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空海の詩文を読む(その八)

密教の師、恵果和尚伝『大唐神都青龍寺故恵果和尚之碑』(訳文)

(まえおき)
世間の人が大事にするのは五常(仁・義・礼・智・信の道徳)であり、
僧侶が重んじるのは三明(過去・未来・現在を知る能力。どのように生まれ、何処に向かい、今、生きているのは何ものなのかを知るちから)である。

 (だから、歴史的人物を記録するのに)
儒家の場合は忠とか孝とかを為した人名を金属に刻めば済むのだが、
仏家となると、さとりのいきさつと現世での慈悲の行ない、それに経・律・論を説くから、それらの高い徳を記す文書は(司馬遷が『史記』太子公自序で述べるように)宗廟ではなく、明堂(古文書館)に収められ、後世の聖人君子を俟(ま)つことになるだろう。
以下は、そのことに留意してこの伝記を執筆してみたい。

 滅びないものは法(真理)であり、その法を継ぐのは人である。
その法を誰が覚え、その人は何処にいるのか。

(本文)
 ここ長安の青龍寺東塔院に大阿闍梨、恵果和尚なる者がいる。
 (インドにおいて)仏法の火が消えかかっていた時に、異国の中国の昭応(中国陜西省臨潼県)で恵果は生まれた。俗姓は馬氏。
 天は清く混じり気のない性格をその子に与え、地は神の霊力を持たした。
 その子は種に例えるなら鳳凰の卵であり、苗に例えるなら龍の子どものようであった。(育つにしたがって、)天高く飛翔し、木を選んで止まるという神鳥のような習性をあらわしたから、世間の目にとまることなく、俗世に染まらなかった。
 (やがて、少年期に入ると)獅子のごとくに自由に大地を歩み、自らを開花させる場を禅林と定め、各地の寺院をまわって、将来、自分の師となるべき人物を一人ずつ判断した。
 そうして、大照禅師(曇貞)を師として仕えた。
 その高僧は大興善寺※の大広智不空三蔵(だいこうちふくうさんぞう:サンスクリット名はアモーガヴァジュラ。南インド出身。十四歳の折、金剛智三蔵※にめぐり逢い、弟子となる。開元八年(720)に師とともに来唐。師から仏法の経・律・論と密教を学び、師の入滅後インドには渡り、『金剛頂経』『大日経』の完本等を持ち帰り、膨大なる仏典を翻訳した)の弟子であり、不空から師資相承の密教の奥儀を授かっていた人物であった。
 ※大興善寺:中国における密教発祥の地。三世紀後半の創建。六世紀後半からは複数のインド僧が相継いで訪れ、多くの仏典を漢訳し、密教を教えた。八世紀前半には善無畏・金剛智・不空らのインド僧が来て、以後密教を伝授するようになった寺院。
 ※金剛智三蔵(こんごうちさんぞう:サンスクリット名はバジュラボディ):南インドのバラモンの出身。十歳でナーランダ寺に入り出家。インドの学問五明の声明・因明を学び、二十歳で具足戒を受けた。その後、大乗仏教の論書『般若燈論』『百論』『十二門論』『瑜伽論』『唯識論』『弁中辺論』などを学び、さらに『金剛頂経』系の密教、それに五明のすべてを修めた。

 大照禅師は恵果が数え八歳になると、大興善寺に連れて行き、彼の師である不空三蔵に会わした。
 不空は少年を一目見るなり、ただ者ではないと驚き、こっそりと少年に告げた。「わしの仏法を盛んにするのはおまえである」と。
 以後、不空は父親のように恵果少年に接し、母親のように彼をいたわった。(大照禅師は恵果の資質を見抜いていたから、自分よりもすぐれた密教の師である不空の手にその教育を委ねたのだ)

 不空は仏法の奥深い道理を指し示し、それから、密教の基本を恵果少年に教えた。

(不空は自らが訳した以下の四つのインドの経典を用いて、少年を密教へと導いた)

 一、『大仏頂(だいぶつちょう)陀羅尼(だらに)』 (災難から身を守り、罪障を除き、自らのもつ無垢なる知のちからを発揮させ、直ちに福徳を得るなどの功徳をもたらすさまざまな真言。密教の初学者が先ず学び、金胎両部の大法の受学、修法に資すべき前行的な役割を担うものとなるという)
 二、『大隋求(だいずいぐ)陀羅尼』
(求めるところに随い、自らと他に、息災・滅罪・いのちなどを施し与える真言)のサンスクリット語のさまざまな呪文を恵果は一度耳にしただけで覚え、
 三、『普賢行願讃(ふげんぎょうがんさん)』
(あらゆるすがたかたちをもつ生きとし生けるものが、それぞれの生命力をもって共に生き、その知覚を癒し、そして楽しませ、安楽を得て、ありのままに無心に活動し、その清浄なる一瞬の無量の連続によって共にその一生をまっとうさせよという願い)
 四、『文殊讃仏法身礼(もんじゅさんぶつほっしんらい)』
(生きとし生けるものがその自ら持てるものを相互に扶助し、平等に生きているから、連鎖の全体で観れば、分別無く、生滅無く、我欲無く、因果無く、自他無く、世界は一つであり、個の存在はありのままで清浄なるものである。その世界への帰依)の経文を恵果は一度聞いただけでその内容のすべてを把握した。

 十四、五歳頃になると、その聡明なる知のちからと霊力は広く世間の人に知れ渡ることになった。

(恵果少年と皇帝との話)
 その評判を聞いた当時の唐の皇帝代宗は恵果少年を宮廷に呼び、彼に命じた。
「朕(ちん)には日頃、心につかえていることがあるが、それを解き明かしてくれ」と。
 少年僧恵果は(すぐに皇帝の悩みの原因を見抜いた。そこで、自らがその悩みに答えることは不遜であるとおもんばかり、)自在天の法力によって、(しかも間に数人の架空の童子を使いとして立て、その童子が皇帝の疑問を自在天に取り次ぎ、受け答えするといった手間を介して、)その心のつかえとなっている(帝位に関する)事柄をすらすらと解いてしまった。
 これに感歎した皇帝は言った。
「龍の子は幼くても雨を降らすことができるというが、この言葉が嘘ではないことを臣下の者たちよ、よくメモしておけ。少年の僧であっても、小さな事象を糸口にして、その過去・未来・現在のすべてを見透かしてしまう(三明)能力のあることを今、まのあたりにしたと」。
 その後、恵果少年は宮廷の差し向けた駿馬によって送迎され、生活日用品(寝具・衣服・食物・薬)にも事欠くことがなかった。

 具足戒を受ける二十歳になってからも、青年恵果は春夏秋冬、日夜勉学に勤しんだ。

(授業の様子)
 不空の海のように広い教えは、押し寄せる波のように唇から出、密教の根幹を成す金剛界の説くいのちのもつ無垢なる知の原理の教えは、鏡となって生徒恵果の心の土台を隈なく照らし出した。
 また、その講義内容は、恵果という器(うつわ)に合わせ、寺院の鐘のひびきが目的に合わせて伸び縮みするように、あるいは谷間のこだまが発する声によって自在に跳ね返ってくるように、その学習成果は半端なものではなかった。

(授業内容)
 授業は、僧侶になる者が絶対に守らなければならない戒律のすべてを学ぶことから始まり、その次に身(行動)・口(コミュニケーション)・意(意思)という、生きとし生けるものに共通する活動<三密>を象徴的に演示する技法を教わり、その修法を通して、いのちのもつ無垢なる知のちから(如来)とそのはたらき(菩薩・明王・神々)の成す世界の個々に結びつくことを学び取り、その後に、その世界の全体を把握し、それらと一体となれる資質を持つ者にのみが臨める儀式<金剛界(知の原理)と胎蔵(知のすがた)の両部マンダラの伝法灌頂を師資相承によって受ける場>へと進級するものであった。
 恵果はそれらのすべてをクリアした。

(慈悲の心と知の実践)
 阿闍梨となった恵果は、如何なる難問にも即座に正しい答えを見つけ出したから、相手と口論するということがなく、そのすぐれた知はいくら使っても尽きることが無かったから、誰が和尚の知の器の底を見ることができただろうか。

 だから、三代の皇帝(代宗・徳宗・順宗)は恵果を尊んで、国師とし、四衆(僧・尼僧・在家信者の男・女)も恵果を敬い、大勢の者が師の灌頂を受けた。

 植物の葉の焦げる日照りがつづけば、ナーガ(龍)を呼び大雨を降らさせ、
 大雨が洪水を起こせば、龍を食べるガルダ(金翅鳥)を駆り立てて、日を照らす。

 恵果和尚はそれらの自然災害がまるで自分の手のひらの上で起こっているかのように、神の使いの龍や鳥を呼び出し、そのイメージによって自然を自在に制御し、人びとの不安な心を安らげた。そうしている間に災いはすばやく通り過ぎたのだ。(天候は必ず変化する)

 皇帝と皇后は、恵果和尚のもたらす利益のイメージを貴び、皇室に連なる方々も悪きものをたちまちに取り除いてしまう、彼の祈りに感服した。

 それらの評価は、和尚の生まれながらにもつ他者への慈しみの心が、善きイメージをもって物事を制御するというちからとなって現われたからにちがいない。

 また、和尚は多くの財貨や田園が寄進されても、受けとるが貯えようとせず、それらを生活の具にすることを潔(いさぎよ)しとしなかった。それでそれらを大マンダラづくりや寺院の建立・修理のために使い、貧しい者には財貨を施し、愚かな者には仏法を施した。

 そのように財産を肥やさないことを信条とし、仏法は惜しみなく使うことを信念としたから、身分の高い者も低い者も、和尚のもとに来る人びとはみな平等に「虚(む)しく往きて実(み)ちて帰る」というおかげを持ち帰ることになった。
 それで、近隣からも遠方からも、その光を求めてみなが集まることになったのだ。

(和尚の弟子たち)
 ジャワの弁弘(べんこう)はインドを経て恵果和尚の弟子となって尊者に対する礼をとり、新羅の恵日(えにち)は南朝鮮の馬韓・弁韓・辰韓の三つの国を通って密教の教えを受けに来た。(そうして、両者は胎蔵部の伝法灌頂を授かった)
 また、四川省からは惟上(いしょう)が、河北省からは義円が、それぞれに恵果和尚の人格を慕って、錫杖を手に、密教の法を授かることを願い文箱(ふばこ)を背負って訪れた。(そうして、両者は金剛界の伝法灌頂を授かった)
 さらに密教の奥儀を授かった者には、皇帝に仕えた義明(ぎみょう)がいた(が、金胎両部の伝法灌頂を授かり、恵果のただ一人の後継者であったのに不運にも若くして没している。原文に記載される満公は彼の父親のことであろう。伝法灌頂を授かった弟子は空海を含めて六名のみであるから)。
 また、密教の法脈(師資相承)ではなく、秘伝の技法のみ(一子相伝)を授かった者には、弟子の義智・文璨(もんさん)・義玟(ぎびん)・義壱と、門徒の義操・義敏・行堅・円通がいて、彼らはその法を受けるにあたって、事前に、僧としてすべきこととしてはならないこと<三昧耶戒(さんまやかい)>を教えられ、その戒律を必ず守ることを誓った上で、瑜伽(ヨーガ)の瞑想方法を修得し、三密(手に印を結ぶ身密・口に真言を唱える口密・心に本尊を思念する意密)の技を学び、その技を用いて物事の真理が観想できるようになった者である。

 それらの者たちが、皇帝の師となり、僧と門徒を率いたから、密教の法灯は生きとし生けるものと人間社会を照らし、その教えは国内各地に広がった。
 これこそが(民の幸福を願い、人びと救い、万人に利益を与えようとする)大師の大いなる法施(ほうせ)である。

(和尚の教法と作法)
 大師は幼くして親元を離れ、師に得て、世間の欲を望まず、仏の道に入って戒律を守り、常に命がけで仏を念じ、生きとし生けるものすべてへの恩恵を忘れず、心は真っ直ぐで変わることないように、清潔で汚れのないように磨かれていた。
 また、日常の作法となる行・住・坐・臥はあるがままですでに慎ましく、その知性による活動(行動・コミュニケーション・意思)は、生まれながらにもつ善なる資質が、そのままに行ないとなって現われたものであった。
 だから、大師の場合、自らを禁じ戒めることは最初から身に付いていたものだから、それだけで充分であった。

 寒くても、暑くても、苦しいとは言わず、飢えても、病に遇っても、その慎ましく善なる活動を怠らなかったし、日夜絶えることなく思念し、人びとのあらゆる心の迷いを取り除かせ、十方を結んで護り、あらゆる悪を退けさせ、世の中の安泰を願った。
 だから、よく忍び、よく勤めること、わが師に適う者はいない。

 いのちのもつ無垢なる知のちからが成すところに遊び、その知のすがた<胎蔵マンダラ>に母親の胎内のような安らかさを想い、その知の原理<金剛界マンダラ>に入っては、その知によって、生きとし生けるものが共に生きていることに感謝した。

 百千の言葉が為す呪文(真言)は、一心を貫き、
 マンダラが示す万億の無垢なる知のちから<五如来>と
 そのはたらき<諸菩薩・明王・神々>に一気にアクセスし、
 それらの多様な知が一身に布かれる。

 そうなれば、歩いていても坐っていても、自分そのものが修行道場となり、眠っていても覚めていても、いのちのもつ無垢なる知のすべてがいつでも脳裏上に図示されているから、それを観れば、真実がそこにある。

 だから、その無垢なる知のちからとそのはたらきをもって、それを自然の理として、朝日とともに人びとの長き眠りを覚まさせ、春雷とともに人びとをその籠もる穴から引きずり出すことができたのだ。

 わが師の瞑想による妙なる知のちからのはたらきは、以上のよう作法によって為されているといえようか。

 個のいのちの栄華と気高さを自ら示し、他にいのちあることの価値を説き、人が病んでいれば自らも病んで、その苦しみを味わい、それぞれの病に応じて薬が投じられるように、それぞれの迷いが起こす悲しみに応じて、自らも悲しみ、人びとをその悲しみに応じて救う方法を講じられた。

(教法の勧め)
 わが師は、門徒に対し常に次のことを述べられていた。
「(伝道と継承)
 人の上に立つ貴き者は国王であるが、仏法の上に立てるのは密教をおいて他にない。
 牛や羊はのろのろと進み、馬はそれよりもやや速いぐらいだが、それよりも迅速に、しかも容易く、密教の教えによれば、事を運ぶことができる。
 大乗仏教の説くさとりに到るための膨大で長々とした教えと、さとった後の知の世界の簡潔な教え<密教>とでは、そもそも出発点が異なっている。
 そのようなことだから、諸宗と密教とを同日にして論じることなどできないのだ。
 仏法の心髄となる要点がここにある。
 (さて、その仏法の心髄である密教がわが国に持ち込まれた)
 善無畏(サンスクリット名:シュバカラシンハ)は(インド、マガダ地方の王族の出身であったが、『大日経』などの胎蔵系の密教を学び、来唐するために、)その王位を捨て、金剛智は(南インドのバラモン種の生まれで、ナーランダ寺に入り出家し、各地を遍歴し、十数年を費やして五明・戒律・各種経論・『金剛頂経』などの密教の経典を学んだ後に)船を浮かべてわが国、唐に(その密教の教えとインドの学問、五明をわざわざ)伝道に来た。
 それらは無駄な行為であっただろうか、そうではない。
 (人を含め、生きとし生けるものすべてがいのちのもつ無垢なる知のちからによって生きている。そのことに目覚め、その知を五つのちからに分類したものを如来と呼び、その知のちからのはたらきが諸菩薩・明王・神々となり、それらが構成する世界<金胎両部のマンダラ>を説いたのが密教であり、その中の根本となる知、)金剛薩埵(存在知)を筆頭とする真実の知が成す世界の教えは、その後も師から師へと伝えられ、現在(のわたくし恵果)で七代になる。
 (マンダラによる結縁とさとり)
 (この教えによると、さとりは人びとの中にもともとあるものだから、)さとりを得るのは難しいことではないのだが、そのさとりの世界の全体像をイメージするのは容易なことではない。
 そこで、さとりによって得た無垢なる知のちからとはたらきを如来・諸菩薩・明王・神々のすがたで表わした図を作り、その図による壇を築き、出家・在家を問わないで、みなが即座にさとりを得られるよう、投華得仏(とうけとくぶつ)させる結縁灌頂(けちえんかんじょう)が設けられた。
 これによって、多くの者に甘露を受ける(さとりを得る)機会が開かれた。
 そのマンダラ図に描かれる天界の鬼神の類いであっても、それも人の知が生み出したものだから、いのちのもつ無垢なる知のちからによって清めることができる。ともかく、信徒であれば男女の区別なく、図に表わされた世界の妙味に触れ、その大量の光り輝く珠のような知のそれぞれを誰もが抱くことができるのだ。
 五つの知のちから<五智>を表わすそれぞれの如来に一心に印を結んでアクセスすれば、無垢なる知に触れ、アの一字、真言の一句をもっても真実の世界にアクセスすれば、仏道の門戸が開く。
 それがさとりへの第一歩となる。さあ、それを実行するのはあなた方ひとり一人である。勤めよ、励めよ」と。

 わが師が「教法の勧め」を、上手く述べられた。

(恵果和尚の入滅)
それ、明と暗(昼夜)は自然の常である。
たちまちに現われ、たちまちに没する(生者必滅)は生きるものの真理の言葉である。
常なるものには過ちがなく、真理の言葉には利益が多い。
わが師は、永貞元年(805)の極寒の月(十二月)の十五日、在世六十年、出家四十年、法印を結んで一心に念じ、自己のいのちのともし火が燃え尽きようとしていることを世間に告げられた。

ああ何と悲しいことなのか。
天は太陽を周る木星(恵果のこと)を六十年で召し戻した。
それで、人びとは恵果が放っていた無垢なる知のちからという光を失ってしまった。
恵果の棹さす筏は向こう岸に帰ってしまったから、
溺れてしまう子に悲しみだけが残った。
名医の恵果がいなくなったら、病にかかった子を誰が治すのか、
ああ何と痛ましいことなのだ。

翌年正月の十七日、長安の東に葬る。
断腸の思いでご遺体を横たえ、焼き、生前の香しき業績を思い起こすと心は乱れる。
黄泉の扉は永久に閉じた、天に訴えてももう遅い。
師を失った苦痛に嗚咽し、悲しみは消えない。
空はどんよりと曇り、悲しみの色となり、松風は冷たく、哀しみの声をたてて吹く。
庭の隅の竹の葉はもとのままの緑なのに、墳墓の上の松とキササゲは植樹されたばかり。
日は巡り、哀しみの情はなおも切なく、月は過ぎ、思慕の情はなおも新たに。
ああ痛ましい。
この苦しみを如何にせん。

(空海の密教受法と恵果の遺言)
 師の弟子、わたくし空海、故郷は東海の東、この唐に渡るのに大変な困難な目に遭った。どれだけの波濤を越え、どれだけの雲山を越えなければならなかったか。
 (それだけの困難をのり越えて)ここに来ることができたのはわたくしのちからではなく、(これから)帰るのはわたくしの意志ではない。
 師はわたくしを招くのにあらゆる情報を集め、その情報を逐一検索され、空海計画なるものを実行されたのではないかと思うぐらいだ。
 わたくしの乗船日の朝から、旅の無事を示す数々の吉兆が現われ、帰るとなった時には師はわたくしのことをずっと以前から知っていたと話されたからだ。
 それは和尚が亡くなる日の夜のことである。
 死ぬ間際に弟子のわたくしにこう告げられた。 「おまえには未だわしとおまえとの深いちぎりが分かっていない。国も生まれも違うのに、ここにこうして出会い、密教という、これもインドから多くの師を介してこの地に伝わったブッダの教えの本道を、師資相承によっておまえが引き継ぐことになったのには、それなりの過去の原因・条件があり、ここで結びつくようになっていたからだ。その結びつきの機会はもっと以前にも条件さえそろえばあったかもしれないが、お前の原因、条件がそろい、引き寄せられるように、遠くから来唐してくれたから、わしの深い仏法を授けることになった。受法はここに終わった。わしの願いは満たされた。おまえがこうしてわざわざ海を渡り、西方に出向いて師弟の礼をとったからには、つぎにはわしが東方に生まれておまえの弟子とならなければなるまい。そういうことだから、この唐でぐずぐずしているのではないぞ、わしが先に行って待っているのだから」と。
 このように言われると、進退を決めるのはわたくしの意志ではなく、師の指示に従わざるをえない。
 孔子の『論語』によれば君子は道理にそむいたことや理性で説明のつかないものごとは口にしないとあり、『金光明最勝王経』の「夢見金鼓懴悔品(むけんこんくさんげぼん)」によると、妙幢(みょうどう)菩薩は自らが見た夢の中で、一人のバラモンが光明に輝く金の鼓を打ち鳴らすと、その音色から懴悔の法が聞こえたことをブッダの前で述べ、褒められたというし、また『論語』には一つの教えを受けたら、後の三つは自分で考えよともいうから、師の言葉は絶対であり、その言葉は骨髄に徹し、その教えは肝に銘じなければならないものなのだ。

(恵果和尚の碑銘)
 こうして、師の言葉を思い起こせば、喜びと悲しみが半々で断腸の思い、言葉に詰まるがそれでも沈黙していれば、わが師の広い徳は伝わらず、語らずにはいられない。
 山海だって時が経てば容易に変化してしまうのだから、師の言葉を誰かがきちっと記録しておかねば、やがて消え去ってしまうだろう。
 だから、日(太陽)と月のように、師の言葉を不朽のものとしたいから、以下の銘を作る。

生きとし生けるものの数は無量であるから
それらのすべてを救済するとなると際限がない

日月は天に在って、その輝きは水に映り
放つ光は万物を隈なく照らす

ここに一人のずば抜けた僧がいる
僧は人の子であったが生まれたときからすでにさとっていた

僧としての戒め<律蔵>と生けるものが共に生きるための無垢なる知の教え<密教>と
両方を学び修めても未だ余力があり
あらゆる経と論の
すべてを記憶していた

四分律(ブッダの説かれた僧侶の戒律)を守り
いのちのもつ無垢なる知のちからによる三つの活動、行動(身)・コミュニケーション(口)・意思(意)をそれぞれに、手に印を結び、口に真言を唱え、心に本尊をイメージし、その本尊の表わす無垢なる知のちからやそのはたきと生の活動が一体となる境地<ヨーガ>を日々実践した(その知のちからやはたらきと五明<言語・論理・教義・工学/数学/天文学・医学>を用いて人と社会のために役立てた)

だから、唐の三代にわたる皇帝の認める国師となり
万民は師を頼りとした

日照りと洪水のときには、雨を制御するために祈り(人びとの心から不安を取り除いた)
(そうしていれば、)必ずいつかは雨が降り、そして止むから、災いはすぐに通り過ぎる

今はこの世の弟子たちから離れて
安らかに自然の土に戻られた

無垢なる知の松明の炎はすでに消え
春雷のような仏法のとどろきは今、何処にある

師を失い、仏家を支えていた梁は砕けてしまった
痛ましく、苦しいことだ

松とキササゲの根が墓を塞いでしまったら いつの時代に(この碑文が読まれ、)恵果和尚のことを人びとが思い起こしてくれるのだろうか

『性霊集』巻第二「大唐神都青龍寺故(もと)三朝国師灌頂の阿闍梨恵果和尚の碑」
日本国学法弟子比丘空海撰文並びに書より

あとがき

 これを読み、『性霊集』巻第十「故の贈僧正勤操大徳の影の讃」も読むと、空海(774-835年)には二人の大切な師がいたと分かる。

 一人は日本における師、勤操和尚(754-827年)。空海の青年期には、仏法と五明の学習の先生として、(あるいは後見人として、)空海帰国後は、仏法の本道(三論と真言)によって手を携えて国づくりをする先輩後輩として。
 そうしてもう一人の師が唐の恵果和尚(746-806年)。二年の短期間であったが、そのちぎりは深く、空海は弟子となって、師資相承の密教の教えを受けた。

 ところでこの二人の師にも、それぞれに師の師にあたる僧がいた。
 勤操和尚の師は善議、善議の師は道慈であり、道慈は702年(大宝2)唐に渡り、西明寺に住して三論を修め、718年(養老2)に帰朝し、739年(天平12)には大極殿『金光明最勝王経』講義の講師をつとめた。また、745年にも再度入唐し、戒師を招請し、鑑真の来日が実現している。
 恵果和尚の師は本文にあるとおり不空三蔵(705-774年)であり、不空の師は金剛智三蔵(671-741年)である。

 このように、師から師へと結びつくことによって、仏法は継承・進化してきた。
 その因縁に気づけば、恵果和尚の臨終の場での「前世からのわしとおまえとの深いちぎり」の言葉は意義深い。
 ちぎりは原因・条件がそろったところで出て来たものだから、以前がなければ今の結び付きもなく、生まれる前からのちぎり、つまり当事者たちは別々の因縁によって生まれ育ったが、その因縁があったからこの世に存在し、互いに存在したからこそ出会いがあり、出会いによって師弟の関係を結び、遠く東から海を渡って仏法を求めて来た空海が異国の地で師である恵果を看取るという場面にまで到った。

 本文まえおきの"三明"とは、つまり因縁のことなのだが、あらゆる事象の過去・未来・現在を見透かす知のちからを用いて、空海が恵果和尚の伝記に取り組んだことになる。

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