えによって目覚める。

 その根本の教えが集合しているところ<マンダラ>とは、究極の知の主体であるいのち、つまり大日如来を象徴とする生命の存在(身体)そのもののことである。

 (ニ)身体の根源<四種法身(ししゅほっしん)>
知の主体の究極である生命の存在=身体<自性(じしょう)法身(ほっしん)>は
多様に進化した種のすがた<等流(とうる)法身>と
種の遺伝の法則による個性をもったそれぞれのすがた<変化(へんげ)法身>と
個体そのもののすがた<受用(じゅゆう)法身>の
三つの身体を孕(はら)んで、完全円満なる円のまた円を成している。

 また、それらの身体の心のはたらき、すなわちいのちの無垢なる知のはたらき<マンダラ
>は、菩薩行(求道と慈悲の行ない)の最終段階にあたる階梯、<十地(じっち)>
①歓喜地(かんきじ):衆生救済立願の喜び
②離垢地(りくじ):無垢なる心の展開と実行
③発光地(はっこうじ):真実の教えの体得
④焔慧地(えんけいじ):無垢の知の輝き
⑤難勝地(なんしょうじ):自由自在な方便を用いた利他行
⑥現前地(げんぜんじ):縁起の法の体得
⑦遠行地(おんぎょうじ):無垢の知による衆生世間への奉仕
⑧不動地(ふどうじ):無想の境地
⑨善想地(ぜんそうじ):世界の真理の現実への応用
⑩法雲地(ほううんじ):客体と主体の一体化した無量無辺の境地
を超えて、本来的な存在の原理のそのまた根本である。

 ガンジス河の砂の数にも等しい多様な生きものは、永久(とわ)にそれぞれのもつ知の真実の住みかに住し、限りないさまざまなすがた・かたちと、それらの有しているいのちの無垢なる知のちからとはたらきによって、常に世界を飾り、その本来からある世界に遊ぶ。
 (その)真理の世界に目覚めた人であるブッダや、その世界の原理を求める人でなければ、誰が行為の三要素(動作・伝達・意思)の本質を見、(マンダラの)四つのメディアが示す世界の真実を学ぶであろうか。

 量り知れないほどに数の多い生物の身体といえども、いのちとしてとらえればただ一つのものである。だから、無数の生物が有している海の滴のような無数の知も、ただ一つのいのちがもつ知とみな同じであるとさとっているのは、ブッダ、すなわち生命を象徴する大日如来その人である。

 (その大日如来の)清らかな身体は、月輪に乗って(マンダラの)中央に位置し、その周りを蓮の花弁に乗った諸仏が補佐する。
 心の主体であるいのちの無垢なる知のちからを如来の庭とすれば、その庭、すなわち広々とした道場はすべての大地にいきわたり、如来のすばらしいお供の者たちが、つらなりわたる雲海のように世界に満ちている。

 文字は真理の言葉を写し、モノ・コトの意義を限りなく明らかにする。真理の雷鳴が、地中に閉じこもっていたいのちの知の本性を呼び起こし、教えの甘露は(弥勒の菩提樹と呼ばれる)龍華樹(りゅうげじゅ)の根や葉にふりそそぎ、人びとの迷いを除いて、さとりの眼を開かせ、そのいのちの無垢なる知の光を輝かさせる。

 (ホ)普遍の物質要素<五大(ごだい)>
  ①固体(地)
  ②液体(水)
  ③エネルギー(火)
  ④気体(風)
  ⑤空間(空)

 という五つの普遍的なものによってつくられ、いのちの無垢なる知<一心>があまねくゆきわたっている人間も、魚や獣や鳥の郷に住むものも、飛び・もぐり・走り・跳ねる行動によってエリアをすみわけるものも、みな同じく種<四生:四種の生存形態。胎生(ほ乳類)・卵生(鳥や爬虫類)・湿生(水棲類)・化生(昆虫や両生類)>の網(あみ)を破って、共にいのちの無垢なる知の住みかに入らん。

 (へ)知の規範<胎蔵マンダラ>
生命の存在そのものを象徴する大日尊と
八弁の蓮の花の上の知の根本のちから<諸如来>と
「知の12院」
○八弁の蓮の上の知の根本のはたらき<中台八葉(ちゅうだいはちよう)院>
普遍の物質要素<五色界道>
○知を発揮する個体力(精神)<遍知(へんち)院>
○個体力を制御する内分泌物質<持明(じみょう)院>
(精神と物質)
○思想(精神)<釈迦(しゃか)院>
○創造性(精神)<文殊(もんじゅ)院>
○万物の構造(物質)<虚空蔵(こくうぞう)院>
○物質とエネルギー代謝<蘇悉地(そしつじ)院>
(感性と理性)
○感性<観音(かんのん)院>
○大地(感性)<地蔵院>
○理性<金剛手(こんごうしゅ)院>
○文明(理性)<除蓋障(じょがいしょう)院>
のもろもろの知のはたらきを司る<諸菩薩>と
その知のはたらきをバックアップする物質力<諸明王>と
それらの知の規範とはたらきの場に集合している無数の生命と
それらのすべてを守護している
 ○天体の運行と神話<最外(さいげ)院>の神々に
帰依します
イメージとシンボルと単位と作用の知のメディアによって示される真理の世界に
あまねくいきわたり、いのちの無垢なる知を発揮している者たちよ
本来の象徴の意味を越えることなく
このマンダラの道場に集合して
世界の真実を明かしたまえ
(以下、普礼・滅罪・三昧・菩提心の各「祈りの言葉」省略)

 現出した知のはたらきの跡によって、知の住みかにある無尽の蔵を勇気をもって示すことができる。地面に出た先端を見て、土の中の根を想像することができるが、例えば、象の足あとが他の動物の足あととは飛び離れて大きく、その踏みしめたところが深く広いのを見て、そのすがたを見なくても、その象が身体もちからも巨大であると知ることができるように、また、激しい雷雨が降りそそいで、鳥や獣を死なせ、多くの河川が洪水をおこし、山を崩壊させ、陵(おか)を駆け上るとき、その源(みなもと)を測らなくても、まさにこの龍(水の神)のすさまじさと大きさを知ることができるように、生命の存在そのものの知を示す大日如来もまた、知ることができる。
 (それは)いっときの間に、あまねく地上の生きとし生けるものに応じて、その能力とタイミングを計って、たくみに生命がそのすがたを完成させるから、そのすがたによって根源の存在があることを知る。すなわち、いのちの無垢なる知のちからが、あまねく多くの状況の根と先端、つまり原因と条件を見分けて、自由自在に生命世界を現出させているから、そこに大日如来が存在していると知る。
 いま、この経は、すべてのいのちの無垢なる知の住みかにある秘密の蔵、すなわち生命の存在そのものである身体が、その内面にある自らの蔵を開いてさとることが根本の知であると説く。
 これによってブッダは、菩提樹の下に坐したままで目覚めの時機を得たし、その目覚めによって自らの知の住みかに住し、生きとし生けるものすべてを救済する教えを考案された。そうして、自らの身体をもって、真理を楽しむことを修行とされ、より勝れた教えを求めることと、心を集中して平静に保つ瞑想とを、おのれの清らかなる勤めとされた。

 (教えを考案するにあたって)広く量り知れない意義を伝えることのできる文字を有していることは、あたかも虚空がすべての存在を包んでいるかのようであり、広く数百数千の深い瞑想を統一しているということは、大海が無数の湖をその中に呑み込んでしまうのに似ている。
 文章の林は繁茂して、数々の「祈り言葉」の花を開かせ、深淵なる意味はまんまんとして無数の珠玉の飾りとなり、ひろくゆきわたる。
 わずかにでもこの文字の門に入れば、たちまちに無限に近い時間を「ア」の一字を念じるだけで超え、(そのことによって)無量の幸いと知の展開するいのちの意義を、三つの行ない(動作・伝達・意思)を為す身体に具(そな)えることになる。

戦争や災害による死・飢え・本能・悪事・倫理・浄土の六つの世界に住むものと
乳類・鳥や爬虫類・水棲類・昆虫や両生類の四種の生きとし生けるものは
みなこれ父母であり
飛ぶ虫、地中の虫もみないのちあるものである。
願わくは、汚れなく清らかな眼を開いて
(すべての生きもののもつ)動作と伝達と意思の源を照らし
分別による縛りを解いて
無垢なる五つの知(五智)の上で
遊ばせよ。

 (ト)知<五智(ごち)>の生のはたらき
(1)生命知(無垢なる知のちからとはたらきを生みだす生命の存在そのもの)   
(2)生活知(呼吸・睡眠・情動)のはたらき
(3)創造知(衣・食・住・遊・健・繁殖などの生産・行動と相互扶助)のはたらき
(4)学習知(万象の観察・記憶・編集)のはたらき
(5)身体知(運動・作業・所作・遊び)のはたらき

 (このように)もし、(人びとが)内なる知の世界の安楽を得るならば、外なる環境世界も安らかに落ちつきを得るだろう。心の主体の世界(知の住みか)を清め、知のはたらきを安らかにすること、この経のテーマとは、まことにこのようなことであろうか。

 『大日経』住心品の正式名は『大毘盧遮那成仏神変加持経(だいびるしゃなじょうぶつじんぺんかじきょう)』入真言門住心品(にゅうしんごんもんじゅうしんぼん)という。

 (以下は、その題名の用語解説)
 「大毘盧遮那(だいびるしゃな)」:梵語でマカベイロシャノウという。漢語では除暗遍明。これは太陽の別名である。しかし、太陽とすると光は一方向からであり、外を照らすと内にはとどかず、明るさは光の照る面だけである。また、昼は照るが夜は照らない。だが、いのちの知の光はそのようなものではない。すべてにわたって照らしだし、内と外、方向と場所、昼と夜を区別しない。
 そのように、この地上にあっては(太陽のもたらす暖かさによって)草木・森林が、その植生にしたがい育つ。どんなに厚い雲が垂れ込め、太陽が隠れていても、やがて、強い風が雲を吹き払い、また顔を出す。(この点において、太陽が見えないといっても)太陽のエネルギーは永久的に存在しており、いのちの知の光も同様である。
 (いのちの知の光が)無知・悩み・無駄な議論の重い雲におおわれていても、光がなくなったわけでなく、その光がさとりによって際限なく輝いたとしても増すものでもない。(なぜなら、知の光は最初からいのちと共にあり不変である)
 (というようなことで)太陽の光と、いのちの無垢なる知の光<大日>とは分けてとらえるべきである。

 「摩訶(まか)」:梵語でマカという。これには三つの意味がある。一つには時空において限りがないから大という。二つには数量が無尽であるから多大という。三つにはこれ以上に勝れたものがないから最上という。この三つの意味をもっているから摩訶(大)毘盧遮那という。

 「成仏(じょうぶつ)」:(成仏の成るとは)本来的に完成していて、誰もが生まれながらにして有しているいのちの無垢なる知に目覚めることであるから、それが原因と条件とによって生じるというような成るではない。
 (だから)経文にいう、「わたくしは本来生じないということをさとり、言語による論理を捨てた。(そうすることによって)もろもろの分別がもたらすあやまちから抜けだし、原因と条件とを遠く離れ、空は虚空に等しい(空間に存在するものは、人間の知覚によってとらえたものにすぎない。だから、空なるものが本来実在している)ことを知る」と。
 この本来完成されていて実在するいのちの知がすでに成っているのであって、小さな完成の(原因と条件とによる)成るではない。

 「仏(ぶつ)」:具体的には(梵語で)ボダという。これは正しい知に目覚めたという意味である。ありのままに過去・未来・現在のもろもろの生命(多様生物)の数、非生命(物質)の数、不変であるもの、不変でないものなどのすべての存在法則を知って、明瞭に目覚めた人をブッダ(ボダ)という。
 目覚めた人は、耐え忍ぶ鎧(よろい)と、精進の甲(かぶと)をもって、生活規律を守る馬に乗り、瞑想の弓と、いのちの無垢なる知のちからとはたらきの矢をもって、外に向かっては悪事をくだき、内に向かっては迷いを滅するから、目覚めた人(ブッダ)なのだ。

 「神変加持(じんぺんかじ)」:旧訳では不可思議なちからを得ることをいい、あるいはブッダによる加護をいう。そのちから、つまりいのちの無垢なる知の不可思議な自然体のちからがなくては、(前出)十地(じっち)の菩薩の修行もその境界がなく、その限界も分からない。(また、その無垢なる知は)条件がなくなればすぐに消え、動機があればすぐに生じ、始めもなければ終わりもない。(だから)不可思議なちからを得るという。

 「経(きょう)」:(梵語ではタントラという)貫きとおしてばらばらにしないという意味。言葉をタテ糸とし、無垢なる知をヨコ糸として、個体のもつ動作・伝達・意思の三つの行為の真実を織って、すべてのものを包含する海のような錦(にしき)とする。その模様に千の異なりがあっても錦が錦であるように、いのちのすがたにも万もの差別があるが、すべては一ついのちである。

 「入真言門住心品(にゅうしんごんもんじゅうしんぼん)」:梵語の原典には、具体的に二つの題がある。初めには真言修行の章をいい、次には真言門に入る住心、すなわち真実の知の住みかに入るための章をいう。
 「真言」とは、梵語でマントラという。真実の言葉、ありのままの言葉、あやまりなくあやしくないとの意味をもつ。龍樹の記した論書ではこれを秘密の記号という。
 生きとし生きるものはみないのちの無垢なる知を有しているが、それが一切を知る知である。この知をさとることによって、すべてをありのままに明らかに知ることができる。そのさとりのプロセスは以下のようなものである。
 ①真実の言葉を入り口にして、自らのもつ無垢なる知のちからにアクセスする心を起こし、②その心に即してあらゆる修行をし、③心の正しく等しいさとりを見、④心の絶対自由と大いなる安らぎを証明し、⑤心に衆生救済の方便を発起し、心をいのちの無垢なる知のちからによって満たし清める。
 以上のように、因から果に至るまで、みなその心にとどまることなく、しかもその心に
とどまる。だから、真言門(真実の言葉の入り口)から入る、心の住みかの章という。

 (以下は、経「住心品」の冒頭の文章、「かくのごとく我聞けり、一時(あるとき)薄伽梵(ばがぼん)は如来の加持せる広大なる金剛法界宮に住したもう」の用語解説)
 「薄伽梵(ばがぼん)」:無垢なる知の光に目覚めている身体のことをいう。(つまり、ブ
ッダのこと)
 「如来(にょらい)」:いのちの無垢なる知のちからのことをいう。その知のちからの住みかとなっているのが、あらゆる生物の身体であるから、この身体こそが無垢なる知の居場所なのである。(そこに心の主体がある)
 心の主体には、もろもろのいのちの無垢なる知が住んでいて、しかも、その心の主体そのものが、いのちの無垢なる知のちからのはたらきの一部でもあるのだ。(そのように)すでに、すべてにあまねく行きわたるいのちの無垢なる知のちからによって、生命はそのすがたを現している。すなわち、いのちの無垢なる知のちからと、生命のもろもろのすがたは無二にして無別である(つまり、一体である)。しかも、(いのちの無垢なる知はその)不可思議なちからをもって、一切の生きとし生けるものに、身体と動作の秘密の色とかたちを見せ、(表現伝達手段の一つである)声(音)の響きによって言葉の秘密の意味を聞かせ、(各種の知覚反応と直感にもとづく)意思によって秘密の教えをさとらせる。また、その不可思議なちからの発現の仕方は、(個体のもつ)能力・性質にしたがうから、さまざまであって同一ではない。
 「広大金剛法界宮(こうだいこんごうほっかいぐう)」:広は無尽であること、大は際限のないこと、金剛は真実の知のこと、法界とは真理の世界のことである。広大なる真実の知をもつ真理の世界、すなわち身体そのもののこと。
 その身体が、自らのもついのちの無垢なる知のちからに目覚めることによって、そのちからが加えられ、慈悲と方便の見事なはたらきを保持するようになる。(そのように)この上なくすばらしい知の主体の住むところだから、真実の知の宮(住みか)という。
 (その知の住みかが)古(いにしえ)にブッダがさとりを開いたところである。

あとがき
 空海著『大日経開題』<衆生狂迷本>を現代語に訳してみた。青年期の空海が奈良高市郡久米寺の東塔で入手し、その説くところを感得したのが『大日経』である。正式には『大毘盧遮那成仏神変加持経(だいびるしゃなじょうぶつじんぺんかじきょう)』という。題名の意味は本文にあるとおりである。
 「この身が今生において済度される」という最新の仏教の教えであり、なぜ済度されるのか、どうしたら済度されるのかがその中に説かれていた。合理的な精神の持ち主でもあった青年僧は、これこそが自分の求めてきた教えであるとすぐに確信した。
 だから、この経典について実地に学びたいとの思いが、空海に唐への留学を決意させ、そうして、インド伝来の密教の第八祖となって帰国した。
 それほどの意義をもつ『大日経』を、空海自らが講義したものの中の一編である。
 その講義によると
 1、人びとは自らの知の真実の住みかを知らない。
 2、だが人を含め、すべての生物は、生まれながらにいのちの無垢なる知のちからをもっている。
 3、知を観察すると、知は四つのメディア(イメージ・シンボル・単位・作用)によって生じている。(知は言葉による知識と論理だけで生じているのではない)
 4、そのメディアによって、知は生のはたらき(生活知・創造知・学習知・身体知)を為している。
 5、そのいのちの根本の知を誰もが身体にもつ。
 6、その身体が根本の知によって動作・伝達・意思の三つの行ないを為して生きている。
 7、その身体は自然を構成する五つの物質要素(固体・液体・エネルギー・気体・空間)と同じ要素によってつくられている。(だから、身体と自然は同体である)
 8、その身体はいのちの四種のあるがままのすがた(生命・種・遺伝・個体)を包含したものである。
 9、その身体が知の主体者なのだ。
 10、知の展開にあたっては、精神と物質・感性と理性によってバランスが計られ、内分泌物質によって知のおおもと(身体)が制御されている。それが知の規範となる。
 11、その規範<胎蔵マンダラ>が、知の真実の住みかである。
 12、その住みかの知が、真実の言葉(文字と声音)となって無限に展開する。
 というような経の内容が見えてくる。
その合理的な済度の教えと、今日の全包括的な思想に差異はない。
わたくしたち現代人は、知の真実の住みかにいつになったら帰れるのだろうかー

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