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『空海の夢』ノート 9

●21--いろは幻想

 松岡さんは、生命史を語ったかと思うと今度は「いろは歌」、つまり和語の成立史へと論を自在に転ずる。章の最後に、「私のいろは考も空海との結びつきの点では幻想におわる」と断りながら、でも語らざるを得ない何かに突き動かされて章はツトム・ヤマシタの曲からはじまる。
 私は個人的な思いだが、ツトム・ヤマシタに密教を奏でてもらえたらという夢をもっている。いや喜多郎でもいい。現代音楽のトップアーティストは、かならずどこかで密教あるいは空海にふれるはずだという勝手な想像力が私には強すぎるのかもしれない。でも仕掛けてみる価値はあると思っている。

 さて「いろは歌」は伝えられるように空海の作かということ。
 松岡さんがいつも口にするのは、空海自身ではないが空海以後の真言僧がかかわっているということである。例えば、新義真言宗の祖・興教大師「覚鑁(かくばん)」の「以呂波釈」。「覚鑁」は「いろは歌」の奥に潜む無常観を引き出したと言う。

 色は匂へど散りぬるを(諸行無常)
 わが世誰ぞ常ならむ (是生滅法)
 有為の奥山今日越えて(生滅滅已)
 浅き夢見じ酔いもせず(寂滅為楽)

 そこで和語の成立。まず万葉仮名。

 上代の日本は音の世界だった。そこに漢字が入ってくる。はじめて文字に接した日本人は渡来人の助力のもとに漢字を訓読型と音読型の両用でつかうことをおもいつく。アマは「天」でもあって、また「阿麻」でもあった。翻訳可能な言葉にはおおむね漢字の訓読があてられたが、翻訳不可能の固有名詞などには音読型の漢字をあてはめた。いわゆる音訳である。これが万葉仮名になる。

 これと同じことは、卑弥呼や邪馬台、あるいは般若や波羅蜜多にも見られる。これは渡来人のふくめた日中合作の創意工夫と、日本人の異常な熱意の賜物ではないかと松岡さんは考える。

 また、八世紀になると、『古事記』『日本書紀』『万葉集』などで、万葉仮名を固有名詞以外にも使うようになり、その表記を漢文の中までに入れ込んでしまう(和化漢文)。

 夜久毛多都、伊豆毛夜幣賀岐、都麻碁微尓
 八雲立つ、出雲八重垣、妻籠みに

 次国稚如浮脂而(次に国稚(わか)くして浮べる脂の如くして)
 久羅下那州多だ用幣流之時(くらげなす漂へる時に)

 この和化漢文の文字が元の形を離れて「仮名」の発生へと進化する。その過程で、訶(カ)や迦(キャ)や摩(マ)や婆(バ)など、漢訳仏典の陀羅尼の音訳語が使われているという。日本語の表記や表音の発達と定着には、かならず漢訳仏典が介在していたことがうかがえる、とも。

 そして「音仮名」に訓点の工夫が加わる。草体化と略体化。略体化は、字体の簡略化と宮中の女手文字(やがて平仮名)。また一方訓点からオコト点の発達で片仮名の独立へ。

 ここで、松岡さんは空海のサヘキ一族は「何を聞いたのであろう」と話を文字の音の進化に移す。例えば、「生」という文字。
 セイ、生活・生態・学生。ショウ、一生・生滅。キ、生糸。ナマ、生水。フ、芝生。オウ、蒲生。ウブ、生方。ウ、生まれる。オ、生い立ち。ハ、生える。今ではこれだけの読み方がある。

 とくに「セイ」と「ショウ」のちがい。漢音と呉音の対立。例えば、
 清(セイ・ショウ)、行(コウ・ギョウ)、下(カ・ゲ)、食(ショク・ジキ)、女(ジョ・ニョ)、日(ジツ・ニチ)、木(ボク・モク)、文(ブン・モン)、礼(レイ・ライ)、言(ゲン・ゴン)。

 日本では先に呉音が定着し、七世紀くらいから中国から帰った留学僧が漢音を伝えた。『古事記』は呉音中心の字音、『日本書紀』は漢音中心の字音を採用。読み方という点では記紀はまったくちがう方法をとった。
 「呉音から漢音へ」のキャンペーンは、新しい唐の文化を吸収しようとした朝廷主導でかなり入念に行われた。延暦十一年、空海が渡唐する前年、明経科の学生に「呉音を排して漢音を習熟せよ」という勅命も下った。

 話はまた「いろは」にもどる。最古の「以呂波字母表」は、承暦三年(一〇七九)の『金光明最勝王経音義』とよばれる写本の冒頭にある。ここには真仮名と変体仮名が用いられている。

以(伊) 呂(路) 波(八) 耳(尓) 本(保) へ(反) 止(都)
千(知) 利(理) 奴(沼) 流(留) 乎(遠) 和(王) 加(可)
餘(与) 多(太) 連(礼) 曾(祖) 津(ツ) 祢(年) 那(奈)
良(羅) 牟(无) 有(宇) 為(謂) 能(乃) 久(九)
耶(也) 万(末・麻) 計(介・気) 不(布・符) 己(古) 衣(延) 天(弖)
阿(安) 佐(作) 伎(畿) 喩(由) 女(馬・面) 美(弥) 之(志・士)
恵(會・廻) 比(皮・非) 毛(文・裳) 勢(世) 須(寸)    

 これは旋律をつけて読むための表である。一字づつ声点というものが四隅についていて発音の癖が支持されていたと言う。仏教の「声明(しょうみょう)」のボーカリゼーションもこのような流れの中で定着したものと思われる。

 真言はもと言なく、文字は声によりて生ず


●22--呼吸の生物学

 和語の成立とボーカリゼーションの話から、いよいよ松岡さんが空海密教の中で一番お気に入りの「声字実相」に進む。

 空海の言語創生過程論。

 内外の風気わずかに発すれば、必ず響くを名づけて声というなり。
 その声がおこってすだいたとき、そこに字がおこる。その字は名をまねき、名は体をまねく。

 「声から字へ」。
 「絵から字へ」。
 「身ぶり言語」「ボディー・ランゲージ」。
 言語創生過程の三つの種類。そこには、動物的信号性から人間的記号性への流れがある。

 空海は『声字実相義』に言う。

 五大にみな響きあり
 十界に言語を具す
 六塵ことごとく文字なり
 法身はこれ実相なり

 この詩には主語としての響や声、あるいは文字や言語がない。みな述語だ。

 ただひたすら宇宙の音響がひびきわたり、それがいつとはなく山川草木に共振してついに人の声となり、また五体をくだいて言葉となりながらふたたび時空の文字に還っていくような、そんな述語的な光景に徹している作品である。それでいて、ただ声の響きだけが太始と太終をつないでいる。

 言語はまず吐く息つまり「呼息の産物」。一般に、発話時には一分あたりの呼吸数が激減し、吸息作用は少し増すが呼息作用はゆるやかになって呼吸はふかくなるものだと、松岡さんは「呼吸の生物学」講義に入る。
 言語宗教のようだと松岡さんがいう空海密教の中心コンセプトに迫るのに、「呼吸の生物学」に目をやるところが非凡の証拠だ。空海の先ほどの詩はそれに呼応したのであろう。

 十全な発語活動をしているときに呼吸が深くなるということは、声を出していても瞑想しうるという可能性を立証している。これがマントラやダラニの高次元性を支えるひとつの条件になる。

 これは事実だ。呼吸が深くなって瞑想が深化するのは無念無想の禅ばかりではない。私たち僧侶がお経を唱えている時、深層意識と出会ったり直感がはたらいたり身体遊離を感じたりするのはよくあることだ。ヨーガが呼吸法(プラーナーヤーマ・調息)を重視するのも、阿字観が数息観から入るのも、呼吸が精神集中と深くかかわっている証拠である。

 もう一つ、私たちのお経は共鳴する。一緒にお経を唱えるお坊さんの声に和し、音程も息継ぎもまちまちながらハーモニーをかもしだす。山で唱えれば山と共鳴する。海で唱えれば海と共鳴する。逆に自然からのバイブレーションを感じることもある。

 そして「声の文」。「声紋」ではない。発話活動における調音現象という意味だ。松岡さんは、空海が声には「文」があると言って、そのことに気づいていることに驚きを示す。
 私なりに言えば、この気づきは「声明」に近い経典読誦の経験がそうさせることで、経典を講読の対象とする「顕」教では恐らく出てこない着想だといえる。お経の棒読みでは調音は必要がないからだ。

 十界所有の言語はみな声に由って起こる。声に長短高下、音韻屈曲あり。これは文と名づく。
 文は名字に由り、名字は文を待つ。

 また「呼吸の生物学」へ。呼吸を止めることができる時間の長さは種の特質の重要な部分を決定している、と。
 動物の呼吸はひとえに直物の光合成が生み出す酸素に依存する。動物は植物の逆を呼吸で行う。 動物のATPづくり。ミトコンドリアの活躍。呼吸原理を司る工場。体内の呼吸ネットワーク。

 瞑想とは生体エネルギーのリズムがナチュラルである生物学的状態のことを示す宗教用語。
 呼吸活動が筋肉を動かしもし、また精神を安らがせもするという両極の作用をもっているということは、言語活動にもその両義的作用がおよぼされているという意味で特筆される。言語はつかい方によっては、安定剤にも興奮剤にもなったのである。このことは空海が主唱した「真言」の本質を知るヒントになってくる。

 無呼吸状態を長く続けられないヒトの「呼吸の生物学」にとって、声を出して行う真言・陀羅尼の読誦(アディシュターナ)が正当な評価を得た。

 私は、肉体を栄養失調状態に追い込み、また呼吸を極端なまでにコントロールし(山川草木の呼吸とのバイオレーションも絶ち)、無念無想にしてただ黙って坐り、虚無や痴呆の彼方に自分を捨てるような坐禅ばかりがなぜもてはやされるのだろう、声を出す方だって「理事無礙」くらいはあるのに、なぜ目もくれられないのかとずっと思ってきた。山に伏し自然の呼吸を身に沁み込ませていた空海には、ボーカリゼーションの方が「得たり」だったのである。



●23--マントラ・アート

 松岡さんは、前章だけでは言い尽くせなかったのか、今度は空海の言語思想を自由にしゃべるという設定でふたたび大好きな言語哲学の問題に踏み込む。

 そこで、しかしとなった。この章は、AとBという空海を深く知る二人(架空)の対話形式なので、難しい専門的なことばや知識がポンポンと自明のことのように飛び交う。しかも双方のちがう考えが交換され、論の展開も記述の場合とちがって速いのだ。恐らくA・Bとも松岡さんだろうが、残念ながら対話の流れに沿いつつお互いの意見の真意をここに正確に再現するのはちょっと無理だと判断せざるを得ない。ここはただキーワードやキーセンテンスを拾っておくことでお許しいただきたい。

 空海の言語思想の核心。インドのマントラの発想、中国の文字の構想、日本のコトダマ観。

 インドのミーマンサー学派。シャブダ(永遠の声)とナーダ(音声言語)。
 ミーマンサー学派の「声顕論」。文法学・音韻学のバルトリハリの「スポータ理論」。まず、声によってスポータ(蕾)が破られて開顕し、開顕したスポータが意味を発生される。
 バルトリハリの「声梵」の考え方は空海にも生きているようにおもう。

 バルトリハリにとっては声は契機だけれども、空海にとっては声は本質だ。
 空海の思索の特徴は声と文字というものを同時的に考えられるところにある。
 まさに「声字=実相」という方程式だ。

 なぜこんなことが考えられるのかというと、ひとつはきっと空海が梵語も漢語も理解できたということにあると思う。梵語のマントラやダラニは漢訳仏典ではそのまま音写することが多い。
 空海には、その「声から文字をつくる」というプロセスがよく見えたのだと思う。
 本来は果分不可説の宗教世界に果分可説をもちこむのはよほどのことだ。大半の仏教者が現象世界は言語にもなるが、絶対世界のサトリは言語にならないのだから大悟してもらうしかないと言っているのに、むしろ絶対世界の方が伝えやすいと逆襲しているようなものだ。よほど真言に純粋な伝達力を認めていたのだろうか。

 『般若心経秘鍵』。「秘蔵真言分」。
 「真言は不思議なり、観誦すれば無明を除く、一字に千理を含み、即身に法如を証す」。
 鳩摩羅什や玄奘が真言ダラニの個所をわざわざ音写して注釈も加えないように配慮していたのに、なぜあなたはそこを解釈してしまうのか、という論難だ。これに対して空海は「これを説き、これを黙する、ならびに仏意にかなえり」と言い放つ。

 秘密とは見せないということではないからね。「そこを示すこと」が秘密になる。
 空海がマンダラという秘密を指示し、真言に人人を誘うのはそういうことだ。

 あの阿字の一字は秘密であって、また告示でもある。
 阿字は秘密ではあるけれど、その阿字はもともとの秘密から出所して、いまそこにある阿字になったということなのだ。

 空海の言語感覚にはそうしたオトヅレをともなうような霊的バイブレーションをひどく重視しているようなところがあるんじゃないか。
 包摂言語であるとともに共鳴言語思想であるということだ。

 一を無数にふやすというより、無数を一にするようなところを感じる。
 一人のマントラが宇宙を包摂するということもあるということか・・・。

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