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空海の夢   空海のアルスマグナ

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 1200年前の平安時代に、この国で、空海はいったい何を考え何を意図し何を構想していたのか、中国から帰ってからの空海は独自の密教の創出にかけてい ました。空海がその目で見た密教その耳で学んだ密教その手でつかんだ密教とは、空海が想像力を駆使して構想するに足る国家プロジェクトとしてのオペレー ションシステムだったのでしょう。 

 現代日本の「知」を代表する編集工学の松岡正剛氏は、その著書『空海の夢』のなかで「空海のアルスマグナ」として空海の密教の構想を 再構成しています。ここにご本人と出版社のご理解を得て、そのガイドラインを紹介したいと思います。詳しくは『空海の夢』P.145〜152をお読みくだ さい。 


I 絶対の神秘−神仏の共鳴から

 1.絶対者の設定
  a.大日如来に始まる
  b.法身による説法
  c.即身成仏の可能性

 2.諸神諸仏の統合
  a.よみがえるヒンドゥ神
  b.如来と菩薩の蝟集
  c.神仏習合の妙

 3.意識の神秘主義
  a.意識は進化する
  b.顕教から密教におよぶ
  c.三密加持のバランス

 4.流伝と付法
  a.ヨーガ・ルネッサンス
  b.タントリズムの系譜
  c.真言八祖となる


II 象徴の提示−イメージのコミュニケーション

 1.声字と言語
  a.真言(マントラ)における霊性
  b.呼吸宇宙観と声の現象学
  c.阿字と吽字にきわまる

 2.象徴的伝達
  a.大日経と金剛頂経の典拠力
  b.果分可説の自信
  c.経典に博物学を見る

 3.マンダラ・シンボリズム
  a.金胎両部の海会
  b.極大と極小の対同性
  a.図像と場面による凱歌

 4.メタファーの自由
  a.魅力的引用の駆使
  b.偈と頌の創造性
  c.連想と同定の冒険


III 儀礼の充実−華麗なるパフォーマンス

 1.修行と戒律
  a.山林密教の記憶
  b.入山と結界の場所論
  c.浄化のための階梯

 2.事相と教相
  a.伝授と講法の様式
  b.得度と加行の絶対化
  c.三昧耶戒から潅頂への順序

 3.宇宙大の空海へ
  a.密教的荘厳と声明の活用
  b.十八道次第による道場の宇宙化
  c.法会における真言神秘性の確保

 4.生きている密呪
  a.身体重視の瞑想観
  b.神変加持祈祷の体系化
  c.連続する印契


IV 総合と包摂−普遍世界を求めて

 1.対の思想
  a.三教指帰の出発点
  b.陰陽二元性を応用する
  c.ホロニック・システム

 2.華厳から密教へ
  a.流砂の華厳と南海の密教
  b.ビルシャナの変更
  c.重重帝網のネットワーク

 3.十住心論の構想
  a.法蔵と澄観に学ぶ
  b.全仏教史の包摂を成就する
  c.九顕十密と九顕一密

 4.観念技術と方法論
  a.鄭玄の方法論的活用
  b.梵語・漢語・和語の相似律
  c.コトとモノの共振へ


V 活動の飛躍−アクティビィティの深化

 1.生命の海
  a.生死の哲学を越える
  b.「即身」の拡大
  c.全生命史の上に立つ

 2.仏法と王法の橋梁
  a.不空と恵果に学ぶ
  b.真言院の設定
  c.密教ナショナリズムの超克

 3.社会観と教育観の統合
  a.社会事業への投企
  b.宗教的教育機関の設立
  c.遊行の可能性へ

 4.文化の形成
  a.芸術の肯定
  b.宗教言語の一般普及
  c.全対応主義の展開


 このように空海が構想した密教の特色を配当しておちつかせてみると、あらためて密教がほかの宗教にくらべてどのような相違点を もつかということもはっきりしてこよう。部分的には華厳や禅にひじょうに近い性格を共有しているし、ブッダに開闢する仏教であるかぎりは、そのほかのどの 仏教宗派の特色にも通ずる立場がふくまれている。けれども「絶対の神秘」を探査する密教が、一方では「総合と包摂」というはなはだ大胆な構想をもっている というようなことは、ほかにはほとんどみられない。芸術宗教であることも珍しい。すくなくとも空海の時代にはそんな破天荒な計画が実現できようとは誰も考 えられなかった。一見すると、あまりに矛盾に勝ちすぎているようにみえるからである。 

 空海の密教思想が矛盾をもっているということは、同時代の徳一や円珍も批判的に感じていたことだし、その後も今日にいたるまで指摘さ れつづけている。いったい空海を思想的宗教者として評価する動きすら、近代にいたってなおほとんどなかったほどである。内藤湖南や幸田露伴が空海に着目し たのは例外中の例外であり、つねに大日を念じていた南方熊楠などは、密教の興隆にこそ日本の宗教の未来を確信していながらも、あまりに周囲にその気運がな いため半ばあきらめていたものだった。しかし、「宗教に矛盾がない」とはまたどういうことなのであろう。どの宗教に矛盾がないと言えるだろうか。宗教はも ともと矛盾をエネルギー源として出発しているはずである。すでにのべたごとく、わが直立二足歩行の開始にすら矛盾はあった。 

 おそらく空海の構想には遠慮がなさすぎたのだとおもう。日本人はたとえそれが真実であれ、あまりにあけすけに「構想の全体」が提示さ れることを容認したがらない。すでにギリシャやローマに、アリストテレスやプリニウスのプログラム体系をもったヨーロッパとはそこがちがっている。まして 時代は御簾几帳の陰影にうつろう美を尊んだ平安王朝の只中である。空海だけがとびぬけていた。そして、あまりにとびぬけているその構想は、平安王朝のみな らず、ごく最近にいたるまでそれが日本思想に根をおろすものであるとはおもわれなかった。しかし、「とびぬけているとは深く根ざしていることである」(ル ネ・デュボス)という『内なる神』の著者の言葉はいまこそ確実によみがえっていると言うべきである。

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