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空海の仏教総合学 その11

第十章 空海の秘密の「方法 」

一、秘密荘厳住心

大乗のレベルの五番目、「出世間心」の第七段階、「十住心」の最高最終段階。いよいよ空海の密教世界である。

冒頭で空海は、「秘密荘厳住心」とは、

これを究竟じて自心の源底を覚知し実の如く自身の数量を証悟するなり。
いわゆる胎蔵海会の曼荼羅と金剛界会の曼荼羅と金剛頂十八会の曼荼羅とこれなり。かくの如くの曼荼羅に、おのおの四種曼荼羅四智印等あり、
四種といっぱ、摩訶(大)三昧耶(三)達磨(法)羯磨(羯)と、これなり。
かくの如くの四種曼荼羅その数無量なり。刹塵も喩にあらず、海滴も何ぞ比せん。

と言い、つまるところ「自心の源底を覚知」し「実の如く自身の数量を証悟する」ことであり、それは胎蔵海会・金剛界会の曼荼羅で表されるものだとした。

すなわちそれは、『大日経』の「住心品」に説かれている「如実知自心(にょじつちじしん)」(「実の如く自心を知る」)であり、竪(タテ)軸で見ると、「諸仏の大秘密」である「十住心」(第一~第九の顕教と第十の密教)の浅と深を知ることであり(「九顕一密」)、横軸で見ると、「衆生」の無量の「自心」と二乗の「六識」と唯識・中観の「八心」と天台・華厳の「九識」と、その上に第十住心の密教の「十識」があり(「九顕十密」)、無量の心識・無量の身等が説かれていることを知ることであると言う。
 すなわち、「自心」とは「衆生」のレベルの第一住心から第十住心までの浅深の無量の心識、「自身」とは「四種曼荼羅」の無数の仏身(からだ)。それは密教でなければわからない秘密であり、その秘密で荘厳されている心位であるから「秘密荘厳住心」と言う。

この「自心の源底を覚知し、実の如く自身の数量を証悟する」を、「自らの心を奥底まで知り、自分自身のことをよくよく知る」と言ったり、「如実知自心」を「ありのままに自分の心のなかを知ること」と言ったり、平易な現代語の表現に替えるのに字面だけ合わせるのは何の意味もない。

二、胎蔵・金剛両界曼荼羅
(一)大悲胎蔵生曼荼羅(胎蔵曼荼羅)

空海が「胎蔵海会の曼荼羅」と言ったのは、略称「胎蔵曼荼羅」、正称「大悲胎蔵生曼荼羅」のことである。

大悲胎蔵生曼荼羅
大悲胎蔵生(だいひたいぞうしょう)曼荼羅

「胎蔵曼荼羅」のパンテオンを具に観察すると、この曼荼羅を構想した密教の哲人の編集力に驚かされる。密教の哲人はこの曼荼羅で、「法身」大日如来をすべての仏の主尊として新たに位置づけ、従来の仏教の如来・菩薩をフルキャストで登場させ、かつ密教が護法神として採り入れたヒンドゥーの神々やその眷属、そして星宿の一々、冥界の鬼女たちまでも集合させた。しかも一尊一尊の尊形・印相・三昧耶(象徴物)にはその尊の役割と仏徳がシンボライズされている。密教では仏尊本体とシンボルを同等のもの(三昧耶、サマヤ)とする。

この多様壮大な仏尊の集合体はまた、釈尊以来の仏教体系の集約である。
 釈尊の「無執著」、小乗の「無我」、大乗の「空」・「法性」・「真如」を越え、密教は「真如」を「理」(理念)でなく「事」(現実)とし、「真如」の仏「法身」毘盧遮那に人格を与え、実際に存在して説法をする「実在」だとし可視化したのである。
 私たちがよく目にする図像集合の「現図曼荼羅」は、空海が唐からもたらした請来本の写しで、『大日経』の「具縁品(ぐえんぼん)」に説かれる「大曼荼羅」、「転字輪品(てんじりんぼん)」に説かれる「法曼荼羅」、「秘密曼荼羅品」に説かれる「三昧耶曼荼羅」を基本としている。
 「胎蔵曼荼羅」には、『大日経』のほか、その註釈書である『大日経疏』や他の儀軌の諸説に基づくものが多種あって、尊像の数や形や配置などは一定せず、『大日経』と『大日経疏』の間でさえしばしば差異が見られる。

古来の定説によれば、「胎蔵曼荼羅」は『大日経』の「住心品」に説かれる「三句(さんぐ)の法門」(「菩提心因(ぼだいしんいん)・大悲為根(だいひいこん)・方便究竟(ほうべんくぎょう)」)、並びに母胎から子が生れ生長していくプロセスとに喩え、中心部から外周に向って第一重(「菩提心因」・受胎)・第二重(「大悲為根」・出生)・第三重(「方便究竟」・成育)という三重構造になっているという。
 私たち煩悩と迷妄に染まる「凡夫」が、生れながらに具わっている「菩提心」を自覚してそれを発し(「発心」)、手にある仏の「印」を結び、口にその仏の真言を唱え、心にその仏を観想し、その仏と一体になる「三密」の行(自利)と、大悲の行(=利他)を積み重ね(修行)、サトリを得て(菩提)、寂静の境地に入って(涅槃)、衆生の済度を行う(ことが「一切智智」(大日如来の「内証智」)に至るという)プロセスを三重構造で示したというのである。

ちなみに、「胎蔵曼荼羅」には、

「中台八葉院(ちゅうだいはちよういん)」、
「遍知院(へんちいん)」、
「金剛手院(こんごうしゅいん)」、
「持明院(じみょういん)」、
「蓮華部院(れんげぶいん)」(「観自在院」)、
「釈迦院」、
「文殊院」、
「除蓋障院(じょがいしょういん)」、
「虚空蔵院(こくうぞういん)」、
「蘇悉地院(そしっぢいん)」、
「地蔵院」、
「外金剛部院(えこんごうぶいん)」(「最外院(さいげいん)」)

の十二院があるが、これらの院が第一重(「菩提心因」・受胎)、第二重(「大悲為根」・出生)、第三重(「方便究竟」・成育)のどれに配属されるかは諸説あって一定ではない。


○「中台八葉院」は、「胎蔵曼荼羅」の中央部にあり、そのまた中央に八葉の蓮台(「八葉蓮台(はちようれんだい)」)が描かれる。八葉の蓮弁は本来白蓮華で、私たち(「凡夫」)が本来有している白浄の「菩提心」を表すが、「現図曼荼羅」はそれを赤色とし、私たちの現実の心(肉心)を表す。
 その八葉の蓮弁の中央に主尊の胎蔵界大日如来を、
 その上(東方)に宝幢(ほうとう)如来、
 右(南方)に開敷華王(かいふけおう)如来、
 下(西方)に無量寿如来、
 左(北方)に天鼓雷音(てんくらいおん)如来、
の「四如来」。
 さらに、右斜め上(東南方)に普賢菩薩、
 右斜め下(西南方)に文殊菩薩、
 左斜め下(西北方)に観自在菩薩、
 左斜め上(東北方)に弥勒菩薩、
の「四菩薩」、を配し、「菩提心」(東)→「大悲行」(南)→「証菩提」(西)→「入涅槃」(北)→究竟方便(中央)へと「凡夫」本有の心位が順次展開するのである。

○「遍知院」は、「中台八葉院」のすぐ上にあり、「一切如来智印(いっさいにょらいちいん)」を中心とする。大日如来のサトリ(「仏智」)の大いなる印(「大印」)を(太陽が出る)東方より発し、そこから如来大悲の「方便」(衆生済度)へと転ずる院。別に「仏母院」・「仏心院」とも言う。
 「一切如来智印」を中央に、優楼頻羅迦葉(うるびんらかしょう、ウルヴェーラカッサパ)、伽耶迦葉(がやかしょう、ガヤーカッサパ)、仏眼仏母(ぶつげんぶつも)、准胝仏母(じゅんていぶつも、准胝観音)、大勇猛菩薩(だいゆうみょうぼさつ)、普賢延命菩薩が描かれる。
 優楼頻羅迦葉は、ヒンドゥーのアグニ神を信仰する「事火外道(じかげどう)」から、弟子五百人とともに釈尊に帰依改宗した迦葉(かしょう)三人兄弟の長兄。伽耶迦葉はその三男。

○「金剛手院」は、「中台八葉院」の右側で、金剛手菩薩(こんごうしゅぼさつ、別称して金剛薩埵)を主尊とする。大日如来のサトリと私たち(「凡夫」)本有の「菩提心」をつなぐ金剛薩埵(こんごうさった)の智慧の具体化を説く院。この院の諸尊はみな、金剛石(ダイヤ)のように堅固な「菩提心」を表す「金剛杵」(五鈷杵・三鈷杵・独鈷杵)や金剛薩埵の智慧の発露(説法)を表す「輪宝(りんぼう)」(「法輪」)などを手にもつ。「四智」のなかの「成所作智(じょうしょさち)」にあたる。
 金剛手菩薩のほか、発生金剛部菩薩(ほっしょうこんごうぶぼさつ)、金剛鉤女菩薩(こんごうこうにょぼさつ)、金剛手持金剛菩薩(こんごうしゅじこんごうぼさつ)、持金剛鋒菩薩(じこんごうほうぼさつ)、金剛拳菩薩(こんごうけんぼさつ)、忿怒月黶菩薩(ふんぬがってんぼさつ)、虚空無垢持金剛菩薩(こくうむくじこんごうぼさつ)、金剛牢持菩薩(こんごうろうじぼさつ)、忿怒持金剛菩薩(ふんぬじこんごうぼさつ)、虚空無辺超越菩薩(こくうむへんちょうおつぼさつ)、金剛鎖菩薩(こんごうさぼさつ)、金剛持菩薩、持金剛利菩薩、金剛輪持(金剛)菩薩、金剛説菩薩、懌悦持金剛菩薩(ちゃくえつじこんごうぼさつ)、金剛牙菩薩(こんごうげぼさつ)、離戯論菩薩(りけろんぼさつ)、持妙金剛菩薩、大輪金剛菩薩、金剛軍咤利(こんごうぐんだり)、金剛使者、大力金剛(だいりきこんごう)、孫婆菩薩(そんばぼさつ)、金剛拳菩薩、金剛童子、金剛王菩薩、が描かれる。

○「持明院」は、「中台八葉院」のすぐ下。不動明王を主尊とする院。大日如来のサトリの智慧(=「明」)をよく持する忿怒形の「教令輪身(きょうりょうりんじん)」をして、よく私たち「凡夫」の煩悩・妄執を断ぜしめる。別称に「五大院」がある。
 不動明王以下、抜折羅吽迦羅(ばざらうんきゃら)菩薩、般若波羅蜜多菩薩、閻曼徳迦(えんまんどっきゃ)、勝三世明王(しょうざんぜみょうおう)が描かれる。

○「蓮華部院」(「観自在院」)は、「中台八葉院」の左側。観自在菩薩(観世音菩薩)を主尊とする院。世間の汚泥に染まる「凡夫」に、蓮の花のように本性は清浄であることを悟らせるため、法を説く院。この院の諸尊は、みな微笑している。
 観自在菩薩のほかに、蓮華部発生菩薩(れんげぶはっしょうぼさつ)、大勢至菩薩、毘(哩)俱胝菩薩(び(り)くちぼさつ)、多羅菩薩、大明白身菩薩(だいみょうびゃくしんぼさつ)、馬頭観音菩薩、大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)、窣堵波大吉祥菩薩(そとばだいきちじょうぼさつ)、耶輸陀羅菩薩(やしゅだらぼさつ)、如意輪菩薩、大吉祥大明菩薩(だいきちじょうだいみょうぼさつ)、大吉祥明菩薩、寂留明菩薩(じゃくるみょうぼさつ)、披葉衣菩薩(ひようえぼさつ)、白身観世音菩薩(びゃくしんかんぜおんぼさつ)、豊財菩薩(ぶざいぼさつ)、不空羂索菩薩、水吉祥菩薩(すいきちじょうぼさつ)、大吉祥変菩薩、 白処尊菩薩(びゃくしょそんぼさつ)、 多羅使者、 蓮華部使者、鬘供養使者、焼香供養使者、塗香供養使者、宝供養使者、が描かれる。

○「釈迦院」は「遍知院」の上。釈迦如来を主尊とする院。「報身(ほうじん)」(修行を積み、誓願を成就して、その報いとして仏身を得た仏)として、歴史上の釈迦が「説法印(せっぽういん)」を手に結んで説法している。
 釈迦のほかに、虚空蔵菩薩、観自在菩薩、無能勝金剛(むのうしょうこんごう)、無能勝妃、一切如来宝、如来毫相(にょらいごうそう)、大転輪仏頂(だいてんりんぶっちょう)、光聚仏頂(こうじゅぶっちょう)、無量声仏頂(むりょうしょうぶっちょう)、如来悲、如来愍(にょらいみん)、如来慈、如来爍乞底(にょらいしゃきち)、栴檀香辟支仏(せんだんこうびゃくしぶつ)、多摩羅香辟支仏(たまらこうびゃくしぶつ)、大目犍連(だいもくけんれん)、須菩提(すぼだい)、迦葉波(かしょうは)、舎利弗(しゃりほつ)、如来喜、如来捨、白傘蓋仏頂(びゃくさんがいぶっちょう)、勝仏頂転輪(しょうぶっちょうてんりん)、最勝仏頂転輪、高仏頂、摧砕仏頂(さいさいぶっちょう)、如来舌、如来語、如来笑、如来牙、輪幅辟支仏(りんふくびゃくしぶつ)、宝幅辟支仏(ほうふくびゃくしぶつ)、抱絺羅(くちら)、阿難(あなん)、迦旃延(かせんねん)、憂波利(うはり)、智鉤絺羅(ちくちら)、供養雲海(くよううんかい)、が描かれる。

○「文殊院」は「釈迦院」の上。文殊菩薩を主尊とする。「釈迦院」で大日如来の「報身」としての釈迦の成道・正覚の内実を悟り、この院において大日如来の尽きることない「三密平等」の真実相を開き、「般若の智慧」を本性とする文殊菩薩の徳を示す。
 文殊菩薩のほか、観自在菩薩、普賢菩薩、対面護門(たいめんごもん)、光網菩薩(こうもうぼさつ)、宝冠菩薩、無垢光菩薩(むくこうぼさつ)、月光菩薩、妙音菩薩、阿耳多(あじた)、阿波羅耳多(あはらじた)、瞳母櫓(とむろ)、肥者耶(びじゃや)、者耶(じゃや)、髻設尼(けいしに)、鄔波髻設尼(うばけいしに)、質怛羅(童子)(しったら)、地慧(じえ)、鉤召使者(こうしょうししゃ)、鉤召使者眷属(こうしょうししゃけんぞく)、使者(ししゃ)、などが描かれる。

○「除蓋障院」は、「金剛手院」の右。不思議恵菩薩(除蓋障菩薩)を主尊とする。「文殊院」で「般若の智慧」の実相を悟った果として、この院で「凡夫」の苦のもとである煩悩や迷妄といった蓋障(「菩提心」を覆うもの)が除かれる。
 不思議恵菩薩のほか、救護慧菩薩(くごえぼさつ)、破悪趣菩薩(はあくしゅぼさつ)、施無畏菩薩(せむいぼさつ)、賢護菩薩(けんごぼさつ)、悲愍慧菩薩(ひみんえぼさつ)、慈発生菩薩(じはっしょうぼさつ)、折諸熱悩菩薩(しゃくしょねつのうぼさつ)、日光菩薩(地蔵院の除蓋障菩薩と置きちがえ)、が描かれる。

○「虚空蔵院」は、「持明院」の下。虚空蔵菩薩を主尊とする。広大にして無辺の虚空のように、自利(「十波羅蜜」)と利他の大悲行が自在になった果徳を表す院。
 虚空蔵菩薩のほか、檀波羅蜜、戒波羅蜜、忍波羅蜜、精進波羅蜜、禅波羅蜜、共発意転輪菩薩(ぐうほついてんりんぼさつ)、生念処菩薩(しょうねんじょぼさつ)、忿怒鉤観自在菩薩(ふんぬこうかんじざいぼさつ)、不空鉤観自在菩薩(ふくうこうかんじざいぼさつ)、千手千眼観自在菩薩、飛天、婆蘇仙(ばすせん)、功徳天、般若波羅蜜、方便波羅蜜、願波羅蜜、力波羅蜜、智波羅蜜、無垢逝菩薩(むくぜいぼさつ)、蘇婆胡菩薩(そばこぼさつ)、金剛針菩薩、蘇悉地羯羅菩薩(そしっじからぼさつ)、曼荼羅菩薩、一百八臂金剛蔵王菩薩(いっぴゃくはっぴこんごうざおうぼさつ)、が描かれる。

○「蘇悉地院」は、「虚空蔵院」の下。本来は虚空蔵院の第三列であるが、上部の「釈迦院」と「文殊院」の対称として「虚空蔵院」に上院・下院を設け、下院を「蘇悉地院」としたといわれる。「虚空蔵院」が「仏部」・「金剛部」・「蓮華部」の諸尊のはたらきの円満を表し、「蘇悉地院」の諸尊がその果徳を(利他の)実践によってさらに成就することが意図されている。
 次の仏尊が描かれる。
 不空供養宝菩薩(ふくうくようほうぼさつ)、孔雀王母菩薩(くじゃくおうもぼさつ)、一髻羅刹(いっけいらせつ)、十一面観自在菩薩、不空金剛(菩薩)、金剛軍荼利菩薩(こんごうぐんだりぼさつ)、金剛将菩薩、金剛明王。

○「地蔵院」は、「蓮華部院」の左。地蔵菩薩を主尊とする。堅牢な大地が諸難に耐え、また諸宝を埋蔵するように、堅固な「菩提心」が諸魔に堪え、無量の善巧を貯えて凡夫の世間苦を除き楽を与える仏徳を表す院。
 地蔵菩薩のほか、除一切憂冥菩薩(じょいっさいゆうみょうぼさつ)、不空見菩薩(ふくうけんぼさつ)、宝印手菩薩(ほういんしゅぼさつ)、宝光菩薩、宝手菩薩、持地菩薩(じじぼさつ)、堅固深心菩薩(けんごしんしんぼさつ)、除蓋障菩薩(日光菩薩と位置ちがい)が描かれる。

○「外金剛部院」は「最外院」と言われるように、外周四面である。
 上部には、左端から、
 伊舎那天(いしゃなてん)、常酔天(じょうすいてん)、喜面天(きめんてん)、器手天(きしゅてん)、器手天后(きしゅてんこう)、堅牢(地)神后(けんろうしんこう)、堅牢(地)神(けんろうしん)、非想天、無所有処天(むしょうしょてん)、空無辺処天(くうむへんしょてん)、識無辺処天(しきむへんしょてん)、日天后(にってんこう)、日天、微闍耶(びじゃや)、帝釈天、守門天女(しゅもんてんにょ)、守門天、持国天、(大)梵天、昴宿(ぼうしゅく)、畢宿(ひっしゅく)、参宿(しんしゅく)、觜宿(ししゅく)、鬼宿(きしゅく)、柳宿、井宿(せいしゅく)、牛宮(ごぐう)、羊宮、男女宮(なんにょぐう)、 彗星(えいせい)、流星、 日曜、日曜眷属(にちようけんぞく)、婆藪仙、婆藪仙后(ばすせんこう)、火天后(かてんこう)、が描かれ、
 右側には、上から、
 火天、阿詣羅仙(あけいらせん)、阿詣羅仙后(あけいらせんこう)、瞿曇(くどん)、瞿曇后(くどんこう)、自在天女、毘紐女(びちゅうにょ)、夜摩女(やまにょ)、賢瓶宮、摩竭宮(まかつぐう)、双魚宮(そうぎょぐう)、羅睺星(らごせい)、木曜、火曜、軫宿(しんしゅく)、(七)星宿、亢宿(こつしゅく)、張宿(ちょうしゅく)、翼宿(よくしゅく)、角宿(かくしゅく)、氐宿(ていしゅく)、薬叉持明(やくしゃじみょう)、薬叉持明女(やくしゃじみょうにょ)、増長天、使者、難陀龍王(なんだりゅうおう)、烏波難陀龍王(うはなんだりゅうおう)、 阿修羅、閻魔天王(えんまてんのう)、黒闇天女(こくあんてんにょ)、太山府君(たいさんふくん)、死鬼衆(しきしゅう)、鬼衆女(きしゅうにょ)、荼吉尼衆(だきにしゅう)、成就持明仙衆(じょうじゅじみょうせんしゅう)、摩尼阿修羅(まにあしゅら)、摩尼阿修羅女(まにあしゅらにょ)、阿修羅女、迦楼羅王(かるらおう)、迦楼羅女、鳩槃荼(くはんだ)、鳩槃荼女、羅刹童子(らせつどうじ)、羅刹童女(らせつどうにょ)、が描かれ、
 下部には、右から、
 涅哩帝王(ねいりちおう)、羅刹、羅刹女、大自在、烏摩妃(うまひ)、梵天女、帝釈女、鳩摩利(くまり)、遮文荼(しゃもんだ)、摩拏赦(まぬしゃ)、摩拏赦女、水曜、土曜、月曜、秤宮(びょうぐう)、弓宮(きゅうぐう)、蝎宮(かつぐう)、斗宿(としゅく)、牛宿(ごしゅく)、女宿、箕宿(きしゅく)、尾宿(びしゅく)、心宿、房宿、水天眷属(すいてんけんぞく)、水天、難陀龍王、跋難陀龍王、対面天、難破天(なんぱてん)、毘楼博叉天王(びるはくしゃてんのう)、水天、水天妃、水天妃眷属、那羅延天(ならえんてん)、那羅延天后(ならえんてんこう)、弁才天、鳩摩羅天(くまらてん)、月天、月天女、鼓天、 歌天、歌天女、楽天、 風天妃眷属、風天妃、風天童子、が描かれ、
 左側には、下から、
 風天、風天童子、光音天(こうおんてん)、光音天女、大光音天、大光音天女、兜卒天(とそつてん)、兜率天女(とそつてんにょ)、他化自在天(たげじざいてん)、他化自在天女、持鬘天(じまんてん)、持鬘天女、成就持明仙、成就持明仙女、摩睺羅迦(まごらが)、摩睺羅迦女、緊那羅(きんなら)、緊那羅女、歌天、楽天、帝釈天、帝釈后、俱肥羅天(くびらてん)、俱肥羅天女、 難陀龍王、烏波難陀龍王、毘沙門天、成就持明仙、成就持明仙妃、虚宿(きょしゅく)、危宿(きしゅく)、室宿(しつしゅく)、奎宿(けいしゅく)、壁宿(へきしゅく)、婁宿(ろうしゅく)、胃宿(いしゅく)、少女宮(しょうにょぐう)、蟹宮(かいぐう)、獅子宮、金曜、戦鬼(せんき)、毘那夜迦(びなやか)、摩訶迦羅(まかから)、伊舎那天后(いしゃなてんこう)、が描かれる。

(二)金剛界九会曼荼羅

空海が言う「金剛界会の曼荼羅」・「金剛頂十八会の曼荼羅」は、略称「金剛界曼荼羅」、正称「金剛界九会曼荼羅」である。九つのグリッド枠から成っているので「九会(くえ)曼荼羅」といわれる。「九会」とは九つの仏尊の集会(しゅうえ=集まり)という意味である。

金剛界九会曼荼羅
金剛界九会(こんごうかいくえ)曼荼羅

中央部に中心となる「成身会(じょうじんね)」があり、その下に「三昧耶会(さんまやえ)」、その左に「微細会(みさいえ)」、その上(中央部の左)に「供養会」、その上に「四印会(しいんね)」、その右(中央部の上)に「一印会(いちいんね)」、その右に「理趣会(りしゅえ)」、その下(中央部の右)に「降三世会(ごうざんぜえ)」、その下に「降三世三昧耶会(ごうざんぜさんまやえ)」という配置である。
 この順序に従い、「の」の字を書くように「成身会」から「降三世三昧耶会」に向うベクトルを「向下門」あるいは「下転門」(従果向因、下化衆生、如来のサトリの世界から「衆生」済度に向う道)といい、逆に「降三世三昧耶会」から「成身会」へ逆「の」の字のように向うベクトルを「向上門」あるいは「上転門」(従因向果)(上求菩提、衆生が如来のサトリを求めて修行する道)という。

「向下門」(「下転門」)では、『金剛頂経』の冒頭の「一切義成就(いっさいぎじょうじゅ)菩薩」(=釈迦)が「一切如来(いっさいにょらい)」の驚覚(きょうがく)により「五相成身観(ごそうじょうじんかん)」を行じ、それに成就し(「仏身円満」)「一切如来」の代表としての「毘盧遮那如来」となり、「四仏」に囲まれて「十六大菩薩」を出生させる「成身会」と、それと内容を同じくする「三昧耶会」・「微細会」・「供養会」が、それぞれ「大」・「三」・「法」・「羯」の「四種曼荼羅」の関係にあり、その不即不離の関係を「四印会」が表し、それは畢竟「法身」大日に帰することを「一印会」が表し、その「法身」大日が行う「衆生」化他を「理趣会」において「正法輪身(しょうぼうりんじん)」の菩薩群で表し、教化困難の者を導くために「降三世会」・「降三世三昧耶会」を配している。

「向上門」(「上転門」)では、「凡夫」が「降三世三昧耶会」・「降三世会」で本有の「菩提心」を発起(「発心」)して煩悩や迷妄の蓋障を断ち、「理趣会」において性欲も性愛も「菩提心」の発露において(本性)清浄であることを覚り、その上で「一印会」で「五相成身」の果徳である「仏身円満」→「毘盧遮那如来」の仏身を覚り、「四印会」で四仏の「四智印」を示し、「供養会」・「微細会」・「三昧耶会」を経て「成身会」の曼荼羅に入るのである。
 「成身会」・「三昧耶会」・「微細会」・「供養会」・「四印会」・「一印会」・「理趣会」が『(初会)金剛頂経』の「金剛界品」に拠り、「降三世会」・「降三世三昧耶会」が「降三世品」に拠っている。

○「成身会」は、金剛界曼荼羅の根本の集会で、釈迦の密教名の「一切義成就菩薩」が毘盧遮那如来(「金剛界」大日)になる場面の図である。
 『(初会)金剛頂経』によれば、「法身」大日の「他受用身」(「報身」)である一切如来たちが、菩提道場で苦行中の「一切義成就菩薩」(釈迦)に近づき、「一切如来」の真実を知らずに、「どうしてそんなに苦行をしているのか」と言うと、驚覚された「一切義成就菩薩」は「一切如来」の真実とは何でしょうか」と教えを乞うたので、「一切如来」たちは「五相成身観」という「一切如来」の真実の観法を教授したところ、その教示に従い「五相成身観」を行じて「仏身円満」となった「一切義成就菩薩」(=金剛界大菩薩)は、「一切如来」たちと同じ如来(「金剛界如来」)となったことを宣言し、「一切如来」たちによって加持されて正等覚者となり、須弥山頂の金剛摩尼宝頂楼閣に移って「一切如来」たちを代表する「一切如来」(毘盧遮那如来)となった。そして、四方の「一切如来」(四仏)に囲まれ、さらに金剛薩埵をはじめとする「十六大菩薩」等を出生する。

 大円輪の中央(仏部)に(下が東方)、「金剛界」大日如来、金剛波羅蜜菩薩、宝波羅蜜菩薩、法波羅蜜菩薩、業波羅蜜菩薩。
 大円輪の下方(金剛部)に、阿閦如来(あしゅくにょらい)、金剛喜菩薩、金剛愛菩薩、金剛薩埵、金剛王菩薩。
 大円輪の左側(宝部)に、宝生如来(ほうしょうにょらい)、金剛光菩薩、金剛笑菩薩、金剛幢菩薩(こんごうどうぼさつ)、金剛宝菩薩。
 大円輪の上部(蓮華部)に、阿弥陀如来、金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛語菩薩、金剛因菩薩。
 大円輪の右側(羯磨部)に、不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)、金剛牙菩薩、金剛業菩薩、金剛護菩薩、金剛拳菩薩。

 大円輪内の四隅、左の下(東南)に、金剛嬉(戯)菩薩(こんごうき(げ)ぼさつ)。
 同じく、左の上(西南)に、金剛鬘菩薩(こんごうまんぼさつ)。
 同じく、右の上(西北)に、金剛歌菩薩。
 同じく、右の下(東北)に、金剛舞菩薩(こんごうぶぼさつ)。
以上、「八供養菩薩」のうち「内の四供養妃菩薩」。

 大円輪外、外郭より内側の四隅、左下(東南)に、火天。
 同じく、左上(西南)に、水神。
 同じく、右上(西北)に、風神。
 同じく、右下(東北)に、地神。
以上、「四神」

 大円輪外、外郭の四隅、左下の角(東南)に、金剛香菩薩。
 同じく、外郭の四隅、左上の角(西南)に、金剛華菩薩。
 同じく、外郭の四隅、右上の角(西北)に、金剛燈菩薩。
 同じく、外郭の四隅、右下の角(東北)に、金剛塗菩薩(こんごうずぼさつ)。
以上、「八供養菩薩」のうち「外の四供養妃菩薩」。

 大円輪外、外郭の四門、下部の中央(東)に、金剛鉤菩薩(こんごうこうぼさつ)。
 同じく、外郭の四門、左側の中央(南)に、金剛策菩薩(こんごうさくぼさつ)。
 同じく、外郭の四門、上部の中央(西)に、金剛鎖菩薩(こんごうさぼさつ)。
 同じく、外郭の四門、右側の中央(北)に、金剛鈴菩薩(こんごうれいぼさつ)。
 以上、「四摂菩薩」。

 外郭内の全体に、「賢劫の千仏」。「賢劫の千仏」は、「五仏」の化身で、「法身」大日は三世を通じて現在ある故に、過去(荘厳劫)・現在(賢劫)・未来(星宿劫)の三世三千仏を略して、現在(賢劫)の千仏を出す。他の会では、千仏を十六尊で代替する。すなわち、弥勒、不空見、滅悪趣、除憂闇、香象、大精進、虚空蔵、智幢、無量光、月光、賢護、光網、金剛蔵、無尽慧、弁積、普賢の十六菩薩。

 最外郭の四面の枠内に、護法善神の「二十天」。
 下方(東)、右から、那羅延天(ならえんてん)、俱摩羅天(くまらてん)、金剛摧天(こんごうざいてん)、梵天、帝釈天。
 左側(南)、下から、日天、月天、金剛(飲)食天(こんごう(おん)じきてん)、彗星天(すいせいてん)、熒惑天(けいわくてん)。
 上方(西)、左から、羅刹天、風天、金剛衣天(こんごうえてん)、火天、毘沙門天。
 右側(北)、上から、金剛面天、炎摩天、調伏天(ちょうぶくてん)、毘那夜迦天(びなやかてん)、水天。

○「三昧耶会」は、「成身会」と同じ構図ながら、諸尊を象徴する持ち物や印相など(三昧耶形)で表現された集会。「四神」は蓮華に、外郭内の「四神」・「四摂」の間に「賢劫十六尊」(三昧耶形)が描かれる。

○「微細会」もやはり「成身会」と同じ構図ながら、「成身会」の三十七尊を大日如来の堅固にして微細な智慧の一々として(堅固にして微細な智慧のシンボルである)金剛杵(三鈷杵)のなかに表現した集会。「三昧耶会」と同じく、「四神」は蓮華に、外郭内の「四神」・「四摂」の間に賢劫十六尊を描く。

○「供養会」も同じく、「成身会」の三十七尊が、各自三昧耶形を蓮華の上に乗せて両手で奉じ持つ供養の姿として表現した集会。「五仏」以外は、女尊の姿(侍女が着ける羯磨衣=長袖)で描かれる。「四神」は蓮華に、外郭内の「四神」・「四摂」の間に賢劫十六尊を描く。

○「四印会」は、中央に大日如来、東(下)に金剛薩埵、南に金剛宝菩薩、西に金剛法菩薩、北に金剛業菩薩(十六大菩薩の各方位の代表=「四親近(ししんごん)」)を配した集会。「成身会」・「三昧耶会」・「微細会」・「供養会」の詳細を観想できない者のために、四会を合わせて簡略化した集会。四隅に「四波羅蜜菩薩」の三昧耶形。大円輪外の四隅に「内の四供養妃菩薩」の三昧耶形。外郭の四隅に「外の四供養妃菩薩」の三昧耶形(金剛杵)、四方の門に「四摂菩薩」の三昧耶形(蓮華)が描かれる。

○「一印会」は、「智拳印(ちけんいん)」の「金剛界」大日のみ大きく描いた一尊曼荼羅。

○「理趣会」は、『理趣経』に基づき、「菩提心」の象徴である金剛薩埵を主尊とし、『理趣経』初段の「十七清浄句(じゅうしちしょうじょうく)」を代表する欲金剛・触金剛・愛金剛・慢金剛の「四金剛菩薩」を四方に配し、欲金剛女・触金剛女・愛金剛女・慢金剛女の「四金剛女菩薩」を東南・西南・西北・東北に配する集会。外枠の四隅に「内の四供養菩薩」、中ほどに「四摂菩薩」が描かれる。

 中央に、金剛薩埵。
 下方(東)に、欲金剛菩薩。
 左下(東南)に、欲金剛女菩薩。
 左(南)に、触金剛菩薩。
 左上(西南)に、触金剛女菩薩。
 上方(西)に、愛金剛菩薩。
 右上(西北)に、愛金剛女菩薩。
 右(北)に、慢金剛菩薩。
 右下(東北)に、慢金剛女菩薩。
 外郭、左下の角に、金剛嬉菩薩。
 外郭、左上の角に、金剛鬘菩薩。
 外郭、右上の角に、金剛歌菩薩。
 外郭、右下の角に、金剛舞菩薩。
 外郭、下方の中央に、金剛鉤菩薩。
 外郭、左の中央に、金剛策菩薩。
 外郭、上方の中央に、金剛鎖菩薩。
 外郭、右の中央に、金剛鈴菩薩。

○「降三世会」は、「成身会」と同じく三十七尊のうち、金剛薩埵に代えて降三世明王を配し、大日如来の智慧によっても教化が難しい「凡夫」を忿怒形の仏尊によって降伏する集会。                多くの仏尊は手に「忿怒拳」(胸の前で拳を結んだ両手を交差する)を結んでいる。金剛薩埵が降三世明王に姿を替えヒンドゥーのシヴァ神やウマー后を調伏し仏教の護法神にしている。

○「降三世三昧耶会」は、「降三世会」の諸尊を三昧耶形で表す集会。

この両界曼荼羅に登場する仏尊については、ウェブサイト「エンサイクロメディア空海」内 マンダラデュアリズムに一体一体の説明があるので、関心のある方は参照されたい。

三、四種曼荼羅

今述べた胎蔵・金剛の両界曼荼羅には、四種の特性があると空海は言う。
 すなわち、この存在・事象はすべて、色やかたちによる具象(「大曼荼羅」)、シンボルによる代替(「三昧耶曼荼羅」)、文字・名称による表象(「法曼荼羅」)、木像・塑像・鋳像などによる具体的な「衆生」済度のはたらきかけ(「羯磨(かつま)曼荼羅」)に、みな集約されると。
 しかも、「法界」宇宙の一塵一現象は、人格をもった「法身」大日の一分身であるから、みな仏身と異ならないのである。空海が、「自心の源底」や「自身の数量」を曼荼羅の身に言い換えたのはこのことである。

空海はまた、『即身成仏義』で「四種曼荼羅は各々離れず」と言った。つまり、「法界」宇宙の万象すべてにこの「大」・「三」・「法」・「羯」の特性がかかわりあって尽きることなく障礙がないということである。

四、両部の大経

周知の通り、空海は『大日経』と『金剛頂経』を両部の大経とした。 『大日経』は「胎蔵曼荼羅」の、『金剛頂経』は「金剛界曼荼羅」の根拠である。ただ、空海の密教思想はかなり『大日経』に依っている。

(一)『大日経』

『大日経』とは、唐の開元十三年(七二五)にインド僧の善無畏(ぜんむい)が唐土にもたらし、中国人の弟子一行(いちぎょう)の助力を得て漢訳した『大毘盧遮那成仏神変加持経』(七巻。三十六品)のことである。
 真言宗教学の伝統では、この『大日経』を理解するのにかならず善無畏が講説し一行が筆録したという『大日経疏』(二十巻、略して『大疏』)を参照することになっている。空海がその模範を示している。
 ちなみに、『大日経』のサンスクリット原典は発見されていないがチベット訳があり、それを研究者はかならず参考にする。ただし漢訳とチベット訳には各所にずれがあり原本がちがっていることが指摘されている。

『大日経』は、「婆伽梵」すなわち毘盧遮那如来(大日如来)が、金剛手菩薩(執金剛、秘密主)の質問に対して仏智(「一切智智」)を得るための根拠を説く教理部分(「住心品」第一)と、仏智をえるための具体的な成就法を説く実修部分(「具縁品」第二以下)とに大きく分けられる。

教理部分の「住心品」では、
 聞き手の金剛薩埵(秘密主)が、説法主である「婆伽梵」(大日如来)に「仏の智慧とはいかなるものか」と問うと、「婆伽梵」は「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟となす」という有名な「三句の法門」を以て答え、そのうち「菩提心」の「菩提」とは「実の如く自心を知る」(「如実知自心」)ことであると言う。さらに、その「心」について、本能的我欲のままの心から順次転昇していく心の諸相を説く。

先ず「凡夫」の心(本能的我欲のままの倫理以前の心、空海の「十住心」の「異生羝羊住心」)。そして「世間の八順心」(世間的な道徳に従う心や宗教を自覚する心、「十住心」の「愚童持斎住心」・「嬰童無畏住心」)。さらに「六十心」(人間の心の種々相、宗教心も芽生えているがまだ我執にとらわれている心)があり、これを我執から離れられない「世間心」だと言う。

次いで、「三妄執(さんもうじゅう)」を越えれば「出世間心」が生ずることを説く(「三劫段(さんごうだん)」)。「三(大阿僧祇)劫(菩薩のサトリをめざす修行の時間、永遠にちかい無時間的な時間)」を『大日経』では「三妄執」という。
 「劫(こう)」(限りなく長い時間)の原語「カルパ」を善無畏は「ヴィカルパ」(妄執)と解釈し、密教の行者が観法によって瞬時にあるいは一生かけて超克すべき三種の妄執を説いた。すなわち「麁妄執(そもうじゅう)」(初劫)、「細妄執(さいもうじゅう)」(二劫)、「極細妄執(ごくさいもうじゅう)」(三劫)である。
 まず「麁妄執」(初劫)、「人我」(人間に個我を認める妄見)を克服し(声聞・縁覚、「唯蘊無我住心」・「抜業因種住心」)、次に「細妄執」(二劫)、「法我」(存在・事象のすべては自性より生ずる個体的実在であるとする妄見)を克服し(中観・唯識、「他縁大乗住心」・「覚心不生住心」)、そして「極細妄執」(三劫)(人・法の妄執を離れても、まだ知覚や識別などに執著をする妄見)を克服する(天台・華厳、「一道無為住心」・「極無自性住心」)のである。

次に、この「三劫」において修行者に生じる「畏れなき心」が六種(「六無畏(ろくむい)」)説かれる。「善無畏」・「身無畏」・「無我無畏」・「法無畏」(以上、初劫)、「法無我無畏」(第二劫)、「一切法自性平等無畏」(第三劫)である。

次に、修行者が「縁によって生ずるもの」として断ずべき妄執の十種(「十縁生句(じゅうえんしょうく)」)を説く。すなわち「十喩(じゅうゆ)」。

「幻」(幻術師の手などの動き)
 「陽焔(ようえん)」(かげろう)
 「夢」(夢の残像)
 「影」(鏡に映った姿)
 「乾闥婆城(けんだつばじょう)」(蜃気楼)
 「響」(やまびこ)
 「水月(すいげつ)」(水面に映る月影)
 「浮泡(ふほう)」(水面に浮かぶ水泡)
 「虚空華(こくうげ)」(空中に花を見る錯覚)
 「旋火輪(せんかりん)」(火縄を回してできる火の輪)

また実修部分の「具縁品」以下では、曼荼羅を建立する作壇法とその土地や方位の定め方、阿闍梨の要件と弟子の資格、密教戒、曼荼羅の構造、潅頂、護摩、印、真言など、密教の秘儀の諸要件や、「五大」(地・水・火・風・空)に相当する「五字」(ア・ヴァ・ラ・カ・キャ)を行者の身体の五ヵ所に配する「五字厳身観(ごじごんじんかん)」、字・声・句・命息の「心想念誦(しんそうねんじゅ)」、種子・三昧耶形・尊形の「三種本尊観」などの観法が説かれる。巻七の五品は儀軌・供養法にあたる。

三十六品を挙げると、
 「入真言門住心品」第一、
 「入曼荼羅具縁品」第二、
 「息障(そくしょう)品」第三、
 「普通真言蔵品」第四、
 「世間成就品」第五、
 「悉地出現品」第六、
 「成就悉地(しっぢ)品」第七、
 「転字輪(てんじりん)曼荼羅行品」第八、
 「密印(みっちん)品」第九、
 「字輪品」第十、
 「秘密曼荼羅品」第十一、
 「入秘密曼荼羅法品」第十二、
 「入秘密曼荼羅位品」第十三、
 「秘密八印(はっちん)品」第十四、
 「持明禁戒(じみょうきんかい)品」第十五、
 「阿闍梨真実智品」第十六、
 「布字(ふじ)品」第十七、
 「受方便学処品」第十八、
 「説百字生品」第十九、
 「百字果相応(ひゃくじかそうおう)品」第二十、
 「百字位成(いじょう)品」第二十一、
 「百字成就持誦(じじゅ)品」第二十二、
 「百字真言法品」第二十三、
 「説菩提性品」第二十四、
 「三三昧耶品」第二十五、
 「説如来品」第二十六、
 「世出世護摩法品」第二十七、
 「説本尊三昧品」第二十八、
 「説無相三昧品」第二十九、
 「世出世持誦品」第三十、
 「嘱累(しょくるい)品」第三十一、
以下、供養次第法。
 「真言行学処品」第一、
 「増益(そうやく)守護清浄行品」第二、
 「供養儀式品」第三、
 「持誦法則品」第四、
 「真言事業品」第五、
である。

真言宗の伝統教学では、「住心品」第一の教理部分を「教相(きょうそう)」と言い、「具縁品」以下の儀軌部分を「事相(じそう)」と言う。また、「教相」は講義とか講伝で教え、「事相」は已達の大阿闍梨による伝授(口伝)を要する。

空海は、大和久米寺の東塔の下にこの『大日経』があるのを夢で感得し、その『大日経』の何たるかを知るために唐に渡ったと言われるが、実際に『大日経』を具に手にして読んだのは西大寺の『大毘盧遮那経』(天平写経本)であったろう。すでに『華厳経』もマスターしていた空海に「住心品」は読んでおよそわかったが、「具縁品」以下はわからなかったにちがいない。そこが実は師資相承の伝授でしか伝えられない秘密の世界(「事相」)だということも、当初は想像すらできなかったであろう。しかし空海は、入唐するまでに、念誦法の真言を理解するのに必要なサンスクリットをはじめ、おそらく作壇・作法などについても可能な限り調べたものと思われる。相当に入念な準備をして長安をめざしたはずである。だから、恵果和尚はそれにすぐ気がつき、あっという間に初心の空海に密教の奥義を伝授したのである。

(二)『金剛頂経』

『金剛頂経』には、広い意味でいう『金剛頂経』と、狭い意味でいう『金剛頂経』とがある。広義の『金剛頂経』は、十万の「頌(じゅ)」(音韻をふまえた詩形の短文)からなり、「十八会(じゅうはって)」(十八の説法集会)から成っていた。しかしその梵本は、金剛智がインドから海路唐土にもたらそうとして南シナ海の広東の南方沖で暴風に遭い、船の沈没を防ぐために海中に放棄され誰も見ることがなかった。不空三蔵は、金剛智の教えをもとに『金剛頂瑜伽経十八会指帰』を撰述し、『金剛頂経』の原本の概要を明らかにしたのである。

「十八会」とは、
 初 会(第一章)「一切如来真実摂大乗現証大教王」、
 第二会(第二章)「一切如来秘密主瑜伽」、
 第三会(第三章)「一切経集瑜伽」、
 第四会(第四章)「降三世金剛瑜伽」、
 第五会(第五章)「世間出世間金剛瑜伽」、
 第六会(第六章)「大安楽不空三昧耶真実瑜伽」(『理趣経』)、
 第七会(第七章)「普賢瑜伽」、
 第八会(第八章)「勝初瑜伽」、
 第九会(第九章)「一切仏集会挐吉尼戒網瑜伽」、
 第十会(第十章)「大三昧耶瑜伽」、
 第十一会(第十一章)「大乗現証瑜伽」、
 第十二会(第十二章)「三昧耶最勝瑜伽」、
 第十三会(第十三章)「大三昧耶真実瑜伽」、
 第十四会(第十四章)「如来三昧耶真実瑜伽」、
 第十五会(第十五章)「秘密集会瑜伽」(『秘密集会タントラ』)、
 第十六会(第十六章)「無二平等瑜伽」、
 第十七会(第十七章)「如虚空瑜伽」、
 第十八会(第十八章)「金剛宝冠瑜伽」、
である。

このうちの初会の分が『初会金剛頂経』といわれ、具には、
 『金剛頂瑜伽中略出念誦経』(『略出念誦経』)四巻(金剛智訳)、
 『金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経』(『三巻本教王経』)三巻(不空訳)、『仏説一切如来真実摂大乗現証三昧大教王経』(『三十巻本教王経』)三十巻(施護訳)、
の三本がある。このうち、不空訳の『三巻本教王経』が、日本では通称『金剛頂経』といわれてきた。
 空海は、『略出念誦経』と『三巻本教王経』の二本を持ち帰りの荷のなかに入れていた。恵果和尚から『金剛頂経』の特訓を受けた時のテキストだったと思われる。短期間によほど濃密に勉強し、帰国後も筑紫の観世音寺で相当に復習をしたに相違なく、後年の空海の著述にはしばしば二本からの引用が見られる。

さて密教は、サトリ(現等覚、仏智)に到るのに時間をかけないこと、「速疾成仏」を大きな特徴とする。「三密」(身(印)・口(真言)・意(観想))を同時に動員する観法によって、凡夫・衆生の「因位(いんい)」(修行をしてサトリを求める段階)にある修行者が瞬時に仏尊と一体無二となり、煩悩に染まった生身このままに、即時即身に成就(悉地・シッディ・「果位」)に到るとする。

空海が密教に決択した理由は、端的にいってこの成就の速さ(速疾)にある。空海はこれを「即身成仏」として空海密教の中心思想にする。その「即身成仏」のオリジナルともいうべき成就法が『金剛頂経』にある。『金剛頂経』の経初に説かれる「五相成身観(ごそうじょうじんかん)」である。

それを簡略にして言えば、
 修行をしていた「一切義成就菩薩」(釈尊)が「一切如来」たちによって驚覚され、わが心に「本有菩提心」があるのを自覚し(「通達菩提心(つうだつぼだいしん)」)、
 次いでそれを自ら発起せしめ(「発菩提心」)、
 その表象である「月輪(がちりん)」のなかに「金剛杵」(の姿)を観想し(「修金剛心」)、
 行者自身が「金剛杵」そのものに等しい身体だと覚り(「証金剛身」)、
 金剛界の仏身(金剛界菩薩)となって、「法界」に遍く満ちる「一切如来」たちと同質・同等(「平等」)であることを覚って「金剛界如来」となるのである(「仏身円満」)。

この「仏身円満」のレベルは「オン ヤタ サラバタタギャタ サタタカン」(「私は(今法界に遍満する)一切如来たちがそうであるように、そのようにある」)という真言によって言語化される。しかもこの真言は「自性成就」(プラクリティ・シッディ、成就することを本性としている)、すなわち、口に真言を唱えればその真言の意味するところが現実になる、そうしたコトバの霊力(「シャクティ」(生み出す力))を本来具えているものだという。『金剛頂経』が「自性成就」の真言の念誦によって「五相成身」の各段階を具現するという、いわば言語シンボリズムとも言うべきタントリズムの影響下にあることを留意しておきたい。

五、顕教と密教

空海には「二而不二(ににふに)」、すなわち「二つで一つ」・表裏一体という「二項両立」のデュアリズム(両立主義)が明確にあった。
 「金胎不二」がそうだし、「三密平等」もそうだし、それをもとにのちに説かれた「生仏一如」・「凡聖不二」・「煩悩即菩提」もそうだし、「神仏習合」もそうである。

「金胎不二」とは、『金剛頂経』に基づく金剛界と『大日経』に基づく胎蔵界の理法と曼荼羅と本尊(大日如来)が表裏一体であること。
 「三密平等」とは、如来の身・口・意の「三密」と真言行者の「三密」が平等(同等)であること。それを敷衍して、「生」(「衆生」)と「仏」は表裏一体であり、「凡」(「凡夫」)と「聖」(仏)もそうであり、「凡夫」の煩悩は昇華されて「仏」の菩提に転じるのである。
 また日本の神々は、本地の仏が日本の民衆に理解されるように日本の神に姿を変えてこの世に現れたもので、「本地仏」と「垂迹神」は表裏一体である。

この「二而不二」の着想の最も空海らしいものが顕教(けんぎょう)と密教の区別と両立である。空海は、『弁顕密二教論』の冒頭で、

それ仏に三身あり、教はすなわち二種なり。
応化(おうげ)の開説を名づけて顕教という。ことば顕略にして機に逗(かな)えり。
法仏の談話(だんかい)、これを密蔵という。ことば秘奥にして実説なり。

如来の変化身は、地前の菩薩および二乗凡夫等のために三乗の教法を説き、
他受用身は、地上の菩薩のために顕の一乗等を説きたもう。
ならびにこれ顕教なり。
自性・受用仏は、自受法楽の故に自眷属とともに各々三密門を説きたもう。
これを密教という。

と言って、日本の仏教史上はじめて顕教(空海以前の仏教)と密教の区別を明らかにした。

その意味は、同じ仏教ながら、顕教は凡夫や声門・縁覚・菩薩等を導くために変化身(「応身」)や他受用身(「報身」)が説く顕略な教えであり、密教はそれまで仏教が想定しなかった「法仏の談話」(「法身説法」)による秘奥の教え(「果分可説」)で、「自性法身」・「受用法身」が自らが説く教えを楽しむために、自分が生み出した仏たちに「三密」の法門を説法し聞かせるという。すなわち、それまで仏教が言っていた凡夫・声門・縁覚・菩薩等には聞こえない(=秘密→密教)のである。

しかし、空海の「二而不二」の絶妙なところは、顕教と密教を区別することで顕教を排斥するのではなく、顕教をそのまま認め教理的にも密教と両立させるところである。
 今見たように、空海は仏身の種別によっても顕密を区別したが、つまるところ顕教の教法を説く変化身も他受用身も「四種法身」のなかに「法身」として許容している。これを仏身観の不徹底だという見方もあるが、それは空海の本意ではない。顕教と密教の「二而不二」の関係で見るべきである。
 空海は、この本が参照している『十住心論』で、それまでの仏教が言っていた凡夫・声門・縁覚・菩薩等のための顕教に密教への可能性を認め、また胎蔵曼荼羅において凡夫から釈尊をはじめとする顕教の仏たちに至るまで密教仏としての資格を与えている。

六、説法する「法身」

空海は『弁顕密二教論』で、密教は「法仏の談話(だんかい)」だと言った。すなわち、華厳では「真如」そのものである「法身」盧舎那仏はまばゆい智慧の光明を放つだけで自らの真理の世界を説くことがなかったが、空海はその「法身」毘盧舎那に人格を与え、いつでもどこでも、常恒に、説法しているとした。しかもその説法は、「法身」自らのサトリの智慧(「内証智」=「果分」)を説くのである。
 すなわち、密教以前の仏教はすべからく仏のサトリの世界は「言亡慮絶」であってコトバや思考では表現は不可能(「果分不可説」)だとしてきたのだが、空海はそれを「法身説法」によって可能(「果分可説」)とした。「法身」の質的な大転換であった。

そもそも、その「法身」とは大毘盧遮那如来、『金剛頂経』の金剛界如来、すなわち大日如来。はじめもなく終りもなく、無量の智慧の光明を放って「法界」を遍く照らし、説法をし続ける偉大な仏である。
 この「法身」は、説法するにあたって種々に変身をする。いわゆる「自性法身」・「受用(じゅよう)法身」・「変化(へんげ)法身」・「等流(とうる)法身」の「四種法身」である。

○「自性法身」とは、「法界」宇宙を身体とし、自受法楽の故に、自らの「三密」の法門を自ら生み出した仏たちに聞かせる「法身」。すなわち大日如来。
○「受用身」とは、「自性身」のように、自らが自らに対して説法する「自受用法身」と、地上(「十地」以上)の菩薩を導く「他受用法身」。
○「変化法身」とは、凡夫・声門・縁覚・地前(「十地」以前)の菩薩を導く「法身」。
○「等流法身」とは、仏界を除く「九界」(地獄ほかの六道と声門・縁覚・菩薩の三乗)に同種同類の身になって顕れ教化する「法身」。

空海は、この説法する「法身」とその側近たる菩薩・明王・諸天の代表を、東寺の護国立体曼荼羅(「羯磨曼荼羅」)に集めた。
 奈良時代この国を護った東大寺の盧舎那仏や諸国の釈迦如来に替り、平安時代はこの「法身」大日と阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就の「四仏」、また金剛波羅蜜と金剛薩埵・金剛宝・金剛法・金剛業の「五菩薩」、そして不動と金剛夜叉・降三世・軍荼利・大威徳の「五大明王」、さらに持国・増長・広目・多聞の「四天王」と梵と帝釈の「二天」がこの国を護るという国家の意志を内外に示したのである。この立体曼荼羅は、すなわち「法身説法」をビジュアルにしたものであり、とりもなおさず「果分可説」の「羯磨曼荼羅」である。

然るに、「法身」の説法はかならず文字による。「声字実相」である。

幼少期から言葉に霊威を感じ、漢籍に入っては『荘子』内篇第二の「斉物論」篇などにふれ、求聞持法で虚空蔵菩薩の真言を何万遍も唱えつづける口誦体験を積み、サンスクリットというインド言語に通じ、ヴェーダの祭詞やその言語思想「ヴァーチュ」や、ミーマーンサーの「声顕論」や、バルトリハリの「スポータ」説や、タントリズムの「マントラ」といったヒンドゥーの言霊思想も飲み込んでいた空海は、「絶対者とコトバ」の関係に敏感であった。

空海は虚空蔵菩薩の真言を唱えつづける行中に、虚空を貫いて渡ってくる虚空蔵菩薩の声(「コトバ」)を聞いた。その声こそ虚空蔵の意志であり霊威であり、「真如」・「法性」であり、「実相」であり、虚空蔵そのものだった。だから空海は、「法身」を人格化して、自らを自らの「コトバ」(「真言」)で語らせ、「コトバ」から存在のすべてが出生する哲学に躊躇しなかった。この「法身説法」によって「果分」(「法身」の「自内証」)の言語化が可能になったのである。空海密教の究極はこの「果分可説」にある。「果分可説」に空海密教のすべてが凝縮され、そこから国家鎮護や社会事業や曼荼羅の図像や書法までが起動している。

この仏教思想史の常識をやぶる「果分可説」を可能にしたのは、空海の類まれな言語の異能、とくにサンスクリットと、そのインド言語から得た「マントラ」=「真言」(如来語・秘密語)の確信であっただろう。それは他の日本仏教の祖師たちにはない際立った特殊能力である。
 空海は言霊の気質をもった上に、言語能力を異能のレベルにまで高める環境にも恵まれた。究極、般若三蔵や牟尼室利三蔵から直接生のサンスクリットを学び、「マントラ」自体に「生み出す力(シャクティ)」を想定するヒンドゥー言語論を確信し、真言によって諸仏諸菩薩諸天との交感相入を如実に体験し、風の音も鳥の声も谷の響きも皆「法身」の「コトバ」であることを感得し、「法身」の「コトバ」はサンスクリットのアルファベットの第一文字「ア」を原初とし、その「ア」字から存在のすべてが声字となって出生するという哲学に達した。

その意味で空海は、インド・イラニアン世界の汎神論的な言語哲学や神秘主義思想の根源的命題に至っていた。空海に異国の言語に対する人並みはずれた感応力とサンスクリットというインド言語の熟達がなかったなら、「法身説法」や「声字実相」といった「果分可説」の領域に踏み込めなかったであろう。

七、「六大」所成の「法身」

華厳の「法身」毘盧舎那が人の心のなかにある理念の仏だったのに対し、密教の「法身」は地・水・火・風・空・識の「六大」から成る実在の仏である。色形をもち、人格をもち、常に活動している。

『即身成仏義』に言う。
 是(かくの)如くの六大法界体性所成の身は、
 無障無礙にして互相に渉入相応し、
 常住不変にして同じく実在に住せり。
 故に頌(じゅ)に「六大は無礙にして常に瑜伽なり」という。

「六大」は単に事物の構成要素ではなく、この世界の即事的な本体であり本性であり、世界に遍在し、しかも互いに「相入」し合っていて、物(五大)心(識)が融通一如である。
 すなわち、
 地大は、「ア」字であり、「本不生」であり、黄色であり、方形であり、堅であり、
 水大は、「ヴァ」字であり、「離言説」であり、白であり、円形であり、湿であり、
 火大は、「ラ」字であり、「無垢塵」であり、赤であり、三角形であり、煩であり、
 風大は、「カ」字であり、「離因縁」であり、黒であり、半月形であり、動であり、
 空大は、「キャ」字であり、「等虚空」であり、青であり、団形であり、無礙であり、
 識大は、「ウン」字であり、「了義不可得」であり、白・雑であり、円形・雑であり、了知である。
 しかも、「六大」は「法身」だけではなくこの世界のすべてに内在しているから、凡夫もまた「六大」所成である。すなわち、「法身」も凡夫も同じく「六大」から成っている。「生仏一如」・「凡聖不二」、この世界の人もモノもコトもみな仏と異ならないのである。

以上を、「六大体大」説、あるいは「六大縁起」説という。

八、「即身」に「成仏」する

先にも述べたように、空海の密教は、この生の身で、このままで、成仏が瞬時に現実にならなくてはならないとした。『華厳経』の善財童子の求法の旅のように、無限に近い時間を要して最後に覚るのは非現実の不成就法であり、心のなかの観念論・抽象論である。だから、空海は如来の「三密」と行者の「三密」が「平等」(「三密平等」)であることを説き、「六大」も如来と凡夫に「平等」であることも説いた。

 その上で空海は、ずばり「即身成仏」の理を明かした。『即身成仏義』に言う、
  六大は無礙にして常に瑜伽なり(体大、「即ち身、成れる仏」)
  四種曼荼は各々離れず    (相大、「身に即して、仏に成る」)
  三密加持すれば速疾に顕る  (用大、「即(すみやか)に身、仏と成る」)
  重々帝網なるを即身と名づく (無礙)
 以上、「即身」。

  法然に薩般若を具足して
  心数心王刹塵に過ぎたり
  各々五智無際智を具す
  円鏡力の故に実覚智なり   (成仏)
 以上、「成仏」。

空海密教は、銀河系をふくむこの広大無辺な宇宙を、森羅万象、モノにはそうあるべくしてある存在真理、コトにはそうなるべくしてなっている現象真理がはたらき合っていて、すべてが融通無礙にかかわり合っている「真如」の世界、「法界」に見立てた。そして、その「法界」を人格化して「法身」大日如来とした。
 この見立てには、この現実の世界にこそ真理のはたらき(「法性」)がひそんでいて、山も川も草も木も悉く「法性」の故にそうあるのであり、人格化して言えば「法性」の故にみな仏に変りないのだ、と見なした華厳の「法界縁起」がそのまま生きている。
 広大無辺な「法界」宇宙はまるで帝釈天の「因陀羅網」(=ネット空間)であり、大乗の菩薩はそのネット空間の結び目の宝珠に住する善知識をたずね、教えを乞いながら三大阿僧祇劫という途方もなく長い永遠の時間をかけて利他行を積まなければ成仏できない、という善財寓話もそこに重なる。

さてこの宇宙では、地と水と火と風と空の「五大」(物質的存在の五原素)と「識」(人間の認識作用)と(の「六大」)が、互いに妨げることなく常にかかわり合っている。仏身は「六大」から成り、世間凡夫の人間もまた「六大」から成っている。「生仏一如」・「凡聖不二」、凡夫の人間は、生命の海によく溺れるが故に、ただそれに気づかないのである。

さて、「法界」の融通無礙の様子をビジュアルなものにして示すと、宇宙に遍在するあらゆる物質と精神が、仏の尊像が集合した宇宙図(「大曼荼羅」)となったり、仏尊の持つ仏器・仏具など(シンボル)が集合した宇宙図(「三昧耶曼荼羅」)となったり、仏尊を表す梵字(種子)が集合した宇宙図(「法曼荼羅」)となったり、木造・鋳造・塑造といった仏の実像が集合した宇宙壇(「羯磨曼荼羅」)となったりするのだが、その四種類の曼荼羅はもともと同じ本質のものだから、各々離れてあるわけではなく互換性に富んだインターフェースなのである。今流に言えば、そこから仏のパンテオンに入って自分が本来は仏であるという価値転換の自覚に至るポータルサイトである。
 その四種曼荼羅はそれぞれにそうなのだが、密教行者がある仏尊を表す「印」(サイン)を手に結び(「身密」)、その仏尊と交信する「真言」(「法界」の交信言語)を唱え(「口密」)、その仏尊の相形を心のスクリーンに映し出す(「意密」)と、瞬時に行者の脳裏に顕になり、仏尊が自分と一体になるのである。

その曼荼羅をよく観察してみると、宇宙に遍在する「六大」所成の事物がまるで宝珠が縦横に連結された首飾りのように、互いに照らし合い映し合い重なり合っているのがわかる。宝珠に照射されるものはみな「六大」所成の仏たちであり、宇宙の生命史のすべてのいのちの連鎖でもある。その幾重にも重なり合っている宇宙の全生命史のなかに、この自己を「三密」まるごと投帰している状態、それを「即身」という。

宇宙の全生命史のなかに、この身を「三密」まるごと投帰してみると、過去・現在・未来のすべての生命が私という一個の生命のなかに生き、私の命が過去・現在・未来のすべての生命のなかに生かされ、かつそのすべての生命が仏性をもった仏身として曼荼羅身となっている、そういうすぐれた智慧(「一切智智」)に達する。まことに「法爾自然」、真実の世界ありのままである。
 宇宙の全生命史のなかでは、生命の営みとしての心のはたらきも心自体も数限りなく宇宙の法則性(「法性」)のなかに摂せられ、それぞれが「五智」などの無数の仏智を成就している。
 その光景は、私の澄みきった円明な心の鏡に映し出されるから、真実の世界を覚る智慧に達することができるのである。
 空海の説く「即身成仏」とは、宇宙の全生命史のなかにこの自己を「三密」まるごと投帰したわが身の心に、宇宙の全生命史の営みが「一切智智」となって映ずることを言う。

九、真言宗の主な常用経典
(一)『理趣経』

真言宗が常用経典とする『理趣経』とは、正式には『大楽(だいらく)金剛不空真実三摩耶(さんまや)経般若波羅蜜多理趣品(りしゅぼん)』(不空訳)、略称『般若理趣経』である。

『理趣経』には、サンスクリット原典のほか五種の漢訳と四種のチベット訳がある。
 その内、サンスクリット原典は、大正時代の初め、ドイツの東洋学者エルンスト・ロイマンが公表した『百五十(頌)からなる般若波羅蜜多経』に校訂を加え、五種の漢訳とチベット訳の一種を添えて『梵蔵漢対照般若理趣経』(栂尾祥雲・泉芳璟共編)としたものが、大正六年に智山勧学院から出されている。ただし、ところどころに原文の欠落があり、不完全なテキストであった。然るに最近、中国から原文欠落のないサンスクリット原典が公表され日本の研究者の間にも流通しているが、その原本の出処などについて不明なところがある。

漢訳は、
①『大般若波羅蜜多経第十会般若理趣分』(玄奘訳、『大般若経』六百巻の第五七八)
②『実相般若波羅蜜経』(菩提流支訳、空海にこの経の註釈『実相般若経釈』がある)
③『金剛頂瑜伽(こんごうちょうゆが)理趣般若経』(金剛智訳といわれる)
④『徧照(へんじょう)般若波羅蜜経』(施護訳)
⑤『最上根本大楽金剛不空三昧大教王経』(法賢訳、別称『理趣広経』)。
チベット訳は、
①『吉祥最勝本初と名づける大乗儀軌王』(別称『広経』、漢訳⑤の前半部分に相当)
②『吉祥最勝本初真言儀軌品』(漢訳⑤の後半部分に相当)
③『吉祥金剛場荘厳と名づける大タントラ王』(漢訳④の一部と符合)
④『聖なる般若波羅蜜多の理趣百五十頌』。

真言伝持の第六祖不空(三蔵)は、自ら漢訳した『理趣経』を註釈し、いわゆる『理趣釈』(正式には『大楽金剛不空真実三摩耶経般若波羅蜜多理趣釈』)を残した。真言宗教学の伝統では、『理趣経』の理解や講義・講伝にはかならずこの『理趣釈』を参照することになっている。この『理趣釈』をめぐって、その借覧を願い出た最澄に対して空海が応じなかった件については先に第八章でふれた通りである。

『理趣経』は、序分・十七段・流通分によって説かれる。概観すると、

○序分(縁起分)
 まず「教主」大毘盧遮那如来(大日如来)の経歴・資格・威徳、「説処」である「他化自在天」の大摩尼殿の様相が説かれる。もともとこの「他化自在天」の能化は(「十地」第六の)「現前地」の菩薩であるが、大毘盧遮那如来が金剛薩埵の三摩地に住し、五欲(色・声・香・味・触の対象への執著)の悦楽に例えてその「本来清浄」の哲理を説き導くのである。
 大摩尼殿は、五宝(水晶・瑪瑙・如意宝珠・琥珀・瑠璃)で造られた五峯の宝殿で、五宝五峯は五智五仏、八本の柱は八葉蓮台、中央の座は大日如来の座、四門は四摂智菩薩の座、四方四隅の八つの座は八大菩薩の座、鈴・鐸・繒幡・珠鬘・瓔珞・半満月などの仏の三昧耶形を表す装飾品で美しく荘厳されている。
 そこには、八十倶胝(倶胝(くてい)=一〇〇〇万、八十倶胝で八億)という数の菩薩とともに、金剛手菩薩(=金剛薩埵)・観自在菩薩・虚空蔵菩薩・金剛拳菩薩・文殊師利菩薩・纔発心転法輪菩薩・虚空庫菩薩・摧一切魔菩薩らが集まっている。

○初段(大楽不空金剛薩埵初集会品、初段から十七段までが正説分)
 「十七清浄句」によって、私たち衆生の業欲である愛欲・性愛が本来は清浄であること(=金剛薩埵の堅固な菩提心の境地)を明かし、衆生も本有の菩提心を自覚し菩薩の心位に入るべきことを説く。なお、玄奘訳は六十九の清浄句を説き、菩提流支訳は十五を、金剛智(?)訳は十四を、施護訳は二十を、チベット訳の『聖なる般若波羅蜜多の理趣百五十頌』は十八の清浄句を説いている。

○第二段(毘盧遮那理趣会品)
 世尊(毘盧遮那如来)が自ら、一切如来(四仏)の寂静なサトリ(現等覚)の内容を説く。
 まず金剛平等。金剛石(ダイヤ)のように堅固にして(仏と)同等の境地としての現等覚。すなわち「大円鏡智」(阿閦如来)。
 次いで義平等。大慈悲により衆生を平等に利益する(仏と)同等の境地としての現等覚。すなわち「平等性智」(宝生如来)。
 次いで法平等。覆いもなく汚れもなく、自性清浄の(仏と)同等の境地としての現等覚。すなわち「妙観察智」(阿弥陀如来)。
 次いで一切業平等。利他行など世間的な分別を超えた(仏と)同等の境地としての現等覚。すなわち「成所作智」(不空成就如来)。

○第三段(降三世理趣会品)
 世尊(大毘盧遮那如来)が、調(伏)し難き(障礙)を調伏する釈迦如来の三摩地に住し、(また金剛手菩薩→降三世明王の三摩地に住して)貪・瞋・痴の「三毒」を調伏(し、「菩提心」を発起)する四つの清浄を説く。
 すなわち、貪りはもともと無戯論である(妄想ではない)こと。
 瞋りも同じ。
 痴(無知)も同様。
 一切法(あらゆる存在や事象)もそうであると。

○第四段(観自在菩薩理趣会品)
 世尊(大毘盧遮那如来)が、本性清浄の(阿弥陀)如来の三摩地に住し、(また観自在菩薩の三摩地に住して)あらゆる存在や事象が清浄にして平等(同等・同質)であること(四種不染)を説く。
 すなわち、一切の貪りが本性清浄であるから、瞋りも本性清浄であること。
 一切の垢が本性清浄であるから、悪業も本性清浄であること。
 一切の存在や事象が本性清浄であるから、一切の衆生も本性清浄であること。
 「一切智智」サトリの智慧が本性清浄であるから、「般若波羅蜜多」も本性清浄であること。

○第五段(虚空蔵理趣会品)
 世尊(大毘盧遮那如来)が、三界の主である(宝生)如来の三摩地に住し、(また、虚空蔵菩薩の三摩地に住して)潅頂を授けることなど(四種布施)を説く。
 すなわち、潅頂を授け「三」界の法王の位を得さしめる(潅頂施)。
 真実の理法を授け一切の意願を満足せしめる(義利施)。
 (本性清浄の)存在や事象を施し一切の「法性」を証得せしめる(覚らしめる)(法施)。
 利財を施し一切の身・口・意の安楽を得さしめる(資生施)。

○第六段(金剛拳理趣会品)
 世尊(大毘盧遮那如来)が、一切如来の智慧の印(シンボル、印相)を得た(不空成就)如来の三摩地に住し、(また、一切如来の拳を持つ金剛拳菩薩の三摩地に住して)一切如来の智の印(四種印)を説く。
 すなわち、一切如来の身印を持すれば、一切如来の身となる。
 一切如来の語印を持すれば、一切如来の法(真実)を得る。
 一切如来の心印を持すれば、一切如来の三摩地を証する。
 一切如来の金剛印を持すれば、一切如来の身口意のはたらきの最勝の悉地を成就する。

○第七段(文殊師利理趣会品)
 世尊(大毘盧遮那如来)が、すべての妄想なき如来(無戯論如来)の三摩地に住し、(また文殊菩薩の三摩地に住して)字輪の転回(四種)を説く。
 すなわち、文殊菩薩を表す五字(「ア(a)」・「ラ(ra)」・「ハ(pa)」・「シャ(ca)」・「ノウ(na)」)を観ずる「字輪観」によって妄執のない(文殊の)智慧を得る。

○第八段(纔発意菩薩理趣会品)
 世尊(大毘盧遮那如来)が、一切如来の(集会の)輪に入った如来(一切如来入大輪如来)の三摩地に住し、(また纔発心転法輪菩薩の三摩地に住して)偉大な輪に入ること四種を説く。
 すなわち、金剛のように堅固な平等に入れば、一切如来の法輪に入る。
 真実の理法の平等に入れば、大菩薩の輪に入る。
 あらゆる存在や事象(一切法)の平等に入れば、妙法輪に入る。
 あらゆる事業(利他行)の平等に入れば、一切の事業輪に入る。

○第九段(虚空庫菩薩理趣会品)
 世尊(大毘盧遮那如来)が、一切(の如来)を供養する(ための)広範な方軌の容れものである如来(一切如来種種供養蔵広大儀式如来)の三摩地に住し、(また虚空庫菩薩の三摩地に住して)一切の如来を供養するのに最も勝れたもの四種を説く。
 すなわち、菩提心を発すれば、諸如来に於て広大な供養となる。
 一切の衆生を救済すれば、諸如来に於て広大な供養となる。
 妙典を受持すれば、如来に於て広大な供養と為る。
 般若波羅蜜多を受持し、読誦し、自書し、他に教えて書かせ、思惟し、修習して、種々に供養すれば、如来に於て広大な供養となる。

○第十段(摧一切魔菩薩理趣会品)
 世尊(大毘盧遮那如来)が、能く(障礙を)調伏し、智の拳を持つ如来(能調持智拳如来)の三摩地に住し、(また摧一切魔菩薩の三摩地に住して)一切の「衆生」(の煩悩や妄執)を調伏する智の胎蔵を四種説く。
 すなわち、一切の「衆生」は平等であるが故に、忿怒も平等である。
 一切の「衆生」は調伏されるが故に、忿怒も調伏である。
 一切の「衆生」は法性の故に、忿怒も法性である。
 一切の「衆生」は金剛性の故に、忿怒も金剛性である。

○第十一段(降三世教令輪品)
 世尊(大毘盧遮那如来)が、あらゆる存在や事象(一切法)の平等性(同等性・同質性)に熟達した如来(一切平等建立如来)の三摩地に住し、(また金剛手菩薩の三摩地に住して)一切法の最勝なるもの四種を説く。
 すなわち、一切は平等性なるが故に、「般若波羅蜜多」も平等性である。
 一切は真実の理法性なるが故に、「般若波羅蜜多」も真実の理法性である。
 一切は「法性」なるが故に、「般若波羅蜜多」も法性である。
 一切は事業性なるが故に、「般若波羅蜜多」は事業性である。

○第十二段(外金剛部会品)
 世尊(大毘盧遮那如来)が、外金剛部の三摩地に住し、自ら一切の衆生の加持(と四種の胎蔵)を説く。
 一切の「衆生」は如来蔵である。普賢菩薩は一切の真我であるから。
 一切の「衆生」は金剛蔵である。金剛蔵の潅頂を授けるから。
 一切の「衆生」は妙法蔵である。能く一切の言説を転ずるから。
 一切の「衆生」は羯磨蔵である。「利他」を行う主体と利他の行いが相応するから。

○第十三段(七母女天集会品、この第十三段は他の類本に見られない)
 世尊(大毘盧遮那如来)の加持によって大毘盧遮那如来に帰依した七母女天(閻魔天母・毘沙門天母・毘紐天母・童子天母・帝釈天母・害天母・梵天母)が、悪業を転じた仏行の四種を明かす。
 すなわち、「鈎召」:衆生を誘惑する=仏道に招き寄せること。
 「摂入」:悪業=仏行に引き入れること。
 「能殺」:衆生を殺害する=悪業を摧破すること。
 「能成」:衆生を障礙のままにする=仏道を成就させること。

○第十四段(三兄弟集会品、この第十四段も他の類本に見られない)
 世尊(大毘盧遮那如来)の加持によって大毘盧遮那如来に帰依した末度迦羅天(=梵天)の三兄弟(梵天(ブラフマン)・毘紐天(ヴィシュヌ)・湿婆天(シヴァ))が、自らのサトリを表す真言「サバ(スヴァー)」を説く。

○第十五段(四姉妹集会品、この第十五段も他の類本に見られない)
 世尊(大毘盧遮那如来)の加持によって大毘盧遮那如来に帰依した四姉妹の女天(惹耶(ジャヤー)・微惹耶(ヴィジャヤー)・阿爾多(アジター)・阿波羅爾多(アパラージター))が、自らのサトリを表す真言「カン(ハム)」を説く。

○第十六段(四波羅蜜部大曼荼羅品)
 世尊(大毘盧遮那如来)が、無量無辺の極みの真実となった如来(無量無辺究竟如来)の三摩地に住し、(これまでの十五段を総括し)四種の究竟を説く。
 すなわち、「般若波羅蜜多」は無量の故に、一切如来は無量である。
 「般若波羅蜜多」は無辺の故に、一切如来は無辺である。
 あらゆる存在や事象(一切法)は不一性の故に、「般若波羅蜜多」は不一性である。
 あらゆる存在や事象(一切法)は究竟性の故に、「般若波羅蜜多」は究竟性である。

○第十七段(五種秘密三摩地品)
 世尊(大毘盧遮那如来)が、一切如来の秘密の「法性」を得てすべての存在や事象(一切法)に戯論なき(無戯論の)もの(得一切秘密法性無戯論如来)の三摩地に住し、「五秘密」の本性を説く。
 すなわち、菩薩は「大慾」の最勝なるを成就するが故に、「大楽」の最勝なるを成就する。
 菩薩は「大楽」の最勝なるを成就するが故に、一切如来の大菩提の最勝なるを成就する。
 菩薩は一切如来の大菩提の最勝なるを成就するが故に、一切如来の大力が魔を摧くこと最勝なるを成就する。
 菩薩は一切如来の大力が魔を摧くこと最勝なるを成就するが故に、遍く三界の自在主となるを成就する。
 菩薩は遍く三界の自在主となるを成就するが故に、余すところなく一切の衆生が流転に住著するを浄除し、大精進を以って常に生死に処して一切の衆生を救済し利益し安楽ならしむる最勝の究竟を悉く成就する。

<百字偈>(詳しくは第一章に掲載)
 愛欲も本性は清浄であるという秘密瑜伽の三摩地に住する五人の菩薩たち(金剛薩埵・慾金剛・触金剛・愛金剛・慢金剛)の境地を説く。『理趣経』の大意をよく言い表した詩文形式の偈頌(げじゅ)。

○流通分
 世尊(大毘盧遮那如来)が、金剛手菩薩に対し、この般若の理趣を聞いて、日々の晨朝に読誦し、あるいは聴くことの功徳・利益が説かれ、最後に金剛手菩薩に「善哉善哉」以下の讃嘆を贈る。

(二)『般若心経』

『般若心経』は、正式には『摩訶般若波羅蜜多心経』、略して『心経』と言われる。一口に、膨大な般若経を要約したお経とか、「空」=否定の哲学やこだわらない心を説いたお経と言われるが、はたしてそうであろうか。

『般若波羅蜜多心経』という経題は、「般若波羅蜜多」「心経」ではなく、「般若波羅蜜多心」「経」である。つまり「般若波羅蜜多」の「心」(精髄・精要)を説く「経」ではなく、「般若波羅蜜多心」(「般若波羅蜜多」の「心」=心咒・真言)を説く「経」の意味である。それは、サンスクリット原典の最後に「以上、「般若波羅蜜多心」を終る」とあることで明らかである。一流の仏教学者が出した本も、仏教著述家と言われる人が書いた本も、ここがあいまいか全然わかっていないかである。
 『般若心経』のテーマは、経題にある通り「般若波羅蜜多」である。「般若波羅蜜多」とは、「空」を内実とする「深い瞑想のなかで、モノ・コトの真実相を覚ることによって高い境地に達すること」。
 それによって、菩薩は心を覆っている妄執など(罣礙)がなくなり、不安や恐れ(恐怖)がなくなり、すべての逆さまな考え(顛倒)から離れることができ、静かな境地(涅槃)に入れるのであり、三世の諸仏は無上正等覚(むじょうしょうとうがく=阿耨多羅三藐三菩提)を成就し、「般若波羅蜜多」を言い表す「心(心咒・真言=「ギャーテー・ギャーテー~~」)」は「一切の苦厄を能く除く」のである。

これら「般若波羅蜜多」の利益を明示すること、それが大乗としての『般若心経』の本旨である。巷間言われるような「こだわらない心・とらわれない心・かたよらない心」とか「無執着の人生観」とか「否定の哲学」は『般若心経』の本旨ではない。

以下は、大本『般若心経』のサンスクリット原文からの私訳である。
 この『大本』は、まず、一般によく知られている『般若心経』(『小本』)には登場しない世尊が霊鷲山の説法処に比丘や菩薩とともにあり、三昧(瞑想)に入っていて説法はせず、会衆のなかにいた舎利弗(舎利子、シャーリプトラ、釈尊の弟子)が、(同じ説法処で)「般若波羅蜜多」の行を行っている観自在菩薩に「般若波羅蜜多」の行の実践についてたずねるところからはじまる。そして、その答えとして『小本』のほとんどそのままがそのあと挿入のような形で紹介され、終ると世尊が三昧(瞑想)から起って、その『小本』の内容のように実践されるべきだと言って喜ぶ、という構成である。

このように、私によって聞かれた。
ある時、世尊は、ラージャグリハ(王舎城)のグリダラクータ山(霊鷲山)(の説法処)において、あまたの比丘衆やあまたの菩薩衆とともにおられた。
しからば、その時、世尊は、「深い等覚」といわれる三昧(瞑想)に入られた。

また、その時、深い(集中の)般若波羅蜜多において行を実践している尊き観自在菩薩・大薩埵(摩訶薩)がこのように観察した。
(例えば、私の身体は)五つの(ものの)集まり(五蘊)であると。そして、それ(ら)は、本性が空なるものであると観察した。

その時、大徳シャーリプトラが、仏の威徳によって、尊き観自在菩薩にこのことを言った。
もし、誰か、善男子が、深い(瞑想の)般若波羅蜜において、行を実践したいと望んだら、どのように学ぶべきであろうかと。

このように言われた尊き観自在菩薩大薩埵が、大徳シャーリプトラにこのことを言った。
シャーリプトラよ、もし、誰か、善男子かあるいは善女人が、般若波羅蜜において、行を実践したいと望んだら、これによってこそ観察されるべきであると。
(例えば、私の身体は)五つの(ものの)集まり(五蘊)であると。そして、それ(ら)は、本性が空なるものであると見抜いた。

(事物の)形象(色)は空性であり、空性だからこそ(事物の)形象(色)(たり得ているの)である。(事物の)形象(色)から離れて空性であるのではなく、空性から離れて(事物の)形象(色)なのではない。

(事物の)形象(色)であるもの、それが空性であり、空性であるもの、それが(事物の)形象(色)なのである。このように、感受作用(受)も、思惟(想)も、潜在意識(行)も、識別(識)も空性なのである。

このように、シャーリプトラよ、すべての事物(一切法)が空性を特色(相)としている。生じるのでもなく(不生)、滅するのでもなく(不滅)、垢れているのでもなく(不垢)、無垢なのでもなく(不浄)、減るのでもなく(不減)、満ちるのでもない(不増)。

その故に、そこで、シャーリプトラよ、空性においては、(事物の)形象(色)もなく、感受作用(受)もなく、思惟(想)もなく、潜在意識(行)もなく、識別(識)もない。

眼も耳も鼻も舌も身体も意(こころ)もなく、形(色)も声も香りも味も触れられるべきもの(触)も識別対象(法)もない。

眼の世界(眼界)もなく、意(こころ)の世界(意界)に至るまでなく、識別対象の世界(法界)までなく、意(こころ)による識別の世界(意識界)に至るまでない。

明知(明)もなく、明知のないこと(無明)もなく、(それらが)滅することもなく。老いること(老)も死ぬこと(死)もなく、老いること(老)や死ぬこと(死)が滅することもない、に至るまで(そうなのである)。

苦(苦諦)も集(集諦)も滅(滅諦)も道(道諦)もなく、覚智(智)もなく、得(諸法を結合させること)もなく、非得(諸法を結合させないこと)もない。

このように、シャーリプトラよ、得ること(得)もないことからして、諸菩薩の般若波羅蜜多に依って(心の覆いを)取り去り、心の覆いのないもの(無罣礙)となる。心の覆いがないこと(無罣礙)からして、恐怖のないものとなり、逆さまの考え(顛倒)を超越したものとなり、寂静の境地(涅槃)に導かれたものとなるのである。

三世におわすすべての仏は、般若波羅蜜多によって、無上の正等覚を現に覚ったものなのである。

この故に、般若波羅蜜多の大いなる真言、大いなる明知の真言、無上の真言、比べるもののない真言が、(各々)すべての苦を除く真言であると知られるべきである。真実は偽りがないことからして、般若波羅蜜多において真言が説かれた。
然れば、
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
(達することよ、達することよ、究極(サトリ)に達することよ、ともに目的(サトリ)に達することよ、サトリよ、幸いあれ。)

※「ガテー(gate)」を「gata」(語根「gam」の過去分詞・男性形・vocative、行ける者よ・行った者よ)だとする著名な研究者がいるが、文法上初歩的な誤り。陀羅尼・真言のコトバはみな女性形であり、そのコトバに「生み出す力」・「可能にする力」を見るからである。「ガテー」は「gati」(行くこと・到達すること・成功を意味する女性名詞のvocative)。
また、「パーラ」を「彼岸」ではなく「窮極」と訳す方がいいのではないか。「サトリ」は「窮極」の境地で、瞑想中「向う(の岸)」ではなく「上方」に観ずるものだからである。

(三)『観音経』

正式には『妙法蓮華経』観世音菩薩普門品(ふもんぼん)第二十五。
 大慈悲を仏徳とし、利他行を実践する大乗の菩薩の代表格である観世音菩薩が、三十三身に姿を変えてこの世に現れ、煩悩に染まり世間のさまざまな苦に苦しむ私たち衆生を救うことを説く。
 三十三身とは、
 ①仏身(=阿弥陀如来、観世音菩薩は阿弥陀如来に侍する菩薩の上首)
 ②辟支仏(びゃくしぶつ)身(=縁覚)
 ③声聞身
 ④梵王身(梵天)
 ⑤帝釈身(帝釈天)
 ⑥自在天身(他化自在天)
 ⑦大自在天身(大自在天)
 ⑧天大将軍身
 ⑨毘沙門身(毘沙門天)
 ⑩小王身(観音信者の王など)
 ⑪長者身(観音信者の資産家)
 ⑫居士身(仏教の在家信者)
 ⑬宰官身(官吏)
 ⑭婆羅門身(バラモン僧)
 ⑮比丘身(出家僧)
 ⑯比丘尼身(出家尼僧)
 ⑰優婆塞(うばそく)身(在家の修行者)
 ⑱優婆夷(うばい(身(在家の女性修行者)
 ⑲長者婦女身
 ⑳居士婦女身
 ㉑宰官婦女身
 ㉒婆羅門婦女身(バラモンの尼僧)
 ㉓童男身
 ㉔童女身
 ㉕天身(仏法を護る八部衆のうち、天衆の諸天)
 ㉖龍身(同じく龍衆の諸龍)
 ㉗夜叉身(同じく夜叉衆、もとはヒンドゥーの悪鬼神)
 ㉘乾闥婆(けんだつば)身(同じく乾闥婆衆の諸神、もとはヒンドゥーの音楽神ガンダルヴァ)
 ㉙阿修羅身(同じく阿修羅衆の諸神、もとはヒンドゥーの戦闘神アスラ)
 ㉚迦楼羅(かるら)身(同じく迦楼羅衆の諸神、もとはヒンドゥーの神鳥ガルダ)
 ㉛緊那羅(きんなら)身(同じく緊那羅衆の諸神、もとはヒンドゥーの音楽神)
 ㉜摩睺羅迦(まごらか)身(同じく摩睺羅迦衆の諸神、もとはヒンドゥーの音楽神)
 ㉝執金剛(しゅうこんごう)身(護法善神)。

観世音菩薩が三十三身になってこの世に現れること、すなわち仏身がさまざまな必要や要請に応じて姿を変える(化身・分身)考え方は、仏教の仏身観では「法身」・「報身」・「応身」に集約され、日本では神仏習合の「本地仏」・「垂迹神」(権現など)に展開した。
 インドでは、ヒンドゥーの主要神ヴィシュヌ神が十種あるいは二十五種に変身する。これをヴィシュヌの「アヴァターラ」(化身)と言い、今ネット上で使われている「アバター」(分身キャラクター)の発想源となった。

(四)「光明真言」

正式には、不空大潅頂(だいかんじょう)光真言。もともと潅頂に用いられたと言われる。この「光明真言」によって滅罪・除災・病気平癒・死者得脱などを祈る「光明真言法」がある。

オン アボキャベイロシャノーマカボダラマニハンドマ ジンバラ ハラハリタヤ ウン

従来、このサンスクリット原文を、
 オーン アモーガヴァイローチャナマハームドラ マニパドマ ジュヴァラ プラヴァルタヤ フーム とし、
 虚妄なき(智慧の)光明を遍く照らす大印もつ者(尊=大日如来)よ、宝珠と蓮華(もつ者(尊=宝珠蓮華尊))よ、光り輝きたまえ、(智慧の光明を私たちに)転じたまえ、フーム。
 あるいは、
 不空なる者(不空成就如来)よ、光明を遍く照らす者(大日如来)よ、大印をもつ者(阿閦如来)よ、宝珠をもつ者(宝生如来)よ、蓮華をもつ者(阿弥陀如来)よ、光り輝きたまえ、(智慧の光明を私たちに)転じたまえ、フーム。 などと和訳された。
 
 然るに、近年見出された原典による研究報告(「光明真言についてーその原典の立場からー」大正大学・高橋尚夫教授)では、 オーン アモーガヴァイローチャナマハームドラーマニパドメー ジュヴァラ プラヴァルタヤ フーム とあり、これを『不空羂索神変真言経』「潅頂真言成就品」第六十八を参考に訳せば、 オーン。虚妄なき(智慧の)光明で遍く照らす(大日如来の)大印(「五色光印」)(で摩頂潅頂された)宝珠と蓮華(をもつ者=清浄蓮華明王=不空羂索観音菩薩)よ、光り輝きたまえ、(智慧の光明を私たちに)転じたまえ、フーム。 といったことになろうか。

※「アボキャ」の原語「アモーガ」は「不空三蔵」や「不空成就」の「不空」と漢訳されることから「空しからざる」などと和訳されるが、いかがなものか。また「正覚者」とする訳があるが飛訳し過ぎで、原意をはずさず「虚妄なき」「真実の」くらいだろう。

「マカボダラ」の原語「マハー・ムドゥラー」はよく「大印」と訳されるがそれだけではわからない。ここは『不空羂索神変真言経』「潅頂真言成就品」の「十方一切の刹土、三世の一切の如来、毘盧遮那如来、一時に皆右の無畏手を伸べて(「五色光印」)清浄蓮華明王(不空羂索観音菩薩)の頂を摩し(「摩頂潅頂」)、同じく不空大潅頂光真言を説いて曰く」により「五色光印」と補った。
「五色光印」とは右手の五指を伸ばした印で、右手は仏の智慧、すなわち智水潅頂を、五指はその指先から(智慧の)光を放って「五道」を照らすから放光潅頂を、その右手で頭頂をなでこの真言を唱えるから摩頂潅頂を、それぞれ意味するが、不空大潅頂光真言という正式名の「大潅頂」とは、「五色光印」による三種の「印法潅頂」のことであろう。

「光明真言」と同類の真言に、チベット人たちがよく口にする「オン マニぺメ フム」(オーン マニパドメー フーム。オーン、宝珠と蓮華(もつ者=観世音菩薩)よ、フーム。観音六字真言・六字大明呪)があり、観音様の化身としてのダライ・ラマ法王に帰依する真言として信仰の手段にもなっている。

(五)「四智梵語」

真言宗の各種法要の際、必ずと言っていいくらい、冒頭で御本尊に百味(多種多彩な美味)・五菓(桃・栗・棗(なつめ)・杏(あんず)・李(すもも))を供える場面(「奠供(てんぐ)」)や、『理趣経』に先立って「前讃」としてなど、梵語の音読みで唱えられる陀羅尼。
 大日如来の「五智」の内の大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智の「四智」を讃える。『金剛頂経』では「金剛歌詠真言」・「金剛讃詠」の名で出てくる。

オン バザラサトバソウギャラカ
 バザラアラタンノウマドタラン
 バザラタラマキャヤタイ
 バザラキャラマキャロハンバ
 オーン。
 金剛薩埵(のような強固な菩提心)を(心中に)受けとめ持していることから、
 (あなたは)最上の、金剛のように強固な宝(諸法の平等性を知る慧財)である。 (だから、)金剛のように強固な真理(の教え)を歌うことによって、
 (あなたは)金剛のように意志強固な行い(利他・相互供養)を行う人であれ。

「(あなたは)」の「あなた」とは、真言宗の密儀である潅頂においては入壇する「受者」であり、あるいは広く真言行者であり、さらに言えば一切の衆生と言ってもいいだろう。

この「四智梵語」を和訳するには、サンスクリット原文を文法・音韻に従って日本語に変換するだけでなく、『金剛頂経』や金剛界曼荼羅や金剛界念誦法に説かれる「金剛部」・「宝部」・「法部」・「羯磨(かつま)部」や「四智」・「四仏」・「四菩薩」ほかの十六大菩薩・「四波羅蜜菩薩」・内外の「八供養菩薩」・「四摂(ししよう)菩薩」の対応関係や相互供養の関係に留意しなければならない。

※「バザラサトバ」の原語「ヴァジュラ・サットヴァ」は金剛薩埵。この菩薩名を「菩提心」と同義語にとるべきだろう。

「ソウギャラカ」は原語「サングラハ」のablativeで「サングラハードゥ」ととり、従来「摂受の故に」・「摂受するから」などと訳されたが、漢訳の安直なまる写しの上に意味がよくわからない。すなわち「ヴァジュラ・サットヴァ・サングラハードゥ」は「金剛薩埵摂受の故に」とか「金剛薩埵が摂受するから」では今一つで、ではどう訳すか、研究者の間でもさまざまな異見があり従来からの難問である。筆者もかねて難渋しつつ種々の私訳を試みたが、ここでは本文のように訳した。

「バザラアラタンノウマドタラン」だが原語は「ヴァジュラ・ラトナム アヌッタラム」。これも従来「金剛宝は最勝である」とか「この上ない金剛宝となる」とか「最上の金剛宝を得る」という訳があるが、これだけでは何のことかわからない。「金剛宝」の「宝」は単なる宝石やジュエリーではない。しばしば「仏智」(智慧の財)を意味することがある。

「バザラタラマキャヤタイ」は、原語が「ヴァジュラ・ダルマ・ガーヤナイル」。
「ヴァジュラ・ダルマ」を従来「金剛法」と訳したが、これもいわば漢訳のまる写しで、意味がよくわからないので「金剛のように強固な真理(の教え)」とした。「ガーヤナイル」は原語が「歌」とか「歌詠」を意味する名詞「ガーヤ」の複数形・instrumental。「歌うことによって」とした。

「バザラキャラマキャロハンバ」は、原語が「ヴァジュラ・カルマ・カロー バヴァ」。
「ヴァジュラ・カルマ」をよく「金剛業」とか「金剛堅固の事業」と訳されるが、これもよくわからない。この句は、菩薩の利他行や相互供養の実践のことに留意し「意志強固な行い(利他・相互供養)」とした。「カロー」は、原語「カラ」(「行う」・「為す」の形容詞が名詞化して「行う人」・「為す者」)の単数形のnominativeで、「ある」・「なる」という意味の原語「ブフー」の命令形「バヴァ(bhava)」とともに「行う人であれ」とした。

(六)「不動讃」

「不動讃」は真言宗の各種法要において『理趣経』のあとの「後讃」としてよく唱えられる。

ノウマク サラバボダボウジサトバナム サラバタラ ソウグソビダビジャラシ ベイ ノウボウ ソトテイ ソワカ
 すべての諸仏・諸菩薩に頂礼します。あらゆる場所で、花を開花させる神通を積んだ者よ、あなたに帰依あるべし。成就あれ。

(七)「仏讃」

「仏讃」も「後讃」としてよく唱えられる。

マカギャロンニケン ナタン シャシャタラン サラバベイナン
 ホンジョナチ クナタラン ハラダマミ タタギャタン
 大慈悲の聖者であり、すべてのことを知る尊師であり、福徳を施し、功徳を持する如来に、私は頂礼します。

(八)「阿弥陀如来根本陀羅尼」

「光明真言」とならんで葬儀・追善法要などでよく唱えられる代表的な陀羅尼である。別名「無量寿如来呪」・「無量寿如来大呪」。この陀羅尼を唱えると過去・現在の罪業が消滅し、無事来世を安楽に過すことができるという。

阿弥陀如来は別名、無量寿如来・無量光如来・甘露王如来。「無量の寿命」「永遠のいのち」「不死」という人間の永遠の願望に応え、この仏を念ずる衆生を救ってやまないことを本願とする如来である。陀羅尼のなかで何度も繰り返される「甘露」は、「不死」と原語を同じくする阿弥陀如来の特性である。
 阿弥陀如来は、浄土教の一尊仏として日本では極楽往生信仰のシンボルとして中世に武士・民衆の信仰を集めたが、密教では単独の尊格ではなく(金剛界)五仏(=五智如来)のなかの一尊(別称、観自在王如来)で、曼荼羅では中心の大日如来の西方に位置する。

ノウボウ アラタンノウトラヤーヤ ノウマク アリヤアミタバーヤタタギャタヤ
アラカテー サンミャクサンボダヤ タニャタ オン アミリテー アミリトードハンベー
アミリタサンバンベー アミリタギャラベー アミリタシッテー アミリタテイセー
アミリタビギランデー アミリタビギランダーギャミネー アミリタギャギャノーキチギャレー アミリタドンドビソワレー サラバアラタサダネー サラバギャラマギレー
シャキシャヨウギャレー ソワカ

三宝(仏・法・僧)に頂礼したてまつる。(また)聖なる無量の光もつ(無量光)如来、阿羅漢、正等覚者に、頂礼したてまつる。
然れば、オーン。不死なる者よ、不死より出生した者よ、不死よりともに出生した者よ、
不死を蔵する者よ、不死を成就した者よ、不死の輝きがある者よ、不死の勇猛をもつ者よ、
不死の勇猛をもって進む者よ、不死の、虚空のような、称賛をなす者よ、不死の、太鼓の音響のような、轟きをもつ者よ、すべての目的を達成させる者よ、すべての業と煩悩の滅除をなす者よ、成就あれ。

(九)『大般若経』

国家安穏・寺門繁栄・興隆仏法、また人々の除災招福を祈願する「大般若会(だいはんにゃえ)」で転読(経題と経文数行だけを読み上げ次々と経本を開いて閉じる作法)されるお経として知られる。正式には『大般若波羅蜜多経』(玄奘が集大成した総合的般若経、全十六部六百巻)。

その概要は、

○初 会:『十万頌(じゅうまんじゅ)般若経』(一~四〇〇巻)。
○第二会:『二万五千頌般若経』(四〇一~四七八巻)。
○第三会:『一万八千頌般若経』(四七九~五三七巻)。
○第四会:『八千頌般若経』(五三八~五五五巻、『小品(しょうぼん)般若経』)。
○第五会:『八千頌般若経』(五五六~五六五巻)。
○第六会:『勝天王(しょうてんのう)般若経』・『如来秘密経』(五六六~五七三巻)。
○第七会「曼殊室利(もんじゅしゅり)分」:『文殊般若経』(五七四~五七五巻)。
○第八会「那伽室利(なかしゅり)分」:『濡首(じゅしゅ)菩薩経』(五七六巻)。
○第九会「能断金剛分」:『金剛般若経』(五七七巻)。
○第十会「般若理趣分」:『理趣経』(五七八巻)。
○第十一会「布施波羅蜜多分」(五七九~五八三巻)。
○第十二会「持戒波羅蜜多分」(五八四~五八八巻)。
○第十三会「忍辱波羅蜜多分」(五八九巻)。
○第十四会「精進波羅蜜多分」(五九〇巻)。
○第十五会「静慮波羅蜜多分」(五九一~五九二巻)。
○第十六会「般若波羅蜜多分」:『善勇猛(ぜんゆうみょう)般若経』(五九三~六〇〇巻)。

(十)『略施餓鬼』

真言宗では、施餓鬼会法要の際『略施餓鬼要文』を読誦する。
 具には、

<帰敬文>まずはじめに、仏・法・僧の三宝と観世音菩薩に帰依する。
南無十方仏 南無十方法 南無十方僧 南無大悲観世音菩薩
<浄土加持八句偈>施餓鬼の趣旨を唱える。
神呪加持浄飲食 普施恒沙集鬼神 願皆飽満捨慳心 速脱幽冥生善道
帰依三宝発菩提 究竟得成無上覚 功徳無辺尽未来 一切衆生同飽食 神変の霊力ある陀羅尼で飲食を加持し、あまねく無数に集まった鬼神に施し、みな充分に腹を満たして物惜しみの心を捨てることを願い、速やかに迷いの冥界を脱して善道に生れ変り、三宝に帰依して菩提心を発し、その極みで無上のサトリを得る。その功徳は無辺にして未来際を尽くし、一切の衆生はみな同じく充分に食べることができる。
<加持飲食真言>餓鬼に施す飲食を加持する真言。
ノウマク サラバタタギャタバロキテー オン サンバラサンバラ ウン (世間の)一切を観察することが自在(観自在)な如来に頂礼します。オーン、(飲食を)集めたまえ、(あまねく)集めたまえ、フーム。
※「サラバタタギャタバロキテー」の原語「サルヴァ・タターガタ・アヴァローキテー」であるが、この複合語の語尾が形容詞「アヴァローキタ」(世間を観察することが自在な)の単数であることから、「サルヴァ・タターガタ」を「一切の如来たち」(複数形)ではなく「一切如来」(単数形)とする訳がある。しかし、『金剛頂経』と関係ある真言なら「一切如来」もあり得ようが、『金剛頂経』とは無関係の真言でどうして「一切如来」が出てくるのか不明である。そこでここは、「一切を観察することが自在な如来」(観自在如来、すなわち冒頭の「南無大悲観世音菩薩」と同義)とする方がいいと考えた。
<甘露王陀羅尼>甘露王の陀羅尼。
ノウマク ソロハヤタタギャタヤ タニャタ オン ソロ ソロ ハラソロ ハラソロ ソワカ 姿美しき如来(妙色身如来)に頂礼します。然らば、オーン、(甘露の水を)流れさせたまえ、流れさせたまえ、流れ出させたまえ、流れ出させたまえ、成就あれ。
※「ソロ ソロ」の原語は「スル スル」(suru suru)、「ハラソロ ハラソロ」の原語は「プラスル プラスル」(prasuru prasuru)。ともに語根が「流れ出る」という意味の動詞「スリ(s3)」の命令形。「クリ(k3)」の「kuru kuru」と同じ用例である。
「sru」の語根を動詞の「sru」とし、「スル スル」(suru suru)は「sru」の命令形だという研究書があるがいかがなものか。動詞の語根がそのまま命令形になるだろうか。
<遍照尊一字水輪真言>
ノウマク サマンダボダナム ヴァン
あまねく(「法界」に)おわします諸仏に頂礼します。ヴァン(大日如来よ)。
<発菩提心真言>
オン ボウヂシッタ ボダハダヤミ
オーン、私は菩提心を(自心に今)発起させます。
<三昧耶戒真言>
オン サンマヤサトヴァム
オーン、汝は(私=如来と)同等(平等)である。
<五如来名号>
南無(過去)宝勝如来 除慳貪業福智円満
南無妙色身如来 破醜陋形円満相好
南無甘露王如来 潅法身心令受快楽
南無広博身如来 咽喉広大飲食受用
南無離怖畏如来 恐怖悉除離餓鬼趣
宝勝如来(多宝如来)に帰依し、物惜しみや貪りの心を取り除き福智が円満する。
妙色身如来(阿閦如来)に帰依し、醜く卑しい姿を破り円満な顔立ちとなる。
甘露王如来(阿弥陀如来)に帰依し、(甘露を)法身の心に潅ぎ身心に安楽を受ける。
広博身如来(大日如来)に帰依し、咽喉を広大にして飲食を受容する。
離怖畏如来(釈迦如来)に帰依し、恐怖が悉く除かれ餓鬼道を離れる。
<光明真言>前述。
<宝号等>
<仏勅偈>
汝等鬼神衆 我今施汝供 此食遍十方 一切鬼神供 汝ら鬼神たちよ、私は今汝らに供養す。この食を十方に行きわたらせ、一切の鬼神たちを供養せん。
<回向>
願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道
願わくば此の功徳を以て、 あまねく一切に及ぼし、 我らと衆生と、みなともに仏道を成ぜんことを。

(十一)『舎利礼文』

『舎利礼文』は、火葬場での収骨の際とか、遺骨を祭壇などに供えて行う法要とか、お墓に納骨をする際に、日常よく唱えられる。

 一心頂礼 万徳円満 釈迦如来 真身舎利 本地法身 法界塔婆
我等礼敬 以我現身 入我我入 仏加持故 我証菩提 以仏神力
利益衆生 発菩提心 修菩薩行 同入円寂 平等大智 今将頂礼
万徳を円満している釈迦如来のまことの身体である仏舎利に一心に頂礼し、もともとは「法身」大日如来、すなわち「法界」塔婆(仏塔)を、我らは礼拝して敬う。
私がこの身を以て(「法身」と)互いに相入し合うと、「法身」が(我らと平等な「三密」で)相応じてくれるから、サトリを証すことができる。
この仏の不思議な(加持の)力によって、衆生を利益し、菩提心を発起させ、菩薩行を修めさせると、(衆生はみな)同様に涅槃に入るのである。この(自他)平等の大いなる智慧に今まさに頂礼する。

(十二)『遺教経』

『遺教経(ゆいきょうぎょう)』、すなわち『仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)』、正式には『仏垂般涅槃(ぶつしはつねはん)略説教誡(りゃくせつきょうかい)経』は、釈尊が死を前にして弟子たちに遺した最後の誡告。自分亡きあとは、教団の規則(「波羅提木叉」(はらだいもくしゃ))を守り、戒律を守り、瞑想の行に励んでサトリを得ることを説く。

冒頭に次のような説誡があり、詳しく具体的な誡めが続く。
汝等比丘。於我滅後當尊重珍敬波羅提木叉。如闇遇明貧人得寶。當知此則是汝大師。若我住世無異此也。持淨戒者不得販賣貿易。安置田宅。畜養人民奴婢畜生。一切種殖及諸財寶。皆當遠離如避火坑。不得斬伐草木墾土掘地。合和湯藥占相吉凶。仰觀星宿推歩盈虚暦數算計。皆所不應。節身時食清淨自活。不得參預世事通致使命。呪術仙藥。結好貴人親厚媟嫚。皆不應作。當自端心正念求度。不得苞藏瑕疵顯異惑衆。
汝ら比丘たちよ、私が滅したあとは、教団の規則(「波羅提木叉」)を尊重し敬意を払わなければいけない。暗闇の明りや貧しい人が宝を得るのと同じだからである。これ(「波羅提木叉」)は汝らの大師だと知るべきである。私がこの世に生きていたとしてもこれ(「波羅提木叉」)に異なることはない。
浄戒を受持する者は、商売や貿易をしたり、田畑や住宅を安置したり、使用人や奴婢や家畜を養ったり、あらゆる種類の資産や財宝を増やすことをしてはならない。みな火の穴を避けるように遠く離れるべきである。
また、草木を切り倒し、土を耕したり地面を掘ったり、湯薬を調合したり吉凶を占ったり、星宿の運行や月の満ち欠けを観察して自然の運気を計ってはいけない。みな出家にふさわしくないからである。
身を節度をもって保ち、午前のうちに食事をし、清浄な自活(托鉢など)を行うことである。世事にかかわり世俗のたのみごとに通じ、まじないや不老不死の薬に手を出し、好んで高貴な人と親交を結んで軽々しく馴れ合うのは、みな出家にふさわしくない。
かたよらない心で正しい教えを念じサトリを求めなさい。過失を隠し規律と異なることを顕にし修行仲間を惑わしてはいけない。

真言宗では涅槃会(常楽会)のお逮夜法要でこの『遺教経』を読誦し、釈尊の遺徳を偲ぶ。

十、「金剛薩埵」という人間の理想像

価値観が多様化し情報が飛び交う複雑系の時代、人は時折、仕事に疲れ、学業に悩み、家庭を乱し、人間関係に苦しみ、人生がわからなくなり、自分探しをはじめる。四国の遍路道でも毎日、自分探しの遍路が行き交っている。本当の自分、「真実の自己」を知りたいのである。
 人には、仕事や家庭や、知識や技術や、経験や地位や、友人や仲間や、貯蓄や資産があるのに、そうした外形的な条件だけでは満足せず何故本当の自分を探すのか。みな、人生に疲れると「真実の自己」にどうすればいいかを聞きたくなるのだろう。だから「真実の自己」に会いたくなる。外形的な環境を取り除いた赤裸々な「私」にである。
 しかし、「真実の自己」はなかなか日常生活の場に顔を出さない。人の心の奥に潜んでいて、すなわち秘密である。人は人生のほとんどを本能的生存欲に従って生き、「真実の自己」を知らないまま過ごす。人生に疲れた時、ふと「真実の自己」を探すのである。

時に、人には崇高なものを畏敬し、神仏の前で敬虔な気持ちになり、澄みきったこだわりのない心をもつ時がある。日常の自分が引っ込み、心の奥に潜んでいた「まともな私」すなわち「真実の自己」が何の妨げもなく顕になるのである。教会音楽やクラシックの名曲やお経や御詠歌を聞いていて心が洗われるのはそれと無関係ではない。日常を離れ四国遍路の非日常の修行旅で無垢で清浄な自分を取り戻すのも、そうである。日常とはちがう「ありのままの私」がそこにいる。
 然らば、人が「真実の自己」に出会いたい時、そうたびたび非日常の環境に身を置くことはできないが、私たちはいつでもどこでも呼びかければ応じてくれる如来という「真実の仏」を心に呼び出すことができる。必要な時に、合掌し、その姿を思い浮かべ、名を呼べばいい。

如来は人の心の奥に来って日常生活の場に顔を出さないが、常に人のために説法している。しかし、日常生活の喧騒のなかではその声が聞こえない。如来の声を聞くのは心の奥の「真実の自己」の耳である。如来は大悲をもって人とともに在り、その本誓によって人の真実を受けとめる。その如来を身近に感じ信じることで、人は心の奥の「真実の自己」に出会うことができる。

 空海はこれを、
 夫れ、仏法は遥かなるに非ず、心中にして則ち近し
真如は外にあるに非ず、身を棄てていずこにか求めん。(『般若心経秘鍵』)
仏の教えは遥か遠いところにあるのではなく、私たちの心のなか、すなわち身近なところにあるもの。
(同じように)真理の世界も自分の外にあるのではなく、この身のほかにいったいどこに求めるというのか。
と言った。仏法=真如=如来である。

『大日経』が言う「如実知自心」や、空海が言う「如実知自心源底」とはそのことで、「自心」あるいは「自心源底」とは私たちの心の奥にある「真実の自己」であり、「実の如く知る」とは、芭蕉が言ったように、「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」の「習う」であり「成りきる」こと。頭でわかるのではなく「真実の自己」に「成りきる」ことである。
 『大日経』はまた、「秘密主よ、菩提心を因となし、大悲を根本となし、方便を究竟となす」(「三句の法門」)と言い、私たちの心の奥に本来具わっている「菩提心」をモチベーションとし、その心の奥から発露してやまない慈悲の心に基づいて、日常の自分を「真実の自己」に重ね合わせて生きること(「方便究竟」)を如来のサトリの智慧(「一切智智」)だと言う。

密教は、この「三句の法門」の具現者として「金剛薩埵」を用意した。金剛石(ダイヤ)のように堅固な「菩提心」を意味する菩薩であり、大日如来の説法を聞く菩薩衆のトップであるとともに、大日如来の代弁者でもある。すなわち、説法を聞く側と説法をする側の両方の役割をもつ菩薩で、つまり日常の自分が「真実に自己」に「成りきる」菩薩でもある。言い換えれば、人(=薩埵)であって如来であり、如来であって人である。すなわち「真実の自己」に目覚め、日常を「真実の自己」のまま生きている人、「実の如く自心を知る」人である。密教が生み出した理想的人間像と言っていい。

考えてみれば、この本でふれた鎌倉仏教の祖師たちも、西田幾多郎も鈴木大拙も、宮沢賢治も、オウムの麻原も信者たちも、みな自分探しだった。功罪いろいろだが、みな「真実の自己」を探したのである。

空海もまた自分探しからはじまった。若き日、奈良の大学寮を出奔したのはまさに自分探しのためである。幸い空海は、才能に恵まれ、人に恵まれ、運に恵まれ、密教によって「真実の自己」を覚り、如来と一体になる術を極めた。

もし人生に疲れ、自分の心に仏を呼べない人がいたら、今すぐに高野山に行くことを勧める。そして、奥の院の大師御廟に詣で「今もおわしますなる」大師、すなわち空海に、生きる意味やどう生きればいいかを問いかけてはどうか。御廟の奥から低く太い声で答えが返ってくるだろう。それは、その人の心の奥に入った空海の声である。

 迷と悟は我れに在り。則ち発心すれば、即ち到る。(『般若心経秘鍵』)

また、もしその声が聞こえなかったら、四国八十八ヵ所霊場を歩き遍路することを勧める。一周一四〇〇km、難所もたびたびあるが善根宿(ぜんごんやど)や接待所もある。ゆっくりと時間が流れる道中、四国の人々の親切にも出会うだろう。時に大師が現れることもあるだろう。それが「真実の自己」を呼び覚ましてくれるはずである。

 明と暗は他に非ず。則ち信修すれば、忽ちに証す。(『般若心経秘鍵』)

十一、空海の「秘密」

空海は、「即身成仏」を説き、発心すれば、この身(「凡夫」のままの身)で、しかも速疾に、成仏できることを明かし、それまでの仏教では成仏までに長い時間がかかることを超えた。

空海は、「法身説法」を説き、真理の仏である「法身」如来が人格性をもち、声・字によって自らサトリ(「自内証」・「果分」)の境地を説くこと(「果分可説」)を明かし、それまでの仏教が「法身」は説法せず、サトリの境地はコトバでは言い表せない(「果分不可説」)としてきたことを超えた。

空海は、「声字実相」を説き、(「世間」・「世俗」の)コトバや音や文字も「法身」如来の説法であり「実相」(真理の表れ)であることを明かし、それまでの仏教がコトバや文字は「虚妄」(真理を表していない)としてきたことを超えた。

空海は、「三密平等」を説き、「法身」如来の「三密」(身・口・意)と「凡夫」の「三密」が同調することを明かし、それまでの仏教が人間のあらゆる行いを身・口・意の「三業」に分けたに過ぎないのを超え、「法身」にも身・口・意の活動を認めた。

このように空海は、それまでの仏教が定理としてきたことをさまざまな経論の教説を根拠にして乗り越えた。空海が独自に編集したその世界は、それまでの仏教の論師や祖師たちが気がつかなかった奥秘の次元で、その故に「秘密」、すなわち「密教」なのである。
 「密教」とは空海独自の言い方で、空海が創案した仏教にしてはじめて「密教」なのである。空海が恵果和尚から受法した「真言法」を当時「密教」とは言わなかった。最澄が紹興近くの峰山道場で順暁から授かったのも、円仁が青龍寺で受法したのも当時は大乗であった。

また、
 空海は「十住心」を説いて、「異生羝羊」の如き「凡夫」も「秘密荘厳心」(密教)の世界に摂受されることを明かした。

空海は「両界曼荼羅」で、「凡夫」が「法身」如来のサトリの境地に至るプロセスを図示した。

空海は天皇や朝廷貴族など世俗の人々と交わり、世俗の法(王法)に密法を導入し、国家の中枢で万民豊楽・五穀豊穣・風雨順時を祈った。

空海は満濃池(まんのういけ)や大和益田池や大輪田泊(おおわだのとまり、現在の神戸港の一部)を修築し、灌漑用水や港湾利便に恵みをもたらした。

空海は日本初の庶民の子弟のための学校「綜芸種智院」を設立し、仏教と諸芸による教育を行った。

空海はなぜ、それまでの仏教の常識を破り定理を超えたのか。その必要性は何だったのか。もちろん、自分の創案した「密教」がそれまでの仏教に対して優位に立つことを意識していなかったと言えばウソになろう。では、それだけか。空海はそれまでの仏教に対して優位に立てばそれで満足するような心の狭い人ではなかった。

然らば、空海はなぜ、成仏の速さ(「速疾成仏」)にこだわったのか。
 「善財童子」のように永遠に近い長い時間をかけた修行の果てのサトリでは「衆生」済度が現実にならないのである。

空海はなぜ、「法身」に人格性を与え説法させたのか。
 真理を身体とし真理そのものとして実在するだけの毘盧舎那では「衆生」済度が現実にならないのである。

空海はなぜ、仏教思想史の常識を破り「果分可説」や「声字実相」に踏み込んだのか。
 サトリ(「果分」)の内容が「言亡慮絶」でコトバにできないのであれば「衆生」済度が現実にならないのである。

空海はなぜ、「曼荼羅」を活用したのか。
 コトバや文字で難しい教理が理解できない「衆生」には絵図や立体曼荼羅で視覚化しなければ「衆生」済度が現実にならないのである。

空海はなぜ、「三密平等」を言ったのか。
 「法身」如来と「凡夫」とが、身と口と意の「三密」で同調(入我我入)しなければ「衆生」済度が現実にならないのである。

空海はなぜ、「十住心」を説いて「凡夫」を「密教」の世界に摂受したのか。
 「凡夫」に本有「菩提心」(「仏性」)を見て「密教」に受容しなければ「衆生」済度が現実にならないのである。

空海はなぜ、天皇や朝廷貴族と交わったのか。
 現実的に民衆(「凡夫」)の苦楽は「王法」次第であり、「仏法」にかなう「王法」でなければ「衆生」済度が現実にならないのである。

空海はなぜ灌漑土木や学校教育の社会事業を行ったのか。
 民衆の世俗の苦難を「仏法」にかなった「世法」(世俗の術)で救わなければ「衆生」済度が現実にならないのである。

こうしてみると、空海がそれまでの仏教の常識を破り定理を超えたわけは、単にそれまでの仏教に対して優位に立つだけではなく、その本意は畢竟「衆生」済度にあったと言っても過言ではない。空海の密教は究極「生仏一如」・「凡聖不二」であり、「凡夫」・「衆生」と「法身」とが同調して一体化することにある。それが成仏であり「衆生」済度である。その代表的事例を「金剛薩埵」が担った。空海の心中にはいつも「三句の法門」(『大日経』)による「衆生」済度(「究竟方便」)が秘せられていて、それが空海がそれまでの仏教を超えたわけ(=「秘密」)ではなかったか。

さらに、
 空海は「速疾成仏」によって成仏に「高速性」を担保した。
 空海は「曼荼羅」によって仏尊の数量の「大容量」と「多様性」を示した。
 空海は「三密瑜伽」(「入我我入」)によって「双方向」を可能にした。
 空海は「重々帝網」によって「ウェブ」・「インターネット」を先取りしていた。
 空海は「即身成仏」によって「クリック」(瞬時の場面転換)を先取りしていた。
 空海は「印」や「象徴物」(三昧耶)や「梵字」によって「アイコン」を先取りしていた。
 空海は「曼荼羅」によって仏の世界に入る「インターフェース」を示した。
 空海は「四種曼荼羅」によって仏尊の「多重性」と「互換性」を示した。
 空海は「真言」・「陀羅尼」によって「コンピュータ言語」(象徴化された記号言語)を先取りしていた。
 空海は大日如来という「マザーコンピュータ」と「凡夫」・「衆生」という「端末」を「高速通信」でつないだ。
 空海は大日如来という「OS」(オペレーティングシステム)により如来・菩薩・明王・諸天善神という智慧と「衆生」済度の「アプリケーションソフト」を可動させた。

こうしてみると、空海は今のデジタルな情報処理や高速通信を先取りしていた。これこそ、空海がそれまでの仏教を超えた「秘中の秘」の「秘密」だったと言えないだろうか。

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