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「辺路」から「遍路」へ

 昨年世界遺産となった「熊野古道」とは、昔、上皇や皇族をはじめ貴族や大名が参拝し、その後一〇〇〇年以上も一般庶民もそして社会から隔離されていたハンセン病の患者もお参りをしてきた、紀伊半島南部の熊野三山(本宮大社・速玉大社・那智大社)への参詣道である。
 この「熊野古道」が通じる地域は、深山幽谷、自然破壊とは無縁の大自然が多くのこる一帯で、古代より神奈備た霊域と考えられていた。この地では、神も仏も融合し、修験や密教が今も息づいている。さらに、他の地域ではしばしば女人結界が行われたが、熊野では老若男女の区別なく受け入れられてきた。
「熊野古道」は、京都を出発点に大阪府を抜け和歌山県の田辺市近くまで南下する「紀伊路」、そこから海岸線を通り那智を経て本宮へ出る「大辺路」、田辺市から山路を経て本宮へ至る「中辺路」、高野山から本宮へ直行する「小辺路」、さらに、伊勢方面から新宮・速玉大社を経て本宮へと入る「伊勢路」があり、このたびはそれに吉野山から急峻な修験の道を踏破する「大峯奥駆道」と、高野山の壇上伽藍から麓の慈尊院へ、また壇上伽藍から奥の院の大師御廟へ至る高野山「町石道」が世界遺産に加えられた。

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 昔、弘法大師空海の若い日の頃、この熊野にも四国にも、いや島国日本の海岸線の多くに、「海上他界」「補陀楽渡海」や「龍神信仰」「龍宮伝説」といった言葉で語られる「海洋信仰」があった。
 熊野にも四国の足摺にも、海のかなたの「他界(神や先祖の霊がいる)」や「観音浄土」に向けて、一隻の手漕ぎ舟に十日間程度の食料を積んで海上に出て行った人たちの話がたくさん残っている。
 この「海上他界」信仰をはじめたのは、死者を水葬で見送った海の民であり、水葬などの死者儀礼を行う時や海の民が「龍神」に海上安全や大漁を祈願する際の指南役である行者たちであろう。

 行者は、恐らく海辺の洞窟や「龍神」などを祀る粗末な社に寝起きし、漁民から施食してもらったり乞食して飢えをしのぎ、海に突き出た突端の岩や、海べりの断崖の頂きや、海水が削った洞窟や、波静かな小さな入江の霊域や、神が宿る滝や巨岩巨木や清水や、奇瑞のある自然現象の行場を巡り歩き、読経を行い、御幣を献じ、水中に入って水垢離を行う自然崇拝の職業的行者にちがいない。彼らが、夜、行場で焚く火は、赤々と漆黒の夜空に舞い上がり、夜の漁の舟に「龍神」の加護利益を約束する火であった。
 彼らには、師もなく弟子もなく、行法らしき軌則もなく、戒律もなく、神奈備でも雑密でもなく、ただその村落の人々の幸福安寧や自然の恵みの順調なることのために、大自然のなかに身を投じて霊的な能力をみがくことが修行であった。

 その彼らが、自ら拓き、日々修行の道として往来した「海べりの行者路」を「辺路(へじ)」といい、彼ら行者のことを「辺路(へんろ)」といった。「辺路(へじ)」は行者しか知らない秘密の路で、女人の通行は禁じたにちがいない。「辺路(へじ)」とは、「辺地(へち)」であり、陸路の「縁(ふち)」すなわち海岸線を意味する。
 後世、彼らのなかから、山岳修験に入り、熊野三山を中心に修行を重ね、さまざまな行法を身につけ、峰から峰へ、峰から里へ、里から里へ、里から海辺へと「辺路」を拓き、時とともに「辺路」は単なる行者路から位の高いやんごとなき人たちが熊野に詣でる「参詣道」となっていく。上皇や皇族の「熊野詣」の際道中のさまざまな決まりごとや王子社などでの修法の指南をしたのは彼らであり、こうして、海べりの行者は単なる「辺路(へんろ)」ではなくなり、行者しか知らない海べりのローカルロードに過ぎなかった「辺路(へじ)」は、都から高貴な人々が往来する往還の「参道」に変身する。
 「辺路(へじ)」が、海べりの行者が行場へおもむき、行場に篭り、大自然の霊性と交感して、また帰る、往復の路、「往還」の路であったように、「参詣道」となった「辺路(へじ)」も、都から来て熊野に何日かお篭りし、同じ道をまた帰る「往還」の道である。

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 四国にも「海上他界」「補陀楽渡海」や「龍神信仰」「龍宮伝説」といった「海洋信仰」が古くからあったことは先ほどもふれた。四国八十八ヶ所霊場のお寺に伝わるさまざまな伝説や霊験話を聞くと、いかに「海洋信仰」が四国の人々の生活や信仰に深くかかわってきたかがわかる。
 四国遍路は、最初「辺路(へんろ)」といい、霊場を順拝することを「辺地(へち)修行」といった。熊野と同じく、海べりの行者が海べりの行場を順拝することを指している。
 『梁塵秘抄』には、

―われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしほ(潮)たれ(垂)て、四国の辺地(へち)をぞ常に踏む・・・―
とある。
順拝しながら海のかなたの「他界」や「浄土」を想い、この「死国」で最期を迎えることをあるいは覚悟して歩く「辺路(へんろ)」も多かった。ご存知のように、遍路姿は死装束である。

 十一世紀になると「大師信仰」が盛んになり、「辺路(へんろ)」は海べりを順拝する「辺地(へち)修行」から、弘法大師の徳を慕い、その大師に結縁し、わが身の現世利益や行く末の加護を祈る「遍路」に変化した。
 「遍路」は目的地に行って帰る往復ではなく、一番に始まり四国を一周して八十八番で結願する「循環」である。世界の巡礼道でこの「循環」型はめずらしい。「熊野古道」の「往還」と対照的である。
 その後は、修験の山伏の修行が目立つ時期もあったり、さまざまな曲折を経て、昨今では、観光・健康・信仰三拍子そろった団体旅行にもなった。そして、今、何回目かの遍路ブームである。「歩き遍路」が増えているという。それはけっこうなことだ。しかし、この頃よく耳にする「癒しの旅」というコピーにはあきれる。何でも「癒し系」にすれば「いま風」のグッドコピーだと勘違いをしている新聞社や旅行社の「和魂」のなさが情けない。四国遍路と温泉慰安のちがいによくよく気をつけてもらいたい。

 昭和四十年代まで、四国霊場のそこここでいわゆる「へんど」を見た。今のホームレスではないが、家族を捨て、仕事を捨て、世を捨てて、四国「遍路」の途中で行き倒れになり、死体となって発見される孤独な「遍路」が後を絶たなかった。つい先日まで、「遍路」には人間や社会の暗部がつきまとっていた。大師は、そういう「闇」の部分をも引き受けてくれるのである。
 この稿で申し上げたかったことは、「大師信仰」の「遍路」も、もともとは「熊野信仰」の「辺路(へんろ・へじ)」に源流をたどるものであることと、この両地に足を踏み入れる時には、「一度死んで、再び蘇える」<再生装置>の霊域だということぐらいは心得ていて欲しいということである。

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